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(18)“瀬戸内の漁場争いを裁いた大岡越前守らの名判決”

 讃岐地方には、“はちはん(八判)”とい方言があります。“公に認められた”という意味ですが、この言葉は瀬戸内の漁場争いを裁いた大岡越前守(えちぜんのかみ)らの名判決と関わりがあります。 現在は坂出の番の州工業地帯として陸続きになっている瀬居島(せいじま)の沖に、かって“かなて(金手)の阻(そあい)”という、岩礁地帯ですが鯛(たい)・鰆(さわら)などの格好の釣り場がありました。

 天文3年(1738年)、この“かなて”で釣りをしようとした高松藩の漁民が塩飽人名の漁民によって追い払われるという事件が起きました。翌年、高松藩の高松魚屋町・東浜・北浜・西浜・三木郡原浦・大内郡引田浦の漁民は幕府評定所に訴えを起こしました。両者の主張はまったく対立しており、高松藩は親藩、塩飽人名は幕府直轄地の天領でもあり、第三者の調停なしには解決できない大きな問題になっていました。

 幕府評定所は双方の関係者を江戸へ呼び出し、証拠書類も調べ、提訴から2年後の寛(かん)保(ぽう)元年、裁定を下します。この時の裁許状(判決書)は、結論については「かなでは全く高松の猟場と相見え候(そうろう)」としていますが、続けて具体的な線引きについては「瀬居島・小瀬居島・室木島の東の端を見通し、それより西側は塩飽漁場、東側は高松漁場とする」としており、裏面には絵図で境界の線引きをハッキリと示しています。その絵図を見ると、裁許状の結論の言葉とは違って、“かなて”の全てが高松藩領になったのではなく、11あった釣り場のうち5が塩飽、6が高松藩のものとなっただけでした。

 この裁許状は一見高松藩側の前面勝訴のようにみえますが、線引きにより塩飽の側の漁場もしっかりと確保された名判決とされています。しかし、“かなて”の東に広がる瀬居島漁場のほとんど全てが高松藩領になった意味は大きく、時の高松藩主松平頼恭(よりたか)の喜びは格別で、功労のあった馬廻番頭(うままわりばんかしら)間宮武右衛門らに褒美を与えています。

 裁許状裏面絵図に描かれた境界線上には、幕府評定所の奉行8人の印判が押されており、この8人の中には大岡越前守忠相(ただすけ)も含まれています。この8人の印から“はちはん”という方言が生まれたと伝えられています。この裁許状は本島塩飽勤番所に保存されています。

○訪れてみたいところ
本島塩飽勤番所
五色台からみた瀬戸内海景観
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