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(119)“讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語”

 「風林火山」の旗印で知られる武田氏は、甲斐源氏の一族であり、その祖は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光といわれています。義光は、平安時代後期に奥州(東北地方)で起きた後三年の役(永保3年(1083年)~寛治元年(1087年))で、兄義家を援けるために奥羽に下向し、常陸国に進出して、その子の義清を那珂郡武田郷に配します。それが武田氏の発祥で、その後、義清とその息子の清光は甲斐国に配流され、そこで土着したと伝えられています。
 武田氏は、戦国時代の晴信(信玄)の代になって、近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして、上野・飛騨そして、今川義元戦死後の駿河・遠江へとその勢力を広げていきます。この間、多くの戦をしていますが、なかでも、越後の上杉謙信との川中島の戦いはよく知られています。
 元亀3年(1572)10月、信玄は天下に号令するため京都を目指し、大軍を率いて甲府を後にします。そして、浜松城から出陣してきた徳川家康の軍を、遠江の三方ヶ原の戦いで撃破します。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードはよく知られているところです。しかし、その進撃の途中の翌年4月初旬、信玄は持病が悪化したため、遂に上洛を断念し、帰国の途上、信濃国駒場で病死しました。
 信玄の跡を継いで家督を相続したのが四男の勝頼です。その母は信玄によって討たれた諏訪頼重の娘・由布姫です。諏訪氏は、信濃国上原城城主であるとともに諏訪大社大祝(おおほうり)務めてきた一族で、武士と神官双方の性格を合わせ持っていました。勝頼も諏訪家の名跡を継ぎ、武田家の通字である「信」でなく諏訪氏の当主が襲名してきた「頼」の通字を命名され、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
 信玄が亡くなってから約2年後の天正3年(1575)5月、勝頼の率いる騎馬軍団は、大量の鉄砲と馬防柵(ばぼうさく)を用いた織田信長の画期的な戦法に敗れます。これが長篠の戦いです。
 この戦いの後、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていき、約7年後の天正10年(1582)3月11日、勝頼とその嗣子信勝は、天目山の戦いで、織田信長配下の信忠、家康、氏政連合軍に敗れて親子ともども自害し、ここに武田氏は滅亡しました。

 讃岐には、長篠の戦いや天目山の戦いで破れた武田の一族が逃れてきたという伝承が残っています。
 一つは、高松市東山崎町にある諏訪神社の由緒として残る話です。
天目山の戦いに敗れた後、武田信勝の弟である桃千代丸は、家臣18人、女中7人に伴われ、讃岐の屋島の地に逃れてきて、山田郡元山村領主の大隈備前守方に暫く留まり、再起をはかろうとその地に諏訪明神を勧請したというものです。
 この後、桃千代丸らは、香東郡坂田の室山城主で細川家々臣の坂田権守を頼りそこへ移り住んでいましたが、天正13年、豊臣秀吉の四国征伐により室山城が落城したため、そこを逃れ、再び元山村の地に戻り、掃部屋敷というところに住み、祠職をしていました。ところが、江戸時代の延宝(えんぽう)年間(1673年~1681年)に発覚され、その職を逐放されたといわれています。なお、延宝年間における高松松平藩は、二代目の頼常(よりつね)の時代です。

 もう一つは、高松市御厩(みまや)町の小比賀家に伝わる話です。
小比賀家は、甲斐源氏・武田氏の末裔で、天目山の戦に敗れて秩父山中に逃れ、のち伊予の河野氏を頼って四国に渡り、さらに、讃岐の坂田郷に移り住んで宝山城の城主を務め、戦国時代末期を過ごしたといわれています。
 その後、小比賀姓を称えるようになり、江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に今の御厩に居を構え、江戸時代を通じて、この地の大庄屋などを代々務めてきたとされています。

 さらにもう一つは、「全讃史」という江戸時代の中山城山という学者の書いた本に載っている話です。
 武田軍が長篠の戦いで敗れたとき、朝比奈五郎という武田家の家臣が、次男の伊豆八郎信能を伴って讃岐に逃れてきました。そして、内場城主の藤澤新大夫重弘に保護され、安原の奥に住み着きました。さらに、重弘は信能に自分の娘を信能に嫁がせ、所領を与えて厚遇しました。信能はその所領に城を築き、父祖の墓を祀りました。そこで世人はその土地を甲斐股(かいまた)と呼んだということです。現在、高松市塩江町には、「貝股」という地名があります。
 のち、重弘の息子の次郎吉が幼少で藤澤家の家督を継いだので、信能はその補佐をするため内場城に移り、藤澤家の家事を執りました。このため、信能は藤澤八郎と称されました。次郎吉が長じると、信能は藤澤家の家事から退き、別子山に移ります。しかし、このとき、豊臣秀吉の四国征伐があり、屋島に上陸した征討軍が南征し、讃岐の諸子は皆その領地を失い、信能は別子八郎と称して、田猟をもって業としたということです。
 これは「全讃史」に記されていますが、同書は武田勝頼が長篠合戦で討死したと記しており、信憑性には疑問が残るとされています。

 このように、讃岐には甲斐武田氏にまつわる物語が残されていますが、これらの物語がどこまで信憑性を有しているのかについてはまだよく分かっていません。しかし、これらの物語がすべて事実とはいえないまでも、讃岐と甲斐武田氏の間に何らかの関係があったことから、このような物語が残っているのではないでしょうか。
 戦に敗れ逃れる者が頼る先といえば、一般的に考えれば、親類など血の結びつきのある一族でしょう。では、讃岐に甲斐武田氏と血の結びつきのある一族がいたのでしょうか。
 一つ考えられるのは、戦国時代後期、現在の高松市南部を中心に讃岐で勢力を張った十河氏の存在です。
 十河氏は、もともと、景行天皇の皇子・神櫛王を祖とし、讃岐の山田郡の十河城を根拠とする生え抜きの武士です。室町時代の始めに細川氏が讃岐に入国してきたのに伴いその家臣となりますが、応仁の乱後の細川政元暗殺による細川京兆家の没落に伴い次第に自立していきます。一方、阿波では三好氏が主家の阿波細川家を凌駕し、さらに讃岐にも勢力を伸ばし始めてきます。
 三好氏は、阿波からさらに畿内に勢力を及ぼし、三好長慶(大永2年(1522年)~永禄7年(1564年))の時代に絶頂期を迎えます。長慶は天文18年(1549年)から約15年間にわたって室町幕府の実権を握り、その勢力は、山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9カ国に及びました。
 讃岐の十河氏も三好氏の勢力化に属するようになり、三好長慶の弟が養子に迎えられて十河氏を継ぎ、一存(かずまさ、天文元年(1532年)~永禄4年(1561年))と名乗ります。これにより十河氏は三好氏と血のつながった関係になります。一存は兄長慶を助けて畿内で奮戦し、その勇猛な戦いぶりから「鬼十河」の異名をとり、また「十河額」と呼ばれる独特の髪型で知られた武将です。
 ところで、阿波の三好氏のルーツは、鎌倉時代の承久の乱のとき幕府方で活躍した信濃の小笠原氏が、阿波守護職に補任されて阿波に入部したことよるといわれています。小笠原氏はその後、阿波三好郡を領地としていたことから三好姓を名乗るようになったものです。
 この小笠原氏は、源頼朝の推挙で信濃守に補任されたことにより信濃で勢力を張りましたが、その発祥は、平安時代、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り小笠原を称したことによるといわれています。したがって、阿波の三好氏と甲斐武田氏は、同じ甲斐源氏をルーツにするということです。讃岐の十河氏も、一存以降、甲斐源氏の血が入っています。
 阿波にも、甲斐武田氏にゆかりのある者が戦国時代に入っています。武田晴信に甲斐を追放された父の信虎は、その後、京に出て、男子をもうけたといわれていますが、その子は後に武田信顕と名乗って阿波へ行き、三好氏に取り立てられて脇城主になったということです。しかし、信顕はその後長宗我部の侵攻に遭い、讃岐に逃れ果てたといわれています。その供養の墓碑が現在の東かがわ市の東照寺にあるといいます。
 また、長篠の戦いや天目山の戦いの敗戦により、武田信玄の弟の信綱が讃岐を経由して阿波貞光に入り、その後を追って、信玄の孫の信豊、信玄の弟の信基らも讃岐を経由して阿波に入り住んだといわれています。
 このように、甲斐武田氏にゆかりのある者が阿波に入っていったのは、ルーツを同じくする三好氏がいたからだと思われます。ひらたくいえば、血のつながった親戚を頼っていったということです。
 讃岐の十河氏も三好氏を通じて甲斐源氏の血が入っていますから、甲斐武田氏にゆかりのある者が頼って来るということは十分考えられます。このようなわけで、讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語も全くの出鱈目とはいえないように思われます。

 では、天正3年(1575年)の長篠の戦い以降の讃岐の情勢はどのようだったのでしょうか。
 永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて入洛した後、畿内の三好勢力は信長に駆逐されていきます。讃岐でも、長篠の戦いの頃、十河一存を継いだ存保(まさやす)は信長に降り、讃岐の諸氏も信長の勢力下に入ります。後に兄である三好長治が討たれると、存保は実質上の三好宗家の当主となり、讃岐と阿波で勢力を及ぼします。
 天正10年(1582年)3月11日に天目山の戦いがあった後、その年の6月2日に本能寺の変が起こり、6月13日に山崎の戦いで秀吉軍が光秀軍を撃破します。この頃讃岐では、土佐の長宗我部元親の軍による侵攻を受け、8月には香西氏がその旗下に下り、また、山田郡の十河城が包囲されます。さらに、阿波でも、十河存保が中富川の戦いと勝瑞城の戦いで長宗我部に敗れ、存保は讃岐の虎丸城に追い詰められます。こうした中、9月に、豊臣秀吉の命を受けた仙石秀久が小豆島より渡海し、存保を救うため長宗我部軍と戦いますが、攻めきれず退きます。
 天正11年(1583年)4月、仙石秀久は再度讃岐に上陸しようと引田で長宗我部軍と戦いますが、これも失敗します。そして、翌年の6月、ついに十河城は長宗我部軍の攻略により落城し、十河存保は秀吉を頼って讃岐から大坂に逃亡します。これにより讃岐は長宗我部の支配下となります。
 しかし、天正13年(1585年)4月、豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込み、讃岐には宇喜多秀家を総大将とする蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが喜岡城(旧高松城)で、全員が討死にしました。
 戦局不利とみた長宗我部は秀吉と和議を結び、長宗我部は元の土佐一国の領主とされ、天正13年(1585年)7月、仙石秀久が豊臣秀吉から讃岐国を与えられて入部します。また、十河存保は四国征伐に協力したことにより旧領を復され、2万石の大名として再び十河城に入ります。
 しかし、翌年の天正14年、豊臣秀吉の九州攻めが始まると、十河存保は、秀吉から九州攻略の軍監とされた仙石秀久の指揮の下に四国勢の一軍として島津軍との戦いに従軍し、このとき、功を焦った仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死します。
 この敗戦により、仙石秀久は秀吉から讃岐を没収され、その跡には生駒親正が入部してきます。十河存保には千松丸という男子が残され、生駒親正によって養育されていましたが、天正17年(1589年)7月、15歳のとき何者かによって毒殺されます。ここに神櫛王を祖とする十河氏直系の血は絶え事実上その系譜を閉じます。
 讃岐には、甲斐武田氏の残党が逃れてきたという物語が残っていますが、詳しいことはほとんど分かっていません。これは、その庇護者であった十河氏が中世から近世への変革期に滅んでしまったことによるのかもしれません。

 さらに、興味深いことには、武田信玄の軍師であった山本勘助(勘介)は讃岐生まれではないかという説もあります。この説は、勘介研究家の渡辺勝正氏が「歴史街道」2月号で、唱えられているものです。
 山口県には次のような伝承が残されているそうです。山本勘介は讃岐の六カ村(ろっかそん)の庄屋に生まれ、少年時代から猪狩が得意であったが、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になった。勘介は長じて山口に来て、大内義隆(よしたか)に仕えた。
 渡辺氏は、毛利文書「閥閲録(ばつえつろく)」を基に、この伝承について次のような推理を展開されています。
 勘介が若い頃、讃岐は山口の大内氏と同盟関係にあった。讃岐に生まれた勘介は山口の大内氏に仕え、安芸武田攻めなど幾多の合戦を経験し、軍師としての勘と能力を身につけた。しかし、その後、家族を山口に残して出奔(しゅつぽん)し、浪人者となった。紆余曲折の後、勘介は51歳のとき、甲斐武田に仕官した。
 勘介は自分の前歴を語らなかったため、その前半生は不明であるが、それは、大内領を脱して他国の主君に仕えていることが分かれば、山口に残してきた家族が国外に追放されてしまう恐れがあったからだ。また、勘介が並みいる武田武将たちの中で頭角を現すことができたのは、大内氏の下で、多くの実戦経験を積んでいたからだ。
 勘介は「三州牢人(浪人)」と言われ、「三河(三州)」出身とされているが、「サン州」とは「讃州」のことではないかと、いうことです。
 讃岐の六カ村がどこなのか、分かりませんが、山本勘助が讃岐生まれであるという説があるのは事実です。

 江戸時代に入ると、人は幕藩体制の下、土地に縛り付けられ、ほとんど移動することは無かったようですが、戦国時代には、かなり遠方の間でも、ダイナミックな人の移動があったのではないでしょうか。

●訪れてみたいところ

○諏訪神社
 諏訪神社は、久米池の畔にある久米石清水八幡宮の西、新川東岸の小高い丘に鎮座しています。
 延宝年間に桃千代丸が祠職を逐放されてから後、諏訪神社は長い年月そのままとなり荒廃していましたが、山崎の住民が恐れ敬って修復し、山崎の守護神として祭祀されるようになり、今日に至ったということです。明治5年7月に久米八幡宮の末社となっています。
 桃千代丸が住んでいたという掃部屋敷は神社東側下の畠の東寄りにあり、最近まで造柿の大木と井戸が残存していたといわれていますが、今は埋没して跡もありません。
 諏訪神社の御神徳の一説に次のような話があります。地蔵寺の住職が屋島西町に移遷しようと、諏訪明神に我に百人分の力を授け給えと日参していたところ、その力量を授けられ、喜び勇んで寺に帰ろうとしました。しかし、住職が新川の堤防にさしかかったとき、両足が地中に没して歩行ができなくなりました。そこで、直ちに力量減じ給えと念じたところ、たちまち50人力減ずるので寺院の建立に役たたせよとの神託があったという。住職は直ちに棟木を組み立てて落成させ、新田町の奥坊より本尊を移遷したという。

 なお、諏訪神社の本殿が建っている場所には、4世紀の初め頃、付近一帯を治めていた首長の墓と思われる古墳があります。
 平成2年の発掘調査の結果によると、古墳の形は不正形な円で、直径12m前後の規模があり、3基の竪穴式石室をもち、墳丘裾に列石を巡らせていました。中央部と北側の石室内には、遺体を入れた棺を固定する為の粘土が残されていました。出土遺物は、中央部の石室から碧玉製の管玉が1点、北側の石室からは、赤色顔料を塗った土器の枕が、それぞれ見つかっています。
 近くには、高松市茶臼山古墳をはじめ多くの古墳があり、周辺の丘陵は、古くから墓域として利用されていたと考えられています。

小比賀家住宅
 小比賀家住宅は御厩町に所在する江戸時代の民家で、同家は現在の地に17世紀前期に移住したといわれ、その後政所を務めたり、藩に出仕するなどして江戸時代を通じて栄えた旧家です。この屋敷は、17世紀には建てられていたとされ、香川県最古の民家の一つです。
 一辺およそ80メートル四方の大きな敷地に、桁行・26.6メートルの寄棟造り茅葺の主屋を中心にして、土蔵・米蔵が付属し、南には桁行・35.5メートルの長大な長屋門・午門があります。午門からは四方に土塀がめぐらされ、大庄屋であった当時の面影を今に残しています。主家、牛門、土蔵、米蔵、土塀など数棟が、昭和46年6月1日重要文化財の指定を受けています。
 また、邸内・主屋の南西には、池泉回遊式の日本庭園である「小比賀家築山庭園」が見られます。昭和46年4月30日、県指定名勝に指定されています。

○室山(むろやま)城跡
 香西氏の支城だったところで、高松市室新町の紫雲山(室山)にあり、紫雲山トンネル(大手前高校南側)入口横から登頂します。
 城主は、永正5年(1508年)8月に香西元定の三谷城(三谷景久)攻めに従った太田犬養と言う説と、香西氏の部将であった真鍋権頭と言う説と、天正13年(1585年)6月に豊臣秀吉の制書に蜂須賀彦右衛門(正勝・幼名小六)が添え書きして小比賀甚助に与えたと言う説など諸説があります。

○甲斐股城(かいのまたじょう)跡
 現在の高松市塩江町上貝股にある山城です。
「全讃史」には、別子八郎(伊豆八郎信能)について、次のようなエピソードが書かれています。あるとき、猟をしていた別子八郎の前に大蛇が現れ、八郎は急いで弓を射ましたが、大蛇は疾走して逃れました。これを追った八郎は国分寺の関の池に至りましたが、疲労困憊して強く射ることができなくなっていました。大蛇が大きく口を開けて八郎を呑み込もうとした時、八郎は雁股(かりまた)の矢で大蛇の咽を射たところ、ただの一矢で大蛇は倒れてしまいました。この大蛇は常は大鐘をかぶってあらかじめ矢の害を防いでいました。それで強く射ても倒すことができなかったのです。それが八郎を呑もうとする時、その鐘を脱いでしまい、それで一矢で倒れてしまったということです。その鐘は今国分寺にあるといいます。

○内場城(ないばじょう)跡
 高松市塩江町安原下にあります。別名を大陰城という山城で、藤沢氏の居城だったところです。
 嘉応~承安年間(1169~75)の頃、越後から藤沢入道が来住してこの城を築いたといわれています。その子・藤沢新太郎道信は、元暦2(1185)年2月に屋島で戦死し、道信の子・新太郎光高が居城したといわれています。その後、この城は藤沢氏の手を離れて川田氏が支配し、嘉吉年間(1441~44)には川田肥前守景秀がこの城を拠点にしたといいます。戦国期、長宗我部元親の攻撃を受けると、城主・川田信濃守景信はこの城で防戦に努めましたが落城したといわれています。

○十河城跡
 高松市十河東町にあります。十河城は、南北朝時代に十河氏によって築かれ、その後約230年間十河氏の居城だったところです。現在は「称念寺(しょうねんじ)」という浄土宗の寺の境内となっており、寺が本の丸跡といわれています。十河一存・存保の墓があります。

○虎丸城
 東かがわ市大内町水主の虎丸山にある山城です。
 元弘2年(1332)、地元の豪族佐伯秀国が紀州から落ち延びてきた護良親王を守るために築いたのが始りといわれ、以来約200年間大内、寒川両郡を治めていた寒川丹後守元隣らが代々城主となっていました。次に引き継いだのが雨滝城城主安富盛貞で、土佐の長曽我部元親に敗れて城を退きました。十河存保が長曽我部に追われて立てこもったのを最後に、戦国時代末期に廃城となりました。

○東照寺
 日本3大薬師の1つと伝えられる「田の口お薬師」があります。
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土佐の香美市山田には武田勝頼が来たとの史跡がありました。
土佐にもいろいろと甲斐武田氏に関する物語がありそうです。
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