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(118)“綿の産地だったチョウサの町”

 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命の発端は、綿布の大量生産にあるといわれています。イギリスは、奴隷をアフリカから西インド、アメリカへ輸出し、そこから原料の綿花をイギリス国内に運び、綿製品に加工してアフリカやアメリカに輸出しました。こうして綿布を大量に生産するための技術の改良がイギリスで進展し、産業革命の発端になったということです。
 日本に棉(植物としてのワタは「棉」と表記されます。)の種が渡来したのは、今から約1200年前の延暦18年(799)、三河に漂着した崑崙(こんろん(インド))人青年によるといわれています。しかし、わが国で綿作が始まったのは、ずっと下って、室町時代の明応3年(1494)の頃ではないかと考えられています。さらに、綿織物が庶民の普段着として用いられるようになったのは江戸時代以降のことで、それまで衣類といえば、上流階級の間では絹が使われ、庶民は麻(あさ)、苧(からむし)、楮(こうぞ)、葛(くず)などの繊維から作られたものを主に使っていたようです。
 江戸時代初期までは、綿作も自家用にとどまっていたようですが、綿は麻などに比べ、柔らかくて温かく、吸湿性が高いうえ、染色が簡単で、衣料として優れていることから江戸時代中期になると需要が増加し、東北・北陸の寒冷地を除いて全国に綿作が広がっていきました。
そして、生産過程が分業化していき、綿繰り屋・綿打ち屋・綛(かせ)屋・染め屋・機屋など専門の生産者が現れ、中には人を雇って生産を行う者も出てきました。一方では生産者と消費者とを結ぶ買い占め商人が発生し、幕末にはかなり大規模に織物生産を行う者も現れました。

 讃岐における綿作の始まりについては、豊臣秀吉の命により文禄の役に出兵した生駒親正が、朝鮮から綿の種子を持ち帰り、それが普及していったという伝承があります。また、観音寺市豊浜町には、鎌倉時代に関谷兵衛国貞という人物が、現在の豊浜関谷地区を開墾して棉の木を植えたという伝承が残っているそうです。
 讃岐は気候温暖で雨が少ないことから綿作に適しており、西讃地域を中心に砂質土壌のところで栽培が行われました。すでに、丸亀藩では、元禄8年(1695)に城下での夜間の綿打ちを禁止するお触れが出されるほど綿の生産が盛んだったようです。綿打ちとは、実綿(みわた)から核を取り除いた繰綿(くりわた)を綿打弓(わたうちゆみ)で打って柔らかくし、不純物を取り除いて生綿(きわた)にする作業のことですが、夜間での騒音公害になるほど綿打ちが盛んに行われていたということです。
 文化4年(1807)頃には、「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座(ござ)無く」と、綿が丸亀藩第一の特産になっていたようで、讃岐三白の一つに数えられるようになりました。丸亀繁盛記によると、幕末の天保年間(1830~43)頃の様子が、「国々へ積み出す雪綿(ゆきわた)は、大与がかどさきに山をなし、夕陽に照らされれば、ひらの高根を争う景色」と記されており、当時の丸亀城下での綿取引の賑わいぶりをうかがうことができます。「大与」とは、綿の大問屋大坂屋与十郎のことです。また、和田浜(現在の三豊市豊浜町)の港は、近くで栽培された綿の取引のために諸国の船が出入りして活況を呈したといいます。高松藩でも、丸亀藩ほどではありませんでしたが、藩内の西部地域で綿作が行われていました。

 この綿の産地であった豊浜や観音寺などの西讃地域では、今でも、五穀豊穣や豊魚などを祈願し平穏を感謝する秋祭りにおいて、「チョウサ」と呼ばれる太鼓台を繰り出して賑わっています。太鼓を打ち鳴らしながら、御輿(みこし)のお供をしてお旅所まで行き、さらに町内を練り歩きます。
 この太鼓台は中央に大きな太鼓を積み、方形に柱を建てた上には逆四角錐台状に布団を置き、柱の周りの壁に当たるところに金糸銀糸のきらびやかな刺繍をした幕を張り、大きな軸木を2本ないし4本通して太鼓の前後をそれぞれ20~30人の若者たちが担ぐというものです。「チョウサ」の語源は定かでありませんが、「長竿」と書き、元は太鼓台の前を先導する幟(のぼり)をつけた長い竹竿のことをいい、これが太鼓台そのものを指すことになったともいわれています。所によっては「サンマショ」とか「サァシマショ」と呼ばれているそうです。
 「チョウサ」は、香川県では、各地域で祭りに彩りを添えていますが、西へ移るほど大きなものとなり、特に観音寺市豊浜町のちょうさは、高さが5メートルを超え、全国的にも最大規模ではないかといわれています。豊浜町は約1万人の小さな町ですが、新調すると数千万円以上もかかるというものを20台以上も保有しているそうです。布団が敷かれることから「布団チョウサ」とも呼ばれます。

 太鼓台という山車(だし)は、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけての西日本を中心に、港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く分布しているといわれており、讃岐でも豊浜周辺の三豊地方のほか小豆島や坂出のものが賑やかだといわれています。それぞれの地方の太鼓台の名称は様々ですが、その源流は、京都の祇園祭、あるいは、安土桃山時代、大阪、堺の豪商が作らせた山車(だし)が、瀬戸内海の海上交通を通じて伝わり、江戸時代後期の文政年間(1818~1830)の頃、現在のように布団を積み重ねた形に変わり、地方によってその形が変形され、伝承されていったのではないかと考えられています。そして、明治中期以降、地域経済が発達するにつれて急速に巨大化していったものと考えられています。
 ちなみに豊浜のちょうさが現在のような豪華絢爛なものになったのも、明治中期以降といわれており、その大きくしかも勇壮壮麗なチョウサは、綿で栄えた豊浜の街の象徴ともいえる存在だったのでしょう。

 しかし、明治時代に入って紡績産業、中でも綿工業が盛んになると、外国から安い原綿が大量に輸入されるようになり次第に日本棉は栽培されなくなっていきました。戦後は、高度経済成長の中、輸入綿が出回って綿作農家は激減し、日本棉の多くの品種が絶滅していきました。
 豊浜でも、江戸時代から昭和の初め頃までは綿作が盛んに行われ、綿打ち職人が腕をふるっていましたが、現在では、綿の栽培は全く行われなくなってしましました。しかし、豊浜には今なお製綿工場が集まり、現在も、布団など綿製品の生産量は四国一であり、国道11号には「わたの街通り」という看板が立っています。
●訪れてみたいところ

 豊浜の街
  ○わた神社
  ○ちょうさ会館
  ○豊浜郷土資料館
  ○豊浜八幡神社
  ○大平記念館 
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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 ちょうさの語源(いわれ)について?長竿説-成程と思うがちょっと疑わしい。(チャウサヤ、ヨウサ)と言ったお囃子言葉から・・又大祭やという言葉の変化〔音韻変化、母音省略〕からなる=田井教授説もありますが、他にもありましたらご教授ください。

豊浜(関谷)では昭和の初めまで綿を作っていません、昭和四十年ころまで綿を作っていたと出鱈目を平気で言っている者がいるので八十才以上の人十五人ほどに聞きました、関谷で生まれた人だけ、一人作っていたと言っている人も糸にしていたと言っています、全部録音取っています。ほとんと綿屋をしていた人達です。新しい発見もあります。調べて書いてください。

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綿神社何時建立か知って書いていますか

関谷の綿神社は昭和五十八年から平成二年の間に建立された神社です。関谷兵衛を鎌倉時代としていますが関谷兵衛の墓には室町末となっていますよ、この墓も大正に建立された、綿神社の文章は神田神社の神主が関谷兵衛の墓に書いている文章をパクって書いたものです観音寺市も知らないで宣伝しているだけ、二年前に市にメールして知らせたから直ぐ墓に来て拓本取りました。
綿のことはよく調べて書いてください、関谷住民より

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