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(117)“草鞋を履いて阿讃の峠を越えた牛”

 「東男に京女」という言葉があるように、四国には「讃岐男に阿波女」という言葉があります。この言葉は、一般的には働き者の讃岐男に美人の阿波女という意味にとられているようですが、嫁をもらうなら働き者の阿波の女性からという説もあります。なお、おもしろいことに、古事記でも阿波の国は女性の大宜都比売(おおげつひめ)の国、讃岐の国は男性の飯依比古(いいよりひこ)の国と記されています。また、古代、讃岐の国の開拓は、讃岐忌部氏が阿波忌部氏の力を借りて行われたといわれています。
 このように、讃岐と阿波は、東西に横たわる標高500~700mの讃岐山脈(阿讃山脈)を越えて、古くから交流がありました。その一つが借耕牛(かりこうし)という独特の風習です。

 平地に恵まれない阿波の山村では、広い水田を作ることができないため稲作が不振で、米が不足がちでした。しかし、草生地が多いことから畑地に飼料が作られ、水田の面積に比べて耕牛が多く飼育されていました。
 一方の讃岐は、平地が広く稲作が盛んでしたが、飼料の問題などから牛が不足していました。そこで夏の田植えの6月と秋の11月の麦蒔きの年2回の耕作時には耕牛が不足しました。このような事情から双方の利害が一致し、農繁期の間、阿波から讃岐に牛を借入れるという風習が生まれました。これが借耕牛(かりこうし)です。讃岐の農家は、この借耕牛を飼って田の代掻きや田畑を耕したり、処では砂糖締めの臼を廻す動力に利用しました。砂糖締めに使われる牛は、砂糖締め牛(しめうし)と呼ばれたそうです。
 このような風習が始まったのは、江戸時代の中期の文化年間(1804~1818)の頃からといわれており、徳島県の美馬郡、三好郡を中心に供給された牛たちは、阿讃の国境の峠を越えて讃岐へと向かいました。東から五名口、清水口、岩部口、塩入口、猪ノ鼻口、野呂内口、曼陀口です。その総数は、昭和5~10年頃の最盛期には夏、秋合わせて年8,000頭以上にも及んだといわれています。中でも、財田、仲南方面へは主に、猪ノ鼻越えや東山からのルートが使われ、猪ノ鼻越えをしたものだけでも約1,600頭にも及んだといわれています。
 まだ夜も明けきらぬうち、飼主に曳かれて阿波を発った牛たちは、暗く細い山道を上り下りし、午前中には讃岐に着いたといいます。牛の足には、険しい山道で蹄が傷まないように草鞋(わらじ)が履かされ、背には替えの草鞋が乗せられていたそうです。
 借耕牛の到着した現在の三豊市財田町戸川やまんのう町仲南の山脇、塩入などには取引所が設けられ、賑わいました。対価は約1月働いて米1石が相場で、牛を貸してかわりに米1石をもらって行くことから米取り牛(こめとりうし)ともいわれたそうです。牛の背に米を乗せて返したといいます。

 このように牛も草鞋を履いて越えた讃岐と阿波の間の様相が一変したのは、四国新道の開通でした。四国の道路革命とも呼べるこの新道のルートは、多度津・丸亀を起点に琴平から猪ノ鼻を越えて阿波池田に入り、高知を経て佐川・須崎に達し、佐川から松山・三津浜に至るという四国を全長約280kmのV字型で貫く壮大なものでした。その道幅も計画では最大12.6m、最小でも6.3mと、現在と比べて遜色のないものでした。
 この新道のプランは、明治17年(1884)に大久保之丞(じんのじょう)が提唱したものです。之丞は嘉永2年(1849)、多度津藩領の三野郡財田上ノ村(現在の三豊市財田町)に生まれ、阿讃にまたがる山道の不便さを熟知しており、地域の経済を発展させるためには道路を建設する必要があるという持論を持っていました。之丞は四国新道の実現のほか、讃岐鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言し、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしています。
 明治19年(1886)4月14日、琴平・阿波池田・高知で四国新道の起工式が同時に行われました。しかし、山間部での工事は難渋を極め、なかでも猪ノ鼻峠は最大の難関で、鍬や鶴嘴を使って50mにも及ぶ断崖を掘削しました。また、道路用地にかかった地元住民などの猛烈な反対や資金不足もあり、工事は度々中断したといいます。このとき、県会議員をしていた之丞は反対住民の説得に奔走し、さらに工事のために私財まで提供して大久保家の財産は土塀と井戸を残すのみになったといわれています。
 明治23年(1890)3月に多度津から琴平を経て猪ノ鼻峠間、38.382kmと、丸亀・金蔵寺間6.08kmの香川県分の工事が竣工し、さらに明治27年(1894)5月に8年の歳月をかけて、全面開通となりました。しかし、之丞自身はそれを見届けることなく明治24年12月14日香川県議会中に倒れ、42歳の若さで亡くなりました。

 この新道により人や物資の流れは大きく変わり、阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれました。中継点にあたる猪ノ鼻峠では、馬車曳きも必ず休憩し、飲食店を兼ねた旅館や運送屋が十数軒建ち並び、また、香川県側の登り口にあたる財田の戸川では、宿屋や料理屋から絶えず三味線の音が聞こえてくるほどの賑わいであったといいます。さらに、大正8年(1919)には、琴平~池田間で自動車による旅客運送も始まりました。
 しかし、その後、昭和4年(1929)に鉄道が猪ノ鼻トンネルを貫いて阿波池田まで延伸されると、猪ノ鼻峠の賑わいは徐々に失われ、宿屋や茶店も減っていきました。
 四国新道香川・高知間は、昭和27年(1952)、国道32号に制定され、名実とも讃岐と阿波・土佐を結ぶ幹線となります。そのような中、借耕牛もトラックに乗せて運ばれるようになり、耕耘機の普及に伴い、昭和30年代後半から姿を消していきました。
 四国新道は、昭和34年から41年にかけて大改修工事がなされ、猪ノ鼻隧道(827m)をはじめとしたトンネルが開通し、香川・池田・高知を結ぶ四国内の大輸送路となります。しかし、平成4年(1992)1月30日の四国横断自動車道(川之江JCT~大豊IC開通)開通により、四国新道香川・高知間は約100年にわたる主役の地位を譲りました。

●訪れてみたいところ

○まんのう町仲南「伝承の館」
 ここには牛の草鞋が残っています。
○琴平金山寺公園
 大久保之丞の銅像があります。
○三豊市戸川ダム公園
 4月上旬に「 之丞まつり」が行われます。
大久保之丞顕彰碑
 大久保之丞の偉業をたたえ、40tにも及ぶ巨石の上に高さ4m、幅2m35cm、厚さ55cmの記念碑が立てられています。
○猪ノ鼻峠
○三頭トンネル
○四国新道
 多度津町では、須賀の大通りから極楽橋を通じてまっすぐ南東に進み、桜川をこえて、葛原・金蔵寺方面へ直進する道路がありますが、この道路は四国新道の工事にあたり造られたものです。
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(89)讃史-伝説と神社 【2.手置帆負命】

古代讃岐石神祀手置帆負命(タオキホオイ)は、讃岐忌部の祖神。神代の時代、忌部氏の子孫が来讃し矛竿を造り毎年八百本、朝廷に奉った。現在、この神を祀る神社が、村社 忌部神社(三豊郡笠田村)          

(3)桃太郎のモデルは?

古事記上巻四国が、歴史に登場するのは「古事記」の国生み中にイザナギ命とイザナミ命により淡道之穂之狭別島(淡路)の次に生まれた伊予之二名島(四国)としてであり、二名とは山脈で二並びに分かれ、島は、体が一つで顔が四つあ

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忌部氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
忌部氏(いんべし・いみべし)とは大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団である。ケガレを忌み、神事などに奉仕する。古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とする。その子孫は後に斎部を名乗る。中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず、次第に衰退していった。「諱部」とも表記する例もある。


氏族は多数に及び、各地に広がっている。九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった。 天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐国の讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする紀伊忌部氏、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする出雲国の玉作氏(たまつくりし)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする筑紫国・伊勢国の忌部氏などがいた。 また、四国の阿波と房総半島の安房が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。北陸(越前国)、 山陰(出雲国、隠岐国)、山陽(備前国)などにも忌部氏はいるが前者の氏族とは同族かどうか今だ明言はしがたい。


竹取物語流布本にかぐや姫の名付け親を「みむろとのいんべのあきた」(三室戸の斎部の秋田)とあり、また竹取の翁の名を「さぬきのみやつこ」とあるのを、この氏族と結びつけ、作者を忌部氏の人とする説や、讃岐忌部と作者の関係を指摘する説がある。

織田氏は劔神社の神官である越前忌部(斎部)氏の支流であるが、後に平氏を称した。長徳4年(998年)3月21日、藤原行成の「権記」に越前劒大神宮神主 伊部守忠という名前が見える。

四国の阿波、房総の安房に限らず、地名に関する事も多く、員弁(いなべ)など三重県や奈良県にも同氏から付けられた地名を残している。

姓ははじめ首(おびと)だったが、天武天皇9年(680年)1月8日に、連(むらじ)の姓を与えられた。天武天皇13年(684年)12月2日に他の連姓の50氏とともに宿禰(すくね)になった。

『日本逸史』によると、延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた。正六位上斎部宿祢浜成の願出によるという。浜成の伝記は伝わってないが、『古語拾遺』の選者斎部広成と同一人物という説もある。


[編集] 子孫
忌部黒麻呂 - 万葉歌人
斎部広成 - 古語拾遺を作成
織田信長
後藤田正純
後藤田正晴

借耕牛

阿波から讃岐に来た『借耕牛』は、讃岐で働き阿波に帰る途中、峠を越える事が出来ず倒れ首を切られた事から、首切り峠と呼ばれる地名があるときたのですが・・・・。
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