(115)“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“
丸亀藩京極家は、宇多源氏の後裔で、伝統的に和歌をよくし、歌人も輩出した家系です。このようなことからか、丸亀藩では文芸が盛んで、女流の文人も出ています。その代表が京極伊知子と井上通女(つうじょ)です。また、女性ながら父の仇討ちをし、当時全国に名をはせた尼崎里也(りや)という剣士もいます。さらに、幕末には女性勤王家の村岡箏子(ことこ)が活躍し、中央で活躍していた若江薫子(におこ)が後年丸亀に来ています。
京極伊知子は江戸初期の人で、「涙草」の著者として知られています。
伊知子は、丸亀初代藩主・京極高和の従兄弟(いとこ)にあたる女性で、万治元年(1658)京極家が播州竜野から丸亀へ転封になったとき一緒に来ました。その2年後の万治3年に伊知子は亡くなっていますので、実際に活躍したのは丸亀に来る前の時代です。
高和の前の京極家当主は忠高といい、伊知子はその娘です。忠高の時代、京極家は出雲松江藩26万4千石を領有していましたが、忠高が嗣子の無いまま急死したため領地没収の憂き目に遭います。しかし、幕府の特別のはからいで、忠高の甥である高和が京極家を相続し、播州竜野に6万石を与えられました。
ところが、高和にも嗣子が無かったため、お家断絶をおそれた京極家では、伊知子の一子である高房を高和の養嗣子と決めました。伊知子は家老多賀常良に嫁しており、高房はその間に生まれた子です。
このため、伊知子は高房が5歳のとき、別れなければなりませんでした。伊知子が江戸に向かう高房との別れの様子を綴った手記が「涙草」です。この手記には、子のこの上ない出世を喜ぶ気持ちと、離別の情という相反する気持ちが込められているといわれています。
それ人の親の子を悲しむ道は、思ふにも余り、言ふにも言葉足らざるべし。山野のけだもの、江河のうろくづ、空にかけるつばさ、土に生るるたぐひまで、凡べて生きとし生けるもの、形はことなりといへども心ざしは変るべからず。況んや人として、上がかみ下がしもまで、子を思ふ心の闇はひとしかるべし。
井上通女は文武をかねそなえた江戸時代の女流作家として知られています。
通女は、京極伊知子が亡くなった年の万治3年(1660)、丸亀藩士・井上儀左衛門本固(ぎざえもんもとかた)の娘として丸亀に生まれました。通女は、幼いときから聡明で、和漢の学に秀でたばかりでなく、清流薙刀(せいはなぎなた)の免許皆伝を受けるなど文武両道に達し、藩内でも評判の才女でした。
22歳のとき、高和の未亡人で二代藩主・京極高豊の母である養性院に召されて江戸に向かいます。その丸亀から江戸までの見聞を「東海紀行」としてしたためています。
天のやはらぐ始のとし、霜をふみて、かたき氷にいたる比ほひなれば、年ふる丸亀を舟よそひして、あずまのかたにおもむく。難波へとこぎ出づ。
江戸に約9年間滞在し、養性院の侍講として仕えますが、その間に、室鳩巣、貝原益軒、新井白石など著名な学者たちと交遊し、その才名は江戸市中になりひびきました。鳩巣は「才女にて男子に候はば英雄とも相成るべきに惜しき事に候」と言い、益軒は「有智子内親王以来の人」と評しました。
通女は養性院の死後丸亀に帰ります。このときの旅行記を「帰家日記」といい、「東海紀行」や在府中の「江戸日記」とともに通女の「三日記」と呼ばれ江戸文学の秀作とされています。
帰郷後、三田宗寿に嫁して3男2女をもうけ、当時藩中から良妻賢母の鏡と称えられ、元文3年(1738)、79歳で死去しました。
尼崎里也は、自ら剣で父の仇を討ったヒロインとして知られています。
延宝年間の中頃、二代藩主・京極高豊のとき、丸亀城下の風袋町に、尼崎幸右衛門という弓組の足軽が、妻のあや、それに2歳になる娘の里也と一緒に住んでいました。ところが、同僚の岩淵伝内があやに横恋慕し、幸右衛門が不在のときに、あやに言い寄ろうと家に忍び込んできました。あやと伝内がもみ合っているときに幸右衛門が帰宅し、喧嘩となって幸右衛門は伝内に斬り殺されてしまいます。
その後、あやは病死し、里也は叔母夫婦に育てられます。18歳のときに父の恨みをはらそうと決意し、江戸に出ます。江戸で、当時剣客として名高い旗本永井左源次の家に奉公しながら剣術修行に励み、剣の腕を上達させます。そして、江戸市中の武家屋敷を転々としながら仇の伝内を探索します。
それから10年以上経ち、里也はようやく伝内を見つけ出します。丸亀藩の立会いのもと、伝内と果し合いをし、みごとに伝内を討ち取ります。その仇討ちの場所は、現在の東京都港区芝白金台あたりとみられています。宝永2年(1705)のことです。
この仇討ちは、江戸市中はもとより全国で評判になったといわれています。その後、里也は丸亀藩に召し出され、永井の局と名を改め、文武両道はもとより女性の鏡として尊敬されました。宝暦5年(1775)、79歳で死去しました。
村岡箏子(ことこ)は、幕末に活躍した女性勤王家として知られています。
箏子は文化12年(1815)、高松藩内の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の小橋家に生まれました。小橋家は勤王家として知られ、箏子の兄弟には小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰がいます。箏子は17歳のときに丸亀藩の村岡藤兵衛のもとに嫁ぎます。村岡家は丸亀御城下の魚屋町に住む名字帯刀を許された商家だったようで、藩の銀札出納管理の仕事をしており、後には醤油製造業を営んでいます。
箏子とその息子の宗四郎は、勤王の志士を自宅に潜伏させ保護するなど、大いに勤王に尽くします。司馬遼太郎の「世に棲む日日」には村岡宗四郎も登場しており、丸亀に逃げてきた高杉晋作を、長州人と知らぬまま、3日間泊めたといいます。明治3年(1870)7月、56歳で亡くなりました。
若江薫子(わかえにおこ)も女性勤王家として知られています。
薫子は、京都の伏見宮家に仕えた若江量長(かずなが)の娘として生まれます。学問を好み、幕末期には、高畠式部、太田垣蓮月とともに京都の三大女流歌人として称された人です。
33歳のとき、明治天皇の皇后選びの際に意見を求められ、左大臣一条忠香の姫君のうち妹君を推挙したことで知られています。しかし、明治3年(1870)には、東京遷都など新政府の政策を批判していたため危険視され、2年間幽囚の身となります。岩倉具視には「手のつけられぬ女」といわれたそうです。幽囚を解かれた後、丸亀に渡り、かねて知り合いの岡田東州の私塾に落ち着き、漢学などを教えていましたが、明治14年(1881)10月11日、47歳の生涯を終えました。著書に「和解女四書」があります。
大君のめぐみに報ふ道しあらばをしみはせじな露の玉の緒
京極伊知子は江戸初期の人で、「涙草」の著者として知られています。
伊知子は、丸亀初代藩主・京極高和の従兄弟(いとこ)にあたる女性で、万治元年(1658)京極家が播州竜野から丸亀へ転封になったとき一緒に来ました。その2年後の万治3年に伊知子は亡くなっていますので、実際に活躍したのは丸亀に来る前の時代です。
高和の前の京極家当主は忠高といい、伊知子はその娘です。忠高の時代、京極家は出雲松江藩26万4千石を領有していましたが、忠高が嗣子の無いまま急死したため領地没収の憂き目に遭います。しかし、幕府の特別のはからいで、忠高の甥である高和が京極家を相続し、播州竜野に6万石を与えられました。
ところが、高和にも嗣子が無かったため、お家断絶をおそれた京極家では、伊知子の一子である高房を高和の養嗣子と決めました。伊知子は家老多賀常良に嫁しており、高房はその間に生まれた子です。
このため、伊知子は高房が5歳のとき、別れなければなりませんでした。伊知子が江戸に向かう高房との別れの様子を綴った手記が「涙草」です。この手記には、子のこの上ない出世を喜ぶ気持ちと、離別の情という相反する気持ちが込められているといわれています。
それ人の親の子を悲しむ道は、思ふにも余り、言ふにも言葉足らざるべし。山野のけだもの、江河のうろくづ、空にかけるつばさ、土に生るるたぐひまで、凡べて生きとし生けるもの、形はことなりといへども心ざしは変るべからず。況んや人として、上がかみ下がしもまで、子を思ふ心の闇はひとしかるべし。
井上通女は文武をかねそなえた江戸時代の女流作家として知られています。
通女は、京極伊知子が亡くなった年の万治3年(1660)、丸亀藩士・井上儀左衛門本固(ぎざえもんもとかた)の娘として丸亀に生まれました。通女は、幼いときから聡明で、和漢の学に秀でたばかりでなく、清流薙刀(せいはなぎなた)の免許皆伝を受けるなど文武両道に達し、藩内でも評判の才女でした。
22歳のとき、高和の未亡人で二代藩主・京極高豊の母である養性院に召されて江戸に向かいます。その丸亀から江戸までの見聞を「東海紀行」としてしたためています。
天のやはらぐ始のとし、霜をふみて、かたき氷にいたる比ほひなれば、年ふる丸亀を舟よそひして、あずまのかたにおもむく。難波へとこぎ出づ。
江戸に約9年間滞在し、養性院の侍講として仕えますが、その間に、室鳩巣、貝原益軒、新井白石など著名な学者たちと交遊し、その才名は江戸市中になりひびきました。鳩巣は「才女にて男子に候はば英雄とも相成るべきに惜しき事に候」と言い、益軒は「有智子内親王以来の人」と評しました。
通女は養性院の死後丸亀に帰ります。このときの旅行記を「帰家日記」といい、「東海紀行」や在府中の「江戸日記」とともに通女の「三日記」と呼ばれ江戸文学の秀作とされています。
帰郷後、三田宗寿に嫁して3男2女をもうけ、当時藩中から良妻賢母の鏡と称えられ、元文3年(1738)、79歳で死去しました。
尼崎里也は、自ら剣で父の仇を討ったヒロインとして知られています。
延宝年間の中頃、二代藩主・京極高豊のとき、丸亀城下の風袋町に、尼崎幸右衛門という弓組の足軽が、妻のあや、それに2歳になる娘の里也と一緒に住んでいました。ところが、同僚の岩淵伝内があやに横恋慕し、幸右衛門が不在のときに、あやに言い寄ろうと家に忍び込んできました。あやと伝内がもみ合っているときに幸右衛門が帰宅し、喧嘩となって幸右衛門は伝内に斬り殺されてしまいます。
その後、あやは病死し、里也は叔母夫婦に育てられます。18歳のときに父の恨みをはらそうと決意し、江戸に出ます。江戸で、当時剣客として名高い旗本永井左源次の家に奉公しながら剣術修行に励み、剣の腕を上達させます。そして、江戸市中の武家屋敷を転々としながら仇の伝内を探索します。
それから10年以上経ち、里也はようやく伝内を見つけ出します。丸亀藩の立会いのもと、伝内と果し合いをし、みごとに伝内を討ち取ります。その仇討ちの場所は、現在の東京都港区芝白金台あたりとみられています。宝永2年(1705)のことです。
この仇討ちは、江戸市中はもとより全国で評判になったといわれています。その後、里也は丸亀藩に召し出され、永井の局と名を改め、文武両道はもとより女性の鏡として尊敬されました。宝暦5年(1775)、79歳で死去しました。
村岡箏子(ことこ)は、幕末に活躍した女性勤王家として知られています。
箏子は文化12年(1815)、高松藩内の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の小橋家に生まれました。小橋家は勤王家として知られ、箏子の兄弟には小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰がいます。箏子は17歳のときに丸亀藩の村岡藤兵衛のもとに嫁ぎます。村岡家は丸亀御城下の魚屋町に住む名字帯刀を許された商家だったようで、藩の銀札出納管理の仕事をしており、後には醤油製造業を営んでいます。
箏子とその息子の宗四郎は、勤王の志士を自宅に潜伏させ保護するなど、大いに勤王に尽くします。司馬遼太郎の「世に棲む日日」には村岡宗四郎も登場しており、丸亀に逃げてきた高杉晋作を、長州人と知らぬまま、3日間泊めたといいます。明治3年(1870)7月、56歳で亡くなりました。
若江薫子(わかえにおこ)も女性勤王家として知られています。
薫子は、京都の伏見宮家に仕えた若江量長(かずなが)の娘として生まれます。学問を好み、幕末期には、高畠式部、太田垣蓮月とともに京都の三大女流歌人として称された人です。
33歳のとき、明治天皇の皇后選びの際に意見を求められ、左大臣一条忠香の姫君のうち妹君を推挙したことで知られています。しかし、明治3年(1870)には、東京遷都など新政府の政策を批判していたため危険視され、2年間幽囚の身となります。岩倉具視には「手のつけられぬ女」といわれたそうです。幽囚を解かれた後、丸亀に渡り、かねて知り合いの岡田東州の私塾に落ち着き、漢学などを教えていましたが、明治14年(1881)10月11日、47歳の生涯を終えました。著書に「和解女四書」があります。
大君のめぐみに報ふ道しあらばをしみはせじな露の玉の緒
●訪れてみたいところ
○玄要寺
京極伊知子と若江薫子の墓があります。
○法音寺
井上通女の墓があります。
○正宗寺
丸亀市前塩屋町にある13世紀前半に建てられた寺で、「貞靖孺人墓」と刻まれた村岡箏子の墓があります。法然上人櫂堀の井戸もあります。
○丸亀市資料館前
かつて風袋町の生家跡には「烈女尼崎里也宅跡」と記した石碑が建っていましたが、現在は丸亀市資料館前に移されています。
○勤王碑
丸亀城天守閣の下、月見櫓附近に勤王碑が建てられています。丸亀出身の二人の勤王の志士、土居大作(実光)と村岡宗四郎を記念したものです。
○城西小学校
校庭には「井上通女生申之碑」と、通女のブロンズ像が建っています。
○丸亀高等学校
丸亀高等学校の前身の旧丸亀高等女学校では、井上通女を学神として崇め、校内には、「井上通女頌徳碑」があります。また、同校の記念館には、通女の石膏像が保存されています。
○玄要寺
京極伊知子と若江薫子の墓があります。
○法音寺
井上通女の墓があります。
○正宗寺
丸亀市前塩屋町にある13世紀前半に建てられた寺で、「貞靖孺人墓」と刻まれた村岡箏子の墓があります。法然上人櫂堀の井戸もあります。
○丸亀市資料館前
かつて風袋町の生家跡には「烈女尼崎里也宅跡」と記した石碑が建っていましたが、現在は丸亀市資料館前に移されています。
○勤王碑
丸亀城天守閣の下、月見櫓附近に勤王碑が建てられています。丸亀出身の二人の勤王の志士、土居大作(実光)と村岡宗四郎を記念したものです。
○城西小学校
校庭には「井上通女生申之碑」と、通女のブロンズ像が建っています。
○丸亀高等学校
丸亀高等学校の前身の旧丸亀高等女学校では、井上通女を学神として崇め、校内には、「井上通女頌徳碑」があります。また、同校の記念館には、通女の石膏像が保存されています。
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