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(114)“源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前”

 寿永4年(1185) 、下関「壇ノ浦」の戦いで源義経は平家を滅ぼします。しかし、その後、今度は義経が兄の源頼朝に追われる身となります。
 義経は愛妾の静御前を連れて吉野山に逃れようとしますが、女人禁制の山のため同行することができず、静と別れざるを得ませんでした。このとき、義経は静に形見として、"初音"という名器の鼓を与えています。この鼓は、重源僧上が唐から持ち帰って天皇に献上され、その後、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の家宝となっていましたが、屋島合戦のとき檀の浦の波間に漂っているところを伊勢の三郎が見つけて義経に献上したというものです。
 義経一行と別れた静は京都へ戻る途中で捕らえられ、鎌倉へ護送されて義経の行く先を厳しく問い質されますが、頑として応じませんでした。静が鶴岡八幡宮において奉納舞を懇請され、頼朝を初め多くの武将が居並ぶ中で、義経を恋い慕う歌を唄いながら舞ったというエピソードはよく知られているところです。
  吉野山峰の白雪ふみわけて  入りにし人の跡ぞ恋しき
  しづやしづ賎のおだまきくり返し  昔を今になすよしもがな
 このとき静は懐妊6が月の身で、その後義経の男児を産みますが、その日の内に命を断たれます。
 讃岐には、屋島合戦があったことから義経についての多くの物語が残されていますが、静御前とその母の悲しい後日物語も残されています。

 静御前の母は磯禅師(いそのぜんじ)といい、その生まれは現在の東かがわ市大内町丹生(にぶ)小磯で、この地の豪農、長町庄左衛門の娘イソだといわれています。当時、この辺りは貴族の荘園であったことが縁で、12歳のときに京都に上がって舞の道に入り、藤原道憲(ふじわらのみちのり)に従って舞楽の一種を極め、禅師の称号を授けられました。
 その舞いは、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持ち、立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん:当時の下級役人の普段着)に長袴で、太刀を腰に差した男装で舞うもので、白拍子(しらびょうし)の始まりといわれています。
 この磯禅師の娘が静で、母に似て美しく、幼少より舞を修めました。13歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許され、後白河法皇から神泉苑での雨乞いの舞を日本一と賞賛されました。
 義経は、一の谷の合戦に勝利して京都へ凱旋した頃、後白河法皇から静を与えられます。このとき彼女は16歳でした。それからほぼ1年後、義経は少数の軍勢にもかかわらず、電撃作戦により屋島の戦いで平氏を打ち破ります。義経が未知の地で勝利を得ることができたのは、屋島へ向かう途中の丹生が静御前の母、磯禅師の出身地であったことから、この地が義経の情報蒐集基地になっていたのではないかと言う人もいます。

 静は、文治2年(1186)9月中旬、鎌倉から京都へ帰ることを許され、傷心のうちに母と共に法勝寺の一室に一時身を寄せますが、その後、翌年の春から夏にかけての頃、母と共に母の故郷讃岐の国へと向かいます。
 讃岐へ帰ってからの静は母の生家、長町家の屋敷でしばらく静養していたようですが、すでに母の両親は他界しており、母と共に寺社遍歴の旅に出ます。お遍路の旅に出た親子は、志度寺八栗寺屋島寺六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔ったといいます。
 そして、文治4年(1189)3月20日、長尾寺(四国霊場第八十七番札所)にお参りしたとき、9代住職の宥意和尚から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、髪を下ろして尼となります。母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗ります。この後、義経からもらった形見の鼓を煩悩の種と思い切って川へ捨てたといいます。
 それからの静は母の縁者がいたといわれる現在の三木町井戸中代(なかだい)に行き、鍛冶池(かじいけ)という池の畔にささやかな草庵を結びます。その後、静と母は、京都から追ってきた静の侍女であった琴路(ことじ)と共にひたすら念仏三昧の月日を送ります。
 建久元年(1190)11月、母の磯禅尼は長尾寺からの帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなり、1年余りの後、静も母の後を追い24歳でこの世を去ります。静が亡くなってから7日目の夜、琴路もまた後を追うように鍛冶池に入水して相果てたといいます。


●訪れてみたいところ

○磯禅師の生家跡
 磯禅師の生家は、東かがわ市大内町の小磯にあったといわれています。現在、長町家の屋敷跡は畑となっていますが、そこには屋敷跡を示す標柱が立っており、長町家の家の裏には磯禅師を祀った祠があるそうです。さらに長町家の菩提寺、釈王寺には磯禅師の供養塔(鎌倉時代の古い家型石塔)があったといいますが、近年になって同市の白鳥地区に移されたそうです。

長尾寺
 さぬき市長尾町には、静親子が得度したという古刹、長尾寺"四国霊場第八十七番札所"があります。この寺には静御前の剃髪塚、宥心尼(静御前)位牌、宥意和尚墓、いろは塚が残されています。

○"初音"の鼓が淵
 長尾寺から西へ徒歩五分くらいのところに"初音"の鼓が淵があります。静が義経からもらった形見の"鼓"も煩悩の種と思い切って川へ捨てたところです。今はただの用水路ですが、昭和の初期までは清水が湧き出る淵だったといいます。

○磯禅尼の墓
 "初音"の鼓淵から県道に添って西へ行くと、井戸川橋の手前に磯禅尼の墓があります。

静御前の墓・静が薬師の小庵
 磯禅尼の墓から県道を行って左に曲がれば鍛冶池があり、その西堤に静御前の墓と静が薬師の小庵があります。庵は、何度か建て替えられて、今では"静薬師"あるいは"静庵"と呼ばれています。

○三木町下高岡の願勝寺
 寺伝によると、この寺は、讃岐の守護職でもあった源氏の御家人、佐々木盛綱が出家して源光坊と名乗るようになってから、静御前の菩提を弔うために建立されたもので、弘治年間(1555~1558)に現在の場所に落ち着いたとされています。
 この寺には静御前の位牌があり、「建久三年三月十四日、帰元釋春月妙誉正光位」と書かれているそうです。
 また、静御前のお墓が2つあります。一つは六甲の御影石に「静御前の墓」と彫り込まれた江戸時代のものと見られるものです。もう一つは、平成16年の春、宝池の改修工事が行われたときに池の水口(みなくち)辺りから発見された墓石の一部とみられる石で、その昔、池の改修のときに静御前の墓石が用いられたという伝承から、静御前の墓石として祀っているものだそうです。さらに、この寺には「静御前の舞い姿」が浮き彫りにされた梵鐘あります。
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テーマ : 香川
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香川に住みながら、なにも知らない事に少々落ち
勉強になりました、又違った目で郷土を見ることができるかも。
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