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(113)“自民党を創った高松生まれの政党政治家”

 昭和58年(1983)、「小説吉田学校」という映画が公開されました。これは戦後の被占領下から吉田内閣辞任までの日本政治の世界を描いた戸川猪佐武(とがわいさむ)の同名小説を映画化したもので、森繁久彌が扮する吉田茂と芦田伸介が扮する鳩山一郎の抗争が描かれています。この中で、鳩山の盟友で、吉田を総理大臣の座から引きずり下ろそうとする着流し姿の老人が登場しています。若山富三郎が扮するこの人は、三木武吉(みきぶきち)という高松生まれの政治家で、昭和30年(1955)、自由民主党の結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者といわれています。
 武吉は大臣などの公職には就かず、「ヤジ将軍」とか「策士」、「寝業師」、「影の実力者」、「政界の大ダヌキ」などと呼ばれていたことから闇の政治家のようなイメージをもたれているようです。また、旧制高松中学時代のうどん食い逃げ事件にはじまり、数々のエピソードが語られています。選挙中の立会演説会において、対立候補から愛人を3人も囲っていると批判されたところ、次に演壇に立ち、「先ほどの候補は3人と申しましたが、正しくは5人であります。それも今は年を取り役にたちませぬがこれを捨てるに忍びず、今まで誰一人捨てた事がありませぬ」と反論し、その率直さが逆に選挙民の好感を呼んだとか、また、「女3人も喧嘩させずに御せないで一国の総理になれるか!」と言ったとか、松子・竹子・梅子という松竹梅といわれた3人の愛人を囲っていたとか、愛人に神楽坂で待合茶屋を持たせていたとか、枚挙にいとまがありません。
 しかし、武吉は、戦後の活躍だけでなく、戦前、藩閥政治に対抗して政党政治の確立に努めて大正デモクラシーの時代に活躍した生粋の政党政治家でもあります。議会選挙で多数派を占めた政党が政権の座につくという原理を政党政治といい、この原理は今では当然のことと考えられています。しかし、明治維新以降、わが国では、薩長土肥(さつちょうどひ、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩)、特に薩長両藩の出身者が中心となった藩閥勢力が、官僚組織や軍部など国家機関の要職を掌握し、長きにわたって政治の実権を握っていました。これが終焉し、憲政の常道として政党内閣の慣行が生まれたのは、大正13年(1924)に誕生した護憲三派内閣以降のことです。武吉はその実現に大いに寄与しています。また、武吉は、戦時中、軍部に対抗して翼賛選挙を非推薦で当選し続けた数少ない自由派党人の一人でもあります。
 その波乱万丈に富んだ人生は、日本の政党政治の歴史そのものといえるでしょう。

 三木武吉は、明治17年(1884) 8月15日、父三木古門、母あさの長男として高松旧城下の外磨屋町(現在の番町3-31)に生まれました。この当時、現在の香川県は愛媛県に統合されており、愛媛県から独立するのは明治21年12月のことです。
 三木家は松平藩の藩儒の家柄でしたが、維新後に家禄を失い、武吉が生まれた頃には生活もかなり困窮していたようです。父の古門は書画の鑑定にかけては高松随一との定評があり骨董屋を営んでいたといわれていますが、実際は売り喰いの生活だったようで、一家の生計を支えていたのは母あさでした。武吉が生まれた4年後の明治21年には、同じ旧高松城下の七番丁(現高松市天神)で菊池寛が生まれています。

 武吉が生まれるより前の明治前期には、板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出(明治7年(1874))に始まり、藩閥政治に反対して国民の政治への参加を要求する自由民権運動が全国的に広がっていきました。政府内部でも早期国会開設論の大隈重信と漸進的開設論の伊東博文らが対立します。結局、政府は、明治14年(1881)、大隈重信を追放するとともに天皇の名で10年後の明治23年(1890)を期して国会を開設することを約する勅諭を発します。これが明治14年の政変です。
 国会開設が約束されると、板垣退助の自由党、大隈重信の立憲改進党などの政党が結成され、自由民権運動の組織的な展開が進みます。しかし、政府の弾圧と懐柔策により民権運動は分裂するとともに過激化し、福島事件・秩父事件などが鎮圧されるなかで、自由党は解散、立憲改進党は大隈重信が脱党するなど、しだいに衰退していきます。

 明治22年(1889)2月11日、武吉が4歳のとき、大日本帝国憲法が発布され、翌年には、最初の衆議院議員の総選挙が行われて帝国議会が開かれます。総選挙の結果、立憲自由党(自由党の後身)や立憲改進党などかつて自由民権運動を進めてきた人たちが議員の多数を占め、藩閥政治のやり方を激しく攻撃しました。この勢力は「民党」と呼ばれました。これに対して、政府は、政党の動向に制約されることなく、超然として独自に政策実現を図るとの方針を打ち出し、政党勢力の伸長を抑制して政党内閣も認めない超然主義政治を推し進めます。しかし、それにもかかわらず政党は衆議院で次第に勢力を伸ばしていき、藩閥政府も政党勢力との妥協・提携の道を探るようになっていきます。
 武吉は、5歳のとき、漢学塾の葆真学舎(ほうしんがくしゃ)に通い四書五経を学んでいます。なお、この頃、高松藩は幕末に朝敵になったことから藩閥政府からにらまれ、旧高松藩の子弟は陸軍士官学校などを受験してもなかなか受からず、籍を大坂に移して受験した者もいたといいます。

 明治27年(1894)、武吉が9歳のとき、日清戦争が始まり、翌年には日本勝利のもとに下関条約が調印されます。尋常小学校から高等小学校を経て、武吉は、明治32年(1899)、15歳のとき、高松中学(現、香川県立高松高等学校)に入学します。しかし2年生の7月の時、「うどん食い逃げ事件」の首謀者として退学処分を受けます。この事件は、同級生数人がいたずら半分に夜鳴きうどんの食い逃げをやったときに、たまたまその場に居合わせた武吉が巻き込まれてその首謀者にされてしまったもので、冤罪だったといわれています。しかし、武吉はいっさい言い訳をしなかったそうです。その後、武吉は京都の同志社中学(現、同志社高等学校)の2年に編入しますが、胃腸衰弱でやむなく休学して療養のために高松に帰郷します。京都の水は武吉に合わなかったのでしょう。

 病が癒えたあと、明治34年(1901)6月、武吉は17歳のとき、父の友人であった川口万之助弁護士の紹介で横田千代之助のつてを頼り、当時東京市会議長をしていた星亨(ほしとおる)の書生になることとなり上京します。
 星亨は、貧窮の中で英学を学び、各地で英語教師をつとめる一方、維新後、横浜税関長を経て英国に留学し、日本人初の英国法廷弁護士資格を取得した人物です。帰国後司法省附属代言人となりますが、自由党に入党して自由民権運動に加わり、明治20年(1887)には保安条例で横浜へ退去させられ、翌年投獄もされています。その後、明治25年(1892)、衆議院議員に当選し議長にまでなり、伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張って第4次伊藤内閣では逓信大臣に就任しています。
 しかし、武吉が一時落ち着き先の神田猿楽町の下宿屋から星家に移る日の前日、星亨は東京市会の議事堂で刺殺されてしまいます。このため、武吉は神保町の駄菓子屋の2階3畳間を月1円で借り、印刷屋の手伝いなどをしながら神田の大成中学に通います。武吉は星亨の世話になろうとしていたことから、この頃、すでに弁護士を経て政党政治家への道を志していたのかもしれません。
 そして、父の友人である中野武営(たけなが)の紹介で、当時、早稲田の校長をしていた高田早苗に身の振り方を相談し、その年の明治34年(1901)9月、18歳のとき、早稲田大学の前身である東京専門学校に入学を許されます。
 中野武営は、高松生まれの旧高松藩士で、版籍奉還後、県庁の役人を経て中央政府の官僚となり、明治14年(1881)大隈重信らの立憲改進党の創立にも参加し、明治23年(1890)の国会開設以来、高松を地盤に衆議院議員に連続当選していました。この時には、衆議院議員のほか、東京商業会議所副会頭、東京株式取引所理事長も務めていました。武営は、その後、明治38年(1905)から12年間、渋沢栄一の後を継いで東京商工会議所会頭を務めるとともに、大正3年(1914)から東京市会議員、議長を務め、大正7年(1918)、70歳で亡くなっています。
 東京専門学校での武吉の同学年には大山郁夫や永井柳太郎がおり、武吉は法律の勉強や野球に懸命に取り組んだといいます。また、後に夫人となる天野かね子とのなれそめもこの頃だといわれています。

 明治37年(1904)2月、日露戦争が始まり、武吉はその年の9月、満21歳のとき早稲田大学専門部法律科を卒業し、一時、早稲田大学の図書館創設の仕事に就きます。そして、その翌年1月、当時早稲田で教えていた鈴木喜三郎の世話で日本銀行に入り、門司支店配属となります。鈴木喜三郎はその後、政友会総裁となった人物です。
 その年の明治38年(1905)9月、アメリカの斡旋でポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結します。しかし、この戦争でわが国は多くの犠牲を払ったにもかかわらずロシアからの賠償額が少なかったことから、日露講和に反対する日比谷焼き討ち事件が発生し、全国各地でも屈辱講和反対の大会が開かれます。このとき門司でも講和反対の大開が開かれましたが、武吉は生来からの性分でしょうか、そこに飛び入り参加して反政府の大演説をぶってしまいます。このため日本銀行を免職されます。
 その後、武吉は東京に戻り、高等文官試験司法科試験を受けることを決意して猛勉強の日々を送ります。そのかいあって、明治39年(1906)7月、満22歳のとき試験に合格して東京地方裁判所の司法官試補となります。しかし、武吉はもともと裁判官という宮仕えの官僚をやる気はなかったのでしょう、7ヶ月で辞め、弁護士に転じます。この頃、武吉は政治の道に入ることを明確な目標としていたものと思われます。

 明治45年(1912)、28歳のとき、武吉は、政治家を目指し、初めて衆議院議員選挙に東京から立候補します。しかし、このときは次点で落選します。この年の大正元年(1912)12月には、藩閥の桂太郎が陸軍・官僚勢力を後ろ盾に第3次内閣を組織しますが、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らの政党人や新聞記者、商工業者などが中心となって、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げ、桂内閣打倒を目指す運動を起こします。後に第一次護憲運動といわれるものです。翌年の2月10日には、数万人の民衆が議会を取り囲み、さらに警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃したため、桂内閣はわずか2ヶ月足らずで倒れます。いわゆる大正政変です。
 武吉は、大正2年(1913)、今度は牛込区議会議員に立候補して当選します。翌年の大正3年(1914)7月には、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発しています。続いて、大正5年(1916)、武吉は憲政会に入党し、翌年、満32歳のとき衆議院議員に初当選し、国政の場に躍り出ます。以降、昭和6年(1931)まで連続6回当選を果たしています。

 第一次世界大戦も末期になると、わが国では物価が上昇し始め、地主の売り惜しみと大商人の買占めにより特に米価が戦前の4倍まで急騰して庶民の生活を圧迫します。こうした情勢の下、大正7年(1918)7月、富山の漁村の主婦たちによる米屋襲撃事件に端を発し、全国各地で米騒動が起きます。これに対して、時の藩閥内閣である寺内内閣は、前年にロシア革命が起こっていたこともあり、米騒動に対して厳しい弾圧を加えます。しかし、この処置は世論の激しい非難を受け、寺内内閣は9月に退陣し、衆議院第一党を占めていた立憲政友会の総裁である原敬に組閣の大命が下ります。こうして原敬を首班とする日本最初の本格的な政党内閣が誕生します。この年の11月には第一次世界大戦が終結します。
 このとき、武吉は野党側にあり、蔵相の高橋是清が「陸軍は10年、海軍は8年」と海軍予算案を説明していると、「ダルマは9年」とヤジったといいます。高橋是清のあだ名がダルマだったからです。武吉は舌鋒鋭く政府を批判して「ヤジ将軍」といわれ、次第に頭角を現していきます。
 原敬は平民宰相といわれ、組閣当初は国民的人気がありましたが、財政負担を国民に求めて批判が高まり、汚職事件も発覚していったため、大正10年(1921)に暗殺されます。
 この頃の武吉は、大正11年(1922)年6月、東京市議会議員にも立候補して当選しています。当時は衆議院議員と東京市議会議員を兼ねることが可能でした。こうした中、大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起きます。

 原内閣の後、同じ政友会の高橋是清が組閣しますが、政友会内部の不一致ですぐに倒れ、その後、軍人の加藤友三郎や山本権兵衛と、政党に関係のない内閣が続き、大正13年(1924)年1月には貴族院・官僚勢力の後押しを受けた清浦奎吾に組閣の大命が下ります。
 これに対して、憲政会、政友会、革新倶楽部のいわゆる護憲三派は、この内閣を立憲政治に背を向けた特権階級による超然内閣として攻撃します。これは後に第二次憲政擁護運動といわれています。このとき、武吉は、衆議院当選2回、39歳の若さで憲政会幹事長に抜擢され、大正13年5月の総選挙を陣頭指揮します。
 この選挙では護憲三派が圧勝し、憲政会が第一党となります。その結果、6月7日に清浦内閣は総辞職し、憲政会総裁の加藤高明を首班とし、政友会総裁の高橋是清、革新倶楽部党首の犬養毅も入閣した護憲三派内閣が成立します。武吉は、大蔵大臣として入閣した浜口雄幸の下で大蔵参与官に任命されます。戦前における武吉の絶頂期でした。
 以後、昭和7年(1932)の五・一五事件で犬養内閣が倒れるまでの足掛け8年間、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという政党政治が「憲政の常道」とされ、政党内閣の時代が続きます。
 護憲三派内閣は、大正14年(1925)に、長年にわたる国民の要求に応え、25歳以上のすべての男子に選挙権を与えるという普通選挙法を制定します。しかし、一方では治安維持法を制定して社会秩序維持の強化を図ります。

 昭和2年(1927)、武吉は、浜口雄幸を代表とする立憲民政党に参加します。また、東京市会では、東京市政浄化を主張して市政革新同盟を結成して政友会系の新交会と対決します。後に同志となる鳩山一郎は新交会で、東京市政をめぐるこの時点では武吉の政敵でした。なお、この年の3月には、金融恐慌が起きています。そして、武吉は東京市会で重きをなしていき大御所的存在となります。
 ところが、この頃、武吉には大きな落とし穴が待っていました。昭和5年(1930)、46歳のときに、東京市会の京成電車疑獄事件に連座したのです。そして、7年にわたる裁判の結果有罪が確定し、これにより武吉は失脚して政界を引退します。

 この当時は、昭和4年(1929)10月24日木曜日のニューヨーク株式市場での株価の大暴落に端を発した世界恐慌が拡大しているという暗い世情でした。国内では、昭和5年(1930)1月に浜口雄幸内閣の大蔵大臣である井上準之助が行った金解禁が、「嵐の中で雨戸を開けっ放しにする」という結果になり、日本経済は深刻な打撃を受けて恐慌状態に陥っていました。一方、昭和6年(1931)9月には、軍部の独走により満州事変が起きています。
 続いて、昭和7年(1932)には、海軍将校らが五・一五事件を起こし、犬養毅首相が暗殺されます。これにより大正13年(1924)から始まった政党政治の時代はついに終焉を迎えます。さらに昭和11年(1936)には、青年将校が3日間にわたり帝都中枢を武力制圧するという二・二六事件が勃発します。
 この二つの事件によって、軍部が政治上の有力な勢力となり、わが国はファシズムと戦争への道を突き進んでいきます。昭和13年(1938)4月には、国家総動員法が公布され、さらに昭和15年(1940)には、ナチス・ドイツをまねて一国一党の強力な全体主義的国民組織をつくりあげるという新体制運動が提唱されます。そして、社会大衆党が真っ先に解党してこの運動に加わり、立憲政友会各派、立憲民政党などの既成政党や諸団体がつぎつぎと解散し、近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足します。こうして政党の存在によって成り立つ自由主義的議会制度はまったく形骸化、無力化します。
 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まります。日本軍が緒戦で勝利を収め、国内は熱狂的興奮の中に包まれ、政府・軍部に対する国民の支持が一時的に高まったことにより、東条英機内閣は、この機会をとらえて、昭和17年(1942)4月、衆議院議員選挙を実施しようとします。この選挙は、形式的には自由立候補制でしたが、実際のところは政府の支援を受けた団体が定員一杯の候補者を推薦するといういわゆる翼賛選挙でした。
 武吉は、政界を引退した後、実業界に身を置き、朝鮮鶴翼金山の経営や、昭和14年には報知新聞社の社長を務めたりしていましたが、この総選挙に打って出ます。選挙区を以前の東京から郷里の高松に移し、非推薦候補として出馬したのです。58歳のときです。若い頃から藩閥政治に対抗して政党政治の実現に力を注いできた武吉からすれば、軍人政権が主導する翼賛選挙など認めるわけにはいかなかったのでしょう。このときの非推薦候補者の中には、武吉のほか、尾崎行雄、鳩山一郎、芦田均、片山哲、中野正剛ら経験豊かなかつての政党政治家も名を連ねていました。
 選挙の結果、当選者466名のうち80%以上の381名が推薦を受けた翼賛候補者でしたが、武吉と彼らは見事に当選を果たします。こうして政界に復帰した武吉は、翌昭和18年(1943)、鳩山一郎、中野正剛らと組んで反東条運動を展開します。しかし、敗退して東条に狙われる存在となり、郷里の高松に引き籠もります。このとき、武吉は、従来政敵であった鳩山一郎と強く政治的に結ばれ、他の非翼賛議員らと敗戦後のわが国の政治の再建を約して東京を去ったといわれています。

 敗戦後、非翼賛議員らが中心となって政党の再建が始められます。昭和20年(1945)10月、武吉は東京に戻り、11月、鳩山一郎と呼応して自由党結成に参画し、総裁に鳩山一郎、筆頭総務に武吉が選ばれ就任します。そして、鳩山首相・三木衆議院議長の体制による日本政治の再建が約されます。昭和21年(1946)年4月、戦後初めての新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が実施され、鳩山も武吉も当選を果たして自由党が第一党となり、鳩山首相・三木衆議院議長が現実化の一歩前となります。武吉62歳のときです。
 ところが、組閣準備が進められているとき、鳩山はGHQによって公職追放されてしまいます。このため鳩山は英米強調派の外務官僚である吉田茂に総理・総裁の地位を一時任せ、危機を乗り越えようとします。鳩山と吉田との間には、鳩山が追放解除になったらいつでもその地位を譲るという約束が交わされていたといいます。こうして鳩山に代わって吉田が自由党総裁となり、第一次吉田内閣が発足します。
 武吉は衆議院議長に就任することとなっていましたが、吉田内閣成立の2日後の昭和21年(1946)5月24日に、戦前、新聞経営に携わったことにより、公職追放を受けます。武吉は淡々として郷里の香川に戻り、小豆島で悠々自適の隠棲生活を送ります。小豆島では濤洋荘という旅館に住んで読書三昧の生活を送り、地元の青年に「老子」など中国古典を教えたりしていたといいます。

 昭和25年(1950)6月25日、朝鮮戦争が勃発し、この年の7月、武吉は約4年間の郷里での隠遁生活に終止符をうち、再び上京します。66歳のときです。そして翌年6月、武吉は鳩山一郎とともに公職追放を解除され、自由党に復帰します。この年の9月、わが国は、吉田内閣のもと、サンフランシスコ講和会議で平和条約に調印するとともに、米国との間で日米安全保障条約を締結しています。そして、翌年の昭和27年(1952)4月28日、7年間に及んだ連合国による日本占領が終了します。
 武吉は、昭和27年(1952)の総選挙で当選して政界への復活を果たし、自由党総務会長に就任します。しかし、自由党は、終戦直後の結成当時は戦前からの政党政治家が中心でしたが、鳩山や武吉が公職追放を受けている間に、吉田が池田勇人・佐藤栄作といった戦前からの若手官僚を大量に抜擢したことにより、親吉田派の議員が多数を占めて主流派を形成していました。彼らが俗に言う「吉田学校」の生徒です。また、鳩山が復帰したら総裁を譲るという約束も事実上反故にされていました。このため、自由党内は官僚出身者からなる吉田支持派と、戦前からの政党政治家からなる鳩山支持派が対立します。そして、武吉はかねてからの念願であった鳩山内閣の実現に向け、あらん限りの智謀を傾けて、反吉田の先頭に立って激しい権力抗争を繰り広げます。武吉は、戦前には藩閥の官僚・軍人政治家たちと戦ってきた根っからの党人政治家であり、吉田ら官僚から政治家に転身した者とは肌が合わなかったものと思われます。
 昭和29年(1954)年11月、武吉は、鳩山一郎、河野一郎、岸信介らとともに、吉田に不満を持つ自由党内の同志や野党の改進党などの他の保守系政党と大同団結を図り、日本民主党を結成します。そして、総裁に鳩山一郎、幹事長に岸信介、総務会長に武吉が就任し、12月には吉田内閣がついに総辞職します。ここに武吉が悲願としてきた鳩山内閣(第1次)が成立します。しかし、武吉の仕事はここで終わりませんでした。
 昭和30年(1955)2月に行われた総選挙の結果は、民主党185議席、自由党112議席、左派社会党89議席、右派社会党67議席などで、左派社会党が躍進し、保守政党や経済界では社会主義勢力の台頭を危惧する念が強くなっていきます。こうした情勢の下、この年の4月13日、武吉は保守政党の結集を呼びかけ、そのために鳩山内閣が障害となるなら内閣総辞職も辞さないと発表します。武吉は以前から、社会主義勢力の台頭に対抗するためには保守合同を実現する必要があると考えていました。このとき、武吉は癌を患っており、医者から余命わずかと宣告されていたようです。しかし、病身の身を押し、保守合同に向けて、党内外の合意の取り付けのため政治の裏舞台で東奔西走します。
 昭和30年(1955)10月13日、右派と左派に分裂していた社会党が統一し、続いて、11月15日、困難と思われた保守合同が実現し、自由民主党が結成されます。いわゆる55年体制の始まりです。
 しかし、合同を果たしたものの保守勢力間の溝は深く、総裁人事がまとまらなかったため、自由・民主両党の総裁と総務会長であった鳩山、緒方、三木、大野伴睦の4人による総裁代行委員体制として始まり、鳩山が総裁に就任したのは5ヵ月後の昭和31年(1956)4月でした。
 保守合同を成し遂げた後、武吉は自民党について「10年持てば」と言っていたそうです。そして、その翌年の昭和31年(1956)7月4日、自分の役目が終わったことを自覚していたかのように静かに息を引き取りました。享年72歳でした。


●訪れてみたいところ

三木武吉の銅像
 栗林公園東門をすこし北に行ったところに立っています。

○浜ノ町の蓮華寺
 中野武営(たけなが)は、嘉永元年(1848)正月3日に、高松藩勘定奉行中野次郎兵衛武憲の子として高松市鉄砲所 (今の西通町) に生まれました。若い頃、高松藩執政職の松崎渋右衛門謀殺計画に加わろうとしましたが、父に諭され実行を断念したといいます。
 香川県史生から権少属となり、愛媛県、大蔵省、山口県を経て農商務権少書記官となります。明治14年、開拓使官物払下問題をきっかけに大隈重信らの立憲改進党創立に参加し、愛媛県議会議員、議長となります。
 実業界では東京馬車鉄道会社社長、東京株式取引所理事長、東京商業会議所会頭、日清生命保険会社社長として活躍し、旧藩主松平伯爵家の財政顧問役も務めていました。
 明治23年の国会開設以来、高松を地磐に連続7回、ついで東京から1回衆議院議員に当選し、大正3年から東京市会議員、議長を務めました。明治42年、渋沢栄一らの渡米実業団に加わり北米視察後、高松にも上水道をつくるよう勧めています。また、謡曲をよくし、書道にこり多くの揮毫を残しています。大正7年(1918)10月8日、71歳で死去。高松市浜ノ丁蓮華寺に葬られています。

○扇町の王子権現
 中野武営の筆跡による石碑があるそうです。また生家はこの神社の西隣にあったといいます。
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