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(110)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”

 13世紀の初め、アジア・ヨーロッパ大陸にまたがる大帝国をつくりあげたモンゴル民族は、チンギスハンの孫のフビライのとき、国号を元と改め、朝鮮半島の高麗を征服した後、日本に使者を派遣し朝貢を求めてきました。しかし、その時の鎌倉幕府執権・北条時宗はこの要求をすべて拒絶します。文永11年(1274)10月、元と高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後博多湾の沿岸に上陸し、日本軍と激戦となりました。ところがその戦いの最中、暴風によって元軍は大打撃をうけ、博多湾から引き揚げていきました。これが文永の役(ぶんえいのえき)です。
 その後も、フビライは執拗に日本に朝貢を求めてきましたが、時宗は頑強にこの要求を拒絶します。弘安4年(1281)5月、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の2方面から、ふたたび北九州へ攻め寄せてきました。しかし、日本軍はゲリラ的戦法で積極的な反撃を行いました。折りしも、元軍らが再度攻撃の機をうかがっていた閏7月1日、大暴風雨がこの地方一帯を襲い、元軍船は壊滅します。これが弘安の役(こうあんのえき)です。この二度にわたる日本侵略が元寇(げんこう)です。

 一方、元寇が来る少し前の頃から、東国では、日蓮(にちれん)による新しい仏教の動きが起こっていました。日蓮は、貞応元年(1222)、安房国(千葉県)の漁師の子に生まれ、16歳で出家し、鎌倉・比叡山(ひえいざん)などで学んだ後、法華経こそ釈迦(シャカ)の真の精神を伝える教えであると確信し、建長5年(1253)、故郷に帰って法華宗を開きました。次いで、鎌倉に出て辻説法を行い、天変地異の続くのを見て「立正安国論」を著し、国難を主張して執権北条時頼に直訴します。これが幕府政治を批判するものと受け取られ、伊豆(静岡県)や佐渡(新潟県)に流されます。
 後に許され、甲斐国の身延山(みのぶさん)に籠って弟子の育成にあたりましたが、病を得て療養に赴く途中、弘安5年(1282)に亡くなりました。
 日蓮は、法華経の教えに基づかない他の宗派の教えを批判したので、他宗派から迫害を受けましたが、その教えは東国の武士や農民を中心に広がっていきました。

 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、中国大陸や朝鮮半島からの攻撃に備えて、西国の守りを固めるために、多くの東国御家人を西国に転封させるという政策を講じます。甲斐国巨摩(こま)郡秋山を本領としていた秋山氏も西国へ移住した東国御家人の一族です。
 秋山氏は甲斐源氏の流れで、甲斐源氏は河内源氏三代目・源義家(八幡太郎義家)の弟の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清(武田冠者義清)のときに武田姓を名乗り、甲斐に土着した武士団です。戦国時代に活躍した武田信玄はその子孫です。
 秋山氏は、甲斐国に在住していたとき、一族のほとんどが日蓮あるいはその弟子の日興(にっこう)に帰依していました。
 日興(1246~1333)は、甲斐国の人で、日蓮が「立正安国論」を著すときにそれを助けた弟子です。日蓮六老僧の一人です。正応3年(1290)、富士山南麓に大石寺(だいせきじ)を開き、日蓮正宗など富士門流では、日蓮唯一の正統な後継者と見なしています。ちなみに大石寺は富士五山のひとつです。

 弘安年中(1278~88)、秋山光季は、幕府の命によって、西讃10か所の郷邑を領することとなり、孫の孫次郎泰忠とともに、一族を引き連れて讃岐国へ移住し、三野郡高瀬郷に居を構えます。そして、泰忠は自ら帰依していた日蓮の教えを広めるため、日興にしかるべき導師の派遣を懇願します。
 こうして、正応2年(1289)、日興の直弟子である寂日房日華(にっけ)(1252~1334)が讃岐へ派遣され、泰忠は、日華を迎えて那珂郡柞原郷田村(今の丸亀市田村町)に菩提所を建立しました。現在の田村番神がその旧跡だという伝承があります。
 ところが日華は布教に努めている途中で病にかかったため甲斐国に帰り、その後は老齢のため大石寺に留まりました。そこで、泰忠は日華の代わりの導師の派遣を日興に願い、その弟子の百貫房日仙(にっせん)(1262~1357)が讃岐に来ることとなりました。日仙は日華とともに、本六(ほんろく)といわれる日興の第一の本弟子6人のうちの一人です。
 しかし、折り悪くも田村の拠点が争乱に巻き込まれて灰となってしまったので、泰忠は三豊郡高瀬郷内の地を寄進し、正中2年(1325)に日仙を迎えて今の高永山本門寺が建立されました。

 鎌倉後期においては、讃岐の守護は執権北条氏の一門が代々務め、秋山氏も来讃当初はその配下に組み込まれていました。しかし、高瀬郷に本門寺が開かれて間もなく鎌倉幕府は滅亡し、建武の中興を経て激動の時代を迎えます。
 建武2年(1335)年、讃岐では足利尊氏側の細川氏が、当地の国人らを率いて宮方に対して挙兵しています。秋山氏もその傘下に入り、従来通り所領を安堵されます。讃岐は細川京兆家の本国地とされ、西讃岐は守護代の香川氏の支配するところとなり、秋山氏はその配下に入ります。
 その後、細川氏の衰退とともに、地元勢力である香川氏の勢力が強くなり、秋山氏は香川氏の家臣団に組み込まれて、戦国時代を過ごしていきます。

 一方、本門寺は、2世日仙の後、3世日壽、4世日山が大石寺から派遣されてきますが、5世日門以後は秋山家出身者が本門寺住職となります。文安3年(1446)までの100年間に本門寺では6箇寺ができ、本門はこれら六坊に対して、大坊と呼ばれました。これにより高瀬郷一帯の人々はそのほとんどが法華経に帰依するところとなります。

 天正6年(1578)、長宗我部元親が土佐から讃岐支配を目指して進出してくると、香川氏は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、その勢力下に入ります。これにより秋山氏も長宗我部に従うことになります。
 ところが天正13年(1585)、四国に侵攻してきた豊臣秀吉の勢力により長宗我部は土佐に追いやられ、その後、秀吉の命を受けた仙石秀久が讃岐の領主として入ってきました。これにより、香川氏の勢力は讃岐から一掃され、秋山氏も鎌倉時代以来約300年領有していた高瀬郷などすべての所領を没収されてしまいます。
 その後、江戸時代初期の生駒藩時代、四代藩主・高俊のときに、秋山氏は生駒家に仕官します。しかし、寛永17年(1640)の生駒騒動により、高俊が出羽矢島1万石へ転封されるにともない在地に帰農し、武士としての命脈を終えます。

 京都における法華宗のはじめての布教活動は、永仁2年(1294)、日蓮の弟子の日像(にちぞう)が教えを広めるために京都へ入り、皇居の東門前で東山に昇る日輪に向かって題目を唱え第一声をあげたときといわれています。当時の京都では古くから各宗派の勢力が強く、新興宗派であった日蓮宗の布教には様々な迫害がありましたが、元享元年(1321)、京都における日蓮宗最初の寺院として妙顕寺(みょうけんじ)が建立されます。その後、上方では町人を中心に法華宗が広がっていきます。
 讃岐は弘法大師空海をはじめ五大師を輩出した地で、古くから仏教の盛んなところです。このような讃岐に、東国生まれの新興仏教であった法華宗が、当時日本の中心であった京都よりも早く伝わったというのは非常に興味深い出来事です。
●訪れてみたいところ

高永山本門寺(こうえいざんほんもんじ)
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