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(109)“大坂の鴻池も舌をまいた塩飽の豪商”

 鴻池家といえばかつての関西財閥の一つですが、その発祥は、安土桃山時代の頃、摂津国伊丹村(今の兵庫県伊丹市)で清酒の醸造を始めたことによるそうです。そして、江戸時代初期、大坂から江戸へ多量の酒を海上輸送するため海運業も始めたそうです。この酒造業と海運業で財を成し、さらに大名の蔵屋敷にある年貢米などを担保にして金を貸し付ける「大名貸し」を始め、それを足掛かりに17世紀半ばに両替商も営むようになり、それが明治以降、金融財閥化したということです。

 この鴻池家も舌をまく大船持ちの豪商が、江戸時代、塩飽諸島牛島という面積0.7平方km、周囲4.2kmの小さな島に居ました。丸尾五左衛門という人物で、瀬戸内随一の豪商とうたわれ、また「内海の海上王」ともいわれました。「珊瑚の杖」という逸話の中でも、鴻池家もしのぐといわれたその富裕ぶりが語られています。元禄時代のこと、丸尾家主催の宴会に招かれた鴻池家の主人が、家宝にしている珊瑚の杖を宴席に置き忘れてしまい、あわてて引き返して丸尾家の番頭に尋ねたところ、番頭は珊瑚でできた同じような杖を両腕でかかえ、「このうち、どちらでしょうか。」と涼しい顔で尋ねたので、自分こそ日本一の商人と思っていた鴻池家の主人もこれには驚き、すごすごと帰ったということです。

 丸尾氏は、元は東氏と称する肥後(今の熊本県)の武士だったといわれています。阿蘇氏、加藤氏と仕えていましたが、江戸時代の初め頃、東勝右衛門のときに、不遇な身に愛想をつかして浪人をし、上方へ行く途中、塩飽の牛島に立ち寄りそのまま住み着いて初代丸尾五左衛門と名乗るようになったといわれています。
 加藤氏が肥後を支配したのは、加藤清正(きよまさ)が、天正15年(1587)に豊臣秀吉から肥後の北半国25万石を与えられ、熊本城を居城としたときからです。ちなみに、このとき、清正は秀吉から肥後半国と讃岐のどちらかを選べといわれ、肥後を選んだということです。肥後南半国24万石は小豆島から移封された小西行長が支配しました。関が原の戦いの後、清正が肥後一国を領有しましたが、その死後の寛永9年(1632)、息子の忠広が幕府から改易され、加藤氏は肥後を去ります。その後、肥後一国を領有したのが小倉より入った細川氏です。室町時代、讃岐は幕府管領をつとめる細川京兆家の本国地で、肥後の細川家はその支流にあたる家柄です。

 丸尾氏が牛島で廻船業を始めたのは、二代目五左門重次のときからだといわれています。重次は元禄7年(1694)に69歳で亡くなったといわれており、寛永2年(1625)の生まれと考えられます。三代将軍家光の時代の寛永15年(1638)には、島原の乱が収まって世の中が平和になり、軍兵輸送の必要もなくなっているので、重次が牛島で廻船業を始めたのはこの頃ではないかと考えられます。ちなみに、寛永19年(1642)には、初代高松藩主・松平頼重が高松に入封しています。

 17世紀後半になると、江戸の町は大きく発展しました。このため幕府は、全国に散在している幕府領年貢米である城米(じょうまい)を大量に江戸に運ぶ必要に迫られます。そこで、幕府は東北地方の城米を江戸へ輸送することとし、4代将軍家綱 の代(在位1651~1680)の寛文10年(1670)から同12年にかけて、商人の河村瑞賢(かわむらずいけん)に東廻り・西廻り航路の整備を命じます。海上輸送は一度に大量の米を運ぶことができ、しかも積み替えによる手間が省け、傷みや損失も少なくてすんだからです。
 寛文11年(1671)、瑞賢は、まず東廻り航路の開発に成功します。そのルートは、陸奥の城米を太平洋側へ運び、そこから南下して房総半島を回って江戸へ入るというもので、後には日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下しました。
 そして、翌年の寛文12年(1672)には西廻り航路の開発にも成功します。そのルートは、出羽国(今の山形県)の城米を酒田湊へ運び、日本海を南下して赤間関(あかまがせき、下関)を経て、東に瀬戸内海を航行して大坂へ至り、さらに紀伊半島を回って江戸へ入るというものです。往復の所用日数は約3箇月でした。(18世紀以降は短縮され、19世紀中期には平均2箇月、速い時には32日になりました。5月下旬に出て7月に江戸に着くように、日本海の航行には夏の静穏な時期を当てていたといいます。)
 また瑞賢は、城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること、その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇うことなどを幕府に提案します。この方策が採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。このときから塩飽の廻船業は隆盛期を迎えていきます。

 塩飽の廻船業は、元禄年間(1688~1704)の頃を中心に、5代綱吉(在位1680~1709)・6代家宣(在位~1712)・7代家継 (在位~1716)の将軍治世の時代を通して大いに栄えます。ちなみに正徳3年(1713)、塩飽では5石積み以上が472艘をかぞえ、1,500石積みなどの大型船が112艘もありました。多くの塩飽廻船が江戸や大阪など諸国の港を頻繁に出入りし、その評判は全国に知れわたります。6代家宣・7代家継の代に活躍した 新井白石も、諸国の廻船の中でも、「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず、その賀使郷民また淳朴」と、「奥羽海運記」に記しています。塩飽廻船は金毘羅大権現の旗を掲げて諸国を巡ったので、これが金毘羅さんが航海の神として全国に広く知られるようになった由来ともいわれています。

 塩飽の廻船業の中でも中心だったのが牛島です。延宝7年(1679)当時、牛島には52人の船持ちが住んでいて4万8,750石の船を所有していたといいます。その中でも丸尾五左衛門は1万1,030石の船を持ち、塩飽一の船持ちでした。
 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていき、牛島船持ち衆の長老として栄華をうたわれました。持ち船の最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだと思われます。
 丸尾家の財力は他国にも知られていたのでしょう。肥後藩主の細川家は、丸尾家から借金をしています。細川家がこの借金を返済した様子はなく、いわゆる借りっぱなしだったようです。丸尾家は肥後に対してずっと愛着を持っていたのでしょう。

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任します。塩飽廻船は引き続き城米御用船として幕府から直接雇われ隆盛を誇っていましたが、4年後の享保5年(1720)、幕府は、城米をより安全にかつ安く運ぶため、その輸送方式をこれまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更し、江戸商人の筑前屋作右衛門に御城米船の差配を行わせます。いわゆる享保の改革の一環だったのかもしれません。これにより塩飽の船持衆は、今までのように直接荷受けすることができなくなり、廻船問屋の雇船として安く下請けされるようになりました。以降、塩飽の廻船数は急激に減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)にかけて45から49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。

 しかし、塩飽廻船が全く無くなったわけではなく、寛保年間(1741~44)頃からは、米の輸送だけでなく、土地の特産品である塩・砂糖・酒・醤油・むしろ、などを積み込んで、港々に立ち寄って販売しながら東北・蝦夷地の北国へ行き、帰路は米を第一に干魚・昆布・にしん・織物などを積んで、大坂などで商売をしていたようです。このように大坂と北国を日本海航路で往復した廻船を「北前船」といい、明治中頃まで塩飽をはじめ讃岐の各港でもみられました。北前船の寄港地だった日本海側の港町には、「塩飽屋」という屋号のある商家や、塩飽衆の墓が残された寺など塩飽衆の足跡を見ることができるそうです。

 18世紀後半には、塩飽の廻船業は衰えていき、17世紀後半から18世紀初めにかけてみられたような隆盛を迎えること二度とありませんでした。幕府から直接御城米輸送を請け負っていた頃は、廻船業が塩飽の産業で、船乗りや造船・船の修理などで多くの人が生計を立てていました。しかし、廻船が減少したの頃には、それまでの船大工の技術を生かして家大工や宮大工へと転身し、瀬戸内海沿岸を中心に他国へ出稼ぎに出、塩飽大工と呼ばれました。島の中は老人や子供ばかりになっていたといわれています。牛島の長徳院極楽寺には、明和2年(1765)に塩飽の年寄から江戸勘定奉行へ差し出された「塩飽島諸事覚」という書類が残っているそうですが、その中には、「島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は12、3歳から他国へ出て水夫をしたり、多くの者は大工職として近国に出稼ぎに出た」と記されているそうです。

 丸尾家も五代目の時から衰退がはじまったといわれています。文政5年(1822)、丸尾家の没落をみかねた牛島の船頭たちは、丸尾家が多額の金を貸していた肥後の細川家に対して、銀223貫900匁の返還を請求したといわれています。しかし、細川家からは一文の返済もなかったそうです。ただし、細川家も、心苦しく思っていたのかもしれません。領主自らが参勤交代の途中、牛島にお忍びで立ち寄り、丸尾家に侘びたといわれています。
 このほかにも、牛島には、丸尾五左衛門にまつわる言い伝えが残されています。一つは「無間(むげん)の鐘」という話で、次のようなものです。牛島では、極楽寺にある鐘をつく者はたちまち巨万の富を得て栄華を極め、人生無上の福に恵まれるが、その栄華の後には必ず災難がきて、生きながらの無間地獄に陥る、といわれていました。このため誰もこの鐘をつく者はおらず、「鳴らずの鐘」と呼ばれていました。ところが、この島にやって来た五左衛門はこの鐘をついてしまいました。このため五左衛門はこの世の極楽と思われる富を得たが、まもなく地獄の没落を味わった、ということです。
 また、次のような言い伝えもあります。ある年の正月、五左衛門は、牛島の沖から大槌島まで船を並べてその数を数えようとしたが、数え終えないうちに日が暮れそうになってしましました。そこで、金の扇で「しばらく待ってくだされ」といって太陽を招き返したところ、少し昇ってきたので船を数え終えることができました。しかし、そのことが船霊(ふなだま)様や太陽の怒りにふれ、その夜のうちに海が大しけになって船が沈んでしまい貧乏になってしまった、ということです。
 この丸尾五左衛門の言い伝えは、塩飽の栄華と没落の物語を語っているのでしょう。
●訪れてみたいところ

 牛島は丸亀市の北7.7km、塩飽諸島中4番目に小さな島です。里浦と小浦の2集落があり、ノリ、ワカメを中心とした養殖漁業と、瀬戸内の温暖な気候を利用した温州ミカンの栽培が主要産業となっています。

丸尾五左衛門の屋敷跡
 牛島の里浦の中央、海岸に面したところに、丸尾五左衛門の屋敷跡があります。当時の豪邸が偲ばれる立派な花崗岩の礎石が残っています。

○極楽寺
 丸尾家歴代の墓があります。本堂は立派な構えですが、今はもう軒が傾き、荒れほうだいとなっています。観音堂は牛島出身者らの寄付などにより、平成7年に再建されました。丸尾五左衛門の伝説が生きる「無間の鐘」が現存しています。

○お成り門
 肥後の細川の殿様が参勤交代の途中、牛島にお忍びで立ち寄ったとき、「お成り門」を作って出迎えたといいます。この門は移され今も残っているそうです。
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テーマ : 香川
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丸亀の昔話にもなっています。
http://marugame.town-web.net/(丸亀の民話)

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