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(108)“桂小五郎ら勤王志士と親交のあった高松藩主の兄”

 幕末、讃岐にも勤王の志士がおり、水戸や長州の志士たちと連絡をとりながら活動していました。高松藩士の勤王家としては、長谷川宗右衛門(そうえもん)と息子の速水(はやみ)、甥の松崎渋右衛門(しぶえもん)の長谷川一族、在野の草莽の志士としては、小橋安蔵(こばしやすぞう)を中心とする木内龍山(りゅうざん)、村岡箏子(ことこ)、小橋橘陰(きついん)、太田次郎、小橋友之輔(とものすけ)、村岡宗四郎の小橋一族が高松と丸亀で活動していました。それに藤川三渓(さんけい)がいました。また金毘羅の草莽の志士としては、日柳燕石(くさなぎえんせき)を中心とする長谷川佐太郎(さたろう)、美馬君田(みまくんでん)、奈良松荘(しょうそう)らのグループが活躍していました。丸亀藩士では土肥大作と七助の兄弟がいました。
 これら讃岐の勤王志士を庇護したのが高松10代藩主・松平頼胤(よりたね)の異母兄・松平左近(さこん)です。高松では、よい意味でのへそ曲がりとか、一徹な人のことをもじって「左近さん」と呼びますが、左近は、高松松平家の中でもきわめてユニークな存在です。

 松平左近は、高松8代藩主・松平頼儀(よりのり)の長男として、文化6年(1809)に、江戸小石川の高松藩邸で生まれました。幼名を道之助、名を頼該(よりかね)、号を金岳といいます。
 左近は、神田の鬼子母神(きしもじん)に安産を祈願して生まれたので、その申子であるといわれたそうです。長男であるにもかかわらず8歳のときに廃嫡されて国元の高松へ帰されます。廃嫡されたのは、左近には母が異なる姉の倫姫(みちひめ)と弟の貞五郎がいましたが、頼儀が倫姫の婿に水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし)の次男・頼恕(よりひろ)をむかえて高松9代藩主とし、次の高松藩主を倫姫と母が同じ貞五郎(後の頼胤)としたためです。
 以後、左近は高松で過ごし、政事にはかかわらず学問などに励みます。幼い時から聡明で学問好きだったといわれており、また武道もすぐれ、文武両道の人物だったようです。

 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、松平頼胤(よりたね)が10代藩主になります。この頃、左近は隠居して、城内の邸宅から城下の宮脇村にある亀阜荘(かめおかそう)に移り住み、「宮脇様」とも呼ばれています。31歳の頃だといわれています。家禄は2500石でした。
 左近と頼胤は4つ違いの腹違い兄弟ですが、幕末の動乱期に全く対照的な人生を歩みます。弟の頼胤は高松藩主として、溜間詰(たまりまづめ)という老中と列座する幕政中枢の要職を占め、井伊直弼らとともに幕府保守派として幕府権威の維持に奔走します。このため、攘夷・一橋派の頭目である水戸の徳川斉昭(なりあき)とは仲が悪かったようです。頼胤の藩主在任は20年近くに及びましたが、幕政に関わったことから、ほとんど江戸暮らしでした。
 これに対して兄の左近は、政事にはかかわれない立場から、学問や趣味の世界に沈溺し、かなり自由な生活をしていたようです。書・画・和歌・俳句・華道・茶道など、それぞれに達人の域に達し、その才覚は藩中で及ぶ者なしといわれました。亀阜荘では、能や芝居の舞台をつくり、小国広太郎という変名を使い自ら女形の役を演じて庶民にも公開したので、「左近さん」と親しまれていたそうです。さらに、法華宗の熱心な信者で、高松八品講を組織しています。仏典の研究も深く、寺での法話は坊さん以上だったといいます。
 また、左近は国史を読み、楠木正成を思慕していたといい、若い頃から尊王思想をもっていたようです。江戸へ出向いたとき、長谷川宗右衛門の引き合わせで水戸まで足を運び、徳川斉昭と国事を語り合い、斉昭に心服したといわれています。その影響から、佐幕派が主流を占める高松藩の中にあって、唯一、勤王家たちを陰で庇護した人でした。
 しかし、左近と頼胤の仲は、藩主継承の順番が逆になり、その考え方も正反対であったにもかかわらず、悪くはなかったようです。城内での会食のとき、どちらが先に食事をするかで双方が譲り合いをするために事が前に進まず、困った侍女たちが二人同時に食事をすすめたという話も伝わっています。

 左近は多くの勤王家と交友関係を持っていたようですが、左近が用いた人物の一人が藤川三渓です。三渓は、26歳のとき、長崎に行き、そこで砲術、兵術、築術、捕鯨術を学びます。その後、讃岐に帰り医者をしていましたが、海防の必要なことを報告するなど左近を助けて力を尽くします。
 嘉永3年(1850)、左近は金毘羅の勤王家である日柳燕石(くさなぎえんせき)の拝謁を受け、燕石を三渓に引き合わせています。
 また、文久3年(1863)6月、左近は三渓が献策した農兵取立てを取り入れ、試みに農兵の訓練を命じています。総勢545人の農兵隊は「龍虎隊」と名付けられ、左近は手製の軍旗を与えて激励しています。そして、三渓は屋島の長崎の鼻に砲台をつくり「震遠砲」(しえんほう)と名づけ、この砲身に自作の詩を彫刻したといいます。
 しかし、三渓の積極的な行動は藩内保守派の反感をかい、文久3年(1863)の「八・一八の政変」による尊王攘夷派の京都での失脚により、10月から以後6年間、鶴屋町の獄に繋がれます。後、日柳燕石が高杉晋作を匿った罪で美馬君田(みまくんでん)とともに入牢してきたときには、三渓は手製のこよりで編んだ敷物を燕石に贈ったといわれています。獄中で3人とも「皇国千字文」を著しています。
 当時、亀阜荘は、讃岐における勤王派の情報拠点基地のような存在だったらしく、国内外の勤王志士が出入りし、左近も長谷川宗右衛門、松崎渋右衛門、小橋安蔵、日柳燕石らと親交を結んだようです。
 さらに、左近は讃岐国外の勤王の志士も助け、その庇護に努めています。なかでも、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らとの交渉は深く、また備前の藤本鉄石、越後の長谷川正傑らは高松に来て、小橋安蔵の紹介で会見をしています。一方、土佐の中岡慎太郎、石田英吉や公卿の沢宣嘉らもしばらく左近の邸内に潜伏していたといわれています。

 慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いによって高松藩が朝敵になり、官軍の土佐藩兵が高松征討に向かって進軍してきた際、藩内は官軍を向かえ討つべしという抗戦派と、恭順すべしとする和平派が対立し、3日3晩にわたる激論となります。抗戦派の主張が優勢になりかけたとき、左近は、儒学者藤沢南岳の献策をいれ、病の身ながら抗戦派を一喝して押さえつけ、藩内を恭順論に統一しました。これにより高松の御城下は戦火から救われました。
 最後の力を出し切ったのか、この年の8月6日、左近は病のため亡くなりました。享年60歳でした。
 しかし、高松藩内の対立は左近の死後も続き、佐幕派が勤王派の松崎渋右衛門を謀殺し、それを隠蔽するという事件が起きています。もし、左近がもっと長生きしていたならば、このような陰惨な事件は起きていなかったかもしれません。

 なお、この記事をお読みになるに当たっては、次の記事も参考にしてください。
○“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”(27)
○“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤王僧”(24)
○“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”(105)
○“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”(106)
○“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”(107)
○“高杉晋作をかくまった侠客の勤王志士”(34)
○“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”(28)


●訪れてみたいところ

○高松城

○亀阜小学校
 亀阜小学校は松平左近が住んだ亀阜荘のあった地で、明治5年4月1日に県学亀阜学校が設置されたのが始まりです。校門前に「松平金岳公子亀阜荘旧跡」の石碑があります。

○本堯寺
 高松市西山崎町にある松平左近の菩提寺です。

○三渓小学校
 高松市三谷町にある小学校は「三渓小学校」と名づけられていますが、これは藤川三渓の名からつけられたものです。高松市内で人物の名前が校名になっているのは、この小学校だけです。
 藤川三渓は、文化13年(1816)、山田郡三谷村(現在の三谷町)に生まれました。幼い頃から学問の道にすぐれ、14歳の時、経史を学び、神童と言われるほど漢文にくわしい知識をもっていたそうです。また、学問だけでなく、体をきたえるため武道にも励んだといわれています。
 三渓は釈放された後、奥羽征伐軍艦として、官軍に加わり活躍しました。また、日本が四方を海に囲まれていたことから「海国急務説」を提言しました。明治6年(1873)「開洋社」という水産会社を設立し、さらに、讃岐のサトウキビから砂糖をつくる技術を広めようと千葉県で開墾事業を始めたり、長崎へ勉強に行ってから研究をしてきた西洋式の捕鯨技術を取り入れ、東京、大阪に水産学校を設立しました。
 明治22年(1889)には「捕鯨図鑑」を出すなど、日本水産界の先駆者として大活躍しました。現在は青山墓地に埋葬されています。著書「捕鯨図識」があります。この本は、水産学校の教科書として明治22年に出版されました。明治24年(1891)73歳で没。
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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 みふみさんへ 
 コメントありがとうございます。讃岐の歴史や文化のことををネタにしてどこまで面白く書けるものかと続けています。ネタが尽きれば終わりです。
 観光ガイドブックになるように、物語と訪れてみたいところを結び付けているつもりです。
 またお寄りください。
          出来屋二郎
 

はじめまして。生まれも育ちも讃岐藩のみふみと申します。
日柳燕石で検索してこちらにお邪魔しました。まだすべて読んではないのですが、讃岐藩もけっこう維新の荒波にもまれていたのですね~!そして名だたる幕末の志士達と交友があったものびっくりです。これからすこしづつ読んで勉強したいです。
讃岐の方言もおもしろく読ませていただきました!「つか」とか大好きです(笑)「ぬくい」も方言なんですよね?
(大阪で通じませんでした…)讃岐地方の方言なんでしょうか?他にも紹介してくれたらうれしいです。
ではまた遊びにきます。

讃岐幕末勤王史

 今回の記事でいちおう讃岐幕末勤王史の連載は終了させていただきます。
 高松藩はコチコチの佐幕派だと思っていましたが、けっこう勤王家が活躍してることに筆者も驚きました。
 現在の亀阜小学校のある地が讃岐勤王家の拠点だったというのは面白い発見でした。
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