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(107)“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”

 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)は、幕末の元治元年(1864)7月19日、京都での勢力の挽回を図る尊王攘夷急進派の長州藩と、御所を守る会津藩、薩摩藩を中心とした公武合体派幕府軍との間における戦いです。御所の西側に位置する蛤御門付近で特に激しい戦闘が行われたことからこの名で呼ばれ、禁門の変、元治の変、元治甲子の変とも呼ばれます。この戦いには、当時19歳の小橋友之輔(とものすけ)という讃岐人が長州軍に従軍し、戦死しています。

 小橋友之輔は、香川郡円座村に住む小橋安蔵の次男として生まれます。祖父の小橋道寧は、高松藩儒菊池縄丈に学んだ後、江戸に出て昌平坂学問所に学び、さらに和歌山の華岡青洲に医を学んだという、当時、最高の学問と教養を身につけていた人でした。
 道寧には、長男安蔵、次男順二(文化8年(1811)生)、長女箏子(ことこ、文化12(1815)生)、四男多助(文政5年(1822)生)らの子供がいました。
 長男の安蔵は、伊藤南岳について漢学と数学を修め、のちに大坂や江戸に遊学して古賀洞庵・大槻磐渓らと交わり啓蒙を受け、尊王攘夷思想を持ちます。その立場から、嘉永4年(1851)、10代藩主・松平頼胤のときに、貧民の救恤(きゅうじゅつ)と海防の強化を高松藩へ建言しています。
 次男の順二は木内家に養子に入り、龍山と号します。兄と同じく伊藤南岳に学び、兄の相談相手として思想面から大きな働きをしました。儒学、歴史に関心が深く、多くの著述を残しています。
 長女の箏子は17歳で、丸亀の銀札出納係りを勤めていた村岡家に嫁ぎ、夫の死後は醤油醸造業を営み、兄らの尊攘運動を経済的も援助しました。箏子には宗四郎という息子がいました。
 四男の多助は、橘陰(きついん)と号し、大坂で藤沢東畡(とうがい)に学び、のち、江戸に出て古賀洞庵に入門します。江戸市中の動静や幕府の動きなどを兄に知らせ続けました。
 また、安蔵の娘婿の太田次郎も尊攘運動に身を挺します。次郎は、木田郡田中村の医者太田敬輔の次男で、父から漢学と製薬理学を、また久米栄左衛門の弟子である叔父の飯間八郎に火術を学んでいました。
 このような環境に育った安蔵の次男の小橋友之輔と箏子の息子の村岡宗四郎は、若い頃から父、叔父、叔母らとともに尊攘運動に身を捧げました。
 小橋一族は、安蔵を中心にして草莽の志士として一門あげて勤王家として活躍し、京畿の長州勤王志士の間では「讃岐名和氏」と呼ばれていました。

 嘉永6年(1853)6月ペリーが浦賀に来航し、翌年1月再来航して3月3日に日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と函館の2港が開港されます。ここに、200年以上続いた幕府の鎖国政策は崩れます。
 この頃、小橋安蔵は尊王攘夷論者として讃岐の外でも知られていたようで、安政元年(1854)4月、安蔵47歳のとき、越後長岡の志士・長谷川正傑(しょうけつ)がやってきて、弟の木内龍山、娘婿の太田次郎らとともに時事を論じ、尊王攘夷に努めることを約しています。このとき、安蔵は箏子に依頼し、正傑を丸亀に潜伏させています。正傑は、翌年にも来讃し、安蔵に勤王の義兵を挙げるよう持ちかけます。安蔵はこれに応じ、軍備充実のための武器を提供することを約しています。

 安政5年(1858)9月、安政の大獄が始まり、尊王攘夷論者に弾圧が加えられます。これに対する反動として、安政7年(1860)3月、桜田門外の変が起こり、大老・井伊直弼が暗殺されます。
 この後、幕府は、その権威を回復するため、朝廷と幕府が協調して政局を安定させようという公武合体政策を進め、文久元年(1861)11月、その象徴として、の将軍家降下が決定されます。しかし、この強引な政略結婚に尊王攘夷論者は激しく反発し、翌年の文久2年(1862)1月、坂下門外の変が起こります。
 この頃、安蔵は太田次郎を丸亀の村岡箏子のところへ行かせ、箏子と宗四郎とともに、ガルバニ電器、臼砲3門、弾丸数百発、硝薬、刀百振り、槍15筋、甲冑8領などを整えさせ、村岡宅に隠しています。村岡家では居間の床下に地下室を掘り、東西に3.6m、南北に2.7m、深さ約1.8mの大きさ、周囲には花崗岩の切り石を敷き、底は漆喰で塗り、外部は豊島石で蓋をしていました。その家は現在の丸亀市魚屋町にありました。

 文久2年6月、幕政の混乱をみた薩摩の島津久光は、江戸に赴き改革を要求します。幕府はその意向を入れて、徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁に任命します。また、安政の大獄以来の処罰者を赦免します。これを文久の改革といいます。なお、久光の薩摩への帰途の8月に生麦事件が起きています。
 一方、この頃、長州藩は、中下級藩士の主張する尊王攘夷論を藩論とし、三条実美ら尊攘派公家と結んで、朝廷内部での主導権を握ります。この結果、朝廷の主流は、再び公武合体派から尊攘派に移り、攘夷実行の遵守を決定します。文久2年(1862)12月、孝明天皇が攘夷の勅書を将軍徳川家茂に授け、家茂はやむを得ず翌年3月に攘夷を決行する旨を奉答します。これにより、諸国の攘夷運動は大いに盛り上がります。

 文久3年(1863)3月、将軍家茂が上洛し、孝明天皇は攘夷祈願のため上下両賀茂社と石清水八幡宮へ行幸します。この頃、安蔵は、高松藩に再度上書して、幕府の攘夷決定という情勢下における武備の充実と正道一元、農民の救済、農兵取立てを強く要請しています。
 ところが、幕府が攘夷を決行しないため長州藩をはじめとする攘夷派は憤慨し、朝廷も幕府に攘夷の決行を迫ります。やむなく、幕府は5月10日をもって攘夷を決行すると答えますが、実行しませんでした。しかし、長州藩は下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して遂に攘夷を決行します。これが下関戦争です。また7月には、イギリス軍艦が、生麦事件の報復として鹿児島に砲撃し、薩英戦争が起きます。

 攘夷の機運が盛り上がる中、長州藩は、三条実美ら過激派公家と、8月に孝明天皇が大和行幸、攘夷親征を行い、幕府を追い詰めようと謀っていました。この計画は、天皇が大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命じ、幕府がこれに従わなければ長州藩が錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に倒すというものでした。
 この頃、讃岐では、長谷川正傑、野城(のしろ)広助らが高松円座の安蔵のところに来て、すぐ丸亀の箏子の方に移っています。安蔵は時期が熟したとして軍資金2千両を用意し、武器を点検させています。
 文久3年(1863)8月13日、孝明天皇により大和行幸、攘夷親征の詔勅が出されます。このとき、吉村寅太郎らは京都東山の方広寺で、公家中山侍従忠光を大将とする天誅組を旗挙げし、大和行幸の先鋒となるべく大和国へ向かいます。天誅組は8月17日には五條代官所を襲撃し、五條御政府を樹立します。これは武力による最初の倒幕決行でした。金毘羅の日柳燕石(くさなぎえんせき)も天誅組の挙兵に参加する予定でしたが、病により実行できなかったといいます。
 この頃、京都から特使が村岡宗四郎の導きで高松円座の安蔵のところに来て、天皇の大和行幸、攘夷親征を告げます。これに呼応して、長谷川正傑、小橋友之輔、太田次郎、野城(のしろ)広助、美馬君田らは、村岡家に隠しておいた武器弾薬を船に積み込み丸亀を出港し、京都に向かいます。安蔵、龍山、宗四郎はあとを追って出発する予定でした。

 ところが天誅組が大和で意気をあげていたとき、京では政局が一変します。当時長州藩と対立していた薩摩藩は、倒幕の計画を察知し、藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩や公武合体派の公家らと連帯してこの陰謀を潰し、朝廷における尊攘派の長州勢力を一掃しようと巻き返しを図ります。孝明天皇も尊攘派の振る舞いを快く思っていませんでした。
 8月18日深夜、会津・薩摩などの藩兵が御所の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らと、京都守護職松平容保、所司代稲葉正邦らが参内し、攘夷親征の延期、三条実美ら尊攘派公家の排除、長州藩の京都からの排除、長州藩士の御所出入りの禁止などを孝明天皇に上奏して裁可されます。この「八・一八の政変」により朝廷の実権は再び公武合体派に移り、攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人は朝廷を追放され、長州藩兵とともに翌日の暁に京都を退去して長州へと向かいます。いわゆる「七卿落ち」です。この事件は、公武合体派によるクーデターでした。なお、京都での政変により天誅組は暴徒と決め付けられ、幕府から追討され、9月25日に壊滅します。
 この政変で安蔵らの決起行動も中断してしまいます。しかし、太田次郎と小橋友之輔は長州藩兵と行動を共にします。10月27日、安蔵は、攘夷親征のとき従軍を策謀したことが高松藩に発覚し、獄につながれ武器類もすべて没収されます。
 しかし、尊王攘夷の流れは止まず、翌年の元治元年(1864)3月には水戸藩士藤田小四郎らが筑波山で挙兵しています。一方、安蔵は、5月25日、許されて出獄しますが、その後自宅拘禁が続きます。

 元治元年(1864)6月、長州藩士らが新撰組に襲われ惨殺されるという池田屋事件が京都で起こります。この事件により、長州藩では、会津・薩摩を討つべしという強硬派が主導権を握り、7月に尊王攘夷派の勢力回復をねらい、長州軍約3000人が京都へ向かって進軍します。
 この軍のうち、約1600人は各地の尊王攘夷志士による浪士隊で、その指揮には久留米の神官・真木和泉守(まきいずみのかみ)と吉田松陰の弟子の久坂玄瑞(くさかげんずい)そして長州藩士の来島又兵衛(きじままたべえ)が当たりました。
 この浪人隊の中には、讃岐の出身の太田次郎と小橋友之輔が従軍していました。友之輔は、行軍の途中、丸亀に立ち寄り、叔母の箏子に「年月を空に過せし大丈夫の、散て匂はん大和魂」の辞世の句を託し、箏子は「大君の御為とならばながらえて、なお年久に心尽くせよ」と返し、死を急ぐのを戒めています。

 元治元年7月19日、長州軍は洛中に突入し、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と御所の蛤御門や堺町御門(さかいまちごもん)附近で激戦となります。このとき高松藩は小御所を守り、また長柄川の警備に当たっています。
 戦いは一日で終わり、長州軍の惨敗となります。その戦死者は265名ともいわれています。最大の激戦地となったのは蛤御門で、この門を守っていたのは会津藩でした。長州藩にとって、会津藩は8月18日の政変の首謀者の一人であり、池田屋事件で多くの同志の命を奪った新選組を抱えている仇敵でした。長州軍の戦意と進撃は激しく、会津藩の守りを突破して、一時は御所内に進入したほどでした。しかし、西郷隆盛が率いる薩摩藩が応援に駆けつけたために戦局が逆転し、長州軍は敗れて敗走しました。
 このとき、太田次郎と19歳の小橋友之輔が長州軍に従軍し、戦いに加わっていました。この戦いで友之輔は7月19日に堺町御門で戦死しました。次郎は重囲を脱して逃れ、後帰郷しています。

 慶応元年(1865)正月、安蔵は、友之輔が長州軍に加わったことにより再び投獄されます。これに連座して、村岡宗四郎も自宅拘禁されます。幽囚の生活の中で宗四郎は体を痛め、吐血して衰弱し、慶応3年1月、21歳の若さで没しました。このとき、母箏子は、「あさからず、御国をおもう真こころの、身のあだとなる世こそかなしき」と、その悲痛の嘆きを詠っています。またこの年11月、木内龍山も57歳で没しています。
 慶応4年(1868)正月、安蔵は、高松藩征討の際に出獄を許されます。在獄3年でした。しかし、なお活動を続けていたようで、6月には、丸亀の土肥大作らと謀り、松崎渋右衛門を出獄させています。
 明治2年(1869)6月、安蔵は、高松藩庁より積年の勤王の志厚きを賞され、10人扶持を与えられます。ところが、9月に松崎渋右衛門が謀殺されると、親交があったとして再び獄につながれます。翌年の明治3年7月には箏子が56歳で亡くなります。安蔵が自由の身になったのは明治4年のことで、翌年6月に65歳で亡くなります。最後に残った小橋橘陰(きついん)が江戸で亡くなったのは、明治12年、58歳でした。

●訪れてみたいところ

○高松市円座町小橋家墓地
○高松市古高松小学校木内龍山記念碑
○丸亀市の正宗寺
 丸亀市前塩屋町にある13世紀前半に建てられた寺で、「貞靖孺人墓」と刻まれた村岡箏子の墓があります。
○丸亀城の勤王碑
 丸亀城天守閣の下、月見櫓附近に勤王碑が建てられています。丸亀出身の二人の勤王の志士、土肥大作と村岡宗四郎を記念したものです。
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テーマ : 香川
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方広寺山号 = |宗派 = 天台宗山門派|本尊 = 大日如来|創建年 = 文禄4年(1595年)|開基 = 豊臣秀吉|別称 = |文化財 = 梵鐘(重要文化財)石塁・石塔(史跡)}}方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立された。大日如来、大黒天を祀

京都御所京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある御所。もともと平安京での正式な皇居は平安京の中央部付近に位置する内裏であったが、戦乱などによって荒廃したために里内裏に移った。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、のちに北朝と呼ばれることに

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蛤御門の変について

我が家の先祖に蛤御門の変に参戦した記録があり、古文書を開いてみると、足軽、山足軽を集めているが、この山足軽とはどんな身分で何をしていたのか?
お教え戴けないでしょうか。
又、勘定奉行谷本宗次郎に従事しているが、この奉行はいかなる身分でしょうか?
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