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(105)“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”

 安政の大獄は、幕末の安政5年(1858)から翌年にかけて、幕府の大老井伊直弼が、日米修好通商条約の調印に反対した攘夷派や、紀州藩の徳川慶福(よしとみ、後の家茂)を将軍継嗣(けいし)とすることに反対した一橋派に対して行った弾圧事件です。この事件のとき、讃岐の勤王家である長谷川宗右衛門(そうえもん)とその息子の速水(はやみ)は、吉田松陰が入れられていた同じ獄に繋がれていました。
 長谷川宗右衛門は享和3年(1803)の生まれで、速水はその次男です。宗右衛門の甥には文政10年(1827)生まれの松崎渋右衛門(しぶえもん)がおり、彼らは高松藩勤王派の一角をなしていました。

 文政9年(1826)、長谷川宗右衛門は高松9代藩主・松平頼恕(よりひろ)の江戸詰めの近侍として仕えます。頼恕は水戸藩の出身で、水戸9代藩主・徳川斉昭(なりあき)はその実弟にあたります。
 水戸藩では、学問好きの光圀のときから「大日本史」の編纂事業に着手しており、この事業を続けて行く間に、藩内では次第に、後にいわゆる水戸学と呼ばれる学問ができあがっていきました。水戸学は、18世紀の始め頃までは、儒学の大義名分の見地から皇室崇拝を説く思想にすぎませんでした。
 ところが、8代・治紀(はるとし)から9代・斉昭の時代にかけ、藤田幽谷(ゆうこく)、会沢正志斉(あいざわせいしさい)、藤田東湖(とうこ)たちが現実の政治、経済の問題を取り上げ、封建支配が長期にわたって続いたために現れてきたほころびに対して、ゆるんだ忠道徳の喚起を強調し、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようと主張しました。これにより従来からの尊王論と攘夷論が結び付けられ尊王攘夷思想が形成されました。
 斉昭自身も熱心な尊王攘夷論者で、藩校として弘道館を設け、藤田東湖などを登用して藩政の改革を推進します。しかし、尊王攘夷思想は、開国以後、幕府に国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、反幕的色彩を強めていきます。

 斉昭の兄の松平頼恕も水戸出身らしく、「大日本史」の続編ともいえる歴代天皇の事績を編年体で記した「歴朝要紀」の編集や、崇徳上皇の遺跡を整備するなど、水戸光圀の流れをくむ学問・思想を踏襲します。また、久米通賢の建議を取り入れて坂出塩田を開くなど藩財政の建て直しにも努めています。
 長谷川宗右衛門は、頼恕の江戸詰め近侍として仕えることになった頃から、徳川斉昭の側近に仕える藤田東湖をはじめとする水戸の勤王家たちと接触し、尊王思想を深めていきます。宗右衛門の感化によりその息子の速水と甥の松崎渋右衛門も勤王家として育っていきます。渋右衛門は水戸弘道館でも学んでいます。
 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、松平頼胤(よりたね)が10代藩主になります。頼胤にとって水戸の徳川斉昭は義理の叔父に当たります。

 嘉永6年(1853年)6月、ペリーが浦賀に来航し、国内は開国論と攘夷論に分かれます。幕閣保守派の一角を占める頼胤は開国止むなしとする立場にたち、攘夷を主張し幕政を非難してその改革を要求する斉昭と対立していきます。
 一方、斉昭に心酔する長谷川宗右衛門は、安政2年(1855)、「海防危言」(かいぼうきげん)を著して斉昭や越前藩主・松平慶永(よしなが)、公卿の三条実方(さねつむ)に献じ、翌年には尊王論者の梁川星巌(やながわせいがん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、梅田雲浜(うめだうんびん)らと接触します。
 将軍継嗣問題も絡み高松藩と水戸藩の対立は極めて険悪となっていき、当時江戸詰めをしていた宗右衛門は両藩の確執を解くため懸命に奔走します。しかし、斉昭寄りだということでかえって頼胤の怒りに触れ、安政4年(1857)、ついに、同じく江戸詰めをしていた甥の松崎渋右衛門とともに帰藩のうえ謹慎を命じられます。

 翌安政5年(1858)6月、大老井伊直弼は朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約に調印します。これに端を発し、幕閣保守派と徳川斉昭ら攘夷派との対立は抜き差しならない深刻な状況となります。
 同年8月、高松で謹慎中の長谷川宗右衛門は脱藩して京都に向い、そこで数日滞在して梅田雲浜、頼三樹三郎、月照らと密かに会合した後、江戸に向かいます。数日後、雲浜が幕府に捕縛され、安政の大獄が始まります。その後、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らの勤王志士が次々と捕縛されて江戸に送られ、伝馬町の獄などで詮議を受けた後、切腹・死罪など過酷な刑に処せられていきます。
 宗右衛門に対しても、高松藩が追捕を幕府に依頼し、探索の手がのびてきます。宗右衛門は江戸から水戸へ行き潜んでいました。このとき、息子の速水も高松を脱して水戸に向かい、親子は水戸でしばらくぶりの対面を果たします。しかし、親子はたちまち別れ、速水は父の助命を嘆願するため江戸藩邸に自首します。
 一方、宗右衛門は丸岡淪(しずむ)と変名し、京都に潜入します。しかし、勤王の同士たちが捕らえられたこと知り、ついに大坂藩邸に自首します。宗右衛門は江戸に護送され、速水とともに、伝馬町の獄に繋がれます。また、高松に居る甥の松崎渋右衛門も不遇の日が続きます。

 このとき、江戸の伝馬獄には吉田松陰がすでに繋がれていました。松蔭は、萩で松下村塾を開いたことでよく知られています。速水は松蔭と同じ西揚場に留置されます。しかし同じ獄にいながら言葉を交わすことはできませんでした。
 松蔭はのち処刑されますが、その前々日から前日にかけて「留魂録」(りゅうこんろく)という遺書を弟子たちに残しています。この中で、松陰は、宗右衛門と牢獄で行き違ったとき、彼が独り言のようにして言った次の言葉を書きとめています。
 「讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫め、宗藩水家と親睦の事につきて苦心せし人なり。東奥揚り屋にあり、其の子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科何たる未だ知るべからず。同志の諸友、切に記念せよ。余始めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法隻語を交ふることを得す。翁独語するものゝ如くして曰く、『寧為玉砕勿為瓦全』と、吾甚た其の意に感ず。同志其之を察せよ。」
 「寧為玉砕勿為瓦全」とは、「寧(むし)ろ玉(ぎょく)となりて砕(くだ)くるとも、瓦(かわら)となりて全(まった)かるなかれ」と読み、自分の命を全うするために、つまらない瓦となって長生きをするよりも、むしろ玉となって玉砕しなさい、すなわち、平々凡々と人生を終わるも良いが大義のために終わることはもっと大事であると、という意味です。勤王の志を同じくする者として、宗右衛門の言葉に松蔭はいたく感じ入ったのでしょう。
 安政6年(1859)10月、宗右衛門、速水の親子は、ともに高松に帰され、鶴屋の獄に移されます。翌年の万延元年(1860)、速水は獄中で血を吐いて亡くなりました。

 安政の大獄により、幕府は一時的に尊王攘夷派の勢力を削ぐことができましたが、結果は、その意に反し、水戸藩、薩摩藩を攘夷へ、尊王派の志士達を討幕の道へと駆り立てていくことになります。
 万延元年(1860)、井伊直弼は桜田門外の変により暗殺され、翌年、頼胤は病を理由に隠居して家督を頼聰に譲ります。さらに、文久2年(1862)1月には坂下門外の変が起こり、幕府保守派の力が衰えていきます。同年11月、長谷川宗右衛門は赦免されて出獄します。また、甥の松崎渋右衛門も家老となって再び活躍の機会が与えられます。
 しかし、元治元年(1864)7月蛤御門の変が起こり、尊王攘夷派の長州藩が朝敵となるとまた情勢が一変します。渋右衛門は家老を罷免されて閉門蟄居を命じられ、翌年の慶応元年(1865)2月には頼聰(よりとし)を廃するという謀反の嫌疑をかけられて鶴屋の獄に繋がれます。
 その後の慶応4年((明治元年)1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、高松藩は朝敵となり、宗右衛門は朝廷や長州藩との周旋嘆願に奔走します。しかし、かえって藩内保守派の中傷を受け、再び囚われの身となります。
 宗右衛門が出獄を許されたのは、明治2年(1869)2月のことです。同じ頃、甥の渋右衛門も出獄し、藩政に復帰して、神櫛王陵を修復し、満濃池を修築するなどの施策を進めます。しかし、同年9月8日、渋右衛門は藩内保守派の不満分子により、高松城内桜の馬場で謀殺されました。
 明治3年(1870)、速水と渋右衛門を失った宗右衛門は、皇居を拝してから死にたいと、病身の身をおして船で大坂に向かいますが、その途上、68歳で亡くなりました。
 高松藩では渋右衛門の死を自殺として隠蔽していましたが、その後の明治新政府の取調べにより、それは藩内保守派による謀殺だということが発覚し、明治4年4月、謀殺に関与した高松藩士が新政府により処断されました。時代の変わり目に起きた事件とはいえ、佐幕派が主流派を占めていた高松藩内で勤王の立場を貫くことは命がけのことだったことが伺えます。

 なお、この記事をお読みになるに当たっては、次の記事も参考にしてください。
(24)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤王僧
(27)“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主
(28)“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟
●訪れてみたいところ

○石清尾八幡境内の長谷川宗右衛門の碑

○長谷川家屋敷跡
 高松市番町にある高松工芸高校の西南付近が長谷川家のあった屋敷跡です。

○峰山墓地
 長谷川宗右衛門と速水親子の墓があります。

○高松城桜の馬場
 松崎渋右衛門が謀殺された場所です。

○姥ヶ池墓地
 松崎渋右衛門の墓と碑があります。

○松崎神社
 満濃池の堤防には松崎神社が建立されています。
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高松の路地裏にある戸隠神社

 メタポリックになってしまっているので、数日前から、なるべく歩こうと、わざわざ遠回りをして歩き通勤をしています。
 歩いていると、面白いものを発見します。
 先日は高松の繁華街の路地裏で「戸隠神社」を見つけました。初代高松藩主の松平頼重が信州から分詞したそうです。 

讃岐の勤王志士

 高松藩は親藩であったことから、佐幕派が主流でしたが、水戸の影響を受けた勤王派の人物も活躍していました。
 しかし、その存在はあまり知られていないように思われます。
 今回から、4回にわたって、讃岐の勤王家たちの活躍をご紹介したいと思います。
 筆者自身このような人物がいたのかと驚きました。
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