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(104)“讃岐に残る清少納言の哀れな物語”

 金刀比羅宮大門の左手前、鼓楼の傍らに、清塚(きよづか)と呼ばれる石碑があります。これには清少納言(せいしょうなごん)が夢に出て自らの墓を示したという伝承が残っています。

 「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」で始まる「枕草子」は、平安時代の女性作家、清少納言(せいしょうなごん)によって書かれたものとしてよく知られています。
 清少納言は、康保3年(966)頃に生まれたと推定されており、父は清原元輔(908年-990年)、曽祖父(祖父とする説もある)は清原深養父(ふかやぶ、生没年未詳)といわれています。元輔は三十六歌仙、深養父は中古三十六歌仙に入る歌人で、清少納言は幼いときから和歌や漢学になじんだ環境の下に育ちました。「清少納言」というのは女房名で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名からつけられたとされています。実名は不明です。16歳の頃に橘則光と結婚し、男子をもうけていますが、結婚生活は永祚2年(990)頃に解消したと考えられています。

 その後、正暦4年(993)の冬頃から、一条天皇に入内していた中宮定子の後宮に出仕します。この時、清少納言は28歳、定子は17歳だったといわれています。
 定子は、内大臣・藤原道隆の娘として生まれ、正暦元年(990)1月、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇の女御として入内し、その年の10月に皇后となり「中宮」を号していました。同じ年の5月には、父・道隆が関白、次いで摂政となっており、一族は栄華の極みにありました。
 定子は、美貌はもとより、高い教養を身につけ、しかも明るく華やかで思いやりのある性格だったようで、一条天皇との仲も睦まじいものだったといわれています。この当時の定子の後宮には30~40名の女房が仕え、文芸サロンのような存在でもありました。その中で、清少納言は博学な知識と持ち前の才能から頭角を現し、定子の恩寵も受けて、その名は宮中に知れわたりました。宮中での出来事などを綴ったのが枕草子です。
 しかし、長徳元年(995)4月、道隆が病死すると、後盾を失った定子の立場は危ういものとなります。叔父の道兼が関白に就任し、ついで道兼が急死するとその弟の道長に政治の実権が移っていきます。さらに、翌年4月、定子の兄の内大臣・伊周(これまさ)と弟の中納言・隆家が誤って花山院の輿に矢を射かけるという事件によって失脚し、定子は身重のまま内裏を出、剃髪して仏門に入ります。
 その後、長徳3年(997年)4月に兄らが赦され、定子は6月に一条天皇の意向により誕生した皇女・脩子内親王とともに再び宮中に迎え入れられます。しかし、自己の宮中での立場を確固としたい道長は、娘の彰子を一条天皇の女御として入内させようと謀ります。そして、長保元年(999年)11月、定子が一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産した日に彰子を女御として入内させます。さらに親王の誕生に焦った道長は、彰子を定子と同格の中宮とすることを謀ります。これにより、長保2年(1000)2月、彰子は女御から新たに皇后となり「中宮」を号し、先に中宮を号していた皇后定子は「皇后宮」に号されることになりました。史上はじめての「一帝二后」といわれています。
 翌年、定子は第二皇女・び子内親王(び=女偏に美)を出産します。しかし、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。享年24歳でした。こうして主人のいなくなった清少納言も、失意のうちに宮中を去ります。35歳でした。
 定子の死後、道隆の家系は没落の一途を辿り、定子がもうけた敦康親王も、皇后の生んだ第一皇子でありながら天皇になることはできませんでした。これに反するように、その後、宮中の中心は道長の娘彰子となります。そして彰子をとりまく文芸サロンに現れたのが紫式部でした。
宮中を去った清少納言は、宮中で作った短編集をまとめあげた後、京都東山の月の輪(現在の泉涌寺)で定子の菩提を弔って一人侘び住まいをしていたとの伝承が残っており、万寿2年(1025)頃に亡くなったと考えられていますが、詳しいことはわかっていません。このため全国各地に清女伝説(清少納言伝説)があり、彼女のものといわれる墓所が各地に伝承されています。讃岐にも、清少納言のものといわれる塚や物語が残っています。

 金刀毘羅宮に残る物語は次のようなものです。
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊したところ、その夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。それは、自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営(ころうぞうえい)のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、というものでした。そして、「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」と、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
 はっとして夢から醒めたさめた孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金刀毘羅宮ではねんごろに塚を修めたということです。
 また、東かがわ市白鳥町の与治山(よじやま)のにも清少納言を祀った祠があります。口承によると、清少納言は讃岐白鳥の海岸に漂着し、里人が厚く看護したが亡くなり、これを哀れんで都の見える海に面した与治山の峰に葬った、というものです。

 平安時代の10世紀後半から約1世紀の間の時代を摂関政治といい、最終的に藤原氏の中でも道長の家系がその中心となります。しかし、その過程において、藤原氏一門の内部で、氏長者(うじちょうじゃ)の地位をめぐり、兄弟、叔父、甥の間で争いがありました。清少納言の哀れな末路の話は、藤原一門の争いに翻弄された中宮定子の悲しい物語とともに各地に広がっていったのかもしれません。
●訪れてみたいところ

金刀比羅宮の清塚
 天保15年(1844)傍に碑が建てられ、高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、そのいわれが刻されています。それによると、往古、この辺りにあった塚は清少納言塚といい、清女の墓と伝えられたといいます。
 夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その居た家は「告げ茶屋」と呼ばれていたとのことです。五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったらしく中条氏の祖先がここに住みついたころ、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称していたそうです。
 金刀毘羅宮にある清塚については、江戸時代後期の弘化4年(1847)、浪花の代表的な人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)によって書かれた「金毘羅参詣名所図絵」の中にもその由来が解説されており、この当時すでに観光名所の一つになっていたことが伺えます。

○与治山の清少納言
 山頂に鎮座する与治山神社は婦人病の神として崇められ、通称「清少納言さん」と呼ばれるようになったといいます。9月第1日曜日の「清少納言祭り」には当地はもとより遠隔地からの参拝者で賑わいます。
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