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(102)“隠れキリシタンがいた小豆島”

 キリスト教が日本に渡来したのは、戦国時代の天文18年(1549)、イエスズ会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た時です。翌年、ザビエルは、鹿児島から山口を経て海路上洛していますが、当時の航路からみて塩飽諸島にも寄港したものと考えられています。ザビエル以来、宣教師が続いて渡来し、信長や秀吉の保護もあって半世紀の間にキリスト教は日本全国に広まり、キリシタン大名も現れました。
 讃岐で最初のキリシタンが誕生したのは、宣教師たちが瀬戸内海を往来する途中で塩飽に立ち寄ったこともあり、塩飽の本島だといわれています。天正2年(1574)、カブラル神父は、塩飽本島で病気のため8日間滞在しており、このとき「宿の主人はその勇気がなかったが、その妻のみキリシタンとなった」と手紙に書いています。ザビエルが鹿児島に上陸してから25年後のことです。

 小豆島にキリスト教が渡来したのは、さらにそれから12年後の天正14年(1586)のことです。天正13年(1585)、豊臣秀吉は、根来・雑賀攻めの功により、小西行長に小豆島の管理権を与えます。行長は、和泉堺の薬種商小西隆佐の養子で、備前宇喜多直家に仕えた後、秀吉に仕えていました。翌年、キリシタンだった行長は大阪のセミナリオ(神学校)にいたグレゴリオ・デ・セスペデスを島に呼び寄せて布教を行わせます。セスペデスは1ケ月余りで1400人に洗礼を授け、島民たちは長さ約15メートル以上もある美しい一基の十字架が建てたといわれています。セスペデスが布教した場所は草加部(くさかべ)地区と推測されています。
 ところが、豊臣秀吉は、島津征伐の後の天正15年(1587)、キリスト教禁止策に転じ、日本に在留する宣教師らに国外へ退去するよう命じます。これに対して、キリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)は、信仰を捨てることを公然と拒否し、このため明石の領地を奪われます。右近は高槻城主から明石7万石に転封されていました。また、オルガンチノ神父らは日本国内に留まります。オルガンチノはルイス・フロイスと共に京都を中心に布教活動をしていた宣教師で、フロイスが去った後の布教活動の中心人物でした。こうして流浪の身となった右近とオルガンチノ神父を庇護したのが、当時、小豆島を支配していた小西行長でした。
 高山右近は、博多沖の無人島から淡路島を経て室津でオルガンチノと合流し、小豆島に入ります。彼らが小豆島のどこで潜伏していたかは定かでありませんが、オルガンチノは四方を山に囲まれた一軒家、右近はそこからさらに数キロ奥に入った場所で隠れていたといわれており、両人は交流を続けていたようです。また、オルガンチノが小豆島に隠れていることを知った京都、大坂、高槻、堺などのキリシタンが、秘かに小豆島に手紙を寄せてきたり、訪れてきたといわれています。秀吉の命令は、布教活動は禁止するが、貿易は奨励するという不徹底なものでした。

 ところが、さらに翌年の天正16年(1588)、小西行長は豊臣秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。ちなみに、この年、讃岐では生駒親正が高松城の築城に着手しています。行長の転封に伴い高山右近も九州に向かいます。しかし、右近は、間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将として迎えられ、1万5千石の扶持を与えられます。
 その後、秀吉が朝鮮半島に攻め込み、文禄の役(文禄元年(1592)~2年(1593))と慶長の役(慶長2年(1597)~3年(1598))が起きます。このとき、行長は加藤清正と先陣争いをしたり、秀吉に偽って明と講和を結ぼうとしたことで知られています。

 慶長3年(1598)秀吉が没した後、慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が起き、この戦で行長は豊臣側につき敗れます。この時、行長はキリシタンであったことから切腹を拒否し、京の六条河原で斬首されます。享年42歳といわれています。
 一方、右近は、関ヶ原の合戦後も、加賀で前田家の庇護の下に平穏に暮らしていました。しかし、徳川家康もキリスト教に対して秀吉と同じく禁止策をとり、幕府は慶長17年(1612)に禁教令を出し、慶長19年にはキリシタン国外追放令を出します。このときも右近は信仰を捨てなかったため、ルソン(今のフィリピン)のマニラへ追放となり、そこで没します。享年63歳でした。

 小西行長の後、小豆島の支配は、片桐且元(かたぎりかつも)に替わります。そして、元和元年(1615)に長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、次いで元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)と替わり、さらに次いで正保4年(1647)から幕府の直轄地となります。そして、これらの支配の下では、行長の方針と正反対に、キリシタン信者に対する厳しい取締りが行われました。特に寛永7年(1630)の小掘遠州による探索詮議により相当数の信者が捕らえられ、転宗させられています。小掘遠州は茶人、造園家としてよく知られている大名です。
 しかし、小豆島ではこの弾圧下の中にも、かなりの人数の隠れキリシタンが存在したのではないかと考えられています。ちなみに小豆島には今も各所に隠れキリシタンのものではないかと考えられている墓が多く残っています。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。当時は、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようですが、今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などを各所で見ることができます。

 また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きていますが、この乱と小豆島とは深い縁があります。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長の領地だったところで、この乱には行長の家臣だった多くの浪人が加わっていたといわれています。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の遺臣だといいます。
 この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されますが、篭城の3万7千人が全滅しました。この中には多数の農民が含まれており、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しました。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図りました。天領である小豆島にも当然その政策が及び、小豆島から島原半島南部一帯に多くの者が移住しています。坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者、生活困窮のため自ら進んで移住した者など様々ですが、「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったといいます。

 なお、慶長19年(1614)に幕府がキリシタン国外追放令を出した後の生駒藩の状況ですが、生駒藩の領内にはまだかなりのキリシタンがいたようです。生駒氏が入る前の讃岐では、阿波の三好一族の十河氏が勢力をはっており、三好長慶ならびに弟の実休は熱心なキリシタンでした。このため十河氏もキリシタンに寛大で、讃岐にはこの頃からキリシタンを受け入れる素地があったのではないかと考えられています。
 生駒藩の取締りも、京、大坂、堺などに比べて緩やかだったようで、キリシタン国外追放令が出た時に、パルタザル・デ・トルレスという宣教師が大坂から讃岐に逃れてきています。元和2年(1616)には観音寺のシンジュウロウという人物が妻カタリナの影響を受けて信者となっています。また、寛永2年(1625)には、ボロという宣教師が来て高松の熱心な信者の歓迎を受けています。しかし、元和3年(1617)には、高松城下に住む商人のアントニオ石原孫右衛門と4歳の息子フランシスコが処刑されており、これが讃岐最初の殉教者だといわれています。
 島原の乱後の寛永17年(1640)生駒藩は改易され、その後、東讃岐は松平氏、西讃岐は山崎氏の領地となりますが、この頃、両藩にはまだかなりのキリシタンがいたようです。西讃岐では、万治元年(1658)山崎氏の後に京極氏が入封しますが、京極氏は、祖父の高次の代からの一家一族あげてのキリシタンでした。禁教令が出たときに改宗していますが、丸亀城内に十字池と呼ばれるクロスを残し、その後も密かに信仰を守ったという俗説が伝わっています。

関連記事 (22)“島原の乱と小豆島そうめん
●訪れてみたいところ

キリスト教伝来記念碑
 土庄町淵崎のカトリック小豆島教会にあります。

○オリーブ園の十字架
 内海地区のオリーブ園には、昭和62年にキリスト教伝来400年を記念して建てられた白亜の十字架がそびえています。これは、小西行長ら一行が高さ15メートルの大十字架を建てたという故事に由来しています。
この十字架の基には、ローマ教皇からのメッセージが書かれた碑があります。

○蘭塔(らんとう)さんと呼ばれる墓
 小豆島の墓地には「蘭搭(らんとう)さん」と呼ばれる家型墓が見られます。調査で1000個以上が確認されており、禁教下に当時のキリシタンが教会に見立てて拝んだ遺物ではないかと考えられています。

○日方墓地のマリア観音
 内海地区には、昭和51年の土砂崩れで出土したマリア観音像があります。高さ10センチくらいの瀬戸物の子供を抱いた観音様で、中国の景徳鎮製です。台座に彫ってある魚は、「イクトス」(ラテン語で魚の意味)から暗にキリストを指すといいます。

○浜ノ庵
 池田室生にあります。小豆島霊場第34番札所の堂の右側に、小豆島で代表的な家型石室内に、陽刻した2体の像があります。この像の顔は面長で異人風で、ポーズはカトリックの神父が両手を挙げてお祈りしているところではないかといわれています。

○風穴庵の石造物
 三都半島の中腹に、小豆島霊場第29番札所富士の風穴庵があります。ここは真夏でも冷風が吹き出てくるということで古くから信仰の対象にされてきました。ここにおかれている仏像は、縁のある帽子をかぶっており、島に来た南蛮人宣教師を模した物だともいわれています。

○池田中山地区
 高山右近の潜伏地は池田の中山付近だったのではないかという説があります。ここには、キリスト教を象徴する模様が入ったキリシタン灯籠が残っているそうです。
 湯船山の山腹には、「千枚田」とよばれる大小さまざまな棚田があります。湯船山には小豆島八十八ヶ所第44番札所の蓮華寺があり、その中腹にある樹林地から名水「湯船の水」が湧き出しています。
また、中山には農村歌舞伎が残っており、春には集落の神社で昔通りの芝居が地区の人々によって演ぜられます。

○宇多津町のキリシタン灯篭
 水主町の久住(くすみ)氏宅の庭には、丸亀京極藩庭にあったというキリシタン灯篭が残っています。
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テーマ : 香川
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四国学院大学名誉教授

「イクトス」(ラテン語)という解説がありますが、ラテン語ではなく、ギリシャ語です。「イクチュス」とも言います。
Iesus Christos Theou (H)uios Soter(イエス・キリスト・神の・子・救い主)の頭文字 ichthusが魚という意味のギリシャ語であるために、キリスト教徒たちの間の合い言葉として使われていました。
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