(16)“扇の勾配をした日本一の高さの石垣のある丸亀城”
丸亀城は、海抜66メートルの亀山の頂きにそびえる平山城で、別名「蓬莱城」または「亀山城」と呼ばれています。この城は、室町時代に奈良氏がこの地に砦を築いたことに始まるといわれ、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、高松城を本城とし、亀山に支城を築いたことにより本格的な城となっていきました。城の北側に広がる現在の丸亀市街地は、城が築かれるまでは遠浅の海浜に寒村があるだけのところでした。
生駒氏は慶長2年(1597年)から7年がかりで築城しましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となりました。この時、要所要所を樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限し、城を破却から守ったといいます。
生駒氏が出羽国矢島に転封となった後、西讃岐に入封した山崎氏により城は2年かけて再建され、城の構築の大部分はこのときに完成されています。しかし山崎氏は三代17年で絶えてしまいます。
その後、万治元年(1658)に京極高和が入封し、万治3年(1,660年)に天守閣が完成します。この天守閣は、三層三階、約15mの木造天守で、現存天守の中では日本最小ですが、日本に残る12の天守のうちの1つだと言われています。また、城の玄関である大手門は、生駒・山崎時代は城の南側にありましたが、寛文10年(1,670年)に北側に移転されています。現在、城の南側にある山北八幡神社は、もとは城の北麓にありましたが、大手門を城の北側に移すときに現在の場所に移転され、山北という名前はもとの場所の名前がそのまま残ったものです。
外堀は東西約1キロ、南北約1.5キロの規模で、海に通じており、明治頃までは周回していました。しかし年とともに減少し、一部残されていた南側(丸亀高校の南側)の箇所も今はなく公園として整備されています。内堀は東西約430m、南北約320mの規模で、今も現存しています。
丸亀城の特徴はなんといってもその石垣の見事さです。山麓から天守閣に向けて築かれた石垣は四段階に積み上げられ、総高は約50mと日本一の高さを誇ります。内堀から天守閣に向かって四段階に積み重ねられた曲線は“扇の勾配”とも“清正流三日月勾配”とも呼ばれ、下の方は緩やかに組み、頂きへ向かうにつれ徐々に垂直になり、天に向かって弧を描いて反り返っています。
この石垣には羽坂重三郎の伝説があります。羽坂重三郎は讃岐の中に知れられた岩垣造りの名工との評判が高かったので、城の石積み工事に召し出され、城内の石塁をすべて指示して築きました。ある日、城主が見回って、岩垣の出来栄えを大いに喜び、「さすがに重三郎じゃ、この岩垣を越して行けるのは、鳥しかあるまい」と言ったところ、重三郎は「私に一尺(30cm)ぐらいの鉄棒を持たせてくださらば、登って見せます。」と言い、短い二本の鉄棒を持って、石と石の間に交互に差し込んで足場にしながら岩垣を登ってしまいました。この様子を見た城主はこの時「見事」と言って褒めましたが、この者が万が一敵に通じては災いの元と、重三郎に井戸掘りを命じ、中に調べに降りた重三郎の上から大きな石を投げ込んで殺してしまいました。その伝説の井戸が“二の丸井戸”です。この井戸の深さは65mあり、日本一深い井戸です。その水面は内堀の水面とほぼ一致するといいます。あまりにも深いので、城の抜け穴伝説が存在します。南条町の寿覚院には重三郎の墓石が残っています。
この城は、丸亀市のシンボルであり、昭和25年(1950年)から毎年春に“丸亀お城まつり”が開催されています。また、平成5年(2001)年に、丸亀市の市制施行100周年を記念して、歌手の「さだまさし」が「城のある町」という丸亀城をモチーフにした曲を発表しています。この歌の中で出てくる「月菜汁(つきなじる)」という料理は、歌が発表された当時は架空のものでしたが、その後実際に月菜汁という料理が作られるようなりました。
生駒氏は慶長2年(1597年)から7年がかりで築城しましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となりました。この時、要所要所を樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限し、城を破却から守ったといいます。
生駒氏が出羽国矢島に転封となった後、西讃岐に入封した山崎氏により城は2年かけて再建され、城の構築の大部分はこのときに完成されています。しかし山崎氏は三代17年で絶えてしまいます。
その後、万治元年(1658)に京極高和が入封し、万治3年(1,660年)に天守閣が完成します。この天守閣は、三層三階、約15mの木造天守で、現存天守の中では日本最小ですが、日本に残る12の天守のうちの1つだと言われています。また、城の玄関である大手門は、生駒・山崎時代は城の南側にありましたが、寛文10年(1,670年)に北側に移転されています。現在、城の南側にある山北八幡神社は、もとは城の北麓にありましたが、大手門を城の北側に移すときに現在の場所に移転され、山北という名前はもとの場所の名前がそのまま残ったものです。
外堀は東西約1キロ、南北約1.5キロの規模で、海に通じており、明治頃までは周回していました。しかし年とともに減少し、一部残されていた南側(丸亀高校の南側)の箇所も今はなく公園として整備されています。内堀は東西約430m、南北約320mの規模で、今も現存しています。
丸亀城の特徴はなんといってもその石垣の見事さです。山麓から天守閣に向けて築かれた石垣は四段階に積み上げられ、総高は約50mと日本一の高さを誇ります。内堀から天守閣に向かって四段階に積み重ねられた曲線は“扇の勾配”とも“清正流三日月勾配”とも呼ばれ、下の方は緩やかに組み、頂きへ向かうにつれ徐々に垂直になり、天に向かって弧を描いて反り返っています。
この石垣には羽坂重三郎の伝説があります。羽坂重三郎は讃岐の中に知れられた岩垣造りの名工との評判が高かったので、城の石積み工事に召し出され、城内の石塁をすべて指示して築きました。ある日、城主が見回って、岩垣の出来栄えを大いに喜び、「さすがに重三郎じゃ、この岩垣を越して行けるのは、鳥しかあるまい」と言ったところ、重三郎は「私に一尺(30cm)ぐらいの鉄棒を持たせてくださらば、登って見せます。」と言い、短い二本の鉄棒を持って、石と石の間に交互に差し込んで足場にしながら岩垣を登ってしまいました。この様子を見た城主はこの時「見事」と言って褒めましたが、この者が万が一敵に通じては災いの元と、重三郎に井戸掘りを命じ、中に調べに降りた重三郎の上から大きな石を投げ込んで殺してしまいました。その伝説の井戸が“二の丸井戸”です。この井戸の深さは65mあり、日本一深い井戸です。その水面は内堀の水面とほぼ一致するといいます。あまりにも深いので、城の抜け穴伝説が存在します。南条町の寿覚院には重三郎の墓石が残っています。
この城は、丸亀市のシンボルであり、昭和25年(1950年)から毎年春に“丸亀お城まつり”が開催されています。また、平成5年(2001)年に、丸亀市の市制施行100周年を記念して、歌手の「さだまさし」が「城のある町」という丸亀城をモチーフにした曲を発表しています。この歌の中で出てくる「月菜汁(つきなじる)」という料理は、歌が発表された当時は架空のものでしたが、その後実際に月菜汁という料理が作られるようなりました。


