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(100)“妖怪と怨霊の話に満ちた瀬戸内海を望む五つの色をした山”

 香川県は扇の形をしていますが、この扇の頂上に当たるところは、五色台という山塊になっています。この山塊は瀬戸内海に突き出たメサと呼ばれる溶岩台地で、紅、黄、青、白、黒の五つの峰から成り立っており、瀬戸内海国立公園にも指定された自然豊かなところです。また、四国霊場札所が2箇寺あり、古くから怨霊と妖怪の物語が伝えられています。

 五色台の呼び名のおこりには諸説があります。一説によると、いちばん北にあり海に臨んでいる峰(245m)は朝日や夕日が海に照り映えて紅色に輝くから紅峰、その南の峰(174.9m)は秋に霜で樹々の色が黄色になるから、または、おみなえしの花の色で黄色くなるから黄峰、その西の峰(375m)は黒い岩があり黒岩の峰がつづまって黒峰、その南の峰(449.3m)は冬になっても青いから青峰、その西の峰(336m)は山が深くて雪がなかなか消えないから白峰という、といわれています。
 また、中国古来の陰陽五行記(いんようごぎょうき)に基づくという説もあります。この思想は、世界は陰陽二元の和合により木火土金水の五行を生じて万物ができたと考えます。この五行を中央と東西南北・春夏秋冬・各月・五色に配当し、東は1・2・3月の春で木に当たり青、南は4・5・6月の夏で火に当たり赤、西は7・8・9月の秋で金に当たり白、北は10・11・12月の冬で水に当たり黒、中央は土に当たり黄とします。
 また、密教の教義に基づくという説もあります。白峰は平安時代以後真言密教の道場的霊山として、多くの僧が山頂を巡って修業をしていたところです。その頃、山塊の各方位の峰を、密教五仏になぞらえて、黄を中心に青、赤、白、黒の五色を配して黄峰、青峰、赤峰、白峰、黒峰と呼んだといいます。その他、五つの尾根の土壌の色が各々異なるからとか、5種類の石が掘り出されたからという説もあります。

 平安時代より、天災等の厄災は、怨みを持って死んだ人の怨霊のしわざと考え、それを畏怖し鎮めて祟りを免れ、あまつさえその霊力を借りようという信仰が盛んになりました。これを御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。怨霊になったと信じられた歴史上の人物の中でも、菅原道真平将門崇徳上皇の三人が日本三大怨霊といわれており、各時代を通じて文学、芸能等の題材としても採り上げられてきました。この三人のうち、讃岐は菅原道真崇徳上皇の二人と非常に深い縁があり、崇徳上皇の怨霊物語は白峯を舞台とするものです。
 江戸時代後期の安永5年(1776)、「雨月物語」(うげつものがたり)という読本(よみほん)が刊行されました。著者は上田秋成(うえたあきなり)という大坂生れの医者で、5歳の時に天然痘にかかったため指が不自由だったそうです。秋成は医者をしながら賀茂真淵門人の加藤宇万伎に師事して国学を学び、数々の著作を書いたり、本居宣長と論争を行なったりもしています。江戸時代後半、18世紀半ばから19世紀半ばまでの約100年間の文化を「化政文化」といいますが、秋成はこの時代を代表する文人の一人です。
 雨月物語という本の名は、雨が晴れ、月がおぼろにぼんやりと輝く夜、窓の下で本を編成したことに由来するといいます。この中に収められている物語には、「白峯」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧福論」の9篇の短編がありますが、その内容は、生霊、死霊、蛇精、金霊、魔王など数多くの怪しい存在が跋扈するという怪異物語です。
 その中の一つ「白峯」は、仁安3年(1168)、西行法師が讃岐の白峯に崇徳院の陵墓を訪れたとき、恨みと憤怒のあまり魔界の大魔王となった院の亡霊に出会うという物語です。その姿は、ひどく煤けた柿色の衣をまとい、髪は茫々で膝まで伸び、手足の爪は獣のように生え伸び、朱色の顔に白い目を吊り上げて灼熱の息を苦しそうにつき、みすぼらしいが恐ろしい魔王のような様子として描かれています。
 この崇徳上皇の怨霊は、化政文化を代表する文人の一人である滝沢馬琴の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の中でも登場しています。この物語は、保元の乱に敗れた源為朝を主人公にした伝奇ものですが、この中で、崇徳院の怨霊は為朝が危機に陥ると救いに現れる守護神的存在として描かれています。

 また、白峯には「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。上田秋成もこの天狗を崇徳院に侍る存在として雨月物語に登場させています。相模坊は、室町時代の初め、琵琶湖を望む大津の三井寺で修行をしていた相模坊道了という僧が、ある夜、突如として天狗となって飛び去り、はるか小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺に降り立ち、その後、院の配流を知り、その霊を慰め鎮守するため讃岐の地へ飛び立ち“白峯相模坊”となったと伝えられています。日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、中でも白峯相模坊は、相模大山の伯耆坊(神奈川)、飯縄山飯綱の三郎(長野)、比良山次郎坊(滋賀)、愛宕山太郎坊(京都)、鞍馬山僧正坊(京都)、大峰山前鬼坊(奈良)、英彦山豊前坊(福岡)とともに、日本八大天狗の一に数えられています。

 青峰の四国霊場82番札所・根香寺(ねごろじ)には、「牛鬼」(うしおに)という伝説が残っています。寺の名は、この山にあった枯木の根が香気を出していたことに由来し、さらに、その香気が渓に流れ入って川の水が香しくなったことからその川が香川(かがわ)と呼ばれるようになり、それが郡名となり、今日の香川県という県名になったともいわれていま
す。
 牛鬼伝説というのは次のような物語です。戦国時代の元亀年間(1570~1573)の頃、青峰山に牛鬼と呼ばれる怪獣が住んでいて、麓の人畜を害していました。村人の願い出により、領主の香西佳清が、香川郡井原郷安原(現在の高松市塩江町)の住人で、弓の名人といわれる山田蔵人(くらんど)高清に牛鬼の退治を依頼します。香西氏は、勝賀城を要城、佐料城を居館とし、香東、香西、綾南条、綾北条などの4郡を領有する鎌倉時代以来の讃岐の国人です。香西佳清はその十八代目の当主です。
 蔵人は、青峰山に行きあちこちと探しましたが、牛鬼は出没自在でどうすることもできません。そこで根香寺にこもり、怪獣が現れるよう、断食して一心に祈り本尊に願をかけました。すると満願の日、蔵人は千尋が嶽の下の鬼が原で、眼光のするどい、毛むくじゃらのクマのような怪物に出会いました。素早くねらいを定めて続けざまに矢を射たところ、三の矢が、牛鬼の口の中に刺さり、ギャーと悲鳴をあげ、姿を消しました。血の跡をたどっていくと、定が渕というところで異様な怪物が死んでいるのを見つけました。そこで高清は、牛鬼の角を切り取り、香西佳清から褒美にもらった米を添えて、根香寺に奉納したということです。
 その後、香西佳清は、天正10年、長宗我部元親による讃岐侵攻に際して激戦の末に降伏します。次いで天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に敗れて下野し、ここに香西氏は滅びました。しかし、根香寺には今も牛鬼のものといわれる角と、牛鬼の姿といわれる絵が残っています。
 五色台には今も豊かな自然が残り、怨霊と妖怪の物語に満ちた神秘的な雰囲気を醸し出しています。

参考記事
(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇
(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師
(49)“長曽我部元親が四国制覇の野望をいだいた山
●訪れてみたいところ

白峯御陵
 保元の乱の結果讃岐に遷御された崇徳上皇の御陵です。白峯陵石塔は、源頼朝が崇徳院に仕えた為義、為朝の供養のために奉納したものと伝えられています。
 仁安の頃、讃岐に渡った西行法師は、崇徳院の御陵に詣でました。御陵前に座した西行は、讃経廻向の上「よしや君むかしの玉の床とても かからんのちはなにかはせん」と詠いました。西行法師石像は後人がこれをしのんで西行腰掛石と伝わる石上に安置したものです。
 「雨月物語」は次のようなものです。
 奥山深い所にひっそりと崇徳院の墓があるのを見て、西行は涙を流し、読経し、歌を詠み、君を偲んでいました。するとそこに、恨みと憤怒のあまり魔界の大魔王となってしまった院の亡霊が現われます。亡霊は、最近の世の中の乱れはすべて自分が起こした魔道である、憎い者達すべてに報いを受けさせてやる、平家一門のすべてを海に沈めてやる、と声を響かせます。西行は院を諭しますが聞きいれられず、ただ黙して対座し、「よしや君昔の玉の床とても かからんのちは何にかはせん。」と一首の歌を詠いました。その歌を聞いて感ずるところがあったのか、院の亡霊は消えていきます。13年後に平家は滅亡し、院の言葉通りとなりました。  

白峯寺
 白峯寺は、平安時代に弘法、智証両大師が真言宗の道場として創建した古寺で、四国霊場第81番の札所です。

○頓証寺殿
 この寺殿は、建久2年(1191)上皇の菩提を弔い、御霊を慰めるため、遠江阿闇梨章実が、鼓岡の行宮を請い得て御陵の傍に移した仏堂で、崇徳天皇の御廟所です。御宸筆の御影を奉安して頓証菩提を弔ったのでこの御廟を頓証寺殿といいます。
 応永21年(1414)、将軍足利義持の執奏によって、後小松上皇宸筆の「頓証寺」の三字を彫出したへん額が奉納されました。このへん額は寺門にかかげらましたので、この門は勅額門と呼ばれています。左右の随神は源為義、為朝の武装像です。この頓証寺殿宇の構造は紫宸殿に擬して庭前に左近の桜、右近の橘が植えられています。現在の建物は延宝8年に高松藩主が造営したものです。
 頓証寺の左側を北に進むと、相模坊社登りの石段の左横に源頼朝が御陵に奉納したものという石燈籠が一基あります。文永4年(1267)の刻銘のあるもので、鎌倉中期の様式をよく残していて、本県最古の石燈籠で早くから頓証寺型燈籠として知られています。

○相模坊社
 坂出市大屋富町にある相模天狗を祀る社です。木像の鴉(からす)天狗一体があります。

○根香寺
 讃岐の天台宗四箇寺の一つで、四国霊場第82番札所です。弘仁年間(810~824年)、弘法大師空海が青峰に華蔵院を創建し、五大明王を祀りました。その後、天長9年(832年)、空海の姪の子にあたる智証大師円珍が、香木で千手観音像を刻んで千手院を創建し、この二院を総称して根香寺と号したと伝えられています。一説には、千手観音を刻んだ香木の根が永い間に香気を周囲に発散させていたことから根香寺と名付けられたともいわれます。
 その後、後白河法皇の勅願寺となり大いに栄えましたが、度重なる兵火によって衰退し、高松松平初代藩主松平頼重によって再興されました。境内には伝説にまつわる牛鬼の銅像が建っています。

○瀬戸内海歴史民俗資料館
 瀬戸内地方の民俗・歴史・考古資料を収集・展示しています。
 ホームページ:http://www.pref.kagawa.jp/setorekishi/toppage.htm
五色台少年自然センター自然科学館
 ホームページ:http://www.pref.kagawa.jp/sizeka/
五色台ビジターセンター
 ホームページ:http://www.goshikidai.com/
五色台少年自然の家
 ホームページ:http://www.kagawa-edu.jp/goshoa01/
○「またきまい」
 流正之の作品。「またきまい」は香川県の方言で「また来て下さい」の意味です。

○山田蔵人高清の墓
 香川県塩江町には、山田蔵人高清のものといわれる墓が残っています。
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