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(97)“瀬戸内海の中にある醤の郷”

 醤油の産地といえば日本四大産地がよく知られています。千葉県の野田と銚子、兵庫県の竜野、それに瀬戸内海に浮かぶ香川県の小豆島です。この島の南東部にある小豆島町・内海地区は、醤油工場やもろみ蔵が軒を連ね芳しい香りが漂っており、「醤の郷(ひしおのさと)」と呼ばれています。

 醤油のルーツは、古代中国に伝わる「醤(ひしお・ジャン)」であるといわれています。これは原料を塩漬けにして保存したことから始まったもので、たんぱく質を含む食材に塩を加えて発酵させ、その結果生じるアミノ酸などのうまみ成分と塩味を利用したものです。それぞれ使う材料で、果実、野菜、海草などから「草醤(くさびしお)」、魚から「魚醤(うおびしお)」、肉から「肉醤(ししびしお)」、穀物から「穀醤(こくびしお)」などがありました。醤油はその中でも米・小麦・大豆を材料とした穀醤が原型と考えられています。
 中国から日本にいつ頃伝わったかは明らかでありませんが、8世紀初頭に編纂された大宝律令によると、宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされています。これは今でいう醤油と味噌の中間のようなもので、宮中宴会などの食卓にのぼっていたようです。

 現在使われている醤油の原型は、鎌倉時代の建長6年(1254)、信州の禅僧・覚心(かくしん)が中国の宗から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を持ち帰り、紀州(和歌山県)の湯浅で、その製法を教えているうちに、その味噌桶の底に溜まった醤(味噌溜)がとても美味しいことに気づいたことによるといわれています。それが今でいう溜(たまり)醤油になったそうです。
 そして、室町時代中期頃から産業化され、始めは京都の宮廷を中心とした公卿や僧侶・上層の武家階級に使われていたようですが、天正年間には大阪の町人衆の日用品として使われていたといいます。その頃の産地の中心は播州や泉州などの上方(関西)の近くで、「淡口醤油」でした。

 江戸時代に入り、醤油は一般に普及していきますが、関東では、初めの頃は上方から運ばれてきたものを「下り醤油」と呼んで使っていました。しかし元禄から享保時代(1688~1736年)の頃にかけて江戸っ子の好みにあった濃い味の醤油が造られ始めました。これが「地回り醤油」と呼ばれるもので、今の「濃口醤油」にあたるものです。
 このようにして江戸時代、醤油は除々に全国に伝わっていき、これとともに江戸、京都、大坂等の大都市の周辺部に位置し、しかも原料となる大豆・小麦を船で大量に輸送できる水運の要衝に大規模な醤油産地が出現していきました。関東では利根川、江戸川などの水運に恵まれていた現在の千葉県の野田や銚子、関西では揖保川沿いの播州・竜野、それに瀬戸内海海上交通の要衝だった小豆島です。

 小豆島で醤油の歴史が始まったのは豊臣時代の文禄年間(1592~1595)の頃で、富裕な塩浜主や村役人層の間で自家用として造られ始めたといわれています。海に囲まれた小豆島では中世以前から製塩業が盛んに行われ、近世に入っては豊臣、徳川両時代、天領として公儀へ塩を貢納することを例としていました。これにより京都ないし大阪の醸造家から塩廻船(しおまえせん)の船頭たちによって、きわめて自然に醤油造りの技術が小豆島にもたらされたのではないかと考えられています。また、紀州・湯浅より伝承されたとか、豊臣秀吉が大坂城築城の折、小豆島の石を採取するために来島した武士達によって製法がもたらされたともいわれています。
 江戸時代後期の文化年間(1804)以降になると、小豆島では一般農民層にも醤油の自家醸造が広がり始めました。ところがその頃、瀬戸内各地で塩が生産過剰になり、小豆島でも休浜や廃浜が続出し、これ付随した塩問屋、廻船業も衰退していきました。そのとき、塩を利用して自家製として造られていた醤油が、しだいに営業化していき、醤油醸造業が出現していきました。小豆島の醤油が島外に販売されたのは、文化6年(1809)に安田村の醸造家・高橋(橋本屋)文右衛門が大阪の問屋へ販売したのが初めてだといわれています。

 その後、小豆島の醤油産業は、京阪神を中心に市場を築いて発展の一途を辿り、明治10~20年頃には最盛期を迎え、醸造家は実に400軒を数えたといわれています。
 これは、小豆島が瀬戸内海海上交通の要所であることから、九州から原料である大豆、小麦を容易に移入できるとともに、天下の台所である大阪を対岸に望むという恵まれた立地条件を有していること。主原料である良質の塩が豊富で、しかも温暖で乾燥した気候が麹菌の発育やもろみの熟成に大変適していること。さらに幕府の直轄地である天領であったため比較的自由な支配の下にあり、格別の保護や規制を受けなかったことなどが要因だと考えられています。

 戦後、小豆島の醤油は新たな商品を生み出します。終戦直後、小豆島醤油業界も厳しい経済統制の下、原材料の入手難が続き、閉塞状態にありました。このとき、苗羽出身の武部吉次は、永年醤油業に携わっていた経験を活かし、醤油を調味料とした佃煮生産を思い立ち、島に豊富で入手容易な「いもづる」に着目しました。昭和20年9月26日、吉次は「いもずる」を原料とした佃煮50貫余を炊き、阪神方面へ出荷しました。その後小豆島は、伝統ある醤油に支えられ、年々発展して我国屈指の佃煮産地としてもその声価を高めていきました。
●訪れてみたいところ

小豆島・醤の郷
 内海地区の「醤の郷」は、小豆島の坂手港から草壁港への県道沿いに醤油や佃煮工場が軒を連ねる地域をいいます。街には黒っぽい醤油倉などが建ち並んでいます。わが国四大ブランドの一つといわれるマルキン醤油もその一角を占めています。
 マルキン醤油記念館は、創業80周年を記念して、大正初期に建てられた工場のひとつが資料館として改装、公開されているものです。この建物は、合掌造りとしては最大規模を誇るもので、1996年に国の有形文化財に登録されています。記念館にはしょうゆの製造工程のパネルや、しょうゆ造りのために先人達が工夫を凝らしたさまざまな道具類が展示されています。
 以下の写真は、「ヤマサン醤油」です。」
醤の郷1

醤の郷3

醤の郷4

 醤油倉の中
醤の郷5

醤の郷6

醤の郷7
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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大坂城大坂城(古くはおおざかじょう、一般にはおおさかじょうと読む)は、摂津国東成郡大坂の地にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったために、現在は大阪城と書くことも多い。豊臣氏|豊臣政権

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