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(95)“瀬戸内の浜辺にある近江八景”

 「近江八景(おうみはっけい)」とは、琵琶湖の南部から選ばれた8箇所の名所で、「比良の暮雪(ひらのぼせつ)」、「堅田の落雁(かたたのらくがん)」、「唐崎の夜雨(からさきのやう)」、「三井の晩鐘(みいのばんしょう)」、「矢橋の帰帆(やばせのきはん)」、「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」、「瀬田の夕照(せたのせきしょう)」それに「石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)」をいいます。
 近江八景は、中国の湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘(しょうしょう)八景図」になぞらえ、室町時代後期に見出され江戸初頭に確立した、といわれています。日本全国津々浦々、「どこそこ○景」と数えられる名所は数多くありますが、近江八景はそれらの元祖といえるでしょう。

 丸亀城から西へ約2.5キロ、金倉川河口左岸の海浜に中津万象園という庭園があります。ここからは、東に丸亀城、その背後に讃岐富士こと飯野山、南に弘法大師ゆかりの善通寺五岳山、西に多度津の浦、北に波静かな瀬戸内の海と広島、本島など塩飽の島々を望むことができます。
 この庭園は江戸時代の典型的な回遊式大名庭園で、元禄元年(1688)に丸亀2代藩主・京極高豊がここにお茶所を設けたとことがその始まりです。以来、歴代藩主が整備に努め、第5代藩主・高中の頃でほぼ現在のような姿になったといわれています。造営当時は「中州のお茶所」、後には「金倉別館」、「中津別館」、「中津荘」と呼ばれ、讃岐では栗林公園に次ぐ2番目の大名庭園です。

 丸亀京極家の発祥は、近江源氏(宇多源氏)の名で知られる佐佐木氏で、宇多天皇の皇子・敦実親王を祖とします。滋賀県蒲生郡安土町に沙沙貴神社(ささきじんじゃ)という神社がありますが、ここは古くから沙沙貴郷あるいは佐々木庄と称された地で、佐佐木家、京極家、黒田家、六角家、三井家など宇多源氏・佐々木氏の発祥の地です。丸亀京極家の四ッ目結いの家紋もこの神社からきています。丸亀京極家も先祖を祀ったこの神社を深く敬神し、丸亀第6代藩主京極高朗(たかあきら)は、天保年間に消失した社殿を弘化5年(1848年)に再建しています。
 また、滋賀県米原市に清滝寺徳源院(きよたきでらとくげんいん)という寺があります。この寺は、鎌倉時代の弘安6年(1283)に京極家始祖の氏信(うじのぶ)が開いた菩提寺で、戦国時代には京極家の衰退とともに荒廃していました。この寺を復興することは近江源氏正統としての京極家の悲願だったのでしょう。寛文12年(1672)、丸亀2代藩主・高豊は、幕府に請願して領地の播磨国所領2村とこの地を交換し、付近に散在していた墓碑を一カ所に集めて整理し、三重の塔を建立して歴代京極家の墓所とします。徳源院とは丸亀藩初代藩主・高和の院号からとったものです。
 この墓所には、初代氏信から25代高中まで京極家歴代当主の墓(うち、丸亀藩主の墓は、初代高和、2代高豊、3代高或、4代高矩、5代高中)と、丸亀藩の支藩である多度津藩の藩主の墓(初代高通、2代高慶、3代高文、4代高賢)が整然と並んでいます。なお、足利尊氏の時代、婆娑羅(ばさら)大名として活躍した佐々木道誉(どうよ)(京極高氏)の墓も5代目当主としてその列の中に並んでいます。
 このように京極家は父祖の地である近江に深い愛着を持っていたのでしょう。波静かな備讃の瀬戸を見るたびに琵琶湖に思いをはせ郷愁にひたっていたのかもしれません。中津別館の中心部に位置する八景池は琵琶湖をかたどったといわれ、その中に近江八景をなぞらえた八つの島を浮かべています。すなわち、雪の島(比良の暮雪)、雁の島(堅田の落雁)、雨の島(唐崎の夜雨)、鐘の島(三井の晩鐘)、帆の島(矢橋の帰帆)、晴嵐の島(粟津の晴嵐)、夕映の島(瀬田の夕照)、月の島(石山の秋月)です。また、琵琶湖の竹生島の弁財天を分詞し祀っています。

 明治21年頃この庭園は京極家の手を離れ民間の所有となり、この頃訪れた旧毛利藩士野村素軒は、千変万化する池泉・松林の風光を見て、宇宙に存在するすべてのものを意味する森羅万象(しんらばんしょう)から「万象園」と名づけたといわれています。またこの頃から一般にも開放され、春から夏にかけて行楽客・海水浴客で賑わいました。
 しかし、戦後、昭和21年の南海大地震により地盤が約1メートルも沈下し、さらに台風高潮の被害を受け、著しく荒廃して昔日の面影を喪失してしまいます。この地に大名庭園があったことも忘れ去られようとしていました。
 昭和45年この地は地元企業家の真鍋光利氏の手に渡ります。そして真鍋氏は「昔日の名園を後世に残したい」との思いから、以降12年の歳月をかけて庭園の復元を行います。復元作業に際しては、大阪芸術大学の中根金作教授に協力を仰ぎ、古図や漢詩などの資料から本来の有り様を検証して作庭が試みられました。こうして再び大名庭園として蘇った万象園は、昭和57年8月1日に一般公開され、平成18年には芸術文化の振興に高く貢献した企業・企業財団を表彰する「メセナアワード2006」において庭園文化賞を受賞しました。万象園は、西讃における近世文化の象徴ともいえる庭園でしょう。

 丸亀京極家については、(15)“丸亀の殿様は婆娑羅大名佐々木道譽の子孫”と(86)“姫路の中にあった讃岐”をお読みください。 また、丸亀城については(16)“扇の勾配をした日本一の高さの石垣のある丸亀城”、多度津藩については(73)“港町として栄えた城の無い城下町” をお読みください。
●訪れてみたいところ

○中津万象園
・柿本人麿呂の歌碑 柿本人麿呂が沙弥島で詠った「玉藻よし讃岐の国は 国柄か」の歌に出てくる「中之水門」とは、金倉川河口付近、つまり中津万象園付近を指しているといわれています。これにちなみ、万象園には人麿呂の碑が建てられています
・邀月橋 朱塗りの橋で、月を迎えるという意味があります。
・松寿関 くぐると長生きすると言われることから、別名長生きの門といわれています。
・中二階の茶室と母屋 歴代藩主が茶の湯を楽しまれたといいます。
・大傘松 枝葉の直径が15mあり、樹齢600年と言われ傘に似た形をしています。
・観潮楼 潮の満ち引きが見られたという江戸時代に建てられた茶室です。
・石投げ地蔵尊  地元の漁師、農民、商人等が、朝夕、願いことを書いた石を投げ入れてお参りしたといいます。

○丸亀美術館
 万象園の敷地の中にあり、絵画館、陶器館、雛人形を展示したひいな館から構成されています。
・絵画館  コローやミレーなどバルビゾン派絵画と日本画が展示されています。
・陶器館  イラン、イラクを中心として出土した 紀元前2500年頃から13世紀までの彩文土器や陶器・ガラス器などが展示されています。
・ひいな館  江戸時代から昭和に至るひな人形をはじめ、 櫛・かんざし・化粧道具などが展示されています。

    中津万象園・丸亀美術館ホームページ

○玄要寺
 丸亀市南条町にある臨済宗妙心寺派の寺です。
 京極家の墓所は明治維新まで代々近江の清滝寺徳源院に建てられていましたが、6代藩主の高朗候は丸亀の地で晩年を送り、明治7年77歳の生涯を終え、遺言によって玄要寺内に墓を造らせました。それ以後の京極家の墓は東京の光林寺にあります。
 この寺には、その他多度津京極家の墓をはじめ京極家家臣の墓が多く残り、また父親の仇討ちで有名な田宮坊太郎の墓や、夢告地蔵と呼ばれる地蔵堂も境内に隣接する墓地内にあります。
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