(88)“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語”
仇討ちは日本人の琴線に触れるのでしょう。昔から日本人は仇討ちの物語を文芸とし、芝居として演じてきました。特に江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃では仇討ち物と呼ばれる一大ジャンルを形成していたほどです。忠臣蔵や曽我兄弟の物語などがその代表例です。
讃岐にも、江戸時代、ここを舞台にした二つの仇討ち物語が歌舞伎や浄瑠璃の題材となっています。また、近代に入り、これを基にした映画も作られています。
一つは、江戸時代初期の寛永19年(1642)にあったという丸亀を舞台にした田宮坊太郎の物語です。もう一つは、江戸時代後期の文政10年(1827)に阿野南郡羽床下村(現在の綾川町)であった「研辰(とぎたつ)の討たれ」という物語です。
田宮坊太郎の物語が作品になったのは、宝暦3年(1753)、並木正三(なみきしょうぞう)によって書かれ大阪三桝大五郎座で上演された歌舞伎「金毘羅御利生幼稚子敵討」が最初だといいます。その後、これを基に明和元年(1764)、近松半二・竹本三郎兵衛によって浄瑠璃「金毘羅御利生敵討稚物語」が書かれ竹本座で上演されています。また、天明8年(1778)、司馬芝叟(しばしそう)・筒井半二によって浄瑠璃「金毘羅御利生花上野誉の石碑(はなうえのほまれのいしぶみ)」が書かれ江戸の肥前座で初めて上演されています。
その後も、この物語を題材にした歌舞伎や浄瑠璃が繰り返し上演され、金刀比羅宮の金毘羅大芝居でもしばしば上演されています。こうした中で田宮坊太郎像が作られ、坊太郎は、孝行の手本として、全国的に有名になり、敵討物の主要な一系統を作ったといわれています。
田宮坊太郎の仇討ち物語のあらましは、次のようなものです。
紀州浪人・田宮源八郎は、丸亀藩士・土屋甚五左衛門に剣術の腕を見込まれ、丸亀藩に取り立てられることになりました。そのとき源八郎の妻は彼の子供を身ごもっていました。ところが藩の剣術師範・森口源太左衛門(げんたざえもん)が源八郎の仕官を妬み、彼を闇討ちにします。父の亡き後生まれた男の子は坊太郎と名づけられ寺に預けられます。歌舞伎や浄瑠璃ではこの寺は志度寺とされ、坊太郎は乳母のお辻とともに預けられることになっています。
7歳のとき、坊太郎は父の死の話を聞かされ、仇討ちを決心し、土屋に連れられて江戸に行き、柳生飛騨守に弟子入りして新陰流の剣を学びます。10年後、免許皆伝となった坊太郎は丸亀に帰り、藩士立会いのなか、見事に森口を討ち果たし、父の無念をはらします。その後、坊太郎は出家し、江戸上野の寛永寺の一隅で庵を結んでいましたが、父母の後を追い、命を絶ちます。
「金毘羅御利生花上野誉の石碑」では、その四段目の「志度寺の段」が特に人気を集め、孤児となった坊太郎のためにわが身を痛めつけて回復を祈るお辻の母性愛が見せ場となっています。そのあらましは次のようなものです。
坊太郎は、叔父に命じられて、敵の森口源太左衛門から身を守るため病により口がきけない振りをしながら、乳母のお辻と志度寺に住んでいます。それを知らないお辻は、断食をし、水垢離(みずごり)を取って、「唖となったるこなたの業病。金毘羅様へ立願かけ。清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」と、坊太郎が口をきけるよう金毘羅大権現に願をかけます。そして、お辻のために志度寺秘蔵の桃を盗んだ坊太郎をいさめます。そして、願掛成就の日にお辻は自害を図ります。
丸亀市には、南条町の玄要寺に田宮坊太郎の墓といわれる五輪塔があり、その近くに父・源八郎が住家跡という石碑が立っています。山北町の山北八幡神社が仇討ちをしたところといわれています。また、さぬき市志度の志度寺には、お辻が水垢離(みずごり)を取ったという井戸があり、「薗(その)の桃」の碑が建っています。さらに東京上野の寛永寺塔頭寒松院にも坊太郎のものとされている墓碑があります。
しかし、田宮坊太郎のこの物語は、史実的裏付けが乏しく、創作ではないかと考えられています。この仇討ち物語を記している記録は幕末に丸亀藩で編纂された「西讃府志」ですが、この書にも史実がどうか不明であると記されています。
どうも田宮坊太郎の仇討ち物語は、金毘羅大権現のご利生(りしょう)つまりご利益(りやく)と結びつけられ、それに志度寺が加えられて江戸時代初期に創作された物語ではないかと考えられます。そして、その創作を基に、物語ゆかりの物といわれるものが造られていったのではないでしょうか。そういえば丸亀市の玄要寺にある坊太郎の墓も金毘羅丸亀街道の直ぐ近くにあり、参詣客は必ずそこをお参りしたと思われます。
しかし、創作とはいえ、江戸時代初期に、讃岐の金毘羅と志度寺を題材とした物語が書かれたということは、これらがその当時、全国的にもよく知られていたということではないかと思われます。
なお、田宮坊太郎の仇討ちは、昭和13年(1938)に「田宮坊太郎」という題名で南条新太郎主演・渡辺新太郎監督により映画化されているほか、昭和30年(1955)に「振袖剣法」という題名で、中村嘉葎雄(なかむらかつお、旧芸名は、中村賀津雄)が坊太郎に扮して酒井辰雄監督により映画化されています。また、近年では、山田風太郎原作の「魔界転生」(まかいてんしょう)という伝奇小説の中で、田宮坊太郎は死から蘇った魔界転生衆の一人で、肺病を病みながら父の敵を見事討ち取った居合の名手として描かれています。
もう一つの「研辰(とぎたつ)の討たれ」という仇討ち物語は、全くの史実です。
文政10年(1827)6月、讃岐阿野郡羽床下村(現在の綾川町)で、江州(現在の滋賀県)浪人の平井兄弟が、研師(とぎし)の辰蔵(たつぞう)を殺すという事件が起きました。
この事件の発端は、4年前、膳所藩(現在の大津市)の城下で、研屋の辰蔵が、平井市郎次という膳所藩の武士と自分の女房が不倫を働いているのを知り、怒ってその武士を殺して逃走したという事件です。辰蔵は讃岐の羽床下村の生まれで、若い頃出奔して刀研ぎの技術を身につけ、膳所城下で研屋をしていました。平井市郎次の二人の弟は、兄の仇である辰蔵を討つために諸国探索の旅に出、流浪の末、ついに辰蔵をその生まれ故郷で討ち果たしました。
この事件は話題になり、脚色も加えられ、芝居になっています。天保年間には、「敵討高砂松」(二世金沢竜玉・作)の題で歌舞伎化され、上方の浜芝居で上演されています。ここでは、研辰は、お家横領を企てた武士の悪の手先をつとめ、悪事が露見して家老を斬ってあちこち逃げ回るという設定になっています。
また大正14年には、木村綿花が「研辰の討たれ」として書き、平田兼三郎の脚色により歌舞伎座で初演されています。この作品の研辰は、刀研から武士になったのが嬉しくてたまらない、お世辞、ごますりなどを平気でする男として描かれています。この時、研辰を演じたのが二代目市川猿之助(後の猿翁)で、大変な人気を博しました。
近年では、中村勘九郎が「研辰」を演じています。
また、この仇討ち物語は、昭和7年(1932)に、「研辰」という題名で高田浩吉主演・秋山耕作監督により、また「研辰の討たれ」という題名で片岡千惠蔵主演・伊丹万作監督により映画化されています。
讃岐にも、江戸時代、ここを舞台にした二つの仇討ち物語が歌舞伎や浄瑠璃の題材となっています。また、近代に入り、これを基にした映画も作られています。
一つは、江戸時代初期の寛永19年(1642)にあったという丸亀を舞台にした田宮坊太郎の物語です。もう一つは、江戸時代後期の文政10年(1827)に阿野南郡羽床下村(現在の綾川町)であった「研辰(とぎたつ)の討たれ」という物語です。
田宮坊太郎の物語が作品になったのは、宝暦3年(1753)、並木正三(なみきしょうぞう)によって書かれ大阪三桝大五郎座で上演された歌舞伎「金毘羅御利生幼稚子敵討」が最初だといいます。その後、これを基に明和元年(1764)、近松半二・竹本三郎兵衛によって浄瑠璃「金毘羅御利生敵討稚物語」が書かれ竹本座で上演されています。また、天明8年(1778)、司馬芝叟(しばしそう)・筒井半二によって浄瑠璃「金毘羅御利生花上野誉の石碑(はなうえのほまれのいしぶみ)」が書かれ江戸の肥前座で初めて上演されています。
その後も、この物語を題材にした歌舞伎や浄瑠璃が繰り返し上演され、金刀比羅宮の金毘羅大芝居でもしばしば上演されています。こうした中で田宮坊太郎像が作られ、坊太郎は、孝行の手本として、全国的に有名になり、敵討物の主要な一系統を作ったといわれています。
田宮坊太郎の仇討ち物語のあらましは、次のようなものです。
紀州浪人・田宮源八郎は、丸亀藩士・土屋甚五左衛門に剣術の腕を見込まれ、丸亀藩に取り立てられることになりました。そのとき源八郎の妻は彼の子供を身ごもっていました。ところが藩の剣術師範・森口源太左衛門(げんたざえもん)が源八郎の仕官を妬み、彼を闇討ちにします。父の亡き後生まれた男の子は坊太郎と名づけられ寺に預けられます。歌舞伎や浄瑠璃ではこの寺は志度寺とされ、坊太郎は乳母のお辻とともに預けられることになっています。
7歳のとき、坊太郎は父の死の話を聞かされ、仇討ちを決心し、土屋に連れられて江戸に行き、柳生飛騨守に弟子入りして新陰流の剣を学びます。10年後、免許皆伝となった坊太郎は丸亀に帰り、藩士立会いのなか、見事に森口を討ち果たし、父の無念をはらします。その後、坊太郎は出家し、江戸上野の寛永寺の一隅で庵を結んでいましたが、父母の後を追い、命を絶ちます。
「金毘羅御利生花上野誉の石碑」では、その四段目の「志度寺の段」が特に人気を集め、孤児となった坊太郎のためにわが身を痛めつけて回復を祈るお辻の母性愛が見せ場となっています。そのあらましは次のようなものです。
坊太郎は、叔父に命じられて、敵の森口源太左衛門から身を守るため病により口がきけない振りをしながら、乳母のお辻と志度寺に住んでいます。それを知らないお辻は、断食をし、水垢離(みずごり)を取って、「唖となったるこなたの業病。金毘羅様へ立願かけ。清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」と、坊太郎が口をきけるよう金毘羅大権現に願をかけます。そして、お辻のために志度寺秘蔵の桃を盗んだ坊太郎をいさめます。そして、願掛成就の日にお辻は自害を図ります。
丸亀市には、南条町の玄要寺に田宮坊太郎の墓といわれる五輪塔があり、その近くに父・源八郎が住家跡という石碑が立っています。山北町の山北八幡神社が仇討ちをしたところといわれています。また、さぬき市志度の志度寺には、お辻が水垢離(みずごり)を取ったという井戸があり、「薗(その)の桃」の碑が建っています。さらに東京上野の寛永寺塔頭寒松院にも坊太郎のものとされている墓碑があります。
しかし、田宮坊太郎のこの物語は、史実的裏付けが乏しく、創作ではないかと考えられています。この仇討ち物語を記している記録は幕末に丸亀藩で編纂された「西讃府志」ですが、この書にも史実がどうか不明であると記されています。
どうも田宮坊太郎の仇討ち物語は、金毘羅大権現のご利生(りしょう)つまりご利益(りやく)と結びつけられ、それに志度寺が加えられて江戸時代初期に創作された物語ではないかと考えられます。そして、その創作を基に、物語ゆかりの物といわれるものが造られていったのではないでしょうか。そういえば丸亀市の玄要寺にある坊太郎の墓も金毘羅丸亀街道の直ぐ近くにあり、参詣客は必ずそこをお参りしたと思われます。
しかし、創作とはいえ、江戸時代初期に、讃岐の金毘羅と志度寺を題材とした物語が書かれたということは、これらがその当時、全国的にもよく知られていたということではないかと思われます。
なお、田宮坊太郎の仇討ちは、昭和13年(1938)に「田宮坊太郎」という題名で南条新太郎主演・渡辺新太郎監督により映画化されているほか、昭和30年(1955)に「振袖剣法」という題名で、中村嘉葎雄(なかむらかつお、旧芸名は、中村賀津雄)が坊太郎に扮して酒井辰雄監督により映画化されています。また、近年では、山田風太郎原作の「魔界転生」(まかいてんしょう)という伝奇小説の中で、田宮坊太郎は死から蘇った魔界転生衆の一人で、肺病を病みながら父の敵を見事討ち取った居合の名手として描かれています。
もう一つの「研辰(とぎたつ)の討たれ」という仇討ち物語は、全くの史実です。
文政10年(1827)6月、讃岐阿野郡羽床下村(現在の綾川町)で、江州(現在の滋賀県)浪人の平井兄弟が、研師(とぎし)の辰蔵(たつぞう)を殺すという事件が起きました。
この事件の発端は、4年前、膳所藩(現在の大津市)の城下で、研屋の辰蔵が、平井市郎次という膳所藩の武士と自分の女房が不倫を働いているのを知り、怒ってその武士を殺して逃走したという事件です。辰蔵は讃岐の羽床下村の生まれで、若い頃出奔して刀研ぎの技術を身につけ、膳所城下で研屋をしていました。平井市郎次の二人の弟は、兄の仇である辰蔵を討つために諸国探索の旅に出、流浪の末、ついに辰蔵をその生まれ故郷で討ち果たしました。
この事件は話題になり、脚色も加えられ、芝居になっています。天保年間には、「敵討高砂松」(二世金沢竜玉・作)の題で歌舞伎化され、上方の浜芝居で上演されています。ここでは、研辰は、お家横領を企てた武士の悪の手先をつとめ、悪事が露見して家老を斬ってあちこち逃げ回るという設定になっています。
また大正14年には、木村綿花が「研辰の討たれ」として書き、平田兼三郎の脚色により歌舞伎座で初演されています。この作品の研辰は、刀研から武士になったのが嬉しくてたまらない、お世辞、ごますりなどを平気でする男として描かれています。この時、研辰を演じたのが二代目市川猿之助(後の猿翁)で、大変な人気を博しました。
近年では、中村勘九郎が「研辰」を演じています。
また、この仇討ち物語は、昭和7年(1932)に、「研辰」という題名で高田浩吉主演・秋山耕作監督により、また「研辰の討たれ」という題名で片岡千惠蔵主演・伊丹万作監督により映画化されています。
●訪れてみたいところ
○玄要寺
丸亀市の玄要寺には、田宮坊太郎のものだといわれる墓があります。かなり朽ちた五輪塔がブロック塀で囲まれており、市川鯉三郎ら歌舞伎役者の献灯が見られます。仇討ちの場は山北八幡宮ではないかといわれています。
○志度寺
志度寺境内の曲水式庭園の片隅に、「お辻の井戸」があり、また、書院前には、「薗(その)の桃」の碑が建っています。いずれも史実に従って作られたものではなく、浄瑠璃人気にあやかって後に造られたものです。
○国分八幡宮
田宮坊太郎の仇討ち場所は国分八幡宮だという説もあります。高松市国分寺町の北端、国分台(縄文遺跡地)の麓の小高い大禿山の中腹、四国霊場80番札所・国分寺の東北、国分尼寺の西南に位置する場所に鎮座しています。この八幡宮の南にある旧馬場の地を国府八幡馬場大門といい、田宮坊太郎仇討ちの古蹟といわれています。また境内山麓に坊太郎のものという墓が残っています。
○研辰の討たれ遺蹟・研辰生家の跡・研辰の墓
綾川町羽床下のさぬき新道沿いに、「研辰の討たれ遺跡」の碑があります。また、近くには「羽床辰蔵」の墓碑名のある墓と生家跡があります。
○浄覚寺
綾川町のこの寺には、辰蔵が応戦に使ったという刀、「綾南復讐記」の写本が残っていま
す。
○玄要寺
丸亀市の玄要寺には、田宮坊太郎のものだといわれる墓があります。かなり朽ちた五輪塔がブロック塀で囲まれており、市川鯉三郎ら歌舞伎役者の献灯が見られます。仇討ちの場は山北八幡宮ではないかといわれています。
○志度寺
志度寺境内の曲水式庭園の片隅に、「お辻の井戸」があり、また、書院前には、「薗(その)の桃」の碑が建っています。いずれも史実に従って作られたものではなく、浄瑠璃人気にあやかって後に造られたものです。
○国分八幡宮
田宮坊太郎の仇討ち場所は国分八幡宮だという説もあります。高松市国分寺町の北端、国分台(縄文遺跡地)の麓の小高い大禿山の中腹、四国霊場80番札所・国分寺の東北、国分尼寺の西南に位置する場所に鎮座しています。この八幡宮の南にある旧馬場の地を国府八幡馬場大門といい、田宮坊太郎仇討ちの古蹟といわれています。また境内山麓に坊太郎のものという墓が残っています。
○研辰の討たれ遺蹟・研辰生家の跡・研辰の墓
綾川町羽床下のさぬき新道沿いに、「研辰の討たれ遺跡」の碑があります。また、近くには「羽床辰蔵」の墓碑名のある墓と生家跡があります。
○浄覚寺
綾川町のこの寺には、辰蔵が応戦に使ったという刀、「綾南復讐記」の写本が残っていま
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辰蔵エレジー
拝啓
このブログは実によくできていると感じ入りました。
宜しければ、本ブログを当方の上記サイトにリンク
させて頂きたいのですが、いかがでしょうか。
m(_ _)m
敬具
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