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(82)“竹取物語に秘められた古代讃岐国成り立ちの謎”

 私たちが幼いときから聞いている「竹から生まれ、中秋の満月の夜、月に帰って行ったかぐや姫」の物語は、日本の各地で語り継がれており、香川県でもさぬき市長尾町に伝えられています。この物語は単なる民話ではなく、日本で最初の小説といわれている「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」で始まる「竹取物語」として書かれています。このような「かぐや姫」の物語は、古代の讃岐国の成り立ちと深い関係があるのではないかと考えられます。
倭迹迹日百襲姫命
所蔵:讃岐一宮 田村神社(.田村神社の主祭神は、倭迹迹日百襲姫命。女神をお祀りしています。) 

3世紀中葉から6世紀末葉までの約300年間にわたる古墳時代に、主に奈良盆地を本拠として倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した政権をヤマト王権といいます。ヤマト王権による統一が進んでいくにともなって、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度(しせいせいど)と呼ばれる中央、地方の豪族を単位とした支配体制が形づくられていきました。
 豪族は、氏という同族集団をつくり、多くの家に分かれていましたが、そのうち本家にあたる家の長が氏上として一族を率い、中央、地方において、それぞれ一定の政治的地位を与えられていました。各氏は、家柄や勢力によって臣(おみ)・連(むらじ)・君・直(あたい)・首(おびと)などの姓(かばね)をヤマト王権から授けられていましたが、それは各氏の政治的地位を示すものでした。また、多くの職能を分担する伴造(とものみやつこ)がおり、その下に品部(ともべ)という人民集団があって、貢納や技術によってヤマト王権に奉仕していました。

 讃岐をもっとも早く開発したのは忌部氏(いんべし)といわれています。忌部はケガレを忌み、神事などに奉仕する品部で、古来より宮廷祭祀における祭具の製造や神殿・宮殿の造営に携わってきました。その子孫は後に斎部と名乗ります。
 忌部氏は天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖先とし、その勢力は、大和から、九州・紀伊半島・四国・房総半島などに各地に広がっていきました。その中でも、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波忌部氏と、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐忌部氏は、早くから四国に移住してきたといわれています。なお手置帆負命は天照大神が天岩戸に隠れたときに御殿を造営した神様です。
 後に讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる「古語拾遺(こごしゅうい)」(807年)には、「大和で矛竿(ほこさお)を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた」と書かれており、讃岐忌部は工作を業としていたと考えられています。なお、“さぬき”という国名の由来は、矛竿をつくり貢物としたので、竿調国(さおつきのくに)と言ったのが縮まったともいわれています。
 讃岐忌部氏は、農業にすぐれた阿波忌部氏の助けを得て、讃岐の山野を開拓していったと伝えられており、大麻神社、粟井神社はともに忌部氏がその祖神である太玉命を祀ったものであり、財田、麻、粟井などの地名はその名残りであるといわれています。

 ところで、奈良県の中西部に広陵町(こうりょうちょう)という町があり、そこの巣山古墳の近くに竹やぶに囲まれて、「讃岐神社」という延喜式(えんぎしき)内社がひっそりと鎮座しています。延喜式内社とは、千年程前の平安時代中期に編纂された延喜式の神名帖に記載された神社で、当時朝廷から重要視された神社であることを示しています。神名帖には、大和国広瀬郡散吉郷に讃岐神社の名が記されており、散吉は讃岐と同音・同意の「さぬき」だそうです。
 この神社の祭神は、「天太玉命」とされており、地元では、香川県の讃岐にいた忌部氏が、大和の地に移り住み、その地を「散吉(さぬき)」とし、神社を造営して自分たちの祖神を祀り、讃岐神社としたといわれています。また、かぐや姫の名付け親は「三室戸の斎部の秋田」(みむろとのいんべのあきた)とされていますが、讃岐神社の近くが、彼が住んでいたという「三諸岡」(みむろ丘)であるといわれています。
 これらのことから、広陵町の人たちは、竹取物語に「さぬきの造」として出てくる竹取の翁は、讃岐神社を造営した讃岐忌部氏のことであり、竹取物語の舞台は広陵町であると考えています。

 一方、広陵町から南東の方向にある桜井市には箸墓(はしはか)という全長280mの出現期の前方後円墳としては最大規模の古墳があります。この古墳は「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめのみこと)」の墓といわれています。百襲姫(ももそ姫)は、第7代孝霊天皇の皇女で、大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚したことで知られています。
 興味深いことに、この百襲姫は、香川県の水主神社と田村神社でも祭神として祀られており、姫が讃岐に来たという伝承が残されています。両社とも延喜式内社で、田村神社は讃岐一宮の名神大社です。高松市仏生山町にある百相神社も百襲姫の来遊を伝えています。
それらの伝承は次のようなものです。

 百襲姫は、8歳で大和を旅立ち、讃岐・引田の安戸の浦に到着し、水主(水主神社)に住み地元の民に稲作・灌漑を伝えたが、讃岐全土を治めるため、馬篠(艪掛神社)から船に乗り、讃岐・船岡山(船岡神社)に入り落ち着いた後、讃岐一宮(田村神社)に住み、ため池を作り、稲作を伝えた。しかし、18才の時大和国から迎えが来て、地元の民は引き続き姫に讃岐に留まって欲しいと抵抗したが、それも空しく、大和の国に帰っていってしまった。その後、讃岐では姫を農業の開祖神として祀った。

 以上のような話を総合すると、次のようなストーリーの展開が想像できます。
 まだ讃岐が未開の地でヤマト王権の威光が十分に及んでいなかった頃、百襲姫は讃岐忌部氏の懇請によりヤマト王権の象徴として幼い時に讃岐に送り込まれ、讃岐忌部氏により守られていた。しかし、成人した時に、ヤマト王権から大和に帰るよう指示を受けたため、讃岐の民人と泣く泣く別れて大和へ帰って行った。その時、讃岐忌部氏の一部が百襲姫に仕えるため、お供で就いて行き、そのままその地に留まり、自分たちの祖を祀る神社を造った。その後、この百襲姫の物語がベースとなって、竹取物語が書かれた。
 このストーリーによると、百襲姫こそ、かぐや姫であり、讃岐はかぐや姫物語の原型の地ということができます。さらにおもしろいことには、百襲姫の弟には、吉備津彦命(きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)という弟(息子という説もあります)がおりますが、讃岐に伝わる桃太郎伝説のモデルは吉備津彦命あるいは稚武彦命ではないかといわれていることです。そうだとすれば、かぐや姫は桃太郎のお姉さんだということになります。
 このようなストーリー展開を裏付ける史実的根拠は全くありません。しかし、古代において、讃岐は大和と深い関りがあったということは間違いないようです。
 なお、この物語をお読みになるにあたっては、(54話)「讃岐に残る桃太郎と姉の物語」も参考にしてください。

●訪れてみたいところ

○艪掛神社(ろかけ神社)
 東かがわ市大内町馬篠にある倭迹迹日百襲姫命を祭神とする神社です。百襲姫命がここの海岸に舟を留めて休息したとき、船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承があり、現在もこの辺りの地名は「ろかけ」というそうです。近くに艪掛松という古い松の木があり、そのかたわらに芭蕉の「この松の 実生えせし世や 神の秋」という句の石碑が建っています。
 艪掛神社の鎮座地は、水主神社の旧宮跡だったといい、三代物語には「この神は、海の守護神につき南海の旅行者は必ず拝謁する。よって俗名を首途神(かどでのかみ)という」とあり、昔は舟の艪や矢がこの神社に奉納されていたといいます。

○袖神社
 現在の大谷地区にあります。倭迹迹日百襲姫命は、安堵の浦に着いたとき、「姿見の井戸」で身つくろいをし、暑かったので着物の袖を引きちぎったといいます。

○水主神社
 東かがわ市大内を流れる与田川の川上にあり、倭迹迹日百襲姫命を祭神としています。この神社はすでに奈良時代から大内一体の崇敬を集め、多くの社人を要していました。
 現在社の上流は大内ダムによって堰き止められてしまっていますが、その昔は豊富に流れる水を供給する水神として、弥生期以降の田事にまつわる神として祭られたものと思われます。水主神社付近からは縄文後期から弥生期、古墳時代まで遺跡が発掘されています。
 この神社にはわかばさんと呼ばれる百襲姫の御陵と伝わる塚があり、本殿真後ろには百襲姫命の父である孝霊天皇を祭った社があります。また西方の本宮山山頂部にくじら岩という巨石があります。
 水主の里には保田池という池があるそうです。百襲姫命がこの池のほとりで足を冷やしていると、大なまずが現れ足に噛みつき、怒った姫が水を蹴ったので堤が切れて岡になったといいます。それ以降この辺りにはなまずがいなくなったそうです。
 なお、源平の争乱のとき、源義経が屋島に向かう途中この神社に立ち寄り戦勝祈願をしたという伝承があります。

○船岡山・船山神社
 船岡山は高松市香川町浅野にあり、倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地と伝えられます。船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称していました。地名の百相は命の名に由来するといわれています。百襲姫命はこの地で農業振興のために溜池を作ることを思いついたと思われ、手前の船岡池が最初に作られたため池ではないかと言われています。
 高松市仏生山町に鎮座する船山神社は、倭迹迹日百襲姫命を祭神とし、もとは船岡山にありました。この神社のある現在の地は、田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあったところです。

○田村神社
 讃岐一宮で、倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(別名 吉備津彦命(きびつひこのみこと))・猿田彦大神・天隠山命(あめのかぐやまのみこと)・天五田根命(あめのいたねのみこと)を祭神とし、これを「田村大神」と総称します。
 倭迹迹日百襲姫命は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給いよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられたと、関連伝承は伝えています。
 この神社の始まりは境内にある池といわれています。この池にはかって豊富な湧き水があり、古墳時代後期以来香川郡の平野部の開墾が進むにつれてこの場所に水神が祀られ、709年(和銅2年)に神社が創祀されたといわれています。百襲姫命は農業・水の神と伝えられています。香川県で溜池をはじめて作ったのが百襲姫命ともいわれています。
 讃岐一宮としての田村神社の神威は古来から大きく、室町時代、細川勝元が応仁の乱の7年前にかけた壁書が伝えられています。
 境内西側に倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝えられる花泉があり、境内東側に百襲姫がこの地に来たとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかり、このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝えられる袂井(たもとい)があります。境内の東三丁のところには百襲姫命が休んだという休石があります。また田村神社に伝わる故事に基づき、平成18年27日に、倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命(桃太郎)の像が建立除幕されます。

○大麻神社
 善通寺市大麻町にあります。社伝によれば、讃岐忌部氏が阿波忌部氏と協力してこの地を開拓し、麻を栽培するとともに忌部氏の祖先神天太玉命を祀ったのが起源とされています。

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(82)“竹取物語に秘められた古代讃岐国成り立ちの謎”

 私たちが幼いときから聞いている「竹から生まれ、中秋の満月の夜、月に帰って行ったかぐや姫」の物語は、日本の各地で語り継がれており、...

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かぐや姫ちょっと書きました

かぐや姫 讃詩*

 みなさんは「かぐや姫」のおはなしをご存じですね。

 平安時代に創作され、竹から生まれたかぐや姫が、やがて美しく成長し、五人の公卿の若君から求婚されるものの、ついには月に帰って行く、そういうおはなしです。



 さて、いまからおはなしするのは、今から1300年前に創始された讃岐一宮田村神社に伝わるご祭神の「お姫さま」の物語です。

 わたしたちの知っている「かぐや姫」を、讃岐一宮の言い伝えと照らし合わせてみると、浮かび上がってくる「かぐや姫」。それをいまからご紹介したいと思います。



 むかしむかし、約2000年以上前の讃岐国の安戸ノ浦というところに、おん年八才ほどの美しい姫が流れつきました。この方はやまとととひももそ姫といい、遠くヤマトの国の帝(孝霊天皇)のお子さまでした。

 当時、大和の国は乱れており、お世継ぎをめぐっての騒動が繰り返されている時期でした。そんな騒動に巻き込まれてはと、ももそ姫の身をお案じになった帝は、姫が三才の時、母君さまのご実家のある淡路の国におあずけになりました。ですが、その淡路の国もあやうくなって、八才になっていた姫は讃岐の国まで避難して来られたのです。

 そして、このももそ姫こそが、のちに「かぐや姫」として語りつがれる、もとのモデルになった方だったのです。

 ではなぜ「竹から生まれた」ということになったのでしょう。

 それはもともと讃岐の国が「竹」と非常に縁の深い土地だったからです。

 そのむかし、讃岐の国は「竿調国(サオツキノクニ)」と呼ばれ、祭事に使う矛竿(竿竹ののぼり)を調(貢物)としていた国柄でした。

 ですから、その讃岐の国に降り立ったももそ姫は、竹の国に舞い降りたかぐや姫でもあったのです。



 姫をお迎えしたのは、たぶん土地の豪族であったことでしょう。

 その地は、寒川郡長尾郷(今の長尾町) あたりではなかったでしょうか。というのも長尾町にはかぐや姫伝説が数々残っているからです。たぶんそのあたりの
豪族の庇護のもと、すこやかに成長されたと思われます。

 やがて姫は、讃岐平野の中央(香川郡百相郷)へと居を移され、住まいするようになりました。

 すでに成長なさっていた姫は、その土地の農民たちに、稲作の新しい知恵や工夫を伝授しました。
これには姫だけではなく、姫のお供の方々もかかわっていたでしょう。
彼らが都で学んだ稲作の知恵はこの地の農民に伝えられ、大きな収穫をもたらしました。

 そのうわさを聞き知った他の地域からも「わたしたちのほうにもお越しいただきたい」という声が多く聞かれるようになりました。

 ほら、このあたりは五人の若君が「わたしのもとに嫁いでください」と求婚するのに、少し似ていませんか?

 ともあれ姫は、讃岐の田畑を潤すことに大きく貢献なさいました。そして、雨のすくない讃岐に数々の水にまつわる伝説を残されたのです



 時が経ち、姫は十八歳になりました。

 宮中がようやく落ち着きを取り戻し、平和が訪れたころ、都から「姫さまを都におかえしするように。」とのお達しがありました。

 もちろん、姫にお仕えし、お守りしてきた讃岐の人々には晴天の霹靂でした。
それは手のひらの玉をとつぜん奪われるような痛みだったことでしょう。

 「かぐや姫」には月から迎えにきた空からの使者を、弓矢で追い返そうとする
エピソードがありますが、民のこころはたぶんそれに似たものだったと思われます。

 とはいえ、尊いおん血筋の姫君です。

 民人は泣く泣く、姫を都に送り出しました。

 遠い都へ。まるで月のように遠い都へ。



 現在の高松市一宮町の田村神社には、姫が腹痛のとき袂に水を含み飲ませ腹痛を治したと伝わる『袂井』とともに『花の井』という井戸があるそうです。

 姫がヤマトにお帰りになったのちも、民人たちは姫をしのんで、その井戸から水をくみ、花を生けていたそうです。



 おしまいに。

 やまとととひももそ姫はかぐや姫のモデルであったというおはなしをしました。

 もうひとつ、近年考古学的に、非常に注目を集め発掘調査中の、奈良県の纏向遺跡は、儀式、祭などに使用する道具などかなり古い時代の貴重な出土品が出ています。

 また住居跡は、全て高床式で特別な地位にあった人たちが暮らしていたと推測されます。そのよう なことから纏向は、古来儀式や神事を行い、日本各地の頭領的存在が住んでいたのではないか。さらに王がいた都ではないだろうかと考えられているのです。

 遺跡の中には、日本最古の巨大な墓(箸墓:全長280m)があり、それは最初の王の墓ではないかと考えられています。

 さらに纏向遺跡の近くには、古くから信仰の対象になっていた三輪山という霊山があり、そこには日本最古の神社・大神(おおみわ)神社があリます。

 そうです、ももそ姫は、三輪山の神(大国主命)と天皇の橋渡しを行う巫女(卑弥呼)として迎えられました。

「纏向は日本で最初にできた都ではないか?」と推測されこの中心的存在こそ卑弥呼となった倭迹迹日百襲姫命ではないかとかんがえられています。
 
 また、近くには平安時代延喜式内社でもあった讃岐神社があり、これはももそ姫とともに讃岐から移り住んだ斎部(忌部)一族が創祀したと云われています。

こんぴら船々

手置帆負神(讃岐忌部の祖):地鎮祭の建築の神
手置帆負神は古事記の中に出てくる神様で、天の岩の宮殿の造営にあたり、日本に下っては大国主命(オオクニヌシノミコト)の笠縫として奉仕せられた方です。手置帆負神を文字通り解釈すれば、帆掛け舟の帆を立てる神様です。 船に帆を張り、それを背にして(帆を負って)、オールを漕がない(手は使わず置いている) こうした船の使い手だったそうです。
「金毘羅船々おい手に帆かけてシュラ・シュシュシュ」の廻り歌を思い出します。その舟つくりの技を活かして家も作った。 今でも建築の棟上式には、必ず呼び出される大工の神様で、航海安全の神様です。

讃岐と竿竹とちょうさ

古語拾遺にある八百竹の貢進の話
讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる『古語拾遺』(807)には、[大和で矛竿を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた]と書かれています。大和と讃岐にいた手置帆負命神(讃岐国造、建築の神様)。天太玉命(あまのふとたまのみこと)の孫の天富命(あまのとみのみこと)は、手置帆負(木の神・たおきほおい)と彦狭知(土の神・ひこさしり)の二神の子孫を率いて、神聖な斧と神聖な鋤を使って、はじめて山の原材を伐り、正殿を造営しました。
これが所謂、畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかりと立てて、高天原の千木高くそびえ、はじめて天下を治められた天皇が、天皇による国政を創められた日です。

※讃岐忌部が上古から住んでいた西三豊地方ではいまでも竹竿を収めていたことが祭りの名前に名残を残しています。
『ちょうさ祭り』・・・・・・・・・・長竿祭り
  各地区が飾りを競って神社に奉納しているが、昔は、『太鼓台』の前に長竿でのぼりをあげ、どの地区の『太鼓台』であるかを誇示していたそうです。いまでは、のぼりがなくなり、現在の『太鼓台』が『ちょうさ』とよばれるようになったとの事です。『ちょうさ祭り』は、讃岐から端を発するお祭りの名前だったのです。
---讃岐三宮 多和神社(志度) 松岡宮司のお話から
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