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(81)“二つある源平ダンノウラの戦い”

  源平合戦ダンノウラの戦いというと、中学校や高校の歴史では、平家が滅亡した関門海峡での「壇ノ浦」の戦いだと教えられています。ところが、香川県の高松市辺りでは、ダンノウラの戦いというと、高松市の東にある屋島での源平の戦いのことだと思っている人が多くいます。
 現在屋島は四国と地続きになっていますが、これは江戸時代からのことです。当時は文字通りの島で、その東側は南に大きく切り込んだ入江になっていました。この屋島東麓の海岸あたりを「檀ノ浦」といい、今から約820年前、下関の「壇ノ浦」の戦いの一ヵ月前にここでも「檀ノ浦」の戦いがありました。
 屋島の方は「きへん」の「檀」、関門海峡の方は「つちへん」の「壇」と偏が違うだけです。「檀」は紙の素材である「まゆみ」という意味で、高松には「檀紙(だんし)」という地名のところもあり、かつて「檀(まゆみ)」が多く採れたところかもしれません。

 寿永3年(1184)2月、今の神戸にある一ノ谷の合戦で敗れた平家は、安徳天皇を奉じて再び讃岐の屋島に拠りました。しかし、瀬戸内海の制海権を平氏に握られていることから源氏は直ぐに平氏を追撃することができませんでした。そこで源氏は、橘次公業(きちじきんなり)を先陣として讃岐に潜入させ、新居・羽床・大野など地元の有力諸氏を味方に誘い、平氏を追撃する準備を着々と進めます。一方で、4月末に梶原景時らを鎌倉から出立させ、7月に入ると義経屋島征伐の命を下すよう上皇に奉請し、また範頼を九州に向かわせます。
 寿永4年(1185)2月上旬、義経は京都を発ち、今の大阪から、わずか150余騎を率い、強風の中を出帆します。このときの義経と軍監梶原景時との間の「逆櫓(さかろ)論争」はよく知られているところです。
 2月17日早朝、悪天候を強行した義経軍は阿波勝浦(小松島市)に上陸し、そこから阿波と讃岐の国境である峻険な大坂峠を乗り越え引田に入ります。そして白鳥神社、水主神社に武運長久を祈願した後、本隊を分けて海岸沿いの志度街道と山間の長尾街道とを別々に進み屋島の背後に迫ります。

 当時、屋島は、その西側は全くの海でした。その南側と四国との間は、潮の満干によって潟が見えたり海になったりする浅瀬の海峡になっており、簡単に人馬が渡ることができませんでした。またその東側と対岸との間は入江になっていました。平氏は、このような地形を利用して屋島の東の海側からの侵攻に備えた防衛体制を構築していました。
 屋島檀ノ浦の高台に内裏(だいり)を造営し、そこで幼い安徳天皇と三種神器を守り、周りに天皇の母の徳子(後の建礼門院)、祖母の二位の尼(清盛の未亡人)と女官たちや、多くの公家衆達が侍っていました。そして屋島対岸の庵治半島の付け根の入江に軍船を隠し、また東南対岸に総門を構えて本陣を置き、海辺の防御に備えていました。平氏の軍勢は3000騎近くあったといいます。

 19日午前8時過ぎ、義経の軍は平氏の総門を北に望む瓜生が丘に陣を構え、海岸沿いの志度街道を走ってきた隊と合流します。義経のもとには、事前に橘次公業が手を回していたこともあって、平氏を寝返って源氏についた讃岐の武将たちも馳せ参じていました。義経軍の勢力は500騎余りだったといわれています。そして、ここで二手に分かれて攻撃が開始されました。一隊は総門の本陣に向かい、もう一隊は屋島南対岸の赤牛崎(あかばざき)あたりを渡って安徳天皇が鎮座する屋島檀ノ浦の内裏に向かいました。
 奇襲を得意とする義経軍は、牟礼、高松の里の民家に次々と火を放ち、大軍が押し寄せているように見せかけます。平氏は南の四国側からの攻撃を予想していなかったため、この攻撃は不意をつかれたものとなり、猛火と猛煙を見て慌てふためき、入り江に浮かべていた船に我先と乗り込んで沖合いに逃げ、内裏や本陣はもぬけの殻になってしまいました。その後を義経軍は次々と火を放ち、平氏が帰るべき本拠を壊滅しました。海に逃れた平氏の総大将平宗盛は、義経軍が思いのほかわずかな軍勢であったことを知り、地団駄を踏んで悔しがったといいます。
 しばらくして、平氏も船を返して反撃に出、海浜での戦いとなりました。そのような中、都第一の強弓・精兵といわれた平能登守教経(たいらののとおかみのりつね)が、義経に狙いを定めて矢を放ちました。とっさに佐藤継信が義経の前に出て、その身代わりとなって射抜かれ落馬します。これを見ていた能登守の従者菊王丸が嗣信の首をとろうとしますが、逆に継信の弟に忠信に討ち取られます。

 次の20日も激しい戦いが行われましたが、その合間に平氏は一艘の船に美人を乗せ、扇の的を立てて源氏を挑発しました。これを見た義経はその扇の的を射る大役に、那須与一宗高を選びます。与一は見事に扇の的を射落とし、味方、敵方からも大喝采が起こりました。
 ところが、扇の的を見事射抜いたことに感激して船中で舞っていた平氏方の武者を、与一が射殺したことに端を発して、平氏の怒りが燃え、再び乱戦となりました。悪七兵衛景清が美尾屋十郎の甲の錣(しころ)を素手で引きちぎったのもこの時の出来事です。また、義経の弓流しのエピソードもこのときの出来事だといわれています。
 この日の夜半、平氏は、反撃の態勢を整えるため、庵治半島を海上から迂回します。21日の朝志度湾に上陸し、志度寺の境内に立てこもろうとします。これに対して義経は、瓜生ヶ丘から急襲し、志度の浜辺でたたみかけるように攻撃を加えました。
 志度で戦が行われている間、義経軍への加勢が増えているという知らせに、平氏はついに屋島の陣地を捨て、長門の壇ノ浦へと落ち延びていきます。

 屋島檀ノ浦の戦いのとき、兵力の点でははるかに平氏が源氏に勝っていました。ところが平氏は惨敗してしまいました。これは、平氏が海からの攻撃に備えたのに対して源氏はその裏をかいて陸から攻撃したこと、また、平氏の権力の象徴である三種神器を持つ安徳天皇の鎮座する内裏を直接攻撃したことにあると考えられます。つまり、隙間を突いて心臓部に対して容赦のない一撃を加えたためです。これができたのは、戦いの前に源氏が地元の情報を十分に掌握していたということでしょう。
 平氏が滅んだのは屋島檀ノ浦の戦いから約1ヵ月後の3月24日のことです。
●訪れてみたいところ
 ドライブウェイの中間ポインに檀ノ浦展望台があり車を停めると、眼下に檀ノ浦古戦場が一望のもとに拡がっています。正面に五剣山が聳え、左手の入り江が檀ノ浦。そこから相引川に沿って史跡が点在しています。

義経鞍掛松
 義経屋島を臨むこの地で人馬を整え、松の枝に鞍を掛け、屋島を仰ぎ見て一息入れたところだと伝えられています。

○相引川
 屋島はもともとは完全に離れた島でした。その名残として、相引川によりかろうじて本土と切り離されています。相引川は屋島南部を東西に流れどちらの側も海につながっているという変な川です。その名の由来については、源平互いに勝負がつかず引き分けたからとか、あるいは引潮のときには両サイドから潮が引くからとか諸説があります。
 謡曲「屋島」に「相引に引く汐の…」と詠われていますが、引き潮になるとこの川は東西両側より見事に潮が引きます。

○赤牛崎(あかばざき)
 義経は高松方面(高松町)から赤牛が海を渡っていることを聞き、後藤兵衛父子ら源氏30余騎に海を渡らせ屋島に上陸し、平家軍の陣営に攻め寄せることができたと伝えられています。そこからこの地に赤牛崎の名が残っています。現在この地には「赤牛橋神社」が祀られています。

○総門跡
 総門跡は、琴電八栗駅より北へ徒歩2分、旧庵治街道沿いにあります。高松藩主松平頼重公が立てた古びた門のような標木と「源平盛衰記」の一節が刻まれた大きな碑があります。
 平氏は、屋島檀の浦の行宮ができるまで六万寺を安徳天皇の行在所とし、屋島の東に門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺蹟です。後、檀の浦に行宮を移してからも、この門を南部の重鎮として源氏軍を防ごうとしました。当時この付近は海浜で、「平家物語」には、「惣門の前のなぎさに舟どもつけならべたりければ」とあります。

○船隠し
 国道36号線を北上し庵治町の突端にある入り江です。平家が合戦に備えて船を隠したといわれています。

安徳天皇社(檀之浦神社)
 菊王丸の墓より北へ400メートル、屋島山麓にあります。ここは安徳天皇が1年余りを過ごした案在所の跡地です。屋島の峰を背に、檀ノ浦の入り江を眼前にした防御に好都合の地の利を得ていました。

○射落畠
 佐藤継信が義経の身代わりとなって平家の雄将能登守教経の強弓に射落された所です。総門跡より100メートル東にあります。昭和6年、継信墓所の大修築と共にこの地に射落畠碑と遠祖君乗場薄墨碑が建立されました。

○洲崎寺
 さぬき三三観音霊場二番札所。総門より北に400メートル行ったところの、県道左手にあります。洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間(806~)に弘法大師により創建されました。本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。源平合戦・長曽我部氏の侵攻により焼かれるなど繁栄と衰退を繰り返し、元禄12年(1699)に再興され現在に至っています。
 佐藤継信の亡がらを、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣・瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられており、継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要が行われています。
 洲崎寺には宝物として継信の鎧の大袖、義経の愛馬太夫黒の轡、水の中で馬に乗る鉄製のあぶみ、室町時代の画家、小栗宗丹筆と伝えられる「弁慶勧進帳図」、扇面の「佐藤継信戦死の図」などがあります。また鵯越を降りる義経、海に馬を乗り入れる敦盛とそれを追う熊谷直実、継信と菊王丸、扇の的、弓流しが描かれている六曲二双の屏風もあります。
 平成12年に再興300年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島檀ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面には「扇の的」「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明版があります。また江戸時代、四国八十八ヵ所霊場を庶民に広め、四国遍路の父と讃えられる真念の墓があります。

○佐藤継信の墓・太夫黒の墓
 射落畠より南西に300メートルくらい行ったところにあります。傍(墓所北側)には、松にうっそうと覆われた王墓(景行天皇の皇子で讃岐の国造の始祖神櫛王の墓)があります。寛永20年、高松初代藩主松平頼重公が新しく墓石を建ててその忠死を称えました。昭和6年5月、継信30世の孫・山形県人佐藤信古氏が更に大修築を加えて面目を一新しました。
 同所に太夫黒という馬の墓もあります。この馬はもと後白河法皇から義経に賜ったもので、継信の忠死を賞揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。
 継信の墓はほかにもう一か所、安徳天皇社から少し北上して左手に坂を登る遍路道にもあります。それはやはり松平頼重が、屋島に向かう人たちに継信の忠死を知らせるために建立したものといわれています。

○菊王丸の墓
 高松市屋島東町の屋島東小学校北側の道路沿いにあり、菊王丸というバス停があります。 菊王丸は能登守教経の使っていた童で、佐藤継信が能登殿の強弓に射落とされた時、菊王丸は継信の首をとろうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟佐藤四郎の弓によって射ぬかれました。このとき、菊王丸はまだ十八歳だったといいます。

○いのり岩・駒立岩(こまだていわ)
 那須与一は下野国の住人で資隆の第11子です。このとき弱冠20歳でした。平家の船に立てた竿の先の扇の的を射るとき、この岩の所で「南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真中を射させ給え」と祈ったと伝えられています。「いのり岩」の字は、松平頼重公の臣箕輪野六の書と伝えられています。
 与一は、祈願した後、海中の岩で馬の足場を定め、波に揺れ動く扇の的を狙い射落としたといわれています。その岩が駒立岩です。今も大潮の時の引き潮の時に駒立岩を見ることができます。

○景清錣引伝説の地
 祈り岩の県道をはさんでほぼ向かい側に、「景清の錣引きの伝説地」があります。この伝説は、平家の悪七兵衛景清と源氏の美尾屋十郎とが一騎打ちの勝負をした折、十郎が太刀を折られて逃げ出すのを、景清が熊手を使って十郎の兜の錣(しころ)を引きちぎったというものです。十郎が「景清の腕の強さよ」、景清は「十郎の首の強さよ」といって互いに称賛したといいます。
 このあたり一帯は埋め立てられ完全に市街地化していますが、源平合戦のころは海際でした。謡曲では景清の相手は三保谷四郎となっていますが、平家物語では兄の十郎となっています。

○義経弓流し跡
 総門から北に300メートル、旧庵治街道沿いの畑に、「義経弓流し跡」の石柱が立っています。義経は自らも海中に馬を乗り入れて戦いますが、不覚にも、弓を落としてしまいます。義経がうつむき、鞭でかきよせるように弓を拾い上げようとしたとき、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく海中に落ちかけました。後で、老武者が「命がけで拾うことはないのに」と申しあげると、「このひ弱い弓を敵が持って行き『これこそ源氏の大将九郎義経の弓だ』と言って、馬鹿にするのが残念だから弓を拾ったのだ」と答えたといいます。

○瓜生が丘
 屋島源平合戦のおり、源氏軍が本陣を構えたところと伝えられています。瓜生が丘については「平家物語」では「弓流し」の話のすぐ後に“さる程に日暮れければ、ひきしりぞきて、むれ、高松のなかなる野山に陣をとったりける”とあります。

○長刀泉
 長刀泉は、弁慶が炊事の水に困って長刀の石突で掘った井戸です。

○菜切地蔵
 合戦前の朝食の準備をする際、弁慶が石地蔵を持ち出してきて、地蔵の背中をまな板代わりに、包丁の代わりに長刀(なぎなた)で菜を切って汁をつくったといわれています。そこからこの地蔵は「菜切り地蔵」と呼ばれています。汁をすすめられた義経が「弁慶のこしらえし菜は武蔵坊」と詠むと、弁慶が「それを知りつつ九郎(食ろう)判官」とやり返したというエピソードが残っています。残念なことに、本物の菜切地蔵は行方がわからなくなっており、丘の上にある地蔵堂には新しい地蔵が置かれているそうです。

○血の池
 屋島寺山門の前方に通称「血の池」があります。源平合戦のとき檀ノ浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになったといわれています。この池は正規には「瑠璃宝(るりほう)の池」といい、弘法大師が屋島寺伽監を南嶺に移す際、お経と宝珠を納めて池としたと伝えられています。
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