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(80)“建礼門院と安徳天皇が滞在した牟礼・屋島”

  平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まりますが、建礼門院徳子はこの物語のヒロインとして知られています。京都大原の里にある寂光院(じゃっこういん)は、彼女が隠棲したゆかりの地として今でも多くの人々が訪れています。寿永4年(1185)、源平合戦最後の決戦地長門国壇ノ浦で平家一族の滅亡とともに安徳天皇は亡くなりますが、その母である徳子は生き残り、尼となり寂光院で余生を送りました。
 徳子は幼帝安徳天皇とともに、寿永2年(1183)10月から、一ノ谷の合戦を挟んで寿永4年(1185)2月までの通算約1年6カ月間、讃岐の牟礼・屋島に滞在していました。この間、三種神器も讃岐にあり、朝廷の儀式もとり行われ、讃岐に皇居があったといえます。

 平安時代末期、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)の二つの乱を通じて、武家の棟梁としての平清盛の地位と権勢は急速に高まり、平氏一門は「平氏にあらずんば人にあらず」と栄華を誇りました。そして、清盛はその娘である徳子を6歳年下であった高倉天皇の中宮に入れます。二人の間に親王が生まれると、清盛は後白河上皇を幽閉するとともにその側近を追放し、治承4年(1180)、自分の孫に当たるわずか1歳3ヶ月の親王を皇位につけ安徳天皇としました。
 しかし、貴族や大寺社、地方武士たちの平氏への不満は強く、安徳天皇が践祚(せんそ)した年に、後白河天皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏打倒の令旨(りょうじ)を出し、これに呼応して伊豆で源頼朝、木曾で源義仲(木曾義仲)らが挙兵しました。このような中、養和元年(1181)閏2月、清盛が病没するとともに平氏自体も急速に没落していきます。寿永2年(1183)5月、越中の倶利伽羅(くりから)峠で義仲に惨敗しその軍が京都に迫ると、徳子と安徳天皇は、7月に平氏一族とともに九州へと落ち延びていきました。このとき三種神器も持ち出されました。

 徳子と安徳天皇は、平氏一族と大宰府、大分の宇佐などを転々とした後、東へ戻り、寿永2年(1183)10月、海路屋島に到着します。このとき屋島には天皇の入るような建物がなかったので、対岸にある牟礼の六萬寺を行在所(あんざいしょ)としました。そして平氏はこの年の閏10月、屋島の平氏を追撃しようとした義仲を、備中水島で打ち破り、勢力を盛り返して瀬戸内海の制海権を握ります。
 義仲は水島から京都へ逃げ帰りますが、源範頼・義経が鎌倉から攻め上がります。この戦いに乗じて、平氏は、寿永3年(1184)正月、再び兵庫の福原に入り、一ノ谷に城を構えます。徳子と安徳天皇も福原に移ります。しかし、2月7日、範頼・義経らの源氏軍に敗れてしまいます。有名な義経の鵯(ひよどり)越えの逆落としはこのときの戦いです。
 一ノ谷の合戦での敗北で平氏は屋島に逃げ帰り、屋島東山麓の海が見える高台に行宮(あんぐう)を造営しました。その1年後の寿永4年(1185)2月19日に平氏は義経の追撃を受け、長門壇ノ浦へと落ち延びていきます。徳子にとって、この1年間の屋島での生活は、京を逃れて以来久しぶりにおとずれた安らぎの日々でなかったかと思われます。壇ノ浦へと向かう途中、安徳天皇一行は塩飽諸島の本島に立ち寄ったといわれています。

 屋島の戦いから約1ヶ月後の寿永4年(1185)3月24日、平氏は長門国壇ノ浦の合戦で最後を迎えます。この日の昼過ぎ、平知盛が敗戦を告げると、二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫である安徳天皇を抱いてそのまま海に飛び込みました。二位の尼に続いて徳子が飛び込み、続いて大納言佐局(平重衡の妻)が三種の神器のうちのもうひとつ八咫鏡を持って海に飛び込みました。しかし徳子は引き上げられ一命を得ます。安徳天皇は享年8歳(今の数え方でいえば6歳4ヶ月)でした。なお三種神器のうち、剣は結局回収できなかったといわれています。
 壇ノ浦で救われた徳子は京都に護送され、髪をおろして出家し、建礼門院と称して大原の地に庵を結びました。時に29歳。そして彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家の人々の霊を弔ったといいます。山里の京都大原で、建礼門院は讃岐での安徳天皇との生活の思い出にふけり幾度も涙したことでしょう。
●訪れてみたいところ
六萬寺
 六萬寺は天平時代に聖武天皇の命により行基が創建したと伝えられています。疫病流行の折に6万体の薬師如来を安置したことから六萬寺と称されました。安徳天皇が行在所とされていた当時の六萬寺は、今の牟礼小学校の西北、俗に鍾撞堂と呼ばれている所にあり、42の支院を従え現在の何十倍もの広大な寺域有していました。
 戦国時代末期の天正11年(1583)、土佐の長宗我部元親の八栗城攻めの際に焼失し、現在のものは江戸時代の延宝7年(1679)に再興されたものです。
安徳天皇
 寿永2年(1183)、平の宗盛は、安徳天皇を奉じて、一の谷から屋島に来ました。ここは、壇の浦の入り江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
○本島の徳玉神社
 本島の大字甲生浦鶴ヶ浦にある徳玉神社は安徳天皇を祀っているそうです。

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寂光院寂光院 (じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号を清香山と称する。本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝える。平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られる。 .wikilis{font-size:10

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