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(13)“賤ヶ岳の合戦があった同じ日に讃岐であった合戦”

 天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳(しずがだけ)の合戦があった日です。この戦いは、現在の滋賀県伊香郡の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いで、秀吉はこの戦いに勝利することによって、織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となり、全国統一の基盤を築きました。「賤ヶ岳の七本槍」の話がよく知られています。同じ日、讃岐では、長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)と秀吉の家臣である仙石秀久(せんごくひでひさ)の軍が引田で戦っています。

 天正6年(1578年)夏から始まった長宗我部元親の讃岐侵攻により、天霧城の香川氏、勝賀城の香西氏など讃岐の緒将はことごとく降伏し、元親に抵抗する勢力は虎丸城に籠もる十河(そごう)存保(まさやす)のみになっていました。苦境に立たされ存保は、山崎の戦いによって織田信長の後継者としての地盤を固めつつあった秀吉に救援を求めました。秀吉は柴田勝家との対決が迫っていたため自ら動くことができず、淡路国洲本にいた仙石秀久を救援軍として讃岐に派遣しました。

 天正11年(1583年)春、長宗我部元親は阿波の白地城(現在の池田町)より2万の大軍を率い讃岐に攻め入り、虎丸城に迫りました。田面(たづら)山に布陣して十河方の食糧を窮地に陥れる作戦を実行に移しはじめていました。一方、仙石秀久は、2千の兵を率いて海路から引田浦へ上陸して港の北側にある引田城に入りました。引田城は、引田湾に面した城山(標高81m)の山頂にあり、舟が直接着岸できるため隠密裏に行動できるという利点がありました。

 長宗我部軍と仙石軍は、引田の西の入り口で衝突しましたが、兵力に勝る長宗我部勢が圧勝しました。仙石勢は幟を取られるという失態を見せ、森権平(ごんべい)という若者が討死を遂げています。なお、それを悼(いた)んだ権平祠が城に立てられています。この戦いを引田合戦といい、賤ヶ岳の合戦があった同じ日にありました。

 秀久は引田城へ退却し、長宗我部勢もそれを追撃して引田へ入り、翌朝より引田城への総攻撃を開始しました。仙石勢は既に多くの兵を失っていたために戦意を失っていたとみえて、あっけなく落城し、秀久も舟で城を脱出しました。仙石勢の敗北により、虎丸城十河存保は孤立無援の窮地に立たされ、勝ち目なしと見た存保は、開城と国外退去することを条件に元親に降伏を申し入れました。その後、長宗我部元親は伊予の河野氏を降して、天正13年(1585年)の春、ついに四国を平定します。

 しかし、元親の四国統一はつかの間に終わってしまいます。同年6月16日、秀吉は畿内周辺が大体片付いたため、四国侵攻を開始します。四国征討軍は秀吉の弟・秀長を総大将として総勢11万余人という大軍で阿波・讃岐・伊予の3方面から一斉に攻撃しました。讃岐では宇喜多秀家・黒田孝高の2万3千が屋島に上陸し、高松・香西・牟礼の諸城が陥落します。当然ながら存保もこの攻撃軍に加わっています。

 この時落城した高松城は屋島南山麓にあった城で喜岡城ともいい、もともとはこの城の辺りが“高松”という地名で、その後生駒氏が現在の地に高松城を築いてから“古高松”と言われるようになったものです。

 四国征討軍の圧倒的な兵力のまえに長宗我部氏はついに秀吉に降伏し、阿波・伊予・讃岐の3ヶ国を没収され、土佐一国の領有のみを許されることになりました。


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○訪れてみたいところ
引田城
虎丸城http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F14%2F10.443&lon=134%2F19%2F5.404&layer=1&sc=3&mode=map&size=s&pointer=on&p=&CE.x=318&CE.y=245



喜岡城跡http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F21%2F3.223&lon=134%2F5%2F57.243&layer=1&sc=3&mode=map&size=s&pointer=on&p=&MD.x=9&MD.y=5


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権兵衛神社

 虎丸城を取り囲んでいた長宗我部軍から、香川信景らの讃岐勢と大西上野介らの阿波勢らが引田へ向かい、仙石秀久軍と三本松、白鳥、引田にわたる山地の麓の入野山(にゅうのやま)の辺りで戦いになりました。
 しかし、仙石軍は長宗我部軍に押されて伊座(いざ、白鳥町)までしりぞいていきました。このとき、仙石軍のしんがりをしていた18歳の若武者森権平(ごんべい)が討死を遂げ土佐の兵に首をとられています。
 権平は深田に足をとられたためともいわれており、権平の墓が足の神様として社になり、大わらじをあげて「ごんべいさん」と、土地の人に敬われています。
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