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(79)“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”

 江戸時代中期の1767年、田沼意次は10代将軍家治の側用人に就任し、享保の改革以来の殖産興業を継承するとともに、商業資本の積極的導入を図りました。銅・鉄・真鍮・朝鮮人参・朱の専売制の開始、株仲間の奨励による運上・冥加収入の増加政策、長崎貿易の拡大と金銀の流出防止策による貿易収入の拡大政策、蝦夷地の開発計画などを次々に推進しました。
 しかし、その重商主義政策は、商業奨励の反面、賄賂の横行による金権政治の風をまねき、門閥譜代層や親藩の反発をかいました。そうした中、天明の大飢饉や浅間山大噴火などの天災が頻発したことから社会不安が広がり、意次の子で若年寄の意知(おきとも)が江戸城中で暗殺されるという事件を機に1786年老中退任を余儀なくされます。意次が幕府の実権を握っていたこの20年間を田沼時代といいます。
 その後、11代将軍に家斉(いえなり)がつくと、松平定信が老中に就任し、1787年から1793年にかけて寛政の改革が行われます。この時代は田沼時代とはまったく反対の施策が実施され、武士の士風をひきしめるため、質素倹約と文武が奨励され、賄賂や風俗の乱れなどの社会の不正を正すという「クリーンな政治」の実現が目標とされました。「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」は寛政の改革を皮肉った狂歌ですがこの歌に対照的な両時代を読みとることができます。
 この田沼時代と寛政の改革時代にそれぞれ活躍した讃岐人がいました。平賀源内柴野栗山です。

 宝暦11年(1761)2月、高松藩に2度目の辞職願いを提出した源内は、半年後に高松藩を辞することを許されました。34歳のときです。ただし、その許可には「他家への仕官構う」という他藩への仕官を禁ずる条件が付けられており、以後源内は生涯を浪人として暮らさなければなりませんでした。
 後に、高松藩家老の木村黙老は、辞職願いを出した源内の心境を、「源内はもと足軽の子だから、登用せられても同僚達が彼を侮蔑し、また君寵を得たるも妬殺するためだ。」と書いています。あの有名な源内がキセルを右手で構えた絵は黙老の作です。
 自らの手で高松藩との縁を断ち切った源内は、まず、本草学者・物産学者として引き続き行動します。宝暦12(1762)、35歳のとき、第5会の物産会を主催して大成功を収めます。さらに、翌年にはこれまでの物産会の成果をまとめて「物類品隲」(ぶんるいひんしつ)を刊行します。この本は、我が国の本草学や博物学に新時代をもたらす記念すべき書物だといわれています。度々の物産会開催により江戸における源内の知名度は上がり、杉田玄白らとも交友します。玄白の回想録である「蘭学事始」にも源内との対話に関連する章があります。
 また源内は、技術家・企業家として鉱山開発などを始めます。高松藩を辞した年の秋には、伊豆山中で芒硝(ぼうしょう)(硫酸ナトリウム)を発見し、商品経済を発展させようとする政策を進める田沼意次とのつながりも得て、幕府から芒硝御用を命じられています。明和元年(1764)、37歳のときには、秩父の中津川山中で石綿を発見し、火浣布(かかんふ)を創製して将軍や意次に献上しています。そして明和3年には、中津川で金山事業に着手します。

 一方で、源内は、戯作者(げさくしゃ)として作家活動も始めています。高松藩を辞した年に書いた随筆「木に餅の生る弁」が好評で、宝暦13(1763)、36歳のときには、「風来山人」のペンネームで「根南志具佐(ねなしぐさ)」、「風流志道軒伝」をあいついで刊行し、当時のベストセラーになっています。これらは世態・世相をうがい作者の批判を加え、滑稽にあるいは教訓的にした読物で、今でいう小説ですが、当時は「談義本」といわれていました。
 「根南志具佐」は、歌舞伎役者が隅田川へしじみを採りに行きおき、溺れ死んで地獄で大騒ぎを起こすという物語です。「風流志道軒伝」は、主人公の浅之進が小人の国や女ばかり住んでいる女護ガ島など多種多様な国々を遍歴するという物語で、「ガリバー旅行記」との類似性も指摘されているそうです。
 その後も源内は、「萎陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)」、「根無草後編」、「里のをだ巻評」、「放屁論(ほうひろん)」、「天狗髑髏鑒定(しゃれこうべめきき)縁起」、「菩提樹之弁」、「飛んだ噂の評」など多くの談義本を晩年まで書いています。いずれも、源内を疎外した封建体制や社会の欠陥への痛烈な批判、風刺を滑稽、洒落、諧謔(かいぎゃく)を交えた内容で、仕官の道を絶たれた不平不満のはけ口だったのではないかといわれています。ペンネームも「風来山人」のほか、「天竺浪人」、「貧家銭内(ひんかぜにない)」、「桑津貧楽(くわずひんらく)」というふざけた名を使っています。
 さらに、源内は、明和4年(1767)、40歳のとき、「福内鬼外(ふくうちきがい)」のペンネームで、江戸浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を執筆しています。この物語は、矢口の渡し舟の上で自害した新田義興の弟の義岑、遺児の徳寿丸、遺臣が、義興の魂魄の力や渡し守の娘お舟の身を捨てての助けをかりて、敵を倒し、義興は矢口の村の社に祭られるという話の筋で、大評判をとり、江戸浄瑠璃に一時期を画しました。その後も源内は、年に1作ずつ「源氏大草子」、「弓勢智勇湊」、「忠臣伊呂波実記」、「霊験宮戸川」等8編の浄瑠璃を発表しています。
 源内がこのように、談義本から浄瑠璃まで手を出すようになったのは、名声を得ようと野心だけでなく、浪々の身を養う生活費の捻出と鉱山開発で必要となった金策にあったといわれています。

 秩父の中津川での金山開発は結局失敗し、源内は心機一転を図って、明和7年(1770)、43歳のとき、田沼意次の世話で、幕府から阿蘭陀(おらんだ)翻訳御用の役を得て、18年ぶりに再び長崎に1年あまりの遊学をします。この2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学んでいます。
 このとき、壊れたエレキテルを通訳から譲り受けて江戸に持ち帰り、その後7年の歳月をかけて復元をしています。また、「西洋婦人図」を描いています。
 また、長崎からの帰途、郷里志度に立ち寄り、源内焼の陶法を伝えています。なお、源内を見いだした高松藩主松平頼恭が没したのは明和8年7月、源内44歳のときです。
 江戸に戻った源内は、安永2(1773)、46歳のとき、中津川で今度は鉄山事業に着手します。また、秋田藩に招かれ、鉱山再開発の指導にも当たります。このとき、秋田藩主佐竹曙山と藩士小田野直武に洋画を伝え、司馬江漢らと親交しています。
 しかし、中津川での鉄山開発は製錬技術の未熟さなどにより、翌年の安永3年には閉山に追い込まれます。それでも抜け目のない源内は、そこの豊富な森林資源に着目し、今度は木炭の生産を始めます。一時は好調でしたが、資金不足で頓挫していまいます。
 この頃、もう50の坂を越そうとしていた源内は、知人に「古今の大山師と相成り申し候」と言っていたそうです。

 源内が発明・発見したものは、量程器(今の万歩計)、磁針計、寒暖計、火浣布、エレキテルなど100以上といわれています。また、土用の丑の日に鰻を食べるという風習は、売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて源内が考案したといわれています。明和6年(1769)にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、さらに、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、源内は日本におけるコピーライターのはしりだとも評されています。
 このような多彩な活躍をした源内ですが、晩年には「功ならず 名ばかり遂げて 年暮れぬ」と、野心が満たされず世に入れられない自分をしみじみと省みて吟じています。
 安永7(1778)、源内はあやまって人を殺傷して投獄され、翌年獄死します。辞世の句は「乾坤の手をちぢめたる氷かな」です。享年52歳でした。杉田玄白の手になる墓碑には、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)と刻まれています。
 源内は殖産興業が中心だった田沼時代の申し子のような人物だといえるでしょう。意次の政策に源内の懸案によるものもあったかも知れません。二人とも早く生まれすぎたため、他に理解してもらえず不遇の生涯を送ったところも似ています。このためか、源内は後年逃げ延びて、意次の保護下に天寿を全うしたという伝承も残っているそうです。

 源内が亡くなってから8年後の1786年に田沼時代は終わり、翌年、白河藩主であった松平定信が老中に就任して寛政の改革が始まります。定信は倹約を奨励し、風紀をひきしめ、幕府の財政難を救うと同時に儒学の振興も積極的に図ろうとします。このような目的を持つ定信が自己の顧問として、まず第一に抜擢したのが芝野栗山でした。栗山は、1788年(天明8年)53歳のとき、儒者として採用され、定信の知恵袋として幕政に大きく貢献しました。その代表的な例が「寛政異学の禁」の建議です。栗山は、1807年72歳で病に倒れるまで20年間、幕府の儒官として長く仕官しました。
 このような大学者であった栗山ですが、その著作は意外に少なく、彼の死後編まれた「栗山堂文集」と「栗山堂詩集」とがあるのみです。「栗山堂文集」は天保13年の刊行で広く流布したようですが、「栗山堂詩集」の方はなんと明治39年の発刊だそうです。
 これは栗山自身が積極的には著作をしない主義だったことによるようで、ある時友人に問われて、「書を著するのは人に役立てるためであるから、自分のようなつまらぬ学者がいい加減な本を書くとかえって人の害になる」と答えています。

 源内をキーワードで表現するとすれば、「田沼意次」、「反体制的」、「商工業重視」、「多才」、「多筆」、「短命」、「非業の死」といえます。これに対する栗山のキーワードは、「松平定信」、「体制的」、「農業重視」、「その道一筋」、「寡筆」、「長命」、「往生死」と、なにからなにまで正反対です。しかし、この2人の間には意外な共通点があり、また接点があります。
 源内も栗山も同じ讃岐生まれで、しかも、志度と牟礼という隣村の出身です。源内の先祖は元は牟礼に住んでいたといわれていますから、ほとんど同郷だといえるでしょう。
 源内は、宝暦6年(1756)3月、29歳のとき江戸の昌平黌に入門して湯島聖堂に寓居していますが、一方、18歳の栗山は、源内より3日前に昌平黌に入っています。このとき、栗山は源内について、「学術は無き人なり」と手厳しい評をしています。栗山のように学問で身を立てようと志している者から見ると、学問も実利のためと考えていた源内は野心に満ちたうさんくさい俗物に見えたのでしょう。逆に、源内からすると、すでに長崎遊学も経験しており、藩の役目も辞し家督も譲って背水の陣で江戸に出てきていたわけですから、栗山は勉強しか知らない青臭い小生意気な若造と映ったことでしょう。
 遠く郷里を離れた広い江戸で。年齢こそ違え、同じ学校で勉強をしていれば、普通は仲良くなり助け合うものです。2人は全く考えが合わなかったのでしょう。
 ほぼ同時代に、讃岐からこのように対照的な人物が出、しかも、中央で活躍したということは興味深いことです。

 この記事を読まれる場合には、次の2つの記事を参考にして下さい。
(78話)“高松藩を二度辞職した平賀源内
(55話)“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者
●訪れてみたいところ
平賀源内先生遺品館・「平賀源内先生旧邸
柴野栗山記念館
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