スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(78)“高松藩を二度辞職した平賀源内”

  平賀源内(ひらがげんない)は江戸時代の中期に活躍した人で、本草学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家、鉱山師など多技・多芸・多才な顔を持ち、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれています。源内は本草学(植物学)から始めて、地方特産品を集めた展示会の開催、世評風刺から浄瑠璃戯作・滑稽本の著作、化学薬品の調合、西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織物等の工芸品の製作、地質調査と鉱山開発、水運事業等など、ありとあらゆる分野に先鞭をつけてそれらを企画開発しました。その際たる物が「エレキテル」でした。

 源内は八代将軍徳川吉宗の時代の享保13年(1728)、高松城下の東に当たる寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)といい、元服して国倫(くにとも)といいました。源内というのは通称です。父は白石茂左衛門(良房)といい、高松藩の志度御蔵番(おくらばん)を務め、一人扶持切り米三石の足軽でした。
 源内の遠祖は「太平記」に出てくる平賀三郎国綱(くにつな)といい、その子孫ははじめ信州にいましたが武田信玄に滅ぼされ、その後仙台伊達家に仕えました。そのとき奥州白石(現在の宮城県白石市)に住んだことから白石姓を名乗っていました。その後、伊達家の一族が宇和島に移封されたとき、それに従って四国にやって来ました。しかし、讒言にあい宇和島を追われ讃岐国に逃れてきたといわれています。高松藩の家臣となったのは、源内の曽祖父が、初代松平頼重のとき、高松藩の御藏番に召し上げられてからです。
 源内は少年の頃から利発で書物をよく読み、また色々なことを調べるのが好きだったようです。12歳の頃には掛け軸に細工をした「御神酒(おみき)天神」を作り、天狗小僧の異名をとっています。13歳からは阿野郡南の陶の三好喜右衛門に見込まれ本草学、医学、焼き物を学んでいます。源内と本草物産学との結びつきはここから始まります。また儒学も学んでいます。

 その頃の高松藩主は第五代目の松平頼恭(よりたか)でした。頼恭は正徳元年(1711)、奥州守山藩2万石の(福島県郡山市)の領主松平頼貞の五男として生まれました。初代高松藩主松平頼重の弟・頼元の孫に当たり、元文4年(1739)、29歳のときに高松松平家の養子となりました。源内より17歳年上で、高松藩主となったのは源内が12歳のときです。
 頼恭が藩主となった頃、高松藩は深刻な財政危機に見舞われていました。このため頼恭は様々な藩政改革に取り組むとともに、人材を登用して殖産興業を進めます。讃岐三白のうち塩と砂糖の生産化に着手したのも頼恭です。後に高松藩中興の祖と呼ばれる所以でもあります。
 また、頼恭は学問好きで、特に博物学に造詣が深く、寛延元年(1748)ごろ、紫雲山の麓にあった藩の薬園を、「御林(おはやし)」と呼ばれていた栗林荘(現在の栗林公園)内に移し、その整備を行っています。
 源内の評判は高松城下にも聞こえていたと思われ、頼恭は源内を志度から呼び寄せ、藩の薬坊主(やくぼうず)として取り立てます。源内が19歳頃のときです。源内は栗林荘にあった薬草園の世話や図譜づくりの手伝いをしていたようです。博物趣味の頼恭はよく薬草園に出かけて行ったそうで、源内とも直接のやりとりがあったと考えられます。

 寛延2年(1749)22歳のとき、源内は父の死により御蔵番を継ぎます。そして白石姓を平賀姓に改めます。一方この頃、渡辺桃源ら志度の俳諧グループに属し、李山と号して俳句を行っています。
 宝暦2年(1752)25歳のとき、源内の生涯を変える出来事がありました。頼恭の引き立てにより、その援助を受けて長崎に1年余り遊学したのです。当時、足軽の身分で藩から長崎遊学を許されるというのは異例だったのではないかと思われます。頼恭は若者の才能を見込んで、それを取り立てるという才覚のあった人です。この遊学で源内は本草学とオランダ語、医学、油絵などを学び、蘭学という新しい世界に好奇心をたぎらせ、讃岐から出て飛躍したいという大望を抱いたようです。

 宝暦4年(1754)27歳のとき、源内は病気を理由に藩の役目を辞し、さらに妹の里与に従弟の権太夫を入婿させ平賀家の家督を譲ります。封建社会の中でこのような思い切った行動に出たのは、学問や研究に専念したいという気持ちとともに、その才能が故に上司や同僚のねたみを受けたため宮仕えに嫌気がさしたからではないかといわれています。
 江戸へ出るチャンスを伺っていた源内は、宝暦6年(1756)3月、29歳のとき、ついに郷里を出立し江戸へ向かいます。江戸へ向かう途中、渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編んでいます。「井の中をはなれ兼たる蛙かな」と詠んだ歌はまさに源内のそのときの心境を表しているでしょう。大坂に立ち寄った後、江戸へ出て本草学者の田村元雄(藍水)に弟子入りします。また、漢学を習得するために林家にも入門して湯島聖堂に寓居しています。
 宝暦7年(1757)、30歳の時、師の藍水を説いて我が国で初めての物産会を湯島で開催します。翌年、翌々年と物産会を開催すれにつれて、源内の江戸での名声は高まり、源内の前途は洋々と広がっているようにみえました。

 ところが、自由に羽ばたこうとする源内に足かせがはめられました。源内の評判が参勤交代で江戸に居た頼恭の耳にも聞こえ、宝暦9年(1759)9月、源内は高松藩から「医術修業候に付き」という名目の三人扶持で、一方的に再び召抱えられてしまったのです。翌年の5月には薬坊主格を拝命し、銀十枚四人扶持を給されました。高松藩では当時、一人扶持昇任するのに普通は十数年かかったそうで、これは異例の出世でした。しかし、讃岐での生活のすべてを断ち切って江戸へ出てきた源内としては、これからいよいよ飛躍しようとするときであり、この高松藩の措置はありがた迷惑だったようです。
 とはいえ、頼恭は身分の低い御藏番の身から引き立て世に出るチャンスを与えてくれた恩義のある人でした。源内はその恩に報いるため仕え、頼恭も源内をかわいがり、どこへ行くにも随行させ、江戸目黒の下屋敷には薬園まで開いています。
 宝暦10年(1760)7月、源内は頼恭に随行して一時帰郷します。途中紀州の物産を調査し、ホルトの木を発見しています。その年の秋には、薬草採取班の初代頭取となり、小姓5、6人と南は安原の奥、東は阿波境、西は金比羅山まで一週間くらい泊りがけで藩内各地を出張して薬草を採取し、栗林薬園で栽培していたようです。

 源内は自由に自分の研究に没頭したかったのですが、それがかなわず、悶々としていたようです。悩んだ源内は、再度の仕官から1年半後の宝暦11年(1761)2月、34歳のとき、学問に専念するために高松藩に2度目の辞職願いを提出します。しかし藩からの返事はなかなか出ず、半年以上も経った9月にやっと許可されました。ただし、「他家への仕官構う」という条件付きでした。高松藩屋敷への出入りは自由だが、他藩への仕官は禁止するというものでした。これ以降、源内は讃岐との縁が切れ、文字通り江戸の人となり、自由奔放で波瀾万丈の浪人生活を送ることになります。
●訪れてみたいところ

○「平賀源内先生遺品館」・「平賀源内先生旧邸」
 琴電志度駅を出た左に東西にのびる志度商店街があります。そこを西に向かって5分ぐらいのところに、「平賀源内先生遺品館」・「平賀源内先生旧邸」があります。
 遺品館には、源内焼、陶器工夫書等59点の遺品が展示されており、文学関係のものとしては、「平賀源内全集上下二巻」、「神霊矢口の渡二冊」、「飛んだ噂の評一冊」、「長枕褥合戦一冊」などが含まれています。
 遺品館にかかっている「お神酒天神」という掛け軸には天神さんの姿が書かれており、家の者や近所の者が天神さんにお酒を供えると、天神さんの顔が赤くなります。
 遺品館の前には「ホルトの木」があります。源内が紀州から苗木を持ち帰って栗林荘(今の栗林公園)に植えたものを後にここに移したといわれています。源内は当時、この木をオリーブの木と信じて持って帰ったそうです。
 旧邸には源内の生涯を見事に総括した杉田玄白の墓碑が台座に刻まれた源内の銅像があります。

○自性院常楽寺
 平賀家は志度寺に隣接する自性院常楽寺の檀家であり、この寺の正門を入った右側に源内の墓があります。源内の墓は江戸浅草総泉寺にありますが、自性院の墓は総泉寺から分骨を受けたものです。
 安永7年(1778)、源内はあやまって人を殺傷して投獄され、翌年獄死しました。辞世の句は「乾坤の手をちぢめたる氷かな」です。享年52歳でした。人を殺した理由について、源内は、自分がせっかく考えていた、ある家の設計図を、自分の家に出入りしていたどっかの小僧さんが盗み見したというので、それに腹を立てて、盗まれたと思って傷つけたということになっていますが、殺すつもりはなく、脅かすだけのつもりだったかもしれません。
 葬儀は友人の杉田玄白らの手によりが行われましたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となったといいます。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられています。
 その後、浅草の総泉寺に埋葬されますが、杉田玄白の手になる墓碑には、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)とあり、当時最先端を走っていた玄白の才能が伺われます。

○用心掘と石灯籠
 志度の旧町内にある用心掘と石灯籠は、高松藩の米蔵のあったところです。米藏の敷地は1700坪(約6反)、周囲には竹藪、その外側には掘りが巡らされ、5間に15間の藏が3棟ありました。屋敷内には役人詰所、検査部屋、藏番詰所がありました。

○栗林公園
 藩政時代は御林や栗林荘と呼ばれていましたが、その広大な敷地の中には「薬園」が営まれていた時代がありました。この栗林薬園は当時、梅木原薬園と称されていました。薬園は現在の栗林公園の赤橋の西北にあったようです。
 源内は、宝暦9年(1759)から2年間、この薬園の管理、領地内の薬草採取などに力を尽くしました。現在もその薬園のなごりとして「ニンジンボク」などの薬草が園内に残っています。宝暦9~10年頃の薬園の広さは、約3段歩といわれています。

○法然寺
 頼恭は源内が没した7年前の明和8年(1771)に没し、法然寺に墓があります。

○県歴史博物館
 松平頼恭は、「衆鱗図(しゅうりんず)」(魚類図鑑)、「衆禽図譜(しゅうきんず)」(鳥類図鑑)、「衆芳画譜(しゅうほうがふ)」(植物図鑑)、「写生画帖」を作成させています。源内は絵師さがしから、物品の選び方、並べ方までかかわったのではないかといわれています。

○(財)鎌田共済会郷土博物館
 源内が製作した「量程器」が保蔵されています。内蔵された振子が歩行により反復移動することで、連動した針が目盛り上を移動して歩行距離を指し示す仕組みになっている一種の歩数計です。

○恵遠山放光院東林寺
 国道11号線を西から志度町に入ってすぐ右手の小山のとりつきにあるこの寺には、平賀源内と交友のあった俳人、渡辺桃源(号三千舎)の墓があります。“露塚”と刻まれたその墓には、“露とちるこの身は草に置ねとも”という桃源の辞世の句が書かれています。
 志度の俳諧は、西山宗因の流れ(談林)をくむ大阪の椎本芳室につながり、高松から志度に移り住んだ花月斉珊楽を中心にして、当地の渡辺不遠(桃源の父)などによって興され、宝暦頃(1751~1763)に指月堂芳山・渡辺桃源、白石李山(若き日の平賀源内)などによって確立されたといわれています。
スポンサーサイト

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

武田信玄

武田信玄武田 信玄/武田 晴信(たけだ しんげん/たけだ はるのぶ、大永元年11月3日 (旧暦)|11月3日〔1521年12月1日〕 - 元亀4年4月12日 (旧暦)|4月12日〔1573年5月13日〕)は

コメントの投稿

非公開コメント

四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
10 ≪│2017/11│≫ 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。