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(73)“港町として栄えた城の無い城下町”

  江戸時代、讃岐には高松藩と丸亀藩がありましたが、もう一つ丸亀藩から別れた多度津藩という一万石の小藩がありました。
 多度津はその名のとおり、古代、多度郡の津(港)があったところで、奈良時代の末頃、和気氏が堀江浜に港を設けたと伝えられています。中世においては香川氏が多度津本台山(ほんだいさん)に居館を置き、その詰の城(つめのしろ)として天霧山に城を築きました。香川氏は相模国香川庄(現在の茅ヶ崎市)出身の関東武士で、室町時代の初め細川頼之(よりゆき)に従い讃岐に来たといわれています。以来、多度津は約200年余年の間、香川氏の城下町として西讃岐の中心でした。しかし、香川氏は土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際してその軍門に下り、さらに豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部氏とともに土佐に退き、天霧城も廃城となりました。

 その後、多度津は生駒藩、山崎藩、京極藩の領地となりますが、江戸時代の元禄7年(1694)、丸亀藩二代目藩主の京極高豊のとき、その子の高通が1万石を与えられて分家したことにより多度津藩が成立しました。その所領は、現在の多度津町全域及び善通寺市と三豊市(三野・詫間・高瀬・財田)のそれぞれ一部です。しかし高通から第三代藩主までの多度津藩主は丸亀城郭内に屋敷を構えて居住し、多度津には重臣をおいて藩政を任せるという中途半端な存在でした。
 このような状態から脱し、多度津藩独自の決定を行うことができるようにするため、第四代藩主京極高賢(たかかた)は、家臣の建議を受け入れ、多度津に陣屋を建設することを決断します。陣屋とは、城の築造を許されない大名の屋敷で、防御の備えはあるものの天守閣や大規模な櫓・掘・城壁を持たないもののことです。
 文政9年(1826)に工事に着手し、莫大な資金と多くの労力を費やして完成した陣屋に高賢が入ったのは同12年6月でした。この陣屋は東西約700m、南北約200mにわたる地域を占め、居館、倉庫、営門、皷楼、学館、馬場、射場などの外に外郭と外門濠を構えた立派なものでした。多度津藩は創設以来150年にして、ようやく独立した陣屋を持つことができました。

 さらに、天保5年(1834)第五代藩主高琢(たかてる)のとき、多度津藩は湛浦(たんほ)(港のこと)の建設に着手します。この頃、桜川の港は金毘羅参詣船や北前船の出入りで狭隘になっていました。先に完成していた丸亀湊の新掘湛浦が東西80間、南北40間、入口15間であったのに比べ、多度津の新湛浦は東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央の防波堤(一文字突堤)120間、港内106間という大規模なもので、約5か年の歳月と6200両に余る大金が投じられて完成しました。
 西讃辺りでは、絶壁頭の人を“多度津の殿さん”といいますが、これは“うしろ(後ろ)が無い”をしゃれて、“しろ(城)が無い”をからかったものです。しかし、城にかわるこの湛浦の建設によって、その後、多度津は中国地方や九州・上方、遠くは江戸方面から金毘羅参詣客の上陸地、また北前船の寄港地となり、港町として発展していきました。

 「金比羅参詣名所図会」には当時の多度津の繁栄ぶりが次のように記されています。
 「この津は円亀に続いての繁昌の地なり。原来波塘の構えよく、入船の便利よきが故に湊に泊まる船おびただしく、浜辺には船宿、旅籠屋建てつづき、あるいは岸に上酒、煮売りの出店、うどん・そばの担(にな)売り、甘酒、餅菓子など、商う者往来たゆる事なし。そのほか商人、船大工等ありて、平生に賑わし。かつまた、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。その都合よきをもってここに船を待たせ参詣する者多し。」

○訪れてみたいところ

道隆寺
 四国霊場第名七十七番札所。奈良時代末の天平勝宝元年(749)頃、和気道隆がまちがって乳母を弓で射たのを悲しみ、クワの大木で薬師如来の小さな像を刻み小堂を建てたのが始まりといわれています。多度津を根拠地にした和気氏の氏寺です。

家中の家並みと多度津町立資料館
 現在も「家中(かちゅう)」という町名の残る多度津町の地区は、多度津藩の陣屋のあったところです。陣屋は、現在のJR多度津工場辺りを中心に、居館(御殿・新御殿)・調練場・武具庫・鼓楼・藩校自明館・剣術道場・藩米倉庫・作業場などが須賀町・大通町・東新町いました。現在でも一見行きどまりを思わせる道路や威厳のある門構えの家など武家屋敷の名残があります。
 現在町立資料館となっている建物は旧多度津藩士浅見氏の屋敷です。資料館から道を挟んで斜め向かいが東御殿と呼ばれた家老林氏の屋敷あったところです。

桜川の船溜まり
 多度津の街には桜川が貫流し、川筋は町役場近くの豊津橋から北に向かって大きく西に曲がります。この桜川の河口は中世以来、船溜まりとして利用されてきた古港です。

多度津港
 多度津港は江戸時代天保年間の築港に始まり、明治時代に大規模な改築を行い、さらに昭和40年代の大規模な臨海土地造成事業により大きく変貌しました。しかし、旧一文字防波堤には、天保9年に竣工した石積みが残っているそうです。

桃陵公園
 現在桃陵公園となっている多度津山は硯ヶ岡(すずりがおか)、本台山ともいいます。室町時代初期の白峯合戦で勲功のあった香川景則(かげのり)は、詫間氏の後を襲い、多度・三野・豊田の三郡を領し、本台山に居を定め、天霧山に本陣を構えました。多度津は三野郡・豊田郡との連絡もよく、塩飽諸島とも近く、水運の便もよかったことによると考えられています。桃陵公園東丘にある子供遊園地の一郭が物見台の跡で、石垣の残留が東側に残っています。居館の跡は、これより下方の丘の麓辺りと言われています。
 なお、桃陵公園の登り口にある大鳥居は、金毘羅街道の鶴橋付近にあったのが現在の場所に移されたものです。江戸時代の相撲取りで有名な雷電為右衛門は寛政6年(1794)に多度津港へ上陸したらしく、この鳥居の奉納者の中にその名が見られるそうです。

天霧城跡
 天霧山(標高360m)には、大化の改新後の702年に白方軍団の要城が設置されていたといいます。室町時代の初期、香川景則はこの山に城を築きます。城の遺構には「天守台跡」、「砦跡」、「切通(きりとうし)」、「井戸」、「馬道(うまみち)」、「犬返し(いぬがえし)」などがあります。またこの城にまつわる伝説には「白米城物語」、「尼斬り城物語」があります。この城は峻険な自然を巧みに利用しており、千早城(ちはやじょう)とならぶ中世を代表する貴重な山岳城跡といわれています。
天霧城案内図
なお、細川頼之や香川氏については、(37話)“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護” 、(38話)“応仁の乱で活躍した讃岐武士” 、(番外)“細川頼之と讃岐”を参考にしてください。

丸亀市の玄要寺
 第2代高慶と第5代の高琢の墓は丸亀市の玄要寺にありその外の代々の墓は東京にあります。

宇多津町の西光寺
 この寺の境内には、江戸末期に多度津藩が建造した藩主の御座船「日吉丸」の屋形が残っています。多度津藩の財政窮乏の折り、明治の初めに寺が購入・移築し、船屋形茶室と利用しているものです。また、瀬戸内海歴史民俗資料館には多度津藩小早船絵図があります。
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