(65)“地場産業となった武士の内職”
「伊予竹に土佐紙貼りてあわ(阿波)くれば讃岐うちわで至極(四国)涼しい」と俗謡にも詠われるように、丸亀はうちわの産地として知られています。現在、丸亀市では年間約7千万本のうちわが生産されており、その量は全国生産の約90%で、文字通り日本一のうちわの産地となっています。
丸亀うちわの起源は、約320年前の寛永10年(1633)頃の生駒藩の時代に、金刀比大権現の別当職金光宥光が、金刀比羅宮の御紋である「羽田扇」にちなんで、“こんぴら参り”の土産物として○金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和団扇の本場大村藩から先覚者2名を招いて金刀比羅団扇の製造を始めたことによるといわれています。
その後、天明年間(1781年〜1788年)に、参勤交代で江戸へ出向いた丸亀京極藩士が、江戸屋敷の隣の中津藩奥平家の屋敷内で、小者たちが名産の竹を材料にして上手にうちわを作っているのを見習って、その技術を覚えて作り始めたことにより、盛んになったといわれています。
当時の丸亀藩江戸留守居役である瀬山四郎兵衛は、自分で絵を描いてうちわの図案を作るなど、その製造に力を入れ、江戸屋敷では、うちわの製造が巧みになった者を丸亀に帰し、郷里で製作させたといいます。このような藩の奨励もあり、丸亀ではうちわ作りが次第に手内職から家内工業にまで発展し、金刀比羅詣に来た人の土産品として全国にその名が広まっていきました。
このようにして発展した丸亀のうちわ産業も昭和42年ごろから材料の竹の生産や和紙の生産が減少したこと、乾燥に経費がかさむこと、さらに従業員の減少、高齢化もあって、昭和41年には年産6,970万本、従業員も2,500人いましたが、昭和50年には約5,000万本、従業員も1,100人と大幅に減少しました。しかし、高級品のうちわは依然好評で、また、車のアクセサリーなどのミニ飾りうちわや壁かけうちわ、モビールうちわ(動く彫刻)、郵便うちわなど民芸調の装飾品はみやげ品としても喜ばれ、本来の用途以外である宣伝用や装飾用にも数多く作られています。
丸亀うちわの起源は、約320年前の寛永10年(1633)頃の生駒藩の時代に、金刀比大権現の別当職金光宥光が、金刀比羅宮の御紋である「羽田扇」にちなんで、“こんぴら参り”の土産物として○金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和団扇の本場大村藩から先覚者2名を招いて金刀比羅団扇の製造を始めたことによるといわれています。
その後、天明年間(1781年〜1788年)に、参勤交代で江戸へ出向いた丸亀京極藩士が、江戸屋敷の隣の中津藩奥平家の屋敷内で、小者たちが名産の竹を材料にして上手にうちわを作っているのを見習って、その技術を覚えて作り始めたことにより、盛んになったといわれています。
当時の丸亀藩江戸留守居役である瀬山四郎兵衛は、自分で絵を描いてうちわの図案を作るなど、その製造に力を入れ、江戸屋敷では、うちわの製造が巧みになった者を丸亀に帰し、郷里で製作させたといいます。このような藩の奨励もあり、丸亀ではうちわ作りが次第に手内職から家内工業にまで発展し、金刀比羅詣に来た人の土産品として全国にその名が広まっていきました。
このようにして発展した丸亀のうちわ産業も昭和42年ごろから材料の竹の生産や和紙の生産が減少したこと、乾燥に経費がかさむこと、さらに従業員の減少、高齢化もあって、昭和41年には年産6,970万本、従業員も2,500人いましたが、昭和50年には約5,000万本、従業員も1,100人と大幅に減少しました。しかし、高級品のうちわは依然好評で、また、車のアクセサリーなどのミニ飾りうちわや壁かけうちわ、モビールうちわ(動く彫刻)、郵便うちわなど民芸調の装飾品はみやげ品としても喜ばれ、本来の用途以外である宣伝用や装飾用にも数多く作られています。


