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(10)“江戸町民塩原太助らが寄進した丸亀湊の灯籠”

 江戸時代、金毘羅信仰がひろがると、全国から参詣に来る人々が増え、丸亀湊(みなと)は金毘羅参詣客の上陸地として賑わいました。江戸後期になると新たに福島や新堀に湛甫(たんぽ)(船着場のこと)が造られ、湛(たん)甫(ぽ)の近くは旅(はた)籠屋(ごや)や土産物屋で賑わい、ここから金毘羅まで丸亀街道が通じていました。

 天保3年(1832年)からは大阪と丸亀間に定期船が往来するようになり、金毘羅参詣客を専門に運んでいた船は金毘羅船と呼ばれました。金毘羅船は順風にのると三日三夜で丸亀の湊に着くことができたといいます。与謝蕪村も金毘羅参りで丸亀を訪れており、「高麗船(こまふね)のよらで過ゆく霞かな」という俳句を残しています。

 江戸講中灯籠は、新堀湛甫を造るにあたり、天保9年(1838年)に江戸の金毘羅講から寄進されたものです。この灯籠は青銅製で、高さは銅製燈籠本体で約5.4m、石の基壇部を含めて約6.9mあり、本体基壇には町人だけでなく、武家や農民など1385にも及ぶ講の参加者や団体が刻まれています。中でも80両の寄進をした塩原太助の名は最も大きく刻まれ、別名「太助灯籠」の由来となっています。灯籠は当初3基建てられていましが、第二次世界大戦時の金属回収により2基は姿を消しています。

 塩原太助は、群馬県沼田市に程近い新治村の出身で、寛保3年2月3日に生まれました。この人は、単身江戸に出て本所で炭屋として成功し、大きな財産を作り、公共のためにも巨額の私財を投じています。太助の物語は講談、落語、芝居でも取り上げられており、江戸に出るとき、愛馬「あお」を松につないで別れた話しや、奉公口を探すことが出来ず神田昌平橋から身を投げようとしたところ「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた炭商山口屋善右衛門との話しは有名です。太助は勤勉節約で主人に愛され、炭屋の下男からついには本所相生町に店を構え巨万の富を築き公儀のお金御用を勤める身分とまでなりました。「本所にすぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原」と云われるまでになったといいます。

 新堀湛甫太助灯籠は今も丸亀港に残っており、江戸時代、金毘羅参詣客が上陸した面影を残しています。
○訪ねてみたいところ
丸亀港の江戸講中灯籠・新堀湛甫とその付近の街並み
太助灯篭

香川県歴史博物館
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