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(148)“瀬戸内の島に伝わる歌舞伎と文楽”


 歌舞伎は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた慶長8年(1603)に、出雲のお国が、派手な着物を着、男髷に髪を結い、長い刀を差した「傾き者」(かぶきもの)といわれる男の姿で踊ったのが始まりといわれています。これを「女(遊女)歌舞伎」といいますが、風紀を乱すということで、寛永6年(1629)に幕府から禁止されます。
 次いで少年が女装した「若衆歌舞伎」が登場しますが、これも承応元年(1652)に「禁止され、4代将軍徳川家綱の時代の承応2年(1653)、前髪を剃り落とした成人の髪型(野郎頭)になること、物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件に再開が許可されます。これを「野郎歌舞伎」といい、この形態が今に至る歌舞伎の原形となっています。
 歌舞伎が興行として定着したのは、元禄時代(1688~1703)の頃だといわれていますが、それはまだ、江戸、京、大坂に限られており、地方でも興業されるようになるのはもっと後のことです。ちなみに、金毘羅大芝居が完成し、こけら落としが行われたのは、江戸後期の天保6年(1835)のことです。

 小豆島は、「オリーブの島」とか「醤油の島」などとして知られていますが、古くから農村歌舞伎が盛んなところで、「歌舞伎の島」ともいうべきところです。
 小豆島では、元禄時代前の貞享3年(1686)、すでに、現在の土庄町肥土山(ひとやま)において、灌漑用のため池・蛙子池(かえるごいけ)が完成したのを祝して、地元民により、離宮八幡神社の境内に仮小屋が建てられて芝居が上演されています。また、6代将軍・家宣の時代の正徳2年(1712)に、内海の葺田(ふきた)八幡神社境内で芝居が上演されたという記録が残っています。ちなみに、高松市香川町東谷にも、祇園座という農村歌舞伎が残されていますが、この地区で演じられるようになったのは、江戸後期の安政年間(1854~1860)の頃だといわれています。
 このように、小豆島では既に江戸時代前期に歌舞伎が演じられていたというのは、小豆島には上方の情報や物が短時間で伝わっていたということでしょう。これは、小豆島は、播磨灘を越え明石海峡を過ぎるとすぐに大坂に至るという地理的位置にあり、船で直接行き来することができるという海上交通の便に恵まれていたこと、また、江戸時代には、幕府直轄地として大坂奉行の管轄にあり、天領地では庶民が娯楽を楽しむことに寛大であったことなどによるものと考えられます。
 小豆島と大坂とは、古くから人的、物的な交流があり、深い結びつきがありました。例えば、島の若者は、年頃になると、女性は行儀見習い、男性は丁稚奉公・弟子奉公として大坂へ行く慣習があったといいます。また、醤油、素麺、石、塩といった島の産物の多くが大坂へ運ばれています。小豆島の農村歌舞伎も、上方と小豆島との結びつきから生まれたものでしょう。

 小豆島全島に歌舞伎が広がっていったのは、江戸時代後期、19世紀前期の文化・文政年間以降だと考えられています。それは、いわゆる祭典芝居といわれるもので、地元の氏神様の祭りのときに、氏子達が中心となって奉納芝居として演じられるものでした。芝居舞台も、そのほとんどが神社境内敷地の社殿と向きあった場所で建てられています。
 しかし、島の人たちは全く宗教的動機だけで芝居を演じたのではなく、当時、氏神様の祭りは庶民の大きな娯楽だったことからすると、娯楽的として芝居を演じ、鑑賞したものと思われます。小豆島の人は、お伊勢参りに行ったときには、大坂で芝居見物をしてから帰るなど、上方の文化に直接接し、馴染んでいたといわれており、芝居を楽しむという習慣が当時すでに定着しており、その文化的高さを伺い知ることができます。

 幕末の安政3年(1856)には、上方役者の坂東いろはが来島して肥土山に住み着き、また、後に、その弟といわれる初代嵐璃當(あらしりとう)も大坂の大火で衣装を失ったため安田に着て住み着いたといわれており、彼らの指導により小豆島農村歌舞伎は磨きがかかり洗練されたものになっていきました。また、その演目も、「伽羅先代萩」、「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」などといった名作定番だけでなく、「清水騒動雪降新形」、「星ヶ城古跡の石碑」、「島義罠伝平井兵左衛門」など「島出来」(しまでき)という小豆島の事件から取材した独自のものが作られるようになっていきました。
 こうして、小豆島における農村歌舞伎は、幕末から活況を呈し、明治・大正の隆盛期を経て昭和の初年まで、島全体で舞台が33棟、衣装が1000点以上、鬘(かつら)が200個以上、根本(ねほん)が1000冊以上あり、俳優が600~700人いたといわれています。
 芝居は舞台だけでなく、各村の神社境内地や浜辺などの空き地に掛け小屋を作り、祭礼や縁日を主として、後援者の厄年・還暦の祝い芝居なども行われ、毎日島のどこかで上演しているというほど盛況でした。中には一座を組んで岡山児島方面に買われていくこともあったようです。この頃の小豆島では、観客が割盒(わりご)弁当を開き、酒を酌み交わしながら見物するという風景がいたるところで見られました。
 このように小豆島の農村歌舞伎は、300年あまり前から根付いてきた島の文化であり、現在でも、土庄町肥土山と池田町中山の2つの舞台において、毎年恒例の上演が催されています。

 小豆島の近くの直島(なおしま)でも、江戸時代から、歌舞伎や能、人形浄瑠璃などが盛んに上演されていました。本村地区の城山(しろやま)には間口13間(約23.7メートル)、奥行き8間(約14.6メートル)の回り舞台、セリ、囃子座(はやしざ)、スッポンなどのついた豪華な歌舞伎の舞台があり、島の一座により歌舞伎が上演されると、中国・四国、遠くは関西方面からも観客が訪れ、港はその人達の船で何重にも埋められるほどであったといいます。
 このように直島で芸能が盛んであったのも、瀬戸内海を通じて外の世界とつながり、また天領地であったとこから自由な気風があったことによるものと思われます。
 特に文楽は「デク芝居」として人気があり、八十八夜の鯛網の頃には、島の網元が淡路島から人形浄瑠璃の一座を呼び寄せ、琴弾の浜で上演されていたといいます。さらに見物するだけでは飽き足らず、島の人自身が人形を所有し、演じていました。最盛期の天保年間(1830~44)には、島内に、下津(かけ)、乾(なかや)、高田(きったいどん)、山名(ぎざえもん)の4家が人形の頭を所有し、一座を組んでいました。
 しかし、明治6年、阿波へ文楽の人形を買いに行った帰途、小豆島沖で船が難破し、5人中2人が死亡するという不幸が起き、それが原因で文楽熱は廃れていったといいます。こうして、明治・大正・昭和の3代にわたって文楽は途絶えましたが、昭和23年から青木ツタ、下津カツノらの女性が人形芝居の稽古を始めたことにより復活し、女ばかりの「直島女文楽」一座が誕生しました。昭和34年、県無形文化財となり今日まで受け継がれています
 なお、直島以外でも、讃岐には高松市円座町に「香翠座(こうすいざ)人形」、三豊市三野町大見に「讃岐源之丞(げんのじょう)人形」が伝わっています。

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豊浜と大野原の街

 
 この地域の範囲は、現在の観音寺市のうち、豊浜町(姫浜・和田浜・和田・箕浦)と大野原町(大野原・中姫・花稲)の区域です。
 豊浜の街の中心部はかつて和田浜といわれていました。和田浜は昔、近郷とともに姫の江(ひめのえ)郷と呼ばれていました。神櫛王が讃岐の国司となった時、景行天皇の皇女和田之姫命(わだのひめのみこと)が天神三柱の神を「渡りの浜」に祀り、この浜の「り」が省かれて「渡浜(わたはま)」となり、やがて和田浜となったといわれています。和田浜の港が綿の積出港として賑わっていた頃は、「御番所の港」と呼ばれ、税関にあたる番所がありました。
 大野原は、江戸時代の初期に京都から移住してきた平田家によって開かれたところで、それまではその名前のとおり、大野原だったところです。

【観音寺市大野原町大野原】

●慈雲寺・大野原八幡神社 MAP
 慈雲寺(じうんじ)は、江戸初期の京都商人・平田与一左衛門が1645年に創建した日蓮宗の寺です。与一左衛門は井関池を築造した大野原開拓の祖です。清正公寺(せいしようこうじ)ともいいます。
大野原八幡神社は与一左衛門父子により再建されたものです。大野原小学校の北西隣にあります。

●碗貸塚・角塚・平塚  MAP
 6世紀末から7世紀中頃前後にかけて築かれたと推定されている巨石墳です。3基とも横穴式石室です。
 碗貸塚(わんがしづか)は大野原八幡神社本殿裏にあり、その石室は県下最大です。この塚には高さ80㎝・幅70㎝の穴があって、この古墳の名称になった次のような伝説が残っています。
 村人が婚礼や法事のおりに接客用の椀が足りないとき、この穴の入口へきて『あす、婚礼をいたしますからお椀を貸してくだされ』というと、翌朝頼んだ通りのお椀が置いてあった。ところが不心得者が椀を一つ無くしてしまってからは、貸してくれなくなった。
 碗貸塚から南西500mのところに角塚(かくずか)があります。一辺約43mの方墳です。
 角塚から南200mのところに平塚(ひらずか)があります。直径52mの県下最大の円墳です。

【観音寺市大野原町中姫】

●中姫八幡神社  MAP
 大野原中学校より東へ歩いて15分ほどの所にあります。この神社には次のような伝説があります。
 この神社のあるところはかつて森で、八幡様が馬に乗ってこられたとき、森の東のところで馬を降りて、茱萸(ぐみ)の木につないで森の中に入っていった。村人も八幡様の後からついていったが、森から出ると馬が石になっていた。そして、八幡様は森に入られて中姫(なかひめ)の八幡神社となった。この神社の祭りのときには、この「お馬はん」の背中から水が汗のようにしたたり落ちる。

【観音寺市大野原町花稲】

●一方宮  MAP
 西へ少し行けば海です。一方宮は三嶋神社の境内にあり、安産の神様「一方さん」として親しまれています。三韓征伐の折、応神天皇を胎まれた神功皇后は、凱旋のときまで出産を止めるよう神に祈り、神のみたまを腹にあてて安産したといわれています。この故事にならって、女性が身ごもると丸い小石をお宮から頂いて出産の無事を祈ります。出産後もう一つ別の石と二つにしてお返しし、子供の健やかな成長を祈願します。
 この神社には、次のような伝説が残されています。
 あるとき、小さな子供と『おいり』の入った櫃(ひつ)が大野原の海辺に漂着しました。『おいり』は婚礼のときにお嫁さんが配る餅米をふくらませたお菓子です。村人は神様に違いないと、子供を背負って家へ連れ帰ろうとすると、しだいに重くなってきました。あまりに重いので三島神社にきたところで下ろし、そこに社を建ててお祀りしました。この子供は、木花咲耶姫(このはのさくやひめ)が産んだ双子の一人だったので、お産の神様となりました。

【観音寺市豊浜町姫浜】

●一宮公園  MAP
 燧灘を臨む海浜公園です。砂浜が海水浴場としてさらに整備され、広々した芝生広場や時計塔などが整備されています。夕日の美しい海岸として知られています。

●ちょうさ会館・豊浜郷土資料館  MAP
 ここは、日本で唯一のちょうさに関する資料館です。本物の太鼓台のほか、ちょうさに関するさまざまな資料が展示され、映像も流されています。
 ちょうさ会館の隣に豊浜郷土資料館があります。ここには、綿をつむいだ道具や綿づくりの歴史、なつかしの民具などが集められています。また、資料館のかたわらには、実際の棉(わた)が栽培されていて、季節には白い花が咲きます。
(関連記事)“綿の産地だったチョウサの町

●満願寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第17番補陀落山満願寺。奈良時代、行基菩薩が開基したと伝えられています。初めは、大野原町五郷の田野々地区に建てられて、山寺としてありました。御本尊は聖観世音菩薩。

【観音寺市豊浜町和田浜】

●豊浜八幡神社  MAP
 ちょうさ祭りの初日は、氏参りが中心で、午後3時ごろ、豊浜八幡神社に次々と幕や掛け布団で着飾った二十数台のチョウサが集まり、本殿をぐるぐる回ります。夜は百個余りのちょうちんが取り付けられたチョウサが、町内の各地で風情あふれる音と光のパレードをします。
 豊浜のチョウサは、太鼓台の屋根の先に、「とんぼ」と呼ばれる赤色の結び目が付けられ、その下に「七重(しちじよう)」と呼ばれる7段重ねの赤色の布団が据え付けられています。また、金糸銀糸で竜や虎などを刺しゅうした一片が1・5メートルほどある掛け布団が前後に2枚かけられています。
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●宗林寺  MAP
 この寺は、「四国讃州七福神」の一つで「恵比寿」だとされています。

●元内閣総理大臣大平正芳の墓  MAP
 豊浜は故大平首相の生まれ育った町であり、墓地公園に墓があります。また街中を通る国道11号線は「大平記念通り」と名付けられています。

●合田兄弟の墓  MAP
 墓地公園には、合田求吾、大介兄弟の墓があります。求吾の墓石には「温恭合田先生」と刻まれています。これは、門人たちが求吾の温厚な人柄を慕って温恭先生と呼んでいたことによるそうです。
 合田氏の祖は伊吹島に逃れた平家の残党合田鳥之輔といわれ、その子孫の合田勘十郎が16世紀の天正年間、豊浜の和田に来たといいます。勘十郎の系統は合田総本家で増屋と称しました。合田求吾の家は大祖父の代に本家から分かれた浜合田家とで、代々医業をなりわいとしてきました。
(関連記事)“杉田玄白らの「解体新書」刊行より早く人体解剖図を著した讃岐人

【観音寺市豊浜町和田】

●獅子の鼻城址  MAP
 戦国時代末期に活躍した大平伊賀守国祐(天文7年(1538)~慶長8年(1602))が、標高約80メートルの尾根先端部(城の端)に築いた山城です。和田城、大平城ともいいます。大平伊賀守国祐は、先祖が藤原氏の出で、土佐吾川郡の城主でしたが、文禄5年(1562)長宗我部元親に敗れ、雨霧城主香川信景を頼って一時多度郡中村に居住します。その後豊田郡に移り、姫之一郷を領有し獅子の鼻(ししのはな)に城郭を築きました。しかし、天正6年(1578)長宗我部の大軍に攻められて落城しました。その後、仙石秀久に仕えて島津征伐に参戦し、戸次川の戦で敗走して後、讃岐に戻りかつての家臣の元で生涯を送ったといわれています。北麓にある国祐寺が居館跡です。
(関連記事)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”  “九州で島津軍と戦った讃岐武士

●国祐寺  MAP
 この寺は法華宗(本門流)の寺院で、山号を雲風山といいます。尼崎市大本山本興寺の末寺です。寺の縁起によると、弘仁13年(822)の建立で、最初は光明光毘盧遮那寺(ひるしゃなじ)と号する真言宗の寺でした。その後天正6年(1578)に獅子ケ鼻城の城主である大平伊賀守国祐(くにすけ)により法華宗に改宗され、寺号に自からの名を付した国祐寺(こくゆうじ)と改められたということです。

【観音寺市豊浜町箕浦】

●わた神社  MAP
 高須賀夕映え公園の南の浜にあります。豊浜での綿の歴史は古く、鎌倉時代に関谷兵衛国貞が、現在の関谷地区を開墾して棉(わた)の木を植えたことに始まるといわれています。「わた神社」は関谷兵衛国貞を祀っています。夫婦円満、健康の神様も祀られているそうです。
(関連記事)“綿の産地だったチョウサの町

●神田神社  MAP
 香川県最西端にある神社です。箕浦駅から歩いて20分、小高い丘の上に鎮座しています。神田神社の境内社には、天満神社と、祗園神社があります。香川県神社誌によると、「箕浦村、神田大明神あり、平将門祭る」「神田大明神、祭神平将門、祭祀9月9日、社硬宗林寺」「天慶の時、藤原純友等の乱を起こすや、豊田郡は伊豫に隣接せるを以て、夙にその配下に属せり」とあり、平将門と藤原純友に、縁のある神社だといわれています。かつて将門を祀っていましたが、今は大国主命が祭神です。
(関連記事)“讃岐も戦場になった藤原純友の乱

●余木崎  MAP
 香川県と愛媛県との県境となっている山が海に突き出た所をいいます。伊予と讃岐の国境にあることから、昔は、「予岐(よぎ)」といわれ、そこにある岬ということから「余木崎(よぎざき)」と呼ばれるようになりました。西行の紀行文も、「予岐水岬(よぎのみさき)」とあります。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

六十六番雲辺寺を中心とする地域

 この地域の範囲は、現在の観音寺市のうち、大野原町(内野々・有木・田野々・萩原)と、同市粟井町の区域です。

【観音寺市大野原町内野々】

●六十六番札所雲辺寺   MAP
 標高911mの雲辺寺山の山頂近くにあり、四国八十八ヵ所中最も高いところにあることから別名四国高野と呼ばれています。弘法大師が雲辺寺山に建築資材を探しに入り、この山の霊気に感じ入り山頂に堂を建て、その18年後、嵯峨天皇の勅願により仏舎利と毘盧舎那法印を山中に納め札所と定めたといわれています。讃岐の関所寺と言われ、昔は「遍路ころがし」と呼ばれる難所の一つでした。
 高さ15mの展望館の上には、重さ15トン、高さ10mの毘沙門天像がそびえています。讃岐の札所なのに頂上が県境となっているため住所は徳島県となっています。
 (御詠歌)  はるばると雲のほとりの寺に来て つきひを今は麓にぞ見る
 雲辺寺ロープウェイは、全長約2,600m、山麓駅と山頂駅の高低差約660mという、日本最大級のロープウェイです。ゴンドラの窓越しに讃岐平野、瀬戸内海、中国地方、瀬戸大橋などを一望することができます。
(関連記事)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”   “最初は88ヶ所以上あった四国霊場
雲辺寺
 

【観音寺市大野原町萩原】

●萩原寺  MAP
 四国別格二十霊場第十六番。この寺は、ハギの名所として知られています。正式の名称は、巨鼇山(きょごうざん)地蔵院萩原寺という真言宗の古寺で、地元では地蔵院と呼ばれています。
 唐から帰朝した空海は、雲辺寺山に寺を建て千手観音像を刻んで安置し、周辺に49ヵ寺を開きましたが、このうちの中之坊がのちに山上から降り、地蔵菩薩を本尊として地蔵院と号したものです。室町時代、京兆家当主で讃岐守護だった細川勝元の祈願寺となり、勝元以後も細川氏の祈願所であったといわれています。寺務所正面東にある山門は、細川勝元寄進と伝えられています。室町時代には、四国中の真言寺がその末寺になったといわれるほどに寺勢が盛んだったといわれています。
 「四国讃州七福神」の一つで「弁財天」だとされています。
(関連記事)“細川京兆家のお膝元だった讃岐

【観音寺市大野原町田野々】

●豊稔池  MAP
 豊稔池は田野々の高尾山の麓にあります。有効貯水量は159万立方メートルで、県内5番目の大きな池です。
この地の人びとは、昔から「月夜にも焼ける」といわれるほど日照りに悩まされてきました。明治以降も幾度か大干魃を経験し、大正11年(1922)、地域一丸となって柞田川上流に新たなため池の築造が取り組まれました。
 築造にあたっては、柞田川上流の周りに土堰堤の材料となる良質な土がなかったため、コンクリート構造とされました。また、工事の途中で基礎地盤の弱点が発見されたため急遽工事を変更し、当時の最新理論を適用したマルチプル・アーチ型の設計とされました。
 工事は、県営事業として大正15年3月27日起工され、付近で採取した粗石や海岸から馬車や牛車で運んだ砂にモルタルを混合したコンクリートを用いて行われました。総工費559,800円と延べ15万人の労力を投入して昭和5年(1930)3月27日に完成し、農家の願いを込めて「豊稔池」と名付けられました。
(関連記事)“ため池密度日本一の讃岐平野

【観音寺市大野原町有木】

●有木の平家谷  MAP
 五郷ダムに架かる橋を渡って300mのところに「史跡有盛路の石柱」があり、ここが有木(ありき)の平家谷の入り口です。
 長門の壇の浦を逃れた平有盛(ありもり)は、五郷の有木に入り、ここで山野に入って薬草を採るのを仕事としている権八(ごんはち)という者に匿われたといわれています。
 平有盛が有木の地に三宝荒神を産土神として祀ったといわれるところには、「三部神社」が鎮座しています。境内には有盛が建てたものといわれる阿弥陀堂があります。また、この神社には太刀・小烏丸の太刀箱があります。平有盛が有木入山の折り、石の上に立って追っ手を見張ったというところには、「有盛の乗石」があります。
 有盛は有木からさらに阿波の祖谷に落ち延びたといわれていますが、有木の集落の上の方には「平有盛の墓」と伝えられる墓もあります。
 また、有木の部落は、源平屋島合戦に敗れた平家の左衛門尉(さえもんのじょう)という武士が、この地に逃れてきて木樵となって住み着いたのが始まりだともいわれています。
(関連記事)“讃岐に残る平家落人伝説

【観音寺市粟井町】

●於(おの)神社  MAP
 讃岐国延喜式内二十四社の一つで、1755年頃、丸亀藩主京極高矩により再興されたといいます。

●粟井神社  MAP
 讃岐国延喜式内二十四社の一つです。藤目城跡のある藤目山(136m)の麓にあります。祭神は天太玉命です。古くは刈田大明神とも称されました。創建年代は明らかでありませんが、続日本紀に「承和九年(八四二)粟井神名神に預かる」と記され、平安期初頭既に名神に列するほどの名社でした。古代、讃岐は西讃を中心として忌部氏により開墾殖民が行われたといいます。このとき、忌部氏が同胞の一致団結をはかるため、自分たちの祖神である天太玉命を氏神として祀ったのがこの粟井神社だといわれています。粟井は、安房居の意味とする説もあるそうです。なお、善通寺市にある大麻神社の祭神も天太玉命です。
 戦国時代末期、土佐の長宗我部親元による藤目城襲撃の兵火で社殿宝物等を失いましたが、その後生駒正俊によって本殿が再建されました。
 近年はアジサイ500株を植えたアジサイの里としても知られています。
(関連記事)“走水の海で日本武尊の身代わりになった讃岐女

●藤目城趾  MAP
 長宗我部元親が讃岐で最初に攻略した城といわれています。粟井神社後方にあります。
 この城は、室町時代のはじめの貞治2年、斉藤重親が豊田郡(旧名刈田郡)を賜わり、築城したものです。それから6代目の天正4年(1576年)、長宗我部元親に攻められ、城主国重は射場(粟井神社の北)において敵の矢に当たって討ち死にし、弟忠重もまた同所において討死しました。しかし、長男の重之がついに敵を撃退しました。
 その後、天正年(1578年)再度元親の来襲を受けました。敵は攻めあぐねて計を案じ、いつわりの和睦を申し入れます。重之はこの計にかかり、敵を城中に入れたところ火を放たれました。重之は自ら奮戦後城中において切腹して果てました。次男千代丸は、老臣教守と共に中姫の宗像神社で討死し、今その地に藤目神社として祭られています。妻は懐胎の身で福田原まで逃れたとき、ついに敵に追駆けられ、堀に身を投じて自害しました。今も藤目城姫塚としてここに祀られています。
 ただし、長宗我部元親が讃岐で最初に攻略した「藤目城」とは、粟井の城ではなく、仲南の城であるとする強い説があります。この説は、藤目城は現在のまんのう町大口の県道197号線(財田満濃線)三河神社から北に500mのところにあった城だとします。
 なお、長宗我部元親軍と攻防のあった城跡は、この他に、本篠城跡、九十九城、仁保城、雨霧城、聖通寺城跡、西長尾城跡、勝賀城、佐料城跡、藤尾城跡、十河城跡、虎丸城跡などがあります。
(関連記事)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山

●竜王神社  MAP
 粟井ダムのすぐ下に鎮座する竜王神社には、「おなぎさん」と呼ばれる鰻(うなぎ)を祀った祠があります。ある日照りの年、粟井の奥谷別所に住む源左衛門と源三郎という兄弟が、雲辺寺の麓にある竜王様の社に籠もって雨乞いの祈願をしたところ、七日目の満願の夜、二人の夢の中に美女が現れて、社の近くを指して掘れと言いました。二人は、同じ夢を見たことを不思議に思いましたが、そこを掘ると黒い鰻(うなぎ)が這い出て来て、近くの渕へ飛び込み、その途端、強い雨が降り出しました。そこでこの淵に石の祠を立てて鰻を祀ったということです。

●極楽寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第16番寶樹山極楽寺。奈良時代の養老5年(721)行基菩薩が開基したと伝えられています。現在の東約2キロメートルの菩提山に、山寺としてありました。天長元年弘法大師が毘沙門天像を刻んで、守護仏として安置しました。御本尊は如意輪観世音菩薩。
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承



地域編-目次

 「讃岐の風土記」では、それぞれの記事に関連する社寺仏閣、名勝、旧跡、記念物、公園、建物などを、「訪れてみたいところ」としてご紹介しています。今後、これらを地域別にまとめていきたいと考えています。
 地域をどのように区分するかについては、行政区域別、コース別などの方法が考えられますが、ここでは、四国八十八ヵ寺札所ないし地域の核となるものを中心に区分します。
 各地域について、順次、掲載していく予定です。

1.豊浜と大野原の街
  観音寺市豊浜町(姫浜・和田浜・和田・箕浦)、同市大野原町(大野原・中姫・花稲)
2.六十六番雲辺寺を中心とする地域
  観音寺市大野原町(内野々・有木・田野々・萩原)、同市粟井町
3.六十七番大興寺を中心とする地域
  三豊市山本町・財田町
4.六十八番神恵院・六十九番観音寺を中心とする地域
  観音寺市八幡町・有明町・室本町・高屋町・観音寺町・村黒町・流岡町・池之尻町
5.伊吹島
6.七十番本山寺を中心とする地域
  三豊市豊中町(本山甲・笠田笠岡・上高野・岡本・下高野・比地大)、同市高瀬町(比地中・下勝間)
7.仁尾の街
8.詫間の街・荘内半島・粟島・志々島
  三豊市詫間町
9.大水上神社を中心とする地域
  三豊市高瀬町のうち、南から北に、羽方・西股・上麻・下麻・上勝間・上高瀬
10.七十一番弥谷寺と本門寺を中心とする地域
  三豊市三野町
11.七十二番曼荼羅寺・七十三番出釋迦寺・七十四番甲山寺とその周辺
  善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域
12.七十五番善通寺とその周辺
13.金刀比羅宮と琴平の街
14.満濃池を中心とする地域
15.二宮飛行公園を中心とする地域
16.天川神社を中心とする地域
17.七十六番金倉寺とその周辺
18.七十七番道隆寺と多度津の街・高見島・佐柳島
19.海岸寺辺り
20.丸亀市を中心とする地域
21.本島と牛島
22.七十八番郷照寺と宇多津の街
23.讃岐富士とその周辺地域
24.坂出の街
25.瀬戸大橋とその周辺の島々
26.七十九番天皇寺と城山の周辺
27.八十番国分寺を中心とする地域
28.滝宮天満宮を中心とする地域
29.八十一番白峯寺と神谷神社を中心とした地域
30.八十二番根香寺と五色台
31・香西寺を中心とする地域
32・扇町界隈と石清尾神社を中心とした地域
33・高松城と商店街界隈
34.栗林公園と県庁を中心とする地域
35.女木島と男木島
36.仏生山を中心とする地域
37.八十三番一宮寺・田村神社を中心とする地域
38.冠櫻神社と塩江温泉と中心とする地域
39.十河城跡と公淵森林公園を中心とする地域
40.八十四番屋島寺を中心とした地域
41.八十五番八栗寺を中心とする地域
42.小豆島霊場一番洞雲山から二十七番桜ノ庵までの地域
43.小豆島霊場二十八番薬師堂から四十八番毘沙門堂までの地域
44.小豆島霊場四十九番東林庵から七十五番大聖寺までの地域
45.小豆島霊場七十六番金剛寺から八十八番楠霊庵までの地域
46.豊島
47.直島
48.八十六番志度寺を中心とする地域
49.白山を中心とする地域
50.八十七番長尾寺を中心とする地域
51.八十八番大窪寺を中心とする地域
52.琴林公園を中心とする地域
53.白鳥神社・与田寺を中心とする地域
54.引田の街


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(147)“漂泊の俳人が終焉を迎えた島で生まれた二十四の瞳”

 瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、「アヅキジマ」の名で「古事記」の国生み伝説にも登場する古い歴史をもち、海上交通の要衝であったことから各時代に様々な文化が入り込み、その温暖な気候と風光明媚さともあいまって、歴史と自然が織り成す一つの小世界としての独特の風土をつくっています。
 その小豆島の風土に引き付けられるかのように、島外の人々は、憩いと安らぎを求めて訪れてきます。大正末期、安住の地を求めてやって来た漂白の俳人尾崎放哉もその一人でしょう。
 しかし、小豆島で生まれ育った若者が、何か新しいものを求めようとするときには、その風土の重さは桎梏と感じられ、彼らは島外へ羽ばたこうとするのでしょう。小豆島が生んだ壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)、壺井栄の3人の文学者もこのような若者だったのでしょう。繁治は厳しい国家弾圧の下で詩を書きつづけ、傳治はプロレタリア文学の旗手として名作を次々と発表しました。中でも、栄は、その代表作「二十四の瞳」で小豆島を全国に知らしめました。
 日本近代文学史に記されるこの4人にまつわる物語や遺品などが、小豆島には多く残されています。

 小豆島は、自由律俳句の鬼才といわれた尾崎放哉が終焉を迎えた地です。自由律俳句は、約束ごとや制約に縛られない自由な表現という思想から、五七五の定型句や季語などにとらわれず生活感情を詠い込んだ俳句です。明治時代後期に荻原井泉水(はぎわらせいせんすい)が俳誌「層雲」を主宰し確立されたといわれており、大正時代になると尾崎放哉、種田山頭火がその代表的な俳人として登場します。
 放哉は、大正14年(1925)年8月、40歳のとき、京都から小豆島にやって来て、土庄の西光寺奥の院の南郷庵(みなんごあん)の庵主として入り、翌年4月7日に病没するまでの8ヶ月間居住しました。その間に自由律俳句200余句を創作しています。
 しかし、この放哉の来島は、著名な作家が創作活動に打ち込むために新たな環境を求めたというようなものではなく、社会的地位や金も家族も捨て身体を病んだ世捨て人が死に場所を求めて辿りつたとどのつまりでした。その臨終は、庵の近くに住む漁師の妻、南堀シゲだけに看取られた孤独で寂しいものでした。

 侘しい人生の終焉を迎えた放哉ですが、その途中までは、多くの人が羨望する典型的な秀才エリートの道を歩んでいました。
 放哉は、本名を尾崎秀雄といい、明治18年(1885)年1月20日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)吉方町に生まれます。父は裁判所書紀官をしていました。当時、優秀な若者にとっては、「末は博士か、大臣か」といわれたように、勉学に励み、官僚や学者になることが立身栄達の道でした。放哉もごたぶんにもれず、この道を進み、鳥取県立第一中学校を経て、第一高等学校(現在の東大教養学部の前身)そして東京帝国大学法学部へと進みます。秀才として親や親類からも将来の出世を大いに期待されていたと思われます。
 しかし、放哉は、もともと、法律の勉強や官僚の仕事にはあまり興味がなかったようです。大学時代には「ホトトギス」や「国民新聞」の俳句欄にしきりに作品を投稿していたといいます。大学も追試験で卒業し、東大同級生の多くの者が権力の座を目指して官僚の道を選ぶのに対して、通信社を経て生命保険会社に就職します。
 そこでは、管理職としてそれなりに仕事をこなしていたようですが、会社組織の中で上手く立ち回れないのか、酒に溺れ人間関係の不都合から35歳のとき退職します。その後、職を得て朝鮮へと渡りますが、そこでも酒による奇行により不都合を生じ約1年で退社し、旧満州に移り肋膜を病んで入院治療の身となります。

 退院後、大正12年(1923)年秋に帰国しますが、すでに身体は酒と病でボロボロになり、普通の社会生活は困難になっていたのでしょう。放哉は妻と財産のすべてを捨て、京都にある修養団体の一燈園に身を寄せ、読経と托鉢、労働奉仕の日々に入ります。38歳のときです。
 その後、京都知恩院の常称院、兵庫県西須磨の須磨寺、福井県小浜町の常高寺と、堂守や寺男をしながら寺院を転々とし、再び京都に舞い戻ってその頃京都に居た荻原井泉水を頼ります。井泉水は一高の一級先輩で、俳句の上での師匠でもありました。
 井泉水は、かつて小豆島に来島したことがあり、そのときの縁で地元の「層雲」同人井上一二(いちじ)に放哉の世話を頼みます。こうして、土庄の西光寺の住職をしていた杉本宥玄の好意で南郷庵の庵主として入ることになったわけです。放哉は、やっと安住の地を得ることができたそのときの心境を、「これでもう外に動かないでも死なれる」と詠っています。「春の山のうしろから煙が出だした」が辞世の句となりました。放哉を慕う山頭火は、昭和3年、14年の2度にわたり、放哉の墓参りに小豆島を訪れています。

 一方、放哉が小豆島にやって来る半年前の大正14年(1925)2月、岩井栄という一人の若い女性が島を去っています。後に、「二十四の瞳」などを発表して一世を風靡する女流作家となった壺井栄です。
 壺井栄は、明治32年(1899)8月5日、醤油の樽職人である岩井藤吉、妻アサの五女として小豆郡坂手村(今の小豆島町坂手)に生まれます。幼少の頃、蔵元が倒産したことで家計が傾き、他家の子守や内職をしながら小学校へ通うなど苦労を重ねますが、大正2年(1913)14歳で内海高等小学校を卒業し、その後、村の郵便局、村役場に勤めます。この頃、同郷の壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)との交流から文学への強い関心を抱いていたようです。

 壺井繁治は、栄より2つ年上で、小豆郡苗羽村(現在の小豆島町苗羽)の出身です。栄とは遠縁にあたります。生家は村でも有数の農家であり、また網元でした。小学校を卒業すると、地元の内海実業補習学校(現小豆島高校の前身)に入学しましたが3年で退学し、大正2年に大阪の私立上宮中学2年に編入します。大正7年、上京して早稲田大学に学びますが、中退し、アナキスト詩人として左翼系の文学雑誌の出版などに携わっていました。
 黒島傳治は、壺井繁治より1つ年下、壺井栄より1つ年上で、繁治と同じ苗羽村の生まれです。貧しい半農半漁の家庭に生まれて網引きや醤油工場で働いていましたが、大正7年19歳のとき、文学を志して上京し、同郷の壺井繁治に出会い、その世話で、翌年、中学を経ないで進学できる早稲田大学選科に入学します。しかし、選科には徴兵猶予がなく12月学業半ばにして召集され、シベリアへ出兵し、そこで肺を患って大正11年(1922)内地へ送還されて除役となり、いったん療養のため小豆島に戻っていました。

 大正14年2月、栄は、26歳のとき、村役場を辞め、壺井繁治をたよって上京します。そして、結婚して世田谷・三宿の小さな貸家で新生活を始め、4月には世田谷・太子堂の二軒長屋に移ります。この年の初夏には、黒島傳治も再度上京し、壺井夫婦宅に一時寄宿しています。当時、小豆島では、文学をやる人間は国賊のようにいわれていたようです。栄と傳治が島を出たのは、ここに居ては好きな文学をやることができないという思いがあったのでしょう。
 栄が世田谷・太子堂に住んでいた頃、二軒長屋の隣には林芙美子、近所には平林たい子の夫婦が住んでおり、共に夫がアナキスト詩人だという親近感からか、互いに生活を助け合い、文学的な影響を受け合ったようです。
 しかし、栄の東京での生活も厳しいものでした。大正14年12月には、小豆島の母が亡くなり、妹2人と兄の子1人を引き取っています。また、昭和2年から9年頃にかけては、軍国化の流れの中で、夫の繁治が、左翼系の思想犯として数回検挙されて入出獄を繰り返していたため、事務員の仕事や筆耕の仕事をして生活を支えていました。
 故郷の小豆島も壺井夫婦には冷たかったようです。昭和3年、帰島中の夫が高松警察に拘留されて小豆島の実家から親戚宅まで家宅捜査を受けたときは、親類らから国賊と罵られたといいます。

 一方、黒島傳治は、大正15年に「二銭銅貨」・「豚群(とんぐん)」を「文芸戦線」に発表します。昭和2年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂に際しては、労農芸術家連盟の創立に加わり、後には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、ナルプ内の農民文学研究会の主要メンバーとして活躍します。そして、シベリアでの軍隊生活の体験から、この年、「雪のシベリア」・「橇(そり)」・「渦巻(うずま)ける烏(からす)の群(むれ)」・「国境」などの、すぐれた反戦作品を生み出します。しかし、昭和8年、35歳のとき、病気療養のため再び小豆島へ帰ります。

 昭和10年頃から栄は、童話、短篇小説を書き始めます。そのきっかけは、繁治が左翼系機関誌「戦旗」の発行責任者となり、その編集・経営を手伝ううちに、昭和7年頃から窪川稲子(後の佐多稲子)や宮本百合子と知り合い、親しく交わるうちに書くことを勧められたようです。
 栄は、昭和13年(1938)39歳のとき、処女作「大根の葉」を文芸に発表し、作家としてデビューします。そして、昭和15年41歳のときには、「暦」・「赤いステッキ」を発表し、翌年第4回新潮文芸賞を受けます。
 なお、小豆島に帰っていた黒島傳治は、10年近く闘病生活を過ごし、戦争たけなわの昭和18年10月17日、小豆島芦ノ浦の自宅で亡くなっています。享年45歳でした。

 戦後、栄の作家活動はさらに磨きがかかり、昭和22年(1947)48歳のときには「浜辺の四季」・「妻の座」を発表します。そして、昭和27年(1952)53歳のときに「二十四の瞳」を発表します。この作品は、昭和29年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、一躍脚光を浴びます。なお、昭和27年に「坂道」、「母のない子と子のない母」で芸術選奨文部大臣賞を、昭和30年に「風」で第7回女流文学賞を受けます。
 栄は、300篇にのぼる作品を発表していますが、これらは、東京の生活の中から生まれたものもありますが、小豆島を描いたものも多いといわれています。苦しい東京での生活の中でも、故郷への思いは離れることはなかったようです。好きだった言葉は、「桃栗三年 柿八年 柚子の大馬鹿 十八年」といわれています。柚子(ゆず)と自分自身の遅咲きを重ね合わせていたようです。
 栄は昭和42年6月23日67歳のとき、繁治は昭和50年9月4日77歳のときに亡くなり、二人は東京の小平霊園で眠むっています。

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(146)“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家”

 
 武士の起源は、古代律令制国家が崩壊していった10世紀から12世紀にかけて、在庁官人、郡司、荘官ら地方に土着した者たちによって形成されていった武装集団だといわれています。彼らを国人ともいいますが、讃岐の代表的な国人は、讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏の3つの一族です。
 讃岐氏は、神櫛王(かんぐしおう)の子孫だといわれ、三木・寒川両郡で勢力を張り、その一族は寒川、高松、三木、神内、植田、池田、十河、三谷、由良、村尾らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐橘氏は、藤原純友を捕らえた警固使橘遠保(たちばなとおやす)の子孫で、荘内半島を中心に勢力を張り、長尾、海崎(みさき)、真部らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐藤原氏は、阿野・香川2郡を中心に勢力を張り、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、新居、豊田、柞田、柴野、植松、三野、阿野、詫間らに分かれていき、その一族は讃岐藤家(ふじけ)六十三家と呼ばれました。
 これら、3つの一族のうち、讃岐で最も有力な武士団となったのが讃岐藤原氏です。その初代は、藤太夫章隆(とうのたいふあきたか)といい、父は、平安時代末期の保安元年(1120)に讃岐守となって京から下向してきた正二位中納言・藤原家成(いえなり)です。家成は、藤原北家中御門流の公家で、平清盛の義母である池禅尼の従兄弟にあたり、鳥羽上皇に仕えたといわれています。母は綾大領貞宣(あやのかみさだのぶ)の娘で、綾氏は日本武尊の息子である武殻王(たけかいこおう)の末孫といわれ、代々阿野(あや)郡の大領(だいりょう、郡司のこと)を務めていた豪族です。
 章隆は成人して父方の藤原氏を名乗って藤太夫(とうのたいふ)と称し、綾の大領となります。その息子が讃岐藤原氏二代目の資高(すけたか)で、資高は治承年間(1177~81年)に羽床(はゆか)の庄司(しょうじ)となり、下羽床に居を構えて菅原、滝宮、小野、北村、羽床下、羽床上、牛川、西分、東分の9か村を治めます。そして、地名をとってはじめて羽床氏を称します。この羽床氏が讃岐藤家六十三家の嫡流です。
 資高には息子が生まれ、次男の有高は香東郡大野郷を本拠とする大野氏の租となります。三男の重高は羽床氏を継ぎ、のちにそこから、豊田氏、柞田(くにた)氏、柴野氏などが分流していきます。四男の資光(すけみつ)は阿野郡新居(にい)郷を本拠とし、新居氏を称します。
 資高の息子たちの中でも新居資光は、源平合戦の際、讃岐の藤原・綾両家の一族一千人を率いて源氏につき、寿永2年(1183)の備中水島の合戦で活躍し、さらに京に上って院の警護に当たり、寿永4年(1185)の屋島の戦いでは、義経の陣に加わって戦功を挙げ、頼朝から感状を受けて綾郡を安堵されたといわれています。そして、のちに新居氏から香西氏、福家氏、西隆寺氏が分かれていきます。

 建久3年(1192)鎌倉幕府が成立すると、京都を中心に西国を統治する朝廷と、鎌倉を中心に東国を統治する幕府が並立し、幕府が朝廷を抑える状況になりました。これに対して、後鳥羽上皇は、幕府に対して強い不満を抱きます。後鳥羽上皇は後白河法皇の皇孫に当たり、祖父譲りの智謀家で、譲位した後も土御門(つちみかど)天皇・順徳(じゅんとく)天皇・仲恭(ちゅうきょう)天皇の御世に院政を執っていました。また諸芸に通じる「万能の人」としても知られていました。
 承久元年(1219)、3代将軍・源実朝が暗殺されると、幕府執権・北条義時は、実朝のあとの将軍に、後鳥羽上皇の皇子を迎えようとします。しかし、源氏の嫡流が断絶したこのときを好機と考え討幕の決意を固めていた後鳥羽上皇は、これを拒絶し、結局、頼朝の遠縁にあたる九条道家の子・頼経が将軍として迎えられることになります。
 幕府と朝廷の争いは、後鳥羽上皇が、寵愛していた伊賀局(白拍子亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋荘の地頭の免職を北条義時に命じ、北条義時がこれを拒否したことを発端として表面化します。後鳥羽上皇は、地頭の免職要求が棄却されたことを根拠に、承久3年(1221)5月15日、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発し、ついに挙兵します。これが承久(じょうきゅう)の乱です。
 このとき、讃岐藤原氏の一族は、嫡流の羽床氏とその系統の柞田氏らが後鳥羽上皇の院宣に呼応して朝廷方につき、傍流の新居資村(すけむら)らが幕府側につきます。資村は新居資光の息子にあたります(ただし、弟、甥という説もあります)。

 この戦いに際し、幕府は、二代執権・北条義時を中心に結束を固め、義時は子の泰時を大将に、弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都に向かわせ、東山道や北陸道からも攻めさせました。その軍勢は19万といわれています。そして、1ヶ月たらずのうちに京都を占領しました。
 乱後、幕府は朝廷方を厳しく処分しました。朝廷軍に加わった後藤基清・佐々木経高・三浦胤義・河野通信・大江親広らは厳罰に処せられ、また後鳥羽上皇は隠岐国、順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国へとそれぞれ流され、仲恭天皇は廃位させられて後堀河天皇が践祚します。
 土御門上皇は、土佐に流される途中、讃岐白峯にある崇徳天皇御陵の近くを通り、その際に崇徳天皇の霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて土御門上皇と都に残してきた家族を守ることを約束したという逸話が残されています。土御門上皇はのち阿波に移り、そこで崩御されました。

 幕府は、承久の乱の勝利で、上皇方の公卿や武士の所領を没収して新補地頭(しんぽじとう)を配し、さらに朝廷監視のために京に六波羅探題を置いて西国における幕府権力を強化します。
 讃岐では、鎌倉幕府のために戦った新居資村が、その功によって香川12郷・阿野4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓の佐料に居館、その山上に詰めに城を築きます。そして、氏を香西氏に改めて左近将監に補任され、讃岐藤家六十三家の棟梁の座につきます。以後、香西氏は海陸ににらみをきかせながら勢力を伸長させていきます。一方、朝廷方についた羽床・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の下に入ります。

 その後、鎌倉幕府滅亡後の南北朝動乱期にも、香西氏と羽床氏は、同族であるのもかかわらず、袂を分かっています。香西氏は、承久の乱のときと同様に武家方の北朝につきます。一方、羽床氏は、鎌倉時代末期、政成が楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功を挙げますが、その後、政成の子の政長(まさなが)は、一族みな北朝に属した中で、ひとり羽床七人衆を率いて宮方の南朝につきます。勇名を馳せた羽床七人衆とは、秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後、後藤是兵衛、造田佐渡、羽床源内、脇絲目です。
 北朝方についた香西氏は、南北朝時代以降、讃岐を支配した細川京兆家の重臣となり、細川四天王の一人として京へも進出するなど大いに栄えます。しかし、南朝方についた羽床氏は香西氏の陣代として勢力を保つこととなります。

 戦国時代末期の天正時代(1573~1593)、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まると、香西氏、羽床氏ともその軍に下ります。その後、香西氏は秀吉の四国征伐により絶え、羽床氏も秀吉の家臣・仙石秀久に従って出陣した九州征伐における戸次川の合戦で絶えます。これにより、平安時代末期から鎌倉・室町時代を通じて讃岐の有力国人であった讃岐藤家(ふじけ)はその長い歴史に幕を閉じました。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(145)“神様になった一揆のリーダー”

 世のため人のために一身を捨てて尽くした人のことを義民(ぎみん)といいますが、江戸時代、百姓のために命をかけて年貢の引下げなどを直訴した義民の物語が、今でも全国各地に残されています。
 中でも、芝居や歌舞伎の演目として今も親しまれている「佐倉義民伝」はよく知られているところです。主人公の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期、4代将軍徳川家綱のときに活躍した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の名主です。惣五郎は、天災・飢饉の続く中、佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して藩の役人や江戸の役所に困窮と年貢の軽減を訴え、ついには将軍が上野寛永寺へ参詣する際直訴に及びます。その結果年貢は軽減されましたが、惣五郎夫妻は磔刑、子供たちも死罪に処されました。この物語は、幕末の嘉永年間(1850年代)に、「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)として歌舞伎で演じられて大ヒットし、以後、講談・浪花節などでも積極的に取りあげられています。

 讃岐にも、江戸時代の義民伝が今でも各地に残されています。
 江戸時代前期、3代将軍徳川家光のとき、高松藩には小村田之助(おもれたのすけ)という義民がいたという話が残っています。
 田之助は寛永元年(1624)、山田郡小村(おもれ)(現在の高松市小村町)の庄屋の家に生まれ、寛永19年、19才のときに父親から庄屋職を継ぎます。この年は、松平頼重が高松藩初代藩主として入府した年ですが、藩内の農民はうち続く飢饉で困窮し、餓死者が出るありさまでした。これを見かねた田之助は、年貢の年2回分納を、もし完納できないときは私財をもって代納するという確約で藩に嘆願しました。そして、田之助の意見は採用され、分納が認められることになります。
 しかし、悪例を残すという藩内一部の強い意見から、山田郡夷(えびす)村(現在の高松市木太町夷)の刑場で、田之助は打首とされました。このとき、藩主松平頼重は罪一等を減じようと馬で急使を走らせ、間に合わないとみた急使が馬上から白旗を振って処刑の中止を知らせようとしましたが、刑場役人は「早くしろ」の合図と思い、処刑してしまったという話が伝えられています。寛永21年(1644)、田之助21歳のときです。その後、地元民たちは、白旗を振ったと伝えられる所に小社を建て田之助を祀りました。

 また、小豆島には、6代将軍徳川家宣のときに、平井兵左衛門(ひょうざえもん)という義民がいた話が残っています。延宝5年(1677)から同7年にかけて実施された検地により、小豆島では年貢が倍増となり、百姓は窮乏しました。そこで池田浜の庄屋をしていた平井兵左衛門は、正徳元年(1711)、江戸へ出て幕府勘定奉行に訴え、年貢を下げてくれるよう願い出ました。
 しかし、当時の小豆島は天領(幕府の領地)でしたが、高松藩預かりとなっていたことから、その行為は、高松藩を無視した越訴(おっそ)の罪にあたるとされ、兵左衛門は捕らえられて、江戸から高松、そして小豆島に連れ戻され、正徳2年3月11日、村内引き回しのうえ江尻浜で打首・獄門の刑に処せられました。兵左衛門36歳のときです。
 その後、地元民たちは、小豆島町池田の亀山八幡宮のお旅所の馬場に祠を建て、兵左衛門の霊を「平称霊神」として祀りました。また、兵左衛門の物語は芝居にされ、「金ヶ崎湊荒浪」(かねがさきみなとのあらなみ)という小豆島農村歌舞伎の演目の一つとして今も演じられています。

 西讃地方では、江戸時代中期、9代将軍徳川家重のとき、讃岐最大の百姓一揆が丸亀・多度津両藩で勃発しています。この一揆のリーダーだった7人の義民は神として神社に祀られ、その物語は今でも地元で語り伝えられています。
 寛延年間(1748~1750)の初め、数年来の風水害で、丸亀・多度津藩領の那珂(なか)・多度・三野・豊田四郡の百姓たちの生活は困窮を極めていました。それに加え、蔵役人や庄屋たちの横暴、不法、祖税の増加などにより、「如何に穏順なる四郡の民も忍ぶに忍びがたく」という状態になっていました。そこで、百姓たちは、徳政を求める親書を上申しますが、庄屋たちにより途中で握りつぶされ、城内まで届きませんでした。追いつめられた農民たちは、「一揆しかあるめえ」とついに決起へとはしります。
 一揆を計画指導したのは、丸亀藩5人と多度津藩2人の7人の百姓でした。彼らは、三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)にある宇賀神社の山門楼上に集まり密議を行ったといわれています。丸亀藩の5人は、笠岡村の大西権兵衛・弥一郎(やいちろう)・嘉兵衛の3人と、三野郡大野村(現三豊市山本町)の兵治郎、それに那珂郡帆ノ山村(現まんのう町仲南)の小山金右衛門です。多度津藩の2人は、多度郡碑殿(ひどの)村(現善通寺市)の甚右衛門と、多度郡三井村(現多度津町)の金右衛門です。彼ら7人の中でも、大西権兵衛がリーダー格でした。
 寛延3年(1750)年1月14日、多度郡百姓の仲介で、三野郡百姓から豊田郡百姓あてに、20日に金倉川河原へ結集するよう呼びかけた廻状が送られます。これに応じて19日夜から、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まり始め、20日には財田川の本山河原に4万人が集まり、庄屋の居宅が打ち壊されます。
 民衆の力に驚いた丸亀藩は、21日、三野・豊田郡の百姓に対して、願いの筋を申し出よと伝えます。22日、筵旗(むしろばた)を掲げた三野・豊田勢は鳥坂峠を越えて、那珂・多度郡勢と善通寺で合流します。このときの一揆の総勢は6万人余に達したといわれています。
 23日、四郡一揆勢の代表と藩側との会合が善通寺客殿でもたれ、一揆勢から13か条の歎願が示されます。その要旨は、年貢の未納米1000石余りの年賦弁済、夫食米の給付、年貢米斗升掻(とますがき)不正の停止、相場並の銀納値数、出費の多い役人の出張回数軽減などでした。
 この要求に対して藩当局は、直ちに「内10か条の重要項目の要求を認め、3か条については追って沙汰すべし」と回答し、ほぼ百姓たちの嘆願を認めます。これにより、一揆勢は結集を解いて帰村していき、この騒動はこれで落着するように思われました。
 ところが、善通寺での会合があった23日の直前の20日に、全国各地で頻発する百姓一揆に危機感を強めていた幕府から、百姓の強訴・徒党の禁令が出されていました。23日の時点では、この幕府の禁令が丸亀・多度津両藩に届いていなかったのです。禁令を知った両藩は、態度を一変させ、23日付の聞き届けを反故にしてしまい、そのうえ、一揆関係者を探索して捕らえていきました。
 この年の7月28日、大西権兵衛ほか7名は、一揆の主謀者として、金倉川河畔において磔あるいは打首・獄門の刑に処せられました。処罰は権兵衛の3人の子にも及び、9歳の未子まで全員が打首にされたといいます。権兵衛は、処刑に際して、
        「この世をば沫(あわ)と見て来し我が心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」
という辞世の句を残しています。
 その後、権兵衛はじめとする7人の義民は、七人童子、七人同士あるいは七義士(しちぎし)と呼ばれて、地元の人たちによって密かに弔われてきました。明治に入ると、その遺徳を公に顕彰しようという動きが活発になり、7人の義民が処刑されてから約150年後の明治36年(1903)、権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られました。

 江戸時代後期、11代将軍徳川家斉のときの文政11年(1828)12月、高松藩領香川郡の百姓が一揆を起こし、弦打村(現高松市鶴市町)の甚兵衛が罪を一身に背負って香東川原で磔の刑に処せられたといわれています。この物語は、菊池寛により「義民甚兵衛」として短編戯曲化されています。

 義民ではありませんが、幕末の多度津藩には、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は現在の観音寺市大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したといいます。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇で、
        「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」
という辞世の歌を残して処刑されました。

 明治に入っても、西讃では、大規模な農民騒動が起きています。寛延の百姓一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、三野郡下高野村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女性が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きました。
 この事件は、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言となって、たちまち近隣の村々に広がりました。折りしも、この頃、民衆は、国が兵役を「血税」と称していることを誤解し、徴兵検査により国から血を採られると思い込み、不安感を抱いていました。
 民衆の不安感に、「子ぅ取り婆あ」の流言が火をつけ、数千人規模に膨らんだ群集が、竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、西讃地方の村々へ次々と進撃し、官と名のつくものを攻撃していきました。侵寇(しんこう)された村は約130ヵ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600ヵ所に及びました。6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化します。これを西讃血税一揆あるいは竹槍騒動といいます。
 この騒動の参加者は、総数約4万人を越え、うち3万人は三野・豊田郡の者だったといわれています。処罰された者は約1万6千人に及び、大半が三野・豊田郡の者でした。7人が金倉川原で打首されました。

 讃岐人は、温暖な気候風土にあることから、温厚で従順だとよくいわれています。しかし、西讃地方では、江戸中期と明治初期にかなり大規模で激しい一揆、暴動が起きており、これが三豊地方(三野郡と豊田郡を合わせた地域で、現在の三豊市と観音寺市)の人たちの気風に大きな影響を及ぼしているように思われます。                                                                                                   (完)

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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