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(144)“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺”

 現在の大阪城は昭和6年に復元されたものですが、この城は周知のとおり、天正11年(1583)に豊臣秀吉によって築造が開始されたものです。その前、この地には、かつて石山本願寺という浄土真宗の寺とその寺内町がありました。浄土真宗は、鎌倉時代初期、法然の弟子の親鸞がその教え(浄土宗)を継承発展させて開いた宗派で、人はすべて阿弥陀仏の本願にすがれば極楽往生ができると説き、念仏を唱えるだけでよいという気安さから百姓たちを中心に普及していきました。
 室町時代の後期には、8世・蓮如(れんにょ)が現れ、人々が平等に教えを聴き団結できる「講」と呼ばれる組織を築き、親鸞の教えを平易に説いたことから、急速に発展・拡大して一向宗と呼ばれるようになります。さらに、この講のよる信者の団結力は、国人・土豪が加わることによって政治権力化し、一向一揆という武装蜂起につながっていきます。長享2年(1488)から約100年間続いた加賀の一向一揆はよく知られているところです。
 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された法蔵院で、浄土真宗の讃岐への伝搬は禅宗や法華宗に比べて遅かったといわれています。これは、讃岐は空海の生誕地ということもあり、早くから真言宗が盛んだったためのようです。戦国時代の永正年間(1504~1520)以降、讃岐では一向寺院が増えはじめ、特に天文年間(1531~55)に目立って増加します。宇多津の西光寺も、天文年間に、向専(こうせん)が本願寺10世の証如(しょうにょ)に帰依して浄土宗から浄土真宗に改めています。

 石山本願寺の起源は、明応5年(1496)、蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、自らの隠居房としたことに始まります。「石山」というのは、寺のあった小高い丘の名称です。また、今は「大阪」と表記しますが、もともとは、台地にそった坂という意味から「小坂」、後に「大坂」と呼ばれました。
 天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに遭ったため、10世・証如は、大坂御坊に逃れてそこを本願寺とします。この地は、淀川と旧大和川が合流するところで、その付近に渡辺津(わたなべのつ)が形成され、淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点でした。また、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもありました。本願寺が置かれると次第に商工民などが集まり、寺内町を形成して自治を行い、また寺の周囲に堀・塀・土塁などを設けて武装を固め、戦国時代末期には城郭に匹敵する要塞と化していました。
 永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛した信長は、三好長慶亡き後京を支配していた三好三人衆らを駆逐すると、石山本願寺に対して、矢銭5000貫を請求し、さらに石山からの立ち退きを要求します。矢銭とは軍事後援金のことで、5000貫は米1万石に相当しました。これに対して、このとき本願寺11世の顕如(けんにょ)は矢銭の請求のみを受け入れ、他については拒否します。
 この頃の讃岐は、永禄元年(1558)に阿波の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。)が天霧城の香川之景を攻略して以来、阿波三好家の支配下にあり、讃岐の十河存保(まさやす)が東、阿波の篠原長房が西にそれぞれ勢力を張っていました。十河存保は三好義賢の実子で、永禄4年(1561)、叔父の十河一存(かずまさ)の死去により、十河氏を継いでいました。十河氏は、現在の高松市十川東町にあった十河城を拠点とする讃岐武士ですが、義賢の実弟の一存(かずまさ)が阿波三好家から養子に入り、阿波三好勢力の讃岐における橋頭堡となっていました。十河一存は鬼十河とその勇猛さを称えられた武将です。篠原長房は阿波三好家の重臣で、永禄5年(1562)の三好義賢の死去によりその後を継いだ長治(ながはる)の補佐をしていました。

 元亀元年(1570)6月、織田信長は、姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破り、北近江を支配するとともに、岐阜から京都への通路を完全に確保します。しかし、7月、京から阿波へ追われていた三好三人衆が、信長に反撃するため摂津に上陸して陣を敷きます。このとき十河存保は三好勢として堺に布陣し、香川・安富・奈良・香西・寒川らの讃岐武士も阿波の篠原長房に率いられて出陣しています。こうした中、9月、顕如は三好勢を攻略するために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃します。これが、天正8年(1580)までの11年間に及ぶ石山戦争の始まりでした。そして、顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として各地の本願寺門徒に檄を飛ばし、讃岐にも「讃岐坊主衆・門徒中」宛てに「門下の輩寸志励むにおいては仏法興隆たるべく候」と奮起を促しています。
 元亀3年(1572)3月、織田信長と石山本願寺との間で一応の和議が結ばれますが、翌年の天正元年(1573)4月、本願寺は再び蜂起します。これに呼応して讃岐の一向宗寺院も活発な動きをみせ、宇多津の西光寺は、石山本願寺へ、青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗の軍資金と兵糧を送っています。この頃、西光寺は織田信長に対抗する一向宗門徒勢力の讃岐における中心で、住職・向専とその子の専念は石山本願寺に味方していました。西光寺は城郭造りで、土塀には今も“狭間”(さま)という弓、鉄砲を射掛ける三角形の銃口が見られます。
 天正元年(1573)11月には、三好長慶のあとの三好宗家を継いだ義継が織田軍に攻められて滅びます。また、その翌年には、上洛途上の武田信玄が没し、信長が15代将軍足利義昭を京から追放して室町幕府が事実上崩壊します。
 この年の7月、阿波で、篠原長房が讒言を受けて主家の三好長治に誅殺されると、香西・香川・寒川らの讃岐国人は阿波三好氏から離反し、独自の道を歩み始めます。これに対して、長治は、香西、香川、寒川氏を討とうとさかんに讃岐出兵を行います。しかし、天正3年(1575)に土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まり、讃岐における三好の勢力も衰退していきます。ちなみに、この年の5月には、織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破っています。

 天正4年(1576)5月、四天王寺で戦いに敗れた石山本願寺は、織田軍による経済封鎖によって兵糧の調達が困難を極め、安芸の毛利輝元に援助を要請します。これを受けた輝元は兵糧搬入のため700~800艘からなる水軍を大坂へ送り込み、7月13日、毛利水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、これを阻止しようとする織田方の水軍戦力が大阪湾の木津川の河口で激突します。これを第一次木津川口の戦いといいます。この戦闘では毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉(ほうろくだま)、雑賀集の使用する焙烙火矢(ほうろくひや)の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利方は石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功します。
 讃岐でも、この年の8月、石山本願寺から、宇多津の西光寺や香川郡安原村安養寺などに対して救援の依頼が届きます。しかし、この頃、すでに讃岐の有力国人・香川之景と香西佳清は織田信長に臣従し、之景は名を信景と改め、三好存保も信長に降伏していました。また、翌年の天正5年(1577)3月、信長は、塩飽船に朱印状を出して堺の港を出入りする航行の自由を保証することにより、塩飽をその支配下に組み込み、東瀬戸内海の制海権を掌握しました。このため、讃岐国内寺院から石山本願寺への輸送路が絶たれました。
 なお、この年の7月には、安芸の毛利氏が讃岐の元吉城に入り、讃岐惣国衆の長尾・羽床衆らと合戦に及んでいます。これを元吉合戦といいますが、一説では、本願寺支援のための制海権奪回のための侵攻だったと考えられています。その場所についは、琴平町と善通寺市にまたがる櫛梨山であるとするものなど諸説があります。

 第一次木津川口の戦いに敗れた織田信長は、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉や雑賀集の使用する焙烙火矢に対抗するため、九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて大筒・大鉄砲を装備し焙烙が効かない鉄甲船6隻を造らせます。天正6年(1578)6月、九鬼嘉隆が指揮する織田水軍は、石山本願寺支援のため大阪湾に入った毛利水軍・村上水軍と木津川口で海戦となります。これが第二次木津川口の戦いです。この海戦では、織田軍の鉄甲船が毛利水軍・村上水軍を撃破して大阪湾の制海権を握り、本願寺を孤立させます。
 讃岐では、この年の夏、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まり、藤目城・財田城が落ちています。翌年の天正7年(1579)には、天霧城の香川信景が長宗我部元親に下ります。
 第二次木津川口の戦いにより、石山本願寺に対する勝利を確信した織田信長は、朝廷に働きかけて石山本願寺との講和を策します。顕如も食料の欠乏に加え、反信長包囲網が事実上壊滅したこともあって、朝廷の斡旋により和議を受け入れます。こうして天正8年(1580)4月9日、ついに顕如は石山本願寺を退去して紀州の雑賀に落ちていき、石山合戦はここに終結します。
 しかし、顕如の長男である教如(きょうにょ)は石山本願寺から退去せず、父の顕如が説得しても効果がありませんでした。このため、顕如は教如を勘当して教如の弟の准如(じゅんにょ)を嫡子と定めます。これが後の東と西の両本願寺分立のきっかけとなります。

 石山合戦に勝利したものの、織田信長は、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により自害に追い込まれます。その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下を掌握する間に、長宗我部元親は四国制圧を進め、天正13年(1585)春に四国統一を果たします。しかし、その年の6月、秀吉は四国侵攻を開始し、元親は秀吉に下り土佐一国に押し込められます。

 天正19年(1591)、顕如は、秀吉から京都七条堀川に土地を与えられ、本願寺を再興します。しかし、慶長7年(1602)、顕如の長男である教如が、家康から本願寺のすぐ東の七条烏丸に土地を与えられ東本願寺を構えます。これは、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立に、徳川家康が乗じたものだといわれています。
 以後、本願寺は、顕如の三男准如を12世宗主とする西(現在の浄土真宗本願寺派、真宗興正派など)と、長男教如を12世宗主とする東(現在の真宗大谷派など)とに分裂し、現在に至っています。

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(143)“バブル経済真っ只中のときに開通した瀬戸大橋”

 昭和63年(1988)4月10日、瀬戸大橋が開通しました。同時に高松~岡山間にJR瀬戸大橋線も開通しました。昭和53年(1978)10月10日に起工され、着工から9年6ヶ月を経ていました。本州四国連絡橋3ルートの中で最も早い開通でした。
 瀬戸内海に大橋を架けようという構想が提起されたのは、明治22年(1889)に香川県会議員の大久保之丞(じんのじょう)が四国新道の起工式における祝辞の中で「塩飽(しあく)諸島ヲ橋台トシテ架橋連絡セシメバ・・・」と発言したことが最初だといわれており、瀬戸大橋が開通した年は、それからちょうど99年目のことでした。また、現在の香川県は明治21年(1888)12月3日付で全国において最後に設置された県であり、それからちょうど100年目のことでした。さらに、昭和天皇は1989年1月7日に崩御されており、昭和の終焉を迎える年でもありました。

 瀬戸大橋が開通するまでは、香川と本州間を自動車で行き来する場合、フェリーを利用する必要がありましたが、大橋の開通によって待ち時間なくいつでも本州間を行き来することができるようになりました。また、新幹線は昭和47年(1972)3月15日に新大阪駅~岡山駅間が開業していましたが、大橋開通前は、高松から新幹線に乗ろうとすると、高松港から宇野港までの宇高連絡船に約1時間乗り、そこで乗り換えて岡山までの在来線(宇野線)にまた約1時間乗る必要がありました。ところが、大橋が開通してからは、高松~岡山間を約50分間の直通列車で行くことができることとなりました。JRで高松から坂出へ行く場合、橋の開通前は“下り”でしたが、開通後は“上がり”になったということは、香川の人に大橋の開通による変化を印象づけました。
 瀬戸大橋の架橋工事と並行して四国内における高速道路の整備も進められ、大橋開通前年の昭和62年(1987)12月16日には、香川県にとって初めての高速道路である四国横断自動車道・善通寺IC~川之江JCT間が開通しています。そして、4年後の平成4年(1992)1月30日には川之江JCTで高知自動車道と接続し、さらにその年の4月19日には高松西IC~善通寺IC及び坂出支線坂出JCT~坂出IC開通により、坂出ICで瀬戸中央自動車道と接続します。一方、香川県では新空港の整備も進められ、瀬戸大橋開通翌年の平成元年(1989)12月16日には、新高松空港が開港します。従前の高松空港は滑走路が短いためジェット機が就航できませんでしたが、新空港は2,500mの滑走路を持ち、大型ジェット機の就航が可能となりました。これら一連の交通インフラの整備は、香川県にとってまさに交通革命ともいえる出来事でした。

 瀬戸大橋の開通によりすぐに影響が出たのは観光の分野でした。本州から香川へやって来る観光客は大きく増え、県外観光客は、開通前の昭和62年(1987)が約490万人であるのに対して、開通後の昭和63年には約1035万人と約2倍以上となりました。香川の代表的な観光地である琴平・栗林公園・屋島の付近は県外ナンバーの自動車で溢れ、飲食店や土産物店などは大繁盛します。しかし、一方では、県外観光客に素うどんを千円で売りつけるというような“ぼったくり”も生じました。
 きしくも、瀬戸大橋開通に始まる香川の交通革命は、日本経済がバブルに踊っていた頃の真っ只中に起きた出来事でした。
 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本は、いわゆるバブル経済に陥り、特に地価と株価が異常に高騰しました。瀬戸大橋が開通した昭和63年(1988)には、日経株価が初の3万円台を突破し、いよいよバブルが大きく膨らみ始めるときでした。

 このバブル経済は、昭和60年(1985)9月のプラザ合意による急激な円高と、一方で内需拡大を図るために打ち出された金融緩和が原因だといわれています。低金利による過剰流動性すなわち「金あまり」の現象が生じ、それが投機的な株式や不動産の投資をもたらし、日本経済にバブルを生じさせたのです。そのバブルの象徴的な政策がいわゆるリゾート法でした。この法律は、内需拡大政策の一環として昭和62年(1987)に制定され、日本全国が競うようにリゾート開発に向けて突き進んでいきました。また、だぶついた資金をもとに「ジャパンマネー」と呼ばれる日本投機家による外国資産買いも始まっていきました。平成元年(1989)の三菱地所によるニューヨークのロックフェラー・センター購入は、当時の日本企業による国外不動産買い漁りの象徴でした。昭和62年(1987)11月に発足した竹下登内閣が、ふるさと創生事業として、全国の市町村に対し一律1億円を交付するという今では考えられないようなバラマキ施策が行ったのもこのときのことです。
 平成元年(1989)12月29日の大納会、日経平均株価は38,915円とついに史上最高の値に至ります。昭和61年(1986)1月1日に比べ3倍でした。また、土地の価格は、地価調査の全用途平均対前年平均変動率によると、昭和61年(1986)では全国2.7%(香川県1.6%)でしたが、最も高い変動率を示した平成2年(1990)では全国13.7%(香川県8.5%)と高騰します。
 しかし、平成2年(1990)4月から、大蔵省が不動産向け融資に上限を加える総量規制を実施すると、バブル経済は急激に崩壊へと向かっていきます。この年の10月1日、日経平均株価は2万円台を割り込み、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落します。また、地価は、株価の暴落に遅れ、翌平成3年(1991)には下落しはじめて、バブル経済は崩壊へと向かっていきました。
 なお、香川県内では、平成3年(1991)4月20日に、全国的なテーマパークブームに乗り、レオマワールドが開園しています。ちなみに「レオマ」という呼称は、当時の社長の名前から「レジャーは、大西に、任せろ」に由来するといわれています。

 一方、世界に目を向けると、瀬戸大橋が開通した年は、9月17日にソウルオリンピックが開かれていますが、東欧革命、東西ドイツ統一、ソ連解体と続く戦後の冷戦構造が崩壊していく端緒になった年でした。
 昭和63年(1988)3月、ユーゴスラヴィアを訪問した当時のソビエト連邦共産党書記長・ゴルバチョフは、他の社会主義諸国に対するソ連の指導性を否定した「新ベオグラード宣言」を発表します。さらに5月にはアフガニスタンからの撤退を開始します。
 翌年の平成元年(1989)8月にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックでは1000人程の東ドイツ市民が一斉に国境を越えてオーストリアへ亡命し、これを契機に11月9日夕刻、ベルリンの壁が崩壊します。その後、12月のルーマニアのチャウシェスク体制の崩壊に至るまで、東欧の共産国家は次々と民主化されていき、平成2年(1990)10月3日には東西ドイツが統一されます。そして、平成3年(1991)12月25日、ソビエト連邦が解体されて消滅し、ついに東西冷戦構造が完全に崩壊しました。

 バブル経済が崩壊したわが国では、不況に陥り、その後「失われた10年」と呼ばれる長期の停滞に苦しみます。香川県でも、平成12年(2000)8月31日にレオマワールドが閉園し、平成18年(2006)には県外観光客が約799万人まで減少しました。
 瀬戸大橋が開通した時期は、わが国だけでなく世界においても、大きな時代の変わり目のときだといえるでしょう。

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雑記① 組織と忠誠心

8月20日~9月7日連載

☆現状認識を欠いた旧日本軍の作戦計画
 旧日本軍の戦いについて、組織論の視点から分析した本を読んだことがあります。それによると、その戦いは、現状認識を欠いた「かくあるべき」という作戦計画に基づいて敢行されたということです。たとえば、武器の不足については「勇猛果敢な精神力で補う」とか、食料などの補給物資の不足については「現地で調達する」といった具合です。作戦計画書は、陸軍大学卒の超エリートが書いたものですから、美辞麗句がいたるところにちりばめられ、作文としては非常によくできていたそうです。
 しかし、実際の戦いの場面になると、その作戦計画書は全く役に立たなかったそうです。なぜなら、それは、現実を見ずに、ただ机の上で観念的に書かれたものだったからです。多くの日本軍の兵士が、戦闘行為よりも、飢えや病気で亡くなってしまったのは、このような現状認識を欠いた作戦計画書に基づいて行われたためだといいます。
 一方、米軍の作戦計画は、日本軍のそれとは対照的に、兵器・弾薬・食料などすべてにわたって、プラグマティズム発祥の国らしく、具体的で綿密な計画が立てられていたといいます。
 旧日本軍の超エリートたちが、勇猛果敢で名文ではあるけれども現状認識を欠いた机上の空論のような作戦計画を書いたのは、そういう作戦計画を書かないと軍の上層部に認められず、出世できなかったからです。この作戦を実行するには武器が不足しているとか、物資の補給経路に難点があるとか、現状認識に基づいた問題点提起型の作戦計画を書くと、細かい理屈ばかりを言うヤル気のない奴だとみなされ、左遷されてしまうからです。
 しかし、旧日本軍は、初めから事実を事実として客観的に認識する者を排除するような組織ではなかったようです。旧日本軍は、明治維新の薩摩・長州が中心勢力となって組織した官軍が母体となり、それが近代的な国軍として発展していったものです。したがって、旧日本軍第1世代のリーダーには、若い頃、幕末の動乱期を経験した人たちが多くいました。たとえば、日露戦争においてロシアバルチック艦隊を破った東郷平八郎は、薩摩藩士の出で、若い頃、薩英戦争や戊辰戦争に従軍して戦っています。同じく日露戦争で活躍した児玉源太郎は、長州藩の支藩の出で、西南の役に従軍しています。
 彼らは、若い頃、実戦を経験していたこともあり、その思考方法は、現状を的確に把握し、それをもとに合理的な判断を下そうというものだったといわれています。事実を直視せず精神論を優先させるような思考方法ではなかったということです。
 なぜ、その後、日本軍は事実を事実として客観的に認識する者を排除し、荒唐無稽な精神論に基づく作戦計画を採用するようになってしまったのでしょうか。

☆個人的忠誠心を優先した旧日本軍
 旧日本軍では、能力的に最も優秀な者はそこそこの地位までは上がるものの、トップにはなれず、能力的には2番手、3番手の者がトップの座に就いていったといわれています。
 この理由については、次のような仮説を立てることができるのではないでしょうか。
 人を評価する場合、評価者は、被評価者の「能力」と「忠誠度」の2要素で見ているものとします。
 「能力」とは、知識・企画力・人格・指導力・実行力などのその人のその人の総合力です。
 「忠誠度」とは、評価者である上司に対する個人的な忠誠心です。組織に対する忠誠心とは別ものです。組織に対する忠誠度は「能力」の一部に属します。
 この2要素で人を分類すると、次の4通りの組み合わせが考えられます。
  A・・能力も忠誠度も高い者
  B・・能力はまあまあだが忠誠度が高い者
  C・・能力は高いが忠誠度はさほどでない者
  D・・能力はまあまあで忠誠度もさほどない者
 これを、「能力」の要素を中心に人を評価すると、A>C>B>D という順番になります。しかし、「忠誠度」の要素を中心に人を評価すると、A>B>C>D という順番になります。
 能力も忠誠度も高い者というのは、ロボットのような人間であり、現実にはあまり存在しないと考えられます。したがって、実際には、C>B>D と B>C>D が考えられるのではないかと思われます。
 以上のことから、旧日本軍において、能力的に2番手、3番手の者がトップの座に就いていった原因は、「能力」よりも評価者である「上司に対する個人的な忠誠心」が重視されたためではないかと考えられます。

☆忠誠心の意味
 ここで、話が混線してはいけないので、「忠誠心」について少し詳しく述べます。筆者は、「忠誠心」には「組織に対する忠誠心」と「上司に対する個人的な忠誠心」があると考えています。個人商店のような零細企業などにおいては、この2つの忠誠心は未分化の場合が多いと思われます。オーナー経営者イコール組織そのものでしょう。しかし、この2つは本来別個のもので、通常は同一方向に向かいますが、矛盾対立するときがあります。
 両者が矛盾対立する最も典型的な場面は、上司が違法・不正な行為を部下に命令した場合です。「組織に対する忠誠心」を優先すれば、上司の命令に従うべきではありません。これに対し、「上司に対する個人的な忠誠心」を優先すれば、上司の命令が違法・不正なものであっても、それに従うということになります。
 上司の命令に従わない場合には報復を受けます。その報復を恐れず、上司の命令であっても違法・不正なものには従わないためには、強い倫理観、高い見識、それに勇気が必要です。したがって、これらは「能力」の大きな要素だといえます。
 上述で、筆者は、人を評価する場合、評価者は、被評価者の「能力」と「忠誠度」の2要素で見ているものと仮定し、組織に対する忠誠度は「能力」の一部に属するとしましたが、それは以上のような意味です。

☆個人的忠誠心を優先させた大分県教育委員会
 次に、「上司に対する個人的な忠誠心」を「組織に対する忠誠心」よりも優先させたと思われる最近の事例をとりあげてみましょう。
 大分県教育委員会の不正採用・昇任事件は、現在も進行形ですが、「上司に対する個人的な忠誠心」を「組織に対する忠誠心」よりも優先させた事例といえるでしょう。
 この事件では、県教育委員会のナンバー2である審議監が、部下である義務教育課参事に対してこれこれの人を試験の結果にかかわらず採用するようにせよと命令し、それに従った参事が採用試験の成績表を改ざんするなどの違法行為をしています。
 義務教育課の参事というポストは教員の採用・昇任の事務を行う役職で、その座についた者は法令等のルールを遵守して採用・昇任の事務手続きを進める義務があります。教育委員会という組織に対する忠誠を果たすということは、その義務を守るということです。しかし、その参事は義務を守らず審議監の命令に従い不正行為をしました。それは、組織に対する忠誠よりも上司である審議監に対する個人的な忠誠を優先したということです。
 それはとりも直さず、審議監が、自分のいいなりになる者、すなわち組織に対する忠誠よりも自分に対する忠誠を優先する者を、義務教育課参事のポストにつけていたということです。自分に対する個人的な忠誠心は高いが、倫理観、見識、勇気という面における「能力」の低い人物を、義務教育課参事に登用していたということです。
 ある人物の「能力」を評価する場合、知識や事務処理だけでなく、倫理観、見識、勇気なども大きな判断要素となります。知識が豊かで事務処理に長けている者でも、これらの要素が低い者は「能力」の低い者といわざるを得ません。

☆組織の上層中枢が個人的忠誠心を重視する
 ここで、注意しなければならないのは、旧日本軍や大分県教育委員会の組織全体が、「能力」よりも「上司に対する個人的な忠誠心」を重視する風潮になっていたかどうかです。
 旧日本軍の第二次大戦における国際的評価は、「兵は一流、士は二流、将は三流」だったといいます。米軍の将軍も、旧日本軍を評して、兵や下士官は勇敢で強いが、将軍は無能だと語っていたそうです。
 大分県でも、学校など教育現場の教員たちは、おそらく優秀な人たちで、日々、高い使命感を持って子供の教育に熱心に取組んでいたことと思います。
 おそらく、旧日本軍や大分県教育委員会の中でも、多くの普通の人たちの一般的な考えは、「上司に対する個人的な忠誠心」よりも「能力」を重視して人物評価を行うべきであるというものだったのではないでしょうか。
 「能力」よりも「上司に対する個人的な忠誠心」を重視したのは、組織の上層中枢のポストの座にいた人たちではないでしょうか。

☆個人的忠誠心を重視してしまう理由
 では、なぜ、旧日本軍や大分県教育委員会の上層中枢は、「能力」よりも「上司に対する個人的な忠誠心」を重視するようになったのでしょうか。
 人の集合体を一定の目的の方向に動かすためには、意思決定をするトップの人を置かなければなりません。そして、組織が大きくなればなるほど、トップを補佐する人も必要になってきます。それが管理業務に従事する人です。こうして、同一の組織が、管理部門とその指示を受けて実際に仕事をする実行部門に分化していき、管理部門による実行部門の支配関係が生じます。一方が他者に対して自己の意思を強制できる力を「権力」という言葉でいうと、管理部門は実行部門に対して「権力」を持つことになるわけです。
 そして、権力を持った管理部門は、他部門に対して閉鎖的な存在となります。自己の優越性を維持しようとすると、実行部門に対して一定の距離を置く必要があるからです。管理部門に属する職員は、排他的グループを形成し、同じ組織体の人間でも管理部門に属さない者を信用せず、組織の首脳の意向を伺うことだけに腐心する傾向に陥るようになります。
 さらに、組織の首脳陣と一般従業員との間に深い溝が生じ、首脳陣が一般従業員に対して強い不信感を抱いている場合には、管理部門に属する職員は首脳陣から高い忠誠心を求められます。
 こうして、組織の首脳は、管理部門の職員の登用に当たり、倫理観、見識、勇気などの「能力」より「上司である自己に対する個人的な忠誠心」を重視するようになり、管理部門に属する職員は組織の首脳に対する忠誠心競争に明け暮れるようになります。その一方で、管理部門に属する職員は、他の事業部門や現場部門の職員に対して優越意識を持ちます。

☆個人的忠誠心を重視することにより生じる組織の病理
 組織の首脳が、もともと閉鎖的な体質をもつ管理部門に対して高い忠誠心を要求するようになると、管理部門の職員は組織の首脳のご機嫌伺いに全神経を注ぎ、首脳が気に入る情報だけを報告し、また、首脳が気に入る計画案だけしか提案しないようになっていきます。
 組織の命運を左右するような重要な情報であっても、それを聞けば首脳が不機嫌になるようなものは途中でオミットされるか、矮小化された形でしか伝わらなくなります。また、事実認識を欠いた、さらには事実を隠蔽した美辞麗句で粉飾された計画案が首脳に提案され、それが実行に移されます。
旧日本軍が都合の良い情報しか出さず、また、現状認識を欠いた机上の空論にしかすぎない作戦計画を真顔で実行したのはこのようなことからではないかと考えられます。
 組織体におけるこのような現象は、神経回路の障害が組織を硬直化させることによって生じた組織的痴呆症といえるでしょう。
 この現象は、軍隊、役所、企業をはじめ組織体一般に生じる病理です。特に、戦局の悪化、経営難、財政難、激しい労使紛争など組織体に危機的状況が生じている場合において、首脳が明確な対応方針を示すことができず、問題の先送りをしているときに生じてきます。
 首脳が危機的状況に対して正面から向かわず、表面を糊塗するその場しのぎの対応に終始すると、従業員は、首脳に対して不信感を抱きます。すると、以心伝心で首脳も従業員に対して不信感を抱きます。こうして首脳と従業員は、相互不信という困難な状況に陥ります。こうなると、従業員は面従腹背の態度をとり、指示されたことだけをするようになります。また、トップは自分が個人的に信頼を寄せる一部の側近の言葉だけしか信じず、それを基に判断をするようになります。

☆山一証券の事例
 こうした状況に陥った組織体は、軍隊であれば敗戦、自治体であれば財政破綻、企業であれば倒産という形であらわれます。
 企業でいえば、1997年に破綻した山一證券の例が典型でしょう。山一證券の経営首脳陣は、バブル崩壊による株価下落で発生した巨額の損失を粉飾決算で隠蔽し続け、問題をただひたすら先送りしました。いよいよ問題が切羽詰まってくると、何も知らない人が良いだけがとりえのような人物を社長にまつりあげ、自分たちはさっさっと逃げたといいます。
 山一証券の社員は優秀な人物がそろっていたといわれており、あの人が社長になっていれば山一はつぶれなかっただろうともいわれています。しかし、そういう改革派の人物はそこそこまでは上がっても排斥されてしまい、表面を糊塗して当面だけをしのぎ、現状の体制を維持することだけしか考えていない無能で無責任な人物が経営首脳陣の座を占め続けました。
 山一証券も、旧日本軍と同様に、組織上層部を登用するにあたって、「能力」よりも「上司に対する個人的忠誠心」を重視したために、無能で無責任な経営首脳陣となってしまい、結局破綻したということです。

☆組織内に生じる特権グループ
 また、組織の上層中枢が個人的忠誠心を重視することにより、組織の中に、閉鎖的な特権グループが形成されるという病理現象が生じてきます。いわゆる「閥」です。このグループは、個人的な忠誠心でつながったインフォーマルな集団で、会則などの明確な形をしていない内々のお仲間の集合であるため、なかなかその存在が外の人にはわかりません。
 この特権グループには、OBも入っており、現職とOBを含めたピラミッドを形成しています。そして、有力なOBがそのピラミッドの頂点に立ち、組織の裏ボスとなって現職の人事にも口出しをします。隠語で「院政」といわれる現象です。
 特権グループへの加入については、別に手続きがあるというわけではなく、仲間を裏切らないという個人的な忠誠心があるかどうかが、仲間どうしの眼で慎重にチェックされます。そして、あの人間ならば大丈夫という有力者のお墨つきがあったところで、メンバーとして認められていきます。
 特権グループに入った者は、互いの連絡を密にし、表のルートではなかなか手に入らない裏情報をそのネットワークを通じて入手し、それを裏ボスに報告することによって忠誠を尽くします。そして、その裏情報が裏ボスのパワーの源泉となり、自分に批判的な人物を遠ざけたり、組織のトップを形骸化したり、組織の人事権を実質的に支配します。一方、特権グループのメンバーは裏ボスへの忠誠の見返りとして、組織の主要なポストの座に就き出世の階段を上っていきます。
 このように、インフォーマルな特権グループが組織内に形成されると、組織図で表示される建前上の指揮命令関係が機能しなくなり、トップもたんなるお飾りとなって自室に引きこもりがちとなります。また、この特権グループには、世間一般とはかけ離れたような慣習ができていきます。
 大分県の教育委員会もこのような特権グループが組織内に形成されていたのではないでしょうか。教員の人事については教員にしかわからないということで、ナンバー2の審議監が裏ボスとして実質的な人事権を独占し、教育長とか教育委員の権限は形式化し事後追認的なものになってしまっていたのでしょう。
 そして、校長・教頭に登用されるためには、その特権グループに加入することが求められ、いくら能力が高くても、特権グループに入っていない限り、登用されることは困難だったのでしょう。
 大分県教育委員会の事件の場合、校長・教頭に登用されたとき、謝礼として数十万の商品券が審議監に贈られていたといいます。この多額の商品券は、特権グループに入って忠誠を誓うという証(あかし)としての裏ボスに対する貢物(みつぎもの)だったのでしょう。
 それは、猿の社会に例えていえば、他の猿より優位に立とうとする猿が、ボス猿の庇護下に入るため、自分が採ってきた餌をボス猿に貢いだということでしょう。大分県の教育委員会には、倫理観で裏付けられた人間社会の慣習ではなく、力関係のみで動く猿社会の慣習がまかり通っていたのでしょう。

☆誤った忠誠心が組織のモラルハザードを招く
 「組織に対する忠誠心」とは、その組織が国であれば愛国心、会社であれば愛社精神、地域社会であれば郷土愛、学校であれば愛校心です。
 組織に対する忠誠心でも、盲目的なものは、かえって、組織を危険にさらしてしまうことがありますが、その構成員が忠誠心を失った組織は衰退の途をたどります。国民が愛国心を失った国、社員が愛社精神を失った会社、住民が郷土愛を失った地域社会などはいずれ間違いなく滅亡します。したがって、組織を存続させていくためには、その構成員に対して「組織に対する忠誠心」を涵養していくことが必要になってきます。
 愛国心の無い人に国民を辞めろとはいえませんが、愛社精神の無い社員は会社にとって早く辞めて欲しい存在であることはこうしたことからです。
 ところが、この「組織に対する忠誠心」は、「上司に対する忠誠心」と同一視されることが多いのではないかと思われます。しかし、「組織に対する忠誠心」と「上司に対する忠誠心」は本来別個のものであり、必ずしも一致するとは限りません。
 組織の上司が自己を犠牲にしてもその組織にために尽くす倫理・見識の高い人物であれば、「上司に対する忠誠心」イコール「組織に対する忠誠心」といえるでしょう。しかし、その上司が私利私欲にはしった倫理観を欠いた、見識の低い人物だとすれば、「上司に対する忠誠心」と「組織に対する忠誠心」とは一致しない場合が生じてきます。
 そのような人物が組織のトップの座に就くと、部下に対して自分に対する個人的忠誠心を要求し、その忠誠心の度合いによって部下を登用してしまいます。そしてその風潮はその組織の末端まで浸透します。こうなると、その組織全体がモラルハザード(倫理観の欠如)を引き起こしてしまいます。
 教員自身が自分の子どもの採用や自分の昇任について、同じ教育委員会の人事担当者に賄賂を贈っていたという大分県教育委員会の事例は、まさに、誤った忠誠心により組織全体がモラルハザード(倫理観の欠如)に陥ってしまったという典型例でしょう。

☆組織の首脳に求められる強い倫理観
 企業や役所などの組織体も生身の人間の集まりですから、人の評価には、個人的な好き嫌いという感情が入ってしまうのは否定できないことです。上司が部下を評価する場合、自分に個人的な忠誠を尽くしてくれる者を過大に評価してしまうということは人の情として避けられないことです。
 しかし、役所の場合には、公(おおやけ)の存在である以上、客観的な「能力」で評価すべきであり、首脳陣が自分の好き嫌いで部下を恣意的に評価するようなことは厳に戒めなければなりません。
 ただし、民間企業の場合には事情が異なります。首脳陣が自分の好き嫌いで部下を評価しても社会的に責められるべきことではないでしょう。しかし、そういう恣意的な人事をやっていると、組織のパワーは低下し、結局倒産の憂き目をみ、従業員や社会に大きな迷惑をかけることになります。
 したがって、組織のトップや管理職には、自己の個人的な好き嫌いの感情を抑制し、自己に対する個人的な忠誠を部下に対して求めないという高い倫理観と見識が求められます。防衛省事務次官や大分県教育委員会の汚職事件は、倫理観念の低い人物が組織のトップに就いたため起きた悲劇、いや喜劇でしょう。(完)






物語編-目次

  
【先史時代】

●約1530~約1200万年前―高松クレーターできる―“高松の地下にある謎の巨大クレーター
●約1400~1100万年前―“七つも富士のある讃岐平野”(県下)
●約1万年前~200万年前の旧石器時代―“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々”(塩飽)
●約1万年前~200万年前の旧石器時代―“太古の時代に石器として使われていた讃岐の名前がついた石”(坂出)

【神話時代・古墳時代(3世紀中葉~6世紀末葉)】

●神話時代―“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”(豊島・男木島・女木島)
●第7代考霊天皇の代(2世紀末葉?)― “竹取物語に秘められた古代讃岐国成り立ちの謎”(高松)
●第7代考霊天皇の代(2世紀末葉?)―“讃岐に残る桃太郎と姉の物語”(高松)
●魏の使者倭国に来る(3世紀中葉?)―“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”(琴平)
●第12代景行天皇の代(4世紀初葉?)―“讃岐に残る日本武尊の弟と息子の物語”(坂出・牟礼)
●第12代景行天皇の代(4世紀初葉?)―“走水の海で日本武尊の身代わりになった讃岐女”(善通寺)
●第12代景行天皇の代(4世紀初葉?)―“讃岐に残る日本武尊の白鳥伝説”(白鳥)
●第14代仲哀天皇の時代(4世紀後半頃?)―“讃岐に残る神功皇后伝説”(多度津・小豆島)
●第15代応神天皇の代(4世紀末葉?)―“小豆島を遊幸した応神天皇”(小豆島)

【飛鳥時代(6世紀末~710年)】

●667年(天智天皇6年)―屋島城築造―“朝鮮・中国からの侵攻に備えて築かれた城”(高松・坂出)
●681年(天武天皇9年)頃?―志度の玉取り海女の物語―“中臣鎌足の息子と孫の物語が残る志度”(志度)
●694年(持統8年)―藤原京造営― “藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”(三野)
●701年~704年(大宝年間)―満濃池築造―“今昔物語にも出ている日本最大のため池”(満濃)
●700年(文武天皇4年)~710年(和銅3年)頃?―柿本人麻呂来讃―“讃岐に来て歌を詠んだ万葉歌人柿本人麻呂”(坂出)

【奈良時代(710年~794年)】

●729年(天平元年)―行基、香西寺を建立―“讃岐にも残る行基にまつわる伝承”(県下)
●754年(天平勝宝6年)―鑑真、千間堂建立―“唐招提寺開祖の鑑真が開いた屋島寺”(高松)
●756年(天平勝宝8年)頃―讃岐国分寺完成――“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡
●774年(宝亀5年)―空海生まれる―“少年空海が身を投げた山”(善通寺)

【平安時代(794年~1192年)】

●806年(大同元年)―空海帰朝―“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」”(善通寺)
●807年(延暦23年)―善通寺創建―“高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺”(善通寺)
●835年(承和2年)―空海没―“大師二十二人のうち五人までが讃岐岐出身”(善通寺)
●866年(貞観8年)―応天門の変――)“応天門の変に連座した讃岐の恩人””(坂出)
●886年(仁和2年)―菅原道真讃岐国守となる―“讃岐の国司を務めた菅原道真”(綾南・坂出)
●940年(天慶3年)―藤原純友、讃岐国府を焼く―“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”(坂出)
●940年(天慶3年)―藤原純友、讃岐国府を焼く―“真田幸村の先祖は讃岐人”(坂出)
●1005年(覚弘2年)―安部晴明没―“陰陽師安部晴明は讃岐生まれ”(香南)
●1025年(万寿2年)頃―清少納言没―“讃岐に残る清少納言の哀れな物語”(琴平・白鳥)
●1162年(応保2年)―重仁親王没―“讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子
●1163年(長覚元年)―崇徳上皇崩御―“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”(坂出)
●1167年(仁安2年)―西行来讃―“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”(坂出)
●1174年(承安4年)―大輪田泊修築竣工―“神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承”(高松)
●1183年(寿永2年)―平氏屋島に拠る―“建礼門院と安徳天皇が滞在した牟礼・屋島”(高松)
●1185年(元暦2年)―源平屋島合戦―“二つある源平ダンノウラの戦い”(高松)
●1185年(元暦2年)―源平屋島合戦―“讃岐に残る平家落人伝説”(大野原・琴南・三木)
●1191年(建久2年)―頓証寺建立―“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”(坂出)

【鎌倉時代(1192年~1333年)】

●1207年(承元元年)―法然来讃―“讃岐に逗留した法然上人”(塩飽・丸亀・満濃・仲南・高松)
●1211年(建暦元年)?―静御前没―“源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前”(三木・長尾)
●1219年(承久元年)―神谷神社再建―“空海の叔父が創建したわが国最古の三間社流造り神社”(坂出)
●1221年(承久3年)―承久の乱―“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家
●1256年(康元元年) ―北条時頼出家―“讃岐にも残る北条時頼の廻国伝承”(小豆島)
●1289年(正応2年)―日華来讃―“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”(高瀬)
●1332年(元弘2年)―宗良親王讃岐配流―“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語”(詫間)

【建武の中興・室町時代(1333年~1573年)】

●1335年(建武2年)―細川定禅、讃岐で挙兵―“建武の動乱と秀吉の四国進攻で二度も落ちた城”(高松)
●1347年(貞和3年)―細川師氏、星ヶ城攻略―“小豆島に残る南北朝時代の恋物語”(小豆島)
●1362年(貞治元年)―白峯合戦―“乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦”(坂出)
●1367年(貞治6年)―細川頼之、足利義満の後見人となる―“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護”(宇多津)
●1389年(康応元年)―足利義満厳島神社参詣―“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”(詫間)
●1391年(明徳2年/元中7年)―細川頼元幕府管領となる―“細川京兆家のお膝元だった讃岐”(宇多津)
●1467年(応仁元年)―応仁の乱勃発―“応仁の乱で活躍した讃岐武士”(県下)
●1507年(永正4年)―永正の錯乱―“室町幕府管領細川政元を暗殺した讃岐武士”(高松)
●1549年(天文18年)―江口の戦い―“江戸時代初めに流行したパンクヘアのルーツは鬼十河”(高松)
●1554年(天文23年)―山崎宗鑑没―“俳諧の祖・山崎宗鑑が隠棲した観音寺”(観音寺)
●1568年(永禄11年)―織田信長入洛により三好政権瓦解―“織田信長に滅ぼされた武将の子孫が住むイリコの島”(伊吹島)
●1570年(元亀元年)―石山合戦始まる―“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺

【安土桃山時代(1573年~1603年)】

●1573年(元亀4年)―象頭山松尾寺に金毘羅堂を建立し本尊安置―“こんぴらさんはガンジス川のワニ”(琴平)
●1577年(天正5年)―織田信長、堺への塩飽船の航行を保障―“信長・秀吉・家康の朱印状が残る島”(塩飽)
●1578年(天正6年)―長宗我部元親、讃岐への侵攻を開始―“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”(大野原)
●1579年(天正7年)―仁尾城落城―“三月三日に雛祭りをしない町”(仁尾)
●1582年(天正10年)―天目山の戦い―“讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語”(高松)
●1583年(天正11年)―引田の戦い―“賤ヶ岳の合戦があった同じ日に讃岐であった合戦”(引田)
●1585年(天正13年)―秀吉軍により高松城落城―“建武の動乱と秀吉の四国進攻で二度も落ちた城”(高松)
●1586年(天正14年)―戸次川の戦い―“九州で島津軍と戦った讃岐武士”(県下)
●1586年(天正14年)―小豆島にキリスト教が渡来―“隠れキリシタンがいた小豆島”(小豆島)
●1588年(天正16年)―生駒親正、高松城の築城に着手―“黒田官兵衛が設計したともいわれる水城”(高松)
●1601年(慶長6年)―関ヶ原の戦い―“関ヶ原で親子が別れて戦った生駒家”(高松)

【江戸時代(1603年~1868年)】

【初代家康・2代秀忠・3代家光の時代(1603年~1651年)】

●1622年(元和8年)―西嶋八兵衛来讃―“讃岐のために尽くした藤堂高虎の家臣”(高松)
●1631年(寛永8年)頃―香東川の治水工事―“桂離宮との類似性も指摘されている栗林公園創始の謎”(高松)
●1637年(寛永14年)―生駒騒動起こる―“海音寺潮五郎も書いた生駒騒動”(高松)
●1637年(寛永14年)―島原の乱勃発―“島原の乱と小豆島そうめん”(小豆島)
●1642年(寛永19年)―田宮坊太郎の仇討ち?―“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語”(丸亀)
●1642年(寛永19年)―松平頼重、高松入封―“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子”(高松)
●1644年(正保元年)―高松城下に上水道敷設―“江戸の玉川上水より早く整備された高松城下の上水道”(高松)
●1647年(正保4年)―紀太理兵衛、栗林荘の北に窯を築く―“京焼と讃岐との深い縁”(高松・丸亀)

【4代家綱・5代綱吉・6代家宣・7代家継の時代(1651年~1716年)】

●1658年(万治元年)―京極高和、丸亀入封―“丸亀の殿様は婆娑羅大名佐々木道譽の子孫”(丸亀)
●1658年(万治元年)―京極高和、丸亀入封―“姫路の中にあった讃岐”(丸亀)
●1660年(万治3年)―丸亀城天守閣完成―“扇の勾配をした日本一の高さの石垣のある丸亀城”(丸亀)
●1660年(万治3年)―京極伊知子没・井上通女生誕―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)
●1666年(寛文6年)―千宗守、高松松平藩の茶堂頭となる―“茶道・千家と讃岐との深い縁”(高松)
●1672年(寛文12年)―河村瑞賢、西廻り航路を拓く―“大坂の鴻池も舌をまいた塩飽の豪商”(塩飽)
●1672年(寛文12年)―河村瑞賢、西廻り航路を拓く―“北海道から来た草”(高松・坂出)
●1688年(元禄元年)―京極高豊、中津別館を建てる―“瀬戸内の浜辺にある近江八景”(丸亀)
●1688年(元禄元年)―柳沢吉保、側用人となる―“柳沢吉保と讃岐高松藩との名刀をめぐる確執”(高松)
●1693年(元禄6年)―真念没―“最初は88ヶ所以上あった四国霊場”(県下)
●1694年(元禄7年)―丸亀藩、多度津支藩1万石を分封―“港町として栄えた城の無い街”(多度津)
●1705年(宝永2年)―尼崎里也仇討ち―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)

【8代吉宗・9代家重・10代家治の時代(1716年~1786年)】

●1718年(享保3年)―第三代高松藩主松平頼豊の息子が水戸藩四代藩主を継ぐ―“小石川後楽園を大改造した高松藩主”(高松)
●1744年(延亨元年)―金手釣場の争いに幕府から裁可状が出る―“瀬戸内の漁場争いを裁いた大岡越前守らの名判決”(塩飽)
●1748年(寛延元年)―西讃大一揆勃発―“神様になった一揆のリーダー
●1761年(宝暦11年)―平賀源内高松藩に2度目の辞職願を提出―“高松藩を二度辞職した平賀源内”(志度・高松)
●1761年(宝暦11年)―平賀源内高松藩に2度目の辞職願を提出―“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”(志度・牟礼)
●1762年(宝暦12年)―合田求吾「紅毛医述」著す―“杉田玄白らの「解体新書」刊行より早く人体解剖図を著した讃岐人”(豊浜)
●1766年(明和3年)―与謝蕪村、来讃―“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”(琴平・丸亀)
●1776年(安永5年)―上田秋成、雨月物語を刊行―“妖怪と怨霊の話に満ちた瀬戸内海を望む五つの色をした山”(坂出・高松)
●1781年~1788年(天明年間)頃―中津藩からうちわ技術伝わる―“地場産業となった武士の内職”(丸亀)

【11代家斉・12代家慶の時代(1787年~1853年)】

●1788年(天明8年)―柴野栗山幕府の儒官として登用される―“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”(牟礼)
●1788年(天明8年)―柴野栗山幕府の儒官として登用される―“田沼時代と寛政の改革時代に活躍した二人の讃岐人”(志度・牟礼)
●1789年(寛政元年)―向山周慶、砂糖製造に成功―“和三盆のふるさと讃岐”(引田)
●1792年(寛政4年)―小林一茶、来讃―“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”(琴平・観音寺)
●1809年(文化6年)―小豆島から大阪の問屋へ醤油を初めて販売―“瀬戸内海の中にある醤の郷”(小豆島)
●1807年(文化4年)―椿説弓張月刊行開始―“滝沢馬琴「椿説弓張月」の舞台となった八幡宮”(観音寺)
●1810年(文化7年)―金毘羅参詣膝栗毛出版―“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”(琴平)
●1815年(文化12年)―讃岐東照宮造営―“東照宮も左甚五郎の墓もある高松”(高松)
●1826年(文政9年)―坂出塩田工事着手―“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”(坂出・引田)
●1827年(文政10年)―研辰討たれる―“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語”(綾上)
●1829年(文政12年)―東大浜・西大浜塩田築造―“海を町に変えた塩づくり”(坂出)
●1829年(文政12年)―木村黙老、江戸屋敷詰になる―“滝沢馬琴の親友だった高松藩家老”(高松)
●1830~43年(天保年間)頃―丸亀城下で活発な綿取引―“綿の産地だったチョウサの町”(豊浜)
●1835年(天保6年)―金毘羅大芝居落成―“今も歌舞伎が公演されているわが国最古の芝居小屋”(琴平)
●1835年(天保6年)―大塩平八郎、多度津に来る―“讃岐を訪れていた大塩平八郎”(多度津)
●1838年(天保9年)―丸亀新堀堪甫に太助灯籠建立―“江戸町人塩原太助らが寄進した丸亀湊の灯籠”(丸亀)
●1839年(天保10年)―玉楮象谷、印籠を高松藩主に献上―“十七人のうち四人も人間国宝を輩出した讃岐漆器の技”(高松)
●1844年(弘化元年)―鳥居耀蔵失脚―“遠山の金さんと対立した妖怪が幽閉されていた丸亀”(丸亀)

【13代家定・14代家茂・15代慶喜の時代(1853年~1868年)】

●1853年(嘉永6年)―ペリー浦賀に来航――“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”(高松)
●1855年(安政2年)頃―寛永通宝砂絵掘られる?―“銭形平次でおななじみの寛永通宝の砂絵のある街”(観音寺)
●1856年(安政3年)―板東いろは小豆島肥土山に定住―“瀬戸内の島に伝わる歌舞伎と文楽
●1858年(安政5年)―安政の大獄はじまる―“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”(高松)
●1858年(安政5年)―西郷隆盛月照と入水―“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧”(善通寺)
●1860年(万延元年)―咸臨丸浦賀出航―“幕末に勝海舟と咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫”(塩飽)
●1860年(万延元年)―森の石松金毘羅代参―“石松も犬も代参した金毘羅参詣”(琴平)
●1864年(元治元年)―池田屋騒動―“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”(丸亀)
●1864年(元治元年)―蛤御門の変―“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”(高松・丸亀)
●1865年(慶応元年)―晋作が燕石を頼って来讃―“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士”(琴平)
●1868年(慶応4年)―高松藩朝敵となる―“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”(高松)
●1868年(慶応4年)―高松藩土佐官軍に恭順―“桂小五郎ら勤王志士と親交のあった高松藩主の兄”(高松)

【明治・大正時代(1868年~1926年)】

●1868年(慶応4年・明治元年)―神仏分離令―“金毘羅さんと白峯さんとの知られざる因縁”(坂出・琴平)
●1869年(明治2年)―函館戦争―“榎本武揚とともに函館五稜郭で戦った讃岐人”(塩飽)
●1870年(明治3年)―村岡箏子没―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)
●1880年(明治13年)~1881年(明治14年)―高橋由一来讃―“日本最初の「洋画家」のコレクションがある金刀比羅宮”(琴平)
●1881年(明治14年)―若江薫子没―“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“(丸亀)
●1888年(明治21年)―愛媛県から讃岐を割き香川県を設置―“三度目の正直でやっとできた全国最後で最小の県”(県下)
●1889年(明治22年)―讃岐鉄道開通―“志賀直哉の「暗夜行路」に描かれた多度津の港と鉄道”(多度津)
●1889年(明治22年)―二宮忠八飛行原理を着想―“世界最初に固定翼型飛行原理を着想した地”(仲南)
●1894年(明治27年)―塩生産量全国第1位―“かつて「塩田王国」といわれた香川”(県下)
●1894年(明治27年)―四国新道開通―“草鞋を履いて阿讃の峠を越えた牛
●1898年(明治31年)―乃木中将第11師団長に就任―“善通寺の師団長を務めた乃木希典”(善通寺)
●1908年(明治41年)―小豆島でオリーブを試作―“日本の中にあるオリーブに囲まれたエーゲ海の風景”(小豆島)
●1913年(大正2年)―伏見桃山陵の造営に庵治石が使われる―“墓から現在アートにまで使われている花崗岩のダイヤモンド”(牟礼・庵治)
●1920年(大正9年)―高等小学読本に栗林公園は三公園に優れりと記載―“日本三大庭園より立派といわれる栗林公園”(高松)

【昭和以降(1926年~)】

●1928年(昭和3年)―野網和三郎、ハマチの餌付けに成功―“砂糖と醤油で栄え、我が国で初めてハマチ養殖に成功した町”(引田)
●1930年(昭和5年)―豊捻池完成―“ため池密度日本一の讃岐平野”(県下)
●1934年(昭和9年)―瀬戸内海国立公園指定―“欧米人が賛美したわが国初の国立公園”(県下)
●1935年(昭和10年)―菊池寛、芥川・直木賞創設―“その先祖が平賀源内を教えたという菊池寛”(高松)
●1943年(昭和18年)―詫間海軍航空隊開隊―“香川からも出撃していた神風特攻隊”(詫間)
●1945年(昭和20年)―高松空襲―“高松にとって忘れられない日”(高松)
●1952年(昭和27年)―壺井栄、「二十四の瞳」発表―“漂泊の俳人が終焉を迎え二十四の瞳が誕生した島
●1955年(昭和30年)―自由民主党結成―“自民党を創った高松生まれの政党政治家”(高松)
●1956年(昭和31年)―西鉄日本シリーズ制覇―“日本野球史上最大のライバル劇を演じた二人の讃岐男”(高松)
●1958年(昭和33年)―香川県庁舎完成―“日本モダニズム建築の到達点といわれる香川県庁舎”(高松)
●1974年(昭和49年)―香川用水の暫定通水式―“紀伊水道から瀬戸内海へ吉野川の水の流れを変えた用水”(県下)
●1988年(昭和63年)―瀬戸大橋開通―“バブル経済真っ只中のときに開通した瀬戸大橋
●1988年(昭和63年)―宇高連絡船廃止―“2億5千万人を運んだ宇高連絡船”(高松)
●2001年(平成13年)―新JR高松駅完成―“駅前広場の池に海水魚が泳ぐ頭端駅”(高松)
●2004年(平成16年)―地中美術館オープン―“アートとテクノロジーの島”(直島)

(142)“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”

 “藤原純友の乱”は、平安時代中期に、西海で勃発した反乱事件です。これに呼応するかのように、ほぼ同時期に東国では、“平将門の乱”が起き、時の朝廷を震撼させました。この2つの反乱は、当時の年号をとって、“承平・天慶の乱”(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、武士の実力を世に示し、その時代の到来を告げる先駆けとなりました。

 藤原純友は、寛平5年(893)、伊予国で高橋友久の子として生まれたといわれています。高橋氏は伊予の名族・越智氏の一族で、越智郡高橋に代々居住していました。このような出自の純友が藤原氏を名乗るようになったのは、藤原良範(よしのり)の養子になったためです。

 藤原良範の曽祖父は嵯峨天皇の時代の藤原冬継(ふゆつぐ)で、祖父は長良(ながら)といいます。長良は早世しましたが、その弟の良房(よしふさ)は人臣最初の摂政にまで登りつめます。長良には遠経(とおつね)と基経(もとつね)という息子がおり、兄の遠経が良範の父にあたります。弟の基経は叔父・良房の養子となり、養父の位を継承して人臣最初の関白となります。基経は良範の叔父にあたります。
 このような良範の家系から、純友の父の高橋友久は、息子の立身栄達を願い、当時伊予国守をしていた藤原良範に頼み込み、純友をその養子に入れたのではないかと思われます。もちろん、息子を養子に入れるに当たっては、荘園の寄進等の財産的提供を良範に対して行ったことでしょう。
 良範の帰京にともない、純友も京へ上ります。中央官庁に職を得て官位をもらい、箔をつけてゆくゆくは地元に戻るという当時の土着豪族が一般的に進む出世コースをとったわけです。しかし、良範は辛うじて殿上が許される従五位下の大宰小弐(だざいのしょうに)止まりでした。大宰小弐は九州の大宰府に勤める役人です。

 藤原純友は、承平2年(932)、伊予掾(じょう)に任じられます。「掾」とは、守(かみ)・介(すけ)に次ぐ、国司の三等官で従七位下です。純友が伊予国の掾となったのは、純友の養父良範の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったことから、純友はこの元名の代行として現地に派遣されて京へ租税を運ぶ任にあたっていたといわれています。

 承平4(934)年の7月に伊予国喜多郡の不動倉(非常用の穀倉)に貯蔵された米3000余石が海賊から掠奪されるなど、この頃、瀬戸内海では海賊が出没し、税として都へ運ばれる官物が略奪されるという事件が頻発していました。朝廷は海賊を取り締まろうと何度も試みますが、上手くいかず、かえって海上交通が途絶えてしまうという事態に陥っていました。この海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちだったといわれており、税収の既得権を主張して京へ運ばれる租税の奪取を図っていたものでした。
 藤原純友は、租税を運ぶ任にあたるうちに海賊勢力と関係を結んでいき、伊予掾の4年の任期が過ぎても京へ帰ろうとはせず伊予に留まります。そして、承平6年(936)3月には、純友は、豊後水道に浮かぶ海上交通の要衝・日振島(ひぶりじま)を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたといわれています。
 東国では、承平5年(935)2月に、野本付近の戦いで平将門が伯父の平国香らを破り、平将門の乱が始まっています。

 承平6年(936)6月、紀淑人(きのよしと)が伊予介に任じられ、追捕海賊使(ついぶかいぞくし)の役職も兼ねて伊予に下向します。このとき、紀淑人は、海賊集団約2,500人を、これまでの罪を問わないということを条件に、朝廷に帰順させます。これは、藤原純友が紀淑人に代わって海賊集団との交渉にあたり、一度は配下の海賊を捕らえたことにして、罪を認めた者には田畑を与えて解き放すという密約があったといわれています。
 しかし、朝廷が純友の功績を認めることはなく、純友は朝廷や淑人に対して怨み持ったといわれています。

 天慶2年(939)のはじめ、東国では、平将門が常陸国の国府を襲撃し、平将門の乱が本格的に始まります。その年の夏には西国で旱魃が発生するなど、日本国内に不穏な情勢が漂っていました。
 この年の秋、備前国では受領(ずりょう)の藤原子高(さねたか)が藤原文元(ふみもと)と対立し、同様に、播磨国では受領の島田惟幹(これもと)が三善文公と対立し、紛争化しました。受領とは、地方長官である守が任官されながら実際には任国に赴かず官職に伴う給付だけを受ける遙任(ようにん)国司である場合、それに代わって現地赴任して行政責任を負う国司の筆頭者をいいますが、事実上国衙行政の最高責任者となっていました。そして、その強大な権限を背景に、官人を私的従者のように使役し、莫大な私的蓄財を行うようになっていました。

 藤原文元と三善文公は、純友と同じように、京の貴族社会から脱落した中級官人で、さきの海賊平定の際、純友に与力してその郎等となり土着した者です。受領との紛争の原因は明らかではありませんが、赴任してきた受領に勲功を横取りされたり、搾取の対象となったりしたことで、その支配に不満を募らせていたものと思われます。

 藤原文元と三善文公から加勢を求められた藤原純友は、武装集団を率いて伊予から遠征に向かいます。それを知った藤原子高は妻子を連れて京へと逃亡を図ります。しかし、藤原文元の武装集団に追いつかれ、12月に摂津国菟原郡須岐駅(すきえき)で襲撃されます。子高は耳を切られ鼻を削がれるなどの暴行を受け、子息は殺害、妻は略奪されます。須岐駅は現在の兵庫県西宮市夙川(しゅくがわ)あたりです。この襲撃事件が、藤原純友の乱の始まりです。
 なお、この年の12月頃には、平将門が、自身の謚號を「新皇」と称しています。

 翌年の天慶3年(940)1月、朝廷は小野好古(よしふる)を山陽道追捕使、源経基(つねもと)を次官に任じます。しかし、襲撃事件を起こしたにもかかわらず、朝廷は純友を従五位下に叙し、藤原文元にも官職を与えます。これは、関東で起こっていた平将門の乱に対して兵力を集中させるため、とりあえずは純友の懐柔を図ったものだったのではないかといわれています。純友は官位を受けますが、引き続き淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪うなどの海賊行為を続けます。

 翌月の2月、純友は、叙位への礼を名目に、武装集団を引き連れて上洛を試みます。これに対して朝廷は、純友の上洛を阻止するために、追捕山陽道使に加えて追捕南海道使を任命します。これは、朝廷が山陽道に加えて、南海道にも反乱鎮圧のための軍を派遣するという意思の表明でしたが、同時に純友に対する牽制の意味もありました。結局、純友は上洛を断念することになります。

 しかし、純友の郎党の藤原文元は、2月頃までに備前・備中を実効支配下に入れます。また、前山城掾の藤原三辰が讃岐国で純友に呼応し、讃岐介の藤原国風(くにかぜ)に対して叛乱を起こします。これによって国風は戦死者数百名を出す大敗を喫し、叛乱軍は国府に乱入して財物を奪い、国府庁を焼き討ちにしました。国風は警固使坂上敏基とともに阿波に退き、さらに淡路に逃れます。讃岐国司だった菅原道真が讃岐を去った寛平2年(890)から50年後のことです。

 ところが、2月14日、関東では平将門が平貞盛(さだもり)、藤原秀郷(ひでさと)らに討たれ、関東での叛乱が鎮圧に向かったため、朝廷はその軍事力を西国に向けることが可能となります。6月、朝廷は、将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、藤原文元を藤原子高の襲撃犯と断定して追討令を出します。これは直接純友を罪人と名指しせず、純友配下の武装集団の分裂を誘おうとしたものでした。
 この作戦の効果があったのか、8月、山陽道を進撃する追捕山陽道使小野好古の軍は、備前・備中・備後の制圧に成功します。このため、この地域を支配していた藤原文元や三善文公は藤原三辰を頼って讃岐に逃れてきますが、朝廷軍の追求が急であったため窮地に陥り、純友に助けを求めます。
 この時点で純友は、遂に朝廷に対して公然と叛旗を翻すことを決断したと考えられています。8月中旬、純友は400余艘の兵船を率いて讃岐国に入り、藤原文元・藤原三辰らと合流して朝廷軍の船を焼き払い、海賊軍の先頭に立って合戦に及びます。こうして藤原純友らの叛乱は本格的な戦乱へと発展し、「賊首純友」の名前は確定してもはや後戻りは出来ないことになりました。純友の兵船は、10月には安芸・周防国方面を、11月上旬には周防国鋳銭司を、12月中旬には土佐国幡多郡を、つぎつぎと襲撃します。そのような神出鬼没な純友の攻勢を朝廷軍側は抑えることができず、年を越します。

 翌年の天慶4年(941)2月、情勢は急展開します。この年の初め、藤原恒利(つねとし)が、藤原純友率いる叛乱軍から寝返り、讃岐国で朝廷軍の先導を行います。これによって朝廷軍は、讃岐の叛乱軍の鎮圧に成功し、藤原三辰は捕縛され、処刑されたのち、京にて曝し首にされます。この戦い以降、情勢は朝廷側に有利に傾き、2月には純友の本拠地である伊予の叛乱鎮圧にも成功し、これにより純友は大打撃を受けます。

 本拠地の伊予を失った純友は、日振島にたてこもり、反撃の機会をうかがいます。そして、その年の5月、純友は意表をついて博多湾に上陸し、西国政治の拠点である大宰府を急襲します。純友軍には、受領層とは対立していた豊後・日向らの九州の有力豪族も参加していました。純友軍は、大宰府に蓄えられていた財物を強奪し、大宰府の政庁施設に火を放ち、政庁は炎上、焼失しました。

 しかし、藤原純友の大宰府襲撃に対する朝廷の反撃は素早く、この年の5月の下旬には海陸両面より追撃を開始し、純友が率いる武装集団の船を焼き払い、純友軍を壊滅に追い込みます。純友とその息子の重太丸は、本拠地である伊予国へと落ちのびますが、6月中旬に伊予警固使の橘遠保(たちばなとおやす)に捕縛され、斬首されました。その首は酒漬けにされて京へ送られたといいます。ここに天慶2年(939)から天慶4年(941)まで続いた藤原純友の乱は終結しました。

 天慶5年(942)3月、論功行賞が行われ、征西軍長官の小野好古は太宰大弐・参議・従三位に、次官の源経基は太宰少弐・右衛門権佐・正四位にそれぞれ叙されました。

 讃岐には、平将門の長子と伝えられている平良門(よしかど)らが落ちのびてきたという伝承が残っています。太郎良門は、家臣の貞廣丑之助、神戸城太郎、下戸城五良、成房三良、成行十郎、成行千代春ら6人とともに、善通寺五岳山の西端の火上山(ひあげやま)の南麓にあたる三豊市高瀬町の音田(おとだ)の毘沙門谷(現在は、おにが谷)という所に落ちのびてきて、そこに住み着き、六名(ろくみょう)を名乗ったといいます。

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