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(140)“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡”

 讃岐国分寺は、四国霊場・四国八十番札所であり、県内はもとより県外からも多くのお遍路さんをはじめ善男善女のお参りが絶えません。この寺は奈良時代の天平年間に創建されたもので、境内には、金堂跡・塔跡の礎石が残り、今も天平(てんぴょう)の遥か昔を偲ぶことができます。7世紀終わり頃から8世紀の中頃までにかけて、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化を天平文化といいます。天平文化は、遣唐使などによってもたらされた中国風(漢風)・仏教風文化の影響を強く受けたもので、シルクロードをによって西アジアから唐へもたらされたものを見ることもできます。奈良の正倉院に天平文化の粋が残されています。
 讃岐国分寺跡は、昭和3年、現在の境内を含む東西330m・南北227mの範囲が、讃岐国分尼寺とともに国の史跡に指定され、昭和27年には保存状態のよさ等から特別史跡に指定されました。ちなみに国分寺跡で特別史跡に指定されているのは、讃岐以外では、静岡県磐田市の遠江国分寺跡と茨城県石岡市の常陸国分寺跡のみです。特別史跡とは、史跡のうち特に重要なものとみなされ、日本文化の象徴と評価されるものをいい、平成20年2月1日現在、全国で指定されているのは60か所です。

 天平13年(741)、聖武天皇は、疫病や天災・内乱などの社会不安を緩和するため、各国ごとに官営の僧寺と尼寺を建てることを命じます。正式名称を、僧寺は「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、尼寺は「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)と定めます。一般には国名を付けて、僧寺は国分寺、尼寺は国分尼寺と呼ばれます。また、当時の都である平城京には、各国に建てられた国分寺、国分尼寺の頂点として、それぞれ東大寺、法華寺を建立します。国分寺の造営工事は、各国の国司の責任で推進され、遅くとも天平宝字年間(760年前後)には、ほぼ全国的に完成したようです。
 讃岐国の国分寺と国分尼寺は、阿野郡河内郷(現在の坂出市府中町)の国府庁からほどよい距離にある阿野郡新居郷(現在の高松市国分寺寺)に置かれました。讃岐国分寺は、天平勝宝8年(756)には完成していたと続日本紀に記載されています。空海が生まれたのは、その18年後の宝亀5年(774)です。寺伝によれば、聖武天皇の命を受けた行基が讃岐に来て国分寺を建立したといわれています。

 創建当時の讃岐国分寺の境内の大きさは、東西220メートル・南北240メートルあり、寺域の周囲には築地塀と呼ばれる大きな土塀が巡っていました。その基壇の幅は4.4m、築地本体の幅は1.8m程度と考えられています。築地塀の外側には、幅3mの溝も掘られていて、寺の内と外を厳格に分けていました。現在、かつての境内には国分寺のほか、宝林寺と多数の民家が建てられています。
 寺院の建物の配置を伽藍といいますが、古代寺院では、金堂、塔、中門、廻廊、講堂、僧房、鐘楼、経蔵等の主な御堂の位置が定まっており、讃岐国分寺でもこれらの建物が存在していました。寺域の北側・南側の線上の西から4分1のところを結ぶ南北線が、創建当初の伽藍の軸となり、南から北に南大門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並んでいました。
 南辺築地塀の中心点と西端の真ん中にある南大門が国分寺の入口です。南大門は現在の県道高松・丸亀線上にあったと考えられています。ここをくぐると、中門という門があり、さらにそれをくぐると、正面に金堂、右手に七重塔が建っていました。中門があった位置は、現在の仁王門の場所だと考えられています。
 中門と金堂は正方形に近い形によって廻廊で結ばれていました。廻廊は廊下状の建物で、その基壇の幅は6.5m、建物の幅は3.6m程度と考えられています。廻廊に囲まれた区域は讃岐国分寺の中枢域にあたり、この区域内の東には七重塔が建っていました。
 七重塔は、その基壇の規模17.8m四方、建物の規模10.1m四方、高さ63mと推定されています。現在、七重塔が建っていたところには、鎌倉時代に建立された七重石塔があり、その塔のところに幾つかの礎石がみられます。これが創建時の七重塔の礎石です。創建時17個あったものが、現在15個が残されています。現在の石塔が建つ礎石は、丁度中央に所在するひときわ大きな礎石で、心礎といわれる塔の中心となる心柱が立てられていました。石塔の基部には、心柱を受ける柱穴が彫り込まれているのを見ることができます。

 金堂は、讃岐国分寺の中心的な建物で、現在でいえば本堂にあたり、ここに本尊が祀られていました。その基壇の規模は東西34.9m・南北21.3m、建物の規模は桁間(けたま・東西間口)27.8m・梁行(はりゆき・南北奥行)14.2mで、奈良の唐招堤寺に似た規模・様式の本瓦葺き寄棟造り(よせむねづくり)と推定されています。鎌倉時代に建立された現在の本堂前に大きな石が並んでいますが、これが創建時の金堂の礎石です。創建時36個あったものが、現在32個が残されています。
  金堂の北裏には、仏教の講義を行った講堂が建っていました。金堂よりやや小さめで、その規模は、桁間22.8m・梁行12.7mと推定されています。現在の本堂は、この講堂の礎石を再利用して建てられています。
 さらに講堂の北裏には僧房が建っていました。その基壇の規模は東西87.9m・南北16.0m、建物の規模は桁間83.9m・梁行12.0mと全国の国分寺でも最大級の大きさでした。また、講堂の東西両側には僧房を補完する掘立柱建物が建てられ、その建物の規模は桁間20.6m・梁行11.8mと考えられています。
 講堂の東には、鐘を吊るすための鐘楼が建てられていました。その基壇の規模は東西7.1m・南北9.0m、建物の規模は桁間6.2m・梁行4.1mと考えられています。なお、讃岐国分寺跡では、御経を保管する経蔵は発見されていません。

 讃岐国分寺と同時に創建された讃岐尼寺は、国分寺の北東・約2kmのところに造られます。寺域は東西約180~210m・南北約180mで、桁間12.7m・梁行7.3mの建物だったと考えられています。尼寺跡地は、現在、法華寺と呼ばれる寺の境内になっており、金堂跡には礎石が19個残っています。

 当初、国分寺・尼寺は、国の管理・庇護を受けて運営されていましたが、その後荒れたので弘法大師・空海が訪れて再興したといわれています。讃岐国司の菅原道真は、国分寺尼寺を訪れ、漢詩「法華寺白牡丹(はくぼたん)」と題して漢詩を詠んでいます。菅原道真が国司として讃岐に在任していたのは、仁和2年~寛平2年(886~890年)のことですから、すでに国分寺創建から100年を過ぎていた頃の話です。
 その後、国分寺・尼寺は、律令制の解体とともに荒廃したと考えられています。国分寺の現在の本堂は、鎌倉中期に講堂の跡に建てられたものです。戦国時代の天正年間(1573~96年)には土佐の長宗我部元親軍による兵火に罹り、国分寺の堂宇の多くが失われたといいます。また国分尼寺も天正年間の兵火により衰退しました。
 江戸時代に入ると、寛文年間(1661~73年)に高松松平藩初代藩主・松平頼重によって国分寺の伽藍が造営され、文化13年(1816)に現在の本堂が松平8代藩主・頼儀によって修理されます。国分尼寺は元禄8年(1695)には、荒廃した小堂だけが残されていましたが、弘化3年(1846)に法華寺が再興されます。

 現在の国分寺にある銅鐘は、讃岐国分寺創建当時に近い奈良時代末期から平安時代初頭に鋳られたものと推定され、長曽我部氏の兵火にも残った四国最古の鐘ともいわれています。その大きさは、高さ115.4cm・口径89.7cm、重量が1200㎏です。昭和19年、国の重要文化財に指定されています。この鐘には、次のような伝承が残されています。
 昔、香川郡の安原郷(現在の高松市塩江町)にある百々渕には大蛇が棲み、村人を困らせていました。弓矢の名人・戸次八郎は、国分寺の千手観音に祈り、その矢を持って大蛇の退治に出発しました。八郎は、鐘をかぶって現れた大蛇に矢を射掛け、見事討ち取り、その鐘を国分寺に奉納したということです。
 慶長14年(1609)、当時の讃岐の藩主であった生駒一正が、国分寺の鐘がよく鳴るというので、朝夕の時を告げる鐘にしようと、鐘を高松の城内に持ち帰るように命じました。命令を受けた人たちは、鐘を運ぼうとしましたが、実際以上に重く運搬作業は難航しました。それでも多くの人々を動員して運び、御城下の時を告げる鐘にしました。ところが、持ち帰ったところ鐘は少しも鳴らず、城内外に怪異がおこり、また悪疫が流行し、一正公も病床に伏すようになり、毎夜鐘が夢枕に立ち、もとの国分へ「いぬいぬ」と聴こえたそうです。「いぬ」とは讃岐弁で帰るという意味です。これは鐘の祟りに相違ないと悟った一正は、鐘を国分寺に返すことを決めます。国分寺に戻るとき、鐘は大変軽く運搬作業はスムーズに行われたといいます。

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(139)“讃岐に残る神功皇后伝説”

 神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たり、三韓征討を行ったという伝説をもつ日本古代の女傑として知られています。明治14年発行の一円札・五円札には神功皇后の肖像が描かれ、また、戦前の国定教科書には兵を率いて海を渡ったという勇ましい伝説が必ず記されていました。その伝説は北部九州から瀬戸内海沿いにかけて広く分布しており、讃岐にも残されています。
五円札 神功皇后
五円札 神功皇后
 仲哀天皇は、父が日本武尊で、祖父が第12代景行天皇です。叔父の第13代成務天皇に後継ぎが無かったため第14代天皇に即位しました。それは3世紀頃だと考えられています。父の日本武尊の魂が白鳥となって天に昇ったことから、仲哀天皇は父の陵の周囲に白鳥を放して慰めようと、各地から白鳥を集めたといわれています。その後、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を正妃に立て、彼女が「神功皇后」と呼ばれました。

 仲哀天皇は、神功皇后を正妃とすると、共に、角鹿(つぬが、現在の福井県敦賀)に行幸し、角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を建てます。皇后はここに留まりますが、天皇はさらに紀伊国に赴き、九州南部で熊曾(くまそ)の反乱が勃発したこと知ります。
 そこで、天皇はその足で穴門(あなと、後の長門)の豊浦(とよら、現在の山口県豊浦郡)に向かい、一方、皇后は日本海を伝わって天皇と合流します。ここで天皇は穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)を建て、皇后と共に6年間過ごします。
 反乱を鎮圧するため豊浦宮を出発した天皇は、筑紫国に橿日宮(かしいのみや、現在の福岡市香椎にある香椎宮)を建て、南九州攻略の拠点とします。
 天皇は、橿日宮において、皇后、宰相の武内宿禰(たけのうちのすくね)と軍議を開きます。すると、皇后に「新羅を征伐せよ」との神託が下ります。新羅は、現在の朝鮮半島南東部に辺りです。その神託の内容は、熊曾の土地はやせて討つに値しないが、新羅は金銀財宝の豊かな国であり抵抗することなく服属するというものでした。しかし、天皇は、高い所に登って海のかなたを眺めてもそんな国は見えないと、その神託を信じず、熊曾征伐に向かいます。
 すると、神の怒りに触れたのか、天皇は熊曾に敗北を喫し、さらに突然発病して崩御しました。現在、福岡市東区にある香椎宮(かしいぐう)の鎮座している地が、仲哀天皇の崩御された地だと云われています。
武内宿禰
武内宿禰
 そこで、皇后が、神託を下した神の名を聞くと、天照大神と事代主神(ことしろぬしのかみ)、そして表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)という神であることがわかりました。住吉三神から伝えられます。ちなみに、表筒男・中筒男・底筒男は、大阪市住吉区にある住吉大社の祭神とされている住吉三神です。
 このとき皇后は天皇の御子を身籠もっていましたが、神託に従って、熊曾を討伐して九州を平定した後、軍船を整えて自ら兵を率い、住吉三神を守り神として新羅の国に出兵します。すると、新羅は抵抗もせず降伏して朝貢を誓い、高句麗や百済の国も朝貢を約したといいます。これが三韓征討です。
 この物語が史実かどうかについては確証がありません。しかし、高句麗の国王・広開土王(好太王)の功績を叙述した石碑「広開土王碑」には、倭(当時の日本)が海を渡って新羅や百済などを臣民としたと読み取れる字句や、幾度か倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があることから、歴史事実と考える説もあるようです。
 三韓を平定し筑紫国に戻った皇后は、その地で無事に出産し、この御子が誉田別命(ほんだわけのみこと)、後の応神天皇です。そしてその地を「宇美」(うみ)と呼ぶようになったということです。

 しかし、このとき、大和に居た香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟は、皇后が御子を出産したことを知り、反旗を翻し皇位を狙って御子の命を奪おうと企てていました。香坂王と忍熊王は、皇后が妃になる前に、仲哀天皇と大中津比売(おおなかつひめ)との間に生まれた皇子で、御子の異母兄に当たります。
 皇后は、九州から穴門豊浦宮に移り、仲哀天皇の遺体を仮埋葬します。そして、大和を奪還して御子を天皇の座につけるため、軍船に兵を乗せ、船団を組んで瀬戸内海沿いに海路大和を目指します。このときの皇后一行の船団進軍の様子が瀬戸内海沿岸各地に伝承として残されています。なお、天皇の遺体は後に藤井寺の方へ正式に埋葬されます。

 讃岐にも、神功皇后の船団が、大和に向かう途上に立ち寄ったという伝説が残っています。石船に乗ってこられた皇后軍は、風波の難を避けるために、当時は海だった現在の多度津町の青木(おうぎ)北山に上陸し、宿泊したといわれています。青木北山には沢寺大明神という小さな神社がありますが、この神社は、その際の石船を祀ったところであり、この近くには「宿地(しゅくじ)」という地名が残り、「いかり石」という石船の碇(いかり)を沈めたところがあるといいます。そして、皇后は出発に際し、幟(のぼり)、熊手を港の近くに留め置いたうえ、その船団は榜(かい)を立てて、出船したといいます。幟は旗で、熊手は武器として用いられた鎌のことです。皇后の船団が榜を立てて出発したところが桜川の畔にある榜立(かいたて)八幡神社で、幟と熊手を村人が祀ったのが現在の西白方に鎮座する熊手八幡宮だといわれています。その祭神は神功皇后と応神天皇です。真偽のほどは分かりませんが、多度津が古くから瀬戸内海航路の寄港地になっていたことをよく物語っている伝承といえるでしょう。
 なお、熊手八幡宮に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。
 讃岐の島にも神功皇后の伝説が残っており、直島は神功皇后が吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいます。また、皇后の船団は小豆島に立ち寄って一息入れて休まれたと云われており、そのところにあった松を「息休みの松」といい、その場所を「伊喜末(いきすえ)」ということです。そこから小豆島の北海岸沖を進みますが、島の東北の突端にある岬の沖合で暴風雨により難破しそうになりました。そこでこの辺りに上陸して神楽を奏すると波もおさまったと云われています。それからここを神楽坂といい、それが蕪崎(かぶらざき)になったということです。
 神功皇后の船団が大和に向かっていることを知った香坂王と忍熊王は、戦うことを決意し、陣を張り皇后軍を待ち受けます。ところが、戦いを前に兄の香坂王は変死し、弟の忍熊王は上陸してきた皇后軍との戦い敗れます。こうして大和を奪還した皇后は、我が子を天皇の座につけ、武内宿禰の補佐を受けながら摂政として政務を執ったということです。

 神功皇后の「神功」という諡号(しごう)は、神勅に基づいて自ら軍を指揮して軍功をあげたことから、神(かみ)の功(いさお)とつけられたものです。また、身重の状態でありながら自ら軍を率いて海を渡って朝鮮半島を平定し、また、子を守って国内の乱を平定したということから、安産の神であると同時に、武の神としての神威も備え、勝運、厄除け、病魔退散などの御神徳もあるといわれ、全国各地の神社で祀られています。
 その息子の誉田別命すなわち応神天皇は、八幡神として信仰の対象とされ、宇佐八幡宮(大分県)を発祥として全国各地に広まり、今でも「八幡さま」として親しまれています。

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(138)“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」”

 日本の各地には様々なうどんがあります。秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどん、埼玉の加須うどん、山梨のほうとう、名古屋のきしめん、三重の伊勢うどん、大阪のきつねうどん、福岡の丸天うどん、等々です。それらの中でも、香川県特産のものは“さぬきうどん”と呼ばれています。「さぬき」とは香川県の旧国名のことです。
 香川県人は概してうどん好きで、昔から、半夏(はんげ)、虫送り、冬至、祭りなどのハレの日や法事のときには、必ずうどんが振舞われてきました。食事が済んだ後でも、別腹といってさらにうどんを食べる人や、さらにはうどんをおかずにしてご飯を食べる人もいます。多度津では、まだろれつの回らない子供がうどん好きの人を、「たろつのかろのうろんやで うろんろっぱいくうてはらろぐろぐ」(多度津の角のうどん屋で、うどん六杯食うて腹ログログ)といってからかったそうです。また、宇高連絡船が就航していた当時は、多くの香川県人が、連絡船甲板のスタンドで供されるうどんに帰郷を実感したものです。平成18年(2006)8月には、香川県出身の本広克行監督により“さぬきうどん”を題材にした「UDON」という映画も製作されています。
 香川県に住む者にとって、うどんは日常的な食べ物となっており、香川県のうどん屋の数は、800軒から1100軒程度あるのではないかといわれています。香川県の総人口は約100万人程度ですから、人口当たりのうどん屋の数すなわち“うどん屋密度”は、全国一だといわれています。その多くは、セルフサービスの店で、自分の好みに合わせて、“かけ”、“かやく”、“わかめ”、“てんぷら”、“ざる”、“天ざる”、“釜揚げ”(かまあげ)、“釜天”、“湯だめ”、“ぶっかけ”、“しっぽく”、“釜玉”(かまたま)、“生醤油”(きじょうゆ)等々様々なうどんを食べることができます。また、“肉うどん”や“カレーうどん”もあります。

 “さぬきうどん”の特徴といえば、なんといっても麺の“コシ”でしょう。また“ダシ”とそれに上に載せる“具材”にも特徴があります。
 まず、麺の“コシ”ですが、これは、麺の硬さとは異なりコシコシとした歯ごたえ感があって喉越しがいいというような食感です。この“コシ”はうどん屋ごとに全く異なり、香川県人が“さぬきうどん”を評価する場合の最も重要なポイントです。人によれば、麺の食感だけを純粋に味わうために、うどんに醤油を少しかけただけで賞味することもあります。
 この“コシ”ができる秘密は、うどんの原料である小麦粉の中に6~15%含まれているタンパク質にあります。そのタンパク質の約85%は、ほぼ同量のグリアジンとグルテニンという成分からなっていますが、グリアジンは弾力性が低く伸縮性が高いのに対して、グルテニンは弾力性が高く伸縮性が低いというそれぞれ異なった性質を持っています。そして、小麦粉に水を加えて捏ねると、この異なる二つの性質のタンパク質が絡み合って弾力性と粘着性の両方の性質を適度に兼ね備えたグルテンという成分になり、これにデンプンが結びつくことによって麺体が作られます。
 グルテンは小麦に特有なタンパク質であり、パンのふくらみやラーメンの歯ごたえもグルテンの働きによるものです。そば粉や米粉が麺体になりにくいのは、小麦粉のようにグルテンを含まないからです。そして、グルテンは、原料となる小麦の種類や品質、加える水の量や捏ね方によって、粘着力が強かったり、弾力が強かったりするので、この複雑に絡み合うグルテンの違いによって、うどんの“コシ”の食感に差が生じてきます。こね、足踏み、打ちなど古くから伝わった麺の鍛え方により地域や店によって“コシ”に違いが出るというわけです。
 さらに、塩も麺作りにとって重要な要素です。小麦粉に塩が加えられることによって、グルテンが引き締められて粘弾性が増加し、また小麦粉の味と香りが引き立てられます。このため美味いうどん作りには、適度の食塩が不可欠で、小麦粉を溶く塩水の水と塩の割合が重要となります。この割合のことを、讃岐では、昔から、俗に「土三寒六(どさんかんろく)」と呼び、美味いうどん作りの秘訣とされてきました。これは、バケツ一杯の水を使って小麦粉を団子にする場合、暑いときにはまずそのバケツに3分の1の塩を入れ、寒いときにはそのバケツに6分の1の塩でよい、ということです。
 “コシ”があって美味しいのは、打ちたてを茹でて水で締めた直後だとされています。

 次の“ダシ”ですが、“さぬきうどん”では、かけ汁にイリコの出汁を使い、これを“ダシ”と呼んでいます。香川以外のところでは、鰹節と昆布の一番出汁を“うどんつゆ”として用いているところが多いようです。
 イリコは、煮干し(にぼし)イワシのことで、鰹節よりも濃厚な出汁を作ることができます。香川県観音寺市の10Km沖合いに浮かぶ伊吹島は、このイリコの産地として知られており、その品質、味は日本一であるといわれています。島の周囲に広がる燧灘(ひうちなだ)は、イリコの原料であるカタクチイワシの好漁場となっており、水深が浅く、海の流れも緩やかなため、ここでとれるイワシは骨や身がやわらかく、イリコにしたときに水が浸透しやすく、ダシの出がよいといわれています。また、伊吹島では、漁を行う網元が加工までを一貫して行っているので新鮮な状態で加工されており、イリコの品質が良いといわれています。

 三番目の“具材”ですが、香川では、よく麺の上に“具材”を載せて一緒に食べます。“具材”には、ちくわの天ぷら、海老の天ぷら、イカゲソ、タコの天ぷら、かき揚げ、甘辛く煮た油揚げや牛肉、天かす、じゃこ天など魚肉を使った練り物の天ぷら、生卵、半熟卵、コロッケなど様々なものが用いられ、セルフサービスの店では色々な具材を自分の好みに合わせて選ぶことができます。香川県人にとっては、うどんに様々な具材を載せて一緒に食べるということは常識ですが、県外人には珍しく映るようです。

 うどんの原料である小麦の原産地は、現在のカスピ海南岸地域、アフガニスタンからイラン、イラクにかけての地域だと考えられています。それが、西に伝わり「パン文化圏」、東に伝わって「麺文化圏」となりました。
 日本では、紀元前5~3世紀の縄文時代晩期ないし弥生時代の初期にかけて、既に小麦の栽培が始まったものと考えられています。8世紀には「小麦と大麦を植えるように」という詔勅が出ており、「古事記」にも、スサノヲノミコトに関連するエピソードの中に小麦が登場しています。しかし、この頃までは小麦は雑穀の一つに過ぎなかったものと思われます。
 うどんのルーツは、奈良時代に発達した“混沌(こんとん)”という小麦粉を丸めて煮た団子のようなもので、その原型は7~8世紀ごろ、飛鳥時代から奈良時代にかけて中国から伝えられたものと考えられています。それが日本人の口に合ったものにされていき、室町時代には“饂飩(うどん)”になります。その製法は、基本的に現在とほぼ同じだったようで、今日のうどんの元祖だと考えられています。しかし、この頃までのうどん類は、公家や武家が仏事の集会などにおいて、「点心」という今で言うおやつの一つとして食べられていたようです。うどんが現在のように庶民の食べ物として普及したのは江戸時代からのことです。江戸時代前期の元禄の頃には江戸、京、大坂、そして讃岐の琴平にもうどん屋が出現しています。

 ところで、香川には、うどんはお大師さん、すなわち空海が中国から持ち帰ったものだという言い伝えがあり、善通寺市には犬塚伝説という伝承も残っています。この伝承は次のような物語です。
 唐での留学を終えた空海は、日本に帰るとき、小麦の種を持ち帰ろうとしました。しかし、当時、小麦の国外持ち出しは禁止されていて、唐の役人が小麦の臭いを嗅ぎわけることのできる犬を使って、国外持ち出しをチェックしていました。今の麻薬犬のようなものでしょう。そこで空海は、足のふくらはぎのところを切って、その中に小麦の種を隠していました。検査のとき、犬は空海のところで吠えましたが、小麦を隠していることは発覚しませんでした。空海はその犬を不憫に思い日本に連れて帰りました。その犬が死んだときに葬られたところが、現在の善通寺国立病院近くにある犬塚だということです。
 空海は、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日、現在の善通寺の地で誕生し、平安時代初頭の延暦23年(804)31歳のとき唐の長安(現在の西安)に留学し、大同元年(806)に帰朝しています。前述のように、小麦が日本に伝播したのはそれよりももっと早い時代で、うどんのルーツもすでに奈良時代にはあったようです。しかし、うどんは空海が中国から持ち帰ったという伝承は、全く根拠のない作り話だともいいきれないところがあるように思われます。

 空海が留学した当時、唐は広大な領土を有する世界国家であり、その都である長安には日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からの使節・留学生が訪れていました。また、長安はシルクロードの東の窓口であったことから、西域から僧侶や商人たちなども訪れ、仏教のほか、イスラム教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教などの寺院が建ち並ぶ国際色豊かな都市でした。ちなみに西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がガンダーラから膨大な経典を長安に持ち帰ったのは、西暦645年といわれており、空海が長安に行く約160年前のことです。
 当然のことながら、西域の様々な文物もシルクロードを通じて盛んに長安に流れ込んできており、品種改良された小麦の種子や小麦を原料とする麺の様々な製法もその中に含まれていたと思われます。現在でも西安の人たちは小麦を主食としており、それを様々な麺にして食していますが、空海が留学していた当時も、長安では色々な麺を食べられており、空海も麺を食べたと想像されます。

 空海をはじめ中国に留学した僧は、仏教以外にも様々なものをわが国に持ち帰りましたが、その中に品種改良された小麦の種子やそれを原料とする麺の製法もあったのではないかと考えられます。僧は肉食を禁じられていたことから、小麦は貴重な植物性タンパク質の補給源として僧侶たちの間で食されていたのではないでしょうか。
 小麦と米のタンパク質含有量を比較すると、日本の玄米が平均6.8パーセントといわれているのに対して、小麦は6~15%含まれています。また、タンパク質は水の吸収を阻害することから、ご飯を炊くときにデンプンの膨潤を抑えてしまう働きがあり、同じ品質の米でもタンパク質の含有の高いものは粘りが弱くなり、その含有が低いものは粘りが強く炊き上がりもふっくらとしたご飯になります。したがって、粘りのある美味しいご飯ほどタンパク質の含有量が低くなります。
 また、小麦にはビタミンB1が含まれており、食べることにより脚気を防止することができます。
 このことからすると、米飯中心の食生活をする場合、小麦は貴重な栄養の補給源となることが僧侶たちの間で経験的に知られていたのではないでしょうか。

 讃岐は古代、仏教の先進地で、白鳳時代にすでに17か寺、奈良時代には31か寺を数えていたといわれます。伊予・阿波が各10数か寺、土佐が5か寺、備前・備中・備後が各20か寺前後といわれており、讃岐の仏教文化の高さがうかがえます。これは、讃岐と吉備(岡山)との間にある備讃瀬戸は、畿内に近い瀬戸内海沿岸の中では最も海が狭くなるところで、讃岐の港には、中国大陸と畿内を往来する船が頻繁に立ち寄り、先進の仏教文化を伝えたことと関係があるように思われます。そして、中国で学んだ僧たちは、讃岐に上陸したとき、讃岐の寺院で起居する僧の集団に、品種改良された小麦の種子やそれを原料とする麺の製法を伝えたのではないでしょうか。それが、後に庶民一般に広まっていったのではないでしょうか。「お大師さんが中国から持ち帰った」というのは、「僧が中国から持ち帰った」ということであり、その意味するところは、“さぬきうどん”は讃岐の古代仏教文化によって産み出されたということではないでしょうか。
 ちなみに、中国西域奥地にあるタクマラカン沙漠で「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが発見されていますが、その棺の中には草編みの籠が入っていて、その中には小麦の種子があったそうです。そのミイラは紀元前1800年ぐらい前の人だということですが、最近の科学的研究によると、その小麦と讃岐の小麦のDNAとは一致するといいます。

 13世紀の鎌倉時代になると、土地利用率の向上によって集約的に多くの生産をあげることを目的として、稲作のあとに裏作として麦をつくる水田二毛作が発達します。裏作の麦は租税対象とされずに農家の収入となったため、零細な農家の経営を支えることになったといわれています。
 讃岐は、温暖な気候であることから水田二毛作が発達し、しかも冬場に雨が少ないことが小麦の栽培に適していたため、“さぬきうどん”の原料となる良質の小麦を産したものと考えられます。興味深いことに、中国の西安(かっての長安)と讃岐は同緯度にあります。この小麦の生産に加え、瀬戸内海沿岸で生産される良質の塩やイリコ、醤油など、うどんの材料となる主要な産物が入手しやすかったことも讃岐でうどんが発達した大きな要素だと考えられます。
 しかし、戦後の高度経済成長以降は、裏作として小麦栽培も行われなくなり、“さぬきうどん”の原料となる小麦粉の多くは、オーストラリア産の「Australian Standard White」(略称ASW)が用いられていました。こうしたことから、讃岐産小麦で作られた本場の“さぬきうどん”作りを目指し、2000年代に入り、讃岐うどん用小麦として新品種の「さぬきの夢2000」が開発されています。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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