スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(137)“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”

 シルクロードという言葉を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェン(1833~1905年)だといわれています。リヒトホーフェンは、1877年に出版した著書の中で、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を始めて「ザイテンシュトラーセン」(絹の道)と呼び、その後、それが英訳されて「シルクロード」といわれるようになりました。
 リヒトホーフェンは、幕末の万延元年(1860)に瀬戸内海に立ち寄り、「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであろう。将来この地方は、世界で最も魅力ある場所の一つとして高い評価をかち得、沢山の人を引き寄せることであろう。此処には到る処に生命と活動があり、幸福と繁栄の象徴がある。」と、その風景の美しさを称賛し、旅行記として世界に発表しました。
 そのリヒトホーフェンが称賛した瀬戸内の風景とは、静かな海面に多数の島々が点在し、多くの岬が突出した多島海的景観の美しさと、白砂青松の連なる海岸の美しさにあり、また、段々畑など古くから自然と人間の営みとが一体となった景観だといわれています。その特徴は、風化花崗岩の白砂とクロマツが形成する白砂青松、海に面するアカマツの生えた絶壁の崖地など、マツが景観の重要な要素を形成していたと考えられます。讃岐でも、津田の松原(琴林公園)や観音寺の有明浜(琴弾公園)は、瀬戸内を代表する白砂青松です。
 しかし、幕末から明治初期にかけての時期は、日本列島の自然が最も荒廃していたときだといわれており、特に瀬戸内海沿岸は製塩業が盛んであったことから、塩田近くでは多量の木が燃料として伐採され、ハゲ山が広がっていました。リヒトホーフェンも、その景観を、「それらの山々は、けわしく傾斜しているとはいえ、粗削りの形はどこにもなく、針葉樹の群を含む灌木で覆われている。数多くの露出個所が赤みを帯びた分解した土壌を示しているが、その土壌ははなはだ不毛に違いない。そのために、それぞれの山は全体が、赤みかかった荒涼たる外観を呈している」と記しています。

 リヒトホーフェンが訪れてきたときから約1600年前、3世紀頃の中国は三国時代(220~280年)でしたが、その三国の一つ魏(ぎ)の使者が、当時、倭(わ)と呼ばれた日本を訪れています。のちにその見聞は「魏志倭人伝」としてまとめられ、その中に女王・卑弥呼が治める邪馬台国のことが書かれていることはよく知られているところです。
 魏志倭人伝には、倭国は「土地は山険にして深林多く、草木茂盛・・・」であり、そこにはクスやカシなどの樹木が見られると記載されているということです。しかし、その中にマツの記載はないそうです。この記述から、魏志倭人伝の使者が見た倭の国の自然は、カシ・シイ・クス・タブなどの暖温帯照葉樹林で覆われ、うっそうとして黒々とした深い森だったと想像されています。この当時の瀬戸内沿岸の風景は、リヒトホーフェンが見たものとは全く様相が異なっていたと考えられます。卑弥呼が生きた時代からリヒトホーフェンが訪れてきたときまでの間に、瀬戸内海沿岸の自然は人によって手が加えられ、それに伴って風景も大きく変化していったのです。

 スギやヒノキなどの針葉樹に対して、温帯から熱帯を中心に分布し、葉が広くて平たい被子植物に属する木本を広葉樹といい、そのうち、生育に不適な季節になると全ての葉を落とすものを落葉広葉樹といいます。その樹冠つまり樹木の最上部は逆円錐形をしており、日本では、冬に葉を落とし、水分の消費を抑えて休眠状態で春を待ちます。一般的に、ある土地に生育している植物の集団を全体的にとらえて「植生」といいますが、日本における落葉広葉樹の自然植生は、水平的には平地では中部地方の山沿いから東北、北海道地方の南部にかけて、垂直的には本州南部では標高約1000m以上だといわれています。主な樹木はブナ、ミズナラ、カエデなどで、特にブナが中心になるので、ブナ帯とも呼ばれます。よく知られている白神山のブナ林はその自然植生の代表です。
 一方、広葉樹でも落葉する時期のない木を、常緑広葉樹といいます。樹冠は“もこもこ”と丸くなっており、葉は巾広で面積が大きく、初夏に新旧の葉を入れかえ、冬も青々と葉をつけます。熱帯から暖温帯にかけて通年の環境変化が少ない良好なところに生育します。常緑広葉樹の中でも暖温帯に生育するものは、冬の寒さに対する対策として葉が小さくて厚くなる傾向があり、また、葉の表面がロウ質の発達したクチクラ層で被われて陽光を受けるとテカテカ光ることから、「照葉樹」とも呼ばれています。主な樹木は、カシやシイ、クス、タブ、ヤブツバキ、サカキなどです。照葉樹林の林内は薄暗く、じめじめして、シーンと静まりかえっています。なお、地中海地方に見られるゲッケイジュやオリーブも暖温帯の常緑広葉樹ですが、夏期に雨が少ないため、それに対応して葉が硬くなっており硬葉樹とも呼ばれます。
 森林は長い年月をかけて気候的にできあがっていくものですが、照葉樹林の自然植生地帯は、アジアでは、ヒマラヤの南麓部からアッサム、東南アジア北部の山地、中国雲南省の高地、さらに揚子江の南側の山地を経て、日本列島の西南部と東アジアの暖温帯一帯に広がっています。日本列島においては、縄文時代前期の6500年前頃から、気候の温暖化により西日本の低地を中心に急速に拡大していき、倭国の時代にあたる弥生時代には、西日本の低地をびっしりと覆い、もうこれ以上変化しない極相林として安定したものと考えられています。
 ちなみに、西日本一帯を含めたアジアの照葉樹林帯では、ワラビ・クズなどを水に晒してアク抜きする方法、茶の葉を発酵させ加工して飲用する慣行、蚕から絹を作る技術、ウルシから漆器を作る技法、麹を発酵させた酒づくり、ミソ・納豆などの発酵食品づくり、コンニャクの製法、イモ類・アワ・ソバなどを栽培する焼畑農耕などの生活文化や、さらには神話・習俗においても共通の特色があることが指摘されています。これら地域を「照葉樹林文化圏」という概念でとらえ、日本文化をはじめ東アジアの伝統文化の基層を形づくる文化であると考える学説もあります。

 照葉樹林に覆われていた地域は気候も暖温であることから、そこには古くから人が住み着きました。人口が増加するにしたがって、食料、燃料、家屋、道具等を確保する必要があります。そこで、人は、田畑を開墾するために、また薪炭燃料や建築用材などを得るために照葉樹林の森を伐採していきました。そして、伐採した跡には、風・塩・砂に強くて痩せ地でも育ち火力の強いマツや、用材として加工しやすいスギ・ヒノキなど人が利用しやすい樹種を植林し、照葉樹林に置き換えていきました。また、人が再三の伐採などの人為的撹乱をしたことにより、照葉樹林は、コナラやアベマキ・クヌギなど落葉広葉樹の雑木林に移行していきました。
 ちなみに、マツは、6、7世紀にかけての飛鳥時代頃から急速に拡大したといわれています。これは、古墳に代わって寺院が建立されるなどにより、瓦を焼くための燃料、建築用材として多量の照葉樹林が伐採されていったためと考えられています。
 こうして、かつて日本列島を厚く蔽っていた原生の照葉樹林は、その大部分が失われていきました。わが国では、現在、原生の照葉樹林は、宮崎県綾町の照葉樹林地や、いわゆる「鎮守の森」といわれる寺社林、社寺林、とりわけ社叢などの一部例外を除き、まとまった面積のものはほとんど見られなくなってしまいました。
 その中で、瀬戸内海沿岸では、琴平町にある象頭山(琴平山)の金刀比羅宮社叢は、よく原生状態を残しており、全国的にも代表的で面積も広い原生林に近い亜極相の照葉樹林の森だといわれています。特に、この山のクスノキ林は、わが国のクスノキ林の北限地と考えられています。象頭山は、古くから神域として改変が禁止され、人の手が加えられてこなかったことから、原生状態をよく保ったものです。ちなみに、象頭山は昭和26年、天然記念物に指定されています。
 古伝によれば、太古の時代は、この辺りまで瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗い、湾奥に船の碇泊所が横たわっており、大物主神がここに行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。金刀比羅宮はその行宮跡に大物主神を奉斎したところで、のちに“海の神様”として広く親しまれるようになったものだと伝えられています。鬱蒼とした樹林に囲まれた象頭山の各所には、今も神の山という雰囲気が漂っています。卑弥呼が見ていた風景も、象頭山に見られるような照葉樹林の森の風景だったのではないでしょうか。

 このように、瀬戸内沿岸地域の元の自然植生は照葉樹林であり、マツ、雑木林、スギ・ヒノキなどは、人の手が入ったことにより、照葉樹から替わっていったものですが、人によって改変された植生も、人為的作用が加わらなくなると、その土地本来の元の植生に復帰していきます。これを「再極相化遷移」といいます。「遷移」とは、その土地で植物種が自然に交代して植生が変化していくことで、数百年から数千年単位のサイクルで繰り返しています。
 高度経済成長時代以降、我が国では、エネルギー源が、薪炭燃料から石炭・石油の化石燃料へ急速に転換していきました。また、農地肥料は、それまでの森林の落ち葉・下草を材料とした堆肥から化学肥料へ転換していきました。さらに、昭和38年に木材輸入が自由化され建築用材を外材に依存するようになりました。こうして、日本の多くの森林は人の手が入らず、放置されたままになっていきました。それに加えて、昭和30年代後半以降、マツクイムシが猛威をふるい、多くのマツ林が枯死しました。このため、放置されたままの雑木林や松枯れ地などが増加し、これらの森林には瀬戸内の本来の植生である照葉樹林へ徐々に移行する再極相化遷移が見られます。
 照葉樹林は、森から川に流れ出す降水のスピードが緩慢であるため緑のダムとして水源涵養の機能が高く、山火事にも耐性があり、魚つき林として河口付近に好漁場を確保するなど、多くの効用があります。したがって、照葉樹林への再極相化遷移を否定的に考える理由はありませんが、このままの再極相化遷移が進めば、リヒトホーフェンが見た瀬戸内の風景は、見られなくなってしまうでしょう。また、こうした再極相化遷移もすんなり進行しているわけではなく、放置されたスギ・ヒノキ人工林の水土保全機能の低下、モウソウチクの繁茂による竹害などが大きな問題となっています。

続きを読む

スポンサーサイト

(136)“日本モダニズム建築の到達点といわれる香川県庁舎”


 パリやローマなどのヨーロッパの都市を歩くと、日本の都市の街並みと大きな違いがあることに気が付きます。ヨーロッパの都市には、あまり高くなくクラシカルな外観の個性的な建物が多く残っています。これに対して、日本では、全国どこの都市でも、四角い箱のような没個性的なビルばかりが目立ちます。それは、広く開けられた四角いガラス窓や、凹凸や装飾の少ない外壁をもち、外壁の色も白系統か薄く目立たない色のものであるという共通性を持っています。ヨーロッパと日本のこのような差異は、建築思想の受け入れ方の違いに基づくものです。
 中世ののち、19世紀以前のヨーロッパでは、古代ギリシャ・ローマに起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきました。建築は建物の基本構成から細部の装飾に至るまでやり方が決まっており、建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、その決まった枠の中で個性を発揮して芸術的な作品を造ることが求められました。これを“歴史主義”あるいは“様式主義”といます。ヨーロッパの都市に残っているクラシカルな外観の建物は、この歴史主義に基づくものです。
 日本でも、1868年の明治維新以降、文明開化により欧米の文物が導入されるのに伴い、歴史主義に基づく洋風建築物が建てられていきました。今でも、東京日本橋にある日本銀行本店や、高松でも百十四銀行高松支店(旧本店、大正15年:1926)に、それを見ることができます。ただし、この“歴史”主義とは、ギリシャ・ローマに始まる洋風建築のものであり、日本の伝統的和風建築のものではありません。

 20世紀に入ると、18、19世紀に起きた市民革命と産業革命以降の合理主義的・社会改革的な思想を背景に、“モダニズム”(近代主義)と呼ばれる実験的な芸術運動が各分野で起こります。モダニズムは従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求し、その後、未来派、キュビズム、シュールリアリズム、ポップアート等へと展開していきます。
 建築の分野でも、19世紀以前の様式建築を桎梏としてそこから離脱し、合理的な精神から成り立つ近代精神をベースに、人が快適な生活を送ることができるための経済的・合理的・機能的な現実に合った建築を造ろうという試みが行われるようになります。その背景には、技術革新により、鉄骨造や鉄筋コンクリート造が普及し、また大量生産のガラスなどの新しい素材が使われるようになったことと、また社会生活の多様化に応じて建築に様々な要求が求められるようになったことがあるといわれています。これを“モダン・ムーブメント”(近代運動)といい、これにより生まれた建築様式を“モダニズム建築”(近代主義建築)といいます。
 モダニズム建築は、民族や国境を超えた、世界共通の普遍的なデザインを目指すことから“インターナショナル・スタイル”とも呼ばれ、機能的・合理的で装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とします。モダン・ムーブメントは、1920年代に西ヨーロッパで明確な形をとり、その後世界に広まっていき、各国で新しい建築を求めて様々な試行錯誤が繰り返されていきます。

 日本でもヨーロッパの動きに応じ、1920年代からモダニズム建築の理念が導入され、第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及していきました。日本では洋風の歴史様式をまとった建築は否定され、装飾のない“豆腐のような”、“白い箱”といわれる機能性・合理性だけの無味乾燥な建物が主流を占めます。その背景としては、日露戦争から第1次世界大戦にかけての日本の工業生産の発展、また日本にはギリシャ・ローマに始まる洋風建築の歴史的伝統が存在しなかったことなどが考えられます。

 戦後の20世紀半ばになると、世界ではモダニズム建築の理念が普及し、国連本部ビル(1952年)に代表されるような装飾のない建物が一般的となり、白い箱ばかりの街並みが生れていきました。しかし、このような街並みについては、単調で味気ないという批判が起こり、モダニズム建築は次第に革新性を失っていきます。そして、モダニズム建築が世界各国にも普及していくに従い、それぞれの地域の伝統に適用した建築、抽象と伝統との折り合いがその課題となりました。
 日本では、洋風としての歴史主義が消えても、和風あるいは“日本らしさ”への追求までが消えたわけではなく、むしろ、桂離宮などの数奇屋建築とモダニズムの近親性が論じられ、柱と梁(はり)で構成される日本の伝統的建築の方が、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築よりも、モダニズムの理念と適合していると主張されました。

 第二次世界大戦後、モダニズムの旗手として登場したのが丹下健三です。丹下はすでに戦時中、伊勢神宮の中に伝統と抽象の同居する形を見出していたといわれ、白く四角い箱のモダニズムを“衛生陶器”と揶揄し、新たなモダニズムへの追求を試みます。
 丹下の戦後における実質的なデビュー作が、昭和30年(1955)に完成した「広島ピースセンター」です。この建物は、モダニズム建築でありながら、日本の伝統を強く感じさせる作品として、丹下の名声を一気に高めます。なお、平成18年(2006)、戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。
 さらに、丹下が、日本の伝統表現を建物の構造全体にまで及ぼしたのが、昭和33年(1958)に完成した香川県庁舎(現・東館)です。広島ピースセンターでの伝統表現は、ルーバー(羽板と呼ばれる細長い板を平行に組んで板状にして取り付けたもの)という表面の“装飾”にほぼ限定されていましたが、香川県庁舎では、日本の寺社建築に見られる柱と梁の繊細な組み合わせが、鉄筋コンクリートで表現されました。特に、床とベランダを支える小梁は、構造的な強さを確保しつつ、極限まで細く薄くすることにより、その連続・反復する様子は、下から見上げた時、五重塔のようにイメージされました。香川県庁舎は瓦屋根や日本的な装飾を用いずに、人々の感性に日本的伝統を訴えかけたモダニズム建築でした。
 「構造と表現」は、モダニズム建築が最初から抱えていたテーマでもありますが、香川県庁舎(現東館)は日本的伝統という切り口でこの難題に初めて明確な解答を出し、世界へ発信した作品という点で高い評価を得ています。日本におけるモダニズム建築の到達点を世界に示したともいえるものです。
 なお、香川県庁舎(東館)が完成した年は、巨人軍の長嶋茂雄選手が4打席4三振デビューをし、東京タワーが完成しています。また、現在の天皇・皇后である明仁・皇太子と正田美智子さんが婚約を発表し、ミッチー・ブームが始まったときで、日本が高度経済成長に突き進んでいたころでした。

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(135)“日本野球史上最大のライバル劇を演じた二人の讃岐男”

 日本における野球の発祥は、明治5年(1872)、アメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが第一大学区第一番中学(現在の東京大学)で生徒たちに教えたのが最初だとされています。それを記念して、東京神田の神保町にある学士会館敷地内には、「日本野球発祥の地」の碑が建立されています。香川で野球が始まったのは、その22年後の明治27年、高松中学校(現在の県立高松高等学校)の校長がアメリカの「ベースボール技術書」を手にし、野球部を創設したときからだといわれています。
 以降、日本では学生野球を中心に普及していき、大正4年(1915)には、夏の甲子園といわれる全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会の第1回大会が大阪の豊中で開催されます。また、大正13年には、春の甲子園といわれる選抜高等学校野球大会の前身である選抜中等学校野球大会の第1回大会が名古屋で開催されます。夏、春の甲子園大会が甲子園球場で行われるようになったのは、それぞれ第10回大会、第2回大会のときからです。
 さらに、大正14年(1925)秋からは東京六大学野球が始まり、学生野球が大学間のリーグ戦として行われるようになります。
 日本での本格的なプロ野球が始まったのは、昭和9年(1934)に来日したアメリカチームと対戦するために組織された全日本野球倶楽部(現在の読売巨人の前身)が結成されたのがきっかけで、昭和11年に巨人、阪神などによって日本職業野球連盟が発足します。
 この甲子園、東京六大学野球、プロ野球を通じて二人の讃岐男が、戦前から戦後にかけて、まるで運命の糸が絡み合うように、宿命の闘いを繰り広げます。その闘いのドラマは、あたかも戦国時代の武将を髣髴させ、日本中の観客を興奮と感動の渦に巻き込みました。
 その二人の讃岐男とは、巨人軍の監督として第二期黄金時代を築いた水原茂と、セ・パ両リーグ日本一を初めて達成し、「野球は筋書きのないドラマである」という名言を残した三原脩(おさむ)です。水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルでした。

 水原は明治42年(1909)1月19日、香川県の高松市福田町で、父庄八・母章江の長男として生まれます。旧姓を竹林といい、のちに親子で五番丁(今の番町2丁目)の水原家へ養子に入ったことから水原姓を名乗ります。家業はクリーニング業を営んでいました。大正4年(1915)に築地尋常小学校へ入学し、3年のときに高松尋常高等小学校へ転校します。大正12年、14歳のときに高松商業学校(現高松商業高等学校)へ進みます。
 一方、三原は明治44年(1911)11月21日、現在のまんのう町で、父一彦・母政子の末っ子5男として生まれます。実家は大地主でした。大正7年(1918)、丸亀城西尋常小学校へ入学し、大正13年、13歳のとき丸亀中学校(現丸亀高等学校)へ進みます。しかし、野球に熱中したため野球嫌いの父親の意向で、昭和2年(1927)、4年生の秋、16歳のときに高松中学校へ転校します。ところが高松中学の校長が野球部に入ることを条件に転入を認めたことからさらに野球にのめり込んでいきます。
 高松商業は香川県における中等実学教育の中心で、一方、高松中学は県内第一の進学校でした。その校風は対照的で、大正の終わりから昭和の初めにかけて、高松商業と高松中学は野球で競い合い、高松の町も高中(たかちゅう)派と高商(たかしょう)派に別れて激しい応援合戦を繰り広げていました。高松中学の校長が三原に野球部に入ることを条件に転入を認めたのもこのような背景があったといわれています。
 水原が入ったころの高松商業野球部は、春の第1回選抜大会(大正13年)で全国優勝したのを皮切りに黄金時代を迎えようとしていました。水原の1年先輩で剛腕投手として知られた宮武三郎や同級生の井川喜代一、堀定一など、のちに慶応大学に進み、東京六大学野球やプロ野球界などで活躍する多くの逸材を輩出しています。
 水原は、高松商業では、投手・三塁手として活躍し、春夏合わせて5回甲子園へ出場しています。大正14年(1925)、3年生のとき、春の第2回選抜大会で全国準優勝し、その夏の第11回選手権大会では全国優勝を達成します。このときの高松商業の投手は宮武三郎でした。さらに、翌々年の昭和2年(1927)、5年生のとき、夏の第13回選手権大会でも全国優勝し、優勝投手にも輝きます。
 水原と三原は、夏の第13回選手権大会四国予選の準決勝において初めて対決しますが、このときは、三原を含めて高松中学は高松商業の水原の前に手も足も出ずノーヒットノーランで敗れています。しかし、水原が高松商業を卒業した後の昭和3年(1928)、三原のいる高松中学は高松商業を破り、夏の第14回選手権大会で甲子園へ出場します。三原は遊撃手として参加します。この大会で高松中学は準決勝戦まで進みますが、松本商業に「豪雨によるコールド負け」で無念の敗退をします。ちなみに、このとき高松中学野球部のマネージャーは、後に日本社会党中央執行委員長となる成田知巳でした。
 そのころの日本の野球は、学生野球が花盛りの時代で、甲子園の中等野球(今の高校野球)や東京六大学野球に観衆は熱狂していました。また実業団の都市対抗も人気を集めていましたが、プロ野球はまだ始まっていませんでした。このような中で、高松は野球が盛んなところで、大正13年から昭和5年の7年間における中等野球全国大会での成績は、高松商業が優勝2回、ベスト8が2回、それに次ぐ高松中学がベスト4が2回、ベスト8が1回という成績で、「野球王国」と呼ばれました。

 昭和3年(1928)、水原は、先輩の宮武三郎がいる慶応大学へ、同級の井川喜代一・堀定一とともに入ります。昭和4年春の慶応野球部メンバー27名のうち、高松商業出身者は、宮武、水原、井川、堀のほか野村栄一の5名がいました。
 一方、翌昭和4年、三原は早稲田大学へ入ります。中学校を卒業するとき、三原は旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を受験しており、野球を続ける気持ちはなかったようです。受験の間に東京の親類のところへ行ったときにスカウトされたといいます。
 水原と三原の二人が早慶戦で最初に顔を合わせたのは、昭和4年5月21日のときです。このとき2年生の水原は三塁手と投手をやっていますが、新入生の三原はピンチ・ランナーに出ただけでした。この年の10月13日、二人は初対戦をします。水原は投手として登板し、三原は新人でしたが左翼手としてスターティング・メンバーに入ります。この対戦では、三原は水原に対して、三振を2回を喫しています。ちなみに昭和4年には世界大不況が始まっています。
 二人の本格的な対戦は、昭和5年5月17日の早慶戦のときからです。このとき、水原は5番・三塁手、三原は2番・二塁手して出場し、三原は宮武三郎投手から安打を放っています。その後、水原と三原の二人は東京六大学野球のスター選手として人気を博します。ちなみに、宮武三郎は、打者としても活躍した選手で、長嶋に破られるまでは東京六大学のホームラン記録を持っていました。昭和40年に野球殿堂入りをしています。
 昭和6年(1931)春季の早慶戦2回戦で、早大の三原は、6回慶大が2-2の同点とした直後の7回、2死満塁の場面でホームスチールを敢行します。このときの慶大の投手は水原でした。三原のホームスチールは左打者が打席に入っていたときに企てたもので、打者が左打席に立てば三塁走者の動きは相手捕手から丸見えになるばかりか投手は右投げの水原であり、通常ホームスチールが考えられない局面でした。このホームスチールで勝ち越した早大は流れをつかみ、その後も加点して6-3で対戦成績を1勝1敗とし、前年春からの早慶戦の連敗を5で止めています。ちなみに昭和6年は満州事変が勃発し、翌昭和7年には五・一五事件が発生しており、世相は暗くなる一方でした。
 しかし、三原は、昭和8年(1933)春季終了後、スター選手の座を捨て野球部を突然自主退部します。病床についていた郷里の父が眼の黒いうちに三原が身を固めるのを見たいと言い出したのですが、当時早大野球部は学生結婚を認めていなかったので、結婚を機にあっさり退部したというわけです。三原は早稲田を中退して一時、香川へ帰郷します。
 一方、水原も、昭和8年秋のリーグ戦終了後、慶応野球部を退部します。この当時の早慶戦は応援もかなり過熱気味だったようで、この年の秋のリーグ戦で、早大側応援席から投げ込まれたリンゴを慶大三塁手の水原が投げ返したことにより乱闘事件が発生し、その責任をとったというわけです。のちに「水原リンゴ事件」と呼ばれるこの事件以降、早慶戦では、早大と慶大のダック・アウト・応援席は、それぞれ一塁側、三塁側に固定されたといいます。

 昭和9年(1934)、水原は、奉天(今の中国瀋陽市)の自動車会社に入り、実業団野球に活躍の場を求めます。一方、三原は、香川から大阪へ出て就職し、都市対抗全大阪チームに参加します。
 この頃、わが国ではプロ野球を結成しようという動きが急速に高揚し、昭和9年(1934)、読売新聞社長の正力松太郎の招聘により、ベーブ・ルースらが加わるアメリカ大リーグ選抜チームが来日することになりました。そして、アメリカ選抜チームと対戦するため日本でも全日本チームが結成され、大阪にいた三原、満州にいた水原茂らが全日本チームに参加します。投手の沢村栄治もこのとき一緒に参加しています。三原23歳、水原25歳のときです。
 アメリカ選抜チームとの対戦では、水原と三原の二人は、交互に二塁を守り、三原は11試合出場で38打数6安打、水原は10試合出場で21打数2安打でした。なお、三原は両チームトップの5盗塁を記録します。ちなみに、静岡県草薙球場における試合で、沢村栄治投手がベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを三振にしとめる好投をした話はよく知られているところですが、このときの二塁手は水原でした。
 こうして日米野球の盛り上がりもあり、昭和9年12月26日、全日本チームを基礎としてわが国で初めてのプロ野球団体である「株式会社大日本東京野球倶楽部」(現在の読売巨人軍)が創設され、水原も三原も加わります。なお、大日本東京野球倶楽部と最初に契約し、我が国のプロ野球選手第1号となったのは、三原でした。
 翌、昭和10年2月、大日本東京野球倶楽部一行は105日間のアメリカ遠征に向かい、水原は沢村栄治らと参加します。しかし、三原は、陸軍から召集を受け、昭和10年1月に郷里の丸亀連隊に入隊したため参加できませんでした。これから本格的に活躍の場ができたと思っていた三原は悔しい思いをしたことでしょう。
 この年、大日本東京野球倶楽部が帰国すると、全国各地にプロ野球球団設立の動きが出てき、10月末に大坂タイガースができたのを皮きりに、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の合計6球団が名乗りをあげます。そして翌昭和11年(1936)2月5日に巨人軍を含む7球団で「日本職業野球連盟」が結成され、初めてプロ野球のリーグ戦が始まります。
 昭和11年の前半、水原は巨人軍のメンバーとして第2回目のアメリカ遠征をしています。一方、軍隊にいた三原は、この年の7月末、1年余りで除隊することができ、早大の先輩である巨人軍藤本監督の要請で秋のリーグ戦から選手兼助監督として巨人軍に復帰します。そして、この年の秋の優勝チーム決定戦は、巨人軍と大阪タイガースとの戦いとなり、巨人軍は、トップ・二塁手三原、二番・三塁手水原で始まる打線で、沢村投手を擁してタイガースに勝ち初優勝をします。ちなみに、この年、二・二六事件が発生し、日本は軍国主義へ大きく傾いていきます。
 しかし、翌昭和12年7月、三原は、日華事変の勃発により再び召集され、丸亀連隊に入り、中国戦線へと赴きます。そして機関銃隊第1分隊長として大場鎮の激戦に加わり、このときの戦闘で左太腿に貫通銃創弾を受けます。翌昭和13年3月、除隊した三原は再び巨人軍に復帰しますが、審判とのトラブルにより、その年、27歳で現役を引退し、その後報知新聞のスポーツ記者に転向します。このときの報知新聞の社長は、高松中学、早大の先輩で高松出身の三木武吉でした。
 水原はその後も巨人軍で活躍し、スター選手となります。昭和12年に後楽園球場が竣工すると、オールスター紅白試合では後楽園球場第1号のホームランを打ちます。昭和15年(1940)にベストナイン、昭和17年(1942)にMVPにそれぞれ選ばれ、主として三塁手として活躍します。
 当然のことながら、現役選手としては、選手生活の長かった水原の方が活躍しており、通算では、三原が92安打、0本塁打であるのに対して、水原は昭和11年から昭和17年までの7年間で476安打、12本という成績でした。
 日米開戦直前の昭和16年10月、三原は、30歳のとき、3度目の召集令状を受け陸軍曹長として善通寺第十一師団の司令部勤務となり、楯師団に配属されビルマ戦線へ赴きます。一方、水原も昭和17年のシーズン終了間際の9月、33歳のときに応召されて丸亀歩兵連隊に入隊し、満州へ出征します。二人の戦争体験は悲惨を極め、三原は多くの兵士が病死したビルマでのインパール作戦に従軍し、水原はソ連軍に連行されてシベリアで強制労働に就かされます。

 ビルマ・タイ国境で終戦を迎えた三原は、敗戦後1年近くも経てた昭和21年(1946)6月、九死に一生を得て帰国します。35歳のときです。その後、読売新聞の記者として勤務していましたが、再び野球の世界に復帰するチャンスが廻ってきます。翌昭和22年、請われて総監督の立場で巨人軍に復帰したのです。1年目のその年は5位に終わりましたが、2年目の昭和23年には2位となります。
 一方、水原は、昭和24年(1949)7月20日、40歳のとき、4年間のシベリア抑留生活の末ようやく帰国し巨人軍に合流します。出征から7年ぶりでした。そしてその4日後の24日、巨人対大映の試合前にホームベースのところで「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とマイクを握って報告し、ファンから大歓声を受けます。このとき、三原が花束を持って水原を迎え、二人は固い握手を交わします。
 戦前、水原は名プレイヤーとして多くのファンの人気を得ており、そのプレーを再び見たいという声が高まります。しかし、水原は既に現役選手としてプレーするには無理な年齢となっており、試合に勝つことを優先する三原が水原を起用することはありませんでした。そのような中、三原にとって3年目のこの年、巨人は2位に16ゲームという圧倒的な差をつけて優勝を果たします。
 ところが、巨人軍のチーム内から、「三原は水原に対し冷たい仕打ちをしている」という批判の声が出てきます。そして、その動きは、昭和24年のシーズン終了後、巨人選手たちが監督の三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「幻の連判状事件」に発展します。選手たちは、要求が聞き入れなければ巨人を退団して他球団に移籍するとの姿勢をほのめかしたといいます。慌てた球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、昭和25年、ついに水原が三原のあとを受けて巨人の監督に就任します。
 三原は球団から説得されて専任の「総監督」に就きますが、それは事実上の棚上げでした。水原はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督交代には否定的だったといいます。総監督に祭り上げられた三原に球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに新聞社で将棋や碁を打つ毎日だったといいます。第一線に立ち自己の考える野球をやりたいという三原にとっては、座敷牢に閉じこめられているような屈辱の日々でした。ちなみに、昭和25年は朝鮮戦争が始まったときで、翌昭和26年は日本がサンフランシスコ平和条約に調印してようやく占領統治から独立したときです。
 巨人を去ることを決意した三原は名前を修から脩に改名し、昭和25年のオフ、西鉄ライオンズの監督に就任します。そのときの心境を三原は、後に、「私は報復の思いを胸に秘めて関門海峡を渡った」と記しています。翌昭和26年、40歳のとき、初のキャンプで「我いつの日か中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」と第一声を発し、巨人総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓ったといわれています。

 一方、巨人軍の監督に就任した水原は、就任1年目の昭和25年(1950)こそ3位でしたが、昭和26・27・28年と3年間連続でリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たします。そして、その名声はますます高まり、球界の寵児となります。一方、三原西鉄は、昭和26年が2位、27年が3位、28年が4位と、なかなか成果が出ず、我慢の日々が続きます。ちなみに、昭和28年から野球のテレビ中継が始まります。
 こうした中、昭和29年、ついに転機が訪れます。忍耐のチームづくりにより地力をつけた三原西鉄は、チーム初のパリーグ優勝を果たします。この年、セリーグでは中日ドラゴンズが優勝し、水原巨人は2位に終わります。日本シリーズでは、三原西鉄は中日ドラゴンズと対戦しますが、3勝4敗で敗れ、日本一の座へはまだ一歩及びませんでした。

 昭和30年(1955)、水原巨人は2年ぶりにセリーグ優勝を果たします。しかし、三原西鉄はパリーグ2位にとどまります。水原巨人はさらに2年ぶりの日本シリーズ制覇も果たします。
 昭和31年、水原巨人は前年に引続いてセリーグ優勝し、三原西鉄も2年ぶりにパリーグ優勝を果たします。ついに、三原と水原は日本シリーズで闘うことになったのです。当時、この2人の闘いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、知将・三原vs勝負師・水原ともいわれました。そして、この闘いで、三原西鉄は4勝2敗で水原巨人を倒し、念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げます。ついに、三原は自分を追った巨人に対して、報復を果たしたのです。
 翌年の昭和32年も、三原西鉄と水原巨人は再度それぞれリーグ優勝を果たし、日本シリーズで対戦します。このときも、三原西鉄が水原巨人を打倒し、日本一に連続して輝きます。
 さらに翌年の昭和33年、三原西鉄と水原巨人は再々度それぞれリーグ優勝を果たし、3年連続、日本シリーズで対戦します。巨人には新人の長嶋が加わっていました。2年連続で三原西鉄に辛酸をなめさせられた水原巨人は初戦から3連勝し、日本中の者がとうとう水原巨人が三原西鉄の息の根を止めるときがやってきたと思いました。しかし第4戦以降、奇跡が起きたのです。西鉄はなんと稲尾和久が一人で4連投し、しかも4連勝したのです。まさに逆転の日本一で、三原の凄まじい執念が試合の流れを一気に変えたのではないかと思われました。この時稲尾が受けた称号が「神様・仏様・稲尾様」というものでした。ちなみに、この年の10月14日には東京タワーが完成しています。
 また、この頃の三原西鉄を打撃で支えたのが「怪童」といわれた中西太です。中西は、昭和8年4月11日に高松市で生まれ、高松市立第一高等学校に進み、昭和27年に西鉄に入団します。新人王を獲得し、翌昭和28年から31年にかけては4年連続で本塁打王に輝いています。ちなみに、三原の長女・敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父にあたります。
 昭和34年、パリーグでは鶴岡率いる南海(現ダイエー)が優勝し、三原西鉄は力を使い果たしたかのように4位に終わります。一方、水原巨人はセリーグ5連覇を果たし、セリーグの覇者としての地位を守ります。しかし、日本シリーズでは鶴岡南海に破れ、日本一の座に4度涙を呑みます。

 昭和34年(1959)のオフ、三原は、9年間在籍した西鉄を去り大洋監督に就任します。当時大洋は昭和29年から昭和34年まで6年連続最下位でした。いよいよ、水原と三原の二人が同じセリーグで闘うことになったのです。セリーグ覇者の地位を守ろうとする水原、これを攻め取ろうとする三原、二人はペナントレースで死闘を繰り広げます。
 昭和35年、三原大洋は開幕から6連敗を喫し、苦しい幕開けとなります。しかし、すぐさま選手起用が冴え渡り、水原巨人と激しく優勝を争います。そして、三原は「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合を33勝17敗で勝ち越し、ついに水原巨人を突き放して大洋球団史上初のリーグ優勝を果たします。水原巨人は2位に終わり、またしても三原に煮え湯を飲まされる結果となりました。
 この年の日本シリーズで、三原大洋は、「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズと対戦します。そして、1点差勝ちの4連勝を果たしセリーグから日本一に輝きます。前年度最下位からの日本一でした。両リーグから日本一を達成したのは三原が初めてでした。また監督として3球団での優勝はプロ野球史上初の快挙でした。この功績が評価され、三原はスポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞します。この賞は同郷の文豪菊池寛を記念して設けられたものでした。
 なお、三原大洋が日本一となったこの年、新人の近藤昭仁(あきひと)が日本シリーズMVPに輝いています。近藤は、昭和13年4月1日に高松市で生まれ、高松第一高等学校、早稲田大学を経て、昭和35年に三原大洋に入団していました。
 このときが三原の絶頂のときでした。一方、水原はセリーグ6連覇を達成できなかった責任を取り、昭和25年から昭和35年まで11年間務めた巨人軍監督を追われるような形で退任します。勝者が出れば、必ず一方に敗者が出るという勝負の世界の厳しい掟でした。なお、水原の後任は川上哲治です。

 しかし、野球の世界はまだまだ水原を必要としていました。水原は、請われて昭和36年から東映(現日本ハム)の監督に就任したのです。今度は水原がパリーグに移ったのです。そして、翌昭和37年(1962)、リーグ優勝を果たし、さらに阪神を破って日本シリーズを制覇します。水原自身にとって5度目の日本一でした。巨人を追われた水原が東映を育てて巨人に一矢を報いたのです。
 水原は、東映監督を昭和42年まで7年間務め、その後昭和44年から中日の監督を3年間務めます。昭和46年を最後に62歳で監督を退任します。
 一方、三原は、8年間務めた大洋監督を辞した後、昭和43年から3年間近鉄バッファローズの監督に就きますが優勝は出来ず、その後、昭和46年から3年間ヤクルトに移籍しますが、3年連続でBクラスのままに終わり、昭和48年を最後に62歳で監督を退任します。ちなみに、水原の中日監督最終日の第一試合の相手は終世のライバル・三原率いるヤクルトでした。

 通算成績は、水原が1586勝1123敗73分け、三原が1687勝1453敗108分けでした。
リーグ優勝は、水原が昭和26~34年(昭和27年を除く)の巨人優勝8回と昭和37年の東映優勝1回の計9回であるのに対して、三原が昭和24年の巨人優勝1回と昭和29~33年(昭和30年を除く)の西鉄優勝4回それに昭和35年の大洋優勝1回の計6回です。
 日本シリーズ優勝は、水原が昭和26~30年(昭和29年を除く)の巨人優勝4回と昭和37年の東映優勝1回の計5回であるのに対して、三原が昭和31~33年の西鉄優勝3回と昭和35年の大洋優勝1回の計4回です。
 水原は昭和52年に、三原はその6年後の昭和58年にそれぞれ野球殿堂入りを果たします。昭和57年3月26日、水原逝去、享年74歳。その2年後の昭和59年2月6日、三原逝去、享年72歳。
 水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルで、犬猿の仲とも評されましたが、ユニフォームを脱いだ後は交流があったといいます。水原は「三原は素晴らしいライバルだった。彼の先を見通す眼の確かさ、着眼点の素晴らしさには敬服した。」と、三原は「彼がいなかったら私の闘争心はあれほど燃えなかっただろう。そういう意味で感謝しなければならない。」と、それぞれ相手を称えたといいます。

  「讃岐国の風俗、気質弱く、邪智の人、百人に而(しか)して半分如(ごと)く斯(か)くなり。武士の風、別諂い(わけてへつらい)強く方便をもって立身をすべきなどと思う風儀の由(よし)、兼ねて聞き及ぶに不替形(ふたいけい)儀なり。」といわれるように、讃岐人は、利害にすばしこく、おべっかを使って出世しようという小利口で思慮の狭い「へらこい」県民性などと評され、昔から讃岐では大器が育たない風土ともいわれています。しかし、水原、三原の両監督は、このような讃岐人の典型から全く正反対の人で、自分の信念を、自分の実力でもって突き進んだ気骨のある讃岐男でした。
 高松市の中央公園には、水原と三原が並んで立っている像があります。その像を見ると、今まさに何かを二人が語ろうとしています。二人は永遠のライバルとして二人だけにしか分からない何かを語ろうとしているのでしょう。

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(134)“江戸時代初めに流行したパンクヘアのルーツは鬼十河”

 江戸時代、三代将軍徳川家光の頃、旗本小普請組の二男・三男の若者たちに、「十河額」という髪型が流行しました。それは前額から頭の中央にかけて月代(さかやき)を四角に大きく剃り込むもので、戦国時代の武将である十河一存(そごうかずまさ)がそのようなヘアスタイルしていました。十河一存は、「鬼十河」といわれた讃岐の猛将で、当時の若者たちがその武勇にあやかろうと真似をし始めたといわれています。
 徳川幕府も、三代将軍徳川家光の時代になると、戦乱も収束して安定期に入り、封建体制の確立により身分秩序も固定化されます。そして、武士の仕事も戦から幕府や藩を運営する行政的な事務に移っていき、武勇は無用の長物となっていきます。そうなると、下層武士の中でも特に家督を継げない次男以下の者たちは、いくら能力があっても、またいくら努力しても将来出世できるという見込みは全く無く、不平不満を蓄積させていきました。
 こうした封建社会から閉め出された下層武士や百姓の次男・三男、流民などの中から、派手で異様な身なりをして常軌を逸する目立った行動をする者が現れてきました。自分たちの不平不満を、武力により権力にぶつけるというほどの勇気は無いけれども、世間の耳目を自分たちに向けさせることにより発散しようということでしょう。当時、彼らは「傾者(かぶきもの)」と呼ばれました。
 こうした傾者は、徳川家直属の家臣である旗本の中にも現れます。下層の小普請組に属する不平分子には、幕府の直参であることを笠に着て、徒党を組んで町衆に乱暴・狼藉を働く者がいました。彼らは「旗本奴」と呼ばれ、上っ面だけの男伊達を競い、喧嘩と博打に明け暮れ、江戸市中を我が物顔で横行しました。その首領が悪名高い水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)です。彼ら「旗本奴」が好んだヘアスタイルが「十河額」だったといわれています。十河額は、今風でいえば、パンクヘアのようなものでしょう。
 そして「旗本奴」に対抗して争ったもう一方のアウトロー集団が「町奴(まちやっこ)」です。その親分である幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)と水野十郎左衛門との争いは芝居の題材にも使われ、よく知られた物語です。

 十河氏は神櫛王(かんぐしおう)の末裔といわれる植田氏の支族で、南北朝時代の初め頃から現在の高松市南部の山田辺りで勢力を伸ばし始めました。そのきっかけは、貞治元年(1362)、南朝方についた細川清氏が、勢力挽回のため讃岐の三木郡白山の麓に陣を構えて兵を募ったときの出来事だといわれています。清氏の呼びかけに、讃岐の諸豪族のうち、植田三郎景保の当時18歳であった末子・十河十郎吉保がまず応じ、次いで長兄の神内次郎景辰と次兄の三谷八郎景之が加わりました。このとき、清氏が、「十河は庶子であるが、惣領の挙動だ」といって、十河氏を植田一族の惣領に定めたということです。十河氏の家紋である檜扇は、このときに清氏から授けられた檜扇によるということです。清氏が細川頼之に敗れた後、十河氏は細川京兆家の被官となります。
 十河一存(そごうかずまさ)は、天文元年(1532)に、阿波の三好元長の四男として生まれます。通称を又四郎といい、讃岐の国人・十河景滋に子供が無かったのでその養子となり、後に一存と名を改め讃岐守と称しました。織田信長が生まれたのが天文3年(1534)ですから、信長と同世代といえるでしょう。
 阿波の三好氏は、甲斐源氏・小笠原長清を始祖とし、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗るようになったといわれています。室町幕府が開かれると、阿波は讃岐とともに細川氏の領国となり、三好氏は南北朝時代には宮方に組みしていましたが、やがて細川氏に下りその重臣となった家柄です。

 細川阿波守護家に仕えていた三好氏が頭角を現し始めたのは、細川京兆家の家督をめぐる永正の錯乱(永正4年(1507))が勃発したとき、一存の曽祖父に当たる三好之長(ゆきなが)が、管領細川政元の養子となった阿波守護家出身の細川澄元(すみもと)を支え、各地を転戦して活躍したときからです。之長の後は、その孫の三好元長が、澄元の子で幼君の細川晴元を支えて、ついには管領に擁立します。
 十河氏と三好氏との関係は、十河景滋が寒川元政と数年にわたる争いをしていたとき、大永6年(1526)に、三好元長が十河氏の求めで清水越えをして援軍に出向いたことに始まります。このとき、三好元長の軍勢は、阿讃国境の津柳(現在の三木町)で待ち伏せをしていた昼寝城主寒川元政にさんざん蹴散らされたといわれています。
 三好元長は、細川家中において随一の勢力となりますが、その台頭に脅威を感じた細川晴元が、三好一族で元長の台頭を妬んだ三好政長らの讒言を入れたため、元長は天文元年(1532)に自害に追い込まれます。
 一時は衰退した三好氏ですが、元長の後を継いだ三好長慶(ながよし、大永2年(1522)生)は、弟の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。大永7年(1527)生)、安宅冬康(享禄元年(1528)生)、十河一存の3人の弟と協力して、細川家中において父以上の勢力を築き上げていきます。ちなみに、長慶は、武田信玄(大永元年(1521)11月生)とほぼ同じ頃の生まれです。すぐ下の弟の義賢は阿波を治め、二番目の弟の冬康は淡路の安宅氏を継いで安宅水軍を率います。この三好四兄弟は、それぞれの本拠である阿波・淡路・讃岐を固め、三好長慶の京畿における活躍を支えます。

 十河一存は讃岐で国人の寒川氏と度々戦っていますが、あるとき、寒川氏の領内に攻め入ったときに、長尾の辺りで合戦となり、寒川軍の神内左衛門に槍で左腕を突き刺されます。一存は、太刀で槍を撃ち折り、左衛門を切り倒した後、負傷した傷口に塩を塗りこんで消毒し、その上から藤の蔓(かずら)をぐるぐる巻きにして血を止め、その治療が終ると、また何食わぬ顔して戦闘を続け、やがて勝利を得て、平然と帰陣していったといわれています。この時から一存は、「鬼十河」または「夜叉十河」と、その猛勇を世にうたわれることになりました。以後その瘢(あと)を見たものは無いといいます。一存は前髪をぜんぶ引き抜き、さらに月代を大きく広げて剃り上げた髪型をしており、多くの武士が真似たということです。これが「十河額」の起源です。しかし、実際には、一存は肌が弱かったらしく、長時間兜をかぶっていると、汗で蒸れて湿疹になってしまうので、それを防ぐための実用的な髪型だったようです。

 天文18年(1549)6月、一存の長兄・長慶は、細川晴元、三好政長(宗三)らに対する父・元長の復讐に立ち上がり、政長を摂津国江口において破ります。これを江口の戦いといい、一存は三人の兄たちを差置いて勲功第一の活躍をします。この一戦で三好氏は、畿内を制圧して入京を果たし、主家細川家を完全に凌ぐ勢力となります。細川晴元の政権は崩壊し、三好一族が名実ともに畿内の支配者となります。ちなみに、織田信長が父信秀の家督を継いだのが天文20年(1551)3月のことです。
 天文21年(1552)、長慶は、将軍足利義輝(よしてる)を京に迎え、将軍足利義輝-管領細川氏綱-三好長慶という体制に移行しますが、実権は長慶が握り、義輝も氏綱も傀儡に過ぎませんでした。また、この年、阿波にいた長慶の弟・義賢(実休)が主君細川持隆を討ち、実質的に阿波の国主の地位に就きます。
 一方、讃岐では、天文22年(1553)、三好義賢(実休)が、弟の十河一存に命じて東讃の安富盛方・寒川政国と、香川・阿野郡を領有する香西元政を服従させ、続いて、多度・三野・豊田郡を領する香川之景を服従させようとします。しかし、之景が応じないため、義賢(実休)は、永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵と寒川・安富・植田・香西氏の兵を率いて、9月25日善通寺に18,000の兵で布陣しました。香川氏は6,000の兵で天霧城に籠城し、城はなかなか落ちませんでした。しかし、結局、香川氏は降伏を余儀なくされ、讃岐は阿波三好氏の支配下に組み入れられます。なお、三好軍が善通寺から撤収するとき、火が出、堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。
 こうして阿波、淡路、讃岐の三国が三好氏の領国となり、細川氏の旧家臣も大半が三好氏に従い、三好氏は絶頂期迎えます。永禄3年(1560)には、一存は畠山高政を追って岸和田城主となっています。ちなみに、この年は桶狭間の戦いがあった年です。
 長慶は河内の飯盛城を本拠とし、長慶を中心とする三好四兄弟の勢力は、畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)や四国(阿波、讃岐、淡路)の9カ国(今の大阪府と、徳島、香川、奈良三県、さらに兵庫県南東部、京都府南部)と播磨、伊予、土佐の一部まで及びました。

 ところが三好四兄弟の布陣は早い時期に崩れていきます。一存は疱瘡を患って、療養のため有馬温泉へ向かいます。途中、松永久秀の見舞いを受けますが、このとき、一存が葦毛の馬に乗っているのを見て、久秀は「有馬権現様は葦毛の馬を嫌うから、別の馬に乗りかえられい」と忠告しました。一存は虫が好かない久秀の言うことなど聞かずに出かけ、落馬し、その傷がもとで永禄4年(1561)3月、若くして亡くなります。なお、松永久秀に暗殺されたという説もあります。ちなみに、この年の9月、山本勘助が討死した川中島の戦いが行われています。
 また、翌年の永禄5年(1562)には、次兄の三好義賢(実休)が戦死し、すぐ上の兄安宅冬康は松永久秀の讒言を信じた長慶によって誅殺されます
 永禄7年(1564)、三好家当主の長慶も亡くなります。長慶は安宅冬康の無実を後で知り、悔い悩みながら没したといいます。

 三好長慶が没すると、十河一存の実子で養子の義継が三好宗家を継ぎますが、若年のため家臣の三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と三好家執事の松永久秀が後見しますが、三好三人衆と松永久秀と対立するようになり、一進一退の争いを繰り広げます。このような状況のときの永禄11年(1568)、織田信長が怒濤の入洛をし、三好の勢力は畿内から追われていきます。
 長慶は、織田信長が永禄11年(1568)に上洛する前の天文18年(1549)から永禄7年(1564)の約15年間にわたって、都にあって天下に号令したことから、戦国時代初の天下人といわれます。

続きを読む

四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
03 ≪│2008/04│≫ 05
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。