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(133)“細川京兆家のお膝元だった讃岐”

 平成5年(1993)、初めて非自民党連立政権が成立しましたが、そのときの内閣総理大臣は、熊本県知事を務めた後、国政に出た細川護熙(もりひろ)氏で、その先祖が肥後熊本藩の藩主だということはよく知られた話です。肥後熊本藩主の直接の先祖は、戦国時代に活躍した細川藤孝(幽斎)という武将です。幽斎は、はじめ室町幕府最後の第15代将軍足利義昭に仕えましたが、のちに、長男の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉配下の部将として活躍しました。関ヶ原の合戦では徳川方につき、そのとき、明智光秀の娘で忠興の妻であるガラシャが西軍の人質になることを拒んで自害したという話は、よくテレビや映画の中で採り上げられています。戦後、忠興は、功により豊前小倉藩39万9千石を経て肥後熊本藩54万石を領し、明治維新に至りました。
 しかし、その祖はもっとさかのぼり、鎌倉時代に足利氏の庶流が三河国額田郡細川郷に住んだことから、地名にちなんで細川を称したことに始まります。そして、細川氏が日本史上主役を演じたのは、室町幕府において、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一家として権勢を振るったときです。細川一族は、南北朝の早期に、畿内及び東瀬戸内海沿岸を中心に8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めました。このとき、讃岐は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる細川氏嫡流家のお膝元だったところで、その重要な勢力基盤の地でした。今もその名残が讃岐には残されています。

 細川氏が室町幕府内で確固たる地位を築いたのは、細川頼之(よりゆき)の功労が大であったといわれています。頼之は、南朝方に走った従兄弟の細川清氏を讃岐の白峯合戦で破り、細川一門で随一の実力者となって幕府内で頭角を現していきます。そして、阿波・讃岐・土佐・伊予の守護職を兼任して四国管領と呼ばれ、讃岐の宇多津に本拠地を構えました。その後、京に上り、管領となって幼少の第2代将軍足利義満を補佐します。いったんは康暦の政変(天授5年/康暦元年(1379))で失脚しますが、復帰して管領となった弟で養子の頼元(よりもと)を幕府宿老として補佐し、明徳の乱では山名氏を破り丹波国を分国に加えます。
 頼之から細川氏惣領家の家督を継いだ頼元は、讃岐・丹波・土佐の守護職を継承するとともに、新たに摂津の守護職を得て、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国の守護職を兼帯し、従四位下右京大夫に任ぜられます。以後、頼之・頼元系の細川氏は、代々右京大夫の官途を踏襲し、右京大夫の唐名を京兆と呼ぶことから、京兆家と呼ばれました。京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国守護職を世襲し、幕府管領に任ぜられる家格でした。頼元のあと、京兆家の家督は、満元(みつもと)→持元(もちもと)→持之(もちゆき)→勝元→政元と受け継がれていきます。この中で最も有名な人物が、応仁の乱(1467―77年)のときの東軍の将であった細川勝元です。
 また、頼之の弟らを祖とする細川氏傍系は、阿波・淡路・和泉・備中4カ国の守護職を占め、それぞれ阿波守護家、淡路守護家、和泉上守護家、和泉下守護家、備中守護家として京兆家を支えます。中でも、阿波守護家は、頼之からその弟の頼有を経て、さらにその弟の詮春の子・義之に伝えられ、その系統に継がれていきます。京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波守護家は下屋形あるいは阿波屋形と呼ばれ、庶流家の中では京兆家に次ぐ高い家格を有していました。なお、頼之が持っていた伊予守護職は、康暦の政変以後、河野氏に復帰しています。
 こうして細川一族は、畿内及び東瀬戸内海沿岸8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)において、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成し、頼之から政元に至るまでの約150年間、室町幕府内で最大の勢力を持つ守護大名としての地位を保ち続け、その権勢は勝元と政元の代になって絶頂期を迎えます。この間、讃岐は、頼之以来の京兆家直轄地だったところで、京兆家の勢力を支えたるための戦略上の要衝でした。これは讃岐を押さえれば瀬戸内海の海上交通権を掌握できたことによると考えられます。そして、京兆家の讃岐経営の中心都市だったところが宇多津でした。宇多津の港には、京と讃岐を往来する多くの船が出入りしていたと思われます。

 京兆家は幕府の管領となる家柄であったため、その当主である讃岐守護本人は常に在京しており、讃岐には被官からなる守護代が置かれました。応永年間(1394~1428)初頭から讃岐では、安富氏、香川氏がそれぞれ東と西を半ばずつ担当するという両守護代制がとられ、安富氏は本城を雨滝城に置き、香川氏は多度津本台山に居館を構え、天霧城を詰城としました。しかし、安富氏・香川氏も京兆家の重臣であったため在京することが多く、讃岐には一族の中から又守護代が置かれました。この2氏のほか、安富氏の所領には香西氏、十河氏、寒川氏という有力な国人がいました。
 これらの讃岐武士は、直参として京兆家家臣団の中核を構成し、京へ上がり、京兆家に近侍して内衆や奉行人としてその家政に参加して活躍しました。特に香西氏は応永21年(1414)から永享3年(1431)まで、京兆家の被官として丹波守護代を務めています。応仁の乱のときの勝元側東軍の主力戦力も讃岐武士で、安富・香西・奈良・香川氏は細川四天王と呼ばれました。当時、讃岐武士は、京兆家の権威を背景に、京において大きな勢力を張っていました。

 しかし、隆盛を誇った京兆家も、勝元のあとを継いで京兆家の当主となった政元の代から家督をめぐって内紛が始まり、急速にその勢力を低下させていきます。明応2年(1493)4月、政元は対立していた将軍・足利義稙(よしたね)を追放して新たに足利義澄(よしずみ)を将軍とします。そして将軍職を傀儡化し、幕府の実権を掌握して「半将軍」とまで呼ばれる専制体制を確立します。ところが、修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなく、関白九条家から澄之(すみゆき)、阿波守護家から澄元(すみもと)、京兆家庶流から高国の3人の養子を迎えます。その後、この3人がそれぞれの被官や諸勢力と結びつき、京兆家の家督をめぐって争いを起こし、細川一族とその家臣団を内紛の渦に巻き込んでいきました。
 最初に、澄之派と澄元派の対立が表面化します。澄之には香西元長ら讃岐武士が、澄元には三好之長(ゆきなが)ら阿波武士がそれぞれ後ろ盾となります。永正3年(1506)、澄元が之長に擁されて阿波から上洛すると、政元は京兆家の分国であった丹波を澄之に、摂津を澄元にそれぞれ分割継承させますが、これに反発した澄之派の香西元長と摂津守護代薬師寺長忠は、永正4(1507)年6月、政元が湯殿で行水をしているところに刺客を差し向けて殺害し、澄之を京兆家の家督に擁立します。政元の死によって、頼之・頼元系統の京兆家はここに断絶します。これに反撃した澄元派は、細川高国らの支援をえて澄之と香西元長、安富元治、香川満景ら在京の讃岐武士を倒し、澄元を京兆家の家督に据えます。
 これにより京においては、澄之派に属した讃岐武士の勢力が一掃され、澄元派に属した阿波の三好之長が澄元の後見人として勢力を伸ばします。一方、讃岐が京兆家の本拠地だったという時代も政元の死によって終焉を迎え、その支配を脱した讃岐各地の国人・土豪たちによる群雄割拠の様相となっていきました。そして、この讃岐国内の混乱に乗じて阿波の三好の勢力が讃岐に及んでくることになります。

 その後も京兆家の家督争いは続き、永正5年(1508)、周防の大内義興が前将軍足利義稙を擁して上洛すると、高国は澄元派から離反して大内義興と結び、将軍足利義澄並びに管領細川澄元とその家臣三好之長を京から追い落とします。将軍に復帰した義稙のもと、高国は京兆家の家督を継承して管領に任じられ、大内義興らと連合政権を立ち上げます。しかし、京兆家の家督争いはこれに止まらず、高国と阿波に雌伏した澄元との争いは、将軍家の家督争いも巻き込んでその後も続きます。これを永正の錯乱、両細川の乱といい、政元が暗殺されて25年目の天文元年(1532)に、澄元と之長の遺志を継いだ細川晴元(澄元の子)と三好元長(之長の孫)が、摂津天王寺の戦いで高国を打ち破り、切腹させることによってようやく収束します。この合戦を大物(だいもつ)崩れといい、その後、阿波細川家から出た細川晴元が京兆家の家督を継ぎます。
 しかし、今度は、晴元とその家臣の三好元長との対立が始まります。両細川の乱の間、阿波から出た細川氏を支えたのは三好氏の軍事力であり、三好氏の勢力が細川氏を凌ぐようになっていたからです。天文元年(1532)、晴元は、元長の台頭を妬んだ三好一族の三好政長らの讒言を入れ、一向一揆と結んで元長を自害に追い込みます。そして、義晴を傀儡将軍とし管領となって幕政を執ります。その間、元長の子・三好長慶は父を晴元に討たれたものの、失地を回復してその家臣として頭角を現していきます。
 天文11年(1543年)、高国の養子・細川氏綱が挙兵したことにより、細川家の内紛が再燃します。初めは晴元側にたっていた長慶ですが、父が晴元によって自殺に追い込まれたことを知り、氏綱側に寝返ります。天文18年(1549年)、晴元と三好政長は摂津江口の戦いでに長慶に敗れ、政長は討ち死し、晴元は前将軍義晴と将軍義輝父子と共に近江に逃亡します。
 以後、細川氏綱を擁立した三好長慶が京都に入り、事実上畿内は長慶の制圧下に入ります。天文21年(1552)、長慶は将軍義輝(よしてる)を京都に迎え入れ、氏綱に京兆家の家督を継がせ、管領職に補任され、ここにおいて、永正4年(1507)の細川政元の暗殺に端を発した約45年間にわたる争いはようやく収束します。しかし、この争いにより、将軍家と京兆家は全くその権威を失墜し、傀儡化されます。以後、幕政の実権は長慶が掌握し、実体は三好政権というものでした。晴元はその後も復権を策して長慶との争いを続けますが、ついに政権に返り咲くことはなく、永禄6年(1563)に病死します。
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁立して怒濤の入洛を果たし、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の嫡子・細川昭元は信長に属しその妹婿となり名を信良と改めます。しかし、もはや政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなく、家運が回復することはありませんでした。その後、昭元の嫡子・細川元勝(頼範)は豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣の後、讃岐に隠棲したとも、常陸宍戸藩の秋田氏に仕えたともいわれています。
 一方、細川氏傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、初めは足利義昭の側近としてその将軍職就任に奔走していましたが、後には息子の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで徳川側につき、江戸時代を迎えることになります。

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(132)“ため池密度日本一の讃岐平野”

 香川県議会の3階フロア壁には、人工衛星から撮影された香川県の大きな写真が掲示されています。その形は南の讃岐山脈を底辺にして北の瀬戸内海に向かって扇を開いたような半円形をしており、南から北に讃岐平野が広がっています。さらにそれを見ると、平野部には虫食いの穴のようなものが大小無数見られます。じつはこの虫食い穴のように見えるものはため池なのです。
 香川県には、満濃太郎と呼ばれる日本最大のため池である満濃池以下、神内次郎の神内池、三谷三郎の三谷池、奈良須四郎の奈良須池を始め大小様々なため池が約14,600箇所あります。その数は全国の中で第1位の兵庫県(約44,200箇所)、第2位の広島県(約21,000箇所)に次いで第3位です。しかし、ため池の数を県土面積で割った「ため池密度」からみると、香川県が全国の中で第1位、大阪府が第2位、兵庫県が第3位、広島県が第4位となっています。

 讃岐は気候が温暖で、山間部に比べて平野部の占める割合が高いことから、日本列島の中でも早い時期から開墾が進められ、古代には我が国の重要な穀倉地帯になっていたものと思われます。古事記によると、讃岐は飯依比古命(いいよりひこのみこと)の国で、飯(米)が美味しい国とされています。平安時代に書かれた「和名抄」によると、10世紀初期頃すでに讃岐の耕地面積は18,646町(約18,493ヘクタール)とあり、これは南海道では最も広く、現在の香川県の水田面積約29,500ヘクタールの約63%にも及んでいました。現在でも県土総面積に占める農地面積の割合は、全国平均が12.7%、中四国平均が8.4%であるのに対して、香川県が18.2%と飛びぬけて高くなっています。
 しかし、かなり早い時代から開墾が進んだ讃岐平野では、農地の増加にともない農業用水の確保が問題となっていきました。通常、水田に安定的な水量を供給していくためには、川の上流部に耕地面積の10倍ほどの森林面積が必要だといわれています。ところが、讃岐は森林面積が総面積の半分程度しかなく、しかも年間降雨量が日本平均の6割程度という日本でも有数の少雨地域に属しています。このため讃岐では、土地の開墾と並行して、灌漑事業が古くから行われ、大小多くのため池が築かれてきました。飛鳥時代の大宝年間(701~704年)に讃岐の国司である道守朝臣(みちもりあそん)によって満濃池が築かれ、その後、空海が改築したというのはよく知られた話です。

 江戸時代に入ると、新田の開発や二毛作の普及により、新たな農業用水を確保する必要が生じてきました。一毛作の場合には冬期も田に水を残すため田自体が貯水池のような役割を果たしますが、二毛作の場合には冬期に水が貯められないため翌年の田植期に必要な水が増えました。
 17世紀前半頃の江戸時代前期、生駒藩の西嶋八兵衛は、満濃池の改修を手がけたほか、90以上のため池を築きます。また、生駒藩の領地を引き継いだ初代高松藩主・松平頼重も400以上のため池を築きます。この工事に携わったのは矢延平六(やのべへいろく)だといわれています。それ以後も江戸時代、讃岐ではため池造りが積極的に行われました。ちなみに、現在の香川県のため池の大半は江戸時代以降に造られたものです。こうして、幕末の讃岐には、少なくとも6,500以上のため池があったとされています。

 また、江戸時代、「水ブニ」、「香の水(こうみず)」などといった水の配分をめぐる讃岐独特の水利慣行が次第に形成されていきました。
  「ブニ」とは歩合、割合を表す讃岐の方言で、「水ブニ」とは一枚の水田ごとに用水を使用できる固有の持ち分という意味です。これは、同一のため池から複数の水田が水を引いている場合、各水田はそれぞれ水量が割り当てられ、「水台帳」、「水割帳」といった水ブニの台帳を持っていました。
 この決められた取水の分量の時間配分によるものが、「香の水」、「線香水」、「香箱」などと呼ばれる取り決めです。香の水・線香水は、引水する時間を線香が燃える長さで計るという取り決めで、台帳には線香の本数や長さを記していました。また、香箱は、箱に入れた灰に溝を刻み、その中に抹香を入れて抹香が燃えている間のみ水田に水を引くという取り決めでした。
 しかし、多くのため池が造られても、讃岐平野全体でみれば、使える水に余裕ができたわけではなく、常に旱魃の不安がついて回りました。このため、讃岐では江戸時代の中期以降、旱魃に強く、しかもより商品価値の高いサトウキビや綿といった作物の栽培が奨励され、盛んに栽培されるようになっていきます。また、温暖で少雨の気候条件を活かし、塩の生産も盛んになり、これらは、次第に“讃岐三白”と呼ばれる特産品となり、米とならぶ讃岐の財政基盤となっていきました。

 ところが明治に入ると、外国の砂糖や綿が大量に安く輸入されるようになり、讃岐の砂糖と綿は一気に衰退していきます。このため、サトウキビ畑、綿畑を水田へ切り替えることが急務となり、新たな水を確保するため、ため池の築造が行われます。以後、大正、昭和と時代が進んでも、数年に一度は起こる大規模な旱魃をきっかけにため池の築造や改修が進められました。大正13年の大旱魃を契機に造られた豊稔池(昭和5年竣工)、昭和9年の旱魃後に造られた門入池と小川下池、昭和14年の大旱魃後に計画され戦後の食料増産政策によって造られた長柄ダムと内場ダム(昭和28年竣工)などです。
 中でも、観音寺市大野原町田野々の高尾山の麓にある豊稔池は、マルチプル・アーチ式(多供扶壁式(たきょうふへきしき))という当時の最新理論を適用したわが国の農用ため池では前例のない近代的なものでした。当時、鉄筋コンクリートは普及し始めたばかりで土堰堤がまだ主流でしたが、このため池は、6つの扶壁(ふへき)(補助壁)を持つ粗石モルタル積堰堤で川の上流の谷間を堰き止めるというダム形式が採られました。木々の間から見える高さ300メートル余の石堰堤は、まるで風雪にさらされヨーロッパの古城を思わせる偉容です。

 このような努力にもかかわらず、県内で利用できる水の絶対量は限界に達しようとしていました。こうして、昭和49年、全く水系の異なる吉野川から導水した香川用水、全長108kmというわが国屈指の大用水が誕生することになりました。
 しかし、香川用水の完成によりため池が不要になったわけではなく、現在でも、香川県では農業用水に占めるため池の依存率は50パーセントを超え、これは全国平均の10パーセント弱を大きく上回っています。また、ため池は、洪水の調節や地下水の涵養の機能も果たしており、魚、昆虫、鳥などの生息地ともなっています。さらに、讃岐の田園風景に欠くことのできないものとなっており、ため池にまつわる伝承・祭りなども多く残されています。ため池は讃岐の人間が、古代からその叡知と労力をかけて築きあげた貴重な社会資本といえるでしょう。

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(131)“讃岐に残る平家落人伝説”

 現在の三豊市高瀬町羽方に鎮座する大水上神社(おおみなかみじんじゃ)は、讃岐二宮と称される古社です。ちなみに讃岐一宮は高松の田村神社です。大水上神社の境内左手には、四社宮という平教盛(のりもり)、平経盛(つねもり)、平資盛(すけもり)、平有盛(ありもり)の四人を祀る小祠があります。教盛と経盛は平清盛の弟、資盛と有盛は清盛の孫にあたり、関門海峡での壇ノ浦の戦いの敗戦の中でともに海中に身を投じて果てたといわれています。
 元暦元年(1184)2月15日の屋島合戦の前、大水上神社は平家から戦勝の祈願を受けましたが、その効なく平家は滅亡してしまい、その後、神社に災いが続いたそうです。これは平家の祟りだろうということで、それを鎮めるために四社宮が営まれたといわれています。おもしろいことに、同年の2月25日、大水上神社は源氏からも戦勝祈願を受けています。
 現在の東かがわ市大内町水主に鎮座する水主神社(みずしじんじゃ)も、屋島合戦の前に、源氏と平氏の両方から戦勝祈願を受けたといわれています。平教経(のりつね)が大雁股を奉納し、また、源義経が大坂越えをして屋島へ向かう途中、鞍を奉納したといわれています。平教経は、平清盛の弟にあたる平教盛の次男で平国盛の別名です。平家随一の猛将として名高く、数々の合戦において武勲を上げたといわれています。

 源氏と平氏の両方から戦勝祈願を受けた神様は、結局、源氏に軍配をあげ、元暦2年(1185)2月19日、平氏一族は屋島の戦いで源氏に敗れ、生き残った者たちは散り散りに逃げて行きました。徳島県の祖谷地方には平氏の落人が逃れてきたという伝承が残っていますが、それによると、平国盛は、屋島の合戦に敗れた後、安徳天皇を奉じ、手勢を率いて陸路東に逃れ、現在の大内町の水主村にしばらく潜伏した後、讃岐山脈の大山を越えて吉野川をさかのぼり、奥深い祖谷山に入ったといいます。讃岐にも平家の落人が隠れ住んでいたという伝説が残っています。

 観音寺市大野原町には五郷ダムがありますが、そのダムの中ほどに架かる「有盛橋」を東に500メートルほど行くと、有木(ありき)という集落があります。ここには、関門海峡での壇ノ浦の戦いで亡くなったとされている平有盛(ありもり)が落ち延びてきたという伝承が残っています。平有盛は清盛の息子・重盛の四男で、小松少将と呼ばれた武将です。有盛はしばらく有木に留まっていましたが、愛用の小烏丸(こがらすまる)という太刀をこの地に残し、もっと奥深い祖谷へ移り住んだといわれています。安土桃山時代の慶長の頃、この太刀を生駒一正が高松へ持ち帰ったところ、いろいろ怪奇があったため有木に返したという話も伝えられています。
 今でも有木には「えかた」という所があるそうですが、これは有盛が住んでいたという「やかた」が訛ってそのように呼ばれるようになったといいます。また、宝屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷、烏帽子屋敷、神子谷(巫女谷)、王塚、鞍掛松、高旗など平家にまつわる地名や、平岡、平口、平野という平家にちなむ姓があるといいます。
 また、有木の里では、戦後しばらくまで、源氏の旗が白旗だから、鶏やウサギなど白い家畜は飼わず、衣類や祭りの幟も白いものは避けて色物を使っていたとか、有盛が小黍(こきび)の畑で討死したといわれることから里人は決して小黍を作らなかったなど独特な風習や伝統が残っていたそうです。

 まんのう町琴南美合の土器川をさかのぼった竜王山の標高650m前後の山腹には、横畑という集落があります。ここには、源平屋島合戦で敗れた平国盛ら数十騎が、阿波の祖谷へ落ち延びる途中、平寿盛の一族数人が住み着いたという伝承が残っています。平寿盛は清盛の息子・知盛(とももり)の三男だといわれています。
 横畑という地名は、平家の軍旗を横に倒して農民になったから「横旗」すなわち横畑になったといわれています。横畑集落の下方の入口には木戸、尾根越えの寒風峠には物見櫓があり、見張りの人が住んでいた「キビジリ屋敷」という屋敷跡が残っているそうです。また、今でも十数基の墓が現存し、墓碑に平寿盛の孫であると刻されている墓も残っているそうです。

 三木町西鹿庭の竹尾にも平家の落人が隠れ住んだという伝承があります。屋島合戦のとき、筒井日向守孫兵衛という武将が、平宗盛の命を受けて、源義経の軍が阿波から讃岐山脈の清水峠を越えて進撃してくるのに備えていました。ところが義経は北方の海岸沿いに丹生・石田・白山・高田を越えて屋島を背後から攻撃してきました。逃げ遅れた日向守は家来を連れて山中に分け入り、途中で一人の狩人に匿われて竹尾の山里に逃れたということです。今も竹尾には、日向守の屋敷跡や、日向守を祀るという日向大明神が残っているといいます。

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(130)“藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”

 香川県の西部に高瀬川という川があり、その流域に三野津平野という北が海への出口となり三方を山で囲まれた小さな田園地帯があります。ここは、その大半が17世紀後半の江戸時代前期に干拓され、室町時代以前には山裾近くまで海だったところです。今でも、この辺りには、浅津・砂押(大見)、西浜・東浜(下高瀬)、津ノ前・汐木(吉津という当時海岸だった頃の地名が残っています。
 この三野津平野の南の山麓に宗吉(むねよし、三豊市三野町吉津宗吉)というところがあり、古くからこの付近では、「ここでお大師さんが瓦を焼いた」との言い伝えが残っていました。近所の古老には幼い頃、赤茶けた窯(かま)の一部が露出していたところの中で遊んだという人もいたそうです。この瓦窯(がよう)の本格的な調査が始まったのは、平成2年の農道工事に伴う発掘調査からです。その調査により遺構が確認され、複弁八葉蓮華文軒丸瓦、変形偏向忍冬唐草文軒平瓦などが出土し、奈良国立文化財研究所で照合した結果、藤原京で使用された瓦と同一であることが確認されました。平成8年9月10日には、藤原京へ瓦を供給した瓦窯跡として国史跡に指定されています。

 現在の奈良市が平城京として日本の都であった期間は、一時中断はあるものの、和銅3年(710)から延暦3年(784)に長岡京に遷都されるまでの約70余年間です。この平城京の前の都が現在の奈良県橿原市にあったといわれる藤原京です。ここでは、持統・文武・元明の3天皇が居住し、16年間、日本の都として天皇や貴族中心のおおらかな白鳳文化(はくほうぶんか)が華咲きました。
 藤原京は、持統天皇の御代の持統4年(690)に着工されて同8年(694)に完成し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)から遷都されました。持統天皇は、天智天皇の娘で、夫は天智天皇の弟である天武天皇すなわち自分の叔父にあたります。夫がまだ大海人皇子と称していた頃に起きた壬申の乱(じんしんのらん)では終始行動を共にし、天武天皇が亡くなった後、子の草壁皇子が皇位を継承するよう目論んだものの、皇子が急逝したため孫の軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして自ら天皇に即位しました。ちなみに、天智天応は大化の改新(645)のときの中大兄皇子です。なお、藤原京という名称は後世の人がそう呼んだもので、日本書紀には、京が「新益京(しんやくのみやこ、しんやくきょう)」、宮が「藤原宮」と書かれています。

 藤原京は、日本で最初の条坊制(じょうぼうせい)が布かれた本格的な中国風都城だといわれています。条坊制とは、中国の都に似せ、東西の道を条路、南北を坊路という碁盤目状に道路を走らせる町割(まちわり)をいいます。その大きさは北に耳成山(みみなしやま)、西に畝傍山(うねびやま)、東に天香具山(あまのかぐやま)の大和三山を内に含む5.3km四方で、面積は少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぐ古代最大の規模だったと考えられています。
 都の中心やや北寄りには、ほぼ1km四方の内裏・官衙のある藤原宮が配置され、大極殿などの建物の周囲はおよそ5mほどの高さの塀で囲まれ、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。
 また、藤原京は日本で初めて中心建物を瓦葺きに統一した都でした。瓦は仏教と共に百済から日本に伝来し、飛鳥時代では、瓦葺きの許された建物は寺院のみでした。寺院以外で初めて瓦が使用されたのが藤原京だといわれており、大極殿・朝堂院・大垣の全てが瓦葺きとされました。その規模からするとこれらに必要な屋根瓦の数は200万枚とも推計され、藤原京の造営には極めて限られた期間での膨大な量の瓦生産が必要でした。
 これまでの出土例によると、藤原京のすぐ近くの日高山瓦窯(ひだかやまがよう)や久米寺瓦窯(くめじがよう)、奈良盆地緑辺部の安養寺瓦窯(あんようじがよう、平群町)、西田中瓦窯・内山瓦窯(大和郡山市)や高台・峰寺瓦窯(こうだい・みねでらがよう、御所市)で瓦が製造され運ばれています。さらに、これらの瓦窯でも需要に追いつかず、古墳時代以来の大窯業地帯であった陶邑窯(すえむらよう)を含む和泉国(大阪)や近江国(滋賀)の瓦窯で造られた瓦が補充されたものと考えられています。当時の軒瓦は1枚で10kgを超える重さがあることから、藤原宮のすぐ近くを除き、これらの地は水運に便利な地が選ばれたものと考えられます。

 藤原京に用いられた瓦の生産地としては最も遠く、しかも大規模なものが現在の三豊市三野町にある「宗吉瓦窯(むねよしがよう)」です。畿内以外で藤原京に用いられた瓦が出土しているのはここだけです。
 宗吉瓦窯跡は、現在までに、山麓の傾斜面をトンネル状にくりぬいた窖(あな)窯と呼ばれる構造の23三基の瓦窯跡と工房跡と見られる掘っ建て柱建物跡の一部が確認されており、この23基の窯跡は当時の瓦窯としては全国最大規模のものです。また、そのうち17号窯(17番目に確認した窯跡)は全長が13メートルあり全国最長のものです。したがって、宗吉瓦窯跡は日本国内で最大級規模の瓦窯跡といえます。
 7世紀末、大和から遠く離れた西讃岐の地が都の造営のための瓦生産地として選ばれた理由の一つは、水運の便だと考えられます。宗吉瓦窯跡の地は、現在は海から離れていますが、当時はすぐ近くまで古三野湾が迫っており、重い瓦を瀬戸内海を通じて船で運ぶことが可能でした。
 二つ目は、讃岐には、藤原京造営以前に、すでに造瓦技術を持った工人がかなりいたのではないかということです。讃岐では飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(三豊市豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。藤原京造営以前までは、屋根を瓦で葺くのは寺院だけで、その造営には瓦造りの工人が不可欠でした。実際、藤原京造営以前に宗吉瓦窯から讃岐の地元の寺院に瓦が供給されていたことが明らかにされています。
 三つ目は、短期間に大量の瓦を製造するためには、既存の造瓦工人だけでは追いつかず、その他多数の工人をかり出して瓦の生産にあたる必要があったと思われますが、宗吉瓦窯付近の現在の三豊市三野町大見、下高瀬から、高瀬町上高瀬にかけての火上山麓などの地域では、7世紀から8世紀の初めにかけて、須恵器作りが盛んだったといわれており、その人たちが瓦作りに従事したのではないかと考えられます。

 宗吉瓦窯の存在から、讃岐は藤原京が造営される頃には、すでに大和朝廷と深い結びつきがあり、瀬戸内海を通じて頻繁に飛鳥地方と行き来があったのではないかと考えられます。また、讃岐は古代、仏教文化の先進地であり、当時の先端技術を持つ工人が多数居たのではないかと考えられます。瀬戸内海は中国大陸・朝鮮半島と大和を結ぶ交通ルートに当たることから、大和の西手前に位置する讃岐は、古代、先端の文化や技術がいち早くもたらされたのではないでしょうか。
 ちなみに、空海が讃岐で生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日で、藤原京の完成より80年後のことです。「ここでお大師さんが瓦を焼いた」という言い伝えよりも歴史的事実の年代の方が古いというのはおもしろいことです。

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(番外4) 多 度 津 物 語 ―香川近代産業発祥の地の栄枯盛衰―

●プロローグ
 香川県の西部に位置し、瀬戸内海に面するところに多度津という人口23,744人・世帯数9,142世帯(平成20年1月1日現在)の町があります。この町は明治23年(1890)2月15日に町制が施行されており、もう町になってから100年以上経つ古い町です。このとき、香川県では、市になったのが高松市、町になったのが多度津町のほか丸亀町、坂出町、多度津町、琴平町、観音寺町です。現在、多度津と琴平を除いて、すべて市になっていますので、多度津は琴平と並ぶ香川県で最も古い町といえます。
 多度津は古い面影を残す静かな町で、多度津町以外で住んでいる人が、今、多度津と聞けば、少林寺拳法を想い浮かべる人が多いでしょう。確かに現在の多度津で全国的にも知られているものといえば、少林寺拳法をおいて他にあまりないでしょう。しかし、長い多度津の歴史からすればそれは一こまであり、他にも多くの興味深い場所や物語が多度津には残されています。主なものといえば、77番札所道隆寺、海岸寺、細川四天王の一人香川氏の城下町、金毘羅参詣船、多度津陣屋と湛浦、北前船、鉄道や電力の発祥地、桃陵公園と一太郎やあい、工機部などです。
 瀬戸内海は古代から奈良・京都・大坂と九州あるいは朝鮮半島・中国大陸とを結ぶ交通路であったことから、その沿岸には古くから多くの港―古代・中世においては“津”、近世においては“湊”といわれた―ができ、そこに人が集まり町が形成されてきました。これらの港町は、その地理的条件やその地域の文化・物産などの特性に応じてそれぞれユニークな発展を遂げ、独特の雰囲気を持った町になっています。
 多度津の町もこのような瀬戸内の港町の一つですが、他の町には無い歴史的意義を持っています。それは一言でいうと、「香川近代産業発祥の地」ではないかと思われます。わが国が幕藩体制から脱し、近代国家の道を歩み始める明治の文明開化の時代、多度津の町では、鉄道・道路・港湾という近代的交通インフラの整備が香川県内の他の地域に先駆けて着手されました。また、金融業・電力産業という20世紀の代表的な産業も香川県内の他の地域に先駆けて生まれています。かつて、多度津は冨とパイオニア精神に満ち、近代産業へ挑戦していくエネルギッシュな町だったのです。
 しかし、今では、多度津に住む人間でも、このことを忘れかけようとしています。なぜ、明治期、多度津において先進的な取組みに向けた動きが生まれたのでしょうか。また、それはどうして衰退していったのでしょうか。町を散策しながら多度津の歴史を垣間見、このような疑問について考えてみましょう。

 一 鎌倉時代以前

 一般的に平安時代までを古代といいますが、多度津の古代の物語は、現在の白方地区、堀江地区に残っています。鎌倉時代以前は、現在の多度津町の行政区域でいうと、市街地地区は開けたところではなく、白方地区と堀江地区に有力な豪族が住んでいたのではないかと思われます。現在の市街地地区が開けてくるのは室町時代以降です。
 多度津の古代の地形がどのようになっていたか明らかではありませんが、多度津山の北山麓まで海になっていて、桜川下流は現在よりも深く入江が南に入り込み、河口は干潟や砂州になっていたものと思われます。
 多度津の名の由来は、多度郡という郡名に港を意味する津の字が合わさったもので、多度郡の津すなわち港があったところだといわれています。古代、現在の多度津町と善通寺市あたりの地域が多度郡と呼ばれていました。「多度」というのは、良い田があるという「田所」とも、多くの人々が渡る意味だともいわれています。古代、多度の津がどこにあったのかは定かでありませんが、桜川の榜立(かいたて)八幡神社の付近や西水戸(にしみと)の地名のある明徳会図書館から町役場付近、あるいは堀江付近の入江ではないかと考えられています。
● 神功皇后にまつわる神社
 多度津に残る神話時代の物語としては、神功皇后の伝説があります。日本書紀には、仲哀天皇の后である神功皇后が、天皇が急死した後、住吉大神の神託により、お腹に子供を宿したまま海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅を降服させて朝貢を誓わせ、高句麗・百済も朝貢を約したという物語が記されています。これがいわゆる三韓征伐の伝説で、そのお腹の中の子が後の応神天皇です。
 多度津には神功皇后の三韓征伐にまつわる伝承と神社があります。それによると、神功皇后は、三韓征伐の帰途、風波の難を避けるため、現在の西白方に立ち寄って青木(おうぎ)北山付近を宿地としました。そして、出発に際して幟(のぼり)、熊手を港の近くに留め置いたうえ、榜(かい)を立てて、出船したといいます。幟は旗で、熊手は武器として用いられた鎌のことです。皇后が榜を立てて出発したところが桜川の畔にある榜立(かいたて)八幡神社(MAP)で、幟と熊手を村人が祀ったのが現在の西白方に鎮座する熊手八幡宮(MAP)だといわれています。その祭神は神功皇后と応神天皇です。真偽のほどは分かりませんが、多度津が古くから瀬戸内海航路の寄港地になっていたことをよく物語っている伝承といえるでしょう。
 なお、この神社に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。

● 巨大な勾玉が出土した古墳
 白方の弘田川と天霧山北尾根下の間に、盛土山(もりつちやま)古墳という円墳があります。この古墳は「千人塚」、「かんす塚」とも呼ばれ、大正4年(1914)に、ここから四神四獣鏡(しじんしじゅうきょう)、長さ7㎝の硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)、瑠璃勾玉(るりまがたま)、銅鈴、碧玉管玉(へきぎょくくだま)、玻璃小玉(はりこだま)、琺瑯丸玉(ほうろうまるたま)、瑪瑙丸玉、小玉、金環、刀などが出土しています。全国的にも類例を見ない逸品だといわれており、現在、東京博物館で保管されています。古代、白方には有力な豪族が住んでいたと思われます。

● 古代豪族和気氏の氏寺
 多度津には、四国八十八寺の一つがあります。現在の堀江港の南にある道隆寺(どうりゅうじ)(MAP)という寺です。この寺は、号を桑多山明王院道隆寺といい、四国霊場第77番札所となっています。
 その創建は古く、奈良時代末の天平勝宝元年(749)の頃まで遡るといわれています。当時、多度津は和気氏という豪族の支配する地で、かつて、この寺の付近は一大桑園だったといいます。この桑園の中で、和気道隆が自分を育ててくれた乳母を怪物と見誤って弓で射殺する、という事件が起きます。道隆はそのことを大いに悔やみ、乳母の供養のために桑の大樹を切って薬師如来の小像を作り、それを小堂を建てて中に安置しました。それが道隆寺の始まりで、弘法大師空海が薬師の大像を作り、道隆公の小像をその胸の中に納めて本尊としたといわれています。
 その後、道隆の子孫である二代住職朝祐が弘法大師より授戒を受けて、和気氏の田園財宝のすべてを注ぎ込んで薬師堂をはじめとする七堂伽藍を建立し、和気道隆の名をとって寺名を道隆寺としたということです。以降、この寺は和気氏の氏寺として現在に至っています。
 空海が生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日だといわれていますから、年代の順番だけから考えるとこの話は辻褄が合っています。乳母射殺事件の真偽はともかく、和気道隆という人物が存在し、その名をとって寺名としたのは事実のように思われ、善通寺も、空海が佐伯善通(よしみち)という自分の父の名をとってつけたといわれています。
 道隆寺境内の北東隅には、妙見社(みょうけんしゃ)という社があります。ここでは毎年3月7・8日に星供養が行われています。

● 空海にまつわる寺
 多度津の南にある善通寺の正式の名称は「屏風ヶ浦五岳山善通寺誕生院」といい、そこが弘法大師空海の生誕地だというのが通説的見解です。しかし、多度津の西白方の海岸寺(MAP)のある辺りも屏風ヶ浦と呼ばれ、空海の母である玉依御前の里だったといわれています。玉依御前がこの地に産屋を設けて空海を出産し、その後空海がこの産屋跡に聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺の始まりといわれており、奥の院には産湯の井というものが残っています。海岸寺は、四国八十八ヵ所の別格18番札所です。
 司馬遼太郎は、「空海の風景」の中で、「空海がうまれたのは、善通寺からはずっと海岸のほうの、いま海岸寺といわれる寺の所在地がそうだともいわれているが、出産のとき海岸に産屋でも設けられたのがそういう伝承になったのかもしれない」と書いています。
 また、海岸寺より東に行ったところに仏母院(MAP)という寺がありますが、この寺は玉依御前の屋敷跡に建てられたものだといわれており、境内の近くには、大師のヘソの緒を埋めた胞衣塚や、大師が子供のころ泥で仏像を作って遊んだという童塚が残っています。なお、この寺は「八幡山三角寺」といい、かつては三角屋敷・御住屋敷と呼ばれ、すぐ西にある熊手八幡宮の別当寺でした。明治時代までは熊手八幡宮にあった五重石塔がこの寺にはあり、石塔には「嘉暦元年丙寅、施入八幡」という文字が刻まれています。「嘉暦元年」は鎌倉時代末期の1326年のことで、この辺りの古さを垣間見ることができます。
 また、現在の海岸寺橋より、少し上に十四橋(そよつはし)(MAP)、という石橋が弘田川に架っていますが、この橋は、空海が海岸寺で勉強していた幼い頃、毎月14日に必ずこの石橋を渡って、仏母院のそばに住む母のところへ行ったり、また熊手八幡に参ったりしていたといわれています。そこで、空海が毎月14日に必ず通られることから後にこの石橋を十四日橋というようになったそうです

● 京都賀茂神社の荘園
 現在の南鴨地区に加茂神社(MAP)という古い神社があります。南鴨・北鴨の地は、古代、多度郡葛原(かずはら)庄といわれた地域の一部で、平安時代の寛治4年(1090)、白河上皇が京都の賀茂上・下社に寄進した不輸田(ふゆでん)600余町の一部だと考えられています。そして、この寄進で南鴨・北鴨の地が京都賀茂神社の荘園となったことにより、この地に京都の賀茂神社の祭神が勧請(かんじょう)され、加茂神社になったと考えられています。
 この神社には、京都賀茂神社の蔵本を基に鎌倉時代の寛喜4年(1232)頃に書写されたという大般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)経600巻が所蔵されています。この経には、「校了弁慶」という記載があることから、源義経が多度津沖で嵐に遭ったときの無事を感謝して、奉納したものだという話が伝わっています。しかし、義経が平泉で亡くなったのは文治5年(1189)とされており、この伝承は辻褄が合わないようです。

二 室町時代から安土・桃山時代まで

 鎌倉時代から室町時代を概ね中世といいますが、この時代、讃岐の政治・文化の中心は守護所の置かれた宇多津でした。現在の高松市街や丸亀市街はまだ寒村にすぎませんでした。

● 細川四天王の一人香川氏
 室町時代、多度津は、豊臣秀吉の四国支配が及ぶまでの約250年間、香川氏の城下町として西讃岐支配の拠点となります。
 室町時代の初めの南北朝時代、細川頼之(よりゆき)が讃岐に入り、以後讃岐は細川京兆家の支配する地となります。このとき香川氏は頼之にしたがって讃岐に来たといわれています。香川氏は相模国の香川郷―そこは現在の神奈川県茅ヶ崎市郊外だといわれていますが―出身の関東武士で、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の子孫だといわれています。
 貞治元年(1362)、今の坂出の林田で、北朝方の細川頼之は南朝方に走った従兄弟の細川清氏(きようじ)と戦い勝利します。これを白峰合戦といいますが、この戦で香川景則(かげのり)は戦功をあげます。そして、その功により頼之から多度、三野、豊田の西讃三郡を与えられ、多度津の本台山(ほんだいさん)に居館、天霧山に詰めの城を築きます。なお、香川氏が入る前の西讃岐は、詫間氏の支配下にありました。
 細川頼之は室町幕府三代将軍足利義満の管領になった人物で、宇多津を拠点に守護として讃岐を支配しました。なお、義満は厳島参詣をした際、宇多津に立ち寄っており、厳島からの帰路には風波を避けるため多度津の今の堀江の弘浜辺りに上陸し、今津、津ノ森など経て宇多津に到着したといわれています。
 のち、香川氏は細川氏より西讃岐の守護代とされ、応仁の乱のときには、東軍の大将である細川勝元の重臣として京で活躍し、安富氏、香西氏、奈良氏と並び細川四天王といわれました。この乱のとき、香川氏が率いる西讃岐の武士団は、多度津の港から京に向けて出陣していたのかもしれません。なお、安富氏は東讃岐の守護代とされ津田の雨滝城を拠点とし、香西氏は香西の勝賀山城、奈良氏は宇多津の聖通寺城を拠点としていました。

● 香川氏の城下町
 本台山というのは、現在桃陵公園となっている多度津山のことです。桃陵公園東丘にある子供遊園地の一郭が物見台の跡で、石垣の残留が東側に残っています。香川氏居館の跡は、これより下方の丘の麓辺りではないかと考えられています。この辺りには、今も法輪寺、宝性寺、宝寿院、光厳寺、薬師寺と寺が密集していますが、これは香川氏の居館跡であったことと何らかの関係があるのかもしれません。なお、江戸時代に書かれた西讃府誌によると、多度津の地一帯を「硯岡」といい、南に善通寺五岳山の一つ「筆ノ山」があることから、多度津、丸亀の海をすべて「筆ノ海」というとあります。
香川氏がこの地に居館を築いた理由は、推測ですが、多度津の地理的位置と地形に関係があるのではないかと推測されます。
 まず地理的位置ですが、多度津は三野郡・豊田郡との連絡もよく、塩飽諸島とも近く、古くから瀬戸内海交通の要所の一つでした。また、近くに詰めの城を築くのに適した天霧山があります。この山は標高が360mあり、上から西讃岐の四方を見渡すことができ、古代には白方軍団の砦が築かれたともいわれ、西讃岐支配の要衝でした。このような地理的位置から香川氏は多度津を西讃岐支配の拠点としたのではないかと思われます。
 次に地形ですが、多度津山と桜川、そして海の存在が居館を築くのに都合が良い地形だったのではないかと考えられます。桜川の本流は多度津山の南西の麓が源流で、そこから多度津山の南山裾に沿って東に向かって流れ、県道善通寺・多度津腺桜川橋辺りのところで流れの向きを北に変え、そこから豊津橋の少し北のところで今度は流れの向きを西に変え、さらに、そこから金比羅神社の辺りで流れを北向きに変えて海に注いでいます。しかし、多度津で海の埋立てが行われるようになったのは、江戸時代後期にあたる天保5年の湛浦(たんほ)築造のときからで、香川氏が居館を築いた頃は、海岸線が現在よりも南に大きく後退していたと思われます。これは仮説ですが、この頃は、多度津山北面の山裾までが波打ち際になっており現在の東浜町と西浜町辺りはまだ海だったと思われ、桜川は、現在は金比羅神社の辺りで流れの向きを西から北へほぼ直角に変えていますが、当時は真っ直ぐ西に向かって大きく河口を広げて流れ、この河口が港として利用されていたのではないかと推測されます。とすると、現在、桃陵公園の登り口の右手に厳島神社がありますが、この神社が見下ろす位置に桜川の河口港があったのではないでしょうか。そして、この神社は桜川河口港を守るために宮島の厳島神社から分詞されたものではないでしょうか。当時の港の位置をこのように考えると、香川氏が巨館を置いた場所は、そこからすぐ南の場所であり、港に隣接する水運の便がよいところだったということになります。また、その場所は、西側が多度津山で守られ、南側と東側は桜川が自然の掘となり、北側は海となっている非常に防御に適した地だったということになります。
 香川氏が本台城を築いたことから、その周りには家臣や職人・商人が集まり、城下町が形成されていったと思われます。門前・角屋・寺町・六軒町・鍛冶屋町(現在の仲ノ町付近)・田町などは、この本台城の城下町としてできたのではないかと考えられています。門前は居館の門があったところ、鍛冶屋町は鍛冶職が住んだところで、三野、豊田両郡から呼び寄せられて住んだものと思われます。こうして多度津は香川氏の城下町として西讃岐における政治・文化の中心地となっていきました。
 なお、多度津の多門院には西谷藤兵衛という武士夫妻の肖像と墓と伝えられる石塔が残っていますが、西谷氏は現在の三豊市豊中町の岡本周辺を支配した香川氏の家臣です。

● 香川氏の滅亡
 戦国時代の永禄元年(1558)、阿波の三好実休が阿波と東讃岐の連合軍を善通寺に布陣し、天霧城の香川之景(ゆきかげ)を攻め、之景はこの城に籠城して戦います。このとき、善通寺は三好の兵火にあい、堂塔のほとんどが灰燼に帰したといいます。
 その後、之景は織田信長に従い、信長の一字を賜わり信景と改めます。しかし、天正6年(1578)、讃岐に侵攻してきた土佐の長宗我部元親の軍門に下り、元親の息子を養子に迎え入れます。このとき、城を包囲した長宗我部軍に対して、城内に白米をまいて水に見せかけてあざむいたという白米城伝説が残されています。
 しかし、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐により元親が降伏すると、香川氏は長宗我部氏とともに土佐に退き、本台城も天霧城も廃城となります。
天霧城は、峻険な自然を巧みに利用しており、千早城(ちはやじょう)とならぶ中世を代表する貴重な山岳城跡といわれています。今も「天守台跡」、「砦跡」、「切通(きりとうし)」、「井戸」、「馬道(うまみち)」、「犬返し(いぬがえし)」などの城の遺構が残っています。南麓の採石事業のため築城以来の山容が崩されているのは残念なことです。

● 生駒時代
 四国が豊臣秀吉の勢力下に入ると、仙石秀久(せんごくひでひさ)、次いで尾藤知宣(びとうとものぶ)が秀吉から讃岐を与えられ領主として入ってきます。しかし、いずれも九州の島津攻略の失敗によって讃岐を没収され、その支配は短命に終わります。その後を受けて、天正15年(1587)、生駒親正(いこまちかまさ)が秀吉から讃岐を与えられて入ってきます。これ以降、讃岐の近世が本格的に始まります。親正は、讃岐全体に目が行き届くように高松城を主城、西讃岐の支配のために丸亀城を支城として築き、高松城に自ら入り、丸亀城に息子の一正(かずまさ)を配します。
 それまでの中世の時代、讃岐で城下町として人家が集まり町並みが形成されていたところは、鎌倉時代以来の讃岐の守護所が置かれていた宇多津と、東では香西氏の居館である佐料城のあった現在の高松市香西地区、西では香川氏の居館である本台城のあった多度津でした。これら讃岐の中世の城が築かれた場所は、いずれも西側に山、東側に川があり、すぐ近くに港があるという地形的特徴を有しているように考えられます。これに対して、高松城と丸亀城が築かれた地は、いずれも見通しの良い平地で、それまで全く領主権力の中心となったことのないところでした。生駒氏がこのような地に築城したのは、在地的旧勢力からの影響を受けずに領主権力を確立したかったためと思われます。 以後、この両地が讃岐の二大城下町として発展していきます。
 香川氏が去ってから後、多度津の城下は、元禄7年(1694)に京極高通が丸亀から分封されて多度津藩が成立するまでの約110年間、荒廃していたものと思われます。

三 江戸時代

● 多度津京極藩
 生駒氏は三代将軍家光の時代に改易されて讃岐を去ります。その後、讃岐は東西に分割され、東讃岐が高松松平藩、西讃岐が丸亀山崎藩となります。しかし、山崎藩の時代は短く、その後に京極氏が入ります。
 そして、五代将軍綱吉の時代の元禄7年(1694)、丸亀藩二代目藩主の京極高豊のとき、その子の高通が1万石を与えられて分家したことにより多度津藩が成立します。その所領は、多度郡のうち、多度津郷(多度津・道福寺村)、庄村郷(庄村・三井村・堀江村・東白方村・青木村)、山階郷(山階村)、白方郷(奥白方村・西白方村)、鴨郷(南鴨村・北鴨村・新町村・葛原村)、吉原郷吉原村のうち(碑殿村)の15ヵ村と、三野郡のうち、大見郷(大見村・松崎村)、高瀬郷下高瀬村のうち(原村)、神田郷(神田村)財田郷(上之村)の5ヵ村の多度津町全域及び善通寺市と三豊市(三野・詫間・高瀬・財田)のそれぞれ一部です。それは、現在の多度津町と善通寺市の一部及び財田、三野、高瀬、詫間町の一部にあたります。
 京極高通が丸亀から分封されて多度津藩が成立するに及んで、多度津は再び城下町としての活気を取り戻していきます。しかし、多度津藩が成立したといっても、多度津藩主は丸亀城内の西御屋敷というところに居住し、主な藩士もここで勤務していました。
 高通以後、多度津藩は高慶・高文・高賢・高琢・高典と明治維新まで176年間続きます。

● 京極家のルーツは近江源氏
 京極家は、近江源氏(宇多源氏)の名で知られる佐佐木氏で、宇多天皇の第八皇子・敦実親王を祖とします。滋賀県蒲生郡安土町に沙沙貴神社(ささきじんじゃ)という神社がありますが、ここは古くから沙沙貴郷あるいは佐佐木庄と称された地で、佐佐木家、京極家、黒田家、六角家、三井家など宇多源氏・佐佐木氏の発祥の地です。丸亀京極家の四ッ目結いの家紋もこの神社からきているそうです。
 佐々木氏は源平の戦いで活躍し、佐々木高綱が宇治川の合戦で先陣争いをした話がよく知られています。鎌倉時代には評定衆を歴任し、北近江を領有しますが、京都の京極に居住したことから京極を名乗るようになりました。
 京極氏からは、南北朝時代、佐々木道誉(どうよ)―佐々木高氏、京極高氏ともいい、出家後の名が「道誉」―が出、足利尊氏・義詮(よしあきら)・義満の室町幕府三代将軍に仕えて活躍し、山名・一色・赤松の諸氏と並んで四職の一つに数えられるほどになります。道誉は世間の人をあっと驚かせるようなスケールの大きい、奇抜なことをやった人で、「婆娑羅(ばさら)大名」としてよく知られています。「婆娑羅」という言葉は、梵語(ぼんご)(サンスクリット語)からきた仏教語で、「金剛」を意味し、金剛石がすべてを打ち砕くことから既存の常識や道徳を踏みにじる行為をいいます。このことから、当時、それまでの常識を打ち破って新しい価値観を築こうとした大名のことを「婆娑羅大名」と呼んだということです。丸亀市では、平成12年(2000年)から、「まるがめ婆娑羅まつり」が夏のイベントとして催されていますが、これは京極家が佐々木道誉の子孫であることにちなんだものです。
 戦国時代に入ると京極家もやがて衰退に向かい、一時は領地を失います。その後、豊臣秀吉の時代の文禄4年(1595年)、京極高次(たかつぐ)が大津城主となって6万石を領し京極家を再興します。さして戦功もない高次が出世したのは、姉が秀吉の側室として寵愛を受けていたためで、女性の「尻の光」で出世したということから、「ほたる大名」と陰口をたたかれたそうです。しかし、高次は浅井三姉妹(淀殿・初・小督)の次女お初を娶り、豊臣氏と徳川氏の閨閥に連なります。関が原の戦いの時には徳川方につき、大津城に籠城して豊臣方の大軍を釘付けにし、この功績により家康より若狭小浜8万5千石を与えられます。
 そして、その子忠高は徳川秀忠の娘を娶り、松江藩26万4千石を与えられて所領を拡大します。しかし忠高が急死し、跡継ぎのいない状態となってしまいます。これは忠高が徳川の出である正妻に遠慮して庶子を跡継ぎとして幕府に届け出なかったためであるとも言われています。幕府も一度は法度どおりに家名断絶にしましたが、名門京極家の絶えることを惜しんで、忠高の甥である高和に京極家を相続させることを許し、播磨龍野に6万石を与え、次に、万治元年(1658年)、山崎氏の後の丸亀6万石へ移封しました。讃岐では豊臣秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏の治世が四代54年間で終わり、東讃岐には松平氏、西讃岐には山崎氏が入っていましたが、山崎氏には跡継ぎがいなかったためその治世はわずか三代17年で終わっていました。
 その後、元禄7年(1694)に、丸亀藩から1万石を分けて支藩として多度津藩を設けたということです。これは、一度御家断絶の憂き目にあった京極家がお家安泰のためにとった安全策だったのではないかともいわれています。以後、讃岐では、明治維新まで、高松藩、丸亀藩と多度津藩の3藩体制が続きます。なお、多度津京極家の家紋は四角い四ッ目を中心から90度回転させた菱四つ目定紋が用いられ、その図案が今日の多度津町章になっています。
 こうして西讃岐に落ち着いた京極家ですが、先祖の地である近江に深い愛着の念を抱いていたのでしょう。丸亀藩2代藩主京極高豊(たかとよ)は、元禄元年(1688)に池泉回遊式大名庭園である中津に万象園を築造し、園内に近江の琵琶湖をかたどった池泉とそこに近江八景になぞらえた島々を造っています。また、丸亀第6代藩主京極高朗(たかあきら)は、天保年間に消失した沙沙貴神社の社殿を弘化5年(1848年)に再建しています。
 滋賀県米原市に清滝寺徳源院(きよたきでらとくげんいん)という寺がありますが、この寺は歴代京極家当主の墓所となっており、丸亀藩主は初代高和、2代高豊、3代高或、4代高矩、5代高中、多度津藩主は初代高通、2代高慶、3代高文、4代高賢の墓が整然と並んでいます。なお、佐々木道誉(どうよ)の墓も5代目当主としてその列の中に並んでいます。丸亀市南條町の玄要寺と東京麻布の光林寺にも多度津藩主の墓があります。

● 丸亀と並ぶ金毘羅参詣船の寄港地
 江戸時代は金毘羅信仰が全国に広まっていった時代で、中期以降になると、参詣者を運ぶ海上交通路が発達していき、多度津湊は、丸亀湊とともに、金毘羅参詣船の寄港地となります。安永3年(1774)の金毘羅会式には、多度津湊に187艘が入港し、人数は5452人であったといいます。丸亀湊には大坂など東からやって来る船が多かったのに対して、多度津湊には九州、中国、北陸方面からの船が多かったようです。
 この頃の多度津湊は、北に向かって海に開けたL字形をした桜川の河口が船溜まりとして利用されていました。これは、仮説ですが、おそらく中世の時代においては、真っ直ぐ西に向かって大きく河口を広げて流れ、現在の桃陵公園登り口の東側辺りが湊になっていたのではないかと思われますが、河口が海と川から流されてきた土砂の堆積によって次第に陸地化し、それによって河口も次第に北に向きを変え、この頃には工事も加えられて現在の金刀比羅神社の辺りで流れの向きを西から北へほぼ直角に変えていたものと推測されます。桜川の河口を船溜まりとして利用したことから、現在の大通りと東浜の間を結ぶ橋は架けられていませんでした。ちなみに、現在の金比羅橋は、明治21年から架けられたものです。
 天保9年(1838)に完成した新湛浦に対して、この桜川の河口港を古港といい、新湛浦ができるまでは金毘羅船もこの古港に停泊していました。古港であった当時の桜川河口は現在よりも川幅が広く、桜川沿いの仲ノ町5番10号~東浜1・4・5番辺りは、明治21年から22年にかけて埋め立てられたものです。現在も仲ノ町には蔵やえびす神社が残り、当時の古港の名残をみることができます。
 この古港からの人や荷物の出入りにより、町並みも現在の大通りの金比羅橋から極楽橋にかけての古港南岸(現在の仲ノ町)にできていきます。現在の大通りには金刀比羅神社がありますが、この神社は古港の出入り口に位置しており、かつて古港に金毘羅船が出入りしていた名残です。(ただし、当時の金刀比羅神社は現在の大通りの位置にあり、明治23年(1890)の四国新道の開通により現在の位置に移転したものです。)天保2年(1831)の土屋長治写とある江戸時代の絵図が当時の多度津湊の姿をよく表しています。
 多度津へ上陸した人は、船着場から、門前町から鶴橋を渡り、南へ三井、筆岡、永井、大麻の各茶堂を経て金毘羅高薮(こうやぶ)町に入る金毘羅街道を駕や馬、または歩いて行きました。なお、この鶴橋付近には一の鳥居が立っていました。
 江戸時代の相撲取りで有名な雷電為右衛門は、寛政6年(1794)に古港に上陸し、金毘羅参りをしたといわれています。現在桃陵公園の登り口にある鳥居は、一の鳥居を移設したものですが、この鳥居の奉納者の中に雷電為右衛門の名が見られることから、雷電鳥居と呼ばれています。
 “やじ・きた道中”で知られる「東海道中膝栗毛」の作者である十返舎一九は、金毘羅にも参詣しており、善通寺、弥谷にも遊歴しています。そのときの印象を、「秀異勝景の地多くして、その感情今に想像するに堪えず。」と記しています。この体験をネタに、一九は「東海道中膝栗毛」の続編として「金毘羅参詣続膝栗毛(こんぴらさんけいぞくひざくりげ)」を文化7年(1810)に出しています。この中には、やじさん、きたさんの二人が多度津に立ち寄った物語が書かれています。
 大坂から金毘羅船に乗り込んだやじさん、きたさんは、丸亀に渡り、金毘羅参りをします。帰路、弥谷山の麓の茶屋で止宿し、翌日、「弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持(ぐもんじ)の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠うち越えて、屏風ヶ浦というに降り立つ。」「それより弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂を過ぎて十四津橋(そよつばし)を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。」この「十四津橋」というのは、西白方の弘田川にかけられた橋のことだと思われ、「屏風ヶ浦」、「弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂」というのは海岸寺のことだと考えられます。一九は多度津に来ていたのかもしれません。

● 多度津陣屋の建設―城の無い城下町
 多度津藩は独立の藩とはいえ、初代高通から第三代までの藩主は丸亀城郭内に屋敷を構えて居住し、多度津には重臣をおいて藩政を任せるという中途半端な治世でした。このような本藩である丸亀藩の制約を受けがちな状態から脱却し、多度津藩独自の決定を行うことができるようにするため、第四代藩主京極高賢(たかかた)は、家臣の建議を受け入れ、多度津に陣屋を建設することを決断します。陣屋とは、城の築造を許されない大名の屋敷で、防御の備えはあるものの天守閣や大規模な櫓・掘・城壁を持たないもののことです。
 江戸時代後期第11代将軍徳川家斉の時代の文政9年(1826)、多度津藩は陣屋の建設に着手します。建設工事の責任者は、林直記(なおき)というまだ19歳の家老でした。陣屋の敷地となったのは、桜川の北側右岸で、北が海、南と西が桜川に面し、堀江を付け根に西に半島のように延びる砂州でした。この地を陣屋の建設地としたのは、三方を水域で囲まれていることから防御に適した地形であることに加え、直接陣屋から海に船出することができたためだと思われます。多度津陣屋は水城といえます。
 この頃の多度津の人家の広がりは、まだ桜川左岸と多度津山の東山裾に囲まれた地域の中だけに限られ、桜川の東側右岸は田圃となっており、北側右岸は墓場だったといわれています。人家のあるところから北側右岸へ行くには極楽橋という橋を渡る必要がありました。ちなみに、それを渡らないことにはお墓へ行けないことからその名がついたといわれています。陣屋は、明治21年に金比羅橋が架けられるまでは一般の商人や職人の住む町屋と切り離されていました。また、桜川の東側右岸に建物が建ち始めるのは、大正2年に現在のJR多度津駅のところに国鉄多度津駅が新築移転してから以降のことです。
 莫大な資金と多くの労力を費やして完成した陣屋に高賢が入ったのは文政12年(1829)6月のことでした。多度津藩は創設以来150年にして、ようやく独立した陣屋を持つことができたのです。明治維新が1868年のことですから、その約40年前のことです。
 この陣屋は東側に大手門を配し、そこを入ったところに蓮堀という人工堀を南北に掘削して東の防御としていました。東西約700m、南北約200mにわたる地域を占め、その中に居館、倉庫、営門、皷楼、学館、馬場、射場などもある立派なものでした。しかし、城下町であっても城はありませんでした。西讃辺りでは、絶壁頭の人を“多度津の殿さん”といいますが、これは“うしろ(後ろ)が無い”をしゃれて、“しろ(城)が無い”をからかったものです。
 この陣屋のあったところは、現在国鉄多度津工場の周辺、須賀町、家中(かちゅう)にわたる広い地域で、今の山本医院辺りに本陣、工場附近一帯に調練場、須賀町に御藏(ごくら)などがありました。現在「お東御殿」と呼ばれる一帯の地には、重臣、家臣達の居宅が建ち並び、家中の天神宮の裏手一帯には射弓・馬場がありました。そして、今の極楽橋の元詰めには、明治の初年までは多度津藩の黒門があって、門番がいかめしく控え、夕刻後は通行手形が必要であったと伝えられています。家中には、現在でも一見行き止まりを思わせる道路や威厳のある門構えの家など武家屋敷の名残があります。現在町立資料館となっている建物は旧多度津藩士浅見氏の屋敷です。資料館から道を挟んで斜め向かいが東御殿と呼ばれた家老林氏の屋敷あったところです。
 なお、宇多津町の西光寺の境内には、江戸末期に多度津藩が建造した藩主の御座船である日吉丸の屋形が残っています。多度津藩の財政窮乏の折り、明治の初めに寺が購入・移築し、船屋形茶室と利用しているものです。また、瀬戸内海歴史民俗資料館には多度津藩小早船絵図があります。
陣屋の建設により、多度津の町は一度に建築ラッシュを迎え、周辺の村々から大工・左官・石工・鍛冶など大勢の職人が集まってきたようです。また材木など建築資材の取引が盛況となって商人も増えていったようです。これにともなって一般の消費も増加して城下は活気を呈していきました。今日でいう、公共事業による地域経済の活性化ということでしょう。

● 多度津湛浦の築造―多度津一万石の挑戦
 多度津藩は、陣屋ができてから約5年後、今後は湛浦(たんほ)の築造に着手します。湛浦とは港のことです。江戸時代も後期になると、桜川の港は金毘羅参詣船や北前船の出入りで手狭になり、問屋衆の間からは新湛甫築造の要望がおこっていました。こうした背景の下、陣屋が設けられたことにより、藩士たちと領内の庄屋、商人との意思疎通が図られ、藩一体となって―現代風にいえば、官民一体ということでしょう―湛浦の築造計画に取り組みます。資金調達は講銀という形で、領内三井組15ヵ村にわたっておこなわれました。
 新湛浦の建設に着手したのは、天保4年(1833)、第五代藩主高琢(たかてる)のときです。水野忠邦による江戸幕府の政治改革である天保の改革が行われたのが天保12年(1841)から天保14年(1843)にかけてのことですから、その少し前のことです。
 この工事は、桜川河口の西側の海岸を埋め立てて新たに東突堤と、多度津山が海に迫る嶽下から海中へ西突堤を築き、その先端の間に防波堤を設け、その両端を2つの港門とするものでした。その規模は、東突堤119間(約216.3メートル)、西突堤74間(約134.5メートル)、中央突堤(一文字突堤)120間(約218.2メートル)で、いずれも堤幅3間半(約6.4メートル)の防波堤です。港内の水域面積は106間(約529平方メートル)、満潮時水深2丈3尺(約6.9メートル)という大きなもので、約5か年の歳月と9,500両に余る大金が投じられ、天保9年(1838)に完成しました。明治維新の29年前のことです。築造工事は難渋をきわめ、全国から優秀な石工を集めたといいます。なお、湛浦が完成したとき、一文字突堤の西端近くに、因島廻船方から寄進された大きな石燈籠が、港入口を挟んで2基立てられました。ちなみに、この石燈籠は昭和23年に壊されて行方不明になっているそうです。
 この頃、多度津湛浦より先の天保4年に完成していた丸亀湊の新掘湛浦は、その規模が東西80間(約145.4メートル)、南北40間(約72.7メートル)、入口15間(27.3メートル)、満潮時水深1丈6尺(4.8メートル)、工期が1年余り、工費が約2,000両であり、これと比べると多度津湛浦がいかに大きかったかが分かります。この湛浦の築造によって、多度津の港は丸亀の新掘湛浦より大きくて水深が深いため、大型船の出入りができるようになり、瀬戸内海屈指の良港となります。
 当時の多度津湛浦の様子は、弘化4年(1847)に刊行された暁鐘成の「金比羅参詣名所図会」に描かれています。多度津湛浦は明治以降の港湾整備により徐々にその姿を変えますが、昭和38年頃まではほぼ原型が維持されていました。しかし、昭和45年から着手された臨海土地造成事業により現在は全く姿を消し、今では図面でかつての姿を想像するほかありません。現在の位置でいうと、港内南側の海岸線は、東端が多度津商工会議所西南裏の交差点、西端が嶽下手前にある「屏風ヶ浦への道標」で、その間を東西に走る県道多度津港線に当たります。今も多度津商工会議所西南裏の交差点のすこし西南にえびす神社がありますが、それは東端の海岸にあったものです。東突堤は、東浜郵便局より少し北までが突出た陸地となっており、そこから海に延びていました。西突堤は、嶽下手前にある「屏風ヶ浦への道標」と浜街道の間にある細い路地に沿って海に延びていました。今も残る多度津湛浦の跡は、魚市場・青果市場がある東浜12・13番の北側護岸として用いられている天保時代に築かれた旧一文字突堤の石積だけです。

● 林良斎と大塩平八郎
 多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大坂の大塩平八郎が多度津の林良斎(りょうさい)を訪れています。平八郎は、江戸時代末期、貧民救済をかかげ幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力(よりき)です。号を中斎と称します。林良斎は、陣屋建設の工事の指揮をしていた多度津藩家老の林直記で、号を良斎といいます。
 林良斎は文化5年(1808)、多度津京極藩の家老の家に生れました。平八郎より14歳年下です。また自明軒とも称していました。良斎は父の後を受けて多度津藩の家老となり、陣屋建設工事を指揮して日常の家老職とあわせて多忙な激務に取り組みます。陣屋完成後の天保4年(1833)、26歳のとき、良斎は甥の三左衛門に家督を譲り、次いで天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎について洗心洞で陽明学を研究します。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦は完成していませんので、平八郎は、古港に上陸したものと思われます。良斎は「中斎に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。
 「先生は壯(良斎のこと)をたずねて海を渡って草深い屋敷にまで訪問しました。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきます。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないと憂慮します。このとき、じっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて壯の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がりました。」
 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。しかし、この頃には、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達していました。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行いますが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと決意し、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政の刷新を期して、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起しました。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられたため、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
 良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。また、39歳の秋にはかねてからの念願であった読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。その塾は弘浜(ひろはま)書院と名付けられ、藩の多くの子弟がそこで学び、彼らは明治に入ってからも活躍しました。良斎は陽明学者としては、本県初の人だと言われており、後に幕末陽明学の四儒と称されました。平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。田町の勝林寺(しょうりんじ)には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされており、林良斎が大塩平八郎から譲られ、その後、良斎から富井泰藏(たいぞう)に譲られたものと考えられます。
 また、奥白方の山あいには、江戸時代末期の慶応3年に、多度津京極藩の家老だった林求馬が、外国の軍艦の攻撃があったときの殿様の安全な避難場所として建てた屋敷が残っています。林求馬は良斎の養子である三左衛門です。この林求馬邸内には堀江にあった「弘浜書院」が復元されています。ここには、「自明軒」という扁額(横に長い額)が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、あるいは帰国にさいして、平八郎が揮号(きごう)(書画を書くこと)したものといわれています。

● 北前船で賑わった多度津
 湛甫の完成により、さらに多くの金毘羅参詣客が多度津に上陸するようになります。また多度津は北前船(きたまえぶね)の寄港地となり、瀬戸内海屈指の港町として発展していくことになります。城に代わる湛浦の築造が、明治に続く多度津繁栄の基礎になったということです。
 北前船とは、北国や東北、蝦夷地と瀬戸内海や大坂を結んだ廻船をいいますが、そのルートは大坂から瀬戸内海を経て赤間関(関門海峡)を回り日本海を北上し、東北、北海道へと向かう和船でした。港から港へ移動して諸国の産物をあちらこちらへ運びながら売買するので危険性はありましたが、相場の地域格差を利用して一攫千金の利益を得ることができました。ちなみに江戸時代の主役となって日本沿岸をくまなく回っていたのがベザイ(弁財)造りの大和型帆船です。北前船は江戸時代中期に発生し、明治時代の30年代まで続いたといわれています。
 湛甫完成後、多度津は北前船の中継地となります。多度津の港で讃岐三白の砂糖や塩、綿を積み込み、瀬戸内海を西に向かい、赤間関を通って日本海に抜け、北陸の越前、佐渡、東北、遠くは北海道まで出かけ、帰りには鯡(にしん)の〆粕(しめかす)、干鰯(ほしか)などの魚肥や昆布、数の子などを持ち帰ったといいます。
 こうして多度津では、廻船問屋が数十軒を数え、萬(よろづ)問屋、干鰯問屋、材木商、砂糖商、米穀商などの商人や、造船や船の修理、製油業、酒造業、砂糖の製造業者などが出現し、商家の町として賑わいます。こうした商家は屋号で呼ばれ、その中には船名にちなんだものもありました。また、多度津港の西側の白方地区では、サトウキビが栽培され、北前船に積み込む砂糖作りがさかんに行われました。
 弘化4年(1847)に刊行された暁鐘成の「金比羅参詣名所図会」には当時の多度津の繁栄ぶりが次のように記されています。「この津は円亀に続いての繁昌の地なり。原来波塘の構えよく、入船の便利よきが故に湊に泊まる船おびただしく、浜辺には船宿、旅籠屋建てつづき、あるいは岸に上酒、煮売りの出店、うどん・そばの担(にな)売り、甘酒、餅菓子など、商う者往来たゆる事なし。そのほか商人、船大工等ありて、平生に賑わし。かつまた、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。その都合よきをもってここに船を待たせ参詣する者多し。」

● 幕末の多度津
 嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督が、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航し、幕府にアメリカ大統領の信書を提出してわが国の開国を強く要求しました。この威力に屈し、幕府は翌年再び来航したペリーと「日米和親条約(神奈川条約)」を締結します。ここに200年以上にわたって鎖国政策を行い、大平の世を享受してきたわが国も、ようやく西洋列強の軍事力に対抗できる国防の重要性をさとり、幕府・各藩は競って軍事力の近代化を進めます。
 多度津藩では、家老林三左衛門が、他藩に先駆けて藩兵の近代化を進め、洋式大砲や小銃の採用を積極的に行います。西洋の最新兵器を外国商人から購入して揃え、元治元年(1864)には、足軽で構成した歩兵銃隊の先進隊を結成しています。また、慶応2年頃には、藩内の志願農民で構成する農民隊も結成しています。この農民隊は歩兵銃隊で赤報隊と名付けられました。
 多度津藩は、小藩ながら先進的な軍事力の強化に努めていますが、これは、多度津港が瀬戸内海でも有数の港であったことにより、国内情勢に関する最新の情報が常に入っていたこと、また、北前船で財を成した豪商たちからの上納金により西洋武器を購入できたことなどによるものと思われます。
 多度津の沖合いには、塩飽諸島に属する高見と佐柳の二島がありますが、これらの島の住民は、塩飽水軍の末裔で、すぐれた船と航海術を持っていました。幕末、彼らに再び活躍の場が与えられます。わが国最初の遣米使節の軍艦「咸臨丸」乗船水夫50名のうち、高見島・佐柳島出身者が5名含まれていました。また、坂本龍馬の海援隊「いろは丸」の航海長佐柳高次も佐柳島出身者でした。
 また、幕末の世情不安な頃、多度津では、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は三豊郡大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したということです。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇にて処刑されたといいます。「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」という辞世の歌と、東白方墓地に墓が残っています。

 四 明治時代

● 明治維新―官軍側についた多度津藩
 明治維新の大転換期に際して、多度津藩6代藩主の京極高典(たかまさ)は時代の動きを見誤ることなく、新政府側について時勢を先取りした動きをします。慶応4年(1868)1月3日、討幕派の策略に憤激した幕府軍は、大坂から京都に向かい、薩摩・長州を中心とする官軍と京都市街の南で戦いとなります。これが伏見・鳥羽の戦いですが、このとき、讃岐三藩の対応は対照的なものでした。高松藩は幕府側について朝敵となります。これと反対に多度津藩は、官軍側につき、フランス製大砲2門、小銃19挺を失うほどの戦いを幕府軍と交えます。一方、丸亀藩主京極朗徹(あきゆき)は江戸から京都に向かいますが、病のため京都に入ったときにはすでに戦いは終わっていました。
 新政府は、朝敵である高松藩の征討を土佐藩に命じ、1月19日、3千に余る土佐軍が丸亀城下に到着します。この土佐軍の参謀兼大隊司令は、板垣退助でした。翌20日、丸亀・多度津藩兵250人が土佐軍の先鋒として高松城下に入ります。この中には赤報隊もいました。高松藩は恭順の姿勢を示していたので戦いもなく、その日の夕刻には錦御旗を先頭にした土佐軍が大手門から高松城に入り、高松藩は平穏に土佐軍の占領下となります。土佐軍が高松から撤収したのは、それから約1ヵ月後のことです。このとき、戦いはありませんでしたが、讃岐が土佐からの侵攻を受けたのは、長宗我部元親の侵攻以来約290年ぶりのことでした。
 新政府により廃藩置県が断行されたのは明治4年7月の宣下によりますが、多度津藩は、他藩に率先して、すでに明治4年正月に廃藩の建白書を新政府に提出しています。これにより多度津藩は全国でも早い時期の4月2日に廃止され倉敷県に所属します。丸亀藩が廃止され丸亀県となるのは4月10日のことです。しかし、高松藩が廃止され高松県となるのは7月の宣下のときです。

● 北前船の基地から瀬戸内海定期航路の主要港へ
 明治に入っても、多度津は北前船の基地として活況を呈していました。明治14年の記録によると次のように記されています。多度津の戸数は1,230戸、人口は4,441人。北海道から鯡(にしん)の〆粕、昆布、数の子などを搬入。昆布、数の子は丸亀、多度津、琴平などへ転売。鯡の〆粕は那珂、多度、三野、豊田郡などへ転売。物産問屋は39軒あり、問屋は搬入された物品を預かり、仲買人に売り捌きをさせる習慣になっている。多度津港に定繋され出入りしている船は、300石以下が55艘、北海道まで渡航する300石以上が2艘。多度津港から搬出される物産は、砂糖が約84,500斥、その代価が約57,752円50銭、綿が約20,000貫目、その代価が約10,000円。砂糖は北海道又は大阪へ売り捌き、綿は北海道又は西海道へ搬出。近傍の農家の肥料は、近来、鯡の〆粕の類が多く用いられ、これによって土質が肥えて作物の生育がよく収穫が多い。
 明治時代は、鉄道や道路が未整備なため交通手段は海上交通が中心でした。明治10年、西南戦争により阪神・九州間の輸送量が飛躍的に増加すると、船腹が不足し、その機に乗じて70社以上の中小商船会社が瀬戸内航路に誕生します。しかし、戦争終結後は船腹過剰となり、熾烈な競争の結果、多くの中小海運会社は立ち行かなくなります。事態打開のため大連合の結成が進められ、明治17年5月に住友系の大阪商船会社が発足し、開業当初、大阪から山陽・四国・九州あるいは和歌山に至る18本線と4支線の航路を運行することになります。このうち香川県下の港に寄港する航路は、多度津に9本線と1支線、小豆島・高松・丸亀にそれぞれ2本線であり、多度津は瀬戸内海定期航路路線の中で圧倒的に重要な地位を占めていました。これは、多度津は、港内が深くて汽船が停泊するのに都合が良く、また金刀比羅宮に参詣する旅客が上陸するのに便利な地であったことによるといわれています。

● 讃岐鉄道の起点―四国の鉄道発祥の地
 天保の湛浦築造から約50年後の明治21年(1888)4月10日、多度津を起点として琴平、丸亀二方面へ向けて香川県内で初めて鉄道の建設が始まります。多度津の景山甚右衛門(かげやまじんうえもん)ほか17名が讃岐鉄道株式会社を設立し、金毘羅参詣客をあてこんで計画したものです。
 甚右衛門は、幕末の安政2年(1855)に、多度津の回船問屋大隈屋の5代目として生まれました。明治11年、血気盛んな二十歳の頃、自家の千石船に乗って上京したとき、新橋~横浜間を走る汽車を目にし、讃岐に鉄道を開設する決意をします。明治18年、29歳のときに計画し、4年かって、多度津を起点とする琴平と丸亀間の15.5キロを明治22年(1889)5月23日に開通させます。この年は、2月11日に「大日本帝国憲法」が公布され、同時に皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令、議員法なども公布され、我が国が近代国家としてスタートしたときでした。
 天保の湛浦築造により多度津の港は北前船の基地として賑わい、冨を蓄積した多くの豪商が出現していました。景山家もその一つでした。しかし、明治に入ると、北前船は、汽船と汽車の発達による流通の変化や新政府成立による相場の地域格差解消により次第に衰退していきました。実際、明治30年代になると、北前船は全国的に役目をほぼ終えて歴史の表舞台から姿を消しています。多度津で鉄道の建設が計画されたのは、このような時代背景の下、北前船に依存した従来の商売から抜け出して、港を活用した新たな商売への転換をもくろんだことによるのではないかと思われます。
 しかし、この開通はすんなりと進んだわけではなく、岡蒸気が走るという噂が広がると、当時の馬方(うまかた)や人力車夫たちは、生活ができなくなるといって、連日、甚右衛門宅に押しかけ「やめなければ、家を焼き払うぞ」といって脅したといわれています。
 開通時の機関車はドイツのホーヘンオレルン社製のタンクで、客車はマッチ箱のような型をしていました。貨客4両編成で、上、中、下等の3ランクに分かれ、今とは逆に琴平行きが上りになっていました。後には食堂車も走らせ、袴(はかま)をつけた「女ボーイ」が給仕をしたそうです。
 わが国で初めて鉄道が開通したのは、明治5年5月7日(1872)の横浜~品川間ですから、讃岐鉄道の開通はそれから17年後のことでした。なお、これは全国では7番目、四国では松山の伊予鉄道に遅れること7ヶ月で2番目でした。ただし、明治9年8月から明治21年12月までの間、讃岐は愛媛県に編入されていた時代であることを考えると、このことは讃岐の実業家の意気軒昂さを示すものといえるでしょう。
 明治22年に讃岐鉄道が開業した当時の多度津駅は、桜川の河口に近い須賀町の旧多度津藩陣屋の藩士調練場とその周辺だったところに建設されました。現在の多度津町民会館の辺りです。川に面して洋風木造2階建ての本社兼駅が建っていました。鉄道は丸亀線と琴平線の2線が並行して走り、丸亀腺は直線に延びて東方面へ、琴平線は堀江附近から南へカーブして、豊小校の西を通って琴平へ通じていたといわれています。
 また、明治21年から22年にかけて、従来の和船と異なり吃水の深い汽船の出入りをしやすくするため港の浚渫が行われ、この浚渫土砂で、桜川の旧港とその左岸一帯が埋め立てられています。今の桜川沿いの現在の仲ノ町5番10号~東浜1・4・5番辺りで、これによって、港に通じる道路の両側には、旅館・商店等が軒を連ねる繁華街となっていきます。また、東浜と須賀を結ぶ桜川に金刀比羅橋が架かったのは、明治21年の桜川左岸の埋立てのときです。それまで、桜川には港があったので、下流から極楽橋までの間に橋はありませんでした。

● 四国新道の起点
 大阪、神戸と中国・四国・九州を結ぶ定期航路の船が盛んに多度津港に出入りするようになると、陸上交通の整備が唱えられるようになりました。明治17年(1884)、大久保之丞(じんのじょう)は四国新道のプランを提唱します。之丞は嘉永2年(1849)、多度津藩領の三野郡財田上ノ村(現在の三豊市財田町)に生まれました。阿讃にまたがる山道の不便さを熟知しており、地域の経済を発展させるためには道路を建設する必要があるという持論を持っていました。その四国新道の構想は、多度津・丸亀を起点に琴平から猪ノ鼻を越えて阿波池田に入り、高知を経て佐川・須崎に達し、佐川から松山・三津浜に至るという四国を全長約280kmのV字型で貫くという壮大なものでした。その道幅も計画では最大12.6m、最小でも6.3mと、現在と比べて遜色のないものでした。
 明治19年(1886)4月14日、琴平・阿波池田・高知で四国新道の起工式が同時に行われます。しかし、山間部での工事は難渋を極め、なかでも猪ノ鼻峠は最大の難関で、鍬や鶴嘴を使って50mにも及ぶ断崖を掘削しました。また、道路用地にかかった地元住民などの猛烈な反対や資金不足もあり、工事は度々中断したといいます。このとき、県会議員をしていた之丞は反対住民の説得に奔走し、さらに工事のために私財まで提供して大久保家の財産は土塀と井戸を残すのみになったといわれています。
 明治23年(1890)3月に多度津から琴平を経て猪ノ鼻峠間、38.382kmと、丸亀・金蔵寺間6.08kmの香川県分の工事が竣工し、さらに明治27年(1894)5月に8年の歳月をかけて、全面開通となります。
 多度津は四国新道の起点となっており、須賀の大通りから極楽橋を通じて真っ直ぐ南東に進み、桜川を2つの橋で超えて、葛原・金蔵寺方向へ直進する道路が四国新道です。この工事に当たっては、須賀町(現大通り)や鍛冶屋町(現仲ノ町付近)の民家が多数切り取り又は立ち退きになり、当時の須賀町にあった金刀比羅神社も、この道にかかり、現在地に移転されました。
 この新道により人や物資の流れは大きく変わり、阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれました。しかし、之丞自身はそれを見届けることなく明治24年12月14日香川県議会中に倒れ、42歳の若さで亡くなります。之丞は四国新道の実現のほか、讃岐鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言し、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしています。

● 香川で最初に設立された私立銀行
 また、明治24年には、景山甚右衛門が中心となって香川県で初めての私立銀行である多度津銀行が設立されています。香川県で初めて設立された銀行は、明治11年に高松で創立した第百十四国立銀行で、次いで翌年、丸亀で第百二十七国立銀行が開業しています。しかし、これらはいずれも官営銀行です。また、明治41年には、多度津に本店を置く二つ目の私立銀行である讃岐銀行が東白方の村井一族によって開設されています。

● 測候所の開業・郵便局
 さらに、明治25年には、香川県で最初の測候所である多度津一等測候所が開業しています。なお、この測候所は平成13年3月に観測業務の無人化により閉鎖されてその長い歴史を閉じました。現在も香川県内の天気状況は高松と多度津の2カ所の観測データが発表されています。
 また、明治26年には、多度津郵便局が一等郵便局に昇格し、四国の各局を管轄することとなります。多度津郵便局は、明治21年に、今の東浜郵便局となっている所に木造二階建洋風のモダン庁舎が建てられました。明治26年11月10日に一等郵便電信局となって、四国一円を監督する最も重要な局となったものです。浜の町には電信伝習所まであったといいます。現在の仲ノ町の庁舎は、昭和27年に新築移転されたものです。

● 県下第一の繁華の地―瀬戸内海航路のターミナル港へ
 鉄道の敷設により、多度津は海上交通と陸上交通の結節点となります。この頃の多度津港は、汽船の出入りが頻繁で、常に煤煙が空を蔽い、汽笛が埠頭に響いていました。また町は船と鉄道に乗降する多くの旅客で賑わい、港近くの旅館や商店街では夕方になるとガス灯が一斉に点灯され、県下第一の繁華の地となりました。多度津小学校の校歌に「汽笛の響きにぎわえる」という節がありますが、その頃の情景を歌ったものでしょう。
 その後、讃岐鉄道は、丸亀から東に向かって延伸されますが、高松まで開通したのは、多度津・丸亀間が開通してから7年3ヶ月後の明治30年(1897)2月21日のことです。さらに岡山・宇野間に鉄道が敷設され、宇高連絡船が就航するのはまだ先の明治43年のことです。
 ちなみに、明治27年の船舶入港数は多度津港30,737隻、高松港3,430隻であり、同37年の船舶入港数は多度津港66,580隻、高松港8,634隻でした。また、明治30年当時、香川県下には、49軒の汽船問屋及び和船問屋がありましたが、このうち約半数の25軒が多度津にあり、残りが高松8軒、坂出1軒、小豆島11軒、丸亀4軒でした。多度津は、「多度津に来れば、どこ行きの船にでも乗れる」といわれる県下最大の港湾を有する瀬戸内海航路のターミナル港であり、また、鉄道を有する交通の結節点でした。
 明治28年から29年にかけては、港内の浚渫土砂で現在の東浜6番辺りが埋め立てられ、水上警察署用地・荷揚場・大雁木(階段)などが造成されています。ここで内港に入れない汽船からの旅客の上陸や、貨物の荷揚げが行われ、日露戦争のときには兵士の乗船場として利用されました。
 讃岐鉄道は山陽鉄道との合併を経て、明治39年(1906)12月、国有鉄道に移管されます。

● 日露戦争の出征港―教科書に載った一太郎やあい
 また、多度津港は日露戦争(明治37年~38年)のときの第11師団出征港でもありました。明治31年12月、四国四県を一管区とした第11師団が善通寺に置かれました。これに伴い、乃木中将が初代師団長として赴任してきました。ときに50歳でした。乃木中将は、明治31年(1898年)10月3日から34年(1901年)5月まで善通寺第11師団長を務め、金蔵寺の客殿を宿泊所としていました。善通寺へは単身赴任でした。
 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、四国の第11師団にも動員令が下り、多度津港から多くの兵士が出征します。第11師団は第3軍に編成され、旅順攻撃軍に加わります。司令官はかつての第11師団の師団長であった乃木大将でした。明治38年9月5日にポーツマス講話条約が成り、第11師団は、11月14日から翌年2月18日までに帰国の途につき、多度津港に上陸凱旋します。県下の戦死者数は、戦死者1481名、病死368名でした。なお、多度津町の東白方には、乃木将軍の揮毫による日露戦役忠魂碑があります。この碑の真筆は東白方の三宝丸村井家に残されているといいます。
 この出征のとき、多度津港で「一太郎やあい」の美談が生まれました。三豊郡豊田村(現在の観音寺市)の岡田梶太郎(通称一太郎)は多度津港から輸送船で日露戦争に出征することになりました。その母カメは、息子を見送りに腰弁当と草鞋履きで多度津までやってきます。しかし一太郎の好きな氷砂糖を買いにいったため船はすでに岸壁を離れていました。そこでカメは大声で、「一太郎やあい、天子様に御奉公するんだぞー。わかったかー。聞こえたら鉄砲を挙げろ。」と叫び、一太郎はそれにこたえて銃を高くあげたといわれています。この話が軍国美話として国定教科書に掲載され、全国的に有名になりました。多度津山の桃陵公園には、港を見下ろす高台に「一太郎やあい」の像が建っています。なお金蔵寺の境内には、「妻返しの松」の向かいに「一太郎松」と言う松があります。

● 四国の玄関口の座をめぐる高松との競争
 多度津港が県下最大の港湾を有するターミナル港として賑わっていた頃、高松港は設備が悪く、水深も浅かったため、沖合に船を停泊させ、艀(はしけ)を使って波止場まで旅客や荷物の揚げ下ろしをしていました。従来の和船と違って汽船には港が浅かったのです。そこで、高松は、新しい蒸気船時代にあった港の整備が叫ばれ、大型汽船が寄港できるようにするため、丸亀・高松間に鉄道が開通した年である明治30年から港湾の拡張工事に着手します。
 これに対して、多度津も、明治31年から港の拡張計画に取り組んでいます。おそらく、この頃すでに岡山から宇野まで鉄道を延伸して宇野と高松を連絡船で結び、さらに将来高松から松山、高知、徳島までを鉄道で結ぶという構想があったのではないかと思われます。このため、多度津としては、高松と宇野を結ぶ鉄道連絡船が就航すると、将来四国の玄関口としての地位を高松に奪われてしまうという危機感を抱いていたのではないかと思われます。こうしたことから多度津でも港湾の拡張計画の検討が始まったのではないでしょうか。しかし、なかなか工事着手に至らず、その間の明治37年9月に高松港では拡張工事が竣工し、入港船舶、貨客の数を飛躍的に増加させていきます。
 日露戦争後の明治39年11月、多度津はようやく国の許可を受けて港の拡張工事に着手します。その内容は、70年前の天保9年(1837)に造った湛甫の外側に、大型汽船が着岸できるよう、西は嶽下の北方に長さ280間(約510メートル)の西突堤を築き、東は埋立地を造成し、その北方に330メートルの東突堤を築くというものでした。
 しかし、難工事のためや計画の手直しのため工事は遅延し、さらに竣工間際の明治41年11月26日、突然の暴風により大被害を受け、計画の変更と工事費の増加を余儀なくされてしまいます。こうした苦難の末、明治45年(1912)、1月26日、約5年2ヶ月の歳月と巨額の金を費やしてようやく多度津港の拡張工事が竣工しました。
 この頃、明治38年から39年にかけて、港が浚渫され現在の西浜5・6番が埋め立てられています。そして、明治39年から45年にかけて行われた港湾の拡張工事にともない現在の東浜7・8・9・10番と5番の一部、西浜7・8番が埋め立てられています。
 しかし、その間の明治43年、宇野線が開通したことにともなって宇高連絡船が就航し、高松港が多度津港を凌駕するようになります。高松港は、その後も大正11年(1922)から6年の歳月をかけて拡張工事を行い、1700トンの大型汽船も就航できるようになり、四国の玄関となっていきます。ただし、高松を起点とする四国4県の鉄道網が完成し、完全に高松が四国の玄関となるのは、昭和2年に高松~松山間、昭和10年に高松~徳島間と高松~高知がそれぞれ開通するまで待たなければなりませんでした。
 現在、瀬戸大橋の開通により高松も四国の玄関口としての座を失いましたが、明治30年代からその末期において、多度津が高松と張り合って四国の玄関口の座をめぐり港湾の拡張競争を行ったということは、当時の多度津の人間の意気軒昂さを物語るものといえるでしょう。

 五 大正から昭和(戦前)時代

● 暗夜航路に描かれた多度津の情景
 多度津の港がまだ四国の玄関口のとしての存在感を保っていた頃の情景が志賀直哉の小説「暗夜行路」に描かれています。大正2年(1913年)2月、志賀直哉は尾道から船に乗り、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。その旅行を基に書かれた小説「暗夜行路」には、当時の多度津の港や駅の様子が次のように描かれています。
 「多度津の波止場には波が打ちつけていた。波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
 もう其男もついて来なかった。郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行った。
 停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
 志賀直哉が多度津にやって来た年の大正2年(1913)12月、多度津から観音寺までの区間に鉄道が開通しています。それは、多度津から丸亀と琴平へ初めて鉄道が開通してから約23年半後、高松まで開通してから約17年後の大正2年(1913)12月のことです。現在のJR多度津駅は、桜川の河口に面する現在の多度津町民会館の位置からこのときに新築移転されたものです。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。
 当時、新駅の周辺は民家も無い田圃で、豊津橋から新駅までの間に大きな新設道路(現在の県道多度津・停車場線)だけがあったといいます。旧多度津駅は浜多度津駅とされ、その後、その敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の多度津町民会館用地となっています。現在の多度津駅には四国の鉄道発祥の地の碑があります。
 現在の多度津駅が開業した大正2年には、多度津実業会が設立されます。その翌年の大正3年6月28日には、ヨーロッパでサラエボ事件が発生し、第一次世界大戦が勃発しています。

● 四水発祥の地
 香川県内における最初の電灯開始は、明治28年(1895)、高松電灯株式会社による高松市内への供給です。西讃では、それに少し遅れる明治31年4月、西讃電灯株式会社が金蔵寺に設立され、同36年3月初めて多度津で試点灯に成功し、次いで丸亀、善通寺に点灯されました。しかし需要の伸び悩みから経営不振が続き、明治40年、景山甚右衛門が讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の再建を託されます。
 明治43年、甚右衛門は、社名を「四国水力電気株式会社」と改称し―四水(しすい)と呼ばれました―ます。そして、当時中央電力界の第一人者であった福沢桃介(ももすけ)を懇請のうえ大正元年に社長として迎え入れ、自分は副社長となり経営の刷新を図ります。福沢桃介は福沢諭吉の女婿(じょせい)で、「日本の電力王」ともいわれる実業家です。「日本初の女優」川上貞奴とのロマンスはよく知られた話です。現在、高松市亀井町にある電気ビルのロビーにその胸像があります。
 大正3年(1914年)、四水は、多度津町二ッ橋の桜川畔に、洋風2階建ての社屋を新築し、本社を移転します。現在のNTT西日本多度津電話交換所のあるところです。なお、この年に第一次世界大戦が勃発しています。その後、四水の経営は福沢桃介から甚右衛門に引き継がれます。
 四水は、県内の電灯会社を次々と合併していき、電灯料金値下げ競争の末、昭和5年には高松電灯を吸収合併し、県下の電力供給を一手に引き受ける「四水王国」を築いていきます。また、東讃電気軌道会社(高松~志度)や、高松電気軌道株式会社(高松~長尾)、琴平電鉄株式会社(高松~琴平)など電車部門もその傘下に入れていきます。
 大正8年には、四水は、多度津の堀江に、煉瓦造りの建物と40メートルもの高さの煙突をもつ発電所を建設します。なお、この発電所は昭和39年2月28日に閉鎖されました。
 甚右衛門は、昭和12年83歳で死去するまで30年近く四水の経営に携わり、全国電力業界では「四水の景山」として知られていました。鉄道、電力のほか銀行の創業や経営にもたずさわり、貴族院議員として中央政界でも活躍し、いわゆる地域開発の先覚者といえる人物です。現在の四国電力株式会社多度津営業所前には、四水発祥の地を記念して、景山甚右衛門の胸像が発祥地碑とともに併設され、その遺徳を称えています。
 その後、四水は、四国配電を経て、戦後四国電力となります。こうしたことから、多度津は四国電力発祥の地といえるでしょう。

● 多度津のもったはん
 幕末から明治にかけて大いに繁栄した多度津では、地主や豪商が出現し、「多度津の七福神」と呼ばれるようになりました。そして、彼らによって、大正から昭和初期にかけて大邸宅が次々に建築されていきました。大正元年頃に景山甚右衛門邸(現在は消滅)、大正後期に和風の主屋と洋館2棟からなる合田邸(本通)、大正15年にアメリカ屋の高島司郎(町内出身)が設計したライト風の武田邸、昭和初期に玉突き場を備えた土井邸(栄町)、大正元年に旧楽天堂医院(元木谷歯科、大通り)、昭和元年に山本医院(大通り)などです。
 大正11年には、5年制普通科の旧制多度津中学校が開校しています。5年制普通科の旧制県立中学校の開校としては、明治26年の高松中学校と丸亀中学校、明治33年の三豊中学校と大川中学校の開校以来、5番目でした。当時、西讃に普通科の中学校を造るという県の構想が打ち出されたとき、琴平町などが有力候補地に上がったそうですが、多度津町の有志が土地・建物の資金9万円を全額寄附したことにより多度津に決定したようです。

● 琴平参宮電鉄のオープン
 大正14年(1925)2月26日、現在の東浜の交差点のところに、琴平参宮電鉄の多度津桟橋駅がオープンし、そこから琴平までが開通します。この年の5月5日には、加藤高明内閣によって、25歳以上の男子に選挙権が認める普通選挙法が成立しています。
 琴平参宮電鉄の路線は、すでに大正11年10月に丸亀・善通寺間、その翌年の8月に善通寺・琴平間、さらに翌々年の大正13年10月9日に善通寺・多度津鶴橋間がそれぞれ開通しており、多度津山のトンネル工事竣工だけが残っていました。
 琴平参宮電鉄の多度津桟橋駅は、モダンな洋館で、売店もあり二階はレストランになっていました。この開通で、大阪などからの金毘羅参拝客は船で多度津港に着き、そこから桟橋駅まで歩いて琴平行きの電車に乗ることができるようになり、港から駅までの通りも土産物屋や旅館などで賑わいました。しかし、日帰りの参拝ができるようになったため、宿泊客は逆に減少するようになったともいわれています。
 なお、多度津山のトンネルは、現在、県道丸亀・詫間・豊浜線の桃山隧道となっています。

● 国鉄多度津工場の拡張
 昭和5年(1930)2月、国鉄多度津工場の拡張第一期工事が着手され、翌年1月に鉄筋コンクリートの大建家が竣工します。この工場は、従来から地元の人に「こうきぶ」と呼ばれ親しまれてきもので、現在JR四国多度津工場となっていますが、明治22年の私鉄讃岐鉄道の開業にともないその車両修繕場として発足し、明治39年の鉄道国有化にともない翌年に国鉄広島営業所多度津工場となっていました。明治の発足当初は従業員8人程度の小規模なものでしたが、大正初期には約90人の規模でした。
 昭和に入ると、国の政策で工場の拡張整備が行われることとなります。四国の鉄道網は、昭和2年に多度津~松山間が開通していましたが、まだ、琴平~高知間、高松~徳島間は開通していませんでした。この国の政策に対して、松山、高松、阿波池田が新たな工場の誘致に名乗りを挙げます。このような状況の下、当時の今井浩三多度津町長は、大通りの多度津小学校跡地を国に寄付することを条件に政財界へ陳情を繰り返し、ようやく多度津において拡張整備が行われることとなりました。この拡張整備にともない、昭和2年には、鉄道工場北側海岸約6600平方メートルが埋め立てられています。
 多度津小学校は、明治5年(1872)に宝性寺・西方寺などを借り硯岡(けんこう)小学校として創設され、次いで同10年(1877)に桜川沿いの須賀町へ移転し、同12年には、多度津藩の「自明館」を自明館学校と改め、新町村・堀江村の分教場とします。さらに同21年(1888)に旧多度津藩の陣屋屋敷跡地(現在のJR四国多度津工場の正門から事務所付近一帯)の大通りの地に新築移転し、その38年後の大正15年(1926)に現在の地に新築移転していました。
 昭和5年には、港を浚渫した土砂で、現在の西浜12番にあたる多度津港の内港南側が埋め立てられ、多度津工場内にある貨物駅浜多度津駅をそこに移転し、翌年多度津臨港線が開通しています。これにより、船と貨物列車との間の積みかえ作業がおおいに利便化されます。ちなみに、浜多度津駅は、その後荷揚げ用クレーンなどが設置されましたが、昭和54年に廃止されました。
 その後、四国内の運行車両の増加により、多度津工場は四国の車両基地として拡張整備が続き、昭和16年には、工場北海岸がさらに約8700平方メートルが埋め立てられます。戦時下の昭和17年に「工機部」と改称され、その頃には1300人を超える大工場へと変貌します。

● 桜の名所桃陵公園の開園
 昭和6年(1931)10月には、桃陵公園が開園します。この公園は、御大典記念事業として、町が多度津山に遊園地、展望台、食堂、ドライブウェイを整備したもので、数千本の桜が植えられました。桃陵公園という名は、多度津山の東部一帯を桃山ということからきています。この公園の道路整備は演習の名目で善通寺工兵隊により行われたといわれています。
 また、港を見下ろすところに「一太郎やあい」の銅像が立てられました。この公園がオープンするとほぼ同時期の9月18日には満州事変が勃発しており、我が国は戦争への道を進んで行きます。この像が立てられた背景には、当時の世相があったのかもしれません。
 なお、この公園は昭和22年8月に県立公園に指定されています。

● 戦時中
 昭和16年(1941)12月8日、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まります。わが国の経済は国の統制下に置かれ、海運業については、昭和17年5月に、大坂商船を主体に関西汽船株式会社が設立され、同社を中心にした瀬戸内海航路が運営されます。これにより多度津港にも関西汽船の定期船が就航します。しかし、米軍が瀬戸内海に機雷を多数投下したうえ、航行する船に対しても機銃掃射を加えたため、関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日をもって運行を休止します。
 一方、電力についても国家管理が行われ、四水は昭和17年3月31日に解散し、電力は四国配電に、電鉄は讃岐電鉄に、ガスは讃岐ガスにそれぞれ分割委譲されます。そして、昭和20年6月、四国配電は本社を多度津から高松市の南新町に移転し、多度津を香川支店とします。しかし、7月4日の高松空襲により焼失し、再び多度津へ戻り終戦となります。

六 昭和時代(戦後)

● 復興
 終戦直後の多度津港は、旧日本海軍の軍用舟艇などが放置されたり、また、善通寺師団に進駐した米軍により砲弾が港内に投棄されるなどしたため、一時期は相当荒廃していたようです。瀬戸内海航路もほとんど途絶状態で、多度津には旧日本海軍の掃海艇の基地が置かれ、機雷の除去作業に従事していました。こうした中、昭和20年12月21日深夜、南海大地震が発生しています。
 大阪・多度津間の定期航路が再開されたのは、翌年の昭和21年4月からです。最初は1日1便でしたが、次第に増設されていき、昭和23年5月21日からは関西汽船の1000トン級大型新造船である「ひかり丸」・「さくら丸」が多度津~阪神間に1日2便制で就航します。これにより多度津港の乗降客も次第に増加していき、昭和21年には196,000余名でしたが、昭和23年には287,000余名となります。また、蒸気機関車燃料石炭、木材、肥料などを運ぶ貨物船や機帆船が多く出入りするようになります。これらは、陸揚げされた後、浜多度津駅から四国各地へ貨車で発送されました。こうして、多度津港は、再び賑わうようになります。
 なお、昭和27年には、町制施行の地としては数少ない商工会議所が設けられています。

● 国鉄城下町
 また、昭和5年から始まる国鉄多度津工場の拡張は、戦前・戦中・戦後を通じて町の経済を支える基盤となります。戦後、国鉄多度津工場で働く人は、復員者などを抱え一時は2000人を超えていましたが、昭和24年の整理で1500人程度となり、昭和32年には1253人となっています。
 香川県で本格的な工業化が始まるのは、昭和39年に始まり51年に完成した番の州埋立て事業からで、昭和40年代頃まで、国鉄多度津工場は、県下でも有数の大規模工場でした。昭和30から40年代にかけては、四国内の鉄道を、蒸気機関車から気動車へ転換するという鉄道近代化を推進した原動力となったところです。
 多度津の町には、国鉄多度津工場に勤務する従業員やその家族がかって多く居住しており、その消費生活活動が、多度津の町の経済的・社会的基盤を支えていました。実際、昭和40年頃までは、多度津小学校に通学する児童の親の4分の1ぐらいまでは国鉄に勤めていたと思われます。また、多度津工場に勤務する職員の中には転勤者も多く、多度津小学校は郡部の学校にしては転校生が多いという特色がありました。多度津は国鉄城下町ともいえる存在でした。

● 交通・産業の町の落日
 一方で、多度津は交通・産業の町としての落日を迎えていきます。まず、最初に現れたのが電力事業の拠点としての役割の終焉でした。
 昭和26年5月1日、四国配電は四国電力株式会社となり、本社は高松へ移転し、多度津には5支店が置かれました。しかし、昭和31年11月、四国電力本社ビルが高松市内町に落成したことに伴い、多度津の香川支店も同7日に移転します。これにより大正3年以来42年間における多度津の香川県下電力事業の拠点としての歴史は幕を閉じます。
 次いで、昭和38年(1963)9月15日、琴平参宮電鉄の多度津・善通寺間が営業を廃止し、約40年間の歴史を閉じます。これは、多度津からの金刀比羅宮参詣客の減少と自動車の普及により、利用者が減少したためです。
 また、昭和39年(1964)11月30日、この日をもって明治17年5月の大阪商船の発足以来80年にわたって多度津と阪神を結んで運行されてきた定期客船航路が完全に廃止されます。これにより多度津は瀬戸内海海運の要所として役割を終え、ローカル航路のみを残すまったくの一小港となってしまいました。これは、鉄道の近代化や、モータリゼーション化などにより、陸上交通を利用する貨客が急速に増加し、これに対して、海上交通を貨客が年を追って減少していったことによります。なお、この年の10月10日には東京オリンピック大会が開会しています。
 国鉄多度津工場の役割も次第に低下していきます。従業者の数は、昭和42年には949人でしたが、昭和52年に659人、昭和62年に257人と、激減していきます。現在は電車と気動車を主体とした車両の検査・修繕・改造を行っています。
 この工場は、昭和63年4月、民営化によりJR四国多度津工場となりますが、JR各社の所管する鉄道工場としては全国で2番目に古い沿革をもっており、鉄道関係の資料が展示されているほか、戦前・戦中の建物・施設が今も残っており、鉄道博物館ともいえる存在です。中でも、戦後移築され現在会食所として使われている旧西条海軍航空隊格納庫は希少な残存軍事関係遺構です。

● 少林寺拳法発祥の地
 少林寺拳法は、昭和21年、宗道臣という人物が多度津町で始めた禅の精神修養と護身を旨とする拳法の流派です。その起りは、遠くインドから中国に伝わり、禅門の行として発生したと伝えられています。宗道臣は、本名を中野道臣といい、現在の岡山県美作市で明治44年(1911年)に生まれます。柔術・剣術家でもあった祖父・宗重遠を頼って当時の満州へ渡り、陸軍の特務工作員の仕事をしながら、河南省の嵩山少林寺で修行し、その法脈を継承したといわれています。
 戦後、宗道臣は中国満州から多度津に引き揚げ、道場を開きます。どのような経緯から多度津に引き揚げてきたのかについてはよく分かりません。最初に多度津町で開いた道場は、現在の仲ノ町の桜川南岸の地です。かって古港だったところで、古い裏通りです。ここが、日本における少林寺拳法発祥の地といえるでしょう。その後、郵便局の東隣に移転し、昭和42年に桃陵公園南麓に本部と錬成道場を新築移転しました。初代宗道臣は昭和55年に亡くなり、現在はその長女由貴が二世を襲名しています。

● 高度経済成長時代―臨海工業地の町へ
 敗戦による荒廃や混乱が収拾して我が国の経済が戦前の水準までに復興するのは、昭和30年(1955)頃だといわれています。そして、その頃から高度成長が始まり、昭和40年(1974)代までの約20年間にわたって飛躍的な経済成長を遂げます。この間、エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸にはコンビナートが立ち並んでいきました。また、家庭では、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、急速に普及していきました。この当時の風潮は、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴されるように、「大きいことは良いことだ」というものだったといえるでしょう。
 1960年代には東京オリンピックの開催やベトナム戦争、1970年に開催された大阪万博などによる特需があり、1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家の中で第2位に達した。
 わが国が高度成長時代に沸いている頃、多度津では、昭和39年に、新町大栴檀(だいせんだん)地先の測候所海岸一帯の海約66000平方―メートルが埋め立てられます。この埋立地は工場用地としては狭かったため、住宅地として売却され、現在は日の出町となっています。また、この年、天保時代に築かれた旧一文字突堤の南が埋め立てられ、魚市場、青果市場等の用地となっています。
 昭和45年12月から49年2月にかけては、大規模な臨海土地造成事業が行われます。それは、明治45年に築造された外港を東西から包み込むように埋め立て、大工業用地を造成しようというものでした。これにより、東側が約64.4ヘクタール、西側が約119.7ヘクタール、合計184.1ヘクタールが埋め立てられます。この土地造成事業が始まる前まで、天保時代の西突堤はまだ残っていましたが、この工事により壊されました。これにより、天保9年に築造された多度津湛浦は全くその姿を消し、東浜12・13番の北側護岸にその痕跡を留めるのみとなりました。

まとめ

● 天保の湛浦築造以降のまとめ
 天保9年(1838)の湛浦完成以降の歩みについて、マクロ的に多度津の歴史を考えてみましょう。筆者は、天保の湛浦完成から現在までを、次の3期に分けられるのではないかと考えています。
第1期は多度津湛浦完成から宇高連絡船就航(明治43年(1910))までの72年間、第2期は宇高連絡船就航から阪神間定期客船航路廃止(昭和39年(1964))までの54年間、第3期は阪神間定期客船航路の廃止以降です。
 第1期は、さらに明治20年頃を境に前期と後期に分かれます。
 前期は、多度津が湛浦の築造により北前船の基地として大いに繁栄し、冨を蓄積した時期です。海上交通が中心で、交通・輸送手段は船でした。旅客・貨物の輸送は主に船で行われました。陸上交通の交通・輸送手段は徒歩か荷車・馬車程度で、多数の旅客・貨物を運ぶことはできませんでした。
 後期は、北前船が衰退し、それに代わって多度津港が瀬戸内海定期航路のターミナル港として繁栄した時期です。海上交通が中心でしたが、陸上交通の交通・輸送手段として鉄道が登場してきました。しかし、鉄道は交通網の整備が整っておらず、交通体系の中心としてはまだ不十分でした。そして、前期で蓄積された北前船の冨が鉄道事業、銀行事業、電力事業という近代産業への投資に向かって行った時期です。
 第1期は、前期・後期を通じて、多度津港は旅客・貨物が出入りする商業港であり、多度津の町は商業都市でした。この時期は多度津の隆盛時代であり、まさに黄金時代だといえます。
 第2期も、さらに昭和初期の予讃線・土讃線が開通した頃を境に前期と後期に分かれます。
 前期は、鉄道網の整備が整いつつある時期です。しかし、旅客・貨物の輸送はまだ船が中心で海上交通が優勢でした。鉄道は補完的なもので、多度津港はまだ海上交通のターミナル港としての役割は維持していました。この頃は、まだ多度津港は商業港であり、町も商業都市でした。
 後期は鉄道網が整備され、交通・輸送手段が船から鉄道へ移行していった時期です。旅客・貨物の輸送は船から鉄道で行われるようになり、鉄道による陸上交通が中心となって海上交通は補完的なものにすぎなくなります。多度津港は鉄道網の整備とともに急速に商業港としての役割を喪失し、町も商業都市の性格を失っていきます。これと逆比例するように、国鉄多度津工場が拡大・隆盛の時代を迎え、多度津港は鉄道貨物工業港へ、町も鉄道工業都市へと移行していきます。
 第3期は、交通・輸送手段が、鉄道から道路(自動車)へ移行していった時期です。多度津港は商業港としての機能を完全に喪失します。また、国鉄多度津工場も衰退していきます。これにともない、多度津港の鉄道貨物工業港としての機能も喪失していき、鉄道工業都市としての性格も失われていきます。
 このようにマクロ的に多度津の歴史を見ると、「船、鉄道、自動車という交通・輸送手段が交通経路を変え、さらに交通経路の変化が都市の性格を変え、都市を盛衰させる」ということがよく分かります。

● 多度津で近代産業が誕生したわけ
 明治時代、多度津の町では、鉄道・道路・港湾という近代的交通インフラの整備や、金融業・電力産業という近代的産業への取組みが香川県内の他の地域に先駆けて行われました。筆者は、この動きの源泉になったものは、江戸末期から明治初期にかけて活躍した北前船ではないかと考えています。
 多度津は、江戸時代末期天保9年の湛浦築造により、明治初期にかけて北前船の基地として多くの船が出入りしていました。北前船は、今風にいえば移動式スーパーマーケットで、各地の港町を巡りながら商売を行います。この商売は多度津に莫大な利益をもたらすとともに、各地から生きた情報を多度津にもたらしたのではないかと思われます。この北前船からもたらされた冨と情報が明治期における多度津の挑戦につながったのではないでしょうか。
 多度津は、北前船の冨により鉄道を建設し、港と鉄道により、明治時代、海上交通のターミナルとしてさらなる繁栄を遂げます。さらに、電力産業、金融業などの近代産業が出現していき香川の経済をリードしていきます。しかし、その衰退の芽はすでに明治43年の宇高連絡船の就航に見ることができると思われます。明治後期、多度津は高松と四国の玄関口の座をめぐり港湾の拡張競争を演じますがそれに敗れ、以後、衰退の一途を辿ります。それと対照的に宇高連絡船の就航により四国の玄関口としての地位を確立した高松は、以後四国の中枢管理機能を拡張していきます。昭和に入ると、国鉄多度津工場が町の経済を支える基盤となりますが、交通・産業の町としての落日を迎えていきます。

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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