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(129)“金毘羅さんと白峯さんとの知られざる因縁”

 金刀比羅宮の本殿から奥社へ行く途中に白峯神社という社があります。この神社では崇徳上皇が祀られており、「白峯」という名称も五色台白峯山にある白峯寺からきています。なぜ金刀比羅宮の境内に白峯神社が鎮座しているのか、今ではこの理由を知っている人は地元でも少なくなっているようです。じつは、これは明治維新にあった神仏分離による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に起因するものです。

 6世紀中頃に仏教が伝来して以来、わが国では、それまでにあった神々への信仰と仏教とが融合していきます。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)又は神仏混淆(しんぶつこんこう)といいます。
 8世紀初めの奈良時代初頭から鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などの大社において神宮寺を建立する動きが出始め、8世紀後半になると、地方においてもその寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになり、数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられていきました。こうして、従来の神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合うわが国独特の宗教風習が作られていきます。
 神仏習合の基になった思想は本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
 ところが、明治維新を迎えると、一千年以上にわたって行われてきた神仏習合の風習に対して大きな逆風が吹きます。新政府は、封建的な割拠体制を打破して天皇を中心とする中央集権体制を樹立するため、王政復古の大号令のもと祭政一致を目指し、神社神道を国家統合の精神的よりどころとします。そして、明治元年(1868)、仏法は外来の宗教であるとして神仏習合の慣習を廃止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別するように神仏分離を命じます。
 これをきっかけに全国各地で寺院の廃合、祭神の決定、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などの廃仏毀釈運動がおこり、大混乱となります。それまで僧侶の下に置かれていた神官には混乱にまぎれて寺院を破壊してその土地を接収する者も現れ、また僧侶の中には神官や兵士に転職したり、寺院の土地や宝物を売り逃げする者もいたといいます。現在国宝に指定されている興福寺の五重塔は、わずか25円(2006年現在の価値で約20万円)で売りに出され、蒔にされそうになったといいます。讃岐でも滝宮の法然上人ゆかりの竜燈院ほか61寺が廃寺になっています。

 現在の金刀比羅宮も明治以前は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。もっとも、こんぴらさんの最初の由来は、初め大物主神を祀り、次いで平安末期に崇徳上皇を合祀した琴平社という純粋の神社であり、琴平の名称は象頭山のたたずまいが琴を連想させることからとか、祭神の大物主神が琴と関係があったからだといわれています。
 明治維新の神仏分離令により、金光院主の宥常(ゆうじょう)は僧侶から神官となり、姓を琴陵に改め社務職を拝命します。そして、仏教名の建物等については神社式に名を改め、多宝堂・鐘楼などは取り壊し、経巻・仏像・仏具などは売却ないし焼却処分して仏教色を一掃したうえ、名も琴平神社と改めます。祭礼・行事・儀式作法もすべて神道式に改めます。要するに、このとき、こんぴらさんは神社としてリニュルアルしたというわけです。その後、琴平神社は事比羅神社と名を変え、さらに明治22年に金刀比羅宮と改称し現在に至ります。

 一方、四国88カ寺81番札所白峯寺の境内には、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期の建久2年(1191)に建立した頓証寺という仏堂があり、白峯寺により守られてきました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類を寄進してきたことから、永徳2年(1382)火災に罹り大半は焼亡したものの、多くの宝物が残っていました。
 ところが、明治元年(1868)、新政府の方針に基づき、それまで頓証寺に祀られていた崇徳上皇の御霊が、京都の今出川に新たに造営された白峯神宮に遷されることになりました。京都から下向してきた勅使が、上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から持ち出し、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことです。ちなみに、聖通寺山東中腹にある塩竃神社はかつて西大浜にあったものが現在地に移転されたものですが、その境内にある灯篭は崇徳上皇の霊を京都に奉還した際、沖湛甫に建立されたものです。
 さらに、明治3年、白峯寺は境内を除く土地一切を官に取り上げられます。このため白峯寺の住職は還俗して崇徳上皇陵の番人となり、寺は一時廃寺となってしまいます。廃仏毀釈の嵐は明治4年(1871)頃には収まりますが、仏教や寺が受けた打撃は深刻なものでした。信徒らが県に願い出て白峯寺に再び住職が置かれたのは明治8年(1875)のことです。頓証寺には、崇徳上皇宸筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されました。

 ところが、白峯寺復興が緒につきはじめた明治11年、当時の事比羅神社より、政府に対して、頓証寺を神社とし事比羅神社の摂社(末社のこと)にすべきだとの願いが出されます。おそらく、当時の事比羅神社の言い分は、崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、というようなものだったのではないでしょうか。
 廃仏毀釈の風潮は依然として強かったものと思われます。政府は十分な調査もせず事比羅神社の願いを承認し、頓証寺は白峯神社と改称されて事比羅神社の摂社となります。これに伴い、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が事比羅神社に移されました。

 しかし、廃仏毀釈の風潮が沈静化してくると、白峯寺住職と地元信徒らは、頓証寺の復興運動を始めます。その言い分は、白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで管理しているのはおかしい、というものです。それが認められ、県の命令で、白峯神社とされていた頓証寺が、金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、元の仏堂に復することができたのは、明治31年(1897)9月のことです。おそらく、現在金刀比羅宮境内地にある白峯神社の社は、このとき頓証寺が白峯神社で無くなったため、造営されたものではないでしょうか。
 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から独立したものの、頓証寺から金刀比羅宮に移されていた宝物の取扱いについては、当時、相当に紛糾したようです。白峯寺の言い分は、歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。一方の金刀比羅宮の言い分は、明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無いということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつかず、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物のすべてが返還されなかったようです。元々頓証寺にあった宝物で今も金刀比羅宮で保管されているものの代表例としては、重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」があります。
 昭和40年にもこの問題がぶり返し、坂出市の松山青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるでしょう。

 なお、この記事を読まれる場合には、次の記事も参考にしてください。
(21)“こんぴらさんはガンジス川のワニ”
(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”
(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”
(123)“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”

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(128)“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”

 古事記は、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた帝紀・旧辞を書き記し、編纂した日本最古の歴史書です。また、日本書紀は、養老4年(720)に舎人(とねり)親王らの撰で、神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う日本における最古の正史です。いずれも奈良時代の初期に書かれたもので、両方をあわせて「記紀」といいます。
 記紀には、初代天皇である神武天皇の出生にまつわる山幸彦豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の物語が書かれています。その舞台となったところは、一般的には南九州だといわれていますが、讃岐の島にもこの物語が伝わっています。

 記紀に書かれている山幸彦豊玉姫命の物語は若干内容に差異があり、また登場人物の表記にも差異がありますが、おおむねのストーリーは次のようなものです。
 大綿津見神(おおわたつのかみ)は、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)ともいい、海底の綿津見神宮に住み海や水を支配する海神です。名前の「綿」は海を意味します。大綿津見神はその娘に姉の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)がいました。
 一方、地上では、邇邇芸命(ににぎのみこと)が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との間にもうけた3人の息子がいました。長兄が火照命(ほてりのみこと)、次男が火須勢理命(ほすせりのみこと)、末っ子が火遠理命(ほおりのみこと)といいます。この3人は、木花咲耶姫が、邇邇芸命との一夜の交わりで身ごもり、そのことを邇邇芸命に疑われ、その疑いを晴らすために産屋に火を放ち、その中で生まれました。
 なお、邇邇芸命は天照大神の孫にあたり、三種の神器と稲穂と榊を持ち日向の高千穂に降り立った天孫降臨の神です。木花咲耶姫は山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘です。
 3人の息子のうち、火照命は海幸彦ともいって、海で漁をするのが上手でした。末っ子の火遠理命は、山での狩猟が得意であったために山幸彦と呼ばれていました。あるとき、山幸彦は兄の海幸彦を説得して、互いの狩りの道具を交換して獲物を捕ることにします。海幸彦の釣り針は山幸彦が持ち、山幸彦の弓矢を海幸彦が持ちました。ところが山幸彦は、漁をしているうちに兄の釣り針を波間で失ってしまいます。山幸彦は仕方なく家に帰り、わけを話して兄に許しを請います。しかし、もともと二人はあまり仲がよくなく、兄は大事な釣り針だから探してくるまで家には入れぬと突っぱねました。しかし、落とした場所は広大な海で探しきれるものではありません。そこで、山幸彦は自らの剣を砕いて千本の釣り針に鋳なおして兄に献上します。それでも兄は許してくれません。
 途方にくれた山幸彦が悲嘆にくれて海辺にたたずんでいると、波間から塩椎神(しおつちのかみ)という老翁が顔を出し、悲しみの理由を尋ねました。それを聞いた老翁は小舟を作り、それに山幸彦を乗せ、波間に押し出しながら、「このまま潮に従って行けば海神(わたつみ)の宮に行けるだろう。着いたら門の脇の桂の木に登って待つといい。そうすれば海神の娘が出てきて相談に乗ってくれるだろう。」と告げます。
 山幸彦は、言われたとおりに海神の宮へ赴き、桂の木に登って待ちます。やがて美しい娘がやってきました。この宮の姫の豊玉姫です。姫は一目で山幸彦の素晴らしい姿に魅せられ、早速父に報告し、その許しを得て山幸彦と結婚しました。
 夫婦となった豊玉姫と山幸彦は、海神の宮で楽しく幸せに暮らしますが、結婚から3年後のある日、山幸彦はふと自分が何をしにここにやって来たのかを思い出し、帰らなければと豊玉姫に告げます。そのとき豊玉姫はすでに彼の子を宿していましたが、父にそのことを話したところ、父も承諾し、海幸彦の釣り針を飲み込んでいた鯛を捕らえて針を取り戻し、さらに呪文と塩満玉(しおみつたま)、塩乾玉(しおひるたま)という2つの宝玉を山幸彦に与えます。こうして山幸彦は豊玉姫を海神の宮に残し、宝物を持って一人地上へ帰っていきます。
 再び大地を踏んだ山幸彦は、兄の仕打ちに対する報復として海神から授かった呪文を使い、兄の国をたちまち貧乏にしてしまいます。これに怒った兄は山幸彦の国に攻めかかりましたが、山幸彦は兄を塩満玉によって溺れさせ、兄が命乞いをすると今度は塩乾玉の力で助けます。これによって山幸彦は海幸彦を服従させ、支配者となります。
 豊玉姫は、間もなく地上の山幸彦のもと行き、「海の国で天津神の子を産むのは畏れおおいので、この国へ来ました」と夫に妊娠していることを告げます。山幸彦は妻のため、海辺に鵜の羽を集めて産屋を造り始めます。しかし、屋根を葺き終わらないうちに産気づき、夫に「決して中を覗いてはいけません」と念を押して産屋に籠もります。
 しかし、それを不思議に思った山幸彦は、中の様子をこっそり覗いてしまいます。すると、そこには身をもがく八尋和邇(やひろわに)の姿があり、驚いた山幸彦はその場を逃げ出してしまいます。(一尋は180㎝ですから、八尋は14.4mになります。また和邇とは鮫のことだといわれています。)このことを出産後に知った豊玉姫はこれを恥じ、産んだ子を地上に残したまま「もう以前のように海と陸とを自由に往来して親しむことはできません」と言い残して海と地上との通路を遮断して海の宮へ帰っていきました。このとき生まれた子が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)です。葺草(ふきくさ)の代わりに鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、「葺き合えず」と名付けられることになったといいます。
 しかし、豊玉姫は、海へと帰った後も山幸彦への恋しい思いと我が子への気がかりから、妹の玉依姫を地上に遣わし、生まれた子の世話を頼みます。やがて成人した鵜葺草葺不合命は、自分の育ての親で、自分の叔母に当たる玉依姫と結婚し、4人の子をもうけます。4人の子のうち、第4子を神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)といいます。この後、神倭伊波禮毘古命は、日向(ひむか)の国から東の大和の国へ向かい、橿原で日本の初代天皇に即位します。これがいわゆる神武天皇の東征です。つまり、山幸彦の子が鵜葺草葺不合命であり、その子が初代神武天皇だということです。
 したがって、天照大神の孫にあたる邇邇芸命は、神武天皇の曾祖父にあたります。山幸彦は神武天皇の祖父にあたり、豊玉姫は神武天皇の父方の祖母、かつ、母方の伯母にあたります。また、大綿津見神は神武天皇の曾祖父でもあり祖父でもあります。大山津見神は神武天皇の曾祖父にあたります。
 豊玉姫はしばしば浦島太郎の童話で知られる龍宮の乙姫と同一視され、また海の神の娘ということで、雨乞い・止雨の神としての信仰もあり、また孫が神武天皇になったということから子孫繁栄の神としても崇敬されています。また、安産や縁結びの神としても広く知られています。

 香川県の高松市沖には、南から北に、女木島男木島豊島という島が連なっています。これらの島などには、記紀の物語に登場する山幸彦と豊玉姫にまつわる神社、地名、伝説が数多く残されています。
 その中心舞台が男木島です。この島には、豊玉姫を祀る「豊玉姫神社」と、山幸彦を祀る「加茂神社」があります。山幸彦と豊玉姫は「神井戸」で出会い、「殿山(でんやま)」の東の「御宅(みやけ)」で暮らし、豊玉姫は「こもが浜」でお産をしたといわれています。その場所は現在の男木島灯台の辺りだといわれています。そして、豊玉姫が安産の祈願を願いながら籠もり余生を過ごしたところが「豊玉姫神社」のあるところだといわれています。
 また、女木島には玉依姫を地上に送ったという鰐(わに)を祀った「荒多神社」があります。玉依姫を海の国へ連れて帰るものだと思っていた鰐は、女木島男木島の潮の流れの速い瀬で玉依姫を待っていましたが、姫がいつまでたっても現れないのでそのまま石になってしまったといわれています。
 さらに、「おぎじま」・「めぎじま」という名称の由来は、それぞれ大姉の島ということから大姫島(おぎじま)、姪の島ということから姪姫島(めぎじま)と呼ばれるようになったものだといわれています(豊玉姫と神武天皇の関係でみれば、玉依姫は甥の妻ということから姪になる)。それが「男木」・「女木」と表記されるようになったのは、平安時代に陰陽道の考えが入ってきてからのことだそうです。
 男木島の豊玉姫神社の鳥居は西の方向に向いており、そこから沖合を眺めると、五色台沖にある大槌島と小槌島が鳥居の両側に立つ門柱のように見えます。この二島の辺りは、槌ノ戸(つちのと)といわれる海で、山幸彦が釣針を探しても見つからず思案に暮れていたときに塩椎神(しおつちのかみ)が現れたところといわれています。大槌島・小槌島の間には、龍宮城があると信じられ、その入り口は、亀水の淵(亀水町・下笠居)と考えられていました。
 男木島の北には産業廃棄物の不法投棄事件で全国的にも有名になった豊島(てしま)があります。この島には豊玉姫・玉依姫姉妹の父である大綿津見神すなわち豊玉彦を祀る「豊玉神社」があります。豊島の地名は、室町時代の初めの応永2年(1395)の文書にみえ、延元4年(1339)以上には遡るといいますが、その由来は豊玉彦を祀る島という意味だといわれています。また、この島の西南には、鵜葺草葺不合命が生まれたという伝承の残る「神子ヶ浜(みこがはま)」という海岸があり、その海上にはかって石の鳥居が立っていたそうです。
 また、男木島・女木島から南東の方向に海を渡り四国本土に向かうと、屋島の西側にある新川の河口に行き着き、そこを南に遡っていくと現在の三木町に辿り着きます。そこには「鰐河(わにかわ)神社」と「和爾賀波(わにかわ)神社」という二つの古い神社が鎮座しています。いずれも、豊玉姫を祭神としており、豊玉姫が鰐に乗って川を遡上して来たという縁起が残っています。これらの神社が鎮座する地は、現在ではかなり海から離れたところになっていますが、古代は海岸線がもっと南に後退していたと思われ、川を通じて海との往来も可能だったのではないかと考えられます。

 史実かどうかは別として、記紀によると、神武天皇は九州の日向国から東征に出発されたとされており、また、山幸彦・豊玉姫の物語はそれより前のものですから、この物語の舞台を讃岐の島だとし、神武天皇の出生地を讃岐だと考えることには無理があるように思われます。では、どうして讃岐の島に山幸彦・豊玉姫の物語が伝わっているのでしょうか。
 これは全くの想像ですが、神武東征が史実だとすれば、九州から大和に向かう神武天皇一行の旅は、瀬戸内海を船で東へ進んだものと考えられます。その航海には、航海術や地理に長けた瀬戸内海を支配する海人族の協力が不可欠だったものと思われます。大和へ向かう神武天皇一行は、豊島・男木島・女木島を中心に東備讃瀬戸一帯を支配していた海人族と接触し、その協力を得ることができたのではないでしょうか。そうだとすれば、その時、神武天皇一行が、自分たち一族の正統性を説くために、その出自に関わる物語を、豊島などを根拠とする海人族に語り伝えたとしても不思議ではありません。それを聞いた海人族はその物語を自分たち一族の物語として取り込み同化させていったのではないでしょうか。

 記紀には国生みの物語が書かれています。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、淡路之穂之狭別(あわじのほのさわけ)島から始まり、伊予之二名(いよのふたな)島、隠伎之三子(おきのみつご)島、筑紫(つくし)島、伊伎(いき)島、津(つ)島、佐度(さど)島、大倭豊秋津(おおやまととよあきづ)島、と順番に生んでいきます。現在の淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州です。これらを総称して大八島(おおやしま)といいます。
 そして次に、吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)、大島(おおしま)、姫島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごじま)、と6つの国土を生みます。通説では、吉備児島は岡山県の児島半島、小豆島は香川県の小豆島、大島は山口県の周防と屋代島、姫島は大分県の国東半島の北東に浮かぶ姫島、知訶島は長崎県の五島列島、両児島は五島列島よりさらに西の沖にある男女群島の男島と女島を指すと考えられています。
 通説では、最初の吉備児島・小豆島の2島だけは備讃瀬戸にあるにもかかわらず、大島・姫島・知訶島・両児島の4島は突然そこから遠く離れたところになっています。しかし、記紀の著者は物語性を持って書いたものと思われ、そうだとすれば6島はすべて近い距離にあると考えるのが自然ではないでしょうか。東備讃瀬戸で小豆島の次に大きい島は豊島です。しかも豊島は豊玉彦という親の島です。そう考えると、「大島」は親の島という意味で豊島、「姫島」はその娘の島という意味で男木島・女木島のことではないでしょうか。そして、両児島はその形から大槌島・小槌島を指しているのではないでしょうか。さらに、直島神功皇后が三韓征伐の時、吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいますから、それが訛って「チカノ島」すなわち知訶島といわれたのではないかとも考えられます。

 真偽のほどは確かめようがありませんが、豊島、男木島、女木島などを中心とした島は、神話の島といえるでしょう。特に、豊島は、今ではごみの島というイメージが定着してしまっていますが、かっては、山の神である大山津見神を祀る大三島の大山祇神社とともに、海の神である大綿津見神を祀る島として瀬戸内海を支配する海人族の信仰の中心だったところではないでしょうか。

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(127)“神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承”

 瀬戸内海沿岸には人口100万人を超える政令指定都市が3つありますが、その一つ神戸は、港とともに近代以降に発展した都市といえます。幕末の慶応3年(1868)に兵庫港が開港した当時、神戸の人口は2万人程度だったようですが、約70数年後の昭和16年(1941)には100万人の人口を擁する都市へと発展しています。しかし、その歴史は古く、現在の神戸港は、瀬戸内海航路の物資集散地や大陸との交易の拠点として栄えた大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた古代の港に始まります。
 神戸市兵庫区に島上町というところがあります。ここに地元では築島寺(つきじまでら)の名称で親しまれている来迎寺(らいごうじ)という寺があります。本堂正面の上には平家清盛流の蝶の家紋が飾られている平家ゆかりの寺です。この寺の境内には、松王小児(まつおうこんでい)と祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)姉妹のものといわれる供養塔があります。これらには平清盛にまつわる物語があり、讃岐にもこれらにつながる物語が残されています。

 平安時代末期の二条天皇の御代、平清盛は、宋(中国)との貿易を拡大するため、その拠点となる大輪田泊の大修築を企てます。大輪田泊は旧湊川河口とその西側にある和田岬に挟まれた入江にあり、和田岬が西風を防いでいましたが、旧湊川の氾濫や風波で東北側の堤防がたびたび決壊していました。そこで、清盛は東南の沖合いに強固な人工島を築造して東南の風からの防波堤にしようとしました。なお大輪田泊は現在のJR兵庫駅の東、新川運河の辺りだと考えられています。
 清盛が築造を企てた人工島の大きさは、甲子園球場が7~9つ入るほどの規模だったといわれており、民役5万人を動員して塩打山(塩槌山)を切り崩し、約3キロにわたって海中に突き出す工事を行わせたといいます。しかし、潮流が早いため非常な難工事となり、完成目前に押し流されることが二度に及びました。
 このため、さすがの清盛も逡巡し、今後の方策を当時の陰陽博士、安部秦氏に占わせます。すると、これは竜神の怒りであるから、30人の人柱と一切経を写書した経石を沈めて築くとよい、との言上でした。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構えて往来する旅人から30人を捕らえさせますが、さすがに罪の深さを知り、決行に踏み切ることを躊躇していました。
 このとき、清盛の侍童(じどう)をしていた松王小児という当時17歳の少年がすすみ出て、「30人の身代わりにわたし一人を沈めて下さい」と申し出ました。松王小児は、讃岐の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の出身で、その父は中井城主・中井左馬允といい、その祖父は香川郡辺河村(かわなべむら)(現在の高松市川部町)にあった中田井城の城主・中田井民部です。中田井民部のときに居城を辺河から隣接の円座に移し、中井姓を名乗っていました。中井氏は代々、平清盛に仕えてきた家柄で、松王小児も清盛に見出され、14歳のときからその側近として仕えていました。
 なお、現在の高松市仏生山町の法然寺の南側には平池(平家池)というため池があり、この池は高倉天皇の御代の治承2年(1178)、平清盛の命令を受けた阿波民部田口良成(たぐちよしなり)によって築造されたといわれています。当時、この高松の辺りは平氏の支配下にあったのかもしれません。ちなみに、この池には、人柱になった少女の「いわざらこざら」の伝承が残っています。
 松王小児の言葉に大いに感心した清盛は、その意志を入れ、応保元年(1161)7月13日、一切経を写書した経石と松王小児を入れた石櫃が沈められました。こうして、承安4年(1174年)、難工事であった埋立も竣工しました。その埋立地は経文を記した石を沈めて基礎としたので経が島(きょうがしま)と呼ばれ、その上にできた町は経が島の上にできた町という意味から「島上町」といわれるようになりました。ただし、一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考え、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使い、その後、無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったともいわれています。経が島は、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速道路3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられています。
 二条天皇は自ら人身御供(ひとみごくう)になった松王小児に感動され、その菩提を永く弔うため寺を建立しました。その寺が、今の来迎寺だということです。讃岐にも現在の高松市円座町に松王小児の墓が残っています。

 次は祇王と祇女の物語です。
 平安時代末期には、白拍子(しらびょうし)という歌舞が流行していました。これは、水干(すいかん)・立烏帽子(たてえぼし)・緋の長袴を身につけ、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持って舞う芸能です。この言葉が転じてこれを舞う遊女も白拍子と呼ばれ、その中には身分の高い貴族や武士の屋敷に出入りし、その愛人になった者もいました。その代表的な女性が源義経の愛人だった静御前です。
 平清盛が権勢を振るっていた頃、祇王と祇女という白拍子の姉妹がいました。姉の祇王は清盛の寵愛を受け、その母や妹も面倒をみてもらい何不自由の無い生活をしていました。そこへ、仏という名の白拍子が清盛に目通りを請いに来ました。清盛は最初は全く取り合いませんでしたが、祇王のとりなしでしぶしぶその舞を見ます。ところが、その舞を見て、たちまち仏に心を奪われ、邪魔になった祇王を屋敷から追い出してしまいます。
 涙ながら屋敷を出てもとの貧乏暮らしをしていた祇王らのところに、ある日、清盛から仏御前が寂しそうなので参上してなぐさめよという使いが来ました。祇王は行く気もありませんでしたが、母に諭されてやむなく参上しました。ところが、その扱いは非常に冷淡なものでした。それでも涙を抑えつつ歌い舞い、公卿から侍にいたるまで、見た者はみな感涙に耐えませんでした。しかし清盛の言葉は、冷淡なものでした。
 祇王は、悔しさと悲しさのあまり、妹とともに自害しようとします。しかし、母に諭され思いとどまります。そして、母と2人の娘は、共に剃髪して嵯峨の山里にあった小さな庵に籠もり、そこで念仏三昧の静かな暮しに入りました。
 その後、ある日、その庵に、剃髪して尼になった仏御前が訪れてきました。4人は一緒に庵に籠もり念仏三昧の日々を過ごし、それぞれ往生を遂げました。その庵は今の京都の奥嵯峨にある祇王寺だということです。
 神戸の来迎寺に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨で庵を結んだ後、平家が滅んだため、平家ゆかりの兵庫の寺に住持して一門の菩薩を弔ったということです。
 一方、讃岐に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨に身を隠した後、清盛からもう一度よりを戻したいという誘いを受けましたが、それを振り切り、海を渡って讃岐の安原郷下谷の里に一時落ち着いたとされています。そこは現在の高松市香川町東谷地区の祇園山(標高275メートル)西麓にある専光寺という寺の門前付近だといわれています。そして平家が滅んだ後、姉妹は奥嵯峨に戻ったとされています。
 祇園山はかって「祇王山」と呼ばれ、この寺の山号も祇王山頓乗院といい、姉妹の念仏だったという石仏が本堂に祀られ、寺の記録にも姉妹のことが記されているそうです。また、この寺の近くには姉妹の後を追ってきた仏御前にちなむ「仏坂」という地名も残っているそうです。
 ちなみに、高松市香川町東谷には、祇園座という農村歌舞伎が残されており、この地区が祇園山を仰ぐことから祇園座というようになったといいます。祇園座は、安政年間(1854~1860)には既に行われていたといい、芸能をよしとした祇王・祇女姉妹の隠棲の地にふさわしく、今もその伝統を守り活動が続けられています。

 松王小児や祇王・祇女姉妹の物語が史実かどうかは分かりませんが、神戸と讃岐に平清盛にまつわる同一人物の物語が残っているのは興味深いことです。また、神戸市の西部に位置する須磨海岸には、平安時代初期の仁和2年(886)、在原行平(ありわらのゆきひら)が須磨に流され蟄居していたとき、松風、村雨(むらさめ)という潮汲みの姉妹を愛したという伝承が残っており、この姉妹の出身地は塩飽の本島だといわれています。
 これらの物語は、神戸と讃岐は瀬戸内海で結ばれ、古くから船での往来が頻繁にあったことを示しているのではないでしょうか。

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(126)“讃岐にも残る北条時頼の廻国伝承”

 北条時頼(ほうじょうときより)は、鎌倉幕府第5代執権を務め、幕府政治を磐石なものとした名君といわれる武将です。元寇を戦った執権として知られている北条時宗はその息子です。その政治は質素・倹約を旨とし、弱小御家人の保護や撫民に主眼をおく仁政だったといわれています。隠居後は出家して最明寺入道と名乗り、僧に身をやつして諸国を漫遊し、民の暮らしを視察したという廻国伝承が全国各地に残っています。中でも有名なのが、謡曲「鉢の木」(はちのき)の物語です。この物語は、次のようなものです。
 僧の姿に身をやつした時頼が、大雪で道を見失い、近くの貧しい家に一夜の宿を請うた。時頼であるとは知らずに、家の夫婦は粟飯を振る舞いもてなし、また貧しさ故に十分な薪も無いため、秘蔵の梅、桜、松の鉢の木を炉にくべて暖をとった。時頼が主人の素性を尋ねると、佐野源左衛門常世という武士で、一族に土地を奪われ落ちぶれてはいるが、もしひとたび鎌倉に大事が起きれば、「いざ鎌倉」と一番に馳せ参じる覚悟だと語った。その後、鎌倉に帰った時頼が御家人を召集すると、常世は言葉に違わず一番に馳せ参じてきた。忠節に感激した時頼は、かつての雪の夜のもてなしにちなんで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の各荘を領地として与えた。

 讃岐には、高松市塩江町に「最明寺」という寺があり、この寺の縁起によると、元は如意輪寺と称していたが、行脚途中の北条時頼が再興したことにより寺名をその入道名にちなみ変えたということです。また、小豆島町池田の中山地区には殿川ダムがありますが、その麓近くにある八木家には、「鉢の木」物語に類似した物語が伝わっています。話だけでなく、北条時宗から与えられたという文永2年(1265 )5月10日付けの古文書と刀や、亀女という尼僧の木像を安置した四ッ堂という祠が残っているそうです。その物語とは次のようなものです。
 鎌倉時代中期の正嘉元年(1257)から正元元年(1259)の時代、旅僧姿の時頼は小豆島を行脚中、病のため河山村の四ッ堂という小堂の近くの路傍で倒れてしまった。時頼とも知らずそれをみつけた亀女という女性は、二人の幼い男の子を抱えて貧しい暮らしをしていたにもかかわらず、手厚い看病を施した。1年後、亀女が幕府から呼ばれて鎌倉に出向いたところ、そのとき助けた旅僧が出てきて、驚く亀女に謝礼を述べるとともに、褒美として小豆島の河山村一村を与えると告げた。亀女があまりの広さに恐れ入ってそれを辞退すると、時頼はせめて今の住まいの周辺の土地を末代まで安堵するという保証を亀女にした。時頼が亡くなった後、亀女はその土地を一族の者に騙し取られてしまった。時頼の言葉を思い出した亀女は、再び鎌倉に出向き訴え出たところ、ときの執権時宗は早速調べたうえ、その土地を文書でもって安堵したうえ、改めて父頼時が世話になった礼として刀を亀女に与えた。鎌倉からの帰途、亀女は京都に立ち寄り、出家したうえ自己の姿を木像とし、時頼が倒れていた四ッ堂に祠を建て、そこにその木像を安置した。

 北条時頼が諸国を行脚したという史実は無いようですが、伝承によると時頼は受けた恩を決して忘れずそれに報いるという、義理堅い人情豊かな人物として描かれています。しかし、その執権時代は血みどろの権力闘争に明け暮れた人生でした。
 源頼朝によって建久3年(1192)に開かれた鎌倉幕府は、承久元年(1219)3代将軍源実朝の死により20余年で源氏嫡流が断絶します。その後、公家の九条家から2歳の藤原頼経が4代将軍として迎えられます(これを摂家将軍といいます。)。しかし、その地位は形式的なもので、幕府の実権は、頼朝夫人であった北条政子の父、北条時政を初代とする執権が握っていきます。
 承久3年(1221)に起きた後鳥羽上皇の討幕挙兵を鎮圧したことにより、幕府政権は京都の公家政権に対して優位に立ち、皇位継承についても影響力を持つようになります。これを承久の変(じょうきゅうのへん)といいます。しかし、この時期においては、まだ、執権北条氏が幕府内部で権力を独占していたわけではなく、三浦氏や安達氏といった源頼朝挙兵以来の御家人が北条氏と肩を並べるほどの勢力を持っていました。また、北条一門の間においても得宗家(とくそうけ)と呼ばれる嫡流が絶対的権力を有していたわけではありませんでした。幕府内における北条得宗家の独裁的地位を確立したのが第五代執権北条時頼だといわれています。
 北条時頼は、安貞元(1227)年、北条時氏の子として生まれます。最初の武家の法典として有名な御成敗式目(貞永式目)を制定した第三代執権北条泰時は時頼の祖父です。寛元4年(1246)3月、兄の第4代執権北条経時が病で倒れたためその後を受けて20歳で第5代執権となります。しかし、このとき幕府内部では、北条一門の名越光時が執権職などを巡って得宗家に対して強い不満の念を抱いていました。また、藤原頼経は、成人してから実権を掌握しようとしたため、そのまだ4歳の子である頼嗣に将軍職を譲位させられていましたが、なおも鎌倉に留まって前将軍として影響力を行使しようとしていました。
 閏4月、前執権北条経時が亡くなると、そのどさくさに、名越光時が藤原頼経と謀り、執権の時頼を殺害して幕府の実権を奪おうとしました。しかし、その陰謀を事前に察知した時頼は、機先を制して頼経を京都へ追放するとともに光時を伊豆に流します。これを宮騒動(みやそうどう)といいます。
 しかし、この騒動は、有力御家人である三浦泰村の弟・三浦光村が関わっていたことから、次の争いを生じます。なお、三浦光村は、仁治4年(1243)から讃岐守護を務めており、その被官の長雄(長尾)二郎左衛門が宇多津に置かれた讃岐守護所に代官として赴任していたようです。
 宝治元(1247)年5月以後しばしば三浦一族叛逆の流言が鎌倉で飛び交うようになります。これは三浦泰村に対抗するもう一方の有力御家人である安達景盛の挑発作戦でした。景盛は北条時頼の外祖父にあたり、三浦一族と安達一族はいずれ雌雄を決しなければならないと考え、子の義景や孫の泰盛らに戦いの準備を命じていました。しかし、泰村はなかなか挑発に乗りませんでした。こうした中、時頼が三浦一族の武装解除を条件に泰村の忠誠を認め、泰村がそれに従ったところ、安達一族がその虚を突いて三浦邸に大軍を率いて奇襲攻撃をかけました。騙し討ちされた泰村は、源頼朝の墓所である法華堂に籠もり、頼朝の絵像を前にして一族500余人と共に自害しました。ついで、時頼は、泰村の妹婿である千葉秀胤を攻撃して滅ぼします。これを宝治合戦(ほうじかっせん)といい、ここに北条得宗家の独裁的地位が確立しました。
 さらに、建長4(1252)年、北条時頼は、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍藤原頼嗣を廃立し、新たに後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を6代将軍に迎えます。以後鎌倉は皇族が将軍に就くことになります。これを宮将軍または皇族将軍といいます。しかし、これにも将軍としての力は全くなく、幼少期に就任し、成人すれば退位させられるという形でした。

 康元元年(1256)、時頼は30歳で執権職を退き、その地位を庶流の北条長時に譲り、出家します。しかし、これは、嫡子の時宗がまだ幼少のため中継ぎとして長時に執権職を譲ったもので、時頼は出家後も幕府内での最高権力者として政治の実権を握り続けます。このときから、執権が北条氏の庶流出身者である場合、その時の最高権力者は執権ではなく得宗だという得宗専制政治が始まったと考えられており、執権と得宗の権力が分化し、得宗が執権の上に立つこととなったといわれています。
 これとともに、鎌倉御家人たちの忠誠の対象も、幕府という組織から得宗家に移っていったのではないでしょうか。全国各地に残る北条時頼の廻国伝説は、得宗家に対する忠誠心を分かりやすく説いたものではないでしょうか。
 弘長3(1263)年、時頼は37歳で亡くなります。吾妻鏡には袈裟を着て、坐禅を組んで、泰然として目を閉じたと記されています。時宗が8代執権に就いたのは時頼死後の文永5年(1268)です。

 得宗専制政治は、幕府政治に安定をもたらしたものの、その後、得宗家の私的な家人であった御内人がいつしか執権をも凌ぐ勢力を持ちはじめ、政治に絶大な影響力を行使するようになります。弘安8年(1285)年11月、御内人の平頼綱が安達泰盛を攻撃し、安達一族は500人が自害し又は討たれました。これを霜月騒動(しもつきそうどう)といいます。泰盛は宝治合戦のとき、北条時頼とともに三浦氏を滅ぼし、得宗専制政治の確立に一役かいましたが、今度は自分がつくりあげた得宗専制政治により滅びることになったわけです。
 有力な御家人がいなくなったことで、鎌倉時代中期以後には、北条氏及びその一族が全国4分の3以上の国々の守護職を占めることになります。讃岐守護も、三浦光村の後、北条重時、北条有時、北条守時など北条一門が占めています。

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(125)“その先祖が平賀源内を教えたという菊池寛”

 平成14年、「真珠夫人」というテレビドラマが一躍人気番組となり、またその原作者が文豪の菊池寛だということで話題になりました。菊池寛といえば、「父帰る」、「恩讐の彼方に」など硬い純文学のイメージがあり、このような大衆小説も書いていたことに多くの人が「ヘェー」という意外感を抱きました。菊池寛は大衆小説の執筆だけでなく、文芸春秋社の創設、大映の初代社長になるなど実業家としても活躍しています。また、ジャーナリズムと映画という新しいメディアの創出にも大きく関わり、さらに、昭和10年(1935)には、芥川賞・直木賞を創設し、また小説家協会や劇作家協会を設立するなど、作家の地位向上や新人の育成にも尽力して文壇の大御所と呼ばれました。

 菊池寛は、明治21年12月26日、当時の香川県香川郡高松七番丁(現高松市天神前)に父武脩(たけなが)、母カツの四男として生まれました。本名は「ひろし」と読みます。寛が生まれた明治21年12月は、讃岐が明治9年8月に愛媛県に編入されて以来12年ぶりに第三次香川県として愛媛県から分離独立した年でした。
 寛の実家である菊池家は、江戸時代、高松藩の儒学者だった家柄で、今日でいえば学者の家系でした。しかし、明治維新後に家禄を失い、父の武脩は小学校の庶務係りのような仕事をしていたようで、当時の菊池家は貧しい暮らしを余儀なくされていました。
 寛の祖父は武章(たけあき、号は所(てきしょ))といい、江戸の林家の塾に学んだ後、高松藩の儒者となっています。幕末の禁門の変(元治元年(1864))や第二次長州征伐(慶応2年(1866))にも従軍し、明治3年(1870)に51歳で亡くなります。3代前の曽祖父は武幹(たけもと、号は藻州)、4代前は縄武(つなたけ、号は守拙)、5代前は武保(たけやす、号は室山)といい、同じく林家の塾に学んだ後、高松藩の儒者となっています。縄武の弟には、江戸で活躍した菊池五山がおり、五山は同じく高松藩出身の後藤芝山、柴野栗山に学んだ後、江戸本郷の五山堂に住み、寛政の四大詩人とまでいわれました。
 6代前は武賢(たけまさ、号は黄山)といい、宝暦初年、高松5代藩主の頼恭(よりたか)に才覚を見出されて藩学講堂の儒者となった人物です。黄山は文武両面にわたって優れた人物だったようで、後藤柴山など多くの高弟を育てています。おもしろいことに、日本のレオナルドダビンチといわれる平賀源内も、若い頃、黄山の下で学んでいます。源内も頼恭に見出された人物であり、頼恭は人物の才能を見抜くことのできる名君だったといわれています。

 菊池寛は、高松藩の儒者の家柄に育った所以かもしれませんが、少年時代から作文が得意で、懸賞作文などに入選して文才の片鱗を見せたといわれています。また、高松に初めて図書館が建設されると、月5銭の図書券の第1号を購入し、学校の帰りに毎日通って蔵書2万冊余のほとんどを読破したともいわれています。しかし、神経質な秀才タイプではなく、物事にはあまりこだわらない性格だったようです。少年時代、好きな釣りをしているとき、昼食のおむすびを入れたポケットに釣った魚をそのまま無造作に突っ込み、ミミズの這っているおむすびを気にもせず食べていたというエピソードが残っています。また「もず博士」と呼ばれるほどもず狩りを得意としていたといわれています。
 明治41年(1908)20歳のとき、高松中学校を首席で卒業しますが、家が貧乏なため、学費免除の東京高等師範学校に進みます。しかし、授業料免除という理由だけで入学したこともあり、授業に出ず、放縦不羈を理由に除籍されます。その後、地元の素封家の経済支援を受け、明治大学法科に入学しますがそこも約3か月で退学します。
 その後、徴兵を逃れるため一時早稲田大学に籍のみを置いていましたが、22歳の時、第一高等学校第一部乙類に入学します。そこで出会ったのが、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、山本有三、土屋文明、倉田百三(ひゃくぞう)などの友人です。
 しかし、卒業を3か月前にして、友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学となります。俗にいうマント事件です。友人の働きかけで、後に疑いが晴れるものの、前言を翻すのは卑怯だと態度を変えることはなかったといいます。そのときの一高校長は新渡戸部稲造(にとべいなぞう)です。

 大正2年25歳のとき、友人の成瀬正一の実家の援助を受けて、京都帝国大学文学部英文科に入学します。友人たちと同じく東京帝国大学への進学を希望していましたが、入学を拒まれたようです。しかも、旧制高校卒業の資格がなかったため本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされました。京都時代は、大学の講義や学生生活にも失望し、東京の友人たちに対するコンプレックスに苛まれた暗い生活だったようです。
 そんなとき、一高時代の友人らに誘われ、第3次「新思潮」の同人となります。さらに、第4次 「新思潮」を芥川・久米・松岡・成瀬・菊池の5人で発行し、後の代表作となる「屋上の狂人」、「父帰る」を発表します。しかし、「鼻」を夏目漱石に激賞され、一躍脚光を浴びた芥川龍之介とは対照的に、寛の作品は注目されることはありませんでした。

 大正5年、28歳のとき、大学を卒業します。しかし、そのまま作家活動に専念するのではなく、東京で時事新報の社会部記者となり、サラリーマンと作家の二束の草鞋を履きます。翌年には同郷の奥村包子(かねこ)と結婚しています。
 そして、大正7年30歳のとき、「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などを発表して文壇に躍り出、続いて翌年に「恩讐の彼方に」を発表して作家としての地位を確立していきます。時事新報社を退職して文筆活動に専念するのは、この年からです。
 その後、「真珠夫人」の連載と「父帰る」の上演の成功により、一躍人気作家となっていきます。「真珠夫人」は、大正9年に大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載された小説で、この連載が評判を呼び、両紙の発行部数は大正10年には100万部を突破したといいます。

 菊池寛は、いつも服のポケットに紙幣をクシャクシャにしたまま突っ込み、貧乏な文士を見ると無造作に取り出して与えていたといい、面倒見の良い親分肌の人だったようです。また、東京市会議員を務めたり、落選しましたが衆議院議員にも立候補するなど政治にも関心があり、現実主義的生活観の持主だったようです。後に、菊池寛は、「半自叙伝」の中で、自分は「生活第一、芸術第二」を信条とし、「小説を書くことは生活のためであつた。」「清貧に甘んじて立派な創作を書かうといふ気は、どの時代にも、少しもなかつた」と、述べています。昭和23年3月6日、狭心症の発作で突如息を引き取りました。

 明治中期頃生まれの旧高松藩士の子弟で、その後中央で活躍した代表的な人物といえば、党人政治家として政界で活躍した三木武吉(明治17年生)と文学界で活躍した菊池寛(明治21年生)でしょう。二人とも新政府の官僚とか軍人のような立身出世は目指しておらず、最初、三木武吉は弁護士、菊池寛は新聞記者となっています。
 高松藩は幕末の鳥羽伏見の戦いで朝敵となったため薩長から睨まれ、旧高松藩士やその子弟は新政府の官僚や軍人にはなかなか登用されなかったといわれています。明治期には旧高松藩士の子弟は陸軍士官学校に入学できず、籍をわざわざ大阪に移して受験した者もいたというような話もあったそうです。実際、明治から大正にかけて旧高松藩士出身者で中央の軍、官界で名を成した者はきわめて稀で、陸海軍とも大将はついに出ず大将無しの県といわれたそうです。
 このことと、三木武吉と菊池寛というどちらかといえば在野的な人物が明治期の高松から輩出しているということと何らかの関係があるのかもしれません。ちなみに、二人とも高松藩藩儒の家柄の出です。

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