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(123)“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”

 四国八十八カ寺八十一番札所白峯寺は、五色台の白峯山にあります。平安時代初期の弘仁6年(815)、弘法大師が白峯山中に如意宝珠を埋めて井戸を掘り、衆生済度を祈願したところ水が湧き出したのが始まりで、その後、貞観2年(860)年弘法大師の甥にあたる智証大師円珍が海に浮かぶ霊光を放つ流木を引き上げて白峯に運び、千手観音を彫って安置したのが現在の本尊だといわれています。
 2基の「十三重石塔」を右手に見ながら参道を進み、境内入り口の七唐門という山門をくぐると、左側に茶堂、右側の土塀の向こうに本坊、正面に護摩堂があります。さらに進むと参道は左に折れ、その正面に勅額門という門があり、その門の中に堂宇(どうう、格式を備えた寺の建物)があります。またその門の手前右上から石段を登ると、その途上と登り切ったところにも数棟の堂宇が建ち並んでいます。
 参拝者の中には、勅額門の中にある堂宇を白峯寺の本堂と思っている人が多いようです。しかし、この堂宇は、本来白峯寺とは全く別の頓証寺(とんしょうじ)という寺で、平安時代末期の建久2年(1191)、後白河法皇の命により建立されたものです。本来の白峯寺は、勅額門手前の石段を登る途上にある薬師堂・鐘楼堂・行者堂・廻向堂・阿弥陀堂などと、登ったところにある観音堂(本堂)・大師堂などです。

 後白河法皇は鳥羽天皇の皇子で、久寿2年(1155)、近衛天皇の後を受けて第77代天皇に即位しました。保元元年(1156)に起きた乱(保元の乱)で兄の崇徳上皇と争い勝利し、保元3年(1158)には、二条天皇に譲位して院政を開始しました。その後、建久3年(1192)3月、66歳で亡くなるまで、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代34年にわたって院政を続けました。この間、嘉応元年(1169)に出家し、法皇となっています。
 保元の乱から建久3年(1192)7月に源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの36年間は、古代から中世への時代の変わり目における我が国の動乱期でした。この間、保元の乱に始まり、平治の乱(平治元年(1159))、平清盛の太政大臣就任(仁安2年(1167))、鹿ヶ谷の陰謀(治承元年(1177))、いわゆる源平の戦いと呼ばれる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん、治承4年(1180)~元暦2年(1185))、源義経の死(文治3年(1187))と目まぐるしく時勢は移り変わり、多くの皇族、公家、武士などが華々しく歴史の舞台に登場しては消え去っていきました。その中において、後白河法皇は、動乱のこの時代にあって常に主人公の一人として登場しながら、最後までしぶとく生き抜いた人物です。
 後白河上皇は、「今様狂い」と称されるほど今様好きで、敵対関係にあった兄の崇徳上皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と評されています。しかし権力抗争には長けた人で、その時々の平氏や源氏の武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討伐という形で使い捨て、自己の権力基盤の維持を図りました。源頼朝は、法皇が征夷大将軍宣下を認めてくれなかったため、その死まで征夷大将軍就任を待たざるを得ず、法皇を「日本国第一の大天狗」と評したといわれています。

 後白河法皇白峯寺の境内地に頓証寺を建立した経緯は、保元の乱に始まります。この乱は、朝廷内における崇徳上皇と白河天皇との権力抗争に端を発し、これに摂関家藤原氏や源氏・平氏の武家の内部抗争がからみ、それぞれが上皇側と天皇側に別れて戦ったもので、「武者ノ世」が始まる歴史の転換点でした。この乱では上皇側の勢力が敗北し、上皇自身も讃岐に配流となります。讃岐に配流となった上皇は、最初、今の坂出市林田町の中川付近にあったといわれる綾高遠(あやたかとう)の館を仮の御所とし、その後近くの長命寺(ちょうめいじ)を経て、保元3年(1158)、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)を行在所とします。その宮は木丸(きのまる)殿と呼ばれました。
 幽閉の身の崇徳上皇は、父の鳥羽上皇を弔うため全190巻ものお経を書き写して都へ送りますが、この写経には呪いが込められているという理由で受け取りを拒否されます。激怒した上皇は、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と言って舌の先を食い切り、その血で誓状を書きつけたお経を海に沈め、以来、爪も髪も切らず、髭も剃らず、柿色の褪せた衣もほころびに任せたまま、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら長寛2年(1164)8月に亡くなったといわれています。上皇の遺体は朝廷の指示により白峯山上で荼毘にふされ、その地に御陵が営まれました。都から遠く離れた所に御陵が造られているのは、白峯陵と下関の安徳天皇陵、淡路島の淳仁天皇陵だけです。
 上皇が亡くなったときから3年後、西行が上皇を偲び白峯御陵に参っていますが、このとき、御陵は草に覆われ荒れ放題だったといわれています。

 崇徳上皇の死後、平氏一族があだ花のように栄華を極めますが、その後、源平の戦いが続いて政治の中心は公家から武士に移っていきます。また、飢饉や洪水なども起こり、不安定な世情となっていき、人々はこれを上皇の怨霊のなせる業だと恐れました。このため後白河法皇は、元暦元年(1184)、保元の乱の戦場であった白河殿の跡に粟田宮を営み崇徳上皇を祀りますが、自身も病気にかかり上皇の怨霊に悩まされました。
 崇徳上皇の怨霊に脅えた後白河法皇は、建久2年(1191)、白峯御陵の前に仏堂を建立し上皇の御霊を慰めることによって、自分の病の治癒を願おうとしました。それは上皇が亡くなってから27年後のことです。この任に当たったのは、遠江阿闇梨章実(あじゃりしょうじつ)という僧で、章実は上皇が行宮としていた府中鼓岡(つづみおか)の丸木殿の材木を使用して仏堂を建立したといわれています。後白河法皇が亡くなったのは、その直後の建久3年(1192)3月のことで、その年の7月に鎌倉幕府が開かれました。「頓証寺」という名は、速やかに迷いを断ち悟りを開く供養を行うところから付けられたといいます。

 その後、頓証寺は、多くの公家や武士から尊崇を受け、多く什器・宝物などの奉納を受けています。「十三重石塔」や頓証寺境内にある石燈籠、白峯陵の石塔も源頼朝が奉納したという言い伝えが残っています。室町時代の応永21年(1414)には、将軍足利義持の執奏によって、後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったことにちなんで「頓証寺殿」(とんしょうじでん)と呼ばれ、その勅額を揚げた山門が勅額門と呼ばれるようになりました。この門の左右の随神は、保元の乱で崇徳上皇に仕えた源為義、為朝の武者像です。頓証寺殿宇の構造は紫宸殿に擬して庭前に左近の桜、右近の橘が植えられ、中央に上皇尊霊、左に天狗の白峰大権現、右に御念持仏十一面観世音菩薩が祀られています。
 現在の建物は、頓証寺、勅額門とも江戸時代初期の延宝年間(1673~1681年)に高松藩初代藩主・松平頼重が再建したものといわれており、その後も歴代高松藩主により手厚く保護されてきました。

 讃岐では、源平合戦の一つとして屋島の戦いが行われていますが、それは崇徳上皇が亡くなってから22年後の出来事です。そして、頓証寺が建立されたのは、それから6年後のことです。讃岐は、保元の乱から源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの動乱期において、歴史の大きな舞台の一つになったところだといえるでしょう。

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