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(122)“海を町に変えた塩づくり”

  町はその形成・発展の要因により、城下町、門前町、港町、宿場町などに分類されます。現在の香川県の町も、高松、丸亀は城下町、琴平、善通寺は門前町、多度津、引田、仁尾などは港町として発展しました。このような香川県の町の中でも、坂出塩田の町としてユニークな発展の歴史を持っています。
 坂出市は昭和17年(1942)に香川県で3番目に市制が施行されました。坂出市の中でも東部地域は、かつて讃岐の国府庁が置かれたり、また崇徳上皇にまつわる社寺仏閣、史跡が残るなど古い歴史を持っています。しかし、西を聖通寺山と角山、東南を笠山と金山で挟まれた現在の市街地の辺りは、かつて遠浅の海と砂州だったところで、街として発展していったのは江戸時代後期以降のことです。その歴史は、塩を採るために人々が集まり、海を塩田にし、さらにそれを基に土地造成を行うことにより展開されました。これに伴い海岸線も北へ北へと大きくシフトしていきました。

 鎌倉時代から室町時代を通じて、讃岐の政治文化の中心だったところは、現在の坂出市街と田尾坂を隔てて隣接する宇多津でした。青ノ山の東麓には讃岐の守護所が置かれ、古くから多くの寺院が建立されていました。
 これに対して、現在の坂出市街の地は、江戸時代までは、海岸線が大きく南に後退し、今の坂出高校や笠山の麓辺りが波打ち際でした。また、笠山の南西にあたる現在の福江町二丁目付近まで入江が大きく湾入し、大束川(あるいはその支流)の河口に続いていました。そこに自然の入江を利用した福江の湊がありました。そして遠浅の海を隔てた北側には、現在の市街西側の八幡町三丁目あたりの付け根から洲加(須賀)と呼ばれる長い砂州が東に向かって延びていました。洲加の東端は現在の坂出商工会館裏にある天満宮辺りだと考えられています。さらに洲加の東側には島津(洲)、横洲と呼ばれる砂州が島のように点在し、これらの砂州は、天然の防波堤の役割を果たしていました。ちなみに、横洲は現在の横津町あたりです。
 想像するに、南側の陸地と北側の砂州で囲まれた遠浅の海は、湾が砂州(さす)によって外海から隔てられ湖沼化した潟湖(せきこ)(ラグーン)に近い地形で、東西に長い楕円形をし、北東の方向が沖合いの海に開けていたのではないかと思われます。そして、この楕円の中心点が現在の坂出駅あたりで、JRの線路が楕円の軸になるような形だったのではないかと思われます。
 この辺りは、古くは山本郷といわれたところで、南北朝時代(延元3年:1338)には、京都・崇徳院御影堂の荘園(北山本新荘)が置かれ、福江の湊が年貢の積み出し港として地域の流通機能を担っていました。

 坂出で塩田の築造が始まったのは、安土桃山時代の文禄年間(1592~1596)の頃だと考えられています。播州赤穂から「塩焼」という塩づくりの技術をもった民人が移り住み、金山と笠山の北麓にあたる現在の谷町あたりで塩田を造ったのが始めてといわれています。この頃の讃岐の領主は生駒親正で、天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられました。この頃、引田や高松にも赤穂から塩焼が移住してきており、生駒氏は讃岐にやってくる前は赤穂の領主だったことから、赤穂から塩焼を呼んで塩作りをさせたのではないかと思われます。
 江戸時代に入っても、赤穂からの流民は増え続けていたようで、慶長年間(1596~から1615)から元和年間(1615~1624)にかけて、赤穂の人々が洲加やその付け根の内浜(現在の八幡町三丁目あたり)に移住し、集落を形成したといわれています。また福江から移住してきた人も多く、福江は「本村」と呼ばれていたそうです。
 彼らは次第に埋没して干潟となっていた入江を塩田に変え、塩業を生業としました。当時の文献によると、赤穂から移り住んだ塩焼の子孫は播磨訛りを話し、坂出には多くの塩釜が炊かれ朝夕をとわず煙が出ていたといわれています。ちなみに、「坂出」という地名は、宇多津から田尾坂を越えて出たところにある集落という意味です。この頃、高松城下から丸亀城下に至る丸亀街道は、金山北麓から笠山南麓へ回り込み、福江を経由して川津・津之郷に出るという経路でした。

 寛永19年(1642)、松平頼重が東讃岐12万石を徳川幕府から与えられ、生駒氏の後の高松城に入り、坂出は高松藩の領地となります。元禄時代(1688~1704)になると、洲加と陸地の間の海は埋め立てにより塩田として利用され、洲加の東側に点在する鳥洲・横洲などの砂州にも集落ができ始めたようです。
 そして、元禄2年(1689)、坂出八幡神社が角山北麓の現在の地(八幡町二丁目)に建立されます。この頃、坂出は各地から移住してきた人々が集まってできた単なる集落から、共同体的意識を持ったムラに転化したものと考えられます。八幡神社と教専寺の界隈である内浜と新浜は、坂出村の臍(へそ)のようなところといえるでしょう。
 しかし、まだまだ寒村だったようで、寛文7年(1677)の記録では、人口は約600人程度でした。この頃、丸亀街道の経路は北へシフトし、笠山北麓から西へ真直ぐ延びて教専寺・八幡神社門前を経て田尾坂を越えていました。
 また、洲加と陸地の間の海の埋め立てにより福江にあった港はその機能を失い、それに代わる新たな港が、洲加の北側の海岸沿いに造られました。これにより、現在の地蔵通商店街周辺にあたる中洲加の界隈が、荷揚げ場を控えたところとして賑わいます。享保17年(1732)には、高松藩の舟番所が林田から西洲加に移され、海に突き出した東洲加には灯台が立てられて船着き場とされます。現在、元町四丁目のやや小高くなった路地のあたりが船着き場の跡で、そこには灯台の記憶を伝える幕末の金毘羅灯篭が今も立っています。
 しかし、元禄年間までに拓かれた塩田は、早くも享保7年(1722)に洪水で壊滅状態となってしまいます。荒廃した塩田は、天明6年(1786)、阿河武太夫によって田畑へと切り替えられます。現在でも標高0.5m以下の低い土地が広がる谷町・室町一帯にその名残りを見ることができます。この当時の坂出は、「田少なく、壮者は往々去って四方に餬口(ここう)す。村は蓋し海に瀕し、海潮満ちつれば則ち村居を浸す。退けば則ち平土数里」(坂出墾田之碑)という状態だったようです。

 江戸時代後期、荒廃した製塩業に新たな活力をもたらしたのが、久米栄左衛門(通賢)による坂出塩田の開発でした。当時、洲加と鳥洲の北側(現在の御供所地区から江尻地区にかけて地域)は、まだ遠浅の海浜で残された入江でした。栄左衛門は、文政12年(1829)、ここにその広さ110余町歩、釜数72という広大な東大浜・西大浜塩田を築きます。また塩田中央部を南北に延びる堀割(現在の西運河)に船溜りが設けられ、天保2年(1842)には西大浜の沖にも波止で囲まれた船溜りが造られます(沖湛甫)。この塩田は当時の讃岐の塩田としては最大規模のもので、これを契機に坂出は塩田の町として大きく発展していくことになります。
 海岸線が北にシフトしたことにより丸亀街道の経路もさらに北にシフトし、金山北麓から西へ真直ぐ延びて現在の元町商店街を経由して田尾坂を越えるルートと付け替えられます。そして、それまで坂出の中心として栄えた中洲加は港湾機能が失われたことにより衰退し、東洲加にあたる現在の元町・本町界隈が賑わっていきました。

 明治時代、坂出は塩の生産量日本一を誇るまで栄えます。しかし、明治後半から大正にかけて、坂出塩田は次第に商工業地としての利用が行われるようになり、また、昭和2~26年に3次にわたって行われた坂出築港事業により、坂出港は埠頭や臨港鉄道を備えた近代港湾として生まれ変わります。
 戦後になると、昭和39年(1964)から、沖合の番の州が埋め立てられ、昭和44年に竣工して川崎重工、三菱化成、四国電力坂出火力発電所等の大企業の工場が立地していきます。一方、イオン交換樹脂膜製塩法の導入により塩田は不用となり、昭和47年、東西大浜塩田での製塩が終焉します。そして、昭和50年代以降、塩田跡地は区画整理事業により埋め立てられ、工業地、住宅地、道路などに転用されていきます。
 坂出は、塩を求めて、常に土地造成という自然地形への積極的な働きかけ行ってきたことによりできた町で、いわば塩づくりが海を町に変えたといえるでしょう。

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(121)“紀伊水道から瀬戸内海へ吉野川の水の流れを変えた用水”

 日本三大暴れ川といえば、「坂東太郎」の利根川、「筑紫次郎」の筑後川、それと「四国三郎」の吉野川です。太平洋から北上してきた台風がぶつかる四国山地は日本有数の多雨地域として知られていますが、吉野川は、その四国山地の西部に位置する高知県土佐郡本川村の瓶ケ森(標高1896.2m)にその源を発しています。その水は、四国中央部を四国山地に沿って東に流れ、高知県大豊町豊永から北に向きを変えて四国山地を横断し、徳島県三好市池田町に至って再び東に向きを変えて徳島平野に入り、紀伊水道に注いでいます。その幹線流路延長は194kmに及ぶ日本有数の大河川です。
 ある河川に降水が流入する全域をその河川の流域といい、流域の互いに接する境を分水界(流域界)といいますが、吉野川の流域面積は3,750km²と、四国の面積18,299.04km²の約20パーセントを占めています。なお、吉野川の流域面積の四国四県での割合は、徳島県63%・高知県28%・愛媛県8%・香川県1%で、香川県も徳島県境に接する東讃の一部地域(三木町、さぬき市、東かがわ市の一部)が吉野川流域に属しており、吉野川は文字通り四国四県にまたがる河川です。

 香川県は瀬戸内海気候の下にあり、降水量が少なく、また、大きな河川もないため、古来から日照りが続くと水不足となって、農業や生活に支障をきたしていました。一方、讃岐山脈の南側を流れる吉野川は「暴れ川」と呼ばれ、氾濫を繰り返し、その流域は長年洪水の被害を受けてきました。そこで、讃岐山脈にトンネルを掘り、吉野川の水を讃岐平野にひくべきだというアイデアが明治期に唱えられました。このアイデアを最初に出したのは、明治時代に活躍した大久保之丞(じんのじょう)だといわれています。之丞は讃岐鉄道の完成に尽力したほか、四国と本州を隔てている瀬戸内海を橋で結ぶという、当時では画期的なアイデアを出した人物としても知られています。「笑わしゃんすな、百年先は財田の山から舟出して、月の世界に行来する」という都都逸(どどいつ)風の歌を之丞はよく歌っていたといいます。

 戦後、之丞のアイデアは吉野川総合開発計画として実現されることになります。この計画は、吉野川上流にダムを築造して貯水池をつくり、これによって洪水調節を行うとともに四国四県に対する新規用水の供給及び電源開発など一連の事業を行うというものです。吉野川の水資源を有効に活用しようというプランは、戦後間もない頃の昭和25年(1950)、当時の建設省、農林省、通産省、四国4県、各電力会社によって吉野川総合開発の原案が作られます。しかし、四県の利害得失が複雑に絡み合い、なかなか実現には至りませんでした。こうした中、開発の機運が急速に高まったのは、昭和35年(1960)の四国地方開発促進法の制定でした。昭和39年(1964)には四県の足並みもそろい、ついに原案作成から16年後の昭和41年(1966)に基本計画が決定されました。
 その事業内容は、高知県の吉野川上流域に「早明浦ダム」を建設し、これと並行して、本・支流に池田ダム(徳島)、新宮ダム(愛媛)などを築造し、洪水調節と発電を行うとともに、新たに生み出される年間8億5,600万 の用水を四県の農業、上水道、工業用水の水源として分水するというものでした。また、香川県では、吉野川総合開発の一環として、吉野川の水を導水する「香川用水」の敷設が計画されました。これは、早明浦ダムの年間水量8億5,600万 のうち2億4,700万 を、徳島県三好市池田町に建設された池田ダムの取水工から讃岐山脈を貫く8kmの導水トンネルを経て三豊市財田町まで導水し、ここから県内陸部を東西に貫通する幹線水路98km(一部トンネル、サイホン)を通じて県内各所で、農業用水・水道用水・工業用水として利用するというものでした。
 早明浦ダムは、昭和42年(1967)に着工され昭和48年に完成しました。多目的ダムとしては西日本一の規模、貯水量は全国第4位です。それとともに、香川用水も、昭和43年(1968)から建設が始められました。讃岐山脈をくり貫くトンネル工事は、山脈が安山岩という格別硬い岩でできているため大変な難工事だったといいます。
 こうして昭和49年(1974)6月1日に初めて通水が行われ、今まで紀伊水道に流れていた吉野川の水が備讃瀬戸の海に注がれるようになりました。106kmに及ぶ香川用水幹線水路の全線に通水が開始したのは、着工から10年後の昭和53年6月11日でした。昭和25年の計画発表から実に24年の歳月と、総工費3,200億円(うち香川県負担分1,154億円)という莫大な経費を費やし、わが国屈指の大用水が誕生しました。
 以後、香川用水は、香川県の山間部及び島嶼部を除くほぼ全域に農業用水、水道用水、工業用水を供給しています。農業用水としては農地30,700ha(水田25,100ha・果樹園5,600ha)に供給しており、水道用水としては香川県人口の約80%に給水し、使用量は県内で使用される水道水の約50%を占めています。さらに工業用水としては、香川の中讃地域である坂出・丸亀地区工業地帯に給水し生産活動を支えています。香川用水は、香川の生命線といっても過言ではないでしょう。

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(120)“滝沢馬琴「椿説弓張月」の舞台となった八幡宮”

  江戸時代後期の読本作家滝沢(曲亭)馬琴は、文化4年(1807)から文化8年(1811)にかけて、「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」という物語を書いています。この物語は、保元の乱に敗れて伊豆大島に流罪になった源為朝(みなもとのためとも)が琉球に渡り琉球王国を再建するという、歴史を基にフィクションを加えた、現代風にいう冒険活劇ですが、この一説の中で、讃岐の琴弾八幡宮直島白峯が舞台として書かれています。琴弾八幡宮は現在の観音寺市有明の琴弾山にある神社、白峯は現在の坂出市にある白峯寺のあるところです。
 保元の乱は、保元元年(1156)年、崇徳上皇と後白河天皇の対立を軸に勃発した戦いで、上皇方には源為義、源為朝、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛らがつき、父(源為義)と子(源義朝)、兄(源義朝)と弟(源為朝)、叔父(平忠正)と甥(平清盛)がそれぞれ敵味方に分かれて戦いました。

 「椿説弓張月」の中での讃岐が舞台になっているところは次のような場面です。
 保元の乱が起きたとき、太宰府の館(やかた)を守っていた源為朝の妻・白縫(しらぬい)は召使い8人とともに、九州から讃岐、琴弾の宮に逃れ、神仏に夫の無事を祈っていました。琴弾の宮というのは、現在の観音寺市にある琴弾八幡宮のことです。
 一方、京では、戦いに敗れ傷ついた為朝が家来の武藤太(ぶとうだ)の家に身を潜めていましたが、恩賞に目がくらんが武藤太により密告されてしまいます。この裏切りで為朝は敵方に捕縛され、再び弓を引けないように肘の筋を断たれて伊豆の大島に流されることになりました。
 しかし、主君を敵方に売った武藤太は、痴れ者(しれもの)として非難され、京に居たたまれなくなって船に乗って九州へ向かいます。その途中、讃岐の室本の港(現在の観音寺市室本町)に流れ着き、武運に縁の深い琴弾の宮に参拝します。武藤太は祈願の言葉の中で密告の恩賞が少なかった恨み言を述べます。そのとき、偶然、白縫がそこに居合わせ、拝殿に祈る男の言葉からその男が夫為朝の仇だと知ります。
 白縫は、「これこそ神の導き」と、ある月の夜、武藤太を酒宴に誘い出します。美しい琴の音が聞こえる酒宴の場と、白縫の容色に取り付かれた武藤太は、何も知らず勧められるままに酒を飲み、前後不覚となってしまいます。気がついた武藤太は逃げようとしますが、縛りつけられ、指を一本ずつ落とされたうえ体に竹釘を打ち込まれて殺されます。夫の仇を果たした白縫は護送される為朝を追って伊豆に向かいます。
 しかし、白縫は為朝を救出することができず、讃岐に流されていた新院(崇徳上皇のこと)を奪還しようと企てますが、そうするうちに京では平治の乱が起こります。新院が瀬戸内の直島の磯に現れるという噂を聞いた白縫は、直島に忍び込み、読経をする新院に会いますが、次の日新院は崩御します。
 それから十年が経過したとき、伊豆の大島に居る為朝に対して討伐の軍勢が押し寄せてきました。逃れた為朝は、讃岐国多度郡の逢日の浦に到着し、新院の葬られている白峯の陵(現在の坂出市)に参詣し、腹を切ろうとします。そのとき、新院や父の為義ら保元の乱で死んだ者たちの亡霊が現われ、その後の行く末を伝え、為朝の自殺を留め、肥後国に向かうように指示します。肥後で為朝は、長い間行方不明だった妻の白縫と再会します。
 その後は、琉球での物語りとなります。

 このように、滝沢馬琴は「椿説弓張月」の中で讃岐を物語の一つの大きな舞台としていますが、これは、馬琴が、主人公源為朝の仕えた崇徳上皇を、為朝が思慕し、また為朝を庇護する人物として描いたことから、上皇が葬られた白峯やその伝承のある直島を舞台としたものと思われます。ちなみに白峯御陵の側に建てられた頓証寺殿(とんしょうじ)の大門左右の随神は源為義、為朝親子の武装像です。
 では、馬琴はなぜ琴弾八幡宮を物語の舞台としたのでしょうか。琴弾八幡宮の由緒は次のようなものだとされています。大宝3年(703)のある日、有明浜一帯に黒雲が立ちこめ3日間暗闇が続き、やがて、光を回復した海上に一艘の船が現れて船中から琴の音が聞こえてきた。民人が近づくと、「われは八幡大菩薩なり、宇佐からきたが、仏法弘布の地によいので止まりたい」と答えた。そこで、日証上人が船に証を求めたところ、海水であったところが竹林に、砂浜が蒼松の林に変わり、再び琴の音が響き渡ったので、驚いた日証上人が里人を集めて船を山上に引き上げ、琴を添えて宝殿に安置して琴弾八幡宮と称え奉った。
 宇佐とは、現在の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮のことで、全国にある八幡宮の総本社です。「椿説弓張月」の中で源為朝の妻・白縫は九州から逃れてきたことになっていますが、馬琴は琴弾八幡宮の由緒を知っていたので、そこから琴弾八幡宮を物語の舞台にしたのかもしれません。
 なお、琴弾八幡宮にある「木之鳥居」は、屋島合戦勝利のしるしとして源義経の側近が代わって奉納したものといわれています。


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(119)“讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語”

 「風林火山」の旗印で知られる武田氏は、甲斐源氏の一族であり、その祖は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光といわれています。義光は、平安時代後期に奥州(東北地方)で起きた後三年の役(永保3年(1083年)~寛治元年(1087年))で、兄義家を援けるために奥羽に下向し、常陸国に進出して、その子の義清を那珂郡武田郷に配します。それが武田氏の発祥で、その後、義清とその息子の清光は甲斐国に配流され、そこで土着したと伝えられています。
 武田氏は、戦国時代の晴信(信玄)の代になって、近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして、上野・飛騨そして、今川義元戦死後の駿河・遠江へとその勢力を広げていきます。この間、多くの戦をしていますが、なかでも、越後の上杉謙信との川中島の戦いはよく知られています。
 元亀3年(1572)10月、信玄は天下に号令するため京都を目指し、大軍を率いて甲府を後にします。そして、浜松城から出陣してきた徳川家康の軍を、遠江の三方ヶ原の戦いで撃破します。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードはよく知られているところです。しかし、その進撃の途中の翌年4月初旬、信玄は持病が悪化したため、遂に上洛を断念し、帰国の途上、信濃国駒場で病死しました。
 信玄の跡を継いで家督を相続したのが四男の勝頼です。その母は信玄によって討たれた諏訪頼重の娘・由布姫です。諏訪氏は、信濃国上原城城主であるとともに諏訪大社大祝(おおほうり)務めてきた一族で、武士と神官双方の性格を合わせ持っていました。勝頼も諏訪家の名跡を継ぎ、武田家の通字である「信」でなく諏訪氏の当主が襲名してきた「頼」の通字を命名され、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
 信玄が亡くなってから約2年後の天正3年(1575)5月、勝頼の率いる騎馬軍団は、大量の鉄砲と馬防柵(ばぼうさく)を用いた織田信長の画期的な戦法に敗れます。これが長篠の戦いです。
 この戦いの後、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていき、約7年後の天正10年(1582)3月11日、勝頼とその嗣子信勝は、天目山の戦いで、織田信長配下の信忠、家康、氏政連合軍に敗れて親子ともども自害し、ここに武田氏は滅亡しました。

 讃岐には、長篠の戦いや天目山の戦いで破れた武田の一族が逃れてきたという伝承が残っています。
 一つは、高松市東山崎町にある諏訪神社の由緒として残る話です。
天目山の戦いに敗れた後、武田信勝の弟である桃千代丸は、家臣18人、女中7人に伴われ、讃岐の屋島の地に逃れてきて、山田郡元山村領主の大隈備前守方に暫く留まり、再起をはかろうとその地に諏訪明神を勧請したというものです。
 この後、桃千代丸らは、香東郡坂田の室山城主で細川家々臣の坂田権守を頼りそこへ移り住んでいましたが、天正13年、豊臣秀吉の四国征伐により室山城が落城したため、そこを逃れ、再び元山村の地に戻り、掃部屋敷というところに住み、祠職をしていました。ところが、江戸時代の延宝(えんぽう)年間(1673年~1681年)に発覚され、その職を逐放されたといわれています。なお、延宝年間における高松松平藩は、二代目の頼常(よりつね)の時代です。

 もう一つは、高松市御厩(みまや)町の小比賀家に伝わる話です。
小比賀家は、甲斐源氏・武田氏の末裔で、天目山の戦に敗れて秩父山中に逃れ、のち伊予の河野氏を頼って四国に渡り、さらに、讃岐の坂田郷に移り住んで宝山城の城主を務め、戦国時代末期を過ごしたといわれています。
 その後、小比賀姓を称えるようになり、江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に今の御厩に居を構え、江戸時代を通じて、この地の大庄屋などを代々務めてきたとされています。

 さらにもう一つは、「全讃史」という江戸時代の中山城山という学者の書いた本に載っている話です。
 武田軍が長篠の戦いで敗れたとき、朝比奈五郎という武田家の家臣が、次男の伊豆八郎信能を伴って讃岐に逃れてきました。そして、内場城主の藤澤新大夫重弘に保護され、安原の奥に住み着きました。さらに、重弘は信能に自分の娘を信能に嫁がせ、所領を与えて厚遇しました。信能はその所領に城を築き、父祖の墓を祀りました。そこで世人はその土地を甲斐股(かいまた)と呼んだということです。現在、高松市塩江町には、「貝股」という地名があります。
 のち、重弘の息子の次郎吉が幼少で藤澤家の家督を継いだので、信能はその補佐をするため内場城に移り、藤澤家の家事を執りました。このため、信能は藤澤八郎と称されました。次郎吉が長じると、信能は藤澤家の家事から退き、別子山に移ります。しかし、このとき、豊臣秀吉の四国征伐があり、屋島に上陸した征討軍が南征し、讃岐の諸子は皆その領地を失い、信能は別子八郎と称して、田猟をもって業としたということです。
 これは「全讃史」に記されていますが、同書は武田勝頼が長篠合戦で討死したと記しており、信憑性には疑問が残るとされています。

 このように、讃岐には甲斐武田氏にまつわる物語が残されていますが、これらの物語がどこまで信憑性を有しているのかについてはまだよく分かっていません。しかし、これらの物語がすべて事実とはいえないまでも、讃岐と甲斐武田氏の間に何らかの関係があったことから、このような物語が残っているのではないでしょうか。
 戦に敗れ逃れる者が頼る先といえば、一般的に考えれば、親類など血の結びつきのある一族でしょう。では、讃岐に甲斐武田氏と血の結びつきのある一族がいたのでしょうか。
 一つ考えられるのは、戦国時代後期、現在の高松市南部を中心に讃岐で勢力を張った十河氏の存在です。
 十河氏は、もともと、景行天皇の皇子・神櫛王を祖とし、讃岐の山田郡の十河城を根拠とする生え抜きの武士です。室町時代の始めに細川氏が讃岐に入国してきたのに伴いその家臣となりますが、応仁の乱後の細川政元暗殺による細川京兆家の没落に伴い次第に自立していきます。一方、阿波では三好氏が主家の阿波細川家を凌駕し、さらに讃岐にも勢力を伸ばし始めてきます。
 三好氏は、阿波からさらに畿内に勢力を及ぼし、三好長慶(大永2年(1522年)~永禄7年(1564年))の時代に絶頂期を迎えます。長慶は天文18年(1549年)から約15年間にわたって室町幕府の実権を握り、その勢力は、山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9カ国に及びました。
 讃岐の十河氏も三好氏の勢力化に属するようになり、三好長慶の弟が養子に迎えられて十河氏を継ぎ、一存(かずまさ、天文元年(1532年)~永禄4年(1561年))と名乗ります。これにより十河氏は三好氏と血のつながった関係になります。一存は兄長慶を助けて畿内で奮戦し、その勇猛な戦いぶりから「鬼十河」の異名をとり、また「十河額」と呼ばれる独特の髪型で知られた武将です。
 ところで、阿波の三好氏のルーツは、鎌倉時代の承久の乱のとき幕府方で活躍した信濃の小笠原氏が、阿波守護職に補任されて阿波に入部したことよるといわれています。小笠原氏はその後、阿波三好郡を領地としていたことから三好姓を名乗るようになったものです。
 この小笠原氏は、源頼朝の推挙で信濃守に補任されたことにより信濃で勢力を張りましたが、その発祥は、平安時代、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り小笠原を称したことによるといわれています。したがって、阿波の三好氏と甲斐武田氏は、同じ甲斐源氏をルーツにするということです。讃岐の十河氏も、一存以降、甲斐源氏の血が入っています。
 阿波にも、甲斐武田氏にゆかりのある者が戦国時代に入っています。武田晴信に甲斐を追放された父の信虎は、その後、京に出て、男子をもうけたといわれていますが、その子は後に武田信顕と名乗って阿波へ行き、三好氏に取り立てられて脇城主になったということです。しかし、信顕はその後長宗我部の侵攻に遭い、讃岐に逃れ果てたといわれています。その供養の墓碑が現在の東かがわ市の東照寺にあるといいます。
 また、長篠の戦いや天目山の戦いの敗戦により、武田信玄の弟の信綱が讃岐を経由して阿波貞光に入り、その後を追って、信玄の孫の信豊、信玄の弟の信基らも讃岐を経由して阿波に入り住んだといわれています。
 このように、甲斐武田氏にゆかりのある者が阿波に入っていったのは、ルーツを同じくする三好氏がいたからだと思われます。ひらたくいえば、血のつながった親戚を頼っていったということです。
 讃岐の十河氏も三好氏を通じて甲斐源氏の血が入っていますから、甲斐武田氏にゆかりのある者が頼って来るということは十分考えられます。このようなわけで、讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語も全くの出鱈目とはいえないように思われます。

 では、天正3年(1575年)の長篠の戦い以降の讃岐の情勢はどのようだったのでしょうか。
 永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて入洛した後、畿内の三好勢力は信長に駆逐されていきます。讃岐でも、長篠の戦いの頃、十河一存を継いだ存保(まさやす)は信長に降り、讃岐の諸氏も信長の勢力下に入ります。後に兄である三好長治が討たれると、存保は実質上の三好宗家の当主となり、讃岐と阿波で勢力を及ぼします。
 天正10年(1582年)3月11日に天目山の戦いがあった後、その年の6月2日に本能寺の変が起こり、6月13日に山崎の戦いで秀吉軍が光秀軍を撃破します。この頃讃岐では、土佐の長宗我部元親の軍による侵攻を受け、8月には香西氏がその旗下に下り、また、山田郡の十河城が包囲されます。さらに、阿波でも、十河存保が中富川の戦いと勝瑞城の戦いで長宗我部に敗れ、存保は讃岐の虎丸城に追い詰められます。こうした中、9月に、豊臣秀吉の命を受けた仙石秀久が小豆島より渡海し、存保を救うため長宗我部軍と戦いますが、攻めきれず退きます。
 天正11年(1583年)4月、仙石秀久は再度讃岐に上陸しようと引田で長宗我部軍と戦いますが、これも失敗します。そして、翌年の6月、ついに十河城は長宗我部軍の攻略により落城し、十河存保は秀吉を頼って讃岐から大坂に逃亡します。これにより讃岐は長宗我部の支配下となります。
 しかし、天正13年(1585年)4月、豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込み、讃岐には宇喜多秀家を総大将とする蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが喜岡城(旧高松城)で、全員が討死にしました。
 戦局不利とみた長宗我部は秀吉と和議を結び、長宗我部は元の土佐一国の領主とされ、天正13年(1585年)7月、仙石秀久が豊臣秀吉から讃岐国を与えられて入部します。また、十河存保は四国征伐に協力したことにより旧領を復され、2万石の大名として再び十河城に入ります。
 しかし、翌年の天正14年、豊臣秀吉の九州攻めが始まると、十河存保は、秀吉から九州攻略の軍監とされた仙石秀久の指揮の下に四国勢の一軍として島津軍との戦いに従軍し、このとき、功を焦った仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死します。
 この敗戦により、仙石秀久は秀吉から讃岐を没収され、その跡には生駒親正が入部してきます。十河存保には千松丸という男子が残され、生駒親正によって養育されていましたが、天正17年(1589年)7月、15歳のとき何者かによって毒殺されます。ここに神櫛王を祖とする十河氏直系の血は絶え事実上その系譜を閉じます。
 讃岐には、甲斐武田氏の残党が逃れてきたという物語が残っていますが、詳しいことはほとんど分かっていません。これは、その庇護者であった十河氏が中世から近世への変革期に滅んでしまったことによるのかもしれません。

 さらに、興味深いことには、武田信玄の軍師であった山本勘助(勘介)は讃岐生まれではないかという説もあります。この説は、勘介研究家の渡辺勝正氏が「歴史街道」2月号で、唱えられているものです。
 山口県には次のような伝承が残されているそうです。山本勘介は讃岐の六カ村(ろっかそん)の庄屋に生まれ、少年時代から猪狩が得意であったが、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になった。勘介は長じて山口に来て、大内義隆(よしたか)に仕えた。
 渡辺氏は、毛利文書「閥閲録(ばつえつろく)」を基に、この伝承について次のような推理を展開されています。
 勘介が若い頃、讃岐は山口の大内氏と同盟関係にあった。讃岐に生まれた勘介は山口の大内氏に仕え、安芸武田攻めなど幾多の合戦を経験し、軍師としての勘と能力を身につけた。しかし、その後、家族を山口に残して出奔(しゅつぽん)し、浪人者となった。紆余曲折の後、勘介は51歳のとき、甲斐武田に仕官した。
 勘介は自分の前歴を語らなかったため、その前半生は不明であるが、それは、大内領を脱して他国の主君に仕えていることが分かれば、山口に残してきた家族が国外に追放されてしまう恐れがあったからだ。また、勘介が並みいる武田武将たちの中で頭角を現すことができたのは、大内氏の下で、多くの実戦経験を積んでいたからだ。
 勘介は「三州牢人(浪人)」と言われ、「三河(三州)」出身とされているが、「サン州」とは「讃州」のことではないかと、いうことです。
 讃岐の六カ村がどこなのか、分かりませんが、山本勘助が讃岐生まれであるという説があるのは事実です。

 江戸時代に入ると、人は幕藩体制の下、土地に縛り付けられ、ほとんど移動することは無かったようですが、戦国時代には、かなり遠方の間でも、ダイナミックな人の移動があったのではないでしょうか。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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