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(118)“綿の産地だったチョウサの町”

 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命の発端は、綿布の大量生産にあるといわれています。イギリスは、奴隷をアフリカから西インド、アメリカへ輸出し、そこから原料の綿花をイギリス国内に運び、綿製品に加工してアフリカやアメリカに輸出しました。こうして綿布を大量に生産するための技術の改良がイギリスで進展し、産業革命の発端になったということです。
 日本に棉(植物としてのワタは「棉」と表記されます。)の種が渡来したのは、今から約1200年前の延暦18年(799)、三河に漂着した崑崙(こんろん(インド))人青年によるといわれています。しかし、わが国で綿作が始まったのは、ずっと下って、室町時代の明応3年(1494)の頃ではないかと考えられています。さらに、綿織物が庶民の普段着として用いられるようになったのは江戸時代以降のことで、それまで衣類といえば、上流階級の間では絹が使われ、庶民は麻(あさ)、苧(からむし)、楮(こうぞ)、葛(くず)などの繊維から作られたものを主に使っていたようです。
 江戸時代初期までは、綿作も自家用にとどまっていたようですが、綿は麻などに比べ、柔らかくて温かく、吸湿性が高いうえ、染色が簡単で、衣料として優れていることから江戸時代中期になると需要が増加し、東北・北陸の寒冷地を除いて全国に綿作が広がっていきました。
そして、生産過程が分業化していき、綿繰り屋・綿打ち屋・綛(かせ)屋・染め屋・機屋など専門の生産者が現れ、中には人を雇って生産を行う者も出てきました。一方では生産者と消費者とを結ぶ買い占め商人が発生し、幕末にはかなり大規模に織物生産を行う者も現れました。

 讃岐における綿作の始まりについては、豊臣秀吉の命により文禄の役に出兵した生駒親正が、朝鮮から綿の種子を持ち帰り、それが普及していったという伝承があります。また、観音寺市豊浜町には、鎌倉時代に関谷兵衛国貞という人物が、現在の豊浜関谷地区を開墾して棉の木を植えたという伝承が残っているそうです。
 讃岐は気候温暖で雨が少ないことから綿作に適しており、西讃地域を中心に砂質土壌のところで栽培が行われました。すでに、丸亀藩では、元禄8年(1695)に城下での夜間の綿打ちを禁止するお触れが出されるほど綿の生産が盛んだったようです。綿打ちとは、実綿(みわた)から核を取り除いた繰綿(くりわた)を綿打弓(わたうちゆみ)で打って柔らかくし、不純物を取り除いて生綿(きわた)にする作業のことですが、夜間での騒音公害になるほど綿打ちが盛んに行われていたということです。
 文化4年(1807)頃には、「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座(ござ)無く」と、綿が丸亀藩第一の特産になっていたようで、讃岐三白の一つに数えられるようになりました。丸亀繁盛記によると、幕末の天保年間(1830~43)頃の様子が、「国々へ積み出す雪綿(ゆきわた)は、大与がかどさきに山をなし、夕陽に照らされれば、ひらの高根を争う景色」と記されており、当時の丸亀城下での綿取引の賑わいぶりをうかがうことができます。「大与」とは、綿の大問屋大坂屋与十郎のことです。また、和田浜(現在の三豊市豊浜町)の港は、近くで栽培された綿の取引のために諸国の船が出入りして活況を呈したといいます。高松藩でも、丸亀藩ほどではありませんでしたが、藩内の西部地域で綿作が行われていました。

 この綿の産地であった豊浜や観音寺などの西讃地域では、今でも、五穀豊穣や豊魚などを祈願し平穏を感謝する秋祭りにおいて、「チョウサ」と呼ばれる太鼓台を繰り出して賑わっています。太鼓を打ち鳴らしながら、御輿(みこし)のお供をしてお旅所まで行き、さらに町内を練り歩きます。
 この太鼓台は中央に大きな太鼓を積み、方形に柱を建てた上には逆四角錐台状に布団を置き、柱の周りの壁に当たるところに金糸銀糸のきらびやかな刺繍をした幕を張り、大きな軸木を2本ないし4本通して太鼓の前後をそれぞれ20~30人の若者たちが担ぐというものです。「チョウサ」の語源は定かでありませんが、「長竿」と書き、元は太鼓台の前を先導する幟(のぼり)をつけた長い竹竿のことをいい、これが太鼓台そのものを指すことになったともいわれています。所によっては「サンマショ」とか「サァシマショ」と呼ばれているそうです。
 「チョウサ」は、香川県では、各地域で祭りに彩りを添えていますが、西へ移るほど大きなものとなり、特に観音寺市豊浜町のちょうさは、高さが5メートルを超え、全国的にも最大規模ではないかといわれています。豊浜町は約1万人の小さな町ですが、新調すると数千万円以上もかかるというものを20台以上も保有しているそうです。布団が敷かれることから「布団チョウサ」とも呼ばれます。

 太鼓台という山車(だし)は、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけての西日本を中心に、港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く分布しているといわれており、讃岐でも豊浜周辺の三豊地方のほか小豆島や坂出のものが賑やかだといわれています。それぞれの地方の太鼓台の名称は様々ですが、その源流は、京都の祇園祭、あるいは、安土桃山時代、大阪、堺の豪商が作らせた山車(だし)が、瀬戸内海の海上交通を通じて伝わり、江戸時代後期の文政年間(1818~1830)の頃、現在のように布団を積み重ねた形に変わり、地方によってその形が変形され、伝承されていったのではないかと考えられています。そして、明治中期以降、地域経済が発達するにつれて急速に巨大化していったものと考えられています。
 ちなみに豊浜のちょうさが現在のような豪華絢爛なものになったのも、明治中期以降といわれており、その大きくしかも勇壮壮麗なチョウサは、綿で栄えた豊浜の街の象徴ともいえる存在だったのでしょう。

 しかし、明治時代に入って紡績産業、中でも綿工業が盛んになると、外国から安い原綿が大量に輸入されるようになり次第に日本棉は栽培されなくなっていきました。戦後は、高度経済成長の中、輸入綿が出回って綿作農家は激減し、日本棉の多くの品種が絶滅していきました。
 豊浜でも、江戸時代から昭和の初め頃までは綿作が盛んに行われ、綿打ち職人が腕をふるっていましたが、現在では、綿の栽培は全く行われなくなってしましました。しかし、豊浜には今なお製綿工場が集まり、現在も、布団など綿製品の生産量は四国一であり、国道11号には「わたの街通り」という看板が立っています。

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(117)“草鞋を履いて阿讃の峠を越えた牛”

 「東男に京女」という言葉があるように、四国には「讃岐男に阿波女」という言葉があります。この言葉は、一般的には働き者の讃岐男に美人の阿波女という意味にとられているようですが、嫁をもらうなら働き者の阿波の女性からという説もあります。なお、おもしろいことに、古事記でも阿波の国は女性の大宜都比売(おおげつひめ)の国、讃岐の国は男性の飯依比古(いいよりひこ)の国と記されています。また、古代、讃岐の国の開拓は、讃岐忌部氏が阿波忌部氏の力を借りて行われたといわれています。
 このように、讃岐と阿波は、東西に横たわる標高500~700mの讃岐山脈(阿讃山脈)を越えて、古くから交流がありました。その一つが借耕牛(かりこうし)という独特の風習です。

 平地に恵まれない阿波の山村では、広い水田を作ることができないため稲作が不振で、米が不足がちでした。しかし、草生地が多いことから畑地に飼料が作られ、水田の面積に比べて耕牛が多く飼育されていました。
 一方の讃岐は、平地が広く稲作が盛んでしたが、飼料の問題などから牛が不足していました。そこで夏の田植えの6月と秋の11月の麦蒔きの年2回の耕作時には耕牛が不足しました。このような事情から双方の利害が一致し、農繁期の間、阿波から讃岐に牛を借入れるという風習が生まれました。これが借耕牛(かりこうし)です。讃岐の農家は、この借耕牛を飼って田の代掻きや田畑を耕したり、処では砂糖締めの臼を廻す動力に利用しました。砂糖締めに使われる牛は、砂糖締め牛(しめうし)と呼ばれたそうです。
 このような風習が始まったのは、江戸時代の中期の文化年間(1804~1818)の頃からといわれており、徳島県の美馬郡、三好郡を中心に供給された牛たちは、阿讃の国境の峠を越えて讃岐へと向かいました。東から五名口、清水口、岩部口、塩入口、猪ノ鼻口、野呂内口、曼陀口です。その総数は、昭和5~10年頃の最盛期には夏、秋合わせて年8,000頭以上にも及んだといわれています。中でも、財田、仲南方面へは主に、猪ノ鼻越えや東山からのルートが使われ、猪ノ鼻越えをしたものだけでも約1,600頭にも及んだといわれています。
 まだ夜も明けきらぬうち、飼主に曳かれて阿波を発った牛たちは、暗く細い山道を上り下りし、午前中には讃岐に着いたといいます。牛の足には、険しい山道で蹄が傷まないように草鞋(わらじ)が履かされ、背には替えの草鞋が乗せられていたそうです。
 借耕牛の到着した現在の三豊市財田町戸川やまんのう町仲南の山脇、塩入などには取引所が設けられ、賑わいました。対価は約1月働いて米1石が相場で、牛を貸してかわりに米1石をもらって行くことから米取り牛(こめとりうし)ともいわれたそうです。牛の背に米を乗せて返したといいます。

 このように牛も草鞋を履いて越えた讃岐と阿波の間の様相が一変したのは、四国新道の開通でした。四国の道路革命とも呼べるこの新道のルートは、多度津・丸亀を起点に琴平から猪ノ鼻を越えて阿波池田に入り、高知を経て佐川・須崎に達し、佐川から松山・三津浜に至るという四国を全長約280kmのV字型で貫く壮大なものでした。その道幅も計画では最大12.6m、最小でも6.3mと、現在と比べて遜色のないものでした。
 この新道のプランは、明治17年(1884)に大久保之丞(じんのじょう)が提唱したものです。之丞は嘉永2年(1849)、多度津藩領の三野郡財田上ノ村(現在の三豊市財田町)に生まれ、阿讃にまたがる山道の不便さを熟知しており、地域の経済を発展させるためには道路を建設する必要があるという持論を持っていました。之丞は四国新道の実現のほか、讃岐鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言し、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしています。
 明治19年(1886)4月14日、琴平・阿波池田・高知で四国新道の起工式が同時に行われました。しかし、山間部での工事は難渋を極め、なかでも猪ノ鼻峠は最大の難関で、鍬や鶴嘴を使って50mにも及ぶ断崖を掘削しました。また、道路用地にかかった地元住民などの猛烈な反対や資金不足もあり、工事は度々中断したといいます。このとき、県会議員をしていた之丞は反対住民の説得に奔走し、さらに工事のために私財まで提供して大久保家の財産は土塀と井戸を残すのみになったといわれています。
 明治23年(1890)3月に多度津から琴平を経て猪ノ鼻峠間、38.382kmと、丸亀・金蔵寺間6.08kmの香川県分の工事が竣工し、さらに明治27年(1894)5月に8年の歳月をかけて、全面開通となりました。しかし、之丞自身はそれを見届けることなく明治24年12月14日香川県議会中に倒れ、42歳の若さで亡くなりました。

 この新道により人や物資の流れは大きく変わり、阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれました。中継点にあたる猪ノ鼻峠では、馬車曳きも必ず休憩し、飲食店を兼ねた旅館や運送屋が十数軒建ち並び、また、香川県側の登り口にあたる財田の戸川では、宿屋や料理屋から絶えず三味線の音が聞こえてくるほどの賑わいであったといいます。さらに、大正8年(1919)には、琴平~池田間で自動車による旅客運送も始まりました。
 しかし、その後、昭和4年(1929)に鉄道が猪ノ鼻トンネルを貫いて阿波池田まで延伸されると、猪ノ鼻峠の賑わいは徐々に失われ、宿屋や茶店も減っていきました。
 四国新道香川・高知間は、昭和27年(1952)、国道32号に制定され、名実とも讃岐と阿波・土佐を結ぶ幹線となります。そのような中、借耕牛もトラックに乗せて運ばれるようになり、耕耘機の普及に伴い、昭和30年代後半から姿を消していきました。
 四国新道は、昭和34年から41年にかけて大改修工事がなされ、猪ノ鼻隧道(827m)をはじめとしたトンネルが開通し、香川・池田・高知を結ぶ四国内の大輸送路となります。しかし、平成4年(1992)1月30日の四国横断自動車道(川之江JCT~大豊IC開通)開通により、四国新道香川・高知間は約100年にわたる主役の地位を譲りました。

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(116)“石松も犬も代参した金毘羅参詣”

  「江戸っ子だってね」、「神田の生まれよ」、「食いねえ、食いねえ、すし食いねえ」のやりとりは芝居などでよく知られていますが、これは森の石松金毘羅代参での旅をうたった浪曲、「石松代参三十石船」の中でのセリフです。場面は、清水次郎長の代わりに金毘羅参りを無事に済ませた森の石松が、30石船に乗って大阪から京都へ向かう途上での話です。30石船は、淀川を大阪天満橋付近から京都の伏見までを往復していた船です。
 清水次郎長には長兵衛という恩人がいましたが、長兵衛は八尾ケ獄宗七(久六)の密告により捕われ牢死します。そこで次郎長は、日頃信仰する讃岐の金毘羅さんに祈願した後、首尾よく仇討ちを果たし、長兵衛の怨を晴らします。そのお礼参りの代参に森の石松を讃岐に差し向けました。万延元年(1860年)のことだといわれています。このとき、本宮へ向かう途中で旭社を見た石松は、その荘厳さのあまり本宮と勘違いして代参を終えてしまったというエピソードが残っています。金刀比羅宮宝物館には、次郎長が石松に奉納させたといわれる備前国忠良の一刀が今も残っているそうです。
 しかし、石松は、清水への帰路、近江草津の御幸山鎌太郎親分から先年病死した次郎長の妻への香典として預かった25両を狙われ、遠州浜松の都鳥吉兵衛三兄弟に閻魔堂で殺害されてしまいます。

 江戸時代後期になると、金毘羅信仰が庶民の間にも広がり、金毘羅様に参拝しようという人は全国からやって来ました。しかし、中には旅の途中で疲労や病気で倒れ、旅の継続を断念して地元に帰るような人たちも大勢いました。そこで、当人に代わり参拝する仕組みができていきました。一般に行われたやり方は、同じ目的地に行く別の人に旅費と初穂料を渡し、自分の代わりにお参りして欲しいと依頼することでした。これが代参で、代わりに参拝する人を代参人といいました。その頼まれた人が倒れるとまた別の人に託して、次々とリレーされていきました。
 この代参の方法は、森の石松のように人間による代参が普通でしたが、犬の代参、流し樽の代参、流し木の代参というような変わった方法もありました。

 犬の代参は、人の代わりに犬の首に旅費と初穂料をくくりつけて、自分の代理として参拝させるという方法です。犬が主人の代わりに首に往復の費用とお供えのお金などと住所氏名をかけて行くと、人がリレーで運んでくれるというものです。この犬が「代参犬」で、「こんぴら狗(いぬ)」と呼ばれていました。
 流し樽は、瀬戸内を航行する船が金毘羅様にお参りしたいけれども上陸できないときに行われた代参の方法です。船が讃岐の沖を通過するときに、樽に「奉納金比羅大権現」という幟(ノボリ)を立て、船の名前と航海安全を祈る祈祷文、そして初穂料を入れた樽を海に流します。すると、海でそれを発見した船は「福がある」として代わりに金毘羅さんまで必ず届けてくれ、また、岸に流れ着いた樽は地元の人が拾って神社に届けてくれました。
 流し木は、自分の名前を記した材木を流してリレーで金毘羅さんまで届けてもらうという方法です。

 このような”金毘羅代参”は、見知らぬ人に対する信頼がなければとても成り立たない仕組みであり、現在では到底考えられないことです。金毘羅信仰が漁民や航海関係者の間に深く浸透していたということの証左でしょう
 現在、犬の代参と流し木は全く無くなったようですが、流し樽は年数件が金毘羅宮に届けられるようです。

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(115)“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“

 丸亀京極家は、宇多源氏の後裔で、伝統的に和歌をよくし、歌人も輩出した家系です。このようなことからか、丸亀藩では文芸が盛んで、女流の文人も出ています。その代表が京極伊知子井上通女(つうじょ)です。また、女性ながら父の仇討ちをし、当時全国に名をはせた尼崎里也(りや)という剣士もいます。さらに、幕末には女性勤王家の村岡箏子(ことこ)が活躍し、中央で活躍していた若江薫子(におこ)が後年丸亀に来ています。
 
 京極伊知子は江戸初期の人で、「涙草」の著者として知られています。
 伊知子は、丸亀初代藩主・京極高和の従兄弟(いとこ)にあたる女性で、万治元年(1658)京極家が播州竜野から丸亀へ転封になったとき一緒に来ました。その2年後の万治3年に伊知子は亡くなっていますので、実際に活躍したのは丸亀に来る前の時代です。
 高和の前の京極家当主は忠高といい、伊知子はその娘です。忠高の時代、京極家は出雲松江藩26万4千石を領有していましたが、忠高が嗣子の無いまま急死したため領地没収の憂き目に遭います。しかし、幕府の特別のはからいで、忠高の甥である高和が京極家を相続し、播州竜野に6万石を与えられました。
 ところが、高和にも嗣子が無かったため、お家断絶をおそれた京極家では、伊知子の一子である高房を高和の養嗣子と決めました。伊知子は家老多賀常良に嫁しており、高房はその間に生まれた子です。
 このため、伊知子は高房が5歳のとき、別れなければなりませんでした。伊知子が江戸に向かう高房との別れの様子を綴った手記が「涙草」です。この手記には、子のこの上ない出世を喜ぶ気持ちと、離別の情という相反する気持ちが込められているといわれています。
 それ人の親の子を悲しむ道は、思ふにも余り、言ふにも言葉足らざるべし。山野のけだもの、江河のうろくづ、空にかけるつばさ、土に生るるたぐひまで、凡べて生きとし生けるもの、形はことなりといへども心ざしは変るべからず。況んや人として、上がかみ下がしもまで、子を思ふ心の闇はひとしかるべし。

 井上通女は文武をかねそなえた江戸時代の女流作家として知られています。
 通女は、京極伊知子が亡くなった年の万治3年(1660)、丸亀藩士・井上儀左衛門本固(ぎざえもんもとかた)の娘として丸亀に生まれました。通女は、幼いときから聡明で、和漢の学に秀でたばかりでなく、清流薙刀(せいはなぎなた)の免許皆伝を受けるなど文武両道に達し、藩内でも評判の才女でした。
 22歳のとき、高和の未亡人で二代藩主・京極高豊の母である養性院に召されて江戸に向かいます。その丸亀から江戸までの見聞を「東海紀行」としてしたためています。
 天のやはらぐ始のとし、霜をふみて、かたき氷にいたる比ほひなれば、年ふる丸亀を舟よそひして、あずまのかたにおもむく。難波へとこぎ出づ。
 江戸に約9年間滞在し、養性院の侍講として仕えますが、その間に、室鳩巣、貝原益軒、新井白石など著名な学者たちと交遊し、その才名は江戸市中になりひびきました。鳩巣は「才女にて男子に候はば英雄とも相成るべきに惜しき事に候」と言い、益軒は「有智子内親王以来の人」と評しました。
 通女は養性院の死後丸亀に帰ります。このときの旅行記を「帰家日記」といい、「東海紀行」や在府中の「江戸日記」とともに通女の「三日記」と呼ばれ江戸文学の秀作とされています。
 帰郷後、三田宗寿に嫁して3男2女をもうけ、当時藩中から良妻賢母の鏡と称えられ、元文3年(1738)、79歳で死去しました。

 尼崎里也は、自ら剣で父の仇を討ったヒロインとして知られています。
 延宝年間の中頃、二代藩主・京極高豊のとき、丸亀城下の風袋町に、尼崎幸右衛門という弓組の足軽が、妻のあや、それに2歳になる娘の里也と一緒に住んでいました。ところが、同僚の岩淵伝内があやに横恋慕し、幸右衛門が不在のときに、あやに言い寄ろうと家に忍び込んできました。あやと伝内がもみ合っているときに幸右衛門が帰宅し、喧嘩となって幸右衛門は伝内に斬り殺されてしまいます。
 その後、あやは病死し、里也は叔母夫婦に育てられます。18歳のときに父の恨みをはらそうと決意し、江戸に出ます。江戸で、当時剣客として名高い旗本永井左源次の家に奉公しながら剣術修行に励み、剣の腕を上達させます。そして、江戸市中の武家屋敷を転々としながら仇の伝内を探索します。
 それから10年以上経ち、里也はようやく伝内を見つけ出します。丸亀藩の立会いのもと、伝内と果し合いをし、みごとに伝内を討ち取ります。その仇討ちの場所は、現在の東京都港区芝白金台あたりとみられています。宝永2年(1705)のことです。
 この仇討ちは、江戸市中はもとより全国で評判になったといわれています。その後、里也は丸亀藩に召し出され、永井の局と名を改め、文武両道はもとより女性の鏡として尊敬されました。宝暦5年(1775)、79歳で死去しました。

 村岡箏子(ことこ)は、幕末に活躍した女性勤王家として知られています。
 箏子は文化12年(1815)、高松藩内の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の小橋家に生まれました。小橋家は勤王家として知られ、箏子の兄弟には小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰がいます。箏子は17歳のときに丸亀藩の村岡藤兵衛のもとに嫁ぎます。村岡家は丸亀御城下の魚屋町に住む名字帯刀を許された商家だったようで、藩の銀札出納管理の仕事をしており、後には醤油製造業を営んでいます。
 箏子とその息子の宗四郎は、勤王の志士を自宅に潜伏させ保護するなど、大いに勤王に尽くします。司馬遼太郎の「世に棲む日日」には村岡宗四郎も登場しており、丸亀に逃げてきた高杉晋作を、長州人と知らぬまま、3日間泊めたといいます。明治3年(1870)7月、56歳で亡くなりました。

 若江薫子(わかえにおこ)も女性勤王家として知られています。
 薫子は、京都の伏見宮家に仕えた若江量長(かずなが)の娘として生まれます。学問を好み、幕末期には、高畠式部、太田垣蓮月とともに京都の三大女流歌人として称された人です。
 33歳のとき、明治天皇の皇后選びの際に意見を求められ、左大臣一条忠香の姫君のうち妹君を推挙したことで知られています。しかし、明治3年(1870)には、東京遷都など新政府の政策を批判していたため危険視され、2年間幽囚の身となります。岩倉具視には「手のつけられぬ女」といわれたそうです。幽囚を解かれた後、丸亀に渡り、かねて知り合いの岡田東州の私塾に落ち着き、漢学などを教えていましたが、明治14年(1881)10月11日、47歳の生涯を終えました。著書に「和解女四書」があります。
  大君のめぐみに報ふ道しあらばをしみはせじな露の玉の緒

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(114)“源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前”

 寿永4年(1185) 、下関「壇ノ浦」の戦いで源義経は平家を滅ぼします。しかし、その後、今度は義経が兄の源頼朝に追われる身となります。
 義経は愛妾の静御前を連れて吉野山に逃れようとしますが、女人禁制の山のため同行することができず、静と別れざるを得ませんでした。このとき、義経は静に形見として、"初音"という名器の鼓を与えています。この鼓は、重源僧上が唐から持ち帰って天皇に献上され、その後、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の家宝となっていましたが、屋島合戦のとき檀の浦の波間に漂っているところを伊勢の三郎が見つけて義経に献上したというものです。
 義経一行と別れた静は京都へ戻る途中で捕らえられ、鎌倉へ護送されて義経の行く先を厳しく問い質されますが、頑として応じませんでした。静が鶴岡八幡宮において奉納舞を懇請され、頼朝を初め多くの武将が居並ぶ中で、義経を恋い慕う歌を唄いながら舞ったというエピソードはよく知られているところです。
  吉野山峰の白雪ふみわけて  入りにし人の跡ぞ恋しき
  しづやしづ賎のおだまきくり返し  昔を今になすよしもがな
 このとき静は懐妊6が月の身で、その後義経の男児を産みますが、その日の内に命を断たれます。
 讃岐には、屋島合戦があったことから義経についての多くの物語が残されていますが、静御前とその母の悲しい後日物語も残されています。

 静御前の母は磯禅師(いそのぜんじ)といい、その生まれは現在の東かがわ市大内町丹生(にぶ)小磯で、この地の豪農、長町庄左衛門の娘イソだといわれています。当時、この辺りは貴族の荘園であったことが縁で、12歳のときに京都に上がって舞の道に入り、藤原道憲(ふじわらのみちのり)に従って舞楽の一種を極め、禅師の称号を授けられました。
 その舞いは、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持ち、立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん:当時の下級役人の普段着)に長袴で、太刀を腰に差した男装で舞うもので、白拍子(しらびょうし)の始まりといわれています。
 この磯禅師の娘が静で、母に似て美しく、幼少より舞を修めました。13歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許され、後白河法皇から神泉苑での雨乞いの舞を日本一と賞賛されました。
 義経は、一の谷の合戦に勝利して京都へ凱旋した頃、後白河法皇から静を与えられます。このとき彼女は16歳でした。それからほぼ1年後、義経は少数の軍勢にもかかわらず、電撃作戦により屋島の戦いで平氏を打ち破ります。義経が未知の地で勝利を得ることができたのは、屋島へ向かう途中の丹生が静御前の母、磯禅師の出身地であったことから、この地が義経の情報蒐集基地になっていたのではないかと言う人もいます。

 静は、文治2年(1186)9月中旬、鎌倉から京都へ帰ることを許され、傷心のうちに母と共に法勝寺の一室に一時身を寄せますが、その後、翌年の春から夏にかけての頃、母と共に母の故郷讃岐の国へと向かいます。
 讃岐へ帰ってからの静は母の生家、長町家の屋敷でしばらく静養していたようですが、すでに母の両親は他界しており、母と共に寺社遍歴の旅に出ます。お遍路の旅に出た親子は、志度寺八栗寺屋島寺六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔ったといいます。
 そして、文治4年(1189)3月20日、長尾寺(四国霊場第八十七番札所)にお参りしたとき、9代住職の宥意和尚から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、髪を下ろして尼となります。母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗ります。この後、義経からもらった形見の鼓を煩悩の種と思い切って川へ捨てたといいます。
 それからの静は母の縁者がいたといわれる現在の三木町井戸中代(なかだい)に行き、鍛冶池(かじいけ)という池の畔にささやかな草庵を結びます。その後、静と母は、京都から追ってきた静の侍女であった琴路(ことじ)と共にひたすら念仏三昧の月日を送ります。
 建久元年(1190)11月、母の磯禅尼は長尾寺からの帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなり、1年余りの後、静も母の後を追い24歳でこの世を去ります。静が亡くなってから7日目の夜、琴路もまた後を追うように鍛冶池に入水して相果てたといいます。


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