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(111)“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”

 江戸時代後期の18世紀半ばから19世紀半ばまでの約100年間は、「化政文化」が花開いた時代といわれています。「化政」というのは、この期間の中心であった文化年間(1804-18)と文政年間(1818-30)から1字ずつとって名づけられたものです。化政文化の特色は、江戸の町の経済的発展にともない町人文化が最盛期を迎え、都市の繁栄、交通の整備、寺社参詣の流行、教育・出版の普及、商品流通の発達などにより、中央と地方との文化交流が進み、中央文化が地方に波及して、文化の内容も多種多様化したことといわれています。
 讃岐にも化政文化を代表する江戸、京、大坂などの文人や画家が多く訪れ作品を残しています。また、讃岐に来ていなくても、讃岐を舞台とする作品を残しています。主なその人物を列挙すると、次のとおりです。(括弧内は生没年)
 与謝蕪村     (享保元年(1716)-天明3年(1784))
 円山応挙     (享保18年(1733)-寛政7年(1795))
 上田秋成     (享保19年(1734)-文化6年(1809))
 小林一茶     (宝暦13年(1763)-文政10年(1828))
 十返舎一九    (明和2年(1765)-天保2年(1831))
 滝沢馬琴(曲亭馬琴) (明和4年(1767)-嘉永元年(1848))
 歌川広重(安藤広重) (寛政9年(1797)-安政5年(1858))
 このうち、与謝蕪村小林一茶十返舎一九、歌川(安藤)広重は実際に讃岐に来ており、円山応挙については讃岐に来たかどうかについて諸説があるようです。上田秋成と滝沢(曲亭)馬琴は讃岐に来ていませんが、讃岐を舞台にした物語を書いています。
 讃岐の中でも彼らが題材として採り上げた地で多いのはやはり金毘羅さんです。その他では白峯の崇徳上皇と観音寺の琴弾八幡宮が題材とされています。

 与謝蕪村は、江戸俳諧の巨匠の一人で、写実的で絵画的な発句を得意とし、また俳画の創始者で、池大雅とともに日本南画の先覚者といわれています。
 京都に住んでいた与謝蕪村が初めて讃岐を訪れたのは、宝暦12、13年(1762~3)頃だといわれていますが、明和3年(1766)の春頃、51歳のときにもやって来て、夏の6月にいったん京に帰り、この年の冬、再び讃岐に戻っています。
 その経路は、阿波から讃岐に入り、引田・白鳥・三本松・長尾を通って、高松城下に入ってきたと考えられています。高松城下では、豪商の三倉屋方でしばらく旅宿りをしています。しかし、他国者の長逗留は御法度に触れるため、遠慮して城下はずれの別荘に移ったといい、ここで、「 水鳥や 礫にかはる 居り所 」の句を残しています。そして、「 炬燵(こたつ)出て 早あしもとの 野河(のがは)かな 」の句を残して香東川の渡し場を渡り、丸亀に向かっています。
 一泊二日の旅をして丸亀城下に入ったときは、乞食のような姿で、妙法寺(みょうほうじ)の門前に立っていたと伝えられています。丸亀城下から目的地の金毘羅に向かい、土地の俳人らに歓迎されます。そこでは、造酒屋(つくりさかや)主人の金川屋左平太の宅を寓居とし、その世話を受けて金毘羅で年越しをしています。金川屋左平太は俳人でもあり、その号を菅暮牛(かんぼぎゅう)と称していました。蕪村はこのとき「 象の眼に 笑ひかけたり 山桜 」の句を残しています。
 明和4年(1767)の春3月、再び京に帰りますが、蕪村はよほど讃岐での生活が気に入ったのか、その年の秋、また讃岐に戻っています。このときも暮牛の家に滞在して金毘羅で年越しをし、翌年の4月23日、丸亀湊から京に帰っています。
 このような明和3年の春から明和5年の春までの2年間は蕪村の讃岐時代といわれており、絵筆の旅の仕上げのときであったといわれています。丸亀の妙法寺は蕪村寺ともいわれており、今も蕪村が描いた「蘇鉄図(そてつず)」などが残っています。

 円山応挙は、京都に住み、遠近法を取り入れた立体感のある作品を描き、近代日本画の基礎を築いた画家といわれています。金毘羅宮の表書院の襖(ふすま)に虎の図や鶴の図・山水の図・滝の図・七賢之図などを描いています。しかし、実際に讃岐に来たかどうかについては説が分かれているようです。

 上田秋成は、歴史や伝説を素材とした伝奇読本を現しました。讃岐には来ていませんが、その著書の一つ「雨月物語」の中で、讃岐の白峯を舞台にした崇徳上皇と西行の物語を書いています。

 小林一茶は信濃柏原の人で、農村の生活感情を詠んだ句を残したことでよく知られています。一茶は、寛政4年(1792)3月、郷里の信濃を出発して諸国を遊歴しながら、その年の夏過ぎに讃岐に来ています。讃岐では豊田郡下市浦(現在の観音寺市)にある専念寺の性誉和尚(せいよおしょう)を訪ね、ここでしばらく滞在します。性誉和尚は俳号を五梅(ごばい)といい、その師は一茶と同じく竹阿門でした。観音寺は室町時代に山崎宗鑑ゆかりの一夜庵があり、俳句が盛んな地でした。一茶は観音寺から伊予に入り、さらに九州に渡っています。
 寛政6年(1794)、一茶は再び讃岐を訪れ、翌年の3月まで専念寺に滞在しています。そのときは、金毘羅や高松、小豆島まで足をのばしています。
 寛政6年(1794)4月11日、金毘羅参詣をしたとき、その出立に際して、「 御ひらひら 蝶も金毘羅 詣りかな 」の句を詠んでいます。また、寛政7年(1795)正月、専念寺で、「 元旦や さらに旅宿と おもほへず 」の句を詠んでいます。

 東海道中膝栗毛でよく知られている十返舎一九も、いつの頃か定かでありませんが、若い頃讃岐に来て、金毘羅参詣をしています。一九はこの体験をもとにして、文化年間に「金毘羅参詣膝膝栗毛」と「方言修業(むだしゅぎょう) 金草鞋(かねのわらじ)」を著しています。金毘羅参詣続膝栗毛の初編序の冒頭にも「予、若年の頃、摂陽浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したりしが、秀異勝景の地多くして、その感情、今に想像するに堪えず。」と記しています。
 金毘羅参詣続膝栗毛は、好評を博した「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛・喜多八(この本では北八)のコンビによる金毘羅詣の話で、相変わらずすべてのことを笑いとばすこの二人の滑稽譚がエネルギッシュに語られています。方言修業金草鞋は、狂歌師鼻毛の延高、千久良(ちくら)坊の二人が主人公で、日本全国を巡り歩く形となっており、その中に讃州金毘羅が描かれています。

 「南総里見八犬伝」で有名な戯作者滝沢馬琴(曲亭馬琴)も、讃岐には来ていませんが、讃岐を舞台にした読本(よみほん)を何点か残しています。
 一つは「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」です。この物語は、崇徳上皇とともに保元の乱(ほうげんのらん)に敗れ、伊豆大島に流罪になった源為朝が琉球に渡り、危機に立つ王女を助けて賊軍を平定し、琉球王国を再建するという勧善懲悪の伝奇ものです。この中で、馬琴は源為朝が讃岐の白峯に赴き、かつての臣として崇徳院と対面する場面を描いています。また、観音寺の琴弾の宮で、為朝の妻白縫が夫の仇討ちをする場面を描いています。
 馬琴は「西遊記」をアレンジした「金毘羅船利生纜」(こんぴらぶねりしょうのともずな)という物語も書いています。金毘羅に向かう船中、旅人が同乗客に金毘羅の本地を語り始めるという設定で、火の神・軻偶突智(かぐつち)が、生まれた時にその火で母を死なせたため、父の伊弉冊(いざなぎ)に斬られ、その血が固まって二つの石となったのを父が遠くへ投げ打ったところ、一つが讃岐の国象頭山となり、もう一つが辺无量国(へんむりょうこく)の方便山に落ち、その山の石が、数万年後おのずから裂けて石折神(いわさきしん)となり、これが天狗を従えて乱暴狼籍の限りを尽くすので釈迦如来が大磐石を載せて懲らしめる、という奇想天外なストーリーです。
 また、歌舞伎や浄瑠璃でも有名な田宮坊太郎の仇討ちの話「金毘羅利生記」を、舞台を足利幕府の頃に置き換え、幼い坊太郎が剣術を磨きに瀬戸の海を渡るのを、象頭山の天狗が助けるという筋立てで書いています。
 馬琴は高松藩江戸家老の木村黙老(もくろう)と懇意だったことから、黙老を通じて讃岐の歴史や文化についてよく知っていたのかもしれません。

 浮世絵の「東海道五十三次」でよく知られている安藤広重(歌川広重)も、時期は不明ですが、讃岐に来て金毘羅参詣をしています。「六十余州名所図会」というシリーズ物の一枚として、象頭山を金毘羅街道より遠望した風景を描いています。なお、二代安藤広重は鼠島という小さい島を描いています。この島は子供の神様で知られる津島神社のある島です。

 江戸後期、化政文化を牽引した文化人にとって、金毘羅さんは興味のある題材だったのでしょう。なお、このほかにも、金毘羅参詣のため讃岐には多くの著名人も訪れています。
 例えば、雷電為右衛門は、寛政6年(1794)に多度津湊に上陸したらしく、元金毘羅多度津街道の鶴橋付近にあり現在は桃陵公園の登り口に移されている大鳥居の奉納者の中にその名前が見られるといいます。また、農政家として知られる二宮金次郎は文化7年に、「日本外史」を著した頼山陽は文化12年に、適塾を開いた医学者・緒方洪庵は文久2年(1862)にそれぞれ金毘羅を訪れています。

 また、化政文化の裾野は、文人や画家などの文化人だけでなく、町人など一般庶民にも広がり、今日の観光ガイドブックともいえるいわゆる名所図会が多く出版されています。金毘羅についても、弘化4年(1847)に、浪花の代表的な人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり・寛政5年(1793)~万延元年(1860))が、「金毘羅参詣名所図絵」を名所図会シリーズ第二作目として著しています。これは地誌としての色合いの濃いもので、地名、名所旧跡の説明も細かく、絵も精緻に描かれています。
 金毘羅には、森の石松が清水次郎長の名代で金毘羅参りをして刀を納めたという浪曲があります。江戸後期、金毘羅さんは町人や農民など一般庶民向けの芸能の題材にもなっていたということでしょう。ちなみに、「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」と石松が江戸の商人と交わした会話のくだりは、金毘羅参りの帰り、大阪・八軒屋から伏見へ渡す船の中での場面です。
 「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュシュシュ 回れば四国は 讃州那珂之  郡 象頭山 金毘羅大権現 一度回れ・・・・・」という民謡は、江戸後期より大繁盛をみせた金毘羅船による参詣のにぎわいぶりをよく示しています。

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(110)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”

 13世紀の初め、アジア・ヨーロッパ大陸にまたがる大帝国をつくりあげたモンゴル民族は、チンギスハンの孫のフビライのとき、国号を元と改め、朝鮮半島の高麗を征服した後、日本に使者を派遣し朝貢を求めてきました。しかし、その時の鎌倉幕府執権・北条時宗はこの要求をすべて拒絶します。文永11年(1274)10月、元と高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後博多湾の沿岸に上陸し、日本軍と激戦となりました。ところがその戦いの最中、暴風によって元軍は大打撃をうけ、博多湾から引き揚げていきました。これが文永の役(ぶんえいのえき)です。
 その後も、フビライは執拗に日本に朝貢を求めてきましたが、時宗は頑強にこの要求を拒絶します。弘安4年(1281)5月、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の2方面から、ふたたび北九州へ攻め寄せてきました。しかし、日本軍はゲリラ的戦法で積極的な反撃を行いました。折りしも、元軍らが再度攻撃の機をうかがっていた閏7月1日、大暴風雨がこの地方一帯を襲い、元軍船は壊滅します。これが弘安の役(こうあんのえき)です。この二度にわたる日本侵略が元寇(げんこう)です。

 一方、元寇が来る少し前の頃から、東国では、日蓮(にちれん)による新しい仏教の動きが起こっていました。日蓮は、貞応元年(1222)、安房国(千葉県)の漁師の子に生まれ、16歳で出家し、鎌倉・比叡山(ひえいざん)などで学んだ後、法華経こそ釈迦(シャカ)の真の精神を伝える教えであると確信し、建長5年(1253)、故郷に帰って法華宗を開きました。次いで、鎌倉に出て辻説法を行い、天変地異の続くのを見て「立正安国論」を著し、国難を主張して執権北条時頼に直訴します。これが幕府政治を批判するものと受け取られ、伊豆(静岡県)や佐渡(新潟県)に流されます。
 後に許され、甲斐国の身延山(みのぶさん)に籠って弟子の育成にあたりましたが、病を得て療養に赴く途中、弘安5年(1282)に亡くなりました。
 日蓮は、法華経の教えに基づかない他の宗派の教えを批判したので、他宗派から迫害を受けましたが、その教えは東国の武士や農民を中心に広がっていきました。

 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、中国大陸や朝鮮半島からの攻撃に備えて、西国の守りを固めるために、多くの東国御家人を西国に転封させるという政策を講じます。甲斐国巨摩(こま)郡秋山を本領としていた秋山氏も西国へ移住した東国御家人の一族です。
 秋山氏は甲斐源氏の流れで、甲斐源氏は河内源氏三代目・源義家(八幡太郎義家)の弟の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清(武田冠者義清)のときに武田姓を名乗り、甲斐に土着した武士団です。戦国時代に活躍した武田信玄はその子孫です。
 秋山氏は、甲斐国に在住していたとき、一族のほとんどが日蓮あるいはその弟子の日興(にっこう)に帰依していました。
 日興(1246~1333)は、甲斐国の人で、日蓮が「立正安国論」を著すときにそれを助けた弟子です。日蓮六老僧の一人です。正応3年(1290)、富士山南麓に大石寺(だいせきじ)を開き、日蓮正宗など富士門流では、日蓮唯一の正統な後継者と見なしています。ちなみに大石寺は富士五山のひとつです。

 弘安年中(1278~88)、秋山光季は、幕府の命によって、西讃10か所の郷邑を領することとなり、孫の孫次郎泰忠とともに、一族を引き連れて讃岐国へ移住し、三野郡高瀬郷に居を構えます。そして、泰忠は自ら帰依していた日蓮の教えを広めるため、日興にしかるべき導師の派遣を懇願します。
 こうして、正応2年(1289)、日興の直弟子である寂日房日華(にっけ)(1252~1334)が讃岐へ派遣され、泰忠は、日華を迎えて那珂郡柞原郷田村(今の丸亀市田村町)に菩提所を建立しました。現在の田村番神がその旧跡だという伝承があります。
 ところが日華は布教に努めている途中で病にかかったため甲斐国に帰り、その後は老齢のため大石寺に留まりました。そこで、泰忠は日華の代わりの導師の派遣を日興に願い、その弟子の百貫房日仙(にっせん)(1262~1357)が讃岐に来ることとなりました。日仙は日華とともに、本六(ほんろく)といわれる日興の第一の本弟子6人のうちの一人です。
 しかし、折り悪くも田村の拠点が争乱に巻き込まれて灰となってしまったので、泰忠は三豊郡高瀬郷内の地を寄進し、正中2年(1325)に日仙を迎えて今の高永山本門寺が建立されました。

 鎌倉後期においては、讃岐の守護は執権北条氏の一門が代々務め、秋山氏も来讃当初はその配下に組み込まれていました。しかし、高瀬郷に本門寺が開かれて間もなく鎌倉幕府は滅亡し、建武の中興を経て激動の時代を迎えます。
 建武2年(1335)年、讃岐では足利尊氏側の細川氏が、当地の国人らを率いて宮方に対して挙兵しています。秋山氏もその傘下に入り、従来通り所領を安堵されます。讃岐は細川京兆家の本国地とされ、西讃岐は守護代の香川氏の支配するところとなり、秋山氏はその配下に入ります。
 その後、細川氏の衰退とともに、地元勢力である香川氏の勢力が強くなり、秋山氏は香川氏の家臣団に組み込まれて、戦国時代を過ごしていきます。

 一方、本門寺は、2世日仙の後、3世日壽、4世日山が大石寺から派遣されてきますが、5世日門以後は秋山家出身者が本門寺住職となります。文安3年(1446)までの100年間に本門寺では6箇寺ができ、本門はこれら六坊に対して、大坊と呼ばれました。これにより高瀬郷一帯の人々はそのほとんどが法華経に帰依するところとなります。

 天正6年(1578)、長宗我部元親が土佐から讃岐支配を目指して進出してくると、香川氏は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、その勢力下に入ります。これにより秋山氏も長宗我部に従うことになります。
 ところが天正13年(1585)、四国に侵攻してきた豊臣秀吉の勢力により長宗我部は土佐に追いやられ、その後、秀吉の命を受けた仙石秀久が讃岐の領主として入ってきました。これにより、香川氏の勢力は讃岐から一掃され、秋山氏も鎌倉時代以来約300年領有していた高瀬郷などすべての所領を没収されてしまいます。
 その後、江戸時代初期の生駒藩時代、四代藩主・高俊のときに、秋山氏は生駒家に仕官します。しかし、寛永17年(1640)の生駒騒動により、高俊が出羽矢島1万石へ転封されるにともない在地に帰農し、武士としての命脈を終えます。

 京都における法華宗のはじめての布教活動は、永仁2年(1294)、日蓮の弟子の日像(にちぞう)が教えを広めるために京都へ入り、皇居の東門前で東山に昇る日輪に向かって題目を唱え第一声をあげたときといわれています。当時の京都では古くから各宗派の勢力が強く、新興宗派であった日蓮宗の布教には様々な迫害がありましたが、元享元年(1321)、京都における日蓮宗最初の寺院として妙顕寺(みょうけんじ)が建立されます。その後、上方では町人を中心に法華宗が広がっていきます。
 讃岐は弘法大師空海をはじめ五大師を輩出した地で、古くから仏教の盛んなところです。このような讃岐に、東国生まれの新興仏教であった法華宗が、当時日本の中心であった京都よりも早く伝わったというのは非常に興味深い出来事です。

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(109)“大坂の鴻池も舌をまいた塩飽の豪商”

 鴻池家といえばかつての関西財閥の一つですが、その発祥は、安土桃山時代の頃、摂津国伊丹村(今の兵庫県伊丹市)で清酒の醸造を始めたことによるそうです。そして、江戸時代初期、大坂から江戸へ多量の酒を海上輸送するため海運業も始めたそうです。この酒造業と海運業で財を成し、さらに大名の蔵屋敷にある年貢米などを担保にして金を貸し付ける「大名貸し」を始め、それを足掛かりに17世紀半ばに両替商も営むようになり、それが明治以降、金融財閥化したということです。

 この鴻池家も舌をまく大船持ちの豪商が、江戸時代、塩飽諸島牛島という面積0.7平方km、周囲4.2kmの小さな島に居ました。丸尾五左衛門という人物で、瀬戸内随一の豪商とうたわれ、また「内海の海上王」ともいわれました。「珊瑚の杖」という逸話の中でも、鴻池家もしのぐといわれたその富裕ぶりが語られています。元禄時代のこと、丸尾家主催の宴会に招かれた鴻池家の主人が、家宝にしている珊瑚の杖を宴席に置き忘れてしまい、あわてて引き返して丸尾家の番頭に尋ねたところ、番頭は珊瑚でできた同じような杖を両腕でかかえ、「このうち、どちらでしょうか。」と涼しい顔で尋ねたので、自分こそ日本一の商人と思っていた鴻池家の主人もこれには驚き、すごすごと帰ったということです。

 丸尾氏は、元は東氏と称する肥後(今の熊本県)の武士だったといわれています。阿蘇氏、加藤氏と仕えていましたが、江戸時代の初め頃、東勝右衛門のときに、不遇な身に愛想をつかして浪人をし、上方へ行く途中、塩飽の牛島に立ち寄りそのまま住み着いて初代丸尾五左衛門と名乗るようになったといわれています。
 加藤氏が肥後を支配したのは、加藤清正(きよまさ)が、天正15年(1587)に豊臣秀吉から肥後の北半国25万石を与えられ、熊本城を居城としたときからです。ちなみに、このとき、清正は秀吉から肥後半国と讃岐のどちらかを選べといわれ、肥後を選んだということです。肥後南半国24万石は小豆島から移封された小西行長が支配しました。関が原の戦いの後、清正が肥後一国を領有しましたが、その死後の寛永9年(1632)、息子の忠広が幕府から改易され、加藤氏は肥後を去ります。その後、肥後一国を領有したのが小倉より入った細川氏です。室町時代、讃岐は幕府管領をつとめる細川京兆家の本国地で、肥後の細川家はその支流にあたる家柄です。

 丸尾氏が牛島で廻船業を始めたのは、二代目五左門重次のときからだといわれています。重次は元禄7年(1694)に69歳で亡くなったといわれており、寛永2年(1625)の生まれと考えられます。三代将軍家光の時代の寛永15年(1638)には、島原の乱が収まって世の中が平和になり、軍兵輸送の必要もなくなっているので、重次が牛島で廻船業を始めたのはこの頃ではないかと考えられます。ちなみに、寛永19年(1642)には、初代高松藩主・松平頼重が高松に入封しています。

 17世紀後半になると、江戸の町は大きく発展しました。このため幕府は、全国に散在している幕府領年貢米である城米(じょうまい)を大量に江戸に運ぶ必要に迫られます。そこで、幕府は東北地方の城米を江戸へ輸送することとし、4代将軍家綱 の代(在位1651~1680)の寛文10年(1670)から同12年にかけて、商人の河村瑞賢(かわむらずいけん)に東廻り・西廻り航路の整備を命じます。海上輸送は一度に大量の米を運ぶことができ、しかも積み替えによる手間が省け、傷みや損失も少なくてすんだからです。
 寛文11年(1671)、瑞賢は、まず東廻り航路の開発に成功します。そのルートは、陸奥の城米を太平洋側へ運び、そこから南下して房総半島を回って江戸へ入るというもので、後には日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下しました。
 そして、翌年の寛文12年(1672)には西廻り航路の開発にも成功します。そのルートは、出羽国(今の山形県)の城米を酒田湊へ運び、日本海を南下して赤間関(あかまがせき、下関)を経て、東に瀬戸内海を航行して大坂へ至り、さらに紀伊半島を回って江戸へ入るというものです。往復の所用日数は約3箇月でした。(18世紀以降は短縮され、19世紀中期には平均2箇月、速い時には32日になりました。5月下旬に出て7月に江戸に着くように、日本海の航行には夏の静穏な時期を当てていたといいます。)
 また瑞賢は、城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること、その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇うことなどを幕府に提案します。この方策が採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。このときから塩飽の廻船業は隆盛期を迎えていきます。

 塩飽の廻船業は、元禄年間(1688~1704)の頃を中心に、5代綱吉(在位1680~1709)・6代家宣(在位~1712)・7代家継 (在位~1716)の将軍治世の時代を通して大いに栄えます。ちなみに正徳3年(1713)、塩飽では5石積み以上が472艘をかぞえ、1,500石積みなどの大型船が112艘もありました。多くの塩飽廻船が江戸や大阪など諸国の港を頻繁に出入りし、その評判は全国に知れわたります。6代家宣・7代家継の代に活躍した 新井白石も、諸国の廻船の中でも、「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず、その賀使郷民また淳朴」と、「奥羽海運記」に記しています。塩飽廻船は金毘羅大権現の旗を掲げて諸国を巡ったので、これが金毘羅さんが航海の神として全国に広く知られるようになった由来ともいわれています。

 塩飽の廻船業の中でも中心だったのが牛島です。延宝7年(1679)当時、牛島には52人の船持ちが住んでいて4万8,750石の船を所有していたといいます。その中でも丸尾五左衛門は1万1,030石の船を持ち、塩飽一の船持ちでした。
 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていき、牛島船持ち衆の長老として栄華をうたわれました。持ち船の最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだと思われます。
 丸尾家の財力は他国にも知られていたのでしょう。肥後藩主の細川家は、丸尾家から借金をしています。細川家がこの借金を返済した様子はなく、いわゆる借りっぱなしだったようです。丸尾家は肥後に対してずっと愛着を持っていたのでしょう。

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任します。塩飽廻船は引き続き城米御用船として幕府から直接雇われ隆盛を誇っていましたが、4年後の享保5年(1720)、幕府は、城米をより安全にかつ安く運ぶため、その輸送方式をこれまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更し、江戸商人の筑前屋作右衛門に御城米船の差配を行わせます。いわゆる享保の改革の一環だったのかもしれません。これにより塩飽の船持衆は、今までのように直接荷受けすることができなくなり、廻船問屋の雇船として安く下請けされるようになりました。以降、塩飽の廻船数は急激に減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)にかけて45から49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。

 しかし、塩飽廻船が全く無くなったわけではなく、寛保年間(1741~44)頃からは、米の輸送だけでなく、土地の特産品である塩・砂糖・酒・醤油・むしろ、などを積み込んで、港々に立ち寄って販売しながら東北・蝦夷地の北国へ行き、帰路は米を第一に干魚・昆布・にしん・織物などを積んで、大坂などで商売をしていたようです。このように大坂と北国を日本海航路で往復した廻船を「北前船」といい、明治中頃まで塩飽をはじめ讃岐の各港でもみられました。北前船の寄港地だった日本海側の港町には、「塩飽屋」という屋号のある商家や、塩飽衆の墓が残された寺など塩飽衆の足跡を見ることができるそうです。

 18世紀後半には、塩飽の廻船業は衰えていき、17世紀後半から18世紀初めにかけてみられたような隆盛を迎えること二度とありませんでした。幕府から直接御城米輸送を請け負っていた頃は、廻船業が塩飽の産業で、船乗りや造船・船の修理などで多くの人が生計を立てていました。しかし、廻船が減少したの頃には、それまでの船大工の技術を生かして家大工や宮大工へと転身し、瀬戸内海沿岸を中心に他国へ出稼ぎに出、塩飽大工と呼ばれました。島の中は老人や子供ばかりになっていたといわれています。牛島の長徳院極楽寺には、明和2年(1765)に塩飽の年寄から江戸勘定奉行へ差し出された「塩飽島諸事覚」という書類が残っているそうですが、その中には、「島内で暮らしを立てるのは難しく、男子は12、3歳から他国へ出て水夫をしたり、多くの者は大工職として近国に出稼ぎに出た」と記されているそうです。

 丸尾家も五代目の時から衰退がはじまったといわれています。文政5年(1822)、丸尾家の没落をみかねた牛島の船頭たちは、丸尾家が多額の金を貸していた肥後の細川家に対して、銀223貫900匁の返還を請求したといわれています。しかし、細川家からは一文の返済もなかったそうです。ただし、細川家も、心苦しく思っていたのかもしれません。領主自らが参勤交代の途中、牛島にお忍びで立ち寄り、丸尾家に侘びたといわれています。
 このほかにも、牛島には、丸尾五左衛門にまつわる言い伝えが残されています。一つは「無間(むげん)の鐘」という話で、次のようなものです。牛島では、極楽寺にある鐘をつく者はたちまち巨万の富を得て栄華を極め、人生無上の福に恵まれるが、その栄華の後には必ず災難がきて、生きながらの無間地獄に陥る、といわれていました。このため誰もこの鐘をつく者はおらず、「鳴らずの鐘」と呼ばれていました。ところが、この島にやって来た五左衛門はこの鐘をついてしまいました。このため五左衛門はこの世の極楽と思われる富を得たが、まもなく地獄の没落を味わった、ということです。
 また、次のような言い伝えもあります。ある年の正月、五左衛門は、牛島の沖から大槌島まで船を並べてその数を数えようとしたが、数え終えないうちに日が暮れそうになってしましました。そこで、金の扇で「しばらく待ってくだされ」といって太陽を招き返したところ、少し昇ってきたので船を数え終えることができました。しかし、そのことが船霊(ふなだま)様や太陽の怒りにふれ、その夜のうちに海が大しけになって船が沈んでしまい貧乏になってしまった、ということです。
 この丸尾五左衛門の言い伝えは、塩飽の栄華と没落の物語を語っているのでしょう。

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(108)“桂小五郎ら勤王志士と親交のあった高松藩主の兄”

 幕末、讃岐にも勤王の志士がおり、水戸や長州の志士たちと連絡をとりながら活動していました。高松藩士の勤王家としては、長谷川宗右衛門(そうえもん)と息子の速水(はやみ)、甥の松崎渋右衛門(しぶえもん)の長谷川一族、在野の草莽の志士としては、小橋安蔵(こばしやすぞう)を中心とする木内龍山(りゅうざん)、村岡箏子(ことこ)、小橋橘陰(きついん)、太田次郎、小橋友之輔(とものすけ)、村岡宗四郎の小橋一族が高松と丸亀で活動していました。それに藤川三渓(さんけい)がいました。また金毘羅の草莽の志士としては、日柳燕石(くさなぎえんせき)を中心とする長谷川佐太郎(さたろう)、美馬君田(みまくんでん)、奈良松荘(しょうそう)らのグループが活躍していました。丸亀藩士では土肥大作と七助の兄弟がいました。
 これら讃岐の勤王志士を庇護したのが高松10代藩主・松平頼胤(よりたね)の異母兄・松平左近(さこん)です。高松では、よい意味でのへそ曲がりとか、一徹な人のことをもじって「左近さん」と呼びますが、左近は、高松松平家の中でもきわめてユニークな存在です。

 松平左近は、高松8代藩主・松平頼儀(よりのり)の長男として、文化6年(1809)に、江戸小石川の高松藩邸で生まれました。幼名を道之助、名を頼該(よりかね)、号を金岳といいます。
 左近は、神田の鬼子母神(きしもじん)に安産を祈願して生まれたので、その申子であるといわれたそうです。長男であるにもかかわらず8歳のときに廃嫡されて国元の高松へ帰されます。廃嫡されたのは、左近には母が異なる姉の倫姫(みちひめ)と弟の貞五郎がいましたが、頼儀が倫姫の婿に水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし)の次男・頼恕(よりひろ)をむかえて高松9代藩主とし、次の高松藩主を倫姫と母が同じ貞五郎(後の頼胤)としたためです。
 以後、左近は高松で過ごし、政事にはかかわらず学問などに励みます。幼い時から聡明で学問好きだったといわれており、また武道もすぐれ、文武両道の人物だったようです。

 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、松平頼胤(よりたね)が10代藩主になります。この頃、左近は隠居して、城内の邸宅から城下の宮脇村にある亀阜荘(かめおかそう)に移り住み、「宮脇様」とも呼ばれています。31歳の頃だといわれています。家禄は2500石でした。
 左近と頼胤は4つ違いの腹違い兄弟ですが、幕末の動乱期に全く対照的な人生を歩みます。弟の頼胤は高松藩主として、溜間詰(たまりまづめ)という老中と列座する幕政中枢の要職を占め、井伊直弼らとともに幕府保守派として幕府権威の維持に奔走します。このため、攘夷・一橋派の頭目である水戸の徳川斉昭(なりあき)とは仲が悪かったようです。頼胤の藩主在任は20年近くに及びましたが、幕政に関わったことから、ほとんど江戸暮らしでした。
 これに対して兄の左近は、政事にはかかわれない立場から、学問や趣味の世界に沈溺し、かなり自由な生活をしていたようです。書・画・和歌・俳句・華道・茶道など、それぞれに達人の域に達し、その才覚は藩中で及ぶ者なしといわれました。亀阜荘では、能や芝居の舞台をつくり、小国広太郎という変名を使い自ら女形の役を演じて庶民にも公開したので、「左近さん」と親しまれていたそうです。さらに、法華宗の熱心な信者で、高松八品講を組織しています。仏典の研究も深く、寺での法話は坊さん以上だったといいます。
 また、左近は国史を読み、楠木正成を思慕していたといい、若い頃から尊王思想をもっていたようです。江戸へ出向いたとき、長谷川宗右衛門の引き合わせで水戸まで足を運び、徳川斉昭と国事を語り合い、斉昭に心服したといわれています。その影響から、佐幕派が主流を占める高松藩の中にあって、唯一、勤王家たちを陰で庇護した人でした。
 しかし、左近と頼胤の仲は、藩主継承の順番が逆になり、その考え方も正反対であったにもかかわらず、悪くはなかったようです。城内での会食のとき、どちらが先に食事をするかで双方が譲り合いをするために事が前に進まず、困った侍女たちが二人同時に食事をすすめたという話も伝わっています。

 左近は多くの勤王家と交友関係を持っていたようですが、左近が用いた人物の一人が藤川三渓です。三渓は、26歳のとき、長崎に行き、そこで砲術、兵術、築術、捕鯨術を学びます。その後、讃岐に帰り医者をしていましたが、海防の必要なことを報告するなど左近を助けて力を尽くします。
 嘉永3年(1850)、左近は金毘羅の勤王家である日柳燕石(くさなぎえんせき)の拝謁を受け、燕石を三渓に引き合わせています。
 また、文久3年(1863)6月、左近は三渓が献策した農兵取立てを取り入れ、試みに農兵の訓練を命じています。総勢545人の農兵隊は「龍虎隊」と名付けられ、左近は手製の軍旗を与えて激励しています。そして、三渓は屋島の長崎の鼻に砲台をつくり「震遠砲」(しえんほう)と名づけ、この砲身に自作の詩を彫刻したといいます。
 しかし、三渓の積極的な行動は藩内保守派の反感をかい、文久3年(1863)の「八・一八の政変」による尊王攘夷派の京都での失脚により、10月から以後6年間、鶴屋町の獄に繋がれます。後、日柳燕石が高杉晋作を匿った罪で美馬君田(みまくんでん)とともに入牢してきたときには、三渓は手製のこよりで編んだ敷物を燕石に贈ったといわれています。獄中で3人とも「皇国千字文」を著しています。
 当時、亀阜荘は、讃岐における勤王派の情報拠点基地のような存在だったらしく、国内外の勤王志士が出入りし、左近も長谷川宗右衛門、松崎渋右衛門、小橋安蔵、日柳燕石らと親交を結んだようです。
 さらに、左近は讃岐国外の勤王の志士も助け、その庇護に努めています。なかでも、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らとの交渉は深く、また備前の藤本鉄石、越後の長谷川正傑らは高松に来て、小橋安蔵の紹介で会見をしています。一方、土佐の中岡慎太郎、石田英吉や公卿の沢宣嘉らもしばらく左近の邸内に潜伏していたといわれています。

 慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いによって高松藩が朝敵になり、官軍の土佐藩兵が高松征討に向かって進軍してきた際、藩内は官軍を向かえ討つべしという抗戦派と、恭順すべしとする和平派が対立し、3日3晩にわたる激論となります。抗戦派の主張が優勢になりかけたとき、左近は、儒学者藤沢南岳の献策をいれ、病の身ながら抗戦派を一喝して押さえつけ、藩内を恭順論に統一しました。これにより高松の御城下は戦火から救われました。
 最後の力を出し切ったのか、この年の8月6日、左近は病のため亡くなりました。享年60歳でした。
 しかし、高松藩内の対立は左近の死後も続き、佐幕派が勤王派の松崎渋右衛門を謀殺し、それを隠蔽するという事件が起きています。もし、左近がもっと長生きしていたならば、このような陰惨な事件は起きていなかったかもしれません。

 なお、この記事をお読みになるに当たっては、次の記事も参考にしてください。
○“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”(27)
○“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤王僧”(24)
○“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”(105)
○“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”(106)
○“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”(107)
○“高杉晋作をかくまった侠客の勤王志士”(34)
○“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”(28)


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