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(107)“蛤御門の変で戦死した若き讃岐の勤王志士”

 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)は、幕末の元治元年(1864)7月19日、京都での勢力の挽回を図る尊王攘夷急進派の長州藩と、御所を守る会津藩、薩摩藩を中心とした公武合体派幕府軍との間における戦いです。御所の西側に位置する蛤御門付近で特に激しい戦闘が行われたことからこの名で呼ばれ、禁門の変、元治の変、元治甲子の変とも呼ばれます。この戦いには、当時19歳の小橋友之輔(とものすけ)という讃岐人が長州軍に従軍し、戦死しています。

 小橋友之輔は、香川郡円座村に住む小橋安蔵の次男として生まれます。祖父の小橋道寧は、高松藩儒菊池縄丈に学んだ後、江戸に出て昌平坂学問所に学び、さらに和歌山の華岡青洲に医を学んだという、当時、最高の学問と教養を身につけていた人でした。
 道寧には、長男安蔵、次男順二(文化8年(1811)生)、長女箏子(ことこ、文化12(1815)生)、四男多助(文政5年(1822)生)らの子供がいました。
 長男の安蔵は、伊藤南岳について漢学と数学を修め、のちに大坂や江戸に遊学して古賀洞庵・大槻磐渓らと交わり啓蒙を受け、尊王攘夷思想を持ちます。その立場から、嘉永4年(1851)、10代藩主・松平頼胤のときに、貧民の救恤(きゅうじゅつ)と海防の強化を高松藩へ建言しています。
 次男の順二は木内家に養子に入り、龍山と号します。兄と同じく伊藤南岳に学び、兄の相談相手として思想面から大きな働きをしました。儒学、歴史に関心が深く、多くの著述を残しています。
 長女の箏子は17歳で、丸亀の銀札出納係りを勤めていた村岡家に嫁ぎ、夫の死後は醤油醸造業を営み、兄らの尊攘運動を経済的も援助しました。箏子には宗四郎という息子がいました。
 四男の多助は、橘陰(きついん)と号し、大坂で藤沢東畡(とうがい)に学び、のち、江戸に出て古賀洞庵に入門します。江戸市中の動静や幕府の動きなどを兄に知らせ続けました。
 また、安蔵の娘婿の太田次郎も尊攘運動に身を挺します。次郎は、木田郡田中村の医者太田敬輔の次男で、父から漢学と製薬理学を、また久米栄左衛門の弟子である叔父の飯間八郎に火術を学んでいました。
 このような環境に育った安蔵の次男の小橋友之輔と箏子の息子の村岡宗四郎は、若い頃から父、叔父、叔母らとともに尊攘運動に身を捧げました。
 小橋一族は、安蔵を中心にして草莽の志士として一門あげて勤王家として活躍し、京畿の長州勤王志士の間では「讃岐名和氏」と呼ばれていました。

 嘉永6年(1853)6月ペリーが浦賀に来航し、翌年1月再来航して3月3日に日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と函館の2港が開港されます。ここに、200年以上続いた幕府の鎖国政策は崩れます。
 この頃、小橋安蔵は尊王攘夷論者として讃岐の外でも知られていたようで、安政元年(1854)4月、安蔵47歳のとき、越後長岡の志士・長谷川正傑(しょうけつ)がやってきて、弟の木内龍山、娘婿の太田次郎らとともに時事を論じ、尊王攘夷に努めることを約しています。このとき、安蔵は箏子に依頼し、正傑を丸亀に潜伏させています。正傑は、翌年にも来讃し、安蔵に勤王の義兵を挙げるよう持ちかけます。安蔵はこれに応じ、軍備充実のための武器を提供することを約しています。

 安政5年(1858)9月、安政の大獄が始まり、尊王攘夷論者に弾圧が加えられます。これに対する反動として、安政7年(1860)3月、桜田門外の変が起こり、大老・井伊直弼が暗殺されます。
 この後、幕府は、その権威を回復するため、朝廷と幕府が協調して政局を安定させようという公武合体政策を進め、文久元年(1861)11月、その象徴として、の将軍家降下が決定されます。しかし、この強引な政略結婚に尊王攘夷論者は激しく反発し、翌年の文久2年(1862)1月、坂下門外の変が起こります。
 この頃、安蔵は太田次郎を丸亀の村岡箏子のところへ行かせ、箏子と宗四郎とともに、ガルバニ電器、臼砲3門、弾丸数百発、硝薬、刀百振り、槍15筋、甲冑8領などを整えさせ、村岡宅に隠しています。村岡家では居間の床下に地下室を掘り、東西に3.6m、南北に2.7m、深さ約1.8mの大きさ、周囲には花崗岩の切り石を敷き、底は漆喰で塗り、外部は豊島石で蓋をしていました。その家は現在の丸亀市魚屋町にありました。

 文久2年6月、幕政の混乱をみた薩摩の島津久光は、江戸に赴き改革を要求します。幕府はその意向を入れて、徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁に任命します。また、安政の大獄以来の処罰者を赦免します。これを文久の改革といいます。なお、久光の薩摩への帰途の8月に生麦事件が起きています。
 一方、この頃、長州藩は、中下級藩士の主張する尊王攘夷論を藩論とし、三条実美ら尊攘派公家と結んで、朝廷内部での主導権を握ります。この結果、朝廷の主流は、再び公武合体派から尊攘派に移り、攘夷実行の遵守を決定します。文久2年(1862)12月、孝明天皇が攘夷の勅書を将軍徳川家茂に授け、家茂はやむを得ず翌年3月に攘夷を決行する旨を奉答します。これにより、諸国の攘夷運動は大いに盛り上がります。

 文久3年(1863)3月、将軍家茂が上洛し、孝明天皇は攘夷祈願のため上下両賀茂社と石清水八幡宮へ行幸します。この頃、安蔵は、高松藩に再度上書して、幕府の攘夷決定という情勢下における武備の充実と正道一元、農民の救済、農兵取立てを強く要請しています。
 ところが、幕府が攘夷を決行しないため長州藩をはじめとする攘夷派は憤慨し、朝廷も幕府に攘夷の決行を迫ります。やむなく、幕府は5月10日をもって攘夷を決行すると答えますが、実行しませんでした。しかし、長州藩は下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して遂に攘夷を決行します。これが下関戦争です。また7月には、イギリス軍艦が、生麦事件の報復として鹿児島に砲撃し、薩英戦争が起きます。

 攘夷の機運が盛り上がる中、長州藩は、三条実美ら過激派公家と、8月に孝明天皇が大和行幸、攘夷親征を行い、幕府を追い詰めようと謀っていました。この計画は、天皇が大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命じ、幕府がこれに従わなければ長州藩が錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に倒すというものでした。
 この頃、讃岐では、長谷川正傑、野城(のしろ)広助らが高松円座の安蔵のところに来て、すぐ丸亀の箏子の方に移っています。安蔵は時期が熟したとして軍資金2千両を用意し、武器を点検させています。
 文久3年(1863)8月13日、孝明天皇により大和行幸、攘夷親征の詔勅が出されます。このとき、吉村寅太郎らは京都東山の方広寺で、公家中山侍従忠光を大将とする天誅組を旗挙げし、大和行幸の先鋒となるべく大和国へ向かいます。天誅組は8月17日には五條代官所を襲撃し、五條御政府を樹立します。これは武力による最初の倒幕決行でした。金毘羅の日柳燕石(くさなぎえんせき)も天誅組の挙兵に参加する予定でしたが、病により実行できなかったといいます。
 この頃、京都から特使が村岡宗四郎の導きで高松円座の安蔵のところに来て、天皇の大和行幸、攘夷親征を告げます。これに呼応して、長谷川正傑、小橋友之輔、太田次郎、野城(のしろ)広助、美馬君田らは、村岡家に隠しておいた武器弾薬を船に積み込み丸亀を出港し、京都に向かいます。安蔵、龍山、宗四郎はあとを追って出発する予定でした。

 ところが天誅組が大和で意気をあげていたとき、京では政局が一変します。当時長州藩と対立していた薩摩藩は、倒幕の計画を察知し、藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩や公武合体派の公家らと連帯してこの陰謀を潰し、朝廷における尊攘派の長州勢力を一掃しようと巻き返しを図ります。孝明天皇も尊攘派の振る舞いを快く思っていませんでした。
 8月18日深夜、会津・薩摩などの藩兵が御所の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らと、京都守護職松平容保、所司代稲葉正邦らが参内し、攘夷親征の延期、三条実美ら尊攘派公家の排除、長州藩の京都からの排除、長州藩士の御所出入りの禁止などを孝明天皇に上奏して裁可されます。この「八・一八の政変」により朝廷の実権は再び公武合体派に移り、攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人は朝廷を追放され、長州藩兵とともに翌日の暁に京都を退去して長州へと向かいます。いわゆる「七卿落ち」です。この事件は、公武合体派によるクーデターでした。なお、京都での政変により天誅組は暴徒と決め付けられ、幕府から追討され、9月25日に壊滅します。
 この政変で安蔵らの決起行動も中断してしまいます。しかし、太田次郎と小橋友之輔は長州藩兵と行動を共にします。10月27日、安蔵は、攘夷親征のとき従軍を策謀したことが高松藩に発覚し、獄につながれ武器類もすべて没収されます。
 しかし、尊王攘夷の流れは止まず、翌年の元治元年(1864)3月には水戸藩士藤田小四郎らが筑波山で挙兵しています。一方、安蔵は、5月25日、許されて出獄しますが、その後自宅拘禁が続きます。

 元治元年(1864)6月、長州藩士らが新撰組に襲われ惨殺されるという池田屋事件が京都で起こります。この事件により、長州藩では、会津・薩摩を討つべしという強硬派が主導権を握り、7月に尊王攘夷派の勢力回復をねらい、長州軍約3000人が京都へ向かって進軍します。
 この軍のうち、約1600人は各地の尊王攘夷志士による浪士隊で、その指揮には久留米の神官・真木和泉守(まきいずみのかみ)と吉田松陰の弟子の久坂玄瑞(くさかげんずい)そして長州藩士の来島又兵衛(きじままたべえ)が当たりました。
 この浪人隊の中には、讃岐の出身の太田次郎と小橋友之輔が従軍していました。友之輔は、行軍の途中、丸亀に立ち寄り、叔母の箏子に「年月を空に過せし大丈夫の、散て匂はん大和魂」の辞世の句を託し、箏子は「大君の御為とならばながらえて、なお年久に心尽くせよ」と返し、死を急ぐのを戒めています。

 元治元年7月19日、長州軍は洛中に突入し、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と御所の蛤御門や堺町御門(さかいまちごもん)附近で激戦となります。このとき高松藩は小御所を守り、また長柄川の警備に当たっています。
 戦いは一日で終わり、長州軍の惨敗となります。その戦死者は265名ともいわれています。最大の激戦地となったのは蛤御門で、この門を守っていたのは会津藩でした。長州藩にとって、会津藩は8月18日の政変の首謀者の一人であり、池田屋事件で多くの同志の命を奪った新選組を抱えている仇敵でした。長州軍の戦意と進撃は激しく、会津藩の守りを突破して、一時は御所内に進入したほどでした。しかし、西郷隆盛が率いる薩摩藩が応援に駆けつけたために戦局が逆転し、長州軍は敗れて敗走しました。
 このとき、太田次郎と19歳の小橋友之輔が長州軍に従軍し、戦いに加わっていました。この戦いで友之輔は7月19日に堺町御門で戦死しました。次郎は重囲を脱して逃れ、後帰郷しています。

 慶応元年(1865)正月、安蔵は、友之輔が長州軍に加わったことにより再び投獄されます。これに連座して、村岡宗四郎も自宅拘禁されます。幽囚の生活の中で宗四郎は体を痛め、吐血して衰弱し、慶応3年1月、21歳の若さで没しました。このとき、母箏子は、「あさからず、御国をおもう真こころの、身のあだとなる世こそかなしき」と、その悲痛の嘆きを詠っています。またこの年11月、木内龍山も57歳で没しています。
 慶応4年(1868)正月、安蔵は、高松藩征討の際に出獄を許されます。在獄3年でした。しかし、なお活動を続けていたようで、6月には、丸亀の土肥大作らと謀り、松崎渋右衛門を出獄させています。
 明治2年(1869)6月、安蔵は、高松藩庁より積年の勤王の志厚きを賞され、10人扶持を与えられます。ところが、9月に松崎渋右衛門が謀殺されると、親交があったとして再び獄につながれます。翌年の明治3年7月には箏子が56歳で亡くなります。安蔵が自由の身になったのは明治4年のことで、翌年6月に65歳で亡くなります。最後に残った小橋橘陰(きついん)が江戸で亡くなったのは、明治12年、58歳でした。

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(106)“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”

 幕末の元治元年(1864)6月5日、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋に潜伏していた長州藩らの尊王攘夷派浪士を新選組が襲撃しました。これが池田屋騒動といわれている事件です。
 文久3年(1863)、長州藩を中心とする尊王攘夷急進派は八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。この状況の下、京の街には、尊王攘夷派の浪士たちが潜伏し、勢力挽回を試みようとしていました。これに対して、京都守護職を務める会津の松平容保は、その配下の新選組を用いて、市内の警備や探索を行わせていました。
 翌年の元治元年(1864)5月下旬頃、古高俊太郎を捕らえた新選組は、その自白により、尊攘過激派の浪士が、祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王 を幽閉し、一橋慶喜(後の徳川慶喜)、松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るという陰謀の存在を知ります。さらに、陰謀の実行、中止について協議する浪士たちの会合が池田屋か四国屋において行われる事を突き止めます。
 事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は、近藤隊10人と土方隊24人の二手に分かれ捜索を開始し、池田屋で謀議中の浪士を発見します。近藤勇沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が斬り込み、真夜中の戦闘となりました。その後、土方隊が到着し、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げました。
 この事件で新選組の名は天下に轟きましたが、逆に尊攘派は宮部鼎蔵(ていぞう)らの実力者が戦死し、大打撃を受けました。桂小五郎(後の木戸孝允)は到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起きたので難を逃れています。
 新撰組と斬り合いをした勤王浪士は、ほとんど長州藩を中心とした土佐藩、肥後藩出身の者たちですが、この中に、讃岐出身の土肥七助がいました。
 七助は新撰組との斬り合いで池田屋を逃れ、堀川の潜伏先に隠れていたところを探索中の新撰組に見つかり包囲されますが、刀を振りかざしながら囲みを破り、堀川の流れに飛び込んで夜陰に乗じて危機を脱しといいます。

 土肥七助は、天保14年(1843)、丸亀京極藩士・土肥正助の息子として丸亀城下鷹匠町で生まれます。諱(いみな)を実忠(さねただ)といい、大作という6つ年上の兄がいまし
た。
 兄の大作は、諱を実光(さねみつ)といい、藩校正明館に学んだのち、当時わが国の最高学府だった江戸の昌平坂学問所で学びます。大作は、このときに接した師や学友たちの感化により勤王思想を持ち、安政6年(1859)に丸亀に帰った後、長州の高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎、土佐の中岡慎太郎ら諸国の勤王志士と親交を重ね、藩論を尊王へと導くように努めます。
 弟の七助は、学問もよくしたようですが、特に剣の腕に優れていました。少年の頃から剣の修行をして諸国を巡り、20歳頃には剣の使い手として知られています。その剣法は、かんぬきに差した長剣を膝をついで下からすり上げる「地ずり剣法」というものでした。七助も兄の影響で勤王家となり、文久3年(1863)7月、21歳のときに脱藩して、藩外での尊王攘夷運動に身を挺します。この頃、中央の政情は、下関での長州藩の外国艦船砲撃事件、天誅組の乱、八月十八日の政変、三条実美らの七卿落ちと、目まぐるしく動いていました。

 池田屋騒動のあと、七助は江戸に帰る水戸藩士の列に変装してもぐり込み江戸に行きます。しかし、その間に京都で蛤御門の変が起こったことを知り、再び京都に戻ります。そして、故郷の母が心配していることを知り、元治元年8月、大坂から船でいったん丸亀に帰り母と妹に再会しています。これが肉親との最後の別れでした。その後、七助は、慶応元年(1865)春、長州で三条実美卿らが大宰府へ落ちのびるのを見送って以後、消息が途絶えます。
 一方、兄の大作は、長州などの勤王志士と交友関係があったことから、丸亀藩が幕府から長州寄りと嫌疑を受けることを恐れ、慶応2年(1866)9月、謹慎を命じられます。
 しかし、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いが起こり高松藩が朝敵となると、丸亀藩は多度津藩とともに、土佐藩兵で構成された高松征討軍に加わり、大作を出獄させて丸亀藩参謀とします。
 その後、大作は、明治新政府の官吏に登用され、民部省、大蔵省に出仕したり、各県の参事などを歴任します。この間、丸亀県創設の事務を指導するために帰藩していた際の明治4年7月、家禄削減に不平を持つ旧藩士51名の襲撃を受けます。これに対しては撃退しますが、明治5年5月、新治県(にいばりけん、茨城県土浦地方)の参事として赴任していたとき、割腹自殺を遂げます。その理由は明らかでありませんが、理想と異なる現実に絶望したのではないかともいわれています。享年36歳でした。

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(105)“吉田松陰と同じ獄につながれた讃岐の勤王親子”

 安政の大獄は、幕末の安政5年(1858)から翌年にかけて、幕府の大老井伊直弼が、日米修好通商条約の調印に反対した攘夷派や、紀州藩の徳川慶福(よしとみ、後の家茂)を将軍継嗣(けいし)とすることに反対した一橋派に対して行った弾圧事件です。この事件のとき、讃岐の勤王家である長谷川宗右衛門(そうえもん)とその息子の速水(はやみ)は、吉田松陰が入れられていた同じ獄に繋がれていました。
 長谷川宗右衛門は享和3年(1803)の生まれで、速水はその次男です。宗右衛門の甥には文政10年(1827)生まれの松崎渋右衛門(しぶえもん)がおり、彼らは高松藩勤王派の一角をなしていました。

 文政9年(1826)、長谷川宗右衛門は高松9代藩主・松平頼恕(よりひろ)の江戸詰めの近侍として仕えます。頼恕は水戸藩の出身で、水戸9代藩主・徳川斉昭(なりあき)はその実弟にあたります。
 水戸藩では、学問好きの光圀のときから「大日本史」の編纂事業に着手しており、この事業を続けて行く間に、藩内では次第に、後にいわゆる水戸学と呼ばれる学問ができあがっていきました。水戸学は、18世紀の始め頃までは、儒学の大義名分の見地から皇室崇拝を説く思想にすぎませんでした。
 ところが、8代・治紀(はるとし)から9代・斉昭の時代にかけ、藤田幽谷(ゆうこく)、会沢正志斉(あいざわせいしさい)、藤田東湖(とうこ)たちが現実の政治、経済の問題を取り上げ、封建支配が長期にわたって続いたために現れてきたほころびに対して、ゆるんだ忠道徳の喚起を強調し、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようと主張しました。これにより従来からの尊王論と攘夷論が結び付けられ尊王攘夷思想が形成されました。
 斉昭自身も熱心な尊王攘夷論者で、藩校として弘道館を設け、藤田東湖などを登用して藩政の改革を推進します。しかし、尊王攘夷思想は、開国以後、幕府に国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、反幕的色彩を強めていきます。

 斉昭の兄の松平頼恕も水戸出身らしく、「大日本史」の続編ともいえる歴代天皇の事績を編年体で記した「歴朝要紀」の編集や、崇徳上皇の遺跡を整備するなど、水戸光圀の流れをくむ学問・思想を踏襲します。また、久米通賢の建議を取り入れて坂出塩田を開くなど藩財政の建て直しにも努めています。
 長谷川宗右衛門は、頼恕の江戸詰め近侍として仕えることになった頃から、徳川斉昭の側近に仕える藤田東湖をはじめとする水戸の勤王家たちと接触し、尊王思想を深めていきます。宗右衛門の感化によりその息子の速水と甥の松崎渋右衛門も勤王家として育っていきます。渋右衛門は水戸弘道館でも学んでいます。
 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、松平頼胤(よりたね)が10代藩主になります。頼胤にとって水戸の徳川斉昭は義理の叔父に当たります。

 嘉永6年(1853年)6月、ペリーが浦賀に来航し、国内は開国論と攘夷論に分かれます。幕閣保守派の一角を占める頼胤は開国止むなしとする立場にたち、攘夷を主張し幕政を非難してその改革を要求する斉昭と対立していきます。
 一方、斉昭に心酔する長谷川宗右衛門は、安政2年(1855)、「海防危言」(かいぼうきげん)を著して斉昭や越前藩主・松平慶永(よしなが)、公卿の三条実方(さねつむ)に献じ、翌年には尊王論者の梁川星巌(やながわせいがん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、梅田雲浜(うめだうんびん)らと接触します。
 将軍継嗣問題も絡み高松藩と水戸藩の対立は極めて険悪となっていき、当時江戸詰めをしていた宗右衛門は両藩の確執を解くため懸命に奔走します。しかし、斉昭寄りだということでかえって頼胤の怒りに触れ、安政4年(1857)、ついに、同じく江戸詰めをしていた甥の松崎渋右衛門とともに帰藩のうえ謹慎を命じられます。

 翌安政5年(1858)6月、大老井伊直弼は朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約に調印します。これに端を発し、幕閣保守派と徳川斉昭ら攘夷派との対立は抜き差しならない深刻な状況となります。
 同年8月、高松で謹慎中の長谷川宗右衛門は脱藩して京都に向い、そこで数日滞在して梅田雲浜、頼三樹三郎、月照らと密かに会合した後、江戸に向かいます。数日後、雲浜が幕府に捕縛され、安政の大獄が始まります。その後、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らの勤王志士が次々と捕縛されて江戸に送られ、伝馬町の獄などで詮議を受けた後、切腹・死罪など過酷な刑に処せられていきます。
 宗右衛門に対しても、高松藩が追捕を幕府に依頼し、探索の手がのびてきます。宗右衛門は江戸から水戸へ行き潜んでいました。このとき、息子の速水も高松を脱して水戸に向かい、親子は水戸でしばらくぶりの対面を果たします。しかし、親子はたちまち別れ、速水は父の助命を嘆願するため江戸藩邸に自首します。
 一方、宗右衛門は丸岡淪(しずむ)と変名し、京都に潜入します。しかし、勤王の同士たちが捕らえられたこと知り、ついに大坂藩邸に自首します。宗右衛門は江戸に護送され、速水とともに、伝馬町の獄に繋がれます。また、高松に居る甥の松崎渋右衛門も不遇の日が続きます。

 このとき、江戸の伝馬獄には吉田松陰がすでに繋がれていました。松蔭は、萩で松下村塾を開いたことでよく知られています。速水は松蔭と同じ西揚場に留置されます。しかし同じ獄にいながら言葉を交わすことはできませんでした。
 松蔭はのち処刑されますが、その前々日から前日にかけて「留魂録」(りゅうこんろく)という遺書を弟子たちに残しています。この中で、松陰は、宗右衛門と牢獄で行き違ったとき、彼が独り言のようにして言った次の言葉を書きとめています。
 「讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫め、宗藩水家と親睦の事につきて苦心せし人なり。東奥揚り屋にあり、其の子速水、余と西奥に同居す。この父子の罪科何たる未だ知るべからず。同志の諸友、切に記念せよ。余始めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。法隻語を交ふることを得す。翁独語するものゝ如くして曰く、『寧為玉砕勿為瓦全』と、吾甚た其の意に感ず。同志其之を察せよ。」
 「寧為玉砕勿為瓦全」とは、「寧(むし)ろ玉(ぎょく)となりて砕(くだ)くるとも、瓦(かわら)となりて全(まった)かるなかれ」と読み、自分の命を全うするために、つまらない瓦となって長生きをするよりも、むしろ玉となって玉砕しなさい、すなわち、平々凡々と人生を終わるも良いが大義のために終わることはもっと大事であると、という意味です。勤王の志を同じくする者として、宗右衛門の言葉に松蔭はいたく感じ入ったのでしょう。
 安政6年(1859)10月、宗右衛門、速水の親子は、ともに高松に帰され、鶴屋の獄に移されます。翌年の万延元年(1860)、速水は獄中で血を吐いて亡くなりました。

 安政の大獄により、幕府は一時的に尊王攘夷派の勢力を削ぐことができましたが、結果は、その意に反し、水戸藩、薩摩藩を攘夷へ、尊王派の志士達を討幕の道へと駆り立てていくことになります。
 万延元年(1860)、井伊直弼は桜田門外の変により暗殺され、翌年、頼胤は病を理由に隠居して家督を頼聰に譲ります。さらに、文久2年(1862)1月には坂下門外の変が起こり、幕府保守派の力が衰えていきます。同年11月、長谷川宗右衛門は赦免されて出獄します。また、甥の松崎渋右衛門も家老となって再び活躍の機会が与えられます。
 しかし、元治元年(1864)7月蛤御門の変が起こり、尊王攘夷派の長州藩が朝敵となるとまた情勢が一変します。渋右衛門は家老を罷免されて閉門蟄居を命じられ、翌年の慶応元年(1865)2月には頼聰(よりとし)を廃するという謀反の嫌疑をかけられて鶴屋の獄に繋がれます。
 その後の慶応4年((明治元年)1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発すると、高松藩は朝敵となり、宗右衛門は朝廷や長州藩との周旋嘆願に奔走します。しかし、かえって藩内保守派の中傷を受け、再び囚われの身となります。
 宗右衛門が出獄を許されたのは、明治2年(1869)2月のことです。同じ頃、甥の渋右衛門も出獄し、藩政に復帰して、神櫛王陵を修復し、満濃池を修築するなどの施策を進めます。しかし、同年9月8日、渋右衛門は藩内保守派の不満分子により、高松城内桜の馬場で謀殺されました。
 明治3年(1870)、速水と渋右衛門を失った宗右衛門は、皇居を拝してから死にたいと、病身の身をおして船で大坂に向かいますが、その途上、68歳で亡くなりました。
 高松藩では渋右衛門の死を自殺として隠蔽していましたが、その後の明治新政府の取調べにより、それは藩内保守派による謀殺だということが発覚し、明治4年4月、謀殺に関与した高松藩士が新政府により処断されました。時代の変わり目に起きた事件とはいえ、佐幕派が主流派を占めていた高松藩内で勤王の立場を貫くことは命がけのことだったことが伺えます。

 なお、この記事をお読みになるに当たっては、次の記事も参考にしてください。
(24)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤王僧
(27)“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主
(28)“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟

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(104)“讃岐に残る清少納言の哀れな物語”

 金刀比羅宮大門の左手前、鼓楼の傍らに、清塚(きよづか)と呼ばれる石碑があります。これには清少納言(せいしょうなごん)が夢に出て自らの墓を示したという伝承が残っています。

 「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」で始まる「枕草子」は、平安時代の女性作家、清少納言(せいしょうなごん)によって書かれたものとしてよく知られています。
 清少納言は、康保3年(966)頃に生まれたと推定されており、父は清原元輔(908年-990年)、曽祖父(祖父とする説もある)は清原深養父(ふかやぶ、生没年未詳)といわれています。元輔は三十六歌仙、深養父は中古三十六歌仙に入る歌人で、清少納言は幼いときから和歌や漢学になじんだ環境の下に育ちました。「清少納言」というのは女房名で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の役職名からつけられたとされています。実名は不明です。16歳の頃に橘則光と結婚し、男子をもうけていますが、結婚生活は永祚2年(990)頃に解消したと考えられています。

 その後、正暦4年(993)の冬頃から、一条天皇に入内していた中宮定子の後宮に出仕します。この時、清少納言は28歳、定子は17歳だったといわれています。
 定子は、内大臣・藤原道隆の娘として生まれ、正暦元年(990)1月、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇の女御として入内し、その年の10月に皇后となり「中宮」を号していました。同じ年の5月には、父・道隆が関白、次いで摂政となっており、一族は栄華の極みにありました。
 定子は、美貌はもとより、高い教養を身につけ、しかも明るく華やかで思いやりのある性格だったようで、一条天皇との仲も睦まじいものだったといわれています。この当時の定子の後宮には30~40名の女房が仕え、文芸サロンのような存在でもありました。その中で、清少納言は博学な知識と持ち前の才能から頭角を現し、定子の恩寵も受けて、その名は宮中に知れわたりました。宮中での出来事などを綴ったのが枕草子です。
 しかし、長徳元年(995)4月、道隆が病死すると、後盾を失った定子の立場は危ういものとなります。叔父の道兼が関白に就任し、ついで道兼が急死するとその弟の道長に政治の実権が移っていきます。さらに、翌年4月、定子の兄の内大臣・伊周(これまさ)と弟の中納言・隆家が誤って花山院の輿に矢を射かけるという事件によって失脚し、定子は身重のまま内裏を出、剃髪して仏門に入ります。
 その後、長徳3年(997年)4月に兄らが赦され、定子は6月に一条天皇の意向により誕生した皇女・脩子内親王とともに再び宮中に迎え入れられます。しかし、自己の宮中での立場を確固としたい道長は、娘の彰子を一条天皇の女御として入内させようと謀ります。そして、長保元年(999年)11月、定子が一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産した日に彰子を女御として入内させます。さらに親王の誕生に焦った道長は、彰子を定子と同格の中宮とすることを謀ります。これにより、長保2年(1000)2月、彰子は女御から新たに皇后となり「中宮」を号し、先に中宮を号していた皇后定子は「皇后宮」に号されることになりました。史上はじめての「一帝二后」といわれています。
 翌年、定子は第二皇女・び子内親王(び=女偏に美)を出産します。しかし、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。享年24歳でした。こうして主人のいなくなった清少納言も、失意のうちに宮中を去ります。35歳でした。
 定子の死後、道隆の家系は没落の一途を辿り、定子がもうけた敦康親王も、皇后の生んだ第一皇子でありながら天皇になることはできませんでした。これに反するように、その後、宮中の中心は道長の娘彰子となります。そして彰子をとりまく文芸サロンに現れたのが紫式部でした。
宮中を去った清少納言は、宮中で作った短編集をまとめあげた後、京都東山の月の輪(現在の泉涌寺)で定子の菩提を弔って一人侘び住まいをしていたとの伝承が残っており、万寿2年(1025)頃に亡くなったと考えられていますが、詳しいことはわかっていません。このため全国各地に清女伝説(清少納言伝説)があり、彼女のものといわれる墓所が各地に伝承されています。讃岐にも、清少納言のものといわれる塚や物語が残っています。

 金刀毘羅宮に残る物語は次のようなものです。
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊したところ、その夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。それは、自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営(ころうぞうえい)のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、というものでした。そして、「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」と、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
 はっとして夢から醒めたさめた孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金刀毘羅宮ではねんごろに塚を修めたということです。
 また、東かがわ市白鳥町の与治山(よじやま)のにも清少納言を祀った祠があります。口承によると、清少納言は讃岐白鳥の海岸に漂着し、里人が厚く看護したが亡くなり、これを哀れんで都の見える海に面した与治山の峰に葬った、というものです。

 平安時代の10世紀後半から約1世紀の間の時代を摂関政治といい、最終的に藤原氏の中でも道長の家系がその中心となります。しかし、その過程において、藤原氏一門の内部で、氏長者(うじちょうじゃ)の地位をめぐり、兄弟、叔父、甥の間で争いがありました。清少納言の哀れな末路の話は、藤原一門の争いに翻弄された中宮定子の悲しい物語とともに各地に広がっていったのかもしれません。

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(103)“江戸の玉川上水より早く整備された高松城下の上水道”

 江戸時代、玉川上水は江戸城下の飲料水を供給する貴重な水源でした。現在の羽村市から新宿区四谷大木戸までの43kmが露天掘りで、四谷水番所から木樋や石樋などで地下水道となる本格的な上水道でした。この上水は、玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟が私財を投じて工事を行い、開削工事を承応2年(1653)の4月4日から11月15日までに完了させ、翌年から江戸市中へ通水を開始したものです。
 高松城下では、この玉川上水より9年も早い時期の正保元年(1644)に、配水管を地中に埋めた本格的な上水道の敷設工事が行われています。
 瀬戸内海式気候の下にある讃岐は年間の降水量が少なく、昔から水不足に悩まされてきました。このため各時代の為政者も水の確保に並々ならぬ努力を傾け、空海の満濃池修築、菅原道真の雨乞いなど水にまつわる多くの物語が残っています。
 
 寛永19年(1642)、高松藩の初代藩主となった松平頼重は、生駒藩の後を受けて高松城に入りました。ところが、その翌年の夏の讃岐は日照り続きで、灌漑(かんがい)用水はもとより、城下では飲み水にも事欠くありさまでした。これをみた頼重は、正保元年(1644)、飲料水に乏しく困っている城下の住人のために上水道を敷設することとします。
 飲み水の水源地として使われたのは、城下の南はずれにある水田の灌漑用に利用されていた辻丸井の湧き水でした。この湧き水は、その大きさがほぼ東西18m・南北36mあり、湧き水の出る穴が甕(かめ)の形をしていたところから甕井(亀井)霊泉と呼ばれ、現在の亀井町という地名の由来になりました。
 そして、ここから地中に水道管を埋設して侍屋敷や町屋などの井戸まで水を導きました。その導水の原理は、井戸の水を汲むことによりその水位が下がれば、水源から井戸まで水が樋管を通って自然に流れ込むという水の性質を利用したものでした。
 水道管には、松材で作った内径約10cm四方正方形の木樋(もくひ)や竹樋を用い、それを土管や約40cm四方の箱桝(はこます)でつなぎました。そして、この水道管を地下約1.5mの深さに埋設して暗渠(あんきょ)としました。
 正保元年に造られた高松城下の上水道は、本格的なものとしてはわが国初めてのものといわれており、同じ本格的な江戸・玉川上水より9年も早い敷設でした。

 伝承では、松平頼重の命令によりこの上水道の敷設工事に携わったのは、矢延平六(やのべへいろく)だといわれています。平六は、慶長15年 (1610) の生まれで、頼重が常陸国(今の茨城県)の下館藩主をしていたときから仕え、寛永19年 (1642) に讃岐国高松に国替になったとき、頼重にしたがって高松に来たといわれています。平六は、身分は低かったようですが、優秀な土木家であり、生駒藩時代の西嶋八兵衛の後を受けて、ため池の築造工事に大きな功績を残しています。
 正保2年(1645)、讃岐は「正保の旱魃」といわれるたいへんな日照りに見舞われました。そこで、松平頼重は平六に命じて領内の溜池・導水路などの築造・改修を行わせています。讃岐では生駒藩時代までに966のため池が造られていたようですが、松平藩時代になって406のため池が造られたといわれています。その多くは頼重時代に平六が中心となって造られたものといわれています。平六が築いたといわれる主なため池は、新池(高松市香川町)、仁池(丸亀市飯山町)、楠見池(丸亀市飯山町)、北条池(綾川町綾南)、羽間池(高松市牟礼町)、小津森池(綾川町綾歌)、城池(高松市植田町)、宮奥池(東かがわ市白鳥町)などです。

 讃岐の水普請に大きな功績を残した矢延平六ですが、高松市香川町浅野にある新池の築造について次のような伝承が残されています。
 高松藩では、荒廃地の多い浅野村の開墾に着手しましたが、土地の高低差が大きいため灌漑に困っていました。そこで、寛文年間(1660~1670)に藩がため池を築造することになりました。平六は、大川原某および篠原某と話し合い、川東上村を流れている香東川の水を引いてくることとしました。そして多くの労力を費し、ついに川内原に面積26町歩にわたる新池を築きました。農民たちの喜びもひとしおでした。
 ところが、ため池工事の規模を必要以上に大きくして藩費を浪費したということで、平六は国外追放の罪を受けて阿波藩 (徳島)に亡命します。伝承では、平六がこの池を築いたのは「高松城を水攻めにするためである」と藩主に讒言(ざんげん)をした者があり、それによって平六は裸馬に乗せられて阿波の国に追放されたともいわれています。その日は、旧暦8月3日だとされています。平六を慕う農民たちは行き先を探しますが分かりませんでした。そこでせめてその恩に報い、これを後世に伝えようと新池を見下すことができる高塚山頂に小さい祠を建てて平六を神として祀ったということです。これが今の新池神社だといわれています。
 その後、平六は再び高松藩に23石2人扶持で仕え、貞享2年(1685) 7月1日に76歳で死去したとされています。
 新池のある地元では、旧暦の8月3日に、高塚山から新池までの間を、神輿の渡御と扮装した人がおどけながら練り歩く「ひょうげ祭り」が今も行われています。これは平六の慰霊にちなむものだといわれています。

 江戸時代の高松上水道は、初めはごく限られた地域で敷設されただけでしたが、城下町が広がるにつれて、次第に給水区域が広げられていきました。新たな水源地として西瓦町の大井戸や外磨屋町の今井戸などが設けられ、そこに石清尾山の自然の伏流水と今の栗林公園の北にあった霊源寺池などの水が導水され、さらにそこから城下に配水されました。
 しかし、高松の水不足がこれで解消されたというわけではなく、その後も、特に夏季には水不足に悩まされました。城下の町に水を売って歩く、水売りの姿がみられ、讃岐の独特の風情をつくっていました。
高松において近代的な上水道が敷設されるのは大正時代に入ってからです。香東川の水を水源として西方寺山の配水池へ揚水し、市内に配水されました。大正3年の末に工事にかかり大正10年11月3日完成し、通水式が行われました。

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