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(102)“隠れキリシタンがいた小豆島”

 キリスト教が日本に渡来したのは、戦国時代の天文18年(1549)、イエスズ会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た時です。翌年、ザビエルは、鹿児島から山口を経て海路上洛していますが、当時の航路からみて塩飽諸島にも寄港したものと考えられています。ザビエル以来、宣教師が続いて渡来し、信長や秀吉の保護もあって半世紀の間にキリスト教は日本全国に広まり、キリシタン大名も現れました。
 讃岐で最初のキリシタンが誕生したのは、宣教師たちが瀬戸内海を往来する途中で塩飽に立ち寄ったこともあり、塩飽の本島だといわれています。天正2年(1574)、カブラル神父は、塩飽本島で病気のため8日間滞在しており、このとき「宿の主人はその勇気がなかったが、その妻のみキリシタンとなった」と手紙に書いています。ザビエルが鹿児島に上陸してから25年後のことです。

 小豆島にキリスト教が渡来したのは、さらにそれから12年後の天正14年(1586)のことです。天正13年(1585)、豊臣秀吉は、根来・雑賀攻めの功により、小西行長に小豆島の管理権を与えます。行長は、和泉堺の薬種商小西隆佐の養子で、備前宇喜多直家に仕えた後、秀吉に仕えていました。翌年、キリシタンだった行長は大阪のセミナリオ(神学校)にいたグレゴリオ・デ・セスペデスを島に呼び寄せて布教を行わせます。セスペデスは1ケ月余りで1400人に洗礼を授け、島民たちは長さ約15メートル以上もある美しい一基の十字架が建てたといわれています。セスペデスが布教した場所は草加部(くさかべ)地区と推測されています。
 ところが、豊臣秀吉は、島津征伐の後の天正15年(1587)、キリスト教禁止策に転じ、日本に在留する宣教師らに国外へ退去するよう命じます。これに対して、キリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)は、信仰を捨てることを公然と拒否し、このため明石の領地を奪われます。右近は高槻城主から明石7万石に転封されていました。また、オルガンチノ神父らは日本国内に留まります。オルガンチノはルイス・フロイスと共に京都を中心に布教活動をしていた宣教師で、フロイスが去った後の布教活動の中心人物でした。こうして流浪の身となった右近とオルガンチノ神父を庇護したのが、当時、小豆島を支配していた小西行長でした。
 高山右近は、博多沖の無人島から淡路島を経て室津でオルガンチノと合流し、小豆島に入ります。彼らが小豆島のどこで潜伏していたかは定かでありませんが、オルガンチノは四方を山に囲まれた一軒家、右近はそこからさらに数キロ奥に入った場所で隠れていたといわれており、両人は交流を続けていたようです。また、オルガンチノが小豆島に隠れていることを知った京都、大坂、高槻、堺などのキリシタンが、秘かに小豆島に手紙を寄せてきたり、訪れてきたといわれています。秀吉の命令は、布教活動は禁止するが、貿易は奨励するという不徹底なものでした。

 ところが、さらに翌年の天正16年(1588)、小西行長は豊臣秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。ちなみに、この年、讃岐では生駒親正が高松城の築城に着手しています。行長の転封に伴い高山右近も九州に向かいます。しかし、右近は、間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将として迎えられ、1万5千石の扶持を与えられます。
 その後、秀吉が朝鮮半島に攻め込み、文禄の役(文禄元年(1592)~2年(1593))と慶長の役(慶長2年(1597)~3年(1598))が起きます。このとき、行長は加藤清正と先陣争いをしたり、秀吉に偽って明と講和を結ぼうとしたことで知られています。

 慶長3年(1598)秀吉が没した後、慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が起き、この戦で行長は豊臣側につき敗れます。この時、行長はキリシタンであったことから切腹を拒否し、京の六条河原で斬首されます。享年42歳といわれています。
 一方、右近は、関ヶ原の合戦後も、加賀で前田家の庇護の下に平穏に暮らしていました。しかし、徳川家康もキリスト教に対して秀吉と同じく禁止策をとり、幕府は慶長17年(1612)に禁教令を出し、慶長19年にはキリシタン国外追放令を出します。このときも右近は信仰を捨てなかったため、ルソン(今のフィリピン)のマニラへ追放となり、そこで没します。享年63歳でした。

 小西行長の後、小豆島の支配は、片桐且元(かたぎりかつも)に替わります。そして、元和元年(1615)に長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、次いで元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)と替わり、さらに次いで正保4年(1647)から幕府の直轄地となります。そして、これらの支配の下では、行長の方針と正反対に、キリシタン信者に対する厳しい取締りが行われました。特に寛永7年(1630)の小掘遠州による探索詮議により相当数の信者が捕らえられ、転宗させられています。小掘遠州は茶人、造園家としてよく知られている大名です。
 しかし、小豆島ではこの弾圧下の中にも、かなりの人数の隠れキリシタンが存在したのではないかと考えられています。ちなみに小豆島には今も各所に隠れキリシタンのものではないかと考えられている墓が多く残っています。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。当時は、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようですが、今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などを各所で見ることができます。

 また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きていますが、この乱と小豆島とは深い縁があります。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長の領地だったところで、この乱には行長の家臣だった多くの浪人が加わっていたといわれています。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の遺臣だといいます。
 この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されますが、篭城の3万7千人が全滅しました。この中には多数の農民が含まれており、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しました。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図りました。天領である小豆島にも当然その政策が及び、小豆島から島原半島南部一帯に多くの者が移住しています。坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者、生活困窮のため自ら進んで移住した者など様々ですが、「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったといいます。

 なお、慶長19年(1614)に幕府がキリシタン国外追放令を出した後の生駒藩の状況ですが、生駒藩の領内にはまだかなりのキリシタンがいたようです。生駒氏が入る前の讃岐では、阿波の三好一族の十河氏が勢力をはっており、三好長慶ならびに弟の実休は熱心なキリシタンでした。このため十河氏もキリシタンに寛大で、讃岐にはこの頃からキリシタンを受け入れる素地があったのではないかと考えられています。
 生駒藩の取締りも、京、大坂、堺などに比べて緩やかだったようで、キリシタン国外追放令が出た時に、パルタザル・デ・トルレスという宣教師が大坂から讃岐に逃れてきています。元和2年(1616)には観音寺のシンジュウロウという人物が妻カタリナの影響を受けて信者となっています。また、寛永2年(1625)には、ボロという宣教師が来て高松の熱心な信者の歓迎を受けています。しかし、元和3年(1617)には、高松城下に住む商人のアントニオ石原孫右衛門と4歳の息子フランシスコが処刑されており、これが讃岐最初の殉教者だといわれています。
 島原の乱後の寛永17年(1640)生駒藩は改易され、その後、東讃岐は松平氏、西讃岐は山崎氏の領地となりますが、この頃、両藩にはまだかなりのキリシタンがいたようです。西讃岐では、万治元年(1658)山崎氏の後に京極氏が入封しますが、京極氏は、祖父の高次の代からの一家一族あげてのキリシタンでした。禁教令が出たときに改宗していますが、丸亀城内に十字池と呼ばれるクロスを残し、その後も密かに信仰を守ったという俗説が伝わっています。

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(101)“墓から現在アートにまで使われている花崗岩のダイヤモンド”

 源平合戦で知られる屋島の東側対岸には、峰が剣の尖のようにそびえ立つ五剣山という山があります。この山から西方向に延びる高松市の牟礼と庵治の境の尾根には大規模な採石場を見ることできます。ここで採掘される石は「庵治石」と呼ばれ、牟礼と庵治は、愛知県の岡崎市、茨城県の真壁町と並ぶ日本における三大石材産地の一つといわれています。ちなみに庵治石という名前の由来は、石の積出港が庵治にあったことよるといいま
す。

 今から6500万年前から1億年前の白亜紀後期、ユーラシア大陸の東の端で火山活動を中心とした激しい地殻変動が起きました。そのときマグマが地下の深いところで冷え固まってできた石が花崗岩です。中でも特にきめ細かい石が庵治石で、2000万年ほど前の地殻変動による隆起により地表に現れました。
 庵治石は、学問的には「細粒黒雲母花崗岩」といい、石英・長石を主成分とし、少量の黒雲母と角閃石を含んでいます。この構成鉱物の結晶が極めて小さく結合が緻密なため、他の地域の花崗岩と比べてより硬いのが特徴で、その硬度は水晶と同じ程度です。このため細かい細工が可能である一方、水を吸い込みにくくて風化や変質に強く、200年は彫られた字が崩れたり、変色したりしないといわれています。
 花崗岩は、石材という観点からみると、荒目(あらめ)、中目(ちゅうめ)、細目(こまめ)と分類されますが、庵治石は細目と中目に分類されます。さらにその中間として中細目(ちゅうこまめ)が設けられることもあります。細目は小さな黒雲母の数が多く、磨くほどに濃淡が浮き出て、石の表面が奥行きを感じさせる二重のかすり模様が表れます。これを「斑(ふ)が浮く」といいます。その模様は、高い山々にかすみたなびく雲、また屋島から舞い落ちる桜の花びらにもたとえられ、縁起物としても珍重されてきました。中目は黒雲母の数が少ないので、細目に比較して白く見えます。
 このように、庵治石は、キメの細かさ、優美な光沢、独特の色合い、重量感を有するとともに、頑丈で強くいつまでも美しいという特徴から、墓石や、石灯籠、庭石、建築用材などのほか、現代アートの素材としても利用されています。そして、その質の良さと希少価値から石材の単価としては世界一とされ、「銀座虎屋の羊羹(ようかん)より高い石」とか「花崗岩のダイヤモンド」といわれてきました。

 庵治石の歴史は古く、平安時代後期から石材として使われ始め、およそ千年の歴史を持っているといわれています。暦応2年(1339)、京都男山の石清水八幡宮の再建に讃岐の石が使われたという記録があり、その石は庵治石だと考えられています。
 本格的に採石され始めたのは、16世紀末の天正時代(1573年~)に入ってからだといわれており、江戸時代初期には高松城築城や大阪城大改築にも庵治石が使われていま
す。
 その真価が全国的にも認められるようになったのは、明治時代以降で、皇居、武庫離宮(現在の須磨離宮公園)の造営や、大正2年から3年にかけて造営された明治天皇の墓所である伏見桃山陵(ふしみももやまのみさざき)にも多量の庵治石が使われました。さらに、大正以降は、牟礼や庵治で住む石匠の優れた石材加工技術も全国に知られるようになっていきました。

 このような中で、庵治石と石匠の技術に新しい風が吹いてきます。昭和30年頃、彫刻家の流政之が石材工場内においてアトリエを構え、また、イサム・ノグチが牟礼・庵治を訪れてきたのです。流氏は昭和40年頃より、庵治半島東海岸に面した小高い山中に「石と煉瓦の砦」ともいわれる建物を造り、また、ノグチ氏は昭和44年から牟礼でアトリエを構え、これらを拠点に制作活動をします。ノグチ氏は、平成10年に亡くなるまで、20年余りこの地を拠点として活動しました。このような活動は牟礼・庵治の石匠達にも大きな影響を与え、墓石だけでなく、現代アート風の彫り物や置物などの作品が彼らの手で生み出されてきています。

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(100)“妖怪と怨霊の話に満ちた瀬戸内海を望む五つの色をした山”

 香川県は扇の形をしていますが、この扇の頂上に当たるところは、五色台という山塊になっています。この山塊は瀬戸内海に突き出たメサと呼ばれる溶岩台地で、紅、黄、青、白、黒の五つの峰から成り立っており、瀬戸内海国立公園にも指定された自然豊かなところです。また、四国霊場札所が2箇寺あり、古くから怨霊と妖怪の物語が伝えられています。

 五色台の呼び名のおこりには諸説があります。一説によると、いちばん北にあり海に臨んでいる峰(245m)は朝日や夕日が海に照り映えて紅色に輝くから紅峰、その南の峰(174.9m)は秋に霜で樹々の色が黄色になるから、または、おみなえしの花の色で黄色くなるから黄峰、その西の峰(375m)は黒い岩があり黒岩の峰がつづまって黒峰、その南の峰(449.3m)は冬になっても青いから青峰、その西の峰(336m)は山が深くて雪がなかなか消えないから白峰という、といわれています。
 また、中国古来の陰陽五行記(いんようごぎょうき)に基づくという説もあります。この思想は、世界は陰陽二元の和合により木火土金水の五行を生じて万物ができたと考えます。この五行を中央と東西南北・春夏秋冬・各月・五色に配当し、東は1・2・3月の春で木に当たり青、南は4・5・6月の夏で火に当たり赤、西は7・8・9月の秋で金に当たり白、北は10・11・12月の冬で水に当たり黒、中央は土に当たり黄とします。
 また、密教の教義に基づくという説もあります。白峰は平安時代以後真言密教の道場的霊山として、多くの僧が山頂を巡って修業をしていたところです。その頃、山塊の各方位の峰を、密教五仏になぞらえて、黄を中心に青、赤、白、黒の五色を配して黄峰、青峰、赤峰、白峰、黒峰と呼んだといいます。その他、五つの尾根の土壌の色が各々異なるからとか、5種類の石が掘り出されたからという説もあります。

 平安時代より、天災等の厄災は、怨みを持って死んだ人の怨霊のしわざと考え、それを畏怖し鎮めて祟りを免れ、あまつさえその霊力を借りようという信仰が盛んになりました。これを御霊信仰(ごりょうしんこう)といいます。怨霊になったと信じられた歴史上の人物の中でも、菅原道真平将門崇徳上皇の三人が日本三大怨霊といわれており、各時代を通じて文学、芸能等の題材としても採り上げられてきました。この三人のうち、讃岐は菅原道真崇徳上皇の二人と非常に深い縁があり、崇徳上皇の怨霊物語は白峯を舞台とするものです。
 江戸時代後期の安永5年(1776)、「雨月物語」(うげつものがたり)という読本(よみほん)が刊行されました。著者は上田秋成(うえたあきなり)という大坂生れの医者で、5歳の時に天然痘にかかったため指が不自由だったそうです。秋成は医者をしながら賀茂真淵門人の加藤宇万伎に師事して国学を学び、数々の著作を書いたり、本居宣長と論争を行なったりもしています。江戸時代後半、18世紀半ばから19世紀半ばまでの約100年間の文化を「化政文化」といいますが、秋成はこの時代を代表する文人の一人です。
 雨月物語という本の名は、雨が晴れ、月がおぼろにぼんやりと輝く夜、窓の下で本を編成したことに由来するといいます。この中に収められている物語には、「白峯」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧福論」の9篇の短編がありますが、その内容は、生霊、死霊、蛇精、金霊、魔王など数多くの怪しい存在が跋扈するという怪異物語です。
 その中の一つ「白峯」は、仁安3年(1168)、西行法師が讃岐の白峯に崇徳院の陵墓を訪れたとき、恨みと憤怒のあまり魔界の大魔王となった院の亡霊に出会うという物語です。その姿は、ひどく煤けた柿色の衣をまとい、髪は茫々で膝まで伸び、手足の爪は獣のように生え伸び、朱色の顔に白い目を吊り上げて灼熱の息を苦しそうにつき、みすぼらしいが恐ろしい魔王のような様子として描かれています。
 この崇徳上皇の怨霊は、化政文化を代表する文人の一人である滝沢馬琴の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の中でも登場しています。この物語は、保元の乱に敗れた源為朝を主人公にした伝奇ものですが、この中で、崇徳院の怨霊は為朝が危機に陥ると救いに現れる守護神的存在として描かれています。

 また、白峯には「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。上田秋成もこの天狗を崇徳院に侍る存在として雨月物語に登場させています。相模坊は、室町時代の初め、琵琶湖を望む大津の三井寺で修行をしていた相模坊道了という僧が、ある夜、突如として天狗となって飛び去り、はるか小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺に降り立ち、その後、院の配流を知り、その霊を慰め鎮守するため讃岐の地へ飛び立ち“白峯相模坊”となったと伝えられています。日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、中でも白峯相模坊は、相模大山の伯耆坊(神奈川)、飯縄山飯綱の三郎(長野)、比良山次郎坊(滋賀)、愛宕山太郎坊(京都)、鞍馬山僧正坊(京都)、大峰山前鬼坊(奈良)、英彦山豊前坊(福岡)とともに、日本八大天狗の一に数えられています。

 青峰の四国霊場82番札所・根香寺(ねごろじ)には、「牛鬼」(うしおに)という伝説が残っています。寺の名は、この山にあった枯木の根が香気を出していたことに由来し、さらに、その香気が渓に流れ入って川の水が香しくなったことからその川が香川(かがわ)と呼ばれるようになり、それが郡名となり、今日の香川県という県名になったともいわれていま
す。
 牛鬼伝説というのは次のような物語です。戦国時代の元亀年間(1570~1573)の頃、青峰山に牛鬼と呼ばれる怪獣が住んでいて、麓の人畜を害していました。村人の願い出により、領主の香西佳清が、香川郡井原郷安原(現在の高松市塩江町)の住人で、弓の名人といわれる山田蔵人(くらんど)高清に牛鬼の退治を依頼します。香西氏は、勝賀城を要城、佐料城を居館とし、香東、香西、綾南条、綾北条などの4郡を領有する鎌倉時代以来の讃岐の国人です。香西佳清はその十八代目の当主です。
 蔵人は、青峰山に行きあちこちと探しましたが、牛鬼は出没自在でどうすることもできません。そこで根香寺にこもり、怪獣が現れるよう、断食して一心に祈り本尊に願をかけました。すると満願の日、蔵人は千尋が嶽の下の鬼が原で、眼光のするどい、毛むくじゃらのクマのような怪物に出会いました。素早くねらいを定めて続けざまに矢を射たところ、三の矢が、牛鬼の口の中に刺さり、ギャーと悲鳴をあげ、姿を消しました。血の跡をたどっていくと、定が渕というところで異様な怪物が死んでいるのを見つけました。そこで高清は、牛鬼の角を切り取り、香西佳清から褒美にもらった米を添えて、根香寺に奉納したということです。
 その後、香西佳清は、天正10年、長宗我部元親による讃岐侵攻に際して激戦の末に降伏します。次いで天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に敗れて下野し、ここに香西氏は滅びました。しかし、根香寺には今も牛鬼のものといわれる角と、牛鬼の姿といわれる絵が残っています。
 五色台には今も豊かな自然が残り、怨霊と妖怪の物語に満ちた神秘的な雰囲気を醸し出しています。

参考記事
(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇
(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師
(49)“長曽我部元親が四国制覇の野望をいだいた山

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(99)“今も歌舞伎が公演されているわが国最古の芝居小屋”

 金毘羅さんで有名な琴平町には、金丸座と通称されている国指定重要文化財の芝居小屋「旧金毘羅大芝居」があります。現存する芝居小屋としては日本最古のものです。ここでは、昭和60年から「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が復活し、四国路の春を告げる代表的な風物詩の一つになっています。

 江戸時代より、金毘羅参りは、お伊勢参りと並ぶ庶民信仰として全国に普及していきます。それに伴い、金毘羅さんの麓は参拝客をあてこんだ旅籠(旅館)、土産店や茶屋が建ちならび、門前町として発展していきます。とくに茶屋は文政9年(1826)には96軒もあり、酌取(しゃくとり)女と呼ばれていた芸者や遊女が大勢働いていました。また、旅先での開放感に浸る参拝客に娯楽を提供する商売も行われ、市の開催や芝居、相撲、操り人形などの興行が行われました。
 娯楽の最たるものが芝居見物でした。初めの頃は、仮小屋をその都度建てて興行が行われていたようですが、費用もかかるので、富くじ(宝くじ)の開札場(抽選会場)を兼ねた常小屋が金山寺(きんざん)町に建てられることになりました。これが金毘羅大芝居で、当時、大阪道頓堀の大西座(浪花座)をモデルに、千両をかけて建てられたといわれています。その規模は江戸、大阪、京都の大都市の芝居小屋に匹敵するものでした。この建築費用千両は、門前町の酌取女の花代をピンはねして積み立てた約2万両のうちから出費されたものだそうです。
 天保6年(1835)、金毘羅大芝居は完成し、こけら落としが行われました。この小屋には、尾上菊五郎、中村歌六、市川鰕(えび)十郎らの千両役者といわれる名優たちがこぞって桧舞台を踏んだといいます。

 明治以降、金毘羅大芝居は金丸座という名で政談演説会場や映画館として使用されました。戦後は映画もテレビの普及に押され、やがて廃館となり、長い間荒廃していました。建物の傷みは厳しく、瓦は落ち、壁は崩れ、落下寸前のところまで朽廃していました。
 そうした中、昭和30年頃より、日本最古の芝居小屋として後世に残すべきだという運動が始まり、昭和45年に国の重要文化財に指定されます。それは芝居小屋としては初めてのものでした。これを契機として、昭和47年から2億数千万円の費用をかけて移築復元工事が行われ、昭和51年4月27日、現在の地に天保時代そのままの姿を現しました。
 昭和59年7月、歌舞伎俳優の中村吉右衛門、澤村藤十郎、中村勘九郎が琴平町を訪れ、旧金毘羅大芝居を見学します。これが歌舞伎興行復活の動きとなっていき、昭和60年6月、「第1回四国こんぴら歌舞伎大芝居」として琴平の町での歌舞伎興行が復活しました。
 旧金毘羅大芝居は、江戸時代そのままの芝居小屋なので、ここでの公演は電気も機械も使わず、回り舞台、せり、すっぽんは全て人力で操作し、照明も自然光のみで明かり窓の開閉によって行います。ここでは、小屋の木戸をくぐり、“お茶子さん”の案内で桝席(ますせき)に座り、千両役者の舞台を見るという江戸時代さながらの風景が見られます。


 参考記事
(10)“江戸町民塩原太助らが寄進した丸亀湊の灯籠
(21)“こんぴらさんはガンジス川のワニ
(34)“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士
(35)“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”・“金毘羅参詣続膝栗毛
(65)“地場産業となった武士の内職
(88)“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語
(89)“日本最初の「洋画家」のコレクションがある金刀比羅宮

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(98)“香川からも出撃していた神風特攻隊”

 “トッコウ”という言葉に対する日本人の反応は、世代によって大きく異なるように思われます。年配の世代の人は涙し、若年世代の中にはカッコイイという反応を示す人もいます。いずれにしても、戦後60年以上を経過し、この言葉は急速に風化しているように思われます。
 「特攻」は、大東亜戦争(太平洋大戦)末期、爆弾を搭載した軍用機等に搭乗員が乗り込み直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりして撃滅を狙うという日本軍独特の攻撃方法です。海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの特攻隊を編成しましたが、中でもよく知られているのが海軍の「神風特別攻撃隊」です。一般的には「かみかぜ」と読まれていますが、本来は「しんぷう」と読むそうです。
 神風特別攻撃隊という呼称が初めて用いられたのは、昭和19年10月に行われたレイテ沖海戦のときです。この戦いは、フィリピンを奪還しようとするアメリカ軍と、それを阻止しようとする日本軍の間で行われたものです。すでに航空戦力不足に陥っていた日本海軍は、零戦13機からなる特攻隊を組織し、アメリカ艦船に対して体当たり攻撃を加えました。この特攻隊は4隊で構成され、各隊の呼称は本居宣長が大和魂について詠じた「敷島の 大和心を人間はば 朝日に匂ふ 山桜花」の歌から、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名づけられました。神風特攻隊による特攻は終戦の日、鹿児島の鹿屋基地から最後の戦闘機が出撃するまで続けられ、17歳から20歳代前半の4000人近い若者が命を落としました。

 大東亜戦争の末期、香川にも神風特攻隊の基地が設けられていました。その基地は、荘内半島の東側付け根部、現在の三豊詫間町香田(こうだ)地区にあった詫間海軍航空隊です。
 詫間海軍航空隊は、水上機の実用教育を行う部隊として、昭和18年6月1日に開隊しました。航空隊が建設された場所は白砂青松の、のどかな漁村地帯だったところで、その建設は地元の勤労奉仕隊員も動員され1年半の突貫工事で行われました。また、東側1kmの新浜には海軍軍需部詫間補給所も建設されました。このとき、地元では合計、130戸、約37ヘクタールが立ち退きを余儀なくされました。
 この地に水上航空隊が設けられたのは、飛行艇が離発着できる波が穏やかで十分な広さの海域があること、詫間港が善通寺第11師団の外港であることなどによるといわれています。主要な配備機は九四式水上偵察機と二式大艇でした。二式大艇は、昭和15年に初飛行した当時世界一の高性能を誇った大型飛行艇で、大型レーダーを装備して、偵察、哨戒、輸送など多用途に供することができました。
 日本で最初の飛行艇訓練基地は昭和11年10月1日に開設された横浜海軍航空隊ですが、この隊は、開戦とともに、直ちに第一線に出動し、ハワイ・インド洋・アリューシャン・オーストラリア・ソロモンと、全海域にわたって遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出等の作戦に従事していました。しかし、戦局の悪化を受け、海軍は、昭和19年9月、沖縄戦に備えて兵力を集中するため、全ての飛行艇隊を横浜海軍航空隊に集結し、その作戦基地を詫間とします。これにより、詫間は3,000名を超える兵員を擁する水上機部隊の一大基地となります。横浜航空隊の作戦上の部隊名は八〇一空といいます。昭和20年2月には、沖縄戦に当たるため、鹿児島県鹿屋を司令部とする第五航空艦隊が新たに編成され、詫間の八〇一空がその偵察任務に当たることとなります。

 昭和20年2月、本土防衛のため、西カロリン諸島のウルシー環礁に集結する米空母機動部隊を攻撃しようという「丹作戦」が発令されます。この二次作戦は、陸上爆撃機の銀河24機と誘導機の二式大艇3機が、日本から1,500 海里 (約 2,900km) 以上離れたウルシーまで一挙に太平洋を飛び越え、敵艦に体当たりして撃沈しようというものでした。帰還することはもはや物理的に不可能な決死の攻撃です。そして、この作戦の実行部隊として、詫間を基地とする二式大艇とその乗組員36名も編入した「神風特別攻撃隊菊水部隊梓隊」が編成されます。
 3月11日、「銀河」24 機が鹿児島・鹿屋から飛び立ちました。これが、鹿屋から出撃した最初の神風特別攻撃隊です。そして、詫間から鹿児島・鴨池基地を経由して出撃した二式大艇3機と佐多岬上空で合流し、ウルシーへ向かいました。しかし、最終的に到達した銀河は24機のうち16 機だけで、また、敵艦影の判別が困難な日没後の突入となったため、その戦果は1 機が空母「ランドルフ」の飛行甲板後部に激突し火災を発生させるにとどまりました。突入を断念した 4 機がヤップ島に不時着したほかは、12 機もの銀河が未帰還となりました。詫間から出撃した二式大艇3機も未帰還となり乗組員全員が戦死しました。戦果に対して、あまりにも大きな犠牲でした。

 4月に入ると、日本軍は、連合軍の沖縄への進攻を阻止する目的で特攻作戦を本格的に進めます。この作戦は、楠木正成の旗印「菊水」をもじって「菊水作戦(きくすいさくせん)」と呼ばれました。作戦は第1号(4月6日~11日)から第10号(6月21日~22日)まで実施されます。
 詫間でも小型水上機による特攻部隊が編成され、詫間海軍航空隊の“琴平水心隊”と、詫間に移動してきた茨城県北浦海軍航空隊による“琴平魁隊”からなる神風特別攻撃隊が編成されます。詫間の特攻隊は、4月28日以降、鹿児島・指宿基地を前進基地として、4次にわたって菊水作戦に加わり、25機が米軍艦船に突入し、57名の若者が沖縄の空に散りました。4月28日の「菊水4号作戦」で5名、5月4日の「菊水5号作戦」で40名、5月11日の「菊水6号作戦」で5名、5月27日の「菊水8号作戦」で7名がそれぞれ戦死しています。
 青年兵たちは、荘内半島や粟島など瀬戸内の美しい風景を機上から目に焼き付けながら、親兄弟、恋しい人との別れを偲び南に向かって二度と帰れない出撃をしていったのでしょう。この辺りは、浦島太郎伝説にふさわしいのどかな風景を今も残しており、かつて悲しい出来事があったとはとても信じられないところです。



 詫間については、次の記事もお読みください。
・“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”(68話)
・“讃岐にもある後醍醐天皇の息子の足跡と新田義貞一族の物語”(61話)
 詫間の隣の仁尾については、次の記事をお読みください。
・“三月三日に雛祭りをしない町”(12話)

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(97)“瀬戸内海の中にある醤の郷”

 醤油の産地といえば日本四大産地がよく知られています。千葉県の野田と銚子、兵庫県の竜野、それに瀬戸内海に浮かぶ香川県の小豆島です。この島の南東部にある小豆島町・内海地区は、醤油工場やもろみ蔵が軒を連ね芳しい香りが漂っており、「醤の郷(ひしおのさと)」と呼ばれています。

 醤油のルーツは、古代中国に伝わる「醤(ひしお・ジャン)」であるといわれています。これは原料を塩漬けにして保存したことから始まったもので、たんぱく質を含む食材に塩を加えて発酵させ、その結果生じるアミノ酸などのうまみ成分と塩味を利用したものです。それぞれ使う材料で、果実、野菜、海草などから「草醤(くさびしお)」、魚から「魚醤(うおびしお)」、肉から「肉醤(ししびしお)」、穀物から「穀醤(こくびしお)」などがありました。醤油はその中でも米・小麦・大豆を材料とした穀醤が原型と考えられています。
 中国から日本にいつ頃伝わったかは明らかでありませんが、8世紀初頭に編纂された大宝律令によると、宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤」がつくられていたとされています。これは今でいう醤油と味噌の中間のようなもので、宮中宴会などの食卓にのぼっていたようです。

 現在使われている醤油の原型は、鎌倉時代の建長6年(1254)、信州の禅僧・覚心(かくしん)が中国の宗から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を持ち帰り、紀州(和歌山県)の湯浅で、その製法を教えているうちに、その味噌桶の底に溜まった醤(味噌溜)がとても美味しいことに気づいたことによるといわれています。それが今でいう溜(たまり)醤油になったそうです。
 そして、室町時代中期頃から産業化され、始めは京都の宮廷を中心とした公卿や僧侶・上層の武家階級に使われていたようですが、天正年間には大阪の町人衆の日用品として使われていたといいます。その頃の産地の中心は播州や泉州などの上方(関西)の近くで、「淡口醤油」でした。

 江戸時代に入り、醤油は一般に普及していきますが、関東では、初めの頃は上方から運ばれてきたものを「下り醤油」と呼んで使っていました。しかし元禄から享保時代(1688~1736年)の頃にかけて江戸っ子の好みにあった濃い味の醤油が造られ始めました。これが「地回り醤油」と呼ばれるもので、今の「濃口醤油」にあたるものです。
 このようにして江戸時代、醤油は除々に全国に伝わっていき、これとともに江戸、京都、大坂等の大都市の周辺部に位置し、しかも原料となる大豆・小麦を船で大量に輸送できる水運の要衝に大規模な醤油産地が出現していきました。関東では利根川、江戸川などの水運に恵まれていた現在の千葉県の野田や銚子、関西では揖保川沿いの播州・竜野、それに瀬戸内海海上交通の要衝だった小豆島です。

 小豆島で醤油の歴史が始まったのは豊臣時代の文禄年間(1592~1595)の頃で、富裕な塩浜主や村役人層の間で自家用として造られ始めたといわれています。海に囲まれた小豆島では中世以前から製塩業が盛んに行われ、近世に入っては豊臣、徳川両時代、天領として公儀へ塩を貢納することを例としていました。これにより京都ないし大阪の醸造家から塩廻船(しおまえせん)の船頭たちによって、きわめて自然に醤油造りの技術が小豆島にもたらされたのではないかと考えられています。また、紀州・湯浅より伝承されたとか、豊臣秀吉が大坂城築城の折、小豆島の石を採取するために来島した武士達によって製法がもたらされたともいわれています。
 江戸時代後期の文化年間(1804)以降になると、小豆島では一般農民層にも醤油の自家醸造が広がり始めました。ところがその頃、瀬戸内各地で塩が生産過剰になり、小豆島でも休浜や廃浜が続出し、これ付随した塩問屋、廻船業も衰退していきました。そのとき、塩を利用して自家製として造られていた醤油が、しだいに営業化していき、醤油醸造業が出現していきました。小豆島の醤油が島外に販売されたのは、文化6年(1809)に安田村の醸造家・高橋(橋本屋)文右衛門が大阪の問屋へ販売したのが初めてだといわれています。

 その後、小豆島の醤油産業は、京阪神を中心に市場を築いて発展の一途を辿り、明治10~20年頃には最盛期を迎え、醸造家は実に400軒を数えたといわれています。
 これは、小豆島が瀬戸内海海上交通の要所であることから、九州から原料である大豆、小麦を容易に移入できるとともに、天下の台所である大阪を対岸に望むという恵まれた立地条件を有していること。主原料である良質の塩が豊富で、しかも温暖で乾燥した気候が麹菌の発育やもろみの熟成に大変適していること。さらに幕府の直轄地である天領であったため比較的自由な支配の下にあり、格別の保護や規制を受けなかったことなどが要因だと考えられています。

 戦後、小豆島の醤油は新たな商品を生み出します。終戦直後、小豆島醤油業界も厳しい経済統制の下、原材料の入手難が続き、閉塞状態にありました。このとき、苗羽出身の武部吉次は、永年醤油業に携わっていた経験を活かし、醤油を調味料とした佃煮生産を思い立ち、島に豊富で入手容易な「いもづる」に着目しました。昭和20年9月26日、吉次は「いもずる」を原料とした佃煮50貫余を炊き、阪神方面へ出荷しました。その後小豆島は、伝統ある醤油に支えられ、年々発展して我国屈指の佃煮産地としてもその声価を高めていきました。

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