スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(96)“高松にとって忘れられない日”

 大東亜戦争(太平洋戦争)における日本本土に対する最初の空襲は、昭和17年4月18日、米空母「ホーネット」から発進したジミー・ドーリットル中佐率いるB25中型爆撃機の編隊16機によるものです。このとき空襲の対象になったのは、東京のほか5市で、日本側には50人の死者、家屋262戸の被害が出ました。
 昭和19年になると、アメリカ軍はサイパン島を占領し、そこを基地として日本本土に対する組織的な空襲攻撃の体制を整えていきます。2回目の空襲は昭和19年11月24日に東京の武蔵野市に対して行われています。
 昭和20年になると、アメリカ軍に日本本土周囲の制空権と制海権を完全に握られ、本土全体が事実上、戦場と化していきました。日本の都市に対して空襲攻撃のあった日は、3月と4月がそれぞれ2日間、5月が3日間ですが、6月に入ると急増します。6月は10日間と3日に一度、7月は16日間と2日に一度、8月は降伏日の15日までの間に10日間とほぼ毎日です。
 爆撃の対象は軍需施設や工場ばかりでなく、住宅地にまで及び、全国の66都市が攻撃の対象となりました。特に、昭和20年3月の東京大空襲では、一夜で8万人以上の市民が犠牲となり、100万人が焼け出されるという大きな被害が出ました。
 このアメリカ軍による本土空襲により、全国の住宅密集地のほぼ40%が破壊され、都市住民全体の約30%が家屋などの財産を失いました。その人的被害は、死亡が29万9,485名、重傷が14万6,204名、軽傷が16万7,318名、負傷が3万1,298名、行方不明が2万4,010名、被害総数が66万8,315名という現在の岡山市の人口にも匹敵するほど大きなものでした。

 昭和20年2月7日、観音寺の沖合いにアメリカ軍機から爆弾が投下されました。これが香川県下における初めての空襲です。
 そして、高松市街は、終戦42日前の昭和20年7月4日、午前2時56分頃から1時間46分間にわたって、米軍のB29爆撃機116機による焼夷弾(しょういだん)と高性能爆弾による絨緞攻撃を受けました。第一波は栗林公園裏の稲荷山あたり、第二波は天神前・塩上あたり、第三波以下は順次、市の中心部へと波状的に爆弾が投下されました。
 被災地域は市街地の78%にも及び市街地の多くが焼け野原となりました。被害建築物は1万8,913戸、罹災者は当時の人口の約60%に当たる8万6,400人、死者は1,240人(ほかに不明119人)という大きな被害でした。一夜明ければ、東の空から血の固まりのような太陽が、ゆらゆらと昇り、昨日までそこに在った高松の町並みは見るも無残な廃墟と化し、道端には屍が累々と横たわっていたといいます。

 明治以降の日清、日露、第一次の各戦争において日本本土に住む民衆が直接戦火に晒されるということはありませんでした。それより前でも、周囲が海で囲まれているということもあり、鎌倉時代の元寇を除いて、日本本土の民衆が直接外国の戦禍に晒されるということはありませんでした。また、日本人同士の戦いの場合でも、ほとんど武士同士の戦いであって、比叡山焼き討ちや、島原の乱のような例外はあるものの、一般民衆が直接攻撃の対象になるような大規模な戦争はありませんでした。
 しかし、大東亜戦争に突入してからは様相が一変し、アメリカ軍の無差別空襲により、日本本土に住む一般民衆が自己には全く責任が無いにもかかわらず、自分や肉親の身体を傷つけられ、生命を奪われ、財産を焼却されるという、筆舌に尽くしがたい悲惨な状況に追い込まれました。これは日本列島において日本民族が形成されていった長い歴史の中でも、全く経験したことのない極めて特異な出来事だったといえるでしょう。

 高松は、もともと城下町として発展してきた街で、空襲を受けるまではその風情が色濃く残っていました。しかし、戦後、被災地において戦災復興の土地区画整理事業が積極的に実施され、現在の街は戦前のそれと比べて大きく様変わりしました。

続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(95)“瀬戸内の浜辺にある近江八景”

 「近江八景(おうみはっけい)」とは、琵琶湖の南部から選ばれた8箇所の名所で、「比良の暮雪(ひらのぼせつ)」、「堅田の落雁(かたたのらくがん)」、「唐崎の夜雨(からさきのやう)」、「三井の晩鐘(みいのばんしょう)」、「矢橋の帰帆(やばせのきはん)」、「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」、「瀬田の夕照(せたのせきしょう)」それに「石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)」をいいます。
 近江八景は、中国の湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘(しょうしょう)八景図」になぞらえ、室町時代後期に見出され江戸初頭に確立した、といわれています。日本全国津々浦々、「どこそこ○景」と数えられる名所は数多くありますが、近江八景はそれらの元祖といえるでしょう。

 丸亀城から西へ約2.5キロ、金倉川河口左岸の海浜に中津万象園という庭園があります。ここからは、東に丸亀城、その背後に讃岐富士こと飯野山、南に弘法大師ゆかりの善通寺五岳山、西に多度津の浦、北に波静かな瀬戸内の海と広島、本島など塩飽の島々を望むことができます。
 この庭園は江戸時代の典型的な回遊式大名庭園で、元禄元年(1688)に丸亀2代藩主・京極高豊がここにお茶所を設けたとことがその始まりです。以来、歴代藩主が整備に努め、第5代藩主・高中の頃でほぼ現在のような姿になったといわれています。造営当時は「中州のお茶所」、後には「金倉別館」、「中津別館」、「中津荘」と呼ばれ、讃岐では栗林公園に次ぐ2番目の大名庭園です。

 丸亀京極家の発祥は、近江源氏(宇多源氏)の名で知られる佐佐木氏で、宇多天皇の皇子・敦実親王を祖とします。滋賀県蒲生郡安土町に沙沙貴神社(ささきじんじゃ)という神社がありますが、ここは古くから沙沙貴郷あるいは佐々木庄と称された地で、佐佐木家、京極家、黒田家、六角家、三井家など宇多源氏・佐々木氏の発祥の地です。丸亀京極家の四ッ目結いの家紋もこの神社からきています。丸亀京極家も先祖を祀ったこの神社を深く敬神し、丸亀第6代藩主京極高朗(たかあきら)は、天保年間に消失した社殿を弘化5年(1848年)に再建しています。
 また、滋賀県米原市に清滝寺徳源院(きよたきでらとくげんいん)という寺があります。この寺は、鎌倉時代の弘安6年(1283)に京極家始祖の氏信(うじのぶ)が開いた菩提寺で、戦国時代には京極家の衰退とともに荒廃していました。この寺を復興することは近江源氏正統としての京極家の悲願だったのでしょう。寛文12年(1672)、丸亀2代藩主・高豊は、幕府に請願して領地の播磨国所領2村とこの地を交換し、付近に散在していた墓碑を一カ所に集めて整理し、三重の塔を建立して歴代京極家の墓所とします。徳源院とは丸亀藩初代藩主・高和の院号からとったものです。
 この墓所には、初代氏信から25代高中まで京極家歴代当主の墓(うち、丸亀藩主の墓は、初代高和、2代高豊、3代高或、4代高矩、5代高中)と、丸亀藩の支藩である多度津藩の藩主の墓(初代高通、2代高慶、3代高文、4代高賢)が整然と並んでいます。なお、足利尊氏の時代、婆娑羅(ばさら)大名として活躍した佐々木道誉(どうよ)(京極高氏)の墓も5代目当主としてその列の中に並んでいます。
 このように京極家は父祖の地である近江に深い愛着を持っていたのでしょう。波静かな備讃の瀬戸を見るたびに琵琶湖に思いをはせ郷愁にひたっていたのかもしれません。中津別館の中心部に位置する八景池は琵琶湖をかたどったといわれ、その中に近江八景をなぞらえた八つの島を浮かべています。すなわち、雪の島(比良の暮雪)、雁の島(堅田の落雁)、雨の島(唐崎の夜雨)、鐘の島(三井の晩鐘)、帆の島(矢橋の帰帆)、晴嵐の島(粟津の晴嵐)、夕映の島(瀬田の夕照)、月の島(石山の秋月)です。また、琵琶湖の竹生島の弁財天を分詞し祀っています。

 明治21年頃この庭園は京極家の手を離れ民間の所有となり、この頃訪れた旧毛利藩士野村素軒は、千変万化する池泉・松林の風光を見て、宇宙に存在するすべてのものを意味する森羅万象(しんらばんしょう)から「万象園」と名づけたといわれています。またこの頃から一般にも開放され、春から夏にかけて行楽客・海水浴客で賑わいました。
 しかし、戦後、昭和21年の南海大地震により地盤が約1メートルも沈下し、さらに台風高潮の被害を受け、著しく荒廃して昔日の面影を喪失してしまいます。この地に大名庭園があったことも忘れ去られようとしていました。
 昭和45年この地は地元企業家の真鍋光利氏の手に渡ります。そして真鍋氏は「昔日の名園を後世に残したい」との思いから、以降12年の歳月をかけて庭園の復元を行います。復元作業に際しては、大阪芸術大学の中根金作教授に協力を仰ぎ、古図や漢詩などの資料から本来の有り様を検証して作庭が試みられました。こうして再び大名庭園として蘇った万象園は、昭和57年8月1日に一般公開され、平成18年には芸術文化の振興に高く貢献した企業・企業財団を表彰する「メセナアワード2006」において庭園文化賞を受賞しました。万象園は、西讃における近世文化の象徴ともいえる庭園でしょう。

 丸亀京極家については、(15)“丸亀の殿様は婆娑羅大名佐々木道譽の子孫”と(86)“姫路の中にあった讃岐”をお読みください。 また、丸亀城については(16)“扇の勾配をした日本一の高さの石垣のある丸亀城”、多度津藩については(73)“港町として栄えた城の無い城下町” をお読みください。

続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(94)“日本の中にあるオリーブに囲まれたエーゲ海の風景”

 瀬戸内海の中に浮かぶ小豆島では、5月末から6月上旬にかけて、清楚な純白のオリーブの花が開きます。やがて青い実を結び、たわわな実はグリーンとなって秋が深まる頃には濃いワインレッドに染まります。また、オリーブの実の“新漬け”は小豆島の秋の味覚の一つとなっています。オリーブは昭和41年に香川県の県花・県木に指定され、小豆島オリーブの島ともいわれています。
 オリーブは、モクセイ科の常緑樹で、その原産地は中東シリア周辺の小アジアとされています。これが今から5千年から6千年前に栽培されるようになり、地中海沿岸からアフリカ北岸一帯に広がっていきました。オリーブの栽培を地中海沿岸に広めていったのは、通商や航海術に長けていたフェニキア人、ついで高い文化を誇ったギリシャ人、さらに大帝国を築き上げたローマ人達だったといわれています。

 日本にはじめてオリーブオイルを持ち込んだのは、約400年頃前の安土・桃山時代、キリスト教伝道のため来日したポルトガル人神父だといわれています。当時はオリーブオイルのことをポルトガルの油、訛ってホルトの油を呼んでいたようです。しかし、オリーブの木が伝来したのは、それよりももっと後、幕末の文久年間(1861~64)の頃で、幕府の医師林洞海が横須賀に植えたといわれています。
 この間、日本人はオリーブの存在は知っていたようですが、それがどのような木であるかは知らなかったようです。宝暦10年(1760)頃、当時高松藩に仕えていた平賀源内がモガシをオリーブの木と間違えて、ホルトの木と名付け、栗林荘(現在の栗林公園)に植えたというエピソードが残っています。 その後、明治に入り、様々な人によって栽培が試みられましたが、いずれも根付くまでには至りませんでした。

 明治41年(1908)、農商務省がイワシやマグロの缶詰に使うためのオリーブ油を国内自給するために、三重、香川、鹿児島の3県を指定してアメリカから輸入した苗木で試作を始めました。香川では、小豆島の内海湾を望む西村の地に試験地が創設され、119アールの畑に519本の苗木が植栽されました。そしてこの3県の中で、香川の小豆島だけが栽培に成功しました。
 これは、年平均気温15.0℃、年間降水量1200mm程度という小豆島の温暖寡雨な瀬戸内式気候が地中海沿岸とよく似ていること、台風被害が少ないこと、それに栽培者、加工業者のたゆまぬ努力があったからだといわれています。
 試験研究の継続と農家への普及により、小豆島はわが国最大のオリーブ生産地となりました。その後、昭和34年の輸入自由化による安価な外国産加工品の増加などから、その栽培面積は昭和39年の130haをピークに昭和60年代には34haまで減少しました。しかし、平成元年以降、イタリア料理や健康食品ブームの中で再び国産オリーブが見直され始め、平成13年度には42haまでに回復し、最近では庭園樹や街路樹等の緑化木としても植えられています。また、“オリーブ茶”など新たな商品開発も取り組まれています。

 明るく温暖な小豆島の気候風土は、オリーブのふるさと地中海によく似ているといわれています。小豆島町西村地区の内海湾を見下ろす丘にはオリーブの農園が広がり、眼下の瀬戸内海と一体となったその景観は日本のエーゲ海を思わせるスポットとなっています。このオリーブの丘には、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄などの著名な画家も来て、絵筆を取っています。
 また、平成元年(1989)には、オリーブ発祥の地であることから、小豆島とほぼ同じ面積であるギリシャのエーゲ海に浮かぶミロス島と、オリーブの原産地との交流を深めるため、姉妹島としての調印が行われました。小豆島には、青と白の鮮やかなコントラストが印象的なミロス島そのままの風景を見ることができます。
 平成20年(2008)は、小豆島でオリーブ栽培が始まってから100年目の年に当たります。

続きを読む

(93)“欧米人が賛美したわが国初の国立公園”

  瀬戸内海国立公園(せとないかいこくりつこうえん)は、昭和9年(1934)3月16日に、日本で初めて指定された瀬戸内海を中心とする国立公園です。
 当初の指定区域は、小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山、広島県の鞆の浦など備讃瀬戸を中心とした一帯のみでしたが、その後、数回にわたって区域が拡張され、現在は、総面積62,781ha 、兵庫県、和歌山県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、福岡県、大分県の10県にまで及ぶ広大な公園となっています。

 西田正憲著「瀬戸内海の発見」(中公新書、平成11年刊)によると、景観に対する人の認識の仕方は時代とともに変化し、また見る人によっても異なるそうです。西田氏は、この著書において、瀬戸内海を素材に、日本人の景観に対する認識の仕方、すなわち風景観がどのように変化してきたかを紀行文、日記、地誌などによって辿っています。
 それによると、近世以前の日本人は、風景を「意味の風景」として見ていたということです。「意味の風景」とは、万葉集などで詠まれた名どころ、つまり歌枕や、文学、故事、神話、伝説など名所旧跡の地であるという景観の外側にある意味を認識し、その意味を内的に投影して見た風景という意味です。具体的には、瀬戸内海でも須磨、舞子、明石、屋島、厳島など歌枕名所的な限定された地が優れた風景地だとされていたということです。そこには、内海、多島海の概念やイメージは存在していなかったそうです。
 ところが、幕末以降、シーボルトなど多くの欧米人が船で瀬戸内海を往来するようになり、瀬戸内海の内海、多島海などの風景を絶賛し、それが紀行文などによって欧米に知られていったそうです。欧米人が瀬戸内海を評価したところは、従来日本人が風景地と見ていた伝統的な歌枕名所的な場所ではなく、海、海岸、島々などの無名の自然景や、段々畑、漁村集落、漁船などの無名の人文景だったそうです。西田氏によれば、欧米人は、瀬戸内海を「意味の風景」としてではなく、「視覚の風景」として評価したということです。「視覚の風景」とは、特色ある地形・地質や植物、光の輝きや色彩、様々な人文景や生活景などを、観察・科学・観光のまなざしで見た風景という意味です。

 このようにして明治時代には、瀬戸内海は、日光、富士山などとともに日本を代表する観光地としての評価が欧米人の中で定着するとともに、日本人の間でも新しい瀬戸内海の見方が普及し、日本人は瀬戸内海を世界の公園だと誇るようになります。
 小西和(かなう)は、その著書である「瀬戸内海論」(明治44年刊)で、「無比の風光を抽出して、西洋人から世界の公園、現世の極楽と云ふ、賛美的呼称を得て居る。瀬戸内海の風景が欧米の人士に惚れ込まれて居る。」と述べています。小西は、明治6年(1873)香川県の旧長尾町に生まれ、札幌農学校に学び、従軍記者として日露戦争に赴き、衆議院議員も務めた人物です。小西が農学校に学んでいた時、新渡戸稲造がその教官をしており、瀬戸内海論にも稲造が序文を寄せています。

 小西和の活動もあり、昭和6年(1931)、自然の大風景地を保護するとともに、国民の利用に供する目的で、国立公園制度が発足します。その背景には、内外の観光客誘致による地域振興、外貨獲得への期待のほか、ナショナリズムや郷土意識の高揚があったといわれています。
 こうして昭和9年3月、わが国最初の国立公園として瀬戸内海、雲仙、霧島の3ヶ所が指定され、12月には阿蘇、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇の5ヶ所、翌々年の昭和11年2月に富士箱根、十和田、吉野熊野、大山の4ヶ所が指定されました。

続きを読む

(92)“かつて塩田王国といわれた香川”

 島国である日本は、四方を海に囲まれていることから、製塩はもっぱら海水を原料として行われてきました。中でも瀬戸内地域は古くから製塩が盛んで、弥生時代中期から奈良時代(長岡京期)にかけて土器製塩(どきせいえん)が行われていました。土器製塩は瀬戸内海でも備讃瀬戸で盛んに行われ、香川県の海浜、島嶼には、土器製塩遺跡が120か所以上も発見されています。
 当時の製塩法は海水を土器に汲み入れて加熱し、ニガリ(苦汁)を含んだ粗製の塩の結晶を得ていたと考えられています。万葉集には「藻塩焼く」という言葉が登場しますが、これは、海水を付着させた海藻を焼き、その灰を濃い塩水の鹹水(かんすい)に漬けることで、より濃縮された鹹水を得ようとする工程とする見方が有力です。
 しかし、やがて自然海浜の砂面を利用して鹹水を採取し、それを煮つめる方法に移行していきます。鎌倉時代末期になると、自然海浜に溝や畦を設けた初歩的な塩田の形態が次第に整ってきます。この塩田は揚浜式と呼ばれるもので、人力でくみ上げた海水を砂に散布して太陽熱や風で水分を蒸発させるという作業を何度も繰り返し、次に、塩分の付着した砂をかき集め、それを海水でろ過して鹹水を作り、さらにこれを煮つめて塩の結晶を取り出すという方法です。煮つめ用の釜には、あじろ釜、土釜、石釜などが使用されました。

 江戸時代に入ると、瀬戸内海沿岸を中心に「入浜(いりはま)式塩田」が開発され、普及発達していきます。この方式は、砂海と塩田の境に開閉可能な海水取り入れ口を備えた堤防を築き、潮の千満の差を利用して海水を自動的に塩田に引き入れ、毛細管現象によって砂層部に海水を供給させ、それを天日により水分を蒸発させます。そして塩分の付着した砂を沼井に集めて海水をかけ、鹹水を採るというものです。ことにより、揚浜式で必要だった海水を人力で散布する過酷な作業が不要となり大幅な労力の省略ができるようになりました。
 本格的な入浜式塩田の起源については明確でなく、はじめは、自然の干潟がそのまま採鹹地(さいかんち)として利用され、干満差の大きな内海や、干潟の発達した場所を入浜式塩田としていたようです。しかし、しだいに堤防や海水溝などがつくられるようになり、塩田としての形が整っていきました。
 そして、入浜式塩田は、阿波・讃岐・伊予・長門・周防・安芸・備後・備中、備前・播磨(現在の徳島、香川、愛媛、山口、広島、岡山、兵庫)の瀬戸内海沿岸10か国を中心に築造され、「十州塩田」として、以後約400年間にわたって、日本独特の製塩法として盛んに行われました。

 讃岐は、海岸線が長く広い干潟があるという地理的条件に加えて、雨が少ないという気象条件に恵まれていることから、塩田開発に適しており、江戸時代の初期には、すでに東讃の引田・松原・志度・牟礼、坂出、丸亀の塩屋、小豆島、塩飽の島などで塩田が開かれています。これらの地域の中には、天正15年(1587)に、生駒氏が播州赤穂から讃岐に封ぜられてきたこともあり、播州赤穂から塩づくりに従事する人が讃岐に移住してきたといわれています。
 讃岐で最初に築造された本格的な入浜塩田は、江戸中期の宝暦5年(1755)、屋島西海岸の潟元(かたもと)に開かれた「亥の浜(いのはま)」です。この塩田は、高松五代藩主松平頼恭(よりたか)の命により、藩の殖産興業の一環として実施されました。頼恭は平賀源内を見出した高松藩中興の祖といわれる人物です。
 頼恭は潟元の海辺に塩田を開こうとして時の執政・木村亘(黙老)に命じ、亘は梶原景山(かじわらけいざん)にその工事を担当させます。宝歴3年(1753)春から着工し、何度も堤防が決壊するという難工事の末、宝歴5年に30余町歩の塩田が完成しました。その年が亥(いのしし)であったので、その塩田は「亥の浜」と呼ばれました。景山はこの経験を生かして、翌6年には16町歩の「子の浜(ねのはま)」も築造しました。
 それから70数年後の文政12年(1829)、高松藩は第九代藩主・松平頼恕(よりひろ)のとき、坂出の海浜に東大浜・西大浜の塩田を築きます。この塩田は、財政難に陥っていた高松藩の難局を打開するため、久米通賢(栄左衛門)の建白と普請により、3年6ヶ月をかけて築かれたもので、排水溜の整備、海水取入口などの構造に久米式といわれる独特の工夫がなされた当時わが国有数の大塩田でした。

 こうして塩は、砂糖・綿と並んで“讃岐三白”の一つに数えられるようになりました。しかし、綿と砂糖は、明治20年代に入って急速に衰えていきます。これに反して、明治期に入ると、香川県の製塩業は隆盛期を迎えていきます。宇多津で大規模な入浜式塩田が築造されるなど西讃を中心に塩田の拡大が急速に進み、塩の生産量は明治9年に全国第3位、明治22年に全国第2位となり、さらに明治27年には全国第1位となります。以後、昭和47年に塩田が廃止される直前頃まで香川県は全国最大の生産地として「塩田王国」といわれていました。
 第二次世界大戦後の昭和27年頃からは、長年続いた入浜式塩田に替わり「流下式枝条架塩田」が登場します。この方法は、海岸に堤防を作り、堤の内側に流下盤坂と呼ばれるゆるやかな傾斜をつけて、その上に海水をポンプでくみ上げたものを流して天日で塩分を濃縮し、さらに枝条架(しじょうか)という粗朶(そだ)竹を束ねて吊るした装置に塩水をたらして、自然の風によって乾燥させるというものです。この方式では塩田上の砂を攪拌する作業が必要無くなり、労力は今までの10分の1になりました。また風による水分蒸発を主とするため、比較的日照時間の短い場所や季節でも塩の生産が可能になりました。そして生産高では2~3倍もの成果が上げられるようになりました。                             
 しかし、画期的といわれたこの方式もわずかな期間しか使用されず、昭和47年4月以降、「イオン交換膜法」が導入され、全面的にこの方式に切り換えられます。この方法は天候や自然現象・季節によらない製塩ができ、また、ニガリの無いほとんど純粋な食塩(NaCl)が供給されるようになりました。こうして江戸の初期に始まった讃岐の広大な塩田は不要となり、埋め立てられて工業用地や住宅地あるいは新しい街として転用されていきました。
 なお、この記事については、(58話)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”も参考にしてください。

続きを読む

(91)“讃岐に来て歌を詠んだ万葉歌人柿本人麻呂”

  万葉集第一の歌人といわれる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、7世紀後半から8世紀前半にかけて、飛鳥時代の持統朝(在位:686年 - 697年)と文武朝(在位:697年 - 707年)の宮廷で活躍した歌人です。人麻呂は、平安時代以降「歌の聖」として崇められ、やがて「歌の神」といわれるようになります。
 「万葉集(まんようしゅう)」は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて、天皇、貴族から下級官人、防人(さきもり)ら様々な身分の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めた日本最古の歌集です。その成立は奈良時代の759年(天平宝字3)以後と見られ、素朴で率直な歌いぶりに特徴があるとされています。まだ仮名文字が作られていなかった頃だったので、全文が漢字で漢文の体裁により表記されていますが、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語の語順で書かれています。これを万葉仮名といいます。
 万葉集には、人麻呂が詠んだ長歌19首・短歌75首が掲載されていますが、この中には、讃岐に来て詠んだ歌があります。

 人麻呂については史書に記載がなく、その生没年、経歴等は一切不明です。その生涯については謎とされていますが、645年の大化改新の前後に生まれのではないかと推測されています。この頃の讃岐では、大化改新の後の667年に屋島城(やしまき)が築かれたと日本書紀に記されています。この城は、663年に倭国が唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで破れたため、その侵攻に備えて築かれたものといわれています。
 制作年代が明らかな人麻呂の最初の歌は、680年 (天武9)の人麻呂歌集(ひとまろかしゅう)七夕歌の中の一首だといわれており、天武朝(在位:673年 - 686年)に歌人としての活動を始めたと考えられています。この直前の672年 (天武元)には、大海人皇子と大友皇子が争い、壬申の乱が勃発しています。
 人麻呂が宮廷歌人として万葉集に登場するのは次の持統天皇の代(在位:686年 - 697年)からで、行幸に従駕して天皇を讃える歌や、草壁皇子(くさかべのみこ)殯宮挽歌(ひんきゅうばんか)など皇子たちの死を悼んだ歌を公の場で詠んでいます。
 人麻呂は長く宮廷に仕えて、多くの荘重な歌を残しましたが、制作年代が明らかな最後の歌は、700年 (文武4)の、明日香皇女(あすかのひめみこ)殯宮挽歌です。この後、宮廷を離れた人麻呂は、筑紫や讃岐国など各地を転々とし、最後に石見国で妻に見取られることなく、六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされています。それは710年の平城京遷都の前頃までではないかと推測されています。

 筑紫や讃岐国など各地を転々としていた頃に作られたものと思われますが、「万葉集」巻二には、人麻呂が、「中之水門(なかのみなと)」より舟で狭岑(さみ)島に来て、岩の中に横たわる行き倒れの死人を見て詠った次の長歌1首と短歌2首が収められています。
  玉藻(たまも)よし 讃岐の国は 国柄(くにがら)か 見れども  飽かぬ 神柄(かみがら)か ここだ貴(とうと)き 天地(あめ  つち) 日月(ひつき)とともに 満(た)り行かむ 神の御面   (みおも)と 継ぎ来たる 中之水門(なかのみなと)ゆ 船浮け  て 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立  ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(か  しこ)み 行く船の 梶引き折りて 彼此(おちこち)の 島は多  けど 名ぐはし 狭岑(さねみ)の島の 荒磯面(ありそも)に   廬(いほ)りて見れば 波の音(と)の 繁き浜辺を 敷栲(しき  たえ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に より臥(ふ)す君が  家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾(た  まほこ)の 道だに知らず おぼほしく 待ちか恋ふらむ 愛    (は)しき妻らは
    反歌二首
  妻もあらば 摘(つ)みて食(た)げまし 沙弥(さみ)の山 野  の上(へ)の宇波疑(うはぎ) 過ぎにけらずや
  沖つ波 来よする荒磯(あらいそ)を しきたへの 枕とまきて   寝(な)せる 君かも
 この歌は、死人を見た人麻呂が憐れに思い、家がわかれば知らさねば、妻が飛んでくるであろうに。妻がいれば一緒につんで食べもしよう「よめな」(宇波疑)はもう盛りが過ぎたが、と詠んだものです。
 歌の中に出てくる「中之水門(なかのみなと)」とは「那珂の港」をいうとの説もあり、今の丸亀市中津の金蔵川河口付近ではないかと考えられています。また「狭岑島」とは今の沙弥島と考えられています。
人麻呂については謎だらけで、なぜ讃岐に足跡を残したのかも不明です。しかし、讃岐に来たことは史実でしょう。

 いわゆる、遣唐使の瀬戸内海航路としては、摂津、播磨、吉備(備前・備中・備後)、安芸、周防という本州側のルートが言われていますが、さかのぼる時代では、四国側のルートもあったのではないかと考えられています。人麻呂はこのルートで讃岐にやってきたのでしょう。風や潮のぐあいにあわせて、舟は讃岐の沿岸の港に寄港しながら航行したと思われます。
 万葉集巻一にも、舒明 (じょめい) 天皇(在位629~641)が伊予の湯宮(道後温泉)へ海路で行幸した帰りに讃岐の安益(あや)郡(綾歌郡)に立ち寄ったとき、その従者の軍王(いくさのおおきみ)が山を見て作ったという歌が載っています。
  霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらぎ  も)の 心を痛み 鵼子鳥(ぬえこどり) うらなげ居れば 玉襷  懸(たまだすきかけ)のよろしく 遠つ神 わご大君(おおきみ)  の 行幸(いでまし)の 山越す風の 独(ひとり)居る 吾が衣  手に 朝夕に 還らひぬれば 大夫(ますらお)と 思へる吾も   草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海処  女(あまおとめ)らが 焼く塩の 思ぞ焼くる 吾がしたごころ
    反歌
  山越(やまごし)の 風を時じみ 寝(ね)る夜おちず 家なる妹  (いも)を かけてしねびつ
 この歌は「網の浦」に船を寄せたとき長旅のわびしさに妻への思慕を詠ったものですが、「網の浦」は今の宇多津の津の郷の辺り、「山越(やまごし)の風」とある山は津の山、を指したものではないかという説もあります。

 人麻呂が立ち寄った頃の讃岐では、大宝年間(701~704)に、国守・道守朝臣(ちもりのあそん)により満濃池が築造されたといわれています。空海が修築したのはそれから約120年後のことです。また、讃岐の志度の玉とり海女の伝承も人麻呂が生きた頃の物語です。
 讃岐の沖合いを船で航行すると、海に島が次々と現れ、また讃岐富士(飯野山)をはじめとする秀麗な姿の山々を南に見ることができます。人麻呂はこの景色を見て、「玉藻よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か 見れども飽かぬ」と詠んだのでしょう。

続きを読む

四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
03 ≪│2007/04│≫ 05
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。