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(90)“太古の時代に石器として使われていた讃岐の名前がついた石”

 坂出市東部にある五色台及びその付近の山頂では、地元の人が「カンカン石」と呼ぶ石を産出します。叩くと「カーン、カーン」という金属音を発し、心地よい余韻を残して響きます。共鳴を起こしやすく、石琴などの楽器にも使われています。人々は、この岩石を江戸時代のころから「馨石」(けいせき)とも呼び、親しんできました。
 表面は黒色で、割ると貝殻状になります。古銅輝石(こどうきせき、マグネシウム分が多い輝石)の結晶を多量に含む安山岩の一種で、今から約1000万年前に瀬戸内地域で起きた火山活動によって地上に噴出したマグマが冷え固まってできた岩石です。水晶より硬いガラス質で、砕くと鋭利な断面が現れます。音色が良いのは、この石が均一なガラス質で大きな結晶粒が混じっていないため音の吸収がなく、石全体が共鳴現象を起すからです。

 この石は、紀伊半島中部から瀬戸内を経て九州北部に至る帯状の地帯の中の極めて限られた地域からだけ産出します。最も多く産出する地域は香川県で、その中でも坂出市の金山や城山、五色台付近のみに限られています。香川県外では奈良の「二上山(にじょうざん)」、佐賀の「鬼の鼻山」などだけです。
 学名は、sanukiteサヌカイト)といいますが、この名の由来は、ドイツの岩石学者ヴァインシェンクが産地の讃岐にちなんで命名したことによります。サヌカイトを和名でいうと「讃岐岩」です。

 瀬戸内海火山帯の活動にともなう火山岩類及び淡水性の堆積物は、下部より花崗岩の基盤上に、火山から噴出された火山灰が堆積してできた岩石である凝灰岩(ぎょうかいがん)、角張っている礫岩である角礫岩(かくれきがん)、古銅輝石安山岩でサヌカイトとよく似た岩石である讃岐岩質安山岩の順に重なって層を形成し、その上をサヌカイトが平面状に覆っていました。それが風化・侵食作用で、メサと呼ばれる屋島、五色台、城山などの平頂台地や、ビュートと呼ばれる飯野山をはじめとする円錐形台地となり、今日に見られる讃岐独特の風景を形成していきました。
 サヌカイトは山頂付近に産し、朽木のように見えるものがありますが、これは溶岩が地下から上昇して地表面に流れたことを示す流理模様が風化したときに現われたものです。

 ところで、このサヌカイトでできた石器が瀬戸内海のまわりにおいて数多く発見されています。この石は、薄く割れる特徴を持ち、割れると鋭い縁をもつことから、石器に適しており、太古の時代には尖頭器や石刃などに加工され盛んに使われました。
 3万年前から1万年前までは旧石器時代と呼ばれていますが、この時代の遺跡が瀬戸大橋の架橋工事に伴って多数発掘調査されました。それによれば、与島西方遺跡では約13万点、羽佐島遺跡では約35万点を数える膨大な数の石器やその破片が出土しています。石の種類を調べてみますと、全体の98%近くがサヌカイトを材料にするものだったということです。
 国分台、青峰、蓮光寺山、城山などサヌカイトを頂く坂出周辺の山々は、海にも近く交易にも地の利があります。地球の温暖化に伴う海進現象によって縄文早期にほぼ現在の瀬戸内海が形成されましたが、サヌカイト製石器や原石は丸木舟によって讃岐から各地に移出されたものと考えられます。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(89)“日本最初の「洋画家」のコレクションがある金刀比羅宮”

 高橋由一(たかはしゆいち)は、日本で最初に本格的な油絵技法を習得した「洋画家」といわれています。精密で写実的な画風が特徴といわれており、片反身をそいだ塩鮭を描いた「鮭」や、吉原の遊女をリアルに描いた「花魁」などがその代表作です。
 金刀比羅宮には、この由一の油絵が27点もあり、社務所横にある「高橋由一館」で展示されています。これほどの数と質の高いコレクションは、東京芸術大学を除いては存在しないといわれています。

 高橋由一は文政11年(1828)、下野佐野藩士の子として江戸に生まれました。生来病弱のため武芸を諦め、11歳ごろから狩野派の日本画を学びます。20歳まもなくのころオランダの石版画を見て西欧画に魅せられ、34歳のとき幕府の蕃書調所画学局に入り川上冬崖(とうがい)の指導を受け、38歳のとき横浜に住んでいたイギリスの新聞記者ワーグマンに師事します。翌年藩命で上海へ、ついで幕府遣欧使節団の一員として渡欧し、オランダの油彩画に刺激されます。
 1868年40歳のとき明治維新となり、その後下級官吏・教員を1年ずつでやめ、45歳のとき日本橋に私塾天絵楼(しんかいろう、のち天絵舎、天絵学舎)を創設し、後進の指導に当たります。52歳のとき、わが国最初の美術雑誌「臥遊席珍」を創刊し、54歳のとき来日したイタリア画家フォンタネージに油絵を教わります。

 高橋由一と金刀比羅宮との結びつきは、当時の宮司である琴陵宥常(ことおかひろつね)と由一との間に交流があったためです。
 金刀比羅宮は三代将軍徳川家光の時代から明治になるまで幕府の朱印地で、台替わりのたびに幕府に参上して新しい朱印状を拝受していました。宥常は、安政5年(1858)に時の将軍徳川家定に拝謁しています。こうしたことから、宥常は幕末から明治にかけての江戸・東京の文化にも深い関心があったのでしょう。
 宥常は、近代金刀比羅宮の隆盛を築いた人物といわれており、海難救助事業の組織化、博覧会の開催などの社会活動のほか、教育、文化、芸術にも援助を行いました。

 明治11年(1878)、金刀比羅宮では、翌年の遷座祭を記念して開催される琴平山博覧会に向けて、本宮の造営など大規模な工事が行われていました。この年の8月、由一は「二見ヶ浦」と小襖仕立の「貝図」を金刀比羅宮に奉納しており、「貝図」は崇敬講社本部のために描かれたものです。
 そしてこの年の11月、由一は、自ら主催する画塾「天絵舎」の拡張資金融資を金刀比羅宮に依頼し、翌明治12年2月には35点の油絵を奉納して資金200円を受領しています。
 琴平山博覧会は、明治12年3月1日から6月15日まで開催され、会場は機械館、鉱物館、農業館、宝物館、美術館、織物館などから成り、入場者は26万人、出品数は8万2500点に及び大盛況でした。このとき由一の油絵は書院の長押に展示されました。
 翌明治13年12月から14年1月中旬まで約40日間、由一は琴平に滞在して「海魚図」「桜花図」を奉納し、現地で「琴平山遠望」、「琴平山下石淵川の図」、「深見速雄像」、「琴陵宥常像」を描いています。
 なお、この記事については、(21話)“こんぴらさんはガンジス川のワニ”も参考にしてください。

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(88)“歌舞伎や映画にもなった讃岐を舞台にした仇討ち物語”

 仇討ちは日本人の琴線に触れるのでしょう。昔から日本人は仇討ちの物語を文芸とし、芝居として演じてきました。特に江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃では仇討ち物と呼ばれる一大ジャンルを形成していたほどです。忠臣蔵や曽我兄弟の物語などがその代表例です。
 讃岐にも、江戸時代、ここを舞台にした二つの仇討ち物語が歌舞伎や浄瑠璃の題材となっています。また、近代に入り、これを基にした映画も作られています。
 一つは、江戸時代初期の寛永19年(1642)にあったという丸亀を舞台にした田宮坊太郎の物語です。もう一つは、江戸時代後期の文政10年(1827)に阿野南郡羽床下村(現在の綾川町)であった「研辰(とぎたつ)の討たれ」という物語です。

 田宮坊太郎の物語が作品になったのは、宝暦3年(1753)、並木正三(なみきしょうぞう)によって書かれ大阪三桝大五郎座で上演された歌舞伎「金毘羅御利生幼稚子敵討」が最初だといいます。その後、これを基に明和元年(1764)、近松半二・竹本三郎兵衛によって浄瑠璃「金毘羅御利生敵討稚物語」が書かれ竹本座で上演されています。また、天明8年(1778)、司馬芝叟(しばしそう)・筒井半二によって浄瑠璃「金毘羅御利生花上野誉の石碑(はなうえのほまれのいしぶみ)」が書かれ江戸の肥前座で初めて上演されています。
 その後も、この物語を題材にした歌舞伎や浄瑠璃が繰り返し上演され、金刀比羅宮の金毘羅大芝居でもしばしば上演されています。こうした中で田宮坊太郎像が作られ、坊太郎は、孝行の手本として、全国的に有名になり、敵討物の主要な一系統を作ったといわれています。

 田宮坊太郎の仇討ち物語のあらましは、次のようなものです。
紀州浪人・田宮源八郎は、丸亀藩士・土屋甚五左衛門に剣術の腕を見込まれ、丸亀藩に取り立てられることになりました。そのとき源八郎の妻は彼の子供を身ごもっていました。ところが藩の剣術師範・森口源太左衛門(げんたざえもん)が源八郎の仕官を妬み、彼を闇討ちにします。父の亡き後生まれた男の子は坊太郎と名づけられ寺に預けられます。歌舞伎や浄瑠璃ではこの寺は志度寺とされ、坊太郎は乳母のお辻とともに預けられることになっています。
 7歳のとき、坊太郎は父の死の話を聞かされ、仇討ちを決心し、土屋に連れられて江戸に行き、柳生飛騨守に弟子入りして新陰流の剣を学びます。10年後、免許皆伝となった坊太郎は丸亀に帰り、藩士立会いのなか、見事に森口を討ち果たし、父の無念をはらします。その後、坊太郎は出家し、江戸上野の寛永寺の一隅で庵を結んでいましたが、父母の後を追い、命を絶ちます。

 「金毘羅御利生花上野誉の石碑」では、その四段目の「志度寺の段」が特に人気を集め、孤児となった坊太郎のためにわが身を痛めつけて回復を祈るお辻の母性愛が見せ場となっています。そのあらましは次のようなものです。
 坊太郎は、叔父に命じられて、敵の森口源太左衛門から身を守るため病により口がきけない振りをしながら、乳母のお辻と志度寺に住んでいます。それを知らないお辻は、断食をし、水垢離(みずごり)を取って、「唖となったるこなたの業病。金毘羅様へ立願かけ。清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」と、坊太郎が口をきけるよう金毘羅大権現に願をかけます。そして、お辻のために志度寺秘蔵の桃を盗んだ坊太郎をいさめます。そして、願掛成就の日にお辻は自害を図ります。

 丸亀市には、南条町の玄要寺田宮坊太郎の墓といわれる五輪塔があり、その近くに父・源八郎が住家跡という石碑が立っています。山北町の山北八幡神社が仇討ちをしたところといわれています。また、さぬき市志度の志度寺には、お辻が水垢離(みずごり)を取ったという井戸があり、「薗(その)の桃」の碑が建っています。さらに東京上野の寛永寺塔頭寒松院にも坊太郎のものとされている墓碑があります。
 しかし、田宮坊太郎のこの物語は、史実的裏付けが乏しく、創作ではないかと考えられています。この仇討ち物語を記している記録は幕末に丸亀藩で編纂された「西讃府志」ですが、この書にも史実がどうか不明であると記されています。
 どうも田宮坊太郎の仇討ち物語は、金毘羅大権現のご利生(りしょう)つまりご利益(りやく)と結びつけられ、それに志度寺が加えられて江戸時代初期に創作された物語ではないかと考えられます。そして、その創作を基に、物語ゆかりの物といわれるものが造られていったのではないでしょうか。そういえば丸亀市の玄要寺にある坊太郎の墓も金毘羅丸亀街道の直ぐ近くにあり、参詣客は必ずそこをお参りしたと思われます。
 しかし、創作とはいえ、江戸時代初期に、讃岐の金毘羅と志度寺を題材とした物語が書かれたということは、これらがその当時、全国的にもよく知られていたということではないかと思われます。

 なお、田宮坊太郎の仇討ちは、昭和13年(1938)に「田宮坊太郎」という題名で南条新太郎主演・渡辺新太郎監督により映画化されているほか、昭和30年(1955)に「振袖剣法」という題名で、中村嘉葎雄(なかむらかつお、旧芸名は、中村賀津雄)が坊太郎に扮して酒井辰雄監督により映画化されています。また、近年では、山田風太郎原作の「魔界転生」(まかいてんしょう)という伝奇小説の中で、田宮坊太郎は死から蘇った魔界転生衆の一人で、肺病を病みながら父の敵を見事討ち取った居合の名手として描かれています。

 もう一つの「研辰(とぎたつ)の討たれ」という仇討ち物語は、全くの史実です。
 文政10年(1827)6月、讃岐阿野郡羽床下村(現在の綾川町)で、江州(現在の滋賀県)浪人の平井兄弟が、研師(とぎし)の辰蔵(たつぞう)を殺すという事件が起きました。
 この事件の発端は、4年前、膳所藩(現在の大津市)の城下で、研屋の辰蔵が、平井市郎次という膳所藩の武士と自分の女房が不倫を働いているのを知り、怒ってその武士を殺して逃走したという事件です。辰蔵は讃岐の羽床下村の生まれで、若い頃出奔して刀研ぎの技術を身につけ、膳所城下で研屋をしていました。平井市郎次の二人の弟は、兄の仇である辰蔵を討つために諸国探索の旅に出、流浪の末、ついに辰蔵をその生まれ故郷で討ち果たしました。

 この事件は話題になり、脚色も加えられ、芝居になっています。天保年間には、「敵討高砂松」(二世金沢竜玉・作)の題で歌舞伎化され、上方の浜芝居で上演されています。ここでは、研辰は、お家横領を企てた武士の悪の手先をつとめ、悪事が露見して家老を斬ってあちこち逃げ回るという設定になっています。
 また大正14年には、木村綿花が「研辰の討たれ」として書き、平田兼三郎の脚色により歌舞伎座で初演されています。この作品の研辰は、刀研から武士になったのが嬉しくてたまらない、お世辞、ごますりなどを平気でする男として描かれています。この時、研辰を演じたのが二代目市川猿之助(後の猿翁)で、大変な人気を博しました。
 近年では、中村勘九郎が「研辰」を演じています。
また、この仇討ち物語は、昭和7年(1932)に、「研辰」という題名で高田浩吉主演・秋山耕作監督により、また「研辰の討たれ」という題名で片岡千惠蔵主演・伊丹万作監督により映画化されています。

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(87)“志賀直哉の「暗夜行路」に描かれた多度津の港と鉄道”

  多度津の港は古くから良港として栄え、その名の示す通り多くの船が出入りし、江戸時代の中頃には、九州や中国方面からの金比羅詣りの西廻り船が多く来ていました。その頃の港は櫻川の河口港でしたが、五代多度津藩主・京極高琢(たかてる)は、天保6年(1835)から5か年計画で大拡張改修工事を計画し、総工費6200両余という巨費を投じて、内海屈指の港を完成させました。この湛甫(たんぽ)の完成により、金毘羅船はもとより近海の漁船をはじめ五島船や北前船も出入りするようになり、多度津の町はますます活気づきました。
 幕末になると多度津の港は丸亀の港を凌いで、讃岐三白の砂糖や塩、綿を積み込み、西廻り航路で日本海に抜け、越前、佐渡や遠くは北海道まで廻航し、帰りには干鰯、塩鯖、扱苧、鉄、半紙、肥料などを持ち帰って手広く売りさばく北前船の基地となりました。こうして多度津の町は、千石船とともに、廻船問屋、よろづ問屋、干鰯問屋などが集まる商家の町として全盛をきわめました。

 明治時代に入ると、多度津から香川県内で初めて鉄道の建設が始まりました。多度津の景山甚右衛門(かげやまじんうえもん)ほか17名が讃岐鉄道株式会社を設立し、金毘羅参詣客をあてこんで建設したものです。
 甚右衛門は、幕末の安政2年(1855)に、多度津の回船問屋大隈屋の5代目として生まれました。明治11年、血気盛んな二十歳の頃、自家の千石船に乗って上京したとき、新橋~横浜間を走る汽車を目にし、讃岐に鉄道を開設する決意をします。明治18年、29歳のときに計画し、4年かって、多度津を起点とする琴平と丸亀間の15.5キロを明治22年5月23日に開通させました。
 しかし、この開通はすんなりと進んだわけではなく、岡蒸気が走るという噂が広がると、当時の馬方(うまかた)や人力車夫たちは、生活ができなくなるといって、連日、甚右衛門宅に押しかけ「やめなければ、家を焼き払うぞ」といって脅したといわれています。
 開通時の機関車はドイツのホーヘンオレルン社製のタンクで、客車はマッチ箱のような型をしていました。貨客4両編成で、上、中、下等の3ランクに分かれ、今とは逆に琴平行きが上りになっていました。後には食堂車も走らせ、袴(はかま)をつけた「女ボーイ」が給仕をしたそうです。
 わが国で初めて鉄道が開通したのは、明治5年5月7日(1872)の横浜~品川間ですから、讃岐鉄道の開通はそれから17年後のことでした。なお、これは全国では7番目、四国では松山の伊予鉄道に遅れること7ヶ月で2番目でした。ただし、明治9年8月から明治21年12月までの間、讃岐は愛媛県に編入されていた時代であることを考えると、このことは讃岐の実業家の意気軒昂さを示すものといえるでしょう。

 一方、多度津港は、明治期に入り、大型船の入港ができるようにするため、浚渫、港内改築が行われました。明治27年の船舶入港数は多度津港が30,737艘であったのに対し、高松港は3,430艘であり、多度津港は県内最大の港湾でした。なお、日露戦争(明治37年~38年)の時に「一太郎やーい」の美談が生まれたのもこの港です。
 多度津港はその後も絶えず改修が重ねられ、特に明治40年の頃からは町営事業として桟橋工事、突堤築造、浚渫(しゅんせつ)、埋立て工事等が行われて有数の良港となり、大阪商船や関西汽船等が出入りしました。
 こうして多度津は明治43年に宇高連絡線が開通するまで、港と鉄道によって四国の玄関としての地位を占めました。

 また多度津は香川県の電力事業の拠点でもありました。明治40年、景山甚右衛門は、需要の伸び悩みから創立以来10年間も無配で経営不振だった讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の再建を託されます。明治43年、甚右衛門は社名を「四国水力電気株式会社」(四水(しすい)と略称された。)と改称し、当時中央電力界の第一人者であった福沢桃介(ももすけ)を懇請のうえ大正元年に社長として迎え入れ、経営の刷新を図ります。福沢桃介は福沢諭吉の女婿(じょせい)です。大正3年(1914)、四水の本社は多度津に設けられています。
 その後、四水の経営は福沢桃介から甚右衛門に引き継がれ、県内のほとんどの電灯会社をつぎつぎと合併して県下の電力供給を一手に引き受ける「四水王国」を築いていきます。また、東讃電気軌道会社(高松~志度)や、高松電気軌道株式会社(高松~長尾)、琴平電鉄株式会社(高松~琴平)など電車部門もその傘下に入れていきます。
 甚右衛門は、昭和12年10月19日83歳で死去するまで30年近く四水の経営に携わり、全国電力業界では「四水の景山」として知られていました。鉄道、電力のほか銀行の創業や経営にもたずさわり、貴族院議員として中央政界でも活躍し、いわゆる地域開発の先覚者といえる人物です。

 明治・大正の初めにかけて、多度津は香川県の近代産業の中心として栄えました。多度津には「多度津の七福神」と呼ばれた大地主あるいは実業家が居住し、大正時代には大邸宅が多く建てられました。

 大正2年(1913年)2月、志賀直哉は尾道から船に乗り、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。その旅行を基に書かれた小説「暗夜行路」前編の第2の4には、当時の多度津の港や駅の様子が次のように描かれています。なお、当時の多度津駅は桜川の河口に面する現在の多度津町民会館の位置にありました。
 「多度津の波止場には波が打ちつけて居た。波止場のなかには達磨船、千石船といふやうな荷物船が沢山入つて居た。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行つた。丁度汐が引いてゐて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になつてゐた。それを登つて行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追つて急いで来た。謙作は露骨に追ひつかれないやうにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかつたが、訊いてゐると其男に追ひつかれさうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
 もう其男もついて来なかつた。郵便局の前を通る時、局員の一人が暇さうな顔をして窓から首を出してゐた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行つた。
 停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えてゐた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗つて金刀比羅へ向つた。」

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(86)“姫路の中にあった讃岐”

 讃岐は、古代から、大内、三木、寒川、香川、阿野、鵜足(うたり)、那珂(なか)、多度、三野、豊田の11郡から成り立っていましたが、江戸時代に東讃の高松藩と西讃の丸亀藩の2藩に分割されます。
西讃の丸亀藩領地は、寛永18年(1641年)の山崎氏の入封に始まり、後に京極氏が萬治元年(1658年)、豊田・三野・多度の3郡全部と、那珂、鵜足郡2郡のそれぞれ一部を合わせた5万67石を与えられます。那珂郡は上金倉・下金倉・買田・宮田・追上・山脇・新目・後山・帆山・生間・大口・福良見・今津・中府・津森・田村・山北・櫛無・佐文村の19カ村、鵜足郡は土居村の1か村がそれぞれ丸亀藩の領地でした。
 丸亀京極藩は、この讃岐国内5万67石のほか、播磨国揖保郡のうちの興浜村など29カ村1万石を飛地として与えられ、都合6万67石が丸亀京極藩の領地とされていました。その後、元禄7年(1694年)に幕府の許しを得て、丸亀藩領内1万石を分封して多度津藩とします。

 姫路市の南西部、揖保川の河口付近に「網干(あぼし)」というところがあります。ここは播磨国風土記の頃には渦を巻いた淵があったので宇頭川(うずがわ)とも呼ばれていたところです。
 網干は中世より瀬戸内海海運の中心として栄えた港町です。室町期の文安2年(1445)、兵庫北関を通過した網干船籍の船は、播磨国内では室(御津町室津)に次いで多かったそうです。江戸期に入ると、揖保川沿いの北にある龍野から、醤油をはじめ周辺の農産物など様々な物資が川船で運ばれ、大坂への集積地として栄えました。

 江戸時代の初め頃、網干は姫路藩領でしたが、寛永14年(1637)、龍野藩京極家の領有となりました。京極氏は、近江の源氏・佐々木氏を祖とし、南北朝時代には足利尊氏に従い各地で転戦した佐々木高氏(道誉)を輩出し、室町幕府では山名・一色・赤松と並び四職の一つを占めていた家柄です。
 ところが、万治元年(1658)、龍野藩主・京極家は讃岐丸亀藩に移封されます。この時、網干の町は興浜地区と新在家地区に分けられ、西半分の興浜は引続き京極家が治めることになり、丸亀藩の飛地とされました。このため丸亀藩は、この地に陣屋を設け、代官、奉行を置いて治めます。これを網干陣屋といいます。当時、丸亀藩の興浜と龍野藩の新在家との間には、南北に溝が掘られて小川が流れ、それを境として1日2回通行を許可される境橋という小さな石橋が唯一の往来手段だったそうです。

 揖保川の河口付近には川船で運ばれてきた年貢米を納めた蔵が並び、港は出入りの船で賑わい、海上安全を祈願した金毘羅大権現の分霊が祀られていました。また、参勤交替の際御座船に乗って立ち寄る丸亀藩主のために、茶屋も建てられていました。こうして網干は幕末までの約230年間、姫路の中の讃岐として残りました。
 
 なお、(15話)“丸亀の殿様は婆娑羅大名佐々木道譽の子孫”を参考にしてください。

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(85)“桂離宮との類似性も指摘されている栗林公園創始の謎”

 栗林公園(りつりんこうえん)は、江戸時代、高松松平藩の下屋敷だったところで、廻遊様式の大名庭園です。大きな池を中心にその周囲に樹木、花、石造物、建物などが配置されており、変化に富んだ風景を歩きながら楽しむことができます。
 この公園は、大きく分けて、築庭時の南庭と明治期に大改修された北庭に区分されますが、南庭の南湖一帯は、京都・桂離宮の造園手法と類似性が認められるといわれています。桂離宮は、後陽成天皇の弟である八条宮(桂宮)・智仁(ともひと)親王が造営した数奇屋造(すきやづくり)の別荘で、その廻遊式庭園は小堀遠州の造作ともいわれています。遠州は、大名でありながら茶人・造園家でもあり、三代将軍・徳川家光の時代の寛永期(1624年~1643年)を代表する文化人の一人で、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも関わっています。

 栗林公園の創始については諸説がありますが、有力な説によると、室町時代末期、佐藤志摩介道益が園の西南端にある小普陀(しょうふだ)付近に居邸を構え、そこに小庭を築いたのが始まりといわれています。佐藤氏は室町初期より伏石(高松市伏石町)を本拠とした讃岐の国侍です。
 その頃、今の高松市街は箆原荘(のはらのしょう)という寒村で、現在石清尾山の西側を流れている香東川は、南で二本の水流に分かれ、この山を挟んで東西に流れていました。今の栗林公園の敷地も小普陀付近を除いてほとんど香東川の河川敷であったのではないかと推測されています。

 その後、天正15年(1587)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて入り、箆原荘北端の海浜地に城を築きます。これが現在の高松城です。佐藤志摩介道益も生駒氏の讃岐入国にともない、その家臣となっています。
 生駒氏は、寛永17年(1640)までの四代54年間にわたり讃岐を領有しますが、この生駒時代、国内の情勢は元和元年(1615)に起きた大阪夏の陣の前後で大きく変化しました。大阪夏の陣より前の期間は、文禄の役(文禄元年(1592))、慶長の役(慶長2年(1597))、秀吉死去(慶長3年(1598))、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))、徳川家康への征夷大将軍宣下(慶長8年(1603))、大阪冬の陣(慶長19年(1614))、大阪夏の陣と、秀吉の朝鮮侵攻、豊臣氏から徳川氏への天下移行という戦乱の時代でした。これに対して、大阪夏の陣より後の元和期(1615~1624)から寛永期(1624~1640)にかけての期間は、元和9年(1623)に徳川家光が三代将軍を継ぐなど、幕藩体制の整備が進み秩序と安定が回復していく時代でした。

 大阪夏の陣から6年後の元和7年(1621)、生駒藩では三代藩主・正俊が若くして急死し、当時11歳の高俊(たかとし)が後を継ぎます。しかし、若年ということもあって、外祖父である伊勢津藩主・藤堂高虎が高俊の後見をすることになります。そして、高虎の家臣である西嶋八兵衛が「讃岐国の仕置(しおき)」のため派遣されてきます。八兵衛は、17歳から高虎に仕え、二条城の築城や大阪城の修築に携わるなど、土木の技術を習得していた人物でした。
 八兵衛は、古代に空海が修築したものの中世の時代約450年間決壊したまま見捨てられていた満濃池を改修するなど、灌漑、干拓、治水などの事業を行い、生駒藩の殖産と財政の確立に努めます。その一つの事業として、寛永8年(1631)頃、高松城下を洪水から守るため、香東川の東の水流を堰き止めて西の水流に一本化する治水工事を行っています。

 この香東川の改修事業の時、西嶋八兵衛の関与により、今の栗林公園の小普陀付近、南湖、西湖の辺りにおいて、佐藤氏の居邸址を基礎に、香東川の元東側水流の跡に湧出している伏流水を利用して築庭が行われたのではないかと考えられています。
 そして、この築庭は、小堀遠州の造園思想の影響を受けたのではないかと推測されています。というのは、遠州と生駒正俊の正室は、ともに藤堂高虎の養女であり、また、遠州は慶長5年(1600)から元和5年(1619)まで備中高梁(たかはし)の松山城主1万5千石であったことから、生駒家と親密な交友関係があったと考えられています。さらに、西嶋八兵衛も高虎の腹心であったことから遠州の考えの影響を受けていたと思われます。
 
 しかし、寛永17年(1640)、生駒高俊はお家騒動により改易となり、出羽国矢島藩1万石に転封となります。その後、寛永19年(1642)、水戸徳川家初代・頼房の長男である松平頼重(よりしげ)が、三代将軍徳川家光から東讃岐12万石を与えられて入封し、高松藩が成立します。
 頼重は着任して間もなく栗林荘に遊んだといわれており、以後、歴代藩主も庭園の拡充整備に努め、五代藩主・頼恭(よりたか)の時代の延享2年(1745)になって現在の栗林公園の姿が完成しました。それは頼重入封から103年を経たときでした。

 この記事を読まれるに当たっては、次の記事を参考にしてください。
(3話)“黒田官兵衛が設計したともいわれる水城
(4話)“関ヶ原で親子が別れて戦った生駒家
(5話)“海音寺潮五郎も書いた生駒騒動
(6話)“讃岐のために尽くした藤堂高虎の家臣
(7話)“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子

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(84)“小石川後楽園を大改造した高松藩主”

 東京ドームのすぐ近くにある「小石川後楽園」は、もと御三家のひとつ水戸藩の江戸上屋敷の庭園だったところです。いわゆる廻遊様式の江戸における最初の大名庭園といわれています。廻遊様式の庭園というのは、人が歩きながら変化に富んだ風景の移り変わりを楽しめるように、大きな池を中心にその周囲に樹木、花、石造物、建物などが計画的に配置されたものです。京都の桂離宮庭園がその代表例とされていますが、これに江戸の風土と大名の生活文化とが関わって生まれたのが大名庭園といわれています。

 小石川後楽園の歴史は古く、今から約380年前の寛永6年(1629)、第三代将軍家光のとき、初代水戸藩主の徳川頼房(よりふさ、家康の十一男)が将軍家から小石川に邸地を下賜されて造園に着手したのがその創始です。その後、徳川光圀(黄門)が寛文元年(1661年)に二代目藩主となり、完成させます。光圀は当時日本に亡命中だった明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)に意見を聞き、中国様式も採り入れ造園しました。 「後楽」という呼び名は光圀に命じられて舜水が選んだもので、宋の范文正(はんぶんせい)の書「岳陽楼記(がくようろうき)」の中にある、士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむという武士の嗜みである「先憂後楽」の思想に則ったものです。なお、岡山の後楽園は明治4年に名づけられたもので、それまでは城の背にあるので「後園」と呼ばれていたそうです。

 享保3年(1718)、水戸藩では、14歳の宗堯(むねたか)が四代藩主を継ぎます。宗堯の実父は第三代高松藩主の松平頼豊(よりとよ)です。頼豊は息子の宗堯が年少だったため水戸藩政を後見し、事実上の水戸藩主的な立場にあったようです。ちなみに高松松平家の上屋敷は、小石川橋を隔てて水戸邸の南向かいにありました。
 頼豊は宝永元年(1704)に第三代高松藩主になっていますが、この頃の高松藩の財政は余裕もあったようです。頼豊は栗林荘(栗林公園のこと)をことのほか愛し、桧御殿を増築して園内の所々に茶屋を作り、入口には諸番所、諸役所まで設け、在国中はほとんどここで過ごしたといわれています。また、桧御殿で能を催したりしています。

 さらに庭園好きの頼豊は、栗林荘だけでは満足できなかったようで、水戸藩の小石川後楽園も自分の好みに大改造しています。当時すでに創始から100年近くを経た後楽園は、樹木が繁茂し、鬱蒼としていたと思われます。この景観が瀬戸内の明朗な自然の中にある栗林荘の風致に馴染んでいた頼豊の眼からすれば、陰鬱に見えたのでしょう。
 頼豊は宗堯に指示して、後楽園の景観の見晴らしをよくするため、高木700余本を伐採し、大泉水のほとりの護岸石組みを崩して石積みに改め、険しく聳え立つ奇石をすべて取り払い、古木もほとんど切り払ってしまいます。また、高松の石清尾八幡を勧請し、金毘羅大権現を祀り、讃岐風のものを後楽園に持ち込んでいます。
 この享保時代の大改造により、創始以来の後楽園の景観は一変したといわれており、水戸家に仕える者の中には、表向きの批判は口にしなくても、「ここにおいて園中の絶勝大いに変ず」と、内心大いに憤懣を抱いた者があったようです。

 幕末になって文政11年(1819)斉昭が九代水戸藩主になると、創造時代の方針に従って後楽園を旧に復すことに努めますが、安政の大地震で多大の被害を受けます。明治維新後は陸軍の秘園として保存されますが、関東大震災の時、唐門・西行堂・九八屋・得仁堂を除き園内の建造物は総て焼失しました。さらに残ったものも、アメリカ軍の空爆で得仁堂以外は全部焼失し、現在も復元されていません。
 水戸藩上屋敷は最大時で約8万7783坪(約29ヘクタール)でしたが、現在残っている後楽園の面積は約2万坪だといわれています。これに対して、栗林公園は約23万坪の総面積を持ち、大きな災害などにも遭わなかったことにより、約400年といわれる歴史を経てもなおお庭の国宝といわれるにふさわしい景観を保ち続けています。

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