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(83)“織田信長に滅ぼされた武将の子孫が住むイリコの島”

 観音寺市より10Km西沖の瀬戸内海燧灘に伊吹島という周囲5.4Kmほどの小さな島が浮かんでいます。この島は、近海がカタクチイワシの好漁場となっており、イリコ(煮干イワシ)の産地として知られています。イリコは讃岐うどんのだしを作るために欠かせない原料で、伊吹島のイリコはその品質、味とも日本一といわれています。しかし、この島には昭和30年頃4千人もの人が住んでいましたが、現在は約千人弱となっており、過疎化と高齢化が進んでいます。
 島の住人の約半分は三好姓ですが、彼らは、戦国時代末期に織田信長に滅ぼされた三好義継(みよしよしつぐ)という武将の末裔だといわれています。義継は三好長慶(みよしながよし)の後を継いで三好家当主となった人で、長慶は織田信長が永禄11年(1568)に上洛する前の約15年間にわたって、畿内で覇を唱えた阿波出身の戦国大名です。

 三好氏は甲斐源氏小笠原長清を始祖とし、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗るようになったといわれています。室町幕府が開かれると、阿波は讃岐とともに細川氏の領国となりますが、三好氏は南北朝時代には宮方に組みしていました。しかし、やがて細川氏に下りその重臣となっていきました。
 このような三好氏は、長慶のとき、その勢力が絶頂期を迎えます。長慶は、四国から渡海して芥川山城(今の高槻市)や河内飯盛山城(今の四条畷市)を本拠として京畿で活躍します。長慶には三人の弟がおり、すぐ下の弟の之康(義賢、のちに実休と号した。)が阿波を治め、次ぎの弟の冬康が安宅氏を継いで安宅水軍を率い、末弟の一存(かずまさ)が讃岐の名族十河氏を継ぎます。十河一存は鬼十河として勇名を馳せた武将です。
 この三人の弟が、それぞれの本拠である阿波・淡路・讃岐を固め、三好長慶の京畿における活躍を支え、三好氏の勢力は山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の九カ国(今の大阪府と、徳島、香川、奈良三県、さらに兵庫県南東部、京都府南部)にまで及びました。
 しかし、その後、義賢、一存、嫡子義興と相次いで有力人物を失い、さらに松永秀久の讒言によって長慶が安宅冬康を謀殺するという内訌が生じ、長慶の死後、三好氏の勢力は急速に衰退しました。
 永禄11年(1568)、織田信長の怒涛の入洛により三好政権は瓦解し、十河一存の実子で長慶の家督を継いだ義継(長慶の甥)は、信長に服して河内若江城(現在の東大阪市)を安堵されます。しかし、天正元年(1573)、室町将軍足利義昭と信長が対立した時、妻(寧姫)の兄だった義昭を若江城に匿いました。これにより信長の逆鱗にふれた義継は、信長配下の佐久間信盛らの攻撃を受け、ついに自害して果てました。その時、義継には、寧姫との間にできた嫡子の義兼と、その異母弟に当たる庶子の義茂という二人の息子がいました。

 父の義継が滅ぼされた後、弟の義茂は大川市太郎と改名し、十河一存の後を継いだ存保(まさやす、三次実休の第二子)の世話により、讃岐獅子ヶ鼻城(今の観音寺市豊浜町)の大平伊賀守国祐を頼って、従者二人とともに伊吹島に逃れました。故大平総理大臣は豊浜の出身ですからその子孫かもしれません。
 兄の義兼は若江城の落城前に阿波に逃れ、そこで成人しましたが、長曽我部の阿波侵入後、三好長冶(三好実休の嫡子)の妻の実家のある今の観音寺市財田町に一族郎党と共に身を寄せていました。しかし、頼りの存保が天正14年(1586)に九州の戸次川(べつぎかわ)の戦いで戦死して十河氏が断絶したため、翌年、家来50騎~80騎の一族郎党をともなって弟の居る伊吹島に避難しました。
 二人の兄弟は政情が落ち着くまで、瀬戸内海水運の要所である伊吹島で身を隠そうとしたと考えられます。しかし、彼らにとって島での生活は平穏でなかったようです。伊吹島には先に合田一族が住んでおり、狭い島の中で両氏が共存することは困難だったのでしょうか。三好一族と合田一族との間で争いが生じ、天正16年(1588)、合戦になりました。
 合戦において義兼は鉄砲で狙撃されて深手を負い、島の最も高い鉄砲石で自刃して果てます。そして、合戦後、合田一族は東部の中低地、三好一族は西部の高地にそれぞれ住み分け、両者は互いに婚姻をしないという静かな対立を続けながら暮らしました。島の守護神の八幡神社の祭礼には、東部の合田氏、西部の三好氏、南部の中立の「ちょうさ」が担ぎ出され、互いに威勢を競い合ったといいます。
 外部との交流があまりなかったためでしょうか、この島は、日本でただ1ケ所、平安、鎌倉時代の京言葉のアクセントを今だに遺している所としても知られています。

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(82)“竹取物語に秘められた古代讃岐国成り立ちの謎”

 私たちが幼いときから聞いている「竹から生まれ、中秋の満月の夜、月に帰って行ったかぐや姫」の物語は、日本の各地で語り継がれており、香川県でもさぬき市長尾町に伝えられています。この物語は単なる民話ではなく、日本で最初の小説といわれている「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」で始まる「竹取物語」として書かれています。このような「かぐや姫」の物語は、古代の讃岐国の成り立ちと深い関係があるのではないかと考えられます。
倭迹迹日百襲姫命
所蔵:讃岐一宮 田村神社(.田村神社の主祭神は、倭迹迹日百襲姫命。女神をお祀りしています。) 

3世紀中葉から6世紀末葉までの約300年間にわたる古墳時代に、主に奈良盆地を本拠として倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した政権をヤマト王権といいます。ヤマト王権による統一が進んでいくにともなって、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度(しせいせいど)と呼ばれる中央、地方の豪族を単位とした支配体制が形づくられていきました。
 豪族は、氏という同族集団をつくり、多くの家に分かれていましたが、そのうち本家にあたる家の長が氏上として一族を率い、中央、地方において、それぞれ一定の政治的地位を与えられていました。各氏は、家柄や勢力によって臣(おみ)・連(むらじ)・君・直(あたい)・首(おびと)などの姓(かばね)をヤマト王権から授けられていましたが、それは各氏の政治的地位を示すものでした。また、多くの職能を分担する伴造(とものみやつこ)がおり、その下に品部(ともべ)という人民集団があって、貢納や技術によってヤマト王権に奉仕していました。

 讃岐をもっとも早く開発したのは忌部氏(いんべし)といわれています。忌部はケガレを忌み、神事などに奉仕する品部で、古来より宮廷祭祀における祭具の製造や神殿・宮殿の造営に携わってきました。その子孫は後に斎部と名乗ります。
 忌部氏は天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖先とし、その勢力は、大和から、九州・紀伊半島・四国・房総半島などに各地に広がっていきました。その中でも、天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波忌部氏と、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐忌部氏は、早くから四国に移住してきたといわれています。なお手置帆負命は天照大神が天岩戸に隠れたときに御殿を造営した神様です。
 後に讃岐忌部一族の斎部広成が書いたと言われる「古語拾遺(こごしゅうい)」(807年)には、「大和で矛竿(ほこさお)を造っていた手置帆負命神の子孫が今は別れて讃岐国に住んでいて毎年讃岐から大和朝廷に調庸以外に八百竹を貢進していた」と書かれており、讃岐忌部は工作を業としていたと考えられています。なお、“さぬき”という国名の由来は、矛竿をつくり貢物としたので、竿調国(さおつきのくに)と言ったのが縮まったともいわれています。
 讃岐忌部氏は、農業にすぐれた阿波忌部氏の助けを得て、讃岐の山野を開拓していったと伝えられており、大麻神社、粟井神社はともに忌部氏がその祖神である太玉命を祀ったものであり、財田、麻、粟井などの地名はその名残りであるといわれています。

 ところで、奈良県の中西部に広陵町(こうりょうちょう)という町があり、そこの巣山古墳の近くに竹やぶに囲まれて、「讃岐神社」という延喜式(えんぎしき)内社がひっそりと鎮座しています。延喜式内社とは、千年程前の平安時代中期に編纂された延喜式の神名帖に記載された神社で、当時朝廷から重要視された神社であることを示しています。神名帖には、大和国広瀬郡散吉郷に讃岐神社の名が記されており、散吉は讃岐と同音・同意の「さぬき」だそうです。
 この神社の祭神は、「天太玉命」とされており、地元では、香川県の讃岐にいた忌部氏が、大和の地に移り住み、その地を「散吉(さぬき)」とし、神社を造営して自分たちの祖神を祀り、讃岐神社としたといわれています。また、かぐや姫の名付け親は「三室戸の斎部の秋田」(みむろとのいんべのあきた)とされていますが、讃岐神社の近くが、彼が住んでいたという「三諸岡」(みむろ丘)であるといわれています。
 これらのことから、広陵町の人たちは、竹取物語に「さぬきの造」として出てくる竹取の翁は、讃岐神社を造営した讃岐忌部氏のことであり、竹取物語の舞台は広陵町であると考えています。

 一方、広陵町から南東の方向にある桜井市には箸墓(はしはか)という全長280mの出現期の前方後円墳としては最大規模の古墳があります。この古墳は「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめのみこと)」の墓といわれています。百襲姫(ももそ姫)は、第7代孝霊天皇の皇女で、大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚したことで知られています。
 興味深いことに、この百襲姫は、香川県の水主神社と田村神社でも祭神として祀られており、姫が讃岐に来たという伝承が残されています。両社とも延喜式内社で、田村神社は讃岐一宮の名神大社です。高松市仏生山町にある百相神社も百襲姫の来遊を伝えています。
それらの伝承は次のようなものです。

 百襲姫は、8歳で大和を旅立ち、讃岐・引田の安戸の浦に到着し、水主(水主神社)に住み地元の民に稲作・灌漑を伝えたが、讃岐全土を治めるため、馬篠(艪掛神社)から船に乗り、讃岐・船岡山(船岡神社)に入り落ち着いた後、讃岐一宮(田村神社)に住み、ため池を作り、稲作を伝えた。しかし、18才の時大和国から迎えが来て、地元の民は引き続き姫に讃岐に留まって欲しいと抵抗したが、それも空しく、大和の国に帰っていってしまった。その後、讃岐では姫を農業の開祖神として祀った。

 以上のような話を総合すると、次のようなストーリーの展開が想像できます。
 まだ讃岐が未開の地でヤマト王権の威光が十分に及んでいなかった頃、百襲姫は讃岐忌部氏の懇請によりヤマト王権の象徴として幼い時に讃岐に送り込まれ、讃岐忌部氏により守られていた。しかし、成人した時に、ヤマト王権から大和に帰るよう指示を受けたため、讃岐の民人と泣く泣く別れて大和へ帰って行った。その時、讃岐忌部氏の一部が百襲姫に仕えるため、お供で就いて行き、そのままその地に留まり、自分たちの祖を祀る神社を造った。その後、この百襲姫の物語がベースとなって、竹取物語が書かれた。
 このストーリーによると、百襲姫こそ、かぐや姫であり、讃岐はかぐや姫物語の原型の地ということができます。さらにおもしろいことには、百襲姫の弟には、吉備津彦命(きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)という弟(息子という説もあります)がおりますが、讃岐に伝わる桃太郎伝説のモデルは吉備津彦命あるいは稚武彦命ではないかといわれていることです。そうだとすれば、かぐや姫は桃太郎のお姉さんだということになります。
 このようなストーリー展開を裏付ける史実的根拠は全くありません。しかし、古代において、讃岐は大和と深い関りがあったということは間違いないようです。
 なお、この物語をお読みになるにあたっては、(54話)「讃岐に残る桃太郎と姉の物語」も参考にしてください。

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(81)“二つある源平ダンノウラの戦い”

  源平合戦ダンノウラの戦いというと、中学校や高校の歴史では、平家が滅亡した関門海峡での「壇ノ浦」の戦いだと教えられています。ところが、香川県の高松市辺りでは、ダンノウラの戦いというと、高松市の東にある屋島での源平の戦いのことだと思っている人が多くいます。
 現在屋島は四国と地続きになっていますが、これは江戸時代からのことです。当時は文字通りの島で、その東側は南に大きく切り込んだ入江になっていました。この屋島東麓の海岸あたりを「檀ノ浦」といい、今から約820年前、下関の「壇ノ浦」の戦いの一ヵ月前にここでも「檀ノ浦」の戦いがありました。
 屋島の方は「きへん」の「檀」、関門海峡の方は「つちへん」の「壇」と偏が違うだけです。「檀」は紙の素材である「まゆみ」という意味で、高松には「檀紙(だんし)」という地名のところもあり、かつて「檀(まゆみ)」が多く採れたところかもしれません。

 寿永3年(1184)2月、今の神戸にある一ノ谷の合戦で敗れた平家は、安徳天皇を奉じて再び讃岐の屋島に拠りました。しかし、瀬戸内海の制海権を平氏に握られていることから源氏は直ぐに平氏を追撃することができませんでした。そこで源氏は、橘次公業(きちじきんなり)を先陣として讃岐に潜入させ、新居・羽床・大野など地元の有力諸氏を味方に誘い、平氏を追撃する準備を着々と進めます。一方で、4月末に梶原景時らを鎌倉から出立させ、7月に入ると義経屋島征伐の命を下すよう上皇に奉請し、また範頼を九州に向かわせます。
 寿永4年(1185)2月上旬、義経は京都を発ち、今の大阪から、わずか150余騎を率い、強風の中を出帆します。このときの義経と軍監梶原景時との間の「逆櫓(さかろ)論争」はよく知られているところです。
 2月17日早朝、悪天候を強行した義経軍は阿波勝浦(小松島市)に上陸し、そこから阿波と讃岐の国境である峻険な大坂峠を乗り越え引田に入ります。そして白鳥神社、水主神社に武運長久を祈願した後、本隊を分けて海岸沿いの志度街道と山間の長尾街道とを別々に進み屋島の背後に迫ります。

 当時、屋島は、その西側は全くの海でした。その南側と四国との間は、潮の満干によって潟が見えたり海になったりする浅瀬の海峡になっており、簡単に人馬が渡ることができませんでした。またその東側と対岸との間は入江になっていました。平氏は、このような地形を利用して屋島の東の海側からの侵攻に備えた防衛体制を構築していました。
 屋島檀ノ浦の高台に内裏(だいり)を造営し、そこで幼い安徳天皇と三種神器を守り、周りに天皇の母の徳子(後の建礼門院)、祖母の二位の尼(清盛の未亡人)と女官たちや、多くの公家衆達が侍っていました。そして屋島対岸の庵治半島の付け根の入江に軍船を隠し、また東南対岸に総門を構えて本陣を置き、海辺の防御に備えていました。平氏の軍勢は3000騎近くあったといいます。

 19日午前8時過ぎ、義経の軍は平氏の総門を北に望む瓜生が丘に陣を構え、海岸沿いの志度街道を走ってきた隊と合流します。義経のもとには、事前に橘次公業が手を回していたこともあって、平氏を寝返って源氏についた讃岐の武将たちも馳せ参じていました。義経軍の勢力は500騎余りだったといわれています。そして、ここで二手に分かれて攻撃が開始されました。一隊は総門の本陣に向かい、もう一隊は屋島南対岸の赤牛崎(あかばざき)あたりを渡って安徳天皇が鎮座する屋島檀ノ浦の内裏に向かいました。
 奇襲を得意とする義経軍は、牟礼、高松の里の民家に次々と火を放ち、大軍が押し寄せているように見せかけます。平氏は南の四国側からの攻撃を予想していなかったため、この攻撃は不意をつかれたものとなり、猛火と猛煙を見て慌てふためき、入り江に浮かべていた船に我先と乗り込んで沖合いに逃げ、内裏や本陣はもぬけの殻になってしまいました。その後を義経軍は次々と火を放ち、平氏が帰るべき本拠を壊滅しました。海に逃れた平氏の総大将平宗盛は、義経軍が思いのほかわずかな軍勢であったことを知り、地団駄を踏んで悔しがったといいます。
 しばらくして、平氏も船を返して反撃に出、海浜での戦いとなりました。そのような中、都第一の強弓・精兵といわれた平能登守教経(たいらののとおかみのりつね)が、義経に狙いを定めて矢を放ちました。とっさに佐藤継信が義経の前に出て、その身代わりとなって射抜かれ落馬します。これを見ていた能登守の従者菊王丸が嗣信の首をとろうとしますが、逆に継信の弟に忠信に討ち取られます。

 次の20日も激しい戦いが行われましたが、その合間に平氏は一艘の船に美人を乗せ、扇の的を立てて源氏を挑発しました。これを見た義経はその扇の的を射る大役に、那須与一宗高を選びます。与一は見事に扇の的を射落とし、味方、敵方からも大喝采が起こりました。
 ところが、扇の的を見事射抜いたことに感激して船中で舞っていた平氏方の武者を、与一が射殺したことに端を発して、平氏の怒りが燃え、再び乱戦となりました。悪七兵衛景清が美尾屋十郎の甲の錣(しころ)を素手で引きちぎったのもこの時の出来事です。また、義経の弓流しのエピソードもこのときの出来事だといわれています。
 この日の夜半、平氏は、反撃の態勢を整えるため、庵治半島を海上から迂回します。21日の朝志度湾に上陸し、志度寺の境内に立てこもろうとします。これに対して義経は、瓜生ヶ丘から急襲し、志度の浜辺でたたみかけるように攻撃を加えました。
 志度で戦が行われている間、義経軍への加勢が増えているという知らせに、平氏はついに屋島の陣地を捨て、長門の壇ノ浦へと落ち延びていきます。

 屋島檀ノ浦の戦いのとき、兵力の点でははるかに平氏が源氏に勝っていました。ところが平氏は惨敗してしまいました。これは、平氏が海からの攻撃に備えたのに対して源氏はその裏をかいて陸から攻撃したこと、また、平氏の権力の象徴である三種神器を持つ安徳天皇の鎮座する内裏を直接攻撃したことにあると考えられます。つまり、隙間を突いて心臓部に対して容赦のない一撃を加えたためです。これができたのは、戦いの前に源氏が地元の情報を十分に掌握していたということでしょう。
 平氏が滅んだのは屋島檀ノ浦の戦いから約1ヵ月後の3月24日のことです。

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(80)“建礼門院と安徳天皇が滞在した牟礼・屋島”

  平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まりますが、建礼門院徳子はこの物語のヒロインとして知られています。京都大原の里にある寂光院(じゃっこういん)は、彼女が隠棲したゆかりの地として今でも多くの人々が訪れています。寿永4年(1185)、源平合戦最後の決戦地長門国壇ノ浦で平家一族の滅亡とともに安徳天皇は亡くなりますが、その母である徳子は生き残り、尼となり寂光院で余生を送りました。
 徳子は幼帝安徳天皇とともに、寿永2年(1183)10月から、一ノ谷の合戦を挟んで寿永4年(1185)2月までの通算約1年6カ月間、讃岐の牟礼・屋島に滞在していました。この間、三種神器も讃岐にあり、朝廷の儀式もとり行われ、讃岐に皇居があったといえます。

 平安時代末期、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)の二つの乱を通じて、武家の棟梁としての平清盛の地位と権勢は急速に高まり、平氏一門は「平氏にあらずんば人にあらず」と栄華を誇りました。そして、清盛はその娘である徳子を6歳年下であった高倉天皇の中宮に入れます。二人の間に親王が生まれると、清盛は後白河上皇を幽閉するとともにその側近を追放し、治承4年(1180)、自分の孫に当たるわずか1歳3ヶ月の親王を皇位につけ安徳天皇としました。
 しかし、貴族や大寺社、地方武士たちの平氏への不満は強く、安徳天皇が践祚(せんそ)した年に、後白河天皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏打倒の令旨(りょうじ)を出し、これに呼応して伊豆で源頼朝、木曾で源義仲(木曾義仲)らが挙兵しました。このような中、養和元年(1181)閏2月、清盛が病没するとともに平氏自体も急速に没落していきます。寿永2年(1183)5月、越中の倶利伽羅(くりから)峠で義仲に惨敗しその軍が京都に迫ると、徳子と安徳天皇は、7月に平氏一族とともに九州へと落ち延びていきました。このとき三種神器も持ち出されました。

 徳子と安徳天皇は、平氏一族と大宰府、大分の宇佐などを転々とした後、東へ戻り、寿永2年(1183)10月、海路屋島に到着します。このとき屋島には天皇の入るような建物がなかったので、対岸にある牟礼の六萬寺を行在所(あんざいしょ)としました。そして平氏はこの年の閏10月、屋島の平氏を追撃しようとした義仲を、備中水島で打ち破り、勢力を盛り返して瀬戸内海の制海権を握ります。
 義仲は水島から京都へ逃げ帰りますが、源範頼・義経が鎌倉から攻め上がります。この戦いに乗じて、平氏は、寿永3年(1184)正月、再び兵庫の福原に入り、一ノ谷に城を構えます。徳子と安徳天皇も福原に移ります。しかし、2月7日、範頼・義経らの源氏軍に敗れてしまいます。有名な義経の鵯(ひよどり)越えの逆落としはこのときの戦いです。
 一ノ谷の合戦での敗北で平氏は屋島に逃げ帰り、屋島東山麓の海が見える高台に行宮(あんぐう)を造営しました。その1年後の寿永4年(1185)2月19日に平氏は義経の追撃を受け、長門壇ノ浦へと落ち延びていきます。徳子にとって、この1年間の屋島での生活は、京を逃れて以来久しぶりにおとずれた安らぎの日々でなかったかと思われます。壇ノ浦へと向かう途中、安徳天皇一行は塩飽諸島の本島に立ち寄ったといわれています。

 屋島の戦いから約1ヶ月後の寿永4年(1185)3月24日、平氏は長門国壇ノ浦の合戦で最後を迎えます。この日の昼過ぎ、平知盛が敗戦を告げると、二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫である安徳天皇を抱いてそのまま海に飛び込みました。二位の尼に続いて徳子が飛び込み、続いて大納言佐局(平重衡の妻)が三種の神器のうちのもうひとつ八咫鏡を持って海に飛び込みました。しかし徳子は引き上げられ一命を得ます。安徳天皇は享年8歳(今の数え方でいえば6歳4ヶ月)でした。なお三種神器のうち、剣は結局回収できなかったといわれています。
 壇ノ浦で救われた徳子は京都に護送され、髪をおろして出家し、建礼門院と称して大原の地に庵を結びました。時に29歳。そして彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家の人々の霊を弔ったといいます。山里の京都大原で、建礼門院は讃岐での安徳天皇との生活の思い出にふけり幾度も涙したことでしょう。

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