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(78)“高松藩を二度辞職した平賀源内”

  平賀源内(ひらがげんない)は江戸時代の中期に活躍した人で、本草学者、蘭学者、発明家、美術家、文芸家、鉱山師など多技・多芸・多才な顔を持ち、日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれています。源内は本草学(植物学)から始めて、地方特産品を集めた展示会の開催、世評風刺から浄瑠璃戯作・滑稽本の著作、化学薬品の調合、西洋油絵の制作、石綿による防火布や源内織りなどの織物等の工芸品の製作、地質調査と鉱山開発、水運事業等など、ありとあらゆる分野に先鞭をつけてそれらを企画開発しました。その際たる物が「エレキテル」でした。

 源内は八代将軍徳川吉宗の時代の享保13年(1728)、高松城下の東に当たる寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)といい、元服して国倫(くにとも)といいました。源内というのは通称です。父は白石茂左衛門(良房)といい、高松藩の志度御蔵番(おくらばん)を務め、一人扶持切り米三石の足軽でした。
 源内の遠祖は「太平記」に出てくる平賀三郎国綱(くにつな)といい、その子孫ははじめ信州にいましたが武田信玄に滅ぼされ、その後仙台伊達家に仕えました。そのとき奥州白石(現在の宮城県白石市)に住んだことから白石姓を名乗っていました。その後、伊達家の一族が宇和島に移封されたとき、それに従って四国にやって来ました。しかし、讒言にあい宇和島を追われ讃岐国に逃れてきたといわれています。高松藩の家臣となったのは、源内の曽祖父が、初代松平頼重のとき、高松藩の御藏番に召し上げられてからです。
 源内は少年の頃から利発で書物をよく読み、また色々なことを調べるのが好きだったようです。12歳の頃には掛け軸に細工をした「御神酒(おみき)天神」を作り、天狗小僧の異名をとっています。13歳からは阿野郡南の陶の三好喜右衛門に見込まれ本草学、医学、焼き物を学んでいます。源内と本草物産学との結びつきはここから始まります。また儒学も学んでいます。

 その頃の高松藩主は第五代目の松平頼恭(よりたか)でした。頼恭は正徳元年(1711)、奥州守山藩2万石の(福島県郡山市)の領主松平頼貞の五男として生まれました。初代高松藩主松平頼重の弟・頼元の孫に当たり、元文4年(1739)、29歳のときに高松松平家の養子となりました。源内より17歳年上で、高松藩主となったのは源内が12歳のときです。
 頼恭が藩主となった頃、高松藩は深刻な財政危機に見舞われていました。このため頼恭は様々な藩政改革に取り組むとともに、人材を登用して殖産興業を進めます。讃岐三白のうち塩と砂糖の生産化に着手したのも頼恭です。後に高松藩中興の祖と呼ばれる所以でもあります。
 また、頼恭は学問好きで、特に博物学に造詣が深く、寛延元年(1748)ごろ、紫雲山の麓にあった藩の薬園を、「御林(おはやし)」と呼ばれていた栗林荘(現在の栗林公園)内に移し、その整備を行っています。
 源内の評判は高松城下にも聞こえていたと思われ、頼恭は源内を志度から呼び寄せ、藩の薬坊主(やくぼうず)として取り立てます。源内が19歳頃のときです。源内は栗林荘にあった薬草園の世話や図譜づくりの手伝いをしていたようです。博物趣味の頼恭はよく薬草園に出かけて行ったそうで、源内とも直接のやりとりがあったと考えられます。

 寛延2年(1749)22歳のとき、源内は父の死により御蔵番を継ぎます。そして白石姓を平賀姓に改めます。一方この頃、渡辺桃源ら志度の俳諧グループに属し、李山と号して俳句を行っています。
 宝暦2年(1752)25歳のとき、源内の生涯を変える出来事がありました。頼恭の引き立てにより、その援助を受けて長崎に1年余り遊学したのです。当時、足軽の身分で藩から長崎遊学を許されるというのは異例だったのではないかと思われます。頼恭は若者の才能を見込んで、それを取り立てるという才覚のあった人です。この遊学で源内は本草学とオランダ語、医学、油絵などを学び、蘭学という新しい世界に好奇心をたぎらせ、讃岐から出て飛躍したいという大望を抱いたようです。

 宝暦4年(1754)27歳のとき、源内は病気を理由に藩の役目を辞し、さらに妹の里与に従弟の権太夫を入婿させ平賀家の家督を譲ります。封建社会の中でこのような思い切った行動に出たのは、学問や研究に専念したいという気持ちとともに、その才能が故に上司や同僚のねたみを受けたため宮仕えに嫌気がさしたからではないかといわれています。
 江戸へ出るチャンスを伺っていた源内は、宝暦6年(1756)3月、29歳のとき、ついに郷里を出立し江戸へ向かいます。江戸へ向かう途中、渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編んでいます。「井の中をはなれ兼たる蛙かな」と詠んだ歌はまさに源内のそのときの心境を表しているでしょう。大坂に立ち寄った後、江戸へ出て本草学者の田村元雄(藍水)に弟子入りします。また、漢学を習得するために林家にも入門して湯島聖堂に寓居しています。
 宝暦7年(1757)、30歳の時、師の藍水を説いて我が国で初めての物産会を湯島で開催します。翌年、翌々年と物産会を開催すれにつれて、源内の江戸での名声は高まり、源内の前途は洋々と広がっているようにみえました。

 ところが、自由に羽ばたこうとする源内に足かせがはめられました。源内の評判が参勤交代で江戸に居た頼恭の耳にも聞こえ、宝暦9年(1759)9月、源内は高松藩から「医術修業候に付き」という名目の三人扶持で、一方的に再び召抱えられてしまったのです。翌年の5月には薬坊主格を拝命し、銀十枚四人扶持を給されました。高松藩では当時、一人扶持昇任するのに普通は十数年かかったそうで、これは異例の出世でした。しかし、讃岐での生活のすべてを断ち切って江戸へ出てきた源内としては、これからいよいよ飛躍しようとするときであり、この高松藩の措置はありがた迷惑だったようです。
 とはいえ、頼恭は身分の低い御藏番の身から引き立て世に出るチャンスを与えてくれた恩義のある人でした。源内はその恩に報いるため仕え、頼恭も源内をかわいがり、どこへ行くにも随行させ、江戸目黒の下屋敷には薬園まで開いています。
 宝暦10年(1760)7月、源内は頼恭に随行して一時帰郷します。途中紀州の物産を調査し、ホルトの木を発見しています。その年の秋には、薬草採取班の初代頭取となり、小姓5、6人と南は安原の奥、東は阿波境、西は金比羅山まで一週間くらい泊りがけで藩内各地を出張して薬草を採取し、栗林薬園で栽培していたようです。

 源内は自由に自分の研究に没頭したかったのですが、それがかなわず、悶々としていたようです。悩んだ源内は、再度の仕官から1年半後の宝暦11年(1761)2月、34歳のとき、学問に専念するために高松藩に2度目の辞職願いを提出します。しかし藩からの返事はなかなか出ず、半年以上も経った9月にやっと許可されました。ただし、「他家への仕官構う」という条件付きでした。高松藩屋敷への出入りは自由だが、他藩への仕官は禁止するというものでした。これ以降、源内は讃岐との縁が切れ、文字通り江戸の人となり、自由奔放で波瀾万丈の浪人生活を送ることになります。

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(77)“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々”

 瀬戸内海の沿岸部や島々には旧石器時代の遺跡が点在し、沖合では漁師の底引き網などで象などの化石が引き揚げられています。これは、化石をふくんでいる海底の地層が強い潮流により掘られ、埋まっていた化石が出てきたものです。引き上げられた象の化石の多くは、ナウマン象のものです。それは北海道から沖縄まで広く発見されており、なかでも瀬戸内海の海底から最も多く見つかっています。
 ナウマン象は、今からおよそ30万年~1万6千年前(中期更新世後半~後期更新世末)に生息していた象です。体は現生のアジア象と比べやや小型ですが、2mを超す大きな牙を持っており、寒冷な気候に適応するため皮下脂肪が発達し全身が体毛で覆われていたと考えられています。学名はパレオロクソドン・ナウマンニといい、ドイツの地質学者エドモンド・ナウマンにちなんで名づけられたものです。

 およそ200万年続いた洪積世の時代、地球は北半球を中心に5~6回にわたり寒冷な大氷河期に見舞われました。氷河期には海水や河川などの水分が凍結して海水面が著しく低下し、氷河期の間の間氷期には海水面は上昇しました。
 このような海水面の上昇・低下を繰り返し、約2万年前のヴェルム氷河期最盛期には海面が現在よりも100~140mも低下し、日本は大陸と陸続きの状態になっていました。ナウマン象も氷河期の寒さから逃れるために日本へ移動してきたと考えられています。このとき、日本人の祖先も大陸から動物たちを追って日本列島に住み着いたといわれています。

 約1万年前~200万年前の旧石器時代、瀬戸内海は陸地で、東西に長い帯状の地溝帯にメタセコイヤ、モミやツガが生えた台地や湖沼が点在する湿地や泥炭地の草原が広がっていました。そして、現在瀬戸大橋が架橋されている塩飽諸島の島々が、備讃瀬戸山脈を形成し、分水嶺となっていました。そして、そこを境に、中・四国山地から流れ込んでできた川が東と西に分かれて流れ、東瀬戸大河は芦田川、沼田川、重信川等が伊予灘あたりで周防灘方面よりの水流と合流し豊後水道へと達していました。また西瀬戸大河は旭川、吉井川、香東川等を源流とし、播磨灘、明石海峡を通り大阪盆地まで迂回し紀伊水道へと達していました。
 海水が流入する以前の瀬戸内には、中・四国山地から河川が流れ込んで湖沼ができ、水辺にはナウマン象やオオツノシカなどの大型の動物が集まり、人々は狩りに適した丘の上で生活をしていたと思われます。そして、そして、旧石器人サヌカイトの石器を道具とし使い、ナウマン象などを狩猟の対象としていたのでしょう。

 しかし、今から1万年ほど前、氷河期が終わり沖積世になると、地球は温暖化し氷河の大部分が溶けて海水面が上昇し始めました。これによって大陸と陸続きであった日本は次第に孤島化し、それまで陸地であった瀬戸内海にも海水が流入し始めました。海面の上昇は約6000年前の縄文時代前期頃にピークを迎えたとされており、海面は今より3~5メートル高く、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込み、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かったと考えられています。日本ではこの現象が生じたときが縄文時代にあたりますので、「縄文海進」(じょうもんかいしん)といわれています。その後、海面は再び下がっていき、現在の瀬戸内海の姿になっていきました。

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(76)“空海の叔父が創建したわが国最古の三間社流れ造り神社”

 7世紀半ばの大化の改新の頃から14世紀始めの建武の新政の頃まで、讃岐国の国司庁は現在の坂出市府中町の綾川がほぼ90°で蛇行する地域の西側にありました。ここから北に行くと、白峯山の西山麓の谷に神谷川という清流が流れています。そのうっそうとした木立の中に神谷神社(かみたに)という古い神社があります。
 太古、神々がこの谷に集い遊んだところからこの地を神谷というそうです。この附近からは弥生時代の石鍬・石斧・土器などが出土し、また本殿裏には影向石(ようこうせき)と呼ばれる巨石があり、神社創建以前から盤座(いわくら)信仰があったことを物語っています。
 この神社は、平安時代初期の弘仁3年(812)、阿刀大足(あとのおおたり)が社殿を創建し、併せて春日四神を相殿に勧請し祀ったといわれています。祭神は、火結命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おくつひこのみこと)、奥津姫命(おくつひめのみこと)です。阿刀大足は空海の母方の叔父で、桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講(講師)を務めるほどの大学者でした。少年時代の空海の優秀さをみて都へ連れて行き、大学に入学させるために儒学を教えた人物です。

 神谷神社の現在の社殿は鎌倉時代初期の建保7年(1219)に再建されたもので、現存する三間社流れ造りの神社建築としては日本最古のものです。昭和30年には国宝に指定されています。この社殿が再建された建保7年(1219)の2月13日(正月27日酉の刻)には、源実朝が鶴岡八幡宮の参拝を終えて降りて来たところを公暁(くぎょう)に暗殺されています。
 本殿は、高さ1.5メートルあまりの乱積(らんづみ)の基壇の上に建っており、正面6メートル余り・奥行4.7メートルの大きさです。その建築様式は、社殿正面の柱間が3つある「三間社(さんげんしゃ)」となっており、また前面の屋根が後方の屋根に比して長く流れて向拝となっている「流れ造り」です。屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」となっています。反りが豊かに流れる屋根、簡素な舟肘木や和様三ツ斗正面の板扉、角材の階段など鎌倉建築の様式をよく表し、乱石積の基壇とよく調和して荘厳かつ優美な姿を今に伝えています。

 神谷神社は、三ヶ庄(松山・林田)の総氏神として、五社大明神・青龍社とも呼ばれ、古来より郷人から崇められてきましたが、歴史の舞台にも顔を出しています。
 南北朝時代の貞治元年(1362)、南朝方の細川清氏は、現在の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋に城を構えて北朝方の細川頼之と対峙しました。その場所は神谷神社から少し北のところでした。このとき清氏は神号扁額を神谷神社に奉納しています。清氏と頼之はその林田の地で戦い(白峯合戦)、清氏は討ち死をしています。(なお、この物語について、36話「乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦」を参考にしてください。)
 室町時代中期の明応5年(1496)には、讃岐守護細川氏の家臣である香西元資が勧進して、安富氏ら讃岐在住の武士らが参加した神谷神社法楽連歌会が催され、神前で興行された連歌が奉納されています。

 白峯合戦のあった地から少し北のところに讃岐国の総社神社があります。総社は国司が毎年奉幣するため国内にある神社の神々を一堂に集めて祀った神社です。この神社の社殿は南北朝時代の嘉慶年間(1387~89)に兵火で焼失し、細川頼之により再建されましたが、戦国時代の天正年間(1573~92)に再び兵火で焼失し、江戸時代初期の慶長2年(1597)に新社殿が建立されたといわれています。この総社神社の歴史と比べても、神谷神社の社殿が約800年間存続していることは驚くべきことです。

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(75)“銭形平次でおなじみの寛永通宝の砂絵がある街”

 銭形平次は野村胡堂原作の小説「銭形平次捕物控」の主人公で、この小説を基に多くの映画やテレビドラマが作られています。この物語は、神田明神下に住む十手を預かる岡っ引の平次が、手下の八五郎を従え、卓越した推理力と行動力で犯人を探し出し、最後に得意の「投げ銭」で捕まえるという勧善懲悪ものです。
 平次が投げる銭は、寛永通宝という貨幣で、江戸時代の寛永3年(1626)に水戸の商人佐藤新助が幕府の内諾を得て初めて鋳造し、その10年後に全国通用貨となり、幕末まで流通していました。その形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されています。
 瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)に面する観音寺市の有明浜(ありあけはま)には、この寛永通宝の文字が描かれた砂絵があり、地元では銭形と呼ばれています。東西122m、南北90m、周囲345m、深さ2mもある日本一の大きさです。

 燧灘は瀬戸内海の中央部に位置し、香川県の荘内半島と愛媛県の高縄半島の間を占める東西約60㎞、南北約40㎞の四国側海域です。沿岸地域から火打石が産出したことからその名がついたといわれています。一帯はタイ、サワラ、カタクチイワシなどの好漁場として知られ、かつて沿岸には遠浅の砂浜海岸や干潟が多く見られました。しかし、高度経済成長時代、工業地造成のためにその多くが埋め立てられてしまいました。
 有明浜は燧灘に残存する貴重な自然海浜です。「有明」という名は対岸の尾道市千光寺山の宝珠の光が届いたことに由来するともいわれています。観音寺市の財田川の河口から北に江甫草(つくも)山まで延長約2キロメートルにおよぶ白砂青松の遠浅海岸で、ハマヒルガオ、ハナボウフウ等の海浜植物の群集があり、琴弾山から浜にかけての一帯は、名勝琴弾公園となっており、また瀬戸内海国立公園にも指定されています。

 銭形はすぐ東側にある琴弾山(標高約60m)の山頂からきれいな円形で見ることができますが、この山には観音寺市の発祥の基となった琴弾八幡宮が鎮座しています。
 今から約1300年頃前、この辺りは、財田川・柞田川河口の三角州の松原に小さな農漁村があるだけでした。観音寺の街がやや形態づけられたのは、奈良時代の大宝3年(703)、法相宗道場の住職日証上人が、琴弾八幡宮を建立した頃に始まります。その後、大同2年(807)、唐から帰朝した空海が聖観世音菩薩を安置し、寺号を観音寺と改めたと伝えられています。これが現在の市名となっています。そして平安時代から室町時代にかけて、観音寺・琴弾八幡宮の門前などで市が開かれるようになり、町場と湊が形成されていきました。今もある上市・下市・市口という町名は平安朝時代の名残だそうです。
 戦国時代には西讃を支配した天霧城主香川信之(之景)が今の殿町辺りに観音寺城(高丸城)を築き、弟の香川景全を置いています。この城は、豊田郡を統括する代官所的な存在だったようです。なお、豊臣秀吉の時代には、秀吉の与力坂丹波守が代官として赴任した際の居城となっています。
 江戸時代に入ると、生駒藩、山崎藩を経て丸亀京極藩の所領となり、元禄の頃には、漁業や海運業が盛んで、財田川河口の堪保(港)には御番所があり丸亀藩から番所役人が出張して来ていたといいます。

 銭形の由来については、寛永10年(1633)の生駒藩時代、藩主生駒高俊公が領内巡視をする際、それを歓迎するため土地の村人たちが一夜にして堀りあげたという伝承があります。しかし、寛永通宝が流通したのは3年後の寛永13年(1636)からであり、この伝承には疑問があるとされています。昭和37年編纂の観音寺市史によると、江戸末期の1855年頃、幕府が諸藩に沿岸警備の増強を命じたのを受け、丸亀藩が荘内と有明浜の2カ所に砲台を築造することになり、藩主京極朗徹公が来訪した際に普請奉行がその一興に供しようとするため掘らせたとされています。

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(74)“アートとテクノロジーの島”

 香川県の高松と岡山県の宇野との間の備讃瀬戸に宇高連絡船が就航していた頃、連絡船は宇野の沖にある直島の近くを通っていました。船から見える直島は禿げ山が多く、精錬所の島というイメージでした。ところが、この島が近年アートの島へと変貌しています。
 直島は、香川県高松市の北約13キロメートル、岡山県玉野市の南約2キロメートルに位置し、東西2キロメートル、南北5キロメートル、周囲16キロメートルの小さな島です。この本島を中心に、葛島、荒神島、寺島、家島、屏風島、牛ヶ首島、井島など27島が香川県直島町を形成しています。町の人口は約3600人です。島内には、フェリーの発着港を持つ「宮ノ浦」、戦国時代の海賊の城下町を原型とする「本村」、古くからの漁港である「積浦」という3つの集落のほか、北西部に三菱マテリアル直島精錬所の工業地帯があります。

 直島の歴史は古く、喜兵衛島製塩遺跡にみられるように、古墳時代から製塩集団が生活をしていたと考えられています。日本書紀の中にも、応神天皇が吉備(今の岡山地方)に行く途中で直島に立ち寄り、本村で何日か過ごされたという伝承が残されています。応神天皇はまず今の宮ノ浦に上陸し、いったん海岸伝いに南に出て、今の揚島(あげしま)で休憩し、積浦(つむうら)に上陸して桃山を越えて本村まで行ったといいます。
 平安時代末期には、保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐へ流される際に、3年間直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごされたといわれており、「直島(なおしま)」という地名も、上皇が島民の純真素朴さを賞賛して命名したという言い伝えがあります。
 戦国時代末期には、水軍の将である高原次利が八幡山に城を築き、城下町として町並みや寺院群、神社などを整備しました。次利は、豊臣秀吉に仕え、備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内を行った功績により1582年に男木島、女木島、直島の3島600石を与えられました。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵でも海上輸送で功績が認められ、関が原のときは東軍に味方して徳川の旗本となり、90年間直島を統治しました。しかし江戸初期の6代目の時に改易され、家系が絶えました。高原次利はキリシタンだったといわれています。
 高原氏の後、1671年、直島は幕府直轄領である天領となり、倉敷代官所の支配下に入ります。この時代は、瀬戸内の地の利を生かした廻船業(北前船)などや、製塩業の島として栄えました。水軍時代の技術を生かして全国、遠くは北海道まで出向いていたようです。また、天領であったため歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に認められ、島内外からの一座や観客で大変にぎわったそうです。とくに淡路島から伝わったという人形浄瑠璃の人気は高く、明治時代に盛況を迎えます。その後一時途絶えていましたが、第2次世界大戦後に女ばかりで演じる女文楽として甦っています。
 直島は、元は小豆島・豊島とともに吉備国・備前国の児島郡に属していましたが、幕末に高松藩の預かり地となります。明治元年(1868)に土佐藩預かり地となった後、倉敷県(現在の岡山県)に移管され、明治4年(1871)丸亀県の管轄を経て香川県の一部となりました。当時、備讃瀬戸の島々を香川県・岡山県のどちらに分類するかを決めるに際しては色々議論があったようです。結局桶を瀬戸内海に流して桶が流れた線で線引きすることで話しがまとまり、その結果、香川側に有利に桶が流れ、直島も香川県に属することになったといいます。この逸話の真偽は不明ですが、今もまことしやかに語られています。

 直島は農業には向かない地形で、古来より製塩業に始まり、漁業や交易で生計を立てていましたが、明治以降の我が国の近代化の中で次第に取り残されるようになりました。このような中、大正5年(1916)、三菱合資会社から銅製錬所の受け入れが打診されます。この頃、足尾銅山など各地で銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスによる煙害問題が起きており、三菱は煙害の心配の少ない離島を探していました。
 これに対して将来のことを考えた直島は製錬所を受け入れる決断をします。以降直島は三菱の企業城下町として発展していくこととなります。この精錬所は銅鉱石から銅の精錬、またその過程で生産される金・銀を生産し、現在でも、金(地金)は約5トン生産され東洋一を誇っているそうです。三菱合資会社は、現在の三菱マテリアルです。しかし、その代償も大きく、精錬所の煙害で島の北半分および周囲の島々の木々はほとんど枯れて禿山となってしまいました。

 しかし、直島の南側は瀬戸内海国立公園に指定された緑豊かな海岸が残されていました。そこで、直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった観光地にしようと観光開発を誘致します。最初に観光開発に着手したのは藤田観光でしたが、その撤退した後を受けたのが岡山の福武書店(現・ベネッセコーポレーション)です。ベネッセは、昭和62年(1987)に一帯の土地を購入し、平成元年(1989)に安藤忠雄氏のマスタープランによる「直島国際キャンプ場」を整備します。さらに「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」(現・ベネッセアートサイト直島構想)を発表し、平成4年(1992)には「ベネッセハウス」(現・ベネッセハウスミュージアム)の建設などへと事業を拡大させていきました。
 平成9年(1997)からは、直島に残る民家を修復・保存し、そこで現代美術作家が作品を制作・展示することで、古い民家の空間を現代に甦らせるという「家プロジェクト」を進めます。また、平成13年(2001)には、直島全体を舞台にそこでの人々の暮らしや歴史と深く関わる作品を創作・配置する企画展を、「スタンダード」展として始めて開催します。その後も、平成16年(2004)7月に地中美術館をオープンし、平成18年(2006)10月から「直島スタンダード2」を開催しています。
 このような取り組みにより、古い集落にもカフェや民宿等ができるなど徐々に変化してきています。また欧米などの高級リゾートホテル誌に取り上げられ、直島に来る外国人観光客が徐々に増えてきています。

 一方、直島では、東隣の豊島(てしま、香川県小豆郡土庄町)で発生した産業廃棄物の不法投棄問題から端を発して、産業廃棄物処理施設を総合的に整備する「エコアイランドなおしま事業」(循環資源回収事業)が展開されています。この事業は、直島町に蓄積された製錬施設や技術、人材等の既存産業基盤を活用し、これまで再資源化が困難であり、最終処分されていた廃棄物等を「都市鉱山」と位置づけ、これらから社会に有用な資源を回収するとともに、ゼロエミッションを目指し、広域的な循環型社会システムの構築に貢献しようとするものです。

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(73)“港町として栄えた城の無い城下町”

  江戸時代、讃岐には高松藩と丸亀藩がありましたが、もう一つ丸亀藩から別れた多度津藩という一万石の小藩がありました。
 多度津はその名のとおり、古代、多度郡の津(港)があったところで、奈良時代の末頃、和気氏が堀江浜に港を設けたと伝えられています。中世においては香川氏が多度津本台山(ほんだいさん)に居館を置き、その詰の城(つめのしろ)として天霧山に城を築きました。香川氏は相模国香川庄(現在の茅ヶ崎市)出身の関東武士で、室町時代の初め細川頼之(よりゆき)に従い讃岐に来たといわれています。以来、多度津は約200年余年の間、香川氏の城下町として西讃岐の中心でした。しかし、香川氏は土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に際してその軍門に下り、さらに豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部氏とともに土佐に退き、天霧城も廃城となりました。

 その後、多度津は生駒藩、山崎藩、京極藩の領地となりますが、江戸時代の元禄7年(1694)、丸亀藩二代目藩主の京極高豊のとき、その子の高通が1万石を与えられて分家したことにより多度津藩が成立しました。その所領は、現在の多度津町全域及び善通寺市と三豊市(三野・詫間・高瀬・財田)のそれぞれ一部です。しかし高通から第三代藩主までの多度津藩主は丸亀城郭内に屋敷を構えて居住し、多度津には重臣をおいて藩政を任せるという中途半端な存在でした。
 このような状態から脱し、多度津藩独自の決定を行うことができるようにするため、第四代藩主京極高賢(たかかた)は、家臣の建議を受け入れ、多度津に陣屋を建設することを決断します。陣屋とは、城の築造を許されない大名の屋敷で、防御の備えはあるものの天守閣や大規模な櫓・掘・城壁を持たないもののことです。
 文政9年(1826)に工事に着手し、莫大な資金と多くの労力を費やして完成した陣屋に高賢が入ったのは同12年6月でした。この陣屋は東西約700m、南北約200mにわたる地域を占め、居館、倉庫、営門、皷楼、学館、馬場、射場などの外に外郭と外門濠を構えた立派なものでした。多度津藩は創設以来150年にして、ようやく独立した陣屋を持つことができました。

 さらに、天保5年(1834)第五代藩主高琢(たかてる)のとき、多度津藩は湛浦(たんほ)(港のこと)の建設に着手します。この頃、桜川の港は金毘羅参詣船や北前船の出入りで狭隘になっていました。先に完成していた丸亀湊の新掘湛浦が東西80間、南北40間、入口15間であったのに比べ、多度津の新湛浦は東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央の防波堤(一文字突堤)120間、港内106間という大規模なもので、約5か年の歳月と6200両に余る大金が投じられて完成しました。
 西讃辺りでは、絶壁頭の人を“多度津の殿さん”といいますが、これは“うしろ(後ろ)が無い”をしゃれて、“しろ(城)が無い”をからかったものです。しかし、城にかわるこの湛浦の建設によって、その後、多度津は中国地方や九州・上方、遠くは江戸方面から金毘羅参詣客の上陸地、また北前船の寄港地となり、港町として発展していきました。

 「金比羅参詣名所図会」には当時の多度津の繁栄ぶりが次のように記されています。
 「この津は円亀に続いての繁昌の地なり。原来波塘の構えよく、入船の便利よきが故に湊に泊まる船おびただしく、浜辺には船宿、旅籠屋建てつづき、あるいは岸に上酒、煮売りの出店、うどん・そばの担(にな)売り、甘酒、餅菓子など、商う者往来たゆる事なし。そのほか商人、船大工等ありて、平生に賑わし。かつまた、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。その都合よきをもってここに船を待たせ参詣する者多し。」

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(72)“砂糖と醤油で栄え、我が国で初めてハマチ養殖に成功した町”

 大坂湾から船で西に進み明石海峡を抜けると瀬戸内海の播磨灘(はりまなだ)に至ります。ここは、東西南北を、それぞれ淡路島、小豆島、四国、本州で囲まれた瀬戸内海東部の海域です。ここには現在でも近畿地方から中国地方・四国地方・九州地方方面への重要な航路が横断しています。
 播磨灘に面する市町村は、淡路島側に兵庫県の3市(南あわじ市・洲本市・淡路市)、本州側に兵庫県の7市1町(明石市・播磨町・加古川市・高砂市・姫路市・たつの市・相生市・赤穂市)、小豆島側に香川県の1町(小豆島町)、四国側に香川県の2市(さぬき市・東かがわ市)と徳島県の1市(鳴門市)があります。

 播磨灘に面する東かがわ市引田町は香川県の一番東端にある町です。引田湾に突き出た標高82mの半島が北西の風を防ぎ、天然の良港となっていました。このためこの地は室町期から江戸期を通じて港町として物資の集散地となり、日用品や穀物・紙・綿などを扱う商家が軒を並べ、町は活気にあふれていました。
 この地方は干ばつの被害が大きいため、江戸時代、高松藩主が稲作にかえて砂糖黍の生産を奨励しました。それにより、この地方ではサトウキビの栽培や製糖法が生み出されました。これが今、引田の特産品となっている「三盆糖」です。糖業の隆盛とともに豪農があちこちに出現し、門構え、白壁の練塀を巡らした豪邸が多く建っていったといいます。しかし、明治期に急激に衰退しました。
 また、この地方は古来より、良質の塩の産地でした。引田の塩造りは、藻塩焼、自然浜の時代を経て揚浜式塩田へと発展し、生駒親正が讃岐の領主になってからは、殖産業として塩業を振興し、塩屋から安戸浜さらに松原浜へと広がり、安戸には塩庄屋が置かれるほど発展しました。
 この良質の塩と海運の便を生かし、引田では元禄の頃に醤油の醸造が始まったといわれています。元録11年(1698)に原料の小麦・大豆を備前と高松で大量に買いつけ、引田浦で荷揚げしたことが藩への届出に残っているそうです。その後、引田の醤油屋は米屋、井筒屋の2軒が順調に発展し、池田屋、花屋も創業し、寛政末(1790)から文化・文政期(1804~29)にかけて急速に発展しました。
 町中には大庄屋といわれる日下家、醤油屋の井筒屋(佐野家)と岡田屋(かめびし屋)の岡田家などの、かっての御三家がそのまま残っていて、古い伝統的な商家が軒を連ね、白壁の土蔵、白壁の土塀など江戸時代の景観を残しています。

 また、引田の安戸池(あどいけ)は我が国で初めてハマチの養殖に成功したところとしても知られています。引田の網元の三男として生まれた野網和三郎(1908(明治41年)~1969(昭和44年))は、1927年(昭和2年)から安戸池でかん水(海水)による養殖実験を開始しました。当時は、魚の養殖といえば、ウナギやコイといった淡水魚に限られていて、海の魚を飼うなどというのは人知を超えることと笑われた時代でした。
 和三郎は試行錯誤の末、1928年(昭和3年)ハマチの餌付けに成功し、本格的なハマチ養殖事業を開始します。その後、香川のハマチ養殖は順調に伸び、今では全国屈指の生産量を誇ります。ハマチは、成長するにつれて、モジャコ、ツバス、ハマチ、ブリと名前が変わる出世魚としても知られ、香川県の県魚にも指定されています。

 砂糖については、(41)「和三盆のふるさと讃岐」をお読みください。
 また、引田は江戸時代の科学者である久米通賢の生誕地です。このことについては、(58)「伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学者で塩田の父」をお読みください。
 さかのぼって、戦国時代、引田で豊臣秀吉と長曽我部元親の戦がありました。このことについては、(13)「賤ヶ岳の合戦があった同じ日に讃岐であった合戦」をお読みください。
 なお、引田の西隣りの白鳥には、白鳥神社という大社があります。このことについては、(19)「讃岐に残る日本武尊の白鳥伝説」をお読みください。


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