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(71)“讃岐を訪れていた大塩平八郎”

 大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、江戸時代末期、貧民救済をかかげ幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力(よりき)としてよく知られています。号は中斎と称します。平八郎は天保6年(1835)、讃岐多度津藩の元家老だった林良歳(りょうさい)を訪ねて、多度津に来ています。

 平八郎は、寛政5年(1793)1月22日、大阪町奉行所与力の子として大坂天満に生まれました。大塩家は禄高200石の裕福な旗本でした。しかし、幼くして父母を失い、祖父母に育てられます。14歳のときに与力見習として出仕し、26歳の時に東町奉行所の正式の与力となります。「与力」は今で言う警察機構の中堅というほどの職位です。
 平八郎は与力として不正の摘発に活躍しますが、学問研究にも励み、学者としても評価を得ていきました。天満にあった自分の屋敷で洗心洞塾を開き、多くの与力や同心、医師や富農にその思想を説いています。その思想は中国の王陽明の考えを支持し、「よいと知りながら実行しなければほんとうの知識ではない」という知行合一の立場です。
 天保元年(1830)38歳のとき、平八郎は養子の格之助に家督を譲り、与力を引退して、洗心洞での門人の指導に専念します。

 林良斎は文化5年(1808)、多度津京極藩の家老の家に生れました。平八郎より14歳年下です。通称を直紀といい、良齊は号です。また自明軒とも称していました。良斎は父の後を受けて多度津藩の家老となりますが、病弱のため甥の三左衛門に家督を継がし、天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎について洗心洞で陽明学を研究します。
 その年の秋、平八郎は良斎を訪ね多度津に来ています。良斎は「中斎に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。
 「先生は壯(良斎のこと)をたずねて海を渡って草深い屋敷にまで訪問しました。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきます。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないと憂慮します。このとき、じっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて壯の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がりました。」
 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。

 しかし、平八郎と良斎が親交を重ねていた頃には、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達していました。
 天保7年(1836)、大坂にも飢饉が蔓延し、街中に餓死者が出る事態となりました。しかし、豪商らは米を買い占めて暴利を得る一方、町奉行は窮民の救済策をとる事もなく、米不足にもかかわらず大坂の米を大量に江戸に回送するという有様でした。
 これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行いますが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと決意し、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政の刷新を期して、門人、民衆と共に蜂起します。これが有名な「大塩平八郎の乱」です。この行動は平八郎の説く知行合一の思想からすれば当然の帰結だったのでしょう。
 しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられたため、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。天保8年3月27日(1837年5月1日)、明治維新の30年前のことです。平八郎父子は爆薬で自殺したために顔や体の形がよくわからないということもあって、生き延びたといううわさも当時はあったようです。多度津でも、平八郎は多度津に逃れてきていたという話がまことしやかに地元の人の間で今も語られているそうです。

 良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。また、39歳の秋にはかねてからの念願であった読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。その塾は「弘浜(ひろはま)書院」と名付けられ、藩の多くの子弟がそこで学び、彼らは明治に入ってからも活躍しました。良斎は陽明学者としては、本県初の人だと言われています。平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(70)“十七人のうち四人も人間国宝を輩出した讃岐漆器の技”

 漆器(しっき)は、木や竹などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品です。英語で漆器はjapanと呼ばれたことからも判るように、欧米では日本の特産品とされています。
 香川の漆器は、江戸時代に藩主の保護と奨励のもと発展しました。寛永15年(1638年)、松平頼重が高松に入封し、漆芸や彫刻技法を奨励しました。以来、高松藩主は茶道・書道に付随して漆器づくりを奨励し、讃岐の漆器が芽生えました。幾人もの名工のなかでも、注目されるのは後に香川漆器の始祖として、後世に多大なる影響を残した 玉楮象谷(たまかじぞうこく)です。

 象谷は、江戸時代後期の文化3年(1806年)、高松城下磨屋町(とぎやまち)の鞘塗師(さやぬりし)、藤川理右衛門の長男として生まれ、幼いときから父に技法を学びました。20歳で京都へ遊学し、塗師、彫刻師、絵師らと交友を深め、やがて、中国の明時代や東南アジアの漆芸技法を幅広く研究し、そこに日本古来の漆芸技法を加味して、存清(ぞんせい)、蒟醤(きんま)、彫漆(ちょうしつ)の漆芸技法を開発しました。
 高松藩の松平頼恕(よりひろ)・頼胤(よりたね)・頼聡(よりとし)の3代の藩主に仕え、今日の香川漆器の基礎となるさまざまな漆芸技法で、数多くの作品を残しました。この功績により象谷は香川漆器の始祖と呼ばれています。明治2年、64歳で亡くなりました。
 象谷の代表作には、「一角印籠(いっかくいんろう)」、堆黒の「松ヶ浦香合」、存清の「古鏡箱」、堆朱の「鼓箱(つづみばこ)」、彩色蒟醤の「料色箱並びに硯箱」があげられます。
 また、高松藩の町奉行の子に生まれた後藤太平は、渋味のある漆塗柄を研究し、下絵についた塵の文様にヒントを得て、のちに「後藤塗り」と呼ばれる新しい漆芸技法を創案しました。
 
 これらの先駆者によって開発された香川の漆芸の伝統は、明治以降も継承・発展し、漆芸分野で人間国宝(無形重要文化財)に指定された工芸家は、現在まで全国で17人ですが、このうち4人までが香川漆器の工芸家です。すなわち、彫漆の故音丸耕堂(1898~1997)と、蒟醤の3人すなわち故磯井如真(1883~1964)、磯井正美(1926~)、太田儔(ひとし)(1931~)です。現在も2人の人間国宝が活躍中で、この2人を筆頭に、数多くの漆芸作家および香川漆器職人が、その技を現代に伝えています。
 高松を中心にした香川の漆器の技は高く評価されており、今でも北海道から沖縄まで販路が広がっています。

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(番外2) 金毘羅参詣続膝栗毛


金毘羅参詣続膝栗毛 初編序
 予、若年の頃、摂陽浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したりしが、秀異勝景の地多くして、その感情、今に想像するに堪えず。
 されや、この膝栗毛、去年、八編に笔(ふで)を止(とど)むるといえども、書肆(しょし)、常に予が金毘羅信仰のことを知るが故に、せめてその紀行の巻きを編(あ)めよと投(すす)む。
 予、彼の地理行程のあらましは知得したれど、土人の通言、すべての風俗に疎ければと、固辞すれども、再三のせめを防ぎがたくて、ついにこの二巻を編(つづり)出せり。
 ここにおいて書肆(しょし)また曰く、諺(ことわざ)に毒くわんものは皿までといい、露を厭(いと)えるものは、その濡れざるさきにこそと、ものの譬(たと)えにいえるがごとく、膝栗毛もまたそれに(ひと)しよって、八編までを限り一編とし、この書を続膝栗毛初編と新たにものして、彼の騒客(そうきゃく)が東都に帰着せんまでを編(あ)めよという。
 予、曰く、そは阿漕(あこぎ)の網の譏(そし)りに遭うべし。唯、この巻を限りとするにしくべからず。
 書肆(しょし)のいう、もの始めありて終わりなきことなし。册中の両士伊勢参宮より花洛(きょうらく)大阪にいたりて、その皈(かえ)る所なきは、かの龍頭蛇尾の筆作にして、視る者、不快の書というべし。
 もとより戯作のかばり編数を累(かさ)ね出せるものは他に例なし。撰者の幸甚すくなからずとせずや。事を曲げて、ものに乗ずるも、また得失のさかいなればと、強いて投(すす)むるにいなみがたくて、この次岐蘇道中の紀行を約して、既に後(しりえ)にその標題をおくにいたる。
 されど、予が螻才(ろうさい)の筆力こころに任(まか)せず趣向学(みな)糟粕(そうはく)となりたれば、覚束(おぼつか)なし。ただ、家職のためにのみものする歟と、見給わんも、面目なきことにこそ。

  文化庚午春
            東都逸民  十返舎一九 誌


         金毘羅参詣続膝栗毛
  目次
一、浪花
二、浪花から室津までの船中
三、室津
四、室津から丸亀までの船中
五、丸亀
六、餘木田の郷
七、榎井村
八、金毘羅
九、善通寺
十、弥谷
十一、多度津



   一、浪花


 そもそも讃岐国象頭山金毘羅大権現と号し奉(たてまつ)るは、霊験あらたにましまして、(祭神未詳、あるいは云う三輪大明神、また云わく素盞鳴尊(すさのおのみこと)、また云う金山彦命)およそこの日の本に、これを信念拝仰(はいこう)せざるはなく、唐人(もろこしびと)も降神観(こうじんかん)といえる額をたてまつりし、和漢普通神力妙用(わかんふつうしんりきみょうよう)のおん神なり。

 されば諸職の業(わざ)に長ぜんと、裸参りの元手入らずに、祈るをもあわれとみそなわし、酔い倒れの酒断ちて、呑みたしと思うをも咎(とが)め給わず。あるは、瘡(かさ)かきのむさくろしき、襦袢(じゅばん)のみ着たるをも無礼と怒り給わず。あるは、船中の奇難まぬがれし報謝(ほうしゃ)にとて、髷(まげ)ぶしを切り捧ぐるをもきたなしと捨て給わず。されど、その堪えざるに至りては、神罰を蒙る事矢よりも早く、鉄砲玉よりもすみやかなり。

 この故に、不知火(しらぬい)の筑紫、雲井路の奥深きよりも、海陸の艱苦(かんく)をしのぎて、参詣帰伏するもの絶えずとかや。

 ここに、弥次郎兵衛・北八なるもの、伊勢参りの刷毛(はけ)ついでに、浪花長町に来り逗留し、既に帰国の用意なしけるところに、相宿(あいやど)に野州の人の由、(名は五太平)泊り合わせたるが金毘羅参詣に赴くとて、一人旅なれば、この弥次郎・北八をも同道せんと勧むるにぞ、両人幸いのこととは思いながら、路用金乏しければと断わりたつるを、かの人聞きて、その段は気遣いなし、もしも不足のことあらば、償わんとの約束にて、讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、

五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

船頭「左様じゃわいな。」

五太平「そんだらハァ、許さっしゃりまし、ここの施主殿に会いますべい。わしどもハァ、金毘羅様へ行ぐのだが、船賃サァいくら積んだしますべい。」

船宿の亭主「ハイ、おいくたり様じゃな。」

五太平「三人同志でござる。」

船宿の亭主「ハイ、お一人前、船賃雑用とも、拾八匁(じゅうはちもんめ)づつでござりますわいな。」

五太平「あんだちぅ、ソリャハァでこ高いもんだのし、ちくとまけさっしゃい。」

船宿の亭主「イヤ、これは定値段でござりますさかい、どなたもさよじゃ。ハテ、高いもんじゃござりませぬわいな。船中というものは日和次第で、何日かかろやら知れんこともあるさかい。」

五太平「それだァとってむげちない、主(にし)達ゃァあじょうするのし。」

弥次郎兵衛「ハテ、お前(おめぇ)、定値段といやぁ如才はあんめえ。」

五太平「あるほど、金毘羅様へ心ざしだァ、あじょうすべい。」

 と、打ちがえより金取り出し、船賃を払う。弥次郎・北八も同じく払いて、

北八「モシ、船はどこから乗りやすね。」

 船頭は讃州者

船頭「浜へ下りさんせ。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、一気に出(づ)るわいな。サアサア、皆連(つ)んのうてごんせ、ごんせ。」

 と、このうち、船には、がたひしと揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえ、苫(とま)を吹きかけると、水子(かこ)どもは布団、敷物、何かをめいめいに運び入れると、船宿の店先から勝手口まで居並びたる旅人、皆々うち連れて、だんだんと、その船に乗り移る。

商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり。」

菓子売り「菓子んい、んかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」

上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」

船頭「皆、船賃サえいかいネヤ、コレ、そこの親がたち殿、えっとそっちゃのねきへついて居ざらんせ。」

五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい。」

 と、人を跨いで向こうへ座る。弥次郎・北八も同じく座ると、

遠州の人「エレハイ、どな達も胡座(あづ)組みなさい。乗り合いだァ、お互いにけけれ(心)安くせずにャァ。時に船頭どん、船はハイ、いづ出るのだャァ。」

船頭「いんま、あただ(急)に出(づ)るわいの。」

船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。コレハあなた方、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、いてお出でなされませ。」

 と、もやい綱を解きて、船へ放り込むと、船頭共竿さして船を廻す。このうち、川岸通りには時の太鼓、「どんどん、どどん」。

按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」

 夜回りの割竹、「がらがら、がらがら」と、このうち船はだんだんと下へさがる。


   二、浪花から室津までの船中


北八「もう四ツだそうな。今夜はなんだか、ごうてきに暑い晩だ。モシ船頭さん、日和はどうだね。」

船頭「へばり東風(こち)で日直るネヤ。」

北八「ドレ、少し覗いてみよう。」

 と、苫(とま)を押し開き顔を差し出すと、霧雨が顔にかかるを拭き拭き、

北八「何のこった、雨が降らァ、しかしなま温かで悪かったが、こぬか雨の顔にかかる心持ちは、どうもいえねえ、奇妙奇妙。」

弥次郎兵衛「とんだ嘘をつくぜ。今まで星だらけでいたものを、ナニ降るものか。」

 と、言いつつ、苫を押し開けて覗く。

北八「ソレ、降るだろう。おいらが顔はびっしょりと濡れくさった。」

弥次郎兵衛「ははははは、ナニ雨なものか、空を見さっし。」

北八「ホンニナァ、それでもおいらが顔にかかったのはなんだ。」

弥次郎兵衛「それか、アレ風上で小便をしているから、手前(てめぇ)の顔へその飛沫(しぶき)がかかるのだ。」

 と、言われて北八はっと思い見れば、この船中の旅人、船端にて小便している。北八は風下なるゆえ、その小便顔にかかりたるなれば、たちまち腹を立てて、

北八「エエ、このべらぼうめ、なぜ人の面(つら)へ小便しかきやァがった。」

 と、大きな声すると、かの男はちゃっと苫の中へ入る。北八いよいよ熱くなり、

北八「ええ、いめぇましい、どいつだ。イヤ貴様だな。」

 と、この船は諸国の人の乗り合い、あてずっぽうの北八に、胸ぐらを取られし人は上総の人、

上総の人「いちゃ知らね、この人(ふと)だんべい。」

 と、その隣に座っている人を教ゆる。この人は越後の者、

越後の者「コリャ、てっぺいもないことんし、そんなあたけた事は言いめさるな。」

 と、北八が掴みついたる手を振り放せば、北八またむしゃぶりつくを、船中皆々押し留める。この騒ぎに、乗り合いの煙管の吸い殻落ちて何やら燃ゆる。

船頭「何ちゅうさんすやかましい。そしてネヤ、えらけぶら臭いがな。」

越後の人「ホンニハァ、ひな臭い、ひな臭い。」

船頭「ソレソレ、江戸衆の雨羽折(あまはおり)ナゥ、けぶるがネヤ。」

弥次郎兵衛「イヤ、こりゃとんだこった。北八、合羽(かっぱ)が燃えらァ。」

北八「どれどれ」

 と、肝をつぶしもみ消す。

弥次郎兵衛「エエ、これだから手前(てめぇ)に貸すめぇと言ったに、ろくな事はしねぇ。こっちへよこさっし。いめぇましい男だ。」

 と、大きにふさぎ、貸した合羽をひっ取り、焼穴を恨めしそうに見て著る。この騒ぎに始めの喧嘩それなりにしまい、大勢の中で北八の借り着したがあらわれ、しょげりかえっている。乗り合い皆々くつくつと笑う。弥次郎兵衛もおかしさこたえられず、

  火のようにおこりたったるいさか ひのはては合羽に焼どまりたり

 この一首に、船中いよいよ大笑いとなりたるに、ほどなく船は、はや木津川口に至れば、夜も子(ね)の刻ばかりになりぬ。

 ここに風待ちして夜明けなば、乗り出ださんと、船頭・水子もしばらく休息のていに、船中もひそまり、おのが様々、もたれ合うて居眠るもあり。あるいは肘枕あるは荷物包ようのものに、頭をもたせて打ち伏しけるが、やがて、寅の刻にもやあらんと思う頃、船頭・水子どもにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱引き上げなどして、今や沖に乗り出でんとする様子に、船中皆々目を覚まし、船端に顔差し出し、手水使いて象頭山の方を伏し拝む。

弥次郎・北八もともに遙拝して、

  腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船

 かく興じつつ船出を寿(ことぶき)、彼これうち語るうち、早くも沖に走り出し、船頭がヨウソロ、ヨウソロの声勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るごとく、はや日の出でたる頃は、兵庫の沖にぞ到りける。(大坂よりこの所まで十里)

 ここにて四方を見渡せば、東の方に続き、甲山(かぶとやま)、摩耶山(まやさん)、丹生のやま、鉄塊(てっかい)が峯なんど目前に鮮やかなり。

  仙人の住むかは知らず霞より 吐き出したる鉄塊が峯

 また、陸地(くがじ)には西の宮、御影(みかげ)、神戸、須磨なんどいう、浦々里々見渡されて、眺望の景色はいうばかりなし。和田の岬、烏(からす)岬といえるを廻る頃は、牛の刻ばかりなん。このとき、にわかに風変わりたりとて、帆綱引き換え、楫(かじ)取り直し、真切走りということをなして走るほどに、船中には野州の人、船に酔いたるにや心もち悪しきとて、色青ざめ、鉢巻きして、

野州の人「アァアァ、てきないこんだァ。主(にし)達ゃハァ、あんでも薬さァ持ち合わせがあんべいから、ちくと下さい。コリャハァ、おそがいこんだァハァ。」

弥次郎兵衛「どうぞしなさったか。北八、手前(てめぇ)薬はねえか。」

北八「ありはあるが、火傷の薬じゃァわりいか。」

弥次郎兵衛「とんだことを言う。モシおめえ方ァ、何ぞ薬は持ちなさらんか。」

越後の人「ヤイ、しんぜますべいか。コリャナ船に酔いおったどもには効かない薬だが、よくござるか。」

弥次郎兵衛「効かねえとって、何という薬だね。」

越後の人「わし、喜世留(けせる)ナァ、つんみがくべいとって、大坂でナァ、買って来おった真鍮みがきだァむし。」

野州の人「コリャハァ、うらァ、うっ死(ち)ぬべいかもしれない。切ない、切ない。どうぞ、北八様この額(ふたい)を打(ぶ)って下さい。」

北八「エエ、とんだお役を言いつけるの。ソレ、こうかこうか。」

野州の人「アァアァ、むげちない(情けない)ことだァ。やかましかろが、湯サァふとつ(一つ)、もらって下さい。」

弥次郎兵衛「オイオイ、もし船頭さん、湯が一つもらいてえの。」

船頭「あんちゅう言わんす。東南風(おしやばへ)が西北風(あなぜ)になったネヤ。お前(まい)達の命より身が当(みがとう)は船が大切ないネヤ。」

弥次郎兵衛「ホンニコリャ、ごうてきに船が揺さぶる。」

乗り合い「えらい風じゃ、船頭さん、コリャどうじゃいな。」

船頭「どうまれこうまれ、金毘羅さんノウ、信心さんせ。コレナ和佐七、すったり帆ノゥ下げんかい。」

水子「エイコリャ、帆綱ノゥ離すな。サアサア親方、コリャ楫がどうもならんわい。」

 と、船頭・水子は真っ黒になって働く。風は次第に強く、浪煙にて辺りも暗くなり、小山のごとき大浪、折々、船の中へ打ち込むにぞ、乗り合い、皆々夢中となり、ころげ回りて、こま物見世をいだし、手足も体もにっちゃくちゃと、その臭いの悪さにこみ上げこみ上げ、各々生きたる心地はなく、弥次郎・北八もかかる目に遭うは初めて、土気色になってうろたえ出し、

弥次郎兵衛「コリャもう、北八、かなわぬ、かなわぬ。エエ、どうぞ仕様はあるまいか。」

北八「どうと言ったら、南無南無、金毘羅さま、金毘羅さま、どうぞお助けなされて。」

弥次郎兵衛「ソレソレ、わたくしは、好物な酒を一生食べますまい。お助けなさって下さりませ。南無金毘羅さま、南無金毘羅さま。」

五太平「アァウゥ、アァウゥ、うらァ、コリャもう往生します。アア切ない、先へ往ぎますべい。主(にし)達ゃァ後からござれ。」

弥次郎兵衛「エエ、後から往ってたまるものか。心細いことを言う。しかしこれじゃァ助かるめぇ。北八、手前(てめぇ)、ひょっと助かったなら、俺が形見に伊世吉へ二朱と一本(いっぽん)に置いた袷がある。あれを出して着さっし。」

北八「ソリャァありがてぇが、それよりか、お前、一分(いちぶ)にかおいた棧留(さんどめ)の布子(ぬのこ)を、俺にくんねぇな。」

弥次郎兵衛「イヤ、あれはならねえ。俺が大事の一張羅(いっちょうら)だ。」

北八「ナニ今死ぬ者が、やられぬもおかしい。」

弥次郎兵衛「ヤアそんならやるぞ。ホンニお馴染みの大山不動明王、帰命頂礼(きみょうちょうらい)帰命頂礼、イヤありがてぇ。向こうへ来るはたしかに助け船だろう。オオイ、オオイ。」

北八「オオイ、オオイ、助け船、助け船。」

 と、声をからして呼びわめく。この難風を見かけて、小舟一艘に六丁の艪をおし立て漕ぎ来るは、大坂より下の関などへ行く相場知らせの舟なり。かかる時をもかまわず、血気盛んの船頭ども向鉢巻きに大汗を流し、「オットウ、ヨウソロ、オットウ、ヨウソロ、ヨウソロ。」

弥次郎兵衛「オオイ、オオイ、頼みます。頼む頼む。」

北八「オオイ、どうぞ助けて下され頼みます。これだこれだ。」

 と、両手を合わせて涙ながら呼べども、いっこうに見向きもせず。かかわり合うては遅くなる故、委細かわまずさっさっと漕いで行く。

弥次郎兵衛「エエいめぇましい奴らだ。コリャもう北八、意気地はねえぞ。こんな悲しいことはねえ。ワァイ、ワァイ。」

北八「しかたがねぇ。これまでの寿命だろう。ワァイ、ワァイ。」

 と、泣き沈み夢中になりて、急なときの神頼みと、無性に神仏の御名を唱えて、かきつくように祈りいたるが、

 折りしも風ようやく穏やかになりて、鞍掛島(くらかけじま)、家島なんどいえる島々の見ゆるは、室の津より一里ばかりも手前にて、この辺りすべて怪巌奇石ども多く、風景殊に見所あれど、かかる難渋に空しく打ち過ぎたりしが、やがて平山の上に燈籠堂の見ゆるを、あれこそ室の湊なりと、船中各々蘇生(よみがえり)たる心地して、互いに無事を寿合い、船頭・水子も勇み立ちて、息つぎ敢えず湊口にぞ入りたりける。(大坂よりこの所まで三十里)

 ここにて皆々手洗い、口漱(そそ)ぎて、象頭山の方を拝み奉る。


   三、室津


 はや夜に入りたれば、船頭ども提灯を灯し、そこらとり片づけるうち、弥次郎は野州の五太平が伏しいるを揺すりて、

弥次郎兵衛「コウどうだ、船が着いた。サアちっと起きなせぇ、起きなせぇ。」

 と、揺すり起こせど、正体無し。これはどうだとよくよく見れば、顔の色変わり、手足も冷え固まりて、いつの間にかは、事切れたるていに驚き、

弥次郎兵衛「ヤァコリャ、死んだそうな。」

北八「ナニとんだことだ。ドレドレ、ほんにいつの間にやら、てこねられた。大変なことだ。コリャどうしたもんだろう。」

 と、うろたえ騒げば、乗り合い皆々肝をつぶし、いまさら薬よ水よとたち騒ぎ、いろいろと介抱すれども、いっこうにかただよりなれば、船頭ども呆れ果てて、

船頭「コリャたまがる。おろよい(悪い)事をしたわいの。」

乗り合い「ハテ定めて、じゅつなかったじゃあろのに、いんまの騒ぎで、誰も知らなんだ、いとしいこっちゃ。こないに一つ船に乗り合わせたも他生の縁じゃ。皆回向(えこう)してやらさんせ。」

越後の人「コノ人(ふと)も国どもにゃァ、御りょん(女房)や、ぼらっ子(子供)もあんべいに、よっぱらかん(久しぶり)で会うべいこともならなくなった。めごい(むごい)事をしたことんし。

乗り合い「時にこないにしてもおけんわいな。お前方二人でどないぞ弔うてやらんせ。」

弥次郎兵衛「ナニわっちらが、どうするものか。」

船頭「イヤネヤ江戸の衆(しゅ)が、連(つ)んのうて来てじゃないか。」

北八「ナニおいらァほんの道連れで、この人がどこの馬の骨か牛の骨か、知りもしねえものを。」

乗り合い「サイノ、道連れか何かこちゃ知らんが、お前方三人連れじゃと言わんしたじゃないかいな。この仏どうなと取りおいてしまわんせにゃ、船中そうぞうの難儀じゃ。ハテ難しい事はないわいの。往来の手形があるじゃあろ。懐中物あらためて見やんせ。」

 と、このうち弥次郎、かの五太平が風呂敷包、懐中の紙入れなどあらため見るに、往来の手形らしき物は見えず。ただ、着替え二ツばかり、金は二両あまり所持したり。

乗り合い「コリャ手形が無うては難しい。したが、金さえ有りゃどうなとなろぞいな。」

北八「どうするとって、おいらが知るものか。コリャァこの船に乗せて来たからは、船頭殿の承(うけたまわ)りだ。どうとも勝手にするがいい。」

船頭「イヤほてぶとい衆(しゅ)じゃないか。身が当(みがとう)は、いろわぬ(かまわぬ)、いろわぬ。」

乗り合い「コリャお前方が無理じゃわいな。死なれた人が一人旅でかかり合いの無い人なら、いやとも船頭殿が、とりおきせにゃならんけれど、道連れにせい何じゃあろと、問屋の帳面にお前方三人連れと、つけさしゃったじゃないかいな。」

弥次郎兵衛「それだとって、おいらばかり被る理屈はねえ。馬鹿なつらな。」

 と、真面目になって張り込むと、この船に西国方のお侍、髭むしゃくしゃと、でっぷり肥えた顔色の怖ろしき人、やっきとなり大きなどす声にて、

お侍「コリャコリャ、わごりょ達は、この者をおこずって来居りながら、これしころあれしころ(彼是)と不理屈ども言うて、いか(法)だすまんぞ。船中ども皆さぶけさんがい(迷惑)じゃ。コリャ船頭、かやつ共にこの死人どもか(負)るふせて、放け出せ。コナ没落共めが。」

 と、このお侍目に角立てて、もってのほかにやかましく言うにぞ、乗り合い皆々これをなだめて、弥次郎・北八にとくと訳を言い聞かすれば、両人せんかたなく、この湊のうちに寺を頼み、葬らんと相談し、船頭にかれこれと聞き合わせて、まずまず寺を頼み来らんと、迷惑そうに両人は船より上がる。

 さて、この室の津は、西国諸侯方の船出し給う所にて、播州一箇の繁昌の地なれば、商家みな土蔵づくりの軒を並べて建ち続けり。

 弥次郎・北八は、うかうかと寺ある方を尋ね探して行くほどに、小の町という中程より、右の方の横町に入たるに、格別ここは往来賑わしく、両側に三味線引きたて唄うを聞けば、

唄「うらのエー、うらの山椒の木に、百舌が巣をかけ何と言うてさえずると、立ちより聞けば、君にきんくる、きんくる、きんくる、くるくるまったかりんとなく、一さい見たかりんとなく、あしき入道は入道、くるまの中の輪入道、さっさびっくりたらりんしょんがえ、しょんがらりん、ほくとくりんと囀る鳥はへ、シッチョ、シッチョ。」

北八「なんだか、騒々しい所だ。いや、女郎屋だそうな。こいつはおつりき、おつりき。」

弥次郎兵衛「ホンに、たぼどもがひらつくわ。チト冷やかしてやろう。」

 と、たちまち浮かれてそこら見歩くに、遊女屋はさすがに格子づくりにて、入口のうち通い庭のかたを開けて、遊女ども庭に向かいて、並び居る様、衣装なんどいたって、粗相に見えたり。芸子らしきが三味線箱を持たせて走り行く。向こうより客と見えて大の男、大縞の広袖着たるが、手拭を襟にまき、少女に手を引かれて、うかれ来り、かの芸子を見かけて、

大の男「ヤヨ田島屋の駒吉どもな、こやつむぞうな面(つら)ども、うんともが、しやんす(色のこと)になりおれ、よかことしてやらんばいか。」

駒吉「おかんせ、二の松様ノウ、腹(ほて)持ったって、がらるる(叱らるること)じゃあろ。えずい(恐ろしい)こっちゃ。」

 と、逃げて行く。二人はおかしく興に入り、かの遊女屋を覗き見れば、うちより女出でとらうる。この女は大坂者と見えて、

女「コレイナァ、寄りなされ、寄りなされ。」

弥次郎兵衛「イヤそんな所じゃない、放せ、放せ。」

女「ナンノイナ遊びいな。」

弥次郎兵衛「どうだ、北八、ひときり遊んで行こうか。」

北八「とんだことを言う。船に仏を置いて来ながら」

弥次郎兵衛「イヤいいことがある。あいつを船に置き去りとして、これなりにずいとくじはどうだ。」

北八「なにそうなるものか、着替えや何やかを置いて来たものを。」

女「お連れ様はまだ船にかいな。わしお迎に参じようわいな。」

北八「お前迎いに行くなら、早桶でも担いで行ってくんな。」

女「おほほほほほ、てんごう言うてじゃ。」

弥次郎兵衛「イヤ連れは死んでいるから、それでわっちらァ、ちと訪ねるものがあってさ。」

女「お訪ねなさる者とは、誰さんじゃいな。」

弥次郎兵衛「イヤお寺があるか、それが聞きてぇ。」

女「お寺さんは、いんま船へいてじゃわいな。」

北八「お寺が船へ乗ってたまるものか。コリャ大変な事を言う。」

女「いんまに戻ってじゃが、お前(まい)さん方は、お寺さんに何ぞ用がありますかいな。」

北八「用というは、どうぞ仏を弔ってもらいてぇの。」

女「オオ好かんやの。そないなお寺はこの上に法體寺(ほうたいじ)というがあるわいな。」

北八「ナンダ、法體寺のお市け饅頭が呆れらぁ。サア弥次さん行こう。」

女「あたけたいな衆(しゅ)じゃわいな。」

 と、門口に塩花をまき散らす。二人はそれよりこの町を、そろそろと爪先あがりに登ると、なるほど寺一二軒見ゆるに、さてはと早速入り、台所口より入り見れば、何か大勢わやくやと混雑の様子なれど、

弥次郎兵衛「ハイちとお頼み申します。わっちらァ旅の者でござりやすが、和尚様へお願いがあって参りやした。」

僧「なんじゃらァ、今は取り込んでじゃ、明日てりごんぜ。」

 播州にては明日明後日と言うを、明日てり、明後日てりと言う。

僧「イヤ明日までは待たれやせぬ。わっちらが友達が頓死いたしやしたから、それでお願い申しやす。」

僧「ヤァヤァなんじゃら、葬礼か、コリャめでたいわ。幸いここの住持、今日入院致されたところ、入院そうそう葬礼が来るとは、こないなめでたいことはない。今まではこの寺の檀那は残らず達者で、どれもどれも長命、アア、しょことがない。不仕合せなこっちゃと思いおったが、これからは檀方(だんぽう)みな若死にして寺繁昌の瑞相、和尚もさぞ喜ばれましょう。祝うて御酒などあげましょかいな。」

弥次郎兵衛「それはありがとうござりやすが、善は急ぎじゃ。わっちらが方からも祝って、葬礼ただ今持参いたしゃしょう。」

僧「イヤソリャ、早速なこっちゃが、施主方は誰殿じゃ。」

弥次郎兵衛「ハイわっちら二人でござりやす。」

僧「こなさん達はどこじゃいな。」

弥次郎兵衛「イヤわっちらァ、江戸の者でござりやすが、金毘羅参詣にまいりやした船の中で、連れが一人てこねやしたから、それでお寺へお頼み申すのでござりやす。」

僧「ハテそりゃかけながしの葬礼じゃな。しかし無いよりはましじゃが、旅の衆(しゅ)なら往来の手形があるかいな。」

弥次郎兵衛「イエ手形はござりやせぬ。」

僧「手形が無うてはでけんわいな。」

北八「ソリャ困ったものだ。もしどうぞそこを、お願い申しやす。」

僧「あかんこっちゃ。エエやくたいな衆(しゅ)じゃ。せっかく嬉しかったものを。」

弥次郎兵衛「ソリャいかいお力落としでござります。お気の毒な。」

北八「ヘヘ、施主の方からお力落としと言うも珍しい。サア弥次さん、仕方がねえ、また他を聞いてみよう。」

 と、この寺を立ち出で、うそうそとみまわり見回り、ある寺へまた入りてみるところに、これは殊の外の貧地と見え、本堂も住居も荒れ果てて、台所に六十余りの痩せがれたる僧一人、団爐裏に跨り居たる所へ、両人ずっと入りて、

弥次郎兵衛「御免なせぇ。和尚様へちとお願いがござりやす。旅の者でござりやすが、一人船中で病死いたしやした。どうぞ、あなたでお弔いなさってくださりませ。」

和尚「ハァソリャご難儀であったじゃあろ。愚僧すなわち当寺の住職でござる。承知しました。しかしながら、葬礼もいろいろ値段次第でござる。経読む僧も声の良いのを頼めば、それだけに施物も余計に出ます。また引導渡すにも、イヤあら吉がよいの、あるいは歌右衛門、三五郎などが声色で頼むとあれば、これは格別高直(こうじき)でござるが、何もさようなお好みはござらぬかな。」

弥次郎兵衛「イヤそれも、面白うござりやしょうが、とかく銭のいらぬように、お経もなるだけはお端折(はしょ)りなさって下さりまし。ハテ亡者は浮かもうと浮かむまいと、そんなことにはかまいませぬ。」

和尚「心得ました。それならばまたそのように計らいます。もそっと物いらぬようにいたそならば、二三日待ちなされ。こちの檀方(だんぽう)に死にかかっておる病人があるさかい、それと一所に割合でさしゃると、いこう下直にあがります。」

弥次郎兵衛「イエイエ、そうはかの仏がもちますめぇ。」

和尚「ナニもたんことはないわいの。その亡者ちょと背開きにして、うす塩あてておいたら、二三日は気遣いあろまい。マアソリャどうともじゃが、肝心の往来手形がござるかいな。」

弥次郎兵衛「イヤそれがねぇからまごつきやす。どうぞそこをお呑み込みなさって。」

和尚「よござる、よござる、こないにさんせ。船頭の知っておる問屋があるじゃろ、その問屋を頼んでもろうて、問屋からこちへ書付一本おこしてじゃと、一気に弔うてしんじようわいな。」

北八「ハイいかさまさようにいたしやしょう。ノウ弥次郎さん。」

弥次郎兵衛「いずれにもよろしくお頼み申しやす。さようなら行って参じやしょう。」

 と、ようようのことに少しは心落ち着きここを出るとて、この寺の入口の外に雨戸一枚立て掛けてあるを、北八、弥次郎に囁きて、この戸板をそっと引かたげて早々船へ帰り、かくと語りて船頭を頼みけるに、船頭もよん所なく、心やすき船宿にいたりて委細のことを語り、弥次郎・北八を五太平の親類分となし、船宿よりかの寺へかけ合い、書付を出してようやく寺も納得したりければ、やがてかの戸板に亡者を乗せて、着替えの布子を重ねて打ち掛け、路用金、所持の品残らず寺へ納むるつもりにて、船頭先に提灯持ちとなり、弥次郎・北八は後先よりこの戸板をつりてその寺にいたり、台所の板の間へかき据えて、

弥次郎兵衛「ハイ和尚様、わざと葬礼を差し上げます。」

北八「お入れ物はあなたのでござります。」

和尚「これは軽少な弔いじゃな。しかし、因縁というものは不思議なものじゃ。この仏も、こちの寺へ来てじゃこと合点とみえて、いんまのさき本堂の雨戸ががたがたがたという音がすると、ずっしりずっしりと板の間を人の歩むような音したは、もう先へわせられたと見えるわいな。」

北八「エエ和尚さん、とんだことを言う。わっちらァ、もうすぐにお暇いたしやしょう。後で、よろしくお頼み申しやす。」

和尚「アアコレコレマア、沐浴して、あっちゃへ連れてまわらんせ。」

弥次郎兵衛「ナニサ仏の遺言でござりやすから、湯灌(ゆかん)はせずとようござりやす。」

和尚「いや、そでないわいの。濁世の埃(あか)を洗い落とすは仏のためじゃ。その釜に湯もわいてあるさかい、ちょと、あこへかいていて湯灌してござれ。」

船頭「とてものことじゃ、そうしてやらんせ。サアサアその胴服ノウつん脱いでゆかんせ。わしが湯ノウ、汲んで持て行こネヤ。」

 と、このうち、弥次郎・北八は、しょうことなしに丸裸となり、戸板をまた湯灌場へつり行き、弓張提灯を、辺りの木の枝に引きかけ、両人して仏を裸になし、弥次郎しっかりと仏の髷をつかんで、今や湯を持ち来たるかと、待てども待てども来らず、夜もすでに亥の刻を過ぎたれば、そよそよと吹く風も身にしみ、何とやらものすごくなり、寒さは寒し、がたがたと震い出し、

弥次郎兵衛「オオイ湯を早くくんねぇ。」

北八「らちのあかねぇ。俺が汲んでこよう。」

弥次郎兵衛「コリャコリャ俺ばかりここに居るこたァ嫌だ。」

北八「何だかうそ気味の悪りい、それにさっき和尚めが本堂へ亡者が来たと言やァがったを、思い出したらもうたまらぬ。ドレ湯を取って来よう。」

 と、一目散に駆け出して行く。弥次郎はっと思い、続いて駆け出ださんとは思いたりしが、一番ここは男の魂を見せつけるところ、我慢して思入れ、後にてみそをあげんと、怖さをじっと堪え居たるが、心のうちには念仏を唱え、がたがた震いながら、辛抱していると、かの木の枝にかけたる提灯、風が吹いて消えてしまい、真っ暗闇となれば、弥次郎は一向夢中になり、震え声して北八を呼びわめくうち、どうやらかの仏がひとりでに動くようなれば、はっとばかりにとりのぼせ、よくよくためし見るに、いよいよかの仏むくむくと動き出しけるゆえ、弥次郎いまはたまらず、きゃっと言うて倒れる拍子、この湯灌場は竹簀子(たけすのこ)なるゆえ、踏み貫きて片足床下へふんごむと、何かは知らず其の足へわんぐりと食いつくにぞ、弥次郎びっくりして、

弥次郎兵衛「オオイオオイ、北八ヤァイ、北八ヤァイ、早く来てくれヤァイ、早く来てくれヤァイ。」

 と、わめく所へ、北八と船頭が手桶に湯を入れて提げて来る、後から和尚提灯をひっさげてここに来り、

和尚「コリャどしたぞいな、どしたぞいな。」

弥次郎兵衛「エエ、早く来てくれればいいに。今この仏が生き返って大騒ぎをやらかした。」

北八「ナニとんだ事を言う。」

弥次郎兵衛「イヤ本当に、この死人めが動いたから、はっと思って飛び退くはずみに、ツイこの簀子を踏み貫いたら、下屋からなんだか知らねえが、俺が足へ食いつきやァがった。アア、痛てぇ痛てぇ。」

和尚「ソリャおおかた犬じゃあろぞいな。ドレドレ、アア犬じゃ、犬じゃ、これ見さんせ、簀子の腐れ落ちた所へ、亡者の足が落ちてある。それを犬めが下からくわえて引きおったを、こなさん仏が動くと思うて、肝つぶさんしたのじゃあろぞいな。」

弥次郎兵衛「ハアそんなら、わっちが足へ食いついたのも、犬めじゃな。エエいめぇましい。」

北八「ソレそこに畜生めが」
 
 と、ありあう石ころを取って放りつくれば、

犬「キャアンキャアン」

 と、逃げて行く。後は笑いとなりて湯灌もそこそこにしまい、本堂へ担ぎ戻せば、和尚ねんごろにこれを回向し終わりければ、後の取り片付け万事をしまい、施物を納め、ようようのことにて、二人は重荷を下ろした心持ちになり、船頭もろとも、急ぎ船へたち帰りけるに、乗り合いの人々は残らず遊びに上がりたりとて、水子二人のみ船に残りたり。
 弥次郎やがて酒肴をとりよせ、船頭・水子ども相手にして、その夜は寝もやらず飲み明かしける。

  死ぬものは貧乏なれやこれからは 船に追風の富貴自在なれ

 かく祝い直して、既に夜明けなれば、船頭・水子ども船中を洗い清め、修験者を呼び来たりて不浄除けの祈祷をなし、


   四、室津から丸亀までの船中


 やがて翌日、朝の追風(おいて)に帆かけて、この湊口を乗り出し、早くも備前の大多婦(おおたぶ)の沖に至りける。(播州室よりこの所まで五里)

 海中には小豆島の見えたるに、
  景色の実入りもよしや小豆島 たはらころびに寝ながらぞ見る

 それより牛窓前という辺りを行くほどに、八島(やしま)の矢くりが獄、南の方に鋭く聳(そび)え、讃岐の小冨士手にとるごとく、下津井の浦見えわたり、海中には飯山石島など、すべてこの辺り小島多く、景色佳麗(かれい)、いわんかたなし。その日申(さる)の刻過ぎたると思う頃、讃岐の国丸亀の川口にぞ着きたりける。(室よりこの所まで二十三里に近し)

  龍宮へ行く浦島にあらねども 乗り合うせたる丸亀の舟

 折節、汐干(しおひ)にあいて二丁ばかり沖の方に船を留めて満汐を待つ、この湊は遠浅にて、いつもかかる難渋ありと言えり。暮れ過ぐる頃、ようやく川中に乗り入り、弥次郎兵衛・北八は、大物屋(だいもつや)といえる旅籠屋に宿る。これは船頭の宅のよし、案内に任せてここに入り、始めて安堵の思いをなしたりける。


   五、丸亀


 讃岐円座の名は諸国に広がりて、ここも買船入津の一都会なれば、繁昌ことに言うべくもあらず。町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり。弥次郎兵衛・北八は、船頭の案内(あない)に連れて大物屋というに入り来るに、女ども出で向かい、

女ども「コレハようお出でなさんした。サアこちお上がりなさんせ。」

弥次郎兵衛「アイ、お世話になりやしょう。」

 と、上へ上がる。このうちは船頭の宅なれば、母親らしきが走り出でて、

母親らしき「親方ち殿戻らんたか。アノネヤ昨日ぶりの大あなぜナァ。たまがった(仰天)じゃあろナァ。」

船頭「サア、どりばりしょうと思いおったわいな。それにネヤ、乗り合いの人が船中で死なしゃってナァ、おとろしいおろよいこんであったわいなァ。コレおかた親方ネヤ、お客様も身が当も小びるま(小昼食)ノウやらんわい。あだだに飯こしらえてあげさんせ。」

船頭の女房「サアお客様ナァ、奥へお出でなさんせ。」

 と、打ち連れて奥座敷へ連れ行く。

弥次郎兵衛「こう北八、とんだ美しいたぼが見えるぜ。」

北八「もう始まった。」

女「エイ湯にお入りなんせ。」

北八「弥次さん行かねえか。」

弥次郎兵衛「イヤぬし先へいかっし。」

北八「女中、風呂場はどこだの。」

女「あこの、ねきへついてナァ、ほしほしとお出でなさんせ。」

 と、このうち北八は湯に入りに行く。弥次郎兵衛かの女のたもとをひかえて

弥次郎兵衛「モシおめえに聞きてぇ事がある。あそこにいた年増の女中はなんだえ。」

女「あれはネヤ、ここのおこれん(女房)じゃわいなァ。」

弥次郎兵衛「ナニおこれんだ。コリャわからねえ。おめぇはなんだ。」

女「わしゃナ、おなごじゃわいな。」

 すべて上方辺、この辺りまでは下女の事をおなごとばかり言う。

弥次郎兵衛「女は知れたことだ。時にあんまり早脚な事だが、おめぇに一つ願いがある。聞いてくれる気かどうだ。」

女「おほほほほ、おまい様のこっちゃものなァどうばりと。」

弥次郎兵衛「コリャありがてぇ、コウ耳を出しな、それよしかよしか。」

 と、尻を叩く。

女「おほほほほ、何ちゅう言うてじゃ。」

 と、思うさま弥次をつめって逃げて行く。弥次郎も立って手水に行き、帰りがけに風呂場をのぞいて

弥次郎兵衛「どうだ北八、早くあがらねぇか。」

北八「コレコレ弥次さん、ちょっと見ねぇ。コノ風呂はなんだろうテ。」

 と、言うゆえ弥次風呂場へ入りて見れば、素焼きの瓶を据え風呂にしたるなり。すべてこの辺の習いにて、風呂桶の代わりに素焼きの瓶を用ゆ。そこより少し上のかたに三所四所、焼き付けたる土のあるにもたせて下(げ)す板を置く。京大坂などにいう五右衛門風呂というに等し。詳しくは図に表すがごとし。金毘羅参詣の人は皆よく知るところなりとぞ。

弥次郎兵衛「ハハハハ、なるほどこいつは珍しい。」

北八「もうこんな風呂には懲り果てているから、ひょっとまたこの瓶を打ち抜いてはなるめぇと外で洗っていらァ。番狂わせな。」

弥次郎兵衛「ナニかまうこたァねえ。入って見やれ。」

北八「そんなら入ろう。コリャ野郎の猩々ときている。」

弥次郎兵衛「猩々ならいいが、生きながら土葬にしようというもんだ。」

北八「エエいめぇましいことを言う。もう出よう。」

 と、風呂よりあがる後へ弥次郎兵衛入り替わりて入る。この所にもいろいろあれども、先にあらわす五右衛門風呂の洒落と等しく、くだくだしければ、ここは端折(はしょ)る。かくて弥次郎も湯に入りしまい座敷へ来たるに、勝手よりはや膳を持ち出で、食いしまいたるころ、主の船頭、座敷へ出で来たりて、

船頭「エエこれはご退屈さまじゃあろ。」

弥次郎兵衛「おかげで今夜こそは大船に乗ったような心持さ。ヤ時にこの海上無難に着いた祝いに一杯やろうか。モシ何ぞおめぇの所に肴はありやせんか。」

船頭「エイ茶袋とな、“どうびん”ノウありおったネヤ、どうばりとも煮付けてなどあげましょかいネヤ。」

北八「茶袋と土瓶を煮付ける。こいつはとんだ話だ。そんなものが食われるものか。」

船頭「そしたらナ、とっぱこ(鯵)のお汁はどうじゃいなァ。」

弥次郎兵衛「とっぱこいやろか。三番叟の吸いもので外へはやらじと、俺ばかり呑もうか、ハハハハ。何でもいいから早く酒を出してくんなせぇ。」

北八「モシモシその茶袋や土瓶の後で、鉄瓶を刺身にして薬鑵のころいり、鍋釜の潮(うしお)煮なんぞよかろうぜ。」

船頭「ハハハハハ、えらいひょうまづいて(きょくるということ)じゃ。ドレいんま一気にあげましょいネヤ。」

 と、勝手へ行く。ほどなく女盃を持ち出ると、やがて“うづわ”の煮付けたるを鉢に入れて、船頭持ち出づる。後より女房銚子と蛸のさくら煮を持ち来たり

船頭「“どうびん”の太いのじゃがな。あんじょら(味良く)とようたけ(煮)たわいなァ。サア一つおあがりなさんせ。」

北八「ハハァ、“どうびん”とは蛸のこと、茶袋というはこの“うづわ”のことだな。」

船頭「さよじゃ、サアろくに居ざなりなさんせ。わしさきへじょうらく(胡坐かく)も、お許しなされ。そのだいナアお方が“いんぎん袋”じゃネヤ、ハハハハ」

 “いんぎん袋”とは、袴のことなり。女房が前垂れしているを洒落て、かくは言うとみえたり。

弥次郎兵衛「おとし役においらから始めやしょう。オトトトありますあります」

 と、一杯ぐっと呑みて北八へさす。

北八「おっと、いただきのわたせるはしにか、ありがてぇの」

 と、一つ受けて呑んでいるうち、弥次郎いかがしてや顔をしかめて

弥次郎兵衛「エエコリャどうしたのだか、今この酒を呑むと、たちまち胸が悪くなった。コリャたまらぬ。」

 と、一目散に縁先へかけ出し、ゲロゲロとやらかす。

北八「どうしたどうした。」

女房「何ちゅうなさんした。」

弥次郎兵衛「アア苦しい。なぜかおかしな心持ちだ。」

北八「酒の悪いのじゃァねえ。ハハァ聞こえた。おめぇ金毘羅様のバチが当たった。」

弥次郎兵衛「なぜなぜ。」

北八「昨日船で、かの大変のとき好物な酒を一生たべますめぇと、金毘羅様へ願かけしたじゃァねえか。」

船頭「ホンニさよじゃナァ、ゆうべりもナァ、室で酒を呑んでじゃとき、あただに腹(ほて)のう、悪い(おろよい)と、いこおらば(大呻吟)しやったじゃないネヤ。」

弥次郎兵衛「なるほどそんな事があった。もってぇねぇ事をした。コリャどうしたらよかろう。しかし、おいらも酒を断って忘れる位だから、金毘羅様もあれが酒を断ったと、いちいち覚えてもござるめぇじゃねえか。」

女房「そじゃてて、金毘羅様の罰ナァおとろしい。ツイこの裏のねきに居た人がナ、そないな事で気が間違うて死んでじゃわいな。」

北八「でえじのことだ。コリャどうぞしてお詫びするがいい。」

船頭「ソリャナァこうじゃわいな。ここもとではナァ、金毘羅様へ酒のう断って破った時はナ、立ち待ちノウしてお詫びするが恒規じゃネヤ。」

弥次郎兵衛「立ち待ちとは、今夜よつぴとい立っているのか。そりゃ大変な理屈だ。」

北八「ナニそのくらいのことは辛抱するがいい。このうえどんな祟りがあって、おめぇの身の上にもしものことがあると、おいらが難儀だ。」

弥次郎兵衛「どうやら胸がまたむかむかして苦しい。ひょっと死んでは詰まらねえ。今から立ち待ちしてお詫びしやしょう。ヤァエットコナ」

 と、立ち上がりて何か口の中にぶつぶつと金毘羅の方を拝む。

女房「こないになさんせ。夜がよざさら(夜一夜)はご辛抱がでけねくかろ、八っつ(八時)まででよござりましょ。」

弥次郎兵衛「そんなら八ツまで南無金毘羅様、南無金毘羅様。」

北八「ハハハハおいらはよく酒を断たなんだ。サア御亭主盃はどうする。」

船頭「コリャナお方盃がふとう(大)ない。親定器(親碗)が備前かがつ(擂鉢)で、ひゅつひゅつとやりたいネヤ、はははは。」

北八「いかさまもっと大きなもんでやらかそう。」

弥次郎兵衛「コリャコリャもういいかげんに酒をしまってくれねぇか。俺にみせてばかりは情けない。」

北八「そこが辛抱だ。もちっと見ていなせぇ。ノウ船頭さん、アァうめぇ酒だ、酒だ。」

弥次郎兵衛「立ち待ちのお陰かして、少し心持ちはよくなったが、また今後は呑みたくて胸が苦しい。」

北八「エエ意地汚ねぇことをいう。」

船頭「しかしお気の毒じゃナ。もうとりおきましょいな。」

北八「思いがおそろしい。そんならおつもり、おつもり。」

 と、ここにて盃を納めると、女房が勝手へ持ち運ぶ。女布団を持ち来たり床をとりながら、

女「モウお寄りなさんせ。」

船頭「それがえいえい寝間とってあげさんせ」

 と、暇ごいして勝手へ行く。女、床をとりしまして、これも勝手へ行くと、北八はそのまま寝かける。弥次郎は立ち待ちゆえ一人つつくりとして、

弥次郎兵衛「コリャコリャもちっと起きて居ねえか、つき合いを知らねぇ男だ。コレサコレサ」

 と、足で起こせど一向にたわいなく、寝るより早く高イビキなり。しばらくすると、勝手の方も寝静まりたる様子に、弥次郎が宵のうちいちゃつきたる女、冷やかしに来たり、行灯の油を注ぎながら、

女「おまい様まだお休みなさんせんか。」

弥次郎兵衛「おめぇの来るのを待っていた。コレここへ来な。話がある。」

女「エイおきょうこつや。サア寝なさんせ。」

弥次郎兵衛「おめぇ寝るなら。」

女「わし先へ寝ても、えいかいネヤ。」

 と、弥次郎が床の上へ上がり、横になってここへ来いと、手招ぎをして弥次郎を冷やかす。弥次郎一人気を揉み、

弥次郎兵衛「エエ情けない、そこへ行って寝たくても始まらねぇ。こんなことなら立ち待ちより寝待ちにすればよかったものを。」

女「なんちゅう言わんす。わしお嫌いじゃな。コレイナァ、どうじゃいな。」

 と、女は布団の中からむしょうに招く。弥次郎、寝たさは山々なれど、

弥次郎兵衛「エエ、こんな間の悪りいことたァねぇ。早く八ツを打てばいい。もう何時だの。」

女「九ツでもあろかい。」

弥次郎兵衛「まだひと時だな。コレありようは今夜おいらは立ち待ちだから、寝ることがならねぇ。おめぇも起きてここへ来な。立っていても話ができやす。」

女「あほらしい、わしゃ立っていてな、話ノウすることはいやいや。」

弥次郎兵衛「エエそんならコウ金槌があらば持って来て貸しねぇ。」

女「オホホホホ、かなさい小槌のことかいな。ソレ何ちゅうさんすのじゃいな。」

弥次郎兵衛「イヤあの箱枕をこの柱へ打ちつけて、立ちながら寝るつもりだ。」

女「オホホホホ、なんちゅう言うてじゃ。」

弥次郎兵衛「エエ宝の山へ入りながら手を虚しくとはこのことだ。それにおいらばかりか、息子殿までさっきにから立ち待ちをして、コリャこてぇられぬ」

 と、えじかりまたしてまごまごするを、北八こらえず吹き出し、

北八「ハハハハ、おもしろえ、おもしろえ、コレ女中、あの男にかまわずと、寝ているおいらが所へ来な」

と、帯を取って引きずり込もうとする、女は肝をつぶし跳ね起きて

女「アレつべ(尻)ノウひねってじゃ、わしゃたまがった(びっくり)ネヤ」

 と、一目散にかけ出して行くと、折ふし八ツの時の鐘ゴォンゴォンと鳴る。

北八「それもう八ツだ。弥次さんもう寝なせぇ。ご苦労、ご苦労。」

弥次郎兵衛「いめぇましい。たまたまあんばぇよくやったものを、おもしろくもなんともねえ。」

  御利益を茶にせしむくいうかされて 寝られぬ罰はたちまちにこそ

 かく詠みて笑いを催し、そのまま打ちふしたるが、早くも夜明けて起き出で支度整え、今日はお山に参るべしと、船頭を案内に頼み、この宿を立ち出で行くほどに、餘木田の郷といえるに至る。(丸亀より一里半)


   六、餘木田の郷


 それより松が鼻というには、厄払いなりとて十歳餘りなる子供に獅子頭をかぶせ、太鼓打ち叩き銭を乞うものあり、

厄払い「サアサア旦那様方、お厄ノウ払いましょ。銭下んせネヤ。」

 トンチキ、トンチキ、トトトトトン、トトトトトン。

弥次郎兵衛「ナンダ厄払いだ。晦日に来さっし、払ってやろう。」

   節分の夜にはあらねど厄払い おもてに立る松が鼻かな


   七、榎井村


 かくてしばし行けば、榎井村とて旅籠屋・茶屋など多き所に至る。途中に大きな唐銅(からかね)の鳥居あり。これは東都の人々の建てるよし記しあり。

北八「ナントここでチト休んでいこう。」

弥次郎兵衛「酒屋はごめんだ。餅にしよう。」

 と、そこら見回しさとう餅と看板あるうちへ入り、

弥次郎兵衛「コウあねさん、その餅を十(とお)ばかり盆にでも載せて出してくんな。」

北八「イヤ酒もあるぜ。」

弥次郎兵衛「今日はおいらにつきやって下せぇ。その代わり餅はいくらでも振る舞う。」

女「エイおあがりなさんせ。」

 と、菓子盆に小豆餅を載せて持ち来たる。

弥次郎兵衛「この事、この事、サア始めさっせぇ。」

北八「この餅は冷だな。マアおめぇから始めさっせぇ。」

弥次郎兵衛「そんなら一ツ食ってさそう。」

北八「ドレドレいい餅だ。コリャァ餅米一本木と見える。船頭さんあげやしょう。」

船頭「わしゃ許しなされ。」

弥次郎兵衛「ホンにおめぇは売無体(からむたい)の上戸であった。上戸の茶かなあらしだ。茶でも思入れ飲みなせぇ。」

北八「おいらももう御免だ。弥次さん半分すけてくんねえ。」

弥次郎兵衛「イヤ手めぇの食いさしはあやまる。犬にでもやってしまやれ。後は、お盆限俺がおつもりにしよう。」

 と、一人むしょうに餅を食いしまう。このうち一人の男、大坂講中月参と染めたる羽織着たるが、この茶屋へずっつと入り、

大坂もの「コレイナ、えい酒五合ばかりおくれんかいな。肴は何があるぞいぞナ。」

弥次郎兵衛「エエいめぇましい奴が来た、サアサア行こう、行こう。」

北八「ハテもっと休んで行きやしょう。」

茶屋の女「エイお肴はナァ、ひょう鯛のお汁と、おばあ(エソ)の煮付けとナァ、はらかた(コノシロ)の焼きたてもあるわいネヤ。」

大坂もの「その鯛の汁よかろ。とっともう、えら熱燗にして下んせ。」

茶屋の女「アイアイ。」

 と、やがて酒・肴を持って来るより早く、続け呑みに二三杯ぐっとやらかし、

大坂もの「アアきよとい、きよとい、えい酒じゃ。モシ当国は酒のえい所でござりますわいナ。」

北八「さようさ。」

大坂もの「あなたおもちいなら、お慮外ながら一つあげましょかいな。」

北八「それはありがとうござりやす。」

大坂もの「サアあがりなされ。酒は一人では、とっともうあかんものじゃ。」

 と、北八へ盃をさす。

北八「オトトトトあります、あります。アア今呑んだ餅よりはまた格別なものだ。」

大坂もの「すぐにそっちゃのお方へあげなされ。」

弥次郎兵衛「それはありがてぇ。」

北八「オヤとんだことを、おめぇもう忘れたか。」

弥次郎兵衛「ホンニそうだ。わっちは酒は断ちものでござりやす。」

大坂もの「ハア金毘羅様へ断ちなされたかいな。さだめて何ぞ願かけしてじゃあろが、その願は叶うたかいな。」

弥次郎兵衛「おかげで災難を逃れやした。」

大坂もの「そしたらもうえいじゃないか。ハテ願さえ叶うたらこっちのものじゃ。呑まんしてもだんない。もし罰が当たった所がたかで命一つ捨てようと思や、きつい事はないわいの。」

弥次郎兵衛「その命を捨ててたまるものか。とんだことを言うお人だ。」

大坂もの「じゃてじゃて酒断っていらるるものかいな。酒の代わり他におまいの好きなもの、立て替えさんしたがよいわいの。」

弥次郎兵衛「他に好きなものといえばかの一物だが、こいつはどうも断たれめぇ、ハハハハ、時に北八行こうじゃねぇか。」

北八「そんなら出かけよう。アイお世話、モシ大きにご馳走になりやした。お先へ参りやす。」

 と、この所を立ち出で、五六丁行けば、金毘羅の町に至る。丸亀よりこれまで三里なり。


   八、金毘羅


 町の中ほどに鞘橋という橋あり。上に屋形ありていと珍しき橋なり。

   上を覆う屋形の鞘におさまれる 御代の刀のような反り橋
  
 これより権現の宮山に登る。麓より二三町ばかりのほどは商家建ち続きて、地黄煎薬飴を売る家多し。弥次郎その商人の白髪なるを見て、

   うる人の頭の白髪大根は ちとさし合いか地黄煎見世

 やがて仁王門に入り、十五六町の坂を登りて御本社に至るに、その荘厳いと尊く拝殿は檜皮葺にしていかめしく、花麗殊にいわんかたなし。まず広前に額突き奉りて、

   十露盤(そろばん)に達せし人も神徳の おもさはしれぬ象頭山   かな

 この御山より海上の島々浦々郷々一望の中に見渡されて風景いうも更なり。かくて下向の道を急ぐに、接待所神馬堂の辺りより、後になり先になりて磴道(いしだん)を降りたつものは、年の頃二十二三歳と見え、大たぶさの若衆髷にしたる色白き女、布子のうえに中形の浴衣引っ張り、かかえ帯に裾引き上げ、わらじがけにて杖にすがり行く後より六十ばかりの親仁少しの荷物を背負いたるが、うち連れて行くにぞ、弥次郎かの女に近づきて、

 弥次郎兵衛「モシおめぇがたァ、この近辺の方とも見えぬが、女中のこのお山へ参詣なさるというは、たいていの事ではないに、どちらからお出でだの。」

女「ハイわしゃ大坂の方から参じたわいな。」

弥次郎兵衛「ナニ大坂から、ソリャアとんだことだ。たった両人(ふたり)連れかえ。」

女「さよじゃわいな、アリャわしのととさんじゃがな。路すがら話ししょうにも、えらい聾じゃさかい、ホンニ連れという名ばかりじゃわいナ。」

弥次郎兵衛「それは道が退屈でござりやしょう。これから直ぐに大坂へお帰りか、それならばわっちらと一緒にお出ではどうだ。」

女「ソリャお嬉しい。ご一緒に参上わいな。コンナととさん、このお方も大坂へ行きじゃといな。」

親父「ナニ降るものじゃ、空は青天井じゃ、気遣いはないわいの。」

女「オホホホホホ、あないな事言うてじゃ、オオ辛気。」

北八「モシおめぇ、若けぇなりをして、殊にその美しい顔でたった二人連れの道中、よく護摩の灰がつかなんだ。これからわっちらと一緒にあよびなせぇ。それこそ大丈夫だ。」

女「さよじゃわいな。したがわたしどもはこれから弥谷とやらへ行くわいな。おまいさん方はどっちゃへお出でなさるぞいな。」

船頭「モシおまい方もナァ、ついでに善通寺からその弥谷へ、参詣ノウしてござんしたがえいわいネヤ。」

 と、行く道筋のことを詳しく教ゆるに、弥次郎・北八もさあらばとて、鞘橋の元より船頭は先へ帰し、多度津街道へ帰り行く道すがら、
弥次郎兵衛「ナント女中さん、今夜ァわっちらが泊まる宿へ、一緒に泊まりなせぇ、賑やかでよかろうぜ。」

女「ソリャお嬉しいこっちゃわいな。」

北八「そうしておめぇとおいらが一緒に寝ようか。」

女「わしゃ久しゅうお客と寝たことがないさかい、どうなとしておくれいな。オホホホホ。」

弥次郎兵衛「いや、おめぇのお里も知れた。どうりこそやぼからぬと思った。奇妙、奇妙。」

北八「ナニおめぇが奇妙だもおかしい。おいらが先へ口をかけたのだ。」

弥次郎兵衛「そうはいかねぇぞ。とうから俺に決まっている。ノウとっさんハハハハハ。耳が延引しているというはいいもんだ。コレおめぇ煙草でも呑みなさらねぇか。」

親父「アイ大坂は島の内じゃ、とっとえらい賑やかなとこいの。」

女「オオ笑止やの。煙草なと呑まんせと言うてじゃわいな。」

親父「ナニ玉子飲め。ここらになんの玉子があろぞい。ワハハハハ。」

 と、このうちはや善通寺に至る。


   九、善通寺


 本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。ここに参詣して門前の茶屋に休まんと入る。

亭主「ようお出でなさんした。」

弥次郎兵衛「何ぞうめえものがあるかね。」

女「わしゃナいこひもじゅうてならんわいな。」

弥次郎兵衛「おめぇ飯にしなせぇ。コレコレ御亭主さん、何ぞうめえ肴でこの子に飯を出してくんなせぇ。」

北八「おいらは酒にしよう。」

弥次郎兵衛「酒はならねぇ。断ちものだ。」

北八「ナニおめぇこそ断ちものなれ。この子やとっさんも呑みなさるだろう。」

女「さよじゃ。ととさんもわたしも酒はえらい好きじゃわいな。」

北八「それ見たがえい、酒はおいらが施主につく。コレコレ酒を出してくんなせぇ。」

亭主「エイエイ心得ました。」

 と、しばらくして飯を持ち出で、酒・肴も持ち来る。北八始めて一つ呑み、かの女へさす。

女「オオ辛気やの。こないな小さいものじゃあかんわいな。コノ茶碗でやろかいナ。」

 と、朝顔なりの茶碗に、引き受けてぐっと呑み、親父へやる。

親父「コリャきょといわ。ご馳走になりましょかい、オトトトトト。アアえいわいの、序でにかさねましょかい。」

女「その後をこちおこさんせ。」

親父「なんじゃ、も一ツ呑めか、お辞儀はせんぞ。」

 と、引き受け引き受け続けて呑めば、かの女茶碗をひっ取りこれも続けて呑む。北八肝をつぶし、

北八「コレコレおいらがほうへも回しなせぇな。」

親父「いやお銚子がないわいの。コレコレ御酒(ごしゅ)のお代わりじゃ、ちっとづつは面倒じゃ。一升なと二升なと一時に燗して持てごんぜ。」

北八「イヤふるまわれる酒だと思って、大変なことを言う。」

女「わしやもう飯(まま)にしょうわいな。コノおひらはえらいあじょうでけたわいな。モシナおひら替えておくれんか。そして、お鉢も換えておくれいな。」

弥次郎兵衛「イヤおめぇ顔に似合わぬ大食いだな、コリャおそれるおそれる。」

 と、二人は肝ばかりつぶして見ているうち、女は委細かまわず、さっさと食いしまうと、かの親父もたらふく呑んでしまい、

親父「サア、えいぞ、えいぞ。もうお出でんかいな。」

弥次郎兵衛「いかさま出かけやしょう。ご亭主さん勘定はいくらだの。」

茶屋「エイエイ六百五十文おくれなさんせ。」

弥次郎兵衛「コリャえらいわ。北八半分出さっせぇ。」

北八「エエしかたがねえ。」

 と、不承不承に、このところの払いをなして立ち出で、曼陀羅寺へ参り、やがて弥谷寺の麓に至る。金毘羅よりこのところまで三里あり。


   十、弥谷


 握り飯を名物として売る茶屋あり。既にはや今日も七ツ過ぎたる頃となり、これまで曼陀羅寺より殊に険難な山坂をへて来るなれば、各々足も疲れ、そのうえ小雨の降り出したるに、多度津の方へはまだ程遠きよしを聞くより、いざやここに止宿せばやと相談してある茶屋のうちへ入り、

弥次郎兵衛「ナントわっちらを、泊めてくんなさねぇか。ちと早いが泊まりてぇものだ。」

茶屋の婆「エイお宿ノウしましょ。上がらしゃませ。コリャ長松(ちょま)ネヤ、湯ノウ汲んで持て来い。サア足ノウ濯いでそら(上)へあがらっしゃませ。」

北八「アイこれはお世話、サア一緒にやらかしやしょう。」

 と、皆々草鞋をとき、足を洗いて、奥のむさくろしき座敷へ通る。

女「わしゃまたお腹が、さもしゅうなったわいな。」

弥次郎兵衛「イヤおめぇあとの茶屋でお鉢を換えて食いながら、またひもじいとはとんだ食らい抜けだぞ。」

女「そじゃてて何ぞ菓子んかいな。」

弥次郎兵衛「コレコレ婆さん、飯のできるには間があろうから、何ぞほかに食うものはねぇかえ。」

婆「握り飯ノウここの名物でござる。食わしゃませ。」

北八「コリャよかろう。それをこけへ出してくんな。」

婆「エイエイいんまいっきに。コレナお方ネヤ、早よう来やしゃませ。これ長松(ちょま)よ飯櫃ノウ持ってこいやい。」

 と、にわかに騒ぎたちて、婆は飯櫃引き寄せ、飯をやみくもと握りながら、

婆「こりゃ長松(ちょま)よ、鑵子(かんす)の下ナァもやくべてえっと焚けやい。コノまたおこれんは何ちゅうしていざるぞい。エエほて腹ノウ煮え返る。」

 と、無性に、やかましくしゃべりながら、火鉢にかけて焼きたて、

婆「コリャコリャ長松(ちょま)よ、コノ焼けたノウ盆に載せて、ちゃと奥へ持て行けいやい。コリャコリャ炭団載せるのじゃないわい。エエ何ちゅうするネヤ、こちどけやい。」

 と、蕗、ワラビ、豆腐の干からびた煮しめつけて、焼き飯を盆に盛り奥へ持ち出だす。

北八「これはご苦労、サアどなたもやって見なせぇ。」

弥次郎兵衛「オヤ婆さん、この握り飯はなぜこんなに真っ黒だの。」

婆「ソリャ黒いのはナァ、初めに握った三ツ四ツばかりでござる。」
弥次郎兵衛「そんなら、その三ツ四ツへおめぇの手垢は付いてしまったというものだから、その後は皆白いのか。」

婆「インヤネヤまだ後にもござろ、うちの“がたろう”めがナァ。」

 子供のことを河童というこころにて、“がたろう”という。“がたろう”とは河童のことなり。

婆「炭団ノウ握り飯と間違えて盆に盛りおったがナァ。その炭が盆にくっついて握り飯ノウ黒ろうなったもござろわい。それとも炭団ノウ食わしゃますなら、ここへ持てずろかいネヤ。」

北八「なに、炭団が食われるものか。とんだことを言う婆様だ。」

婆「インヤそないに言わしゃますな。わしどもは食いおりますわい。昨日べりもナァ庄屋殿のうちかたにナァ、心ざしノウござるてて、炭団ノウこしろうて小豆かけてくばらしゃましたわいネヤ。」

北八「ナニ嘘ばっかり。ソリャ炭団じゃァあるめぇ。ぼた餅のことだろう。」

婆「ホンニナァそのぼた餅でござった。わし覚えぞこないでござるネヤ。」

弥次郎兵衛「面白くもねえ何のこったハハハハ。」

北八「それはいいが、なんにしろこの握り飯は爺父の一人者ときて爺、無妻だから謝る。もうこれぎりで後はいらねえよ。サアおめぇ方はどうだ、食いなさらねえか。」

女「わしゃ何でもよいわいな。ととさんおあがりいな。いこもむない(味無)ことはないわいな。」

 と、もとより爺父はつんぼうなれば、委細のことは知らず、さっさっと二人して食ってしまう。弥次郎兵衛・北八はさすがにこれを見ているばかりにて、

   名物とかねては聞けど婆々の手を 握り飯なら弥谷の茶屋

 かくて日も暮れたるに、夜食も出でてそこそこに食いしまい、かねて弥次郎はこの大坂ものの女をと心がけて道々も奢りちらかせしは、なんでも本望を遂げんとの下心にて、さてこそ泊まりをも急ぎ無理に勧めてこの処に泊まりたるなり。北八これを悟り横がわえして弥次郎に鼻をあかせんと、これもいろいろに魂胆していたるが、やがてかれこれと四方山の話も済みて、寝る一段となり、座敷も狭ければかの女と親仁は次の間に床をとらせ打ち伏したり。弥次郎は北八と並びて布団引き被り、空寝入りして人々の寝静まるを待ちいたるに、折節雨はを止みなく降りてもの淋しく、勝手の方の話し声も次第に立ち消えがして、夜の更くるにしたがい、ただ鼾の音のみかまびすし。弥次郎時分はよしと。北八が寝息を考え、そっと起き出で、次の間の唐紙をそろそろと開きたるに、有明の灯火なければ、探り回りて女の頭に手がさわり、これこそとて布団を引きまくり入らんとするところ、女しきりに呻く様子に、弥次郎声を潜めて、

弥次郎「コウコウおめえどうぞしたか。」

女「誰じゃいな、オオ好かん何しいじゃぞいな。」

弥次郎「何をするものか。内々の咄があって来たものを、おめぇも承知であろうじゃァねえか。」

女「わしゃナ、先にから按配が悪いわいな。」

弥次郎「何としたのだ。」

女「アノナ持病の疝気がおこったわいな。」

弥次郎「イヤ悪じゃればかり言う。女に疝気があってつまるものか。」

女「ナンノイナ、わしゃ女じゃないわいな。」

弥次郎「女でなくてこんな美しい男が、どこにあるものだ。但し女か男かドレドレ見届けてやろう。」

 と、無理にこすりつきて、そこら探り回わせば、手足は毛だらけ、弥次郎とは相婿どし、角突き合いでもしようという様子に、弥次郎びっくりして、

弥次郎「ヤァヤァヤァヤァ、コリャ男だ、男だ。どうしておめぇが男だか俺にはさっぱりわからねぇ。但しはかど違えではねぇか。合点がいかねぇ。」

女「そじゃあろぞいな。わしゃ赤村鼻之助というてナ、道頓堀の舞台子じゃわいな。去年えろう痔を煩ろうてナ、もう死ぬかと思うた程のこっちゃあったがナ、このととさんは、わし一人頼りにしてじゃさかい、金毘羅様へ願かけしてじゃあったが、そのお影やらしてとんとようなったさかい、それでお礼参りに参じたのじゃわいな。したが船でえろう冷えたせいかして、また先にから痔が痛うて、それに持病の疝気があるさかい、一時に起こって、おお痛おお痛、どうぞ腰さすっておくれいな。オオ痛やの痛やの。」

弥次郎「ハァそれでさっぱり分かったが、おいらぁとんだつまらなくなった。」

鼻之助「そないなこと言わんせずと、ちとの間じゃ、ここさすっておくれんかいな。」

弥次郎「おいらぁもうおめぇを女だと思いつめて、とんだ余計なことをした。ホンニこの疝気の看病をしようとは夢にも知らなんだ。ソレここかここか。」


鼻之助「アイお嬉しいこっちゃ。どうやらちとようなった。もう行てお休みなされ。」

弥次郎「アイ大きにお世話、休もうと休めぇと、コリャァねっからうまらねぇこった。」

 と、ぶつぶつ、小言言いながらわが寝所へ帰り、思えば思えば馬鹿馬鹿しい目に遭った。こいつ俺ばかり恥をかくこともねえ、北八をも勧めてやらんと心に頷(うなず)き、よく寝入りいるをゆすり起こして、     
弥次郎「コリャ北八、北八、ちと起きさっせえ。」

北八「オイオイなんだなんだ。、これはしたり、おいらは寝入ったそうな。」

弥次郎「よく寝る男だぜ。コウ手めぇなんにも知らねぇな。」

北八「知らねぇとは、何を何を。」

弥次郎「今、俺が次の間の女の所へ行ったことを。」

北八「ヤァおめぇもう行って来たか。エエ残念、残念。」

弥次郎「イヤ奇妙だぜ。あいつなかなか手のある奴。そのくせ大のすけしゅうと見える。手めぇも、後へしかけさっせえ。よく寝入っているから。」

北八「ソリャありがてぇの。おらァありようはおめぇを出し抜いて、先駆けをしようと思っていたが、ツイ寝入ってしまった。遅ればせに駆け出そうか。」

弥次郎「早く、行かっし。」

北八「オット承知、承知。イヤまたおいらァおめぇのようなこっちゃァねえ。こっちに手が万とあるから、思い入れかきのめしの大喜びに、嬉しがらせてこよう、しめた、しめた。」

 と、むくむくと起きあがり、襦袢一つにて、そろりそろりと次の間へ、出掛ける後ろ姿のおかしく、弥次郎は一人ふき出しそうになり、見ているうち北八は暗がりをさぐり、さぐり、かの鼻之助が、よく寝入りいる様子を考え、そろそろと布団をまくりかけ、後ろのかたより手を入れて探り回わせば、疝気にてふくれたる金玉が手にさわり、北八はっと驚き、肝をつぶし、そうそう飛び退きて両手を組みしばらく考え、さてはかど違えせしか、今のは、かの親仁が金玉に相違なし、さすれば目指すしろものはこちらの方かとそろそろ這い出し、親仁の寝ている布団の中へ、ずっと入ってしがみつき、頬べたへねぶりつけば、親仁目を醒まし、

親仁「あいた、あいた、ど奴じゃぞい。」

と、大声をあげたるに北八きゃっとびっくりしてうろたえ回り、逃げんとするふんどしの端をとらえて、

親仁「コリャ待ちおれ、待ちおれ、太夫寝てかいの、起きてくれやい。ど奴じゃ知らんが、わしが寝間へ入りくさって、首にかけておる財布目がけおる様子じゃ。コリャコリャどこへも逃がすこっちゃない。サア火ィ灯してくれやい、太夫、太夫。」
と、呼ぶ声に、鼻之助起き上がり、

鼻之助「なんじゃ盗賊じゃ逃がさんすな。何取られたもしれんさかい。」

 と、奥の間に行き弥次郎の枕元にある行灯を提げてくる。北八は逃げようとすれども、褌(ふんどし)の端を取られ、締め付けられてまごまごするうち、行灯に顔を見つけて、

鼻之助「ヤァヤァおまいかいな。コリャどうじゃいな。」

親仁「イヤこのわろ達は、合点のいかぬ衆(しゅ)じゃと思うたが、道理こそ、人の寝ておる所へのめり込んで、なんとさらすのじゃ、コリャすまんぞ、すまんぞ。」

 と、もってのほか声高に言うにぞ、勝手へ聞こえては業さらしと、北八色々にことわり言えどもつんぼうゆえ一向に聞き入れず、

親仁「イヤイヤ何と言わんしても聞かぬ聞かぬ。これ宿の衆(しゅ)、皆起きさんせ、起きさんせ。」

北八「コレサコレサ先静かにしてくんなせぇ。わっちは泥棒でも何でもございやせぬ。恥を言わねば理が聞こえやせんが、ありようはおめぇの娘御の所へ這いこもうと思って、ツイかど違えをいたしやした。」

 と、指の先で畳へ書いて見すれば、親仁力みかえったなりで、よみをはり、

親仁「エエ何言うぞい。わしが娘の所へとは、コリャわりさまは気ばし間違ごうてかいな。わしどこに娘を連れもうて来たぞい。コリャこちの息子じゃわいな。」

北八「ナニナニおめぇの息子だ。そんなら女じゃァねえのか。ヤァヤァどうりこそ、大きな金玉であった。」

親仁「何言うても、こちゃ聞かんのじゃ、マアわしがこの財布の紐へ、何でこなた手をかけたじゃ。」

北八「わしゃ金玉かと思いやして。」

親仁「ナント」

北八「アノ金玉かと思ってさ。」

 と、耳のはたへ口を寄せて言えば、

親仁「ナニ首筋に金玉があるものかい。そないなちゃらくらくうのじゃない。ありていに言わんせ。」

北八「イヤ息子殿の金玉で、こいつ間違ったと思ったから、それでおめぇの中へ。」

親仁「ナニ息子の金玉が間違うて、わしが中へ入るものかいの。やくたいもないことを、ぬかしくさる。そないなこっちゃすまんぞ、すまんぞ。」

 と、だんだん声高になる。北八いろいろに言い訳し、鼻之助にも頼みて、ようよう親仁をなだめ納得させ、すごすごとわが寝どころに帰り這い込めば、弥次郎こらえず、くつくつと吹き出し、

  めずらしや狸寝入りをしてきけば とりちがえたる金玉の論

北八「エエおめぇもいいきぜんな、俺をばとんだ目に遭わせた。」

弥次郎兵衛「ハハハハこれで寝心がいい。サア休まっし、ご体儀(たいぎ)、ご体儀。」

 と、はては大笑いとなりて、それよりは双方とも静まりかえって、一寝入りに夜の明くるまで、打ち伏したるが、朝務めの寺の鐘耳にひびき、烏(からす)の声かしましく告げ渡るに、早起きいづれど、夕べのいさくさ、両方とも今朝はしみじみものを言わず。勝手より膳も出でたれど、挨拶もそこそこ食いしまい、支度して発ち出づるとて、

弥次郎兵衛「サアどなたも出掛けやしょうか。」

親仁「イヤこなさん達とは、もう連れもうてはいこまいわい。先行かんせ、行かんせ。」

 と、とりあわざれば幸いと、弥次郎・北八二人のみ先へ出掛けて、かの男を女と思い違いせし話など、語り興じて弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠を打ち越えて、屏風ヶ浦というに下り立つ。

  薄墨に隈どる霞ひきわたす 屏風ヶ浦の春の景色


   十一、多度津


 それより弘法大師の誕生し給うという垂迹の御堂を過ぎて十四津橋を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。

弥次郎兵衛「チトそこらで休もうか北八手めぇどうぞしたか。とんだ顔つきがなまけてきた。」

北八「イヤ今朝からどうしてか、虫歯が痛くてならねぇ。久しくこんなことはなかったが、アアこたえられなく痛んできた。」

弥次郎兵衛「ソリャわりいの。金毘羅様へ願をかけるがいい。」

北八「酒を断ってか。そうはいかねぇ。」

弥次郎兵衛「イヤ幸い向こうに、アレ金毘羅御夢想虫歯の薬という看板がある。買ってつけて見さっせえ。」

北八「ドレドレあんまり痛い。買ってみようか。」

 と、かの看板のある家を見れば、いたって粗相なる格子づくりにて、間口はわずか二間ばかりのうちなり。少しの玄関めきたるところに立ち寄り、

北八「ハイちとお頼み申しやす。」

 と、このうち奥より主と見えたる、五十あまりの大柄なる総髪の男、袖なし羽織の、のりこわきを着て、

主「どっちゃからわせられた。」

北八「アイ虫歯の薬を下さりませ。」

主「エイ虫歯もいろいろありおるが、こなさん虫歯かい。」

北八「ハイわっちでござりやす。今朝からどうも痛んでなりやせぬ。」

主「ドレ見せさんせ。」

北八「ハイさようなら御免なさいやせ。」

 と、腰を掛けてそこら見回せば、正面に人の胎内の図を描きたるを掛け、傍らに天狗の面を据えて、白幣に神酒など供え、そのほか口中療治の道具を並べてあり、主(あるじ)鉄にてのべたる、茶杓のようなるものを持ち出、

主「ドレドレずとこちらへ寄って口を開かんせ。」

北八「ハイハイ、アアン」

 と、口を開く。

主「ハテえろう大き(おっき)な口じゃ。そしていこ不掃除なこっちゃの。歯糞だらけじゃ。これじゃおなごなぞは嫌がるじゃあろ。」

弥次郎兵衛「さようさ。この男はとかく女には嫌われます。」

主「そうじゃろう、そうじゃろう。虫歯は下歯か上歯かいの。」

北八「下歯でござりやす。」

主「ムム下歯は陰に属し口を合わすれば上歯の内につらなり、もし外に向かってこれをひねれば抜け易し、とある。これか、これか。」

北八「アイタタタタ。」

主「こりゃ、薬おかんせ。なるほど一旦はようなっても、また悪なると他の歯へうつるさかい、コリャ抜いたがよいわいの。」

北八「抜くはいいが、ごうぎに痛みやしょ。」

主「ナンノイナ痛ないように抜いてしんぜましょう。」

弥次郎兵衛「とてものことに、再びおこらねぇように、抜いてもらうがよかろうぜ。」

主「さよじゃ。コレお方、釘貫もてごんせ。」

北八「エエ、アノ釘貫で抜くのかえ、とんだことを。」

主「ナニ痛ないように、あじょうするさかい、気遣いさんすな。」

 と、釘貫をとり寄せ、

主「サア目をねぶってまた口をアアンとやらんせ。アア、コリャ臭い口中じゃ。この口の臭さきは胃火食鬱(いかしょくうつ)なり、喉の腥(くさき)は肺火痰滯(はいかたんたい)なり、とある。ソリャ抜くぞ。」

北八「アイタアイタ、コリャ鼻をねじってどうしなさる。」

主「これはしたり、脇見して歯と間違えて、ツイ鼻を抜こうとした。しかし抜いてもだんない鼻じゃ。あるやらないやら、低うてしれん鼻じゃわいの。」

北八「イヤそんなにおめぇ茶化さずと、早くお頼み申しやす。」

主「よいよい、いんま一気に抜くわいの。しかしこれじゃいかんわい、仰向けにならんせ。ソレ枕やろわい。オオそうじゃ、そうじゃ。ときにわしが療治はすべて金毘羅の御夢想じゃさかい、アレ見やんせ、金毘羅様が勧請してあるわいの。随分と信心さんせ。こなさんたちもさだめて金毘羅参りじゃあろが。あこのは南無象頭山金毘羅大権現と唱えるが、こちの所(とこ)の金毘羅は、唱えようが違うわいの。」

北八「なんと唱えやすの。」

主「わしがとこのは、南無歯抜きの金毘羅様と。」

北八「イヤおめぇも悪く洒落なさる。もういいかげんにして、早くお頼み申しやす。」

主「心得ました。そのかわりわしが療治はちと無礼なことがありおるが、了見さんせ。ソレ抜くぞ。」

 と、口の内へ釘貫を押し込み、北八が顔を足にて踏まえにかかる。

北八「アア、コレめっそうな。人の顔を足で踏まえて。」

主「ハテそじゃさかい、断り言うたのじゃ、じっとして居やんせ。こうせにゃ、抜くのにこたえがないわいの。」

 と、思うさま顔を押し付てぐっと歯を抜く。

北八「アイタタタタ、コリャもう飛び上がるように、オオ痛、痛。」

主「もうよい、もうよい。コレコレお方、そのぬるま湯に塩入れて持てごんせ。サアサアこれで後をよく洗わんせ。」

北八「エエ人を馬鹿にした、いかに療治だどって、人の頬(つら)を土足にかけてとんだ目に遭わせた。」

 と、ぶつぶつ小言言いながら、かの塩湯にてうがいし洗ううち、この近辺の人と見えたる男、表口よりずっと入り、

太郎「エイ、岩龍様ネヤ。」

主「オイ太郎太殿、ようわせられた。」

太郎「わしネヤ昨日ぶりおまいが、入れてくれさしゃました歯がナァ、緩んで一気に抜けおったわいネヤ。どうばりと入れ直してくれさしゃませ。」

主「ハテ抜けるはずはないがや。」

太郎「そじゃてて見やしゃませ。こないにつん抜けたネヤ。」

 と、足に履いている下駄を見せる。

北八「イヤおめぇ下駄の歯も入れなさるか。」

主「さよじゃ。わしいったい下駄の歯入れじゃわいの。それからの思いつきで、人の歯も入れおるて。」

北八「エエどうりこそ禄な事はしねぇ。いまだにやっぱりアア痛てぇ、痛てぇ。」

主「ナニもう痛みはしょまいが、ドレ見せさんせ。イヤァ、コリャ痛いはずじゃ、虫歯抜かいで、ツイその隣の歯を抜いて除けたわいの。」

北八「ヤアヤアどうりこそ。アア、痛てぇ、痛てぇ。」

主「ドレ抜き直してあぎょわいの。」

北八「イヤよしやしょう。またその隣の歯を抜かれちゃァなりやせん。」

主「そしたらこうさんせ。おまいの歯を皆抜いてあぎょわいな。その中には虫歯もあろさかい、それがよかろじゃないかいな。」

北八「エエこの男はいいかげんに人をちょうさいぼうにしやァがれ、虫歯を抜くとって、何ともない歯をなぜ抜きやがった。元のとおりにして返しやがれ。」

主「イヤこなさん、いこ腹立ててじゃの。なるほど他の歯を抜いたはこちの誤りじゃさかい、そこへ入れ歯してやろわい。幸いここに下駄の歯の不用になったのがあるさかい、これを入れてやろかいの。」

北八「エエとんだことをぬかしゃァがる。下駄の歯がおいらの口へ入れられるものか、いめぇましい。サア弥次さん行きやしょう。初手よりかなお歯が痛んできた。オオ痛、オオ痛。」

弥次郎兵衛「ハハハハなかなかいい慰みであった。」

   肝心の虫歯は抜かず釘貫に 舌を抜かるるよりはましなれ

 かく読みてうち興じたるに、北八はなま中の事仕出して、いよいよ痛み強けれどせんかたなく、頬をかかえながら、ようようのことにて、その日の未の刻過ぎに丸亀の宿、例の大物屋にぞ辿り着きぬ。
                        (おわり)

(69)“少年空海が身を投げた山”

  弘法大師空海が誕生した総本山善通寺から西に、標高約150メートルから約480メートルの山が連なっています。東の方から順番に、香色山(こうしきざん)、筆の山、我拝師山(がはいしざん)、中山火上山(ひがみやま)の五つの山で、これらを五岳山といいます。朝霧や夕霞に包まれた五岳山の姿は、讃岐を代表する風景の一つです。古代、この山麓まで入り江の海になっており、五岳連山の山影があたかも屏風を立てたように見えたことから、屏風浦と呼ばれたと伝えられています。

 弘法大師はこの五岳を五智如来になぞらえ、香色山は大日如来、筆の山は阿〔 〕(〔 〕は1字分判読不明)如来、我拝師山は宝生如来、中山は阿弥陀如来、火上山は釈迦如来の現われであると尊びました。このうち、我拝師山には、空海が7歳の頃、多くの人を救いたいと身を投げたという伝承が残っています。

 空海はその幼名を真魚(まお)といいました。ある日、真魚は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。

 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。

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(68)“紫の雲が出る山があり浦島太郎伝説が残る半島”

荘内半島(三豊市詫間町)


 香川県の西部に備讃瀬戸と燧灘(ひうちなだ)を画するように半島が北西に向かって突き出ています。この半島を荘内半島といいます。荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、陸繋島が発達して現在のような半島となったものです。半島の中ほどにある船越と大浜を結ぶ辺りはかつて海だったところで、船越という地名は島であったときの運河状態の海に船が通っていた名残だといわれています。
 「浦島」は、大浜・積(つむ)・生里(なまり)・箱(はこ)・香田(こうだ)の5つの浦と、粟島(あわしま)・志々島(ししじま)の2つの島をいいます。この中でも半島の先端にあたる箱の三崎は、昔から瀬戸内海航行上の重要な地点でした。このためここには、三崎大明神と呼ばれる神社が祀られ、航路の安全や管理を司る陣屋が置かれていました。そして、ここの関の浦という入り江は、鎌倉・室町時代、沖を航行する船舶から通行税を徴収していたところで、山口の上関、中関、下関と並んで、四大関所と呼ばれていたそうです。
 室町時代の初めの康応元年(1389年)3月、三代将軍足利義満は、山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに九州の南朝勢力を牽制し、また讃岐の宇多津にいた細川頼之に対面するため、宮島厳島神社へ参詣します。その途上、三崎神社に参拝し、次の歌を詠っています。
       へだてゆく 八重の汐路の浦島や 箱の三崎の名こそしるけれ

 このように、今の荘内半島とその近くの島からなる浦島は古い歴史を持っています。また、ここには浦島太郎伝説が残っています。そのストリーは次のようなものです。
 昔、浦島の三崎というところに住む漁師の与作とその女房の“おしも”との間に男の子が生まれ、太郎と名づけられました(あるいは大兵衛ともいわれています。)。その地は、太郎が生まれた地であることから、その後、生里(なまり)と呼ばれました。与作は仁尾の家ノ浦という所の出で、浦島の三崎に来て住んだ家を新屋(しんや)といいました。“おしも”は小浜(今の仁老浜)の出で、界隈きっての美人といわれた人でした。太郎はその母に似て美しい上に気立てもやさしい男でした。
 17、8歳の頃、太郎は猟師となって、浦島の各浦々岬々で釣をしていました。ある日、父の生家、家ノ浦へ行った帰り道、鴨ノ越(かものこし)という浜辺で、亀が子供らからいじめられている場面に出会いました。亀をかわいそうに思った太郎は、子供らから亀を買い受け、キビで造った酒を飲ませてやって海に放してやりました。鴨ノ越の海岸の向こう岸に丸山島という小さな島がありますが、そこには今も浦島神社が祀られています。
 5月の朗らかなある日、太郎はいつものように浦崎のどん亀石という岩の上で釣をしていました。夕方の薄暮れになり、帰り支度をしていると、静かにかすむ海の彼方から大亀が突然現れました。そして、亀は忽然として美女に姿を変え、過去の恩を感謝しそのお礼に竜宮へ案内することを告げました。どん亀石は、今も箱浦にあります。

 太郎は亀に連れられて海に出ました。そして、自分の歳を忘れて島々を渡り暮らしました。しかし、やがて遊び疲れた太郎は、古里に帰ることにしました。七つの宝物を亀に積んだ太郎は、乙姫に送られ、浦島のある浜に帰り着きました。その時、姫の腕の金輪がそこに落ちてしまいました。乙姫は太郎を送りとどけた後、潮の変わり目を待つため一時粟島に立ち寄り、その後竜宮へ帰ったそうです。太郎が帰り着いた浜は、宝物を積んで着いたことから積浦と呼ばれ、金輪が落ちた地は金輪の鼻と呼ばれました。また、姫が立ち寄った粟島の地は姫路と呼ばれました。
 古里に帰った太郎ですが、両親はすでに亡くなっており、村の様子も人々もみんな変わってしまっていて、知る人は誰一人いませんでした。まだ若い身のままの太郎は、毎日元気に釣りをして一人で暮らしていました。箱から、太郎が釣糸を持って毎日通っていたところは糸之越(いとのこし)と呼ばれ、若さを失わず毎日釣りをしていたところは不老の浜(ぶろま)と呼ばれました。糸之越には太郎が休んだという腰掛石があります。不老の浜は今の室浜というところです。
 太郎が帰ってから3年目のある日、粟島の海岸に亀の死骸がうち寄せられたと聞き、行ってみると、自分を乗せた亀でした。悲嘆にくれた太郎は、その死骸を粟島に葬りました。そこが今の亀戎社(かめえびす)です。そして分骨を自分が住んでいたところに祀りました。
 乙姫との再開の絆も切れたので、太郎は玉手箱を開けました。すると、箱の中から白煙が立ち上がり、太郎は白髪の老翁となってしまいました。そして白煙は、紫の雲となって山にたなびいて行きました。それから玉手箱を開けた地を箱浦、白煙がたなびいていった山を紫雲出山と呼ぶようになりました。この山は荘内半島で最も高い山で、標高352.3メートルです。

 その後、太郎は、母の里で老を養い、幾年かの後、父母の墓前に来て永眠してその霊は紫雲出山の中腹から昇天しました。太郎が余生を送った地は、仁義深い老人の浜という意味から仁老浜(にろはま)と呼ばれ、太郎が昇天した地は上天(じょうてん)(昇天)と呼ばれています。
 箱には、太郎親子の墓といわれる五輪の塔3基があり、その近くには弘化4年に建てられたという「諸大龍王」と刻まれた墓碑があります。また、亀の霊を祀る竜王社があります。竜王社では毎年、亀の命日とされる旧6月13日に、箱の各戸から薪木を持ち寄り、焚火を囲んで竜宮踊りをして亀の霊を慰めていたそうです。この踊りは箱の盆踊りとなり、8月14日の晩、その年に亡くなった人の盆灯籠を持ち寄ってその霊を慰める新霊踊り(あられ踊り)となって今に残っています。


 なお、この物語の細川頼之についは、37話「室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護」を参考にしてください。

 なお、この物語の細川頼之についは、37話「室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護」を参考にしてください。




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(67)“高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺”

  弘法大師空海は、真言密教を中国から日本に伝えた平安時代初期の僧です。宗教家としてのみでなく、一方では満濃池の修築など各地で土木工事を行い、また庶民教育のための学校を設立するなど、非常に精力的な活動をしています。また、書道でも後に嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆と呼ばれています。さらに絵画や彫刻にも優れ、土木、建築、医療、教育、学芸など、あらゆる分野に才能を発揮し、日本全国の津々浦々に「弘法伝説」や「お大師信仰」を残しました。
 
 高野山は弘法大師三大霊場の一つで、弘仁7年(816)に空海が嵯峨天皇から賜り、真言密教の根本道場として開かれた地です。中でも総本山とされている金剛峰寺(こんごうぶじ)は日本宗教界最高の地位に君臨し、日本仏教、政治、文化などで重要な役割を果たしてきました。高野山は平成16年7月7日には、熊野・吉野とともに世界遺産に登録されていま
す。
 
 また、京都の東寺も弘法大師三大霊場の一つで、平安京遷都後まもない延暦15年(796)に国家鎮護の寺として創建され、それから20数年後の弘仁14年(823)に、嵯峨天皇から空海に下賜されました。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となりました。平成6年12月、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

 この高野山の金剛峰寺、京都の東寺と並んで弘法大師三大霊場の一つに数えられている寺が讃岐の善通寺です。善通寺は、正式には屏風ヶ浦五岳山善通寺誕生院といい、真言宗善通寺派の総本山で、四国霊場第七十五番札所となっています。
 
 空海は奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日、現在の善通寺の地で誕生しました。生家の佐伯家は豪族で代々この地に住み、父は佐伯善通(よしみち)、母は玉依御前(たまよりごぜん)といいます。
 
 平安時代の始めの大同2年(807)、唐での留学を終えて帰国した空海は、先祖を祀る氏寺を建立しようと、父の邸跡に、かつて学んだ唐の青竜寺に模して伽藍を建立します。6年の歳月をかけて竣工し、本尊薬師如来を刻み安置しました。創建からちょうど1200年に当たる年が平成18年(2006)です。しかし、境内から出土する古瓦群からすれば、その創立はもっと古く奈良時代までさかのぼり、当初は佐伯氏の氏寺ではなかったかと考えられています。
 
 この寺の山号は西院の背後にそびえる香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の5峰にちなんで五岳山と名付けられました。これらの山が丁度屏風を立てたように並んでいるのでこの辺りを屏風が浦といいます。寺号は父の名をとり善通寺(ぜんつうじ)とされ、院号は大師誕生の地であることから誕生院とされました。
 
 善通寺はこのような古い歴史を持っていますが、戦国時代の永禄年間(1558~1570)には、阿波領主三好実休(じっきゅう)が、天霧城城主の香川之景(ゆきかげ)を討つために本陣を構えたことにより兵火に遭い、堂塔のほとんどが焼失しました。その後再建され今日に至っています。

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(66)“遠山の金さんと対立した妖怪が幽閉されていた丸亀”

 江戸時代末期の天保12年(1841)、12代将軍徳川家慶の信任を受けて老中に就任した水野忠邦(みずのただくに)は、綱紀粛正や経済改革などを基本とした天保の改革を実施しました。その背景には一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった国内不安やアヘン戦争などの対外的不安がありました。この改革では、倹約令を施行して、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えるとともに、人返し令を施行し、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させようとしました。そして、水野は、これを腹心の鳥居耀蔵(とりいようぞう)らに実行させます。
 
 鳥居耀蔵は、寛政8年(1796年)、幕府の昌平坂学問所の大学頭林述斉の次男として生まれ、旗本鳥居家の養嗣子となり、後に忠耀(ただてる)と名乗っています。学識が高かった反面、蘭学を嫌い、蛮社の獄では渡辺崋山ら洋学者を弾圧しました。天保12年(1841)に南町奉行となり、さらに勘定奉行も兼務してその権力は幕閣随一といわれました。
 
 天保の改革の下、耀蔵は目付や南町奉行として市中の取締りを行います。その市中取締りは非常に厳しく、かつ、おとり捜査を常套手段とするなど陰険極まりないものでした。このため、耀蔵は甲斐守だったところから、その名をもじって「耀甲斐(ようかい)」すなわち「妖怪」と恐れられたといいます。鳥居は悪知恵にたけていて、自分が好まない者を罪に落し入れ、深く憎まれていたそうです。
 
 この鳥居耀蔵とライバル関係にあったのが、遠山金四郎こと遠山景元(かげもと)です。腕に桜吹雪の入れ墨をした「遠山の金さん」として浪曲・講談・ドラマのモデルなった人物です。北町奉行だった遠山は、江戸市中の改革をめぐって鳥居と意見が対立します。天保の改革を厳格に実行しようとした鳥居に対して、遠山はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとしました。例えば鳥居がある時、風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止しようとした時、遠山は数軒を残せるように交渉し、江戸の人々に喝采されました。
 
 何かと対立していた二人ですが、天保14年(1843)、鳥居が非常に巧妙な策略で遠山を陥れ、北町奉行から閑職の大目付に転任させます。町奉行から大目付になるのは、形式上は昇進でしたが、事実上の左遷でした。
 
 しかし、水野忠邦が上知令(じょうちれい)の発布を計画し、これが諸大名、旗本の猛反発を買った際、鳥居耀蔵が反対派に寝返ります。上知令は、江戸や大阪の周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、その替わりに他の幕府直轄地を与えるというものでした。このため水野は老中辞任に追い込まれて改革は約3年間で頓挫してしまいます。ところがそれから間もなく、水野が再び老中として幕政を委ねられると、今度は状況が一変し、鳥居は弘化元年(1844)に失脚します。
 
 水野は自分を裏切り、改革を挫折させた鳥居耀蔵を許さず、職務怠慢・不正を理由に奉行を解任し、身柄を丸亀藩お預けとします。一方の遠山は、南町奉行に復帰し、嘉永5年(1852)まで、再び南町奉行として活躍しました。大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は異例中の異例ともいえるものでした。
 
 厳重な警固のもと、鳥居は江戸から丸亀に護送されます。丸亀藩は六番丁の御用屋敷に鳥居耀蔵を幽閉し、その周囲には青竹の矢来を張りめぐらしたといいます。しかし、幕府からの大事な預かり人だったので、自殺することを防ぐため5、6人の家臣が昼夜交替で監視するほか、召使いの女や医師も置くなど、その生活ぶりには気を使っていたといわれています。
 
 鳥居耀蔵は林家の出身らしく学識が豊で、丸亀藩の藩士を相手に学問についてよく語ったといわれています。また藩士たちもわからないことがあれば鳥居様に尋ねるとよいといって尊敬していたともいいわれています。
 
 罪が許され幽閉が解かれるのは明治維新になってからです。鳥居耀蔵の丸亀での幽閉生活はじつに23年にも及びました。明治元年(1868)、鳥居は許されて、郷里駿府(静岡)へ帰り、明治7年(1874年)10月に亡くなりました。

丸亀城

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