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(58)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”

 伊能忠敬(いのうただたか)は江戸後期の1745年(延享2)年に生まれ、下総国佐原村(千葉県佐原市)で酒造、米穀取引などを営む一方、村政にも尽くして名主に命じられ、苗字帯刀も許されていました。  50歳のとき、隠居して江戸へ出、高橋至時(よしとき)に師事して本格的に暦法・天文学の勉学を始めます。その後、その高度な測量技術が幕府に認められ、日本全国の沿岸を測量し、わが国で初めて全国測量地図を作製しました。忠敬とその弟子たちによる測量は、忠敬が55歳から71歳までの足かけ17年間にわたり全国津津浦浦で行われました。

 1808年(文化5年)忠敬は讃岐を測量していますが、その2年前、高松藩では、久米通賢(みちかた)が忠敬と同等の精密な地図を忠敬よりも早く、しかも独自の方法で作製していました。忠敬の影響で全国の各地方でも精密な地図を作製した例はあったようですが、忠敬より前には例がないそうです。

 通賢は、平賀源内が獄死した翌年の1780年(安永9年)、大川郡引田郷馬宿村(現在の東かがわ市引田町馬宿)に、船の舵とりと農業を兼ねる家に生まれました。通称を栄左衛門といい、忠敬より35歳年下です。幼少の頃から利発で器用であったといわれ、7歳のときに大坂の時計屋で、6両もかかる時計の修繕を2両で直して客の困窮を助けたという話が伝えられています。

 19歳(寛政10年)になると大坂の天文学者間重富(はざましげとみ)に入門し、天文・測量学を学びます。間重富と忠敬の師である高橋至時は麻田天文暦学の同門で、通賢と忠敬は兄弟弟子ということになります。

 その後帰郷した通賢は、1806年(文化3年)、27歳のときに高松藩の御用測量方を命ぜられます。測量実施のきっかけは、忠敬の測量を聞いた八代藩主松平頼儀(よりのり)が先手を打ったともいわれていますが定かではありません。通賢は自分で製作した測量器具を携え、助手10人らとともに、領内を東の引田浦通念(つうねん)島から西の土器村へ海岸線に沿って測量を始め、内陸部を折り返し、再び東の国境に至っています。

 その2年後、伊能忠敬が測量のため来讃しました。その測量期間は54日間で、通賢は案内・接待役を務めます。「伊能忠敬測量日記」によると、通賢は西条城下や丸亀城下滞在の忠敬を訪ね、津田村滞在から引田村出立までは日々測量に付き添い、後日徳島領撫養在宿にも訪問しています。言い伝えでは、そのとき通賢が2年前に測量した地図を忠敬に差し出したところ、忠敬はこれを見て感嘆し、通賢の努力を大きくたたえたといいます。

 伊能図と久米図はほとんど同じ水準の正確な地図でしたが、忠敬の測量は旧式技術で、通賢は日本で初めて「バーニア副尺」を取り入れた高精度の新式測量器具を開発し、新式技術で測量していたといわれています。当時の日本では旧式技術の「対角斜線副尺」を使用していましたが、バーニア副尺はヨーロッパで主流だった新式技術で、測量の精度が旧式技術の2倍になりました。日本でバーニア副尺が使われ始めたのは幕末ごろといわれているので、通賢はこれより約半世紀も早く使っていたことになります。このため「通賢はバーニア副尺の原理を理解し、独自の工夫で測量に応用した日本最初の人」とその独創性が高く評価されています。

 また、その後、通賢は測量だけでなく、兵法や銃砲などの武器、揚水機の研究開発にも力を入れています。揚水機については、「養老の滝」と名づけた模型を作って、大坂と江戸浅草で宣伝興業を行っています。

 このように通賢は科学技術者として活躍しましたが、優れた経世家でもありました。1824年(文政 7年)45歳のとき、高松藩の逼迫した財政を立て直すため、経済政策を建白しています。この頃の高松藩は天災などが相次ぎ財政は危機的状況にありました。このためときの第九代藩主松平頼恕(よりひろ)は、難局打開方策について広く意見を求めたのです。建白書の主な内容は、砂糖製造業者の保護や坂出沖の塩田の開発による産業の振興、財政支出の抑制、役人の数の減少、優秀な人材の登用などです。中でも塩田開発については、「もし見込み違い御座候節は、一命を差し出し」と覚悟のほどが記されています。

 しかし、坂出沖塩田の開発には多額の費用が必要であったため、藩内には強い反対意見がありました。通賢はもともと武士の出でなく、藩内測量などの功績が認められて30代中頃に茶道小頭に準じた御茶道並(おさどうなみ)という待遇と「久米」という苗字を与えられた者で、家中には成り上がり者は出しゃばるなという保守的な雰囲気があったのかもしれません。このような中で、頼恕は藩内の反対を押し切り、通賢の建白を採用します。建白をした者の身分を問わず、内容の良いものであれば採用するという頼恕の度量の大きさ・英明さをうかがい知ることができます。

 建白書提出から2年後、通賢は塩田開発の責任者である普請奉行に命ぜられ、寝食を忘れて工事に没頭します。途中、既存の塩業者の反対と資金調達の両面で暗礁にのり上げますが、頼恕の協力で解決します。しかし資金の面では、藩からの提供だけでは十分ではなく、通賢と親戚までも含めた一族の財産を使い果たすほどの協力で、工事の完成を迎えたといいます。こうして総面積 131haという大がかりな塩田開発はわずか3年5か月で完成します。坂出塩田は通賢の企画・実行力と頼恕の決断力によってできたといっても過言ではないでしょう。

 後年、通賢の名声は藩外でも高まり、別子銅山の水抜き工事、大坂の淀川改修工事の設計、遠州新居湊の改修計画を手掛けたほか、「どんどろ付木(つけき)」といわれたマッチの製作と鉄砲への応用を研究しています。しかし通賢は坂出塩田開発事業にすべての財産を使い果たしていたため貧困のうちに1841年(天保12年)、62歳で亡くなりました。

 通賢と頼恕によって築かれた坂出の塩田はその後塩業王国讃岐の基礎となっていきます。このことから通賢はよく「塩田の父」として知られていますが、多才な活躍をした江戸時代の先端科学技術者でもありました。

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(57)“七つも富士のある讃岐平野”

讃岐富士

 全国各地には富士と名のつく山がたくさんあります。それらは、その姿が富士山に似ているとか、その地の代表的な山であることから富士と言われるようになったものです。

 讃岐平野は四国の北東部に位置し、北の瀬戸内海と南の讃岐山脈に挟まれた東西に伸びる細長い平野ですが、この平野にポコンと顔を出したオムスビ山と呼ばれる、ほとんど円錐形に近い形をしたビュートという山々が多く見られます。これらの中でも、特に富士山に似た形をして姿の優れている七つの山が、讃岐七富士と古くから呼ばれています。

 この七山とは、讃岐富士(①)、三木富士(②)、御厩富士(③)、羽床富士(④)、綾上富士(⑤)、高瀬富士(⑥)及び有明富士(⑦)です。なお、讃岐七富士ではありませんが八冨士の一つとして陶冨士(⑧)が数えられることがあります。どの山もお椀をひっくり返したようなおだやかな稜線をえがいているのが特徴です。

 讃岐平野は、今から約1400~1100万年前の火山活動で溶岩に覆われたと考えられています。そのときできた溶岩台地はその後雨水や風で侵食されていきましたが、岩質の違いの重なり方が、オムスビ型の山をつくった主な原因であると考えられています。つまり、山頂部は浸食作用に強い「安山岩」、その下の低山部は浸食作用に弱い「花崗岩」でできていたため、花崗岩の部分が崩れ、侵食されにくい安山岩に覆われた上部だけが小高い丘として残ったと考えられています。その証拠に、これらの山の山頂には安山岩の柱状摂理を見ることができます。これは火山岩が冷却や圧縮を受けてできた柱状の割れ目です。

 その後河川の堆積作用によってできた沖積平野が讃岐平野で、平野が広がるにつれ島であったところが陸続きになり、山となったと考えられています。
 

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(56)“讃岐に残る日本武尊の弟と息子の物語”

  綾川の流域、古くは讃岐国阿野郡(あやぐん)と呼ばれていた地方には、悪魚退治伝説と呼ばれる次のような古代の物語が伝えられています。
 
 第12代景行天皇の頃、それは1世紀の頃ではないかと考えられていますが、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った天皇は息子の日本武尊にその悪魚の退治を命じました。しかし尊は自分の息子の武殻王(たけかいこおう、武鼓王、武卵王、建貝児王とも書かれる)にその役目を命じるように天皇に勧めます。武殻王は尊が吉備武彦の女(むすめ)・吉備穴戸武姫(あなどのたけひめ)と結婚して生まれた第5皇子で、このときの年齢はわずか15歳でした。

 悪魚退治を命じられた皇子はさっそく土佐に向かいます。ところが大魚はすでに阿波の国鳴門に移りさらに讃岐国槌途(つちのと、槌戸とも書き、大槌、小槌付近の海)で暴挙の限りを尽くしていました。 皇子は讃岐まで大魚追いかけ、綾歌郡綾川の上に陣をしき、80余人(88人ともいう)の兵を軍船乗せ、大魚に戦いを挑みます(①)。

 しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、皇子と兵は船もろともたちまち大魚に呑まれてしまい、兵は大魚の毒気に皆倒れました。この危機の中、皇子は隠し持った道具で火を炊き、火に焼かれてもがき苦しむ大魚の腹を切り裂きついに脱出に成功します。そして皇子の乗った大魚の死骸は海岸に流れ着きました。しかし魚の毒気にあてられた兵は死人のようでした。そこへ白峰の方より雲に乗って一人の童子が現れ(②)、水の入った壺を持って兵たちに飲ませるとたちまち蘇生しました。童子は横潮大明神という神様(③)で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場(八十蘇)の清水と名付けられました(④)。

 大魚の亡骸は、それが流れ着いた浜に魚御堂が建てられて供養されました(⑤)。そこには大魚の腹部が地上に埋め残されていたので、この浦を腹江転じて福江といい(現在の坂出市福江町の県立坂出高校付近)、尾が海まで続いたのでその尾のあたりを江尻というそうです。更に、里人たちが皇子の成功を祝して、お供を献じたところが御供所だということです。景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃岐に留まる霊王という意味から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれました(⑥)。讃留霊王は124歳まで長生きし、その子孫が綾氏だといわれています(⑦、⑧)。

 以上が中讃地域に残る武殻王の悪魚退治伝説ですが、この物語は東讃にも残っており、さぬき市志度には、悪魚のたたりを封じたというお堂(⑨)や、「えの魚」の口を葬ったことに由来するといわれる「江の口」という地名が残っています。

 また、悪魚退治物語の主人公は神櫛王(かんぐしおう)であるともいわれています(⑩)。神櫛王は、父が第12代景行天皇で、母が稚武彦命(わかたけひこのみこと)の娘である五十河媛(いかわひめ)です。稚武彦命は讃岐国平定で先陣を切り、桃太郎のモデルになった人物ともいわれており、神櫛王の祖父に当たります。また景行天皇には別の女性との間に既に生まれた日本武尊がおりましたので、神櫛王日本武尊の異母弟に当たります。したがって、神櫛王武殻王は系譜上叔父、甥の関係に当たります。神櫛王は讃岐の国造(くにのみやつこ)の始祖とされており、その子孫が分かれて三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾等の諸氏が生まれ、主として山田、三木、寒川の諸郡で繁栄したといわれています。神櫛王の伝承は東讃が中心ですが(⑪、⑫)、中讃にも残っています(⑩、⑬、
⑭)。

 これらの伝承を裏付ける歴史的記述はありませんが、桃太郎伝説とともに、大和勢力による黎明期の讃岐統一の物語の一つといえるかもしれません。


 



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(55)“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”

 江戸幕府による封建制にゆるみが見え始めた18世紀末、徳川家斉(いえなり)が11代将軍につくと、田沼意次(おきつぐ)はしりぞけられ、八代将軍徳川吉宗の孫にあたる白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中になりました。定信は、賄賂が横行した田沼時代の政治を改めるため、吉宗時代の享保の改革を理想とし、思い切った幕政改革を行いました。これを寛政の改革(1787年~1793年)といいます。
 定信は、質素倹約と文武を奨励し、儒学のうち朱子学を幕府の正学と定め、幕府の学問所である昌平坂(しょうへいざか)学問所では朱子学以外の講義を禁止して武士の思想を統制します。これを寛政異学の禁といいます。また、封建制の建て直しを図るため、商人から借りた借金を棒引きにするという棄捐令(きえんれい)を出して商人の借金に苦しむ武士を救い、都市に流出した農民に帰農令を出して農村の復興を図り、銭湯の男女混浴を禁止するなど風紀をひきしめます。一方では、囲い米令(かこいまいれい)による飢饉対策、足寄場(にん人そくよせば)による浮浪人対策などの社会施策も行います。
 この定信の施策のブレーンとして幕政に大きく貢献したのが、讃岐出身の儒学者である柴野栗山(しばのりつざん)です。

 栗山は、1736年(元文元年)に、讃岐国三木郡牟礼(現在の高松市牟礼町)で生まれました。名を邦彦もしくは彦輔といい、八栗山の近くで生まれたので栗山と号しました。10歳のとき高松藩の儒者・後藤芝山(ごとうしざん)の門に入り、牟礼から高松まで片道8キロの道のりを8年間毎日往復しました。
 そして18歳のとき、江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に入ります。そこは幕府の保護を受けた朱子学の学問所であると同時に、林羅山に始まる林家の家塾でもありました。おもしろいことに、この時、栗山に後れること3日、平賀源内も昌平黌に入ってきています。源内は牟礼の東隣の志度の出身で、栗山より10歳年長でした。
 栗山は昌平黌で12年間儒学を学び、1765年(明和2年)、30歳のとき、さらに日本古来の学問である国学を学ぶため京都に行きます。そして、ここで得た縁故で、1767年(明和4年)から阿波藩に仕えます。阿波藩仕官時代は20年に及び、江戸藩邸で講義したり、京都で塾を開いたりし、しだいに広く名が知られるようになりました。
 この栗山の評判が幕府老中松平定信の耳に入り、1788年(天明8年)53歳のとき、幕府の儒官として登用されることになり、「寛政の三博士」の一人に数えられました。栗山は、定信の政策顧問としても仕え、「寛政異学の禁」はその建議が入れられたものです。寛政の改革は栗山の献策に負うところが多いといわれており、栗山はおぎゅうそらい荻生徂徠室鳩巣(むろきゅうそう)以来の政論家として数えられています。

 しかし、定信の改革は、あまりにも理想を追いすぎたため、多くの人の反感をかい、思ったほどの成果をあげる事無くわずか6年で終わりました 「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といいて夜も寝られず」という狂歌は定信の改革を皮肉ったものとしてよく知られているところです。しかし、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれていくことになります。

 栗山は、1807年(文化4年)、72歳で病に倒れるまでの約20年間、幕府の儒官として仕え江戸で没します。その墓は東京大塚坂下町の大塚先儒墓所にあります。
 栗山のような大学者が讃岐から輩出されたのは、歴代高松藩主の学問好きがその背景にあったと言われています。初代藩主より頼重(よりしげ)(水戸光圀の兄)は、徳川幕府の儒者・林鷲峯(はやしがほう)の高弟であった岡部拙斎(おかべせつさい)を、また二代目藩主・頼常(よりつね)(光圀の息子)は幕府の儒者・林信篤(のぶあつ)の門人菊池武雅(たけまさ)らをそれぞれ藩儒に迎え、五代藩主・頼恭(よりたか)と六代藩主・頼眞(よりざね)は藩校講道館の建設に力を注ぎ、熱心に学問、教育を奨励しました。



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(54)“讃岐に残る桃太郎と姉の物語”

倭迹迹日百襲姫命と井五十狭芹彦

 倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめのみこと)は第七代考霊天皇の皇女で、神話のなかでは、三輪山の主である大物主命との神婚の話がいわゆる箸(はし)墓伝説として有名です。「日本書紀」の崇神天皇の条には、次のように記されています。
 
 倭迹迹日百襲姫命大物主命の妻となりましたが、夫は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることができません。そのことに日々不満を募らせ、ある夜、是非顔が見たいと強引に迫りました。そこで大物主命は、「朝になったら櫛箱に入っているが、姿を見ても決して驚くなよ」と告げました。翌朝、櫛箱を開けた姫が中にいた小さな蛇を見て驚き叫ぶと、蛇はたちまち若者の姿となり、恥をかかされたことを激怒して、大空に飛び上がって三輪山に登ってしまいました。姫はそれを見て自分の行いを後悔し、箸で女陰を突き刺して死んでしまいました。後に姫が葬られた墓は、昼は人間が、夜は神が作ったといい、それを当時の人々は箸墓と呼びました。
 
 現在、倭迹迹日百襲姫命が葬られている墓は大和(奈良県桜井市)の三輪山麓西側にある箸墓古墳で、「大市墓(おおいちのはか)」といいます。日本でもっとも古い巨大古墳(全長約280m)であり、そのことから百襲姫は卑弥呼ではないかという説もあります。百襲姫という名は数々の勲功をあげたこと(襲は勲功の意味)によるもので、実際に「日本書紀」の記述にも、百襲姫はたいへん聡明で英知に長け、霊能力が優れていたと記されています。
 
 また、倭迹迹日百襲媛命には、吉備津彦命(きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこのみこと)という弟(息子という説もあります)がおりました。吉備津彦命は本来の名を五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、「日本書紀」に登場する四道将軍(しどうしょうぐん)の一人で、弟である稚武彦命と共に山陽道に沿って周辺域を平定し、さらに吉備国平定後、ここを足場として讃岐国、出雲国にも進出したといわれています。一説にはこの時の逸話が桃太郎伝説のモデルの一つになったと言われており、吉備国(岡山県)と讃岐国(香川県)には桃太郎伝説が伝わっています。ただし、「讃岐桃太郎」の主役は讃岐国平定で先陣を切った稚武彦命であるともいわれています。

 讃岐に残る倭迹迹日百襲姫とその弟桃太郎の伝説は次のようなものです。
 
 百襲姫は8歳のとき、讃岐国に派遣され、船で播磨灘を西へ進み、安堵の浦(今の東かがわ市引田町安戸)に上陸しました。そこから水清きところを求めて移動し、水主の里宮内に着きました。その地で御殿を造営して成人になるまで住み、土地の人に弥生米をあたえ、米作り又水路を開き、雨祈で雨を降らせ、文化を興隆しました。その地が今の水主神社です。この辺りの地名を「大内(おおち)」といいますが、その名は百襲姫の住居を付近の人たちが「大内」と称したことに由来するといわれています。
 
 その後、百襲姫は水主の地から船で西へ移り、現在の高松市仏生山の船岡山に宮を造り、讃岐地方の農業開発を指示しました。そしてさらに、農地開発を住民と共同作業するために、平地のど真ん中の農地のすぐそばに宮を造りました。その地が現在の田村神社です。
 
 その頃、桃太郎は吉備中山で鬼退治をしていましたが、吉備国内がある程度安定したため、讃岐の鬼退治のために姉の百襲姫命に会いにやってきました。鬼というのは、当時(2世紀後半)瀬戸内海の島々を中心にあばれていた海賊のことです。
 
 桃太郎は鬼を討つために衆を集めました。犬は犬島(岡山県の沖にある島)出身の水軍、猿は猿王(綾川町陶)出身の火を操る焼き物師の一族、雉は雉ヶ谷(高松市鬼無町)出身の弓の名手たちであると伝えられています。
 
 当時、生島湾近くには大きな泉があって鬼の子分が島から水を汲みに来ていたそうです。そこで桃太郎らはここで鬼の子分を取り押さえ、鬼ヶ島(女木島)へ行く道案内をさせ、鬼が島周辺で大海戦が行われました。鬼は島の岩窟に逃げ込みましたが、桃太郎は岩窟内に攻め込み鬼を降参させ、鬼の持っていた宝物を積んで中津の港に凱旋しました。しかし、鬼の残党が香西の海賊城に集まり攻めてきたので再び合戦になりました。桃太郎は急遽仲間に使を走らせて弓と矢をもってこさせ、威嚇のため弓の弦を鳴らしました。その辺りが「弦打」と呼ばれるようになりました。本津川一帯で激しい戦いが行われ、鬼はついに討たれ壊滅しました。鬼がいなくなったことから、その地域を「鬼無」と改名したということです。

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(53)“世界最初に固定翼型飛行原理を着想した地”

 京都の八幡市に“飛行神社”という航空の先覚者と航空殉難者を祀る神社があります。この社は、天磐船に乗って空を翔けたという饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祭神とする奈良県生駒郡の矢田大宮から分詞して、二宮忠八(にのみやちゅうはち)が自ら神主となって創建したものです。
 1903年(明治36年)12月17日、アメリカのライト兄弟が人類史上初めて有人飛行に成功しましたが、忠八はそれに先立ち動力付き有人飛行機を着想したことで知られています。

 忠八は、1866年(慶応2年)、現在の愛媛県八幡浜市に商家の四男坊として生まれました。12歳のときに父が亡くなり家が困窮したため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働く一方、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていたといいます。また、生計の足しに自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したそうです。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれています。
 1887年(明治20年)、徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊します。そして、1889年11月のある日、野外演習の休憩で昼飯を食っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付き、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えました。当時までの飛行研究は鳥の羽ばたきに重点をおいており、この着想は画期的なものでした。その場所が、まんのう町追上の樅(もみ)ノ(の)木(き)峠です。
 これを基に忠八は、カラス型の模型飛行機を作成し、1891年(明治24年)4月29日、3mの滑走の後10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させました。さらに2年後の10月には有人飛行を前提にした四枚翼飛行機「玉虫型飛行器」の模型を作成しました。

 その後、日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での飛行機の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司に上申しました。しかし、「戦時中である」という理由で却下されました。
 軍は乗り気でないと感じた忠八は退役して製薬会社に入社します。ところが、そこで経営手腕を大いに発揮して業績を挙げ、ついには大阪実業界で重きをなすまでになります。経済的余裕のできた忠八は、会社の経営のかたわら、再び飛行機研究に没頭します。
 しかし、1903年(明治36年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功します。このニュースはすぐには日本に伝わらなかったようですが、その成功を知ったとき、忠八は愕然とし、動力源以外すでに完成していた飛行機の開発を取りやめてしまいました。
 
 その後、1919年(大正8年)、忠八は同じ愛媛県出身の白川軍中将を知り、かって軍に却下された研究書類を手渡します。白川がそれを専門家に諮ってみると、その飛行原理は正しく、しかもライト兄弟より前に発見、設計製作もされていたことが分かりました。こうして忠八が飛行機を考案してから30年の後、ようやくその飛行原理の真価が認められ、忠八の物語は国語の国定教科書にも載せられ、その名は全国に知られるようになりました。 忠吉はその後、大正4年に自宅の邸内に飛行神社を創建し、1936年(昭和11年)、71歳で亡くなりました。



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(52)“最初は88ヶ所以上あった四国霊場”

大窪寺
 
 四国霊場八十八ヶ所巡りは、お寺を一つ一つ詣ることで、巡礼者は自分の迷いを解き、身も心も清らかにして八十八の煩悩を取り除き、悟りを開いていくことができるといわれており、四国が誇る偉大な文化です。わが国では、昔から島めぐり・国めぐりという習俗があって、各地で巡礼が行われていました。とくに四国は、弘法大師空海が青年時代に山や海辺に修行を求め霊場を開いた遺蹟が多く、その伝説とあいまって、平安末期頃から真言宗の僧侶たちによって空海修行の足跡を聖地として巡礼する遍路が生まれました。平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」にも修行僧たちが四国の辺地を巡り歩いていたさまが記されています。鎌倉時代になると弘法大師信仰が急速に広まり、その徳を慕い、修行地を巡る僧が多くなっていきました。

 弘法大師信仰の普及に大きな役割を果たしたものの一つが、高野(こうや)聖(ひじり)の活動です。彼らは空海が開いた高野山を拠点に全国を廻り、庶民に“お大師さん”信仰を広めて回りました。高野聖は、高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられた者で、自分の寺や弟子を持たず、托鉢や行商などで生活をしていたといわれています。四国は、空海が誕生し修行を行った地で大師信仰を受け入れる要素が強く、また高野山から適度の距離にあり、さらに比較的気候温暖で人情も厚いことから、彼らが”生活の場”として生きていける素地があったと思われます。

 戦乱の世も終わり、江戸時代になると庶民の間にも霊場巡りが広まっていきました。しかし、江戸時代の初めごろまではどこから回るか決まっておらず、札所数も90カ所、あるいは100カ所以上もあったといいます。それを現在のように八十八カ所の形を整えたのは、17世紀後半の江戸時代に活躍した真念という僧の献身的な働きがあったからだといわれています。

 真念は大坂西浜町寺島に住む高野聖だったらしく、土佐の出身らしいというだけで生まれた年は不詳です。自ら四国を20回以上回り、遍路そのものを人生とし、その生涯のほとんどを山野での修行に費やしたようです。その間、遍路道に200基以上もの道標石を立て、また遍路宿を開いています。これらは現在のように車もなく道も整っていない時代、お遍路さんの大きな助けとなりました。

 その最も大きな業績は、「四国(しこく)遍路(へんろ)道(みち)指南(しるべ)」(1687年)、「四国(しこく)遍路(へんろ)霊場記(れいじょうき)」(1689年)、「四国(しこく)遍路(へんろ)功徳記(くどくき)」(1690年)という3部作を著し、初めてにして完璧なまでのガイドブックを作ったことです。自らの足で巡る中で、札所数や順番さえ定まっていなかったものを八十八カ所に整理し、順番を決めていきました。四国遍路道は阿波鳴門の霊山寺が一番札所で、そこから右回りに四国を一周し、88番目の結願寺が讃岐の大窪寺となっていますが、これは、上方から船で四国へ行くとすれば阿波の鳴門が最も近い所になるという交通の便のうえから決められたものと思われます。

 札所までの道順や寺の説明など、当時としては決定版といえるこれらの本は爆発的な売れゆきをみせ、四国遍路を一般大衆にまで広めるとともに、版を重ねて明治時代にまで続く超ロングセラーになりました。真念の書を越えるものが現れなかったのは、真念以上に四国遍路に情熱を注いだ者がいなかったからでしょう。そういう意味で、真念は四国遍路の父ともいえる人物です。本が売れて有名になっても、真念の生き方は変わらず、本の売上金はお寺の修繕などに充てたそうです。1693年(元禄6年)6月23日、志度寺近くの地で亡くなりました。四国遍路に一生をささげた人生でした。 




 

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(51)“小豆島に残る南北朝時代の恋物語”

小豆島_寒霞渓
 
 小豆島の東部にそびえる星ヶ城山(817メートル)は、瀬戸内海にある島々の最高峰で、北は岡山、東は淡路・鳴門、南は四国の山々まで一望することができます。

 鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月、後醍醐天皇は親政を開始しました。これを建武の新政といい、天皇は朝廷による政治を復権しようとしました。しかし、武士層を中心とする勢力の不満を招き、源氏の嫡流を汲む足利尊氏が離反して政権は瓦解しました。尊氏は新しい天皇を立てて京都に幕府を開き、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。吉野方を南朝、京都方を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけ、以後約60年間も全国にわたる争乱の時代が続きました。これを南北朝の時代といいます。

 1335年(建武2年)11月、足利尊氏が建武政権に対して反旗を翻した時、備前国(現在の岡山県)児島には佐々木信胤(のぶたね)がおりました。佐々木氏は近江源氏の流れで、先祖の佐々木盛綱が源平合戦における藤戸の先渡の功によって備前国児島を賜り、そこに住む子孫が地名から飽浦(あくら)と名乗っていました。尊氏が反旗を翻した時、信胤は尊氏側につき、讃岐の細川定禅と共に京都攻めにも加わっています。

 ところが、その後、信胤は尊氏の重臣である高師秋(こうのもろあき)と菊亭殿女房お妻(又は、お才)の局をめぐって対立し、師秋が都を離れた折りに彼女を奪って児島に連れ帰りました。お妻の局は当時京都で三人のひとりにかぞえられるほどの美女だったそうです。師秋の恨みを受けて武家方にとどまることができなくなった信胤は南朝に転じました。

 1340年(暦応3年)、信胤は、児島から兵を挙げ、お妻の局を連れて小豆島に渡り、星ヶ城山の山頂に城を築き全島を支配しました。小豆島へ拠ったのは、東は熊野水軍や淡路の沼島水軍と手をにぎり、西は忽那島に迎えられていた征西将軍懐良親王らと提携しながら、北朝方の海上交通を断つことにありました。信胤は全島を支配するとともに、強力な水軍を背景として大いに北朝方を苦しめました。

 しかし、8年後の1347年(貞和3年)、淡路・阿波・讃岐・備前4か国の大軍を率いた北朝側の淡路守護細川師氏により攻撃を受け、まる1ヶ月間の合戦の末、その軍門に下りました。家臣の多くは討死したといわれており、島内にはいくつもの「城崩れ」の神社があるといいます。信胤は討死したともいわれ、許されて小豆島「肥土庄」の領家職を与えられたともいわれています。あるいは落ちのびて1362年(貞治元年)の白峰合戦に南朝方として加わったともいわれています。

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(50)“大師二十二人のうち五人までが讃岐出身”

善通寺

 大師と言えば弘法大師を思い浮かべますが、我が国で平安時代以降、大師の称号をもった高僧は22人をかぞえます。この大師号とは、学徳ともにすぐれた高僧に対して、天皇からおくられる最高の称号です。この22人の大師のうち、讃岐の国からは、弘法大師空海(774~835年)のほか、道興(どうこう)大師実恵(じちえ)(786~847年)、法光大師真雅(しんが)(801~879年)、智証大師円珍(814~891年)および理源大師聖宝(しょうぼう)(832~909年)の5人も輩出しています。
 
 この5人は、“讃岐の五大師”として尊崇されてきました。ただし、5人が朝廷から大師の称号をおくられた時期にはかなり差があり、空海と円珍は没後早い時期におくられていますが、聖宝、実恵、真雅は江戸時代に入ってからです。ちなみに、あとの17人の大師の出身地は、近江(滋賀)と京都から各2人、残りが全国各地から1人ずつだそうです。

 空海、実恵、真雅および円珍は同じ現在の善通寺市の生まれで、佐伯氏の一族です。しかも、真雅は空海の実弟、円珍は空海の姪(おい)(妹の子)です。聖宝だけは佐伯一族でなく塩飽の生まれです。

 空海は中国から真言密教をもたらし日本での真言宗の開祖となった人物ですが、実恵、真雅および聖宝は空海の弟子または孫弟子で、空海亡き後、真言宗の発展に尽くしました。これに対して、円珍は空海の縁者ですが、そのライバルである最澄が開いた天台宗の系統です。

 実恵は空海の一番弟子といわれており、大阪の河内長野市に観(かん)心寺(しんじ)を創建しています。この寺には楠木正成の首塚や後村上天皇の御陵などがあり、南朝ゆかりの寺としても知られています。

 真雅は京都南郊に貞観寺を開き、僧職として初めて輦車(れんしゃ)(車のついた乗り物)に乗って宮中への出入りを許されたというほど、朝廷や公家に重んじられました。

 円珍は唐へ渡り、のち延暦寺第五世座主となり、琵琶湖を望む大津に園城寺(おんじょうじ)を再興し、天台宗寺門派の祖と仰がれています。この寺は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があることから、「御井(みい)の寺」すなわち「三井寺」とも呼ばれています。この寺には、室町時代の初め、相模坊道了という僧が修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となって飛び去り、はるか小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺に降りたという伝説があります。相模坊天狗は、その後、讃岐五色台白峯に移り、崇徳上皇の霊を守護しているといわれています。

 聖宝は真雅の弟子で、師は犬好きだったのに弟子が大嫌いで、これがもとで子弟間のいさかいがあったという逸話があります。京都伏見の醍醐寺(だいごじ)は醍醐山(笠取山)の山頂上一帯を中心とする「上醍醐」と山麓の「下醍醐」とから成り、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られ、世界遺産にも登録されている名刹ですが、上醍醐は聖宝が開いたものです。

 桓武天皇が都を平城京(奈良)から長岡京へ移し、さらに平安京(京都)に移したのは794年(延暦3年)ですが、“讃岐の五大師”の生誕年をみると、最初の空海誕生から12年~18年の間隔で連続して生まれています。また、この時代、讃岐からは、この五大師の外に、智泉(789~825年)、道昌(798~875年)、真然(811~891年)、観賢(853~925年)、道雄(?~851年)などの高僧が輩出しており、平安時代初期の9世紀の約百年間は讃岐出身の高僧が活躍した時代といえるでしょう。

 このように讃岐から多くの高僧が輩出したのは、瀬戸内海に臨んでいることから、都の文化あるいは大陸文化との交流が容易で、古くから先進文化を早く受け入れたという背景があったといわれています。

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(49)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”


 1573年(天正元年)、織田信長は第十五代将軍・足利義昭を追放し、これにより室町幕府は消滅しました。この2年後、四国では、長宗我部元親が土佐一国を統一しています。そして、その翌年、元親は大歩危・小歩危を越えて阿波池田の白地城(はくちじょう)を攻略し、四国制覇の第一歩を踏み出します。

 白地城は四国の辻といわれ、馬路川に沿って境目峠から伊予へ、猪の鼻峠や曼陀峠を越えて讃岐へ、吉野川沿いに阿波の中心部へそれぞれ進出することができる位置にあります。四国制覇の野望を抱いていた元親は、ある日、白地城の北にそびえる雲辺寺山頂に近従を従えて登ったといいます。この山頂からは眼下に西讃岐の平野と瀬戸内の海が大きく開け、東には阿波の吉野川平野と剣山、西には東伊予から石鎚山まで見渡すことができます。

 山頂には弘法大師が開いたという雲辺寺が建ち、ここで元親は、住職の俊崇坊(しゅんすうぼう)に「伊予、讃岐を平定しようと思うが如何」と四国平定の野望を告げたといいます。これに対して、崇坊は「おぬしは四国を治める器ではない、土佐一国が精一杯じゃ。それは茶釜の蓋をもって水桶の蓋をするようなもの」と元親をいさめたそうです。

 1578年(天正6年)夏、元親は讃岐侵攻を開始します。この頃の讃岐は十河存保(そごうまさやす)を通じて阿波の三好氏の勢力下にありました。元親はまず豊田郡に入り藤目城主・斉藤下総守を計略により降伏させその支配下におきます。しかし、存保の命により讃岐勢に奪回されたため、激戦のすえ再び奪い返します。また三野郡の本篠城主・財田和泉守常久を攻略します。

 翌年(天正7年)春、九十九城の細川氏政、仁保城の細川頼弘など西讃の各城を次々と攻略していきます。そして西讃において最も大きな勢力を持つ天霧城の香川信景と和議を結び、次男の親和を女婿として香川氏に入らさせ、西讃をその勢力下に治めます。香川氏が元親と戦わずその勢力下に入ったのは、十河氏に対する反目があったからともいわれています。次いで、中讃へ兵を進め、羽床城の羽床伊豆守資載を下し、西庄城の香川民部少輔を敗走させます。次いで、翌8年春には、鵜足郡長尾に進出して長尾大隅守を降ろして西長尾山に新城を築きます。

 このような中で、1582年(天正10年)、織田信長が元親の動きを抑えようとします。しかし、同年6月に本能寺の変が起きると、元親はすかさず讃岐進攻を再開します。7月には鵜足郡宇多津の聖通寺山城主・奈良太郎左右衛門を敗走させ、さらに本陣を国分寺に進め、翌月、佐料城・藤尾城の香西佳清を攻め降し、和議を結びます。ここに鎌倉時代以来360年続いた香西氏も元親の配下となりました。

 次いで、この年の8月、元親は十河存保の名代・三好隼人佐が守る十河城を包囲します。同じ頃、阿波の中富川の戦いで十河存保を破り、さらに勝端城を攻め落とし、9月に存保を大内郡の虎丸城へ走らせます。翌年も虎丸城を攻撃し、羽柴秀吉の命により存保救援の命を受けた仙石秀久と引田で戦います。1584年(天正12年)6月、虎丸城はついに落ち、ここに讃岐は親元の手中に帰しました。

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(48)“俳諧の祖・山崎宗鑑が隠棲した観音寺”

 万葉の時代から詠われている和歌は、五・七・五・七・七という形式をとっています。この和歌から、三人以上の奇数の作者が上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に読むという連歌が平安時代に誕生しました。連歌は南北朝時代には、二条良基飯尾宗祇によって芸術的に高められましたが、その後次第に形式化し、魅力がなくなっていきました。
 
 その後、室町時代後期になって、山崎宗鑑(やまざきそうかん)が、この連歌のルール(式目)を簡素化し、身近な題材や自由で滑稽味のある庶民的な「俳諧連歌(はいかいれんが)」を始めました。「俳諧」とは「こっけい・おどけ」などを意味し、「俳諧連歌」とは「機知やこっけい味のある連歌」という意味です。

 俳諧の祖といわれる山崎宗鑑は近江源氏の出で、1465年頃、近江国栗太郡志那郷(現在の滋賀県草津市志那町)に生まれました。本名を志那範重(しなのりしげ)といいます。幼い頃、自分と同年齢だった室町幕府9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)に仕え、大変かわいがられたといいます。義尚は、父が京東山に銀閣寺を築いた足利義政で、母が日野富子です。義政が義視を後継者と定めた直後に誕生し、富子が義尚を後継者にしようとしたことが応仁の乱の直接の原因となったことはよく知られています。
 
 義尚は応仁の乱によって凋落した幕府威信の回復をめざし、1487年(長享1年)近江守護六角高頼討伐の軍をおこし、自らも近江に出陣しました。しかし戦果をあげ得ないままに、1489年(延徳1)3月26日近江鉤(まがり)の陣中で25歳のときに病没しました。これを機に志那範重は出家し、宗鑑と号します。

 宗鑑は、摂津国尼崎に3年間ほど住み、その後30年近く、天王山西南山麓の山崎の里に居を構え、題材に大衆的なものを採り入れた人間味の溢れる新しい俳諧連歌の道を築きあげます。この頃、山崎の地に住むことから「山崎宗鑑」と呼ばれるようになり、「犬筑波集(いぬつくばしゆう)」を編集したと云われています。作者は記されていませんがこの中には次のような句があります。
 「さわ姫の 春たちながら尿をして
         かすみのころも すそはぬれけれ」
 「切りたくもあり切りたくもなし
         盗人を捕まえてみれば我が子なり」
 
 しかし、当時室町幕府内は内紛が続き、山崎の里も宗鑑の安住の地とはなりませんでした。宗鑑は戦乱に巻き込まれることを避け、讃岐国豊田郡坂本郷(現在の観音寺市)へ移住します。これは、かねて親交のあった京・東福寺の住僧梅谷が坂本郷の興昌寺住職として帰ったので、それを頼ったとも云われています。
 
 宗鑑は興昌寺の傍に草庵を結び、一夜庵と号しました。庵の入り口には、「上はたち 中は日暮らし下は夜まで 一夜泊まりは 下々の下の客」と記した額を掲げ、文字どおり来訪者は一夜以上泊めなかったと伝えられています。この庵で20年余り居住し、細川京兆家の有力な武将であった安富氏や寒川氏らと交流を持ったといわれています。
 
 讃岐は南北朝時代の初期から細川京兆家の本国地だったことから、地方にしては連歌が盛んな地だったのではないかと思われます。香川郡太田村出身の伴阿弥は、管領細川頼之の推挙で三代将軍足利義満に仕え、周阿といい連歌で世に知られたと云います。
 
 宗鑑は、89歳のとき、「宗鑑はいずくへいたと問ふならば 用が出来たで あの世へといへ」という辞世の句を残して没したと伝えられています。

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(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”

 西行は平安時代末期の院政期から鎌倉時代初期にかけての放浪歌人です。2100首余りの歌を残し、鎌倉時代の初期に後鳥羽上皇の命令で藤原定家らにより編集された「新古今和歌集」には彼の歌が94首も入っており、その入撰数は第一位です。
 
 俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、1118年(元永元年)の生まれです。もともと佐藤家は俵藤太藤原秀郷を祖とする名門の出で、鳥羽院の北面の武士として出仕し、左兵衛尉(さひょうえのじょう)にまでなっています。23歳のとき妻子があるにもかかわらず突如出家して円位を名のり、後西行とも称しました。出家の動機は「無常を感じて」という説が一般的ですが、一説には白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われています。出家の際に衣の裾に取りついて泣く子を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残っています。出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、1145年(久安元年) 頃から高野山に生活の本拠を移し、旅と歌作りに励みました。
 
 西行崇徳上皇が京に居た頃から和歌を通じた交流を持っており、上皇が讃岐に流された後も歌のやりとりをしていたといわれています。なお、崇徳とは没10年後の治承の頃の追号で、当時は「新院」「讃岐院」と呼ばれていました。上皇崩御3年後の1167年(仁安2年)、西行は上皇を偲び、備前児島から讃岐に渡って来ました。源平屋島合戦の18年前、西行の50歳の時です。
 
 西行は坂出の松山ノ津または王越の乃生、あるいは三野津に着いたともいわれていますが、「讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけむ御跡尋ねけれど、形も無かりければ」と詞書きして、次の歌を詠んでいます。
 「松山の 浪に流れて こし舟の やがて空しく なりにけるかな」
その後、「白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに詣りて」次の鎮魂歌を詠んでいます。「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は 何にかはせん」
 
 この時の物語は、その後、室町時代に謡曲松山天狗」としてうたわれ、この中で日本八大天狗の一つといわれる相模坊天狗が上皇の守護者として描かれています。また江戸時代に、国学者であり歌人の上田秋成により怪奇小説「雨月物語」中の一篇「白峰」として仕立てられています。この中で上皇の霊は、青白い陰火の中で、長い髪をふり乱し、やせ衰えた恐ろしげな形相で、手足の爪は獣のように長くのびた姿として描かれており、数々の恨みを訴える上皇の霊と鎮める西行の対話が物語として書かれています。
 
 この後白峯を下りた西行は、弘法大師の跡を慕って善通寺で庵を結び、数年間住んだといいます。この間、讃岐の各地を巡り、「山家集」には、松山・白峯・善通寺・曼陀羅寺・塩飽・三野津などで詠まれた20首ほどの歌が収められています。

 その後西行は讃岐から高野山に戻りますが、60余歳の頃源平の戦乱を避けて伊勢へ移り、69歳のときに東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために再び陸奥に下っています。この途次に鎌倉で源頼朝に面会しており、頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて一切忘れ果てたととぼけたという話や、拝領の純銀の猫を通りすがりの子供に与えたという逸話があります。

 「願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」の歌のとおりに、1190年(建久元年)陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に河内弘川寺(大阪府河南町)で73歳の生涯を終えました。西行は藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人と言われており、宗祇・芭蕉にいたるまで後世に大きな影響を与えています。


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(46)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承”

 
 近鉄奈良駅の入口前に、陶製(赤膚焼)の銅像が立っており、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所になっているそうです。この像の人物は行基(ぎょうき)という奈良時代(710年~794年)の僧侶で、奈良東大寺の大仏建立をめぐる聖武天皇との物語はよく知られているところです。

 行基は、中大兄皇子が即位して天智天皇となった668年に、河内国大鳥郡(今の大阪府堺市)に生まれました。父は百済系渡来人氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志(こし)氏才智(さいち)で、母は河内国大鳥郡の蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)と伝えられています。15歳で出家して薬師寺に入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、さらに竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学びます。もともと非常に俊才で、瑜伽唯識を一読して即座にその奥義を理解したと云われています。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪術力を身につけ、37歳の時、山を出て民間布教を始めたといいます。

 奈良時代には官僧以外の人が僧侶として活動することは禁止されていました。しかし、和銅3年(710年)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、逃亡民の多くが朝廷の承認なしに出家し僧侶と称する私度僧(しどそう)になったといい、行基は民衆の尊崇を集め、私度僧たちの指導的存在となっていきました。このため、霊亀3年(717年)には朝廷から「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されています。

 しかし弾圧にもかかわらず行基の集団は拡大を続け、養老6年(722年)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていきました。このような中で、神亀元年(724年)聖武天皇が24歳で即位しました。このとき、行基は56歳です。

 行基を慕い付き従う者の数は千人にも達することがあり、行基がやって来ると聞くと、説教を聴こうと人々が群れ集まってきて、村の中には人が誰もいなくなる程であったと云います。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発していたといい、行基は、布施屋を設けて貧民救済事業を行うとともに、交通難所に橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築くなどの大規模な土木事業を畿内中心に行っていきました。これらの事業は民衆の力を結集して行われたといいます。聖武天皇も、始めは民衆を煽動する不穏な者として、行基を奈良の都から追放していますが、しだいに行基への傾倒を深めていき、弾圧も緩められていきました。

 このような中、疫病の大流行や飢饉が襲い、宮廷内の政局も不安定でした。深く仏教に帰依していた聖武天皇は仏教によって人臣の不安を和らげ国家鎮護を図ろうと考えました。こうして聖武天皇は天平13年(741年)に国分寺建立の詔を、天平15年(743年)10月に東大寺毘廬舎那(びるしゃな)大仏造営の詔を発します。しかし、大仏造営は資金難により難行します。

 この危機に際して聖武天皇は、行基の組織(知識)力・行動力に着目し、東大寺の大仏建立の勧進に行基を起用します。そしてさらに、天平17年(745年)には日本で最初の「大僧正」に任命します。その後も大仏造営事業は地震や爆発事故などでなかなか完成せず、天平21年(749年)2月に大仏の完成を見ずに80歳で入滅します。

 大仏が完成し、盛大な「開眼供養会(かいげんくようえ)」が行われたのは、着手から10年後のことです。動員された人員は延べ200数十万人、資材は銅、錫、金、水銀など合わせて15万貫にものぼったと云われています。鑑真が日本に上陸したのは、東大寺大仏開眼の次の年です。

 讃岐では、飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(旧豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。これが奈良時代になると、31ヵ寺まで増えています。この時代四国では、阿波・伊予が十数か寺、土佐が5ヵ寺で、讃岐の寺院数がいかに多かったかが分かると思います。これは讃岐ではかなり早くから仏教を受け入れられる文化的経済的な豊かさがあったためであろう云われています。

 行基は奈良時代の人ですが、讃岐には行基が開いたと伝えられている寺が多くあり、また行基が開湯と伝えられている温泉があります。


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(45)“讃岐に逗留した法然上人”

 京都の東山鹿ヶ谷に知恩院(ちおんいん)という寺があります。現在の伽藍は江戸時代以降に建立されたものですが、ここは法然(ほうねん)上人が後半生を過ごして没したゆかりの地です。法然は浄土宗の開祖で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍しました。浄土真宗の開祖である親鸞法然の弟子です。法然は一時讃岐に逗留して人々に教えを説いて回っており、讃岐には法然にまつわる伝説や旧跡が数多く残っています。

 法然は、平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に押領使(おうりょうし)の子として生まれました。諱(いみな)を源空(げんくう)といいます。9歳のときに夜討ちで父を失いますが父の遺言によってあだ討ちを断念し、13歳で比叡山に上り15歳で僧・源光のもとで得度(出家)します。18歳で比叡山でも奥深い山中にある黒谷の叡空(えいくう)に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って「法然坊源空」と改名します。そして承安5年(1175年)、43歳の時に「専修念仏」(せんじゅうねんぶつ)の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下ります。この年が浄土宗の立教開宗の年とされています。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ極楽往生できるとする思想です。

 平安時代末期は末法思想が広まり、戦乱や災害に出会った人々は不安にかられ、欲望や終着にとらわれた眼前の世の中を厭い捨てて西方の極楽浄土に生まれるように願い求める厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)を説く浄土信仰に魅かれていました。法然の教えは、このような時勢の求めに応じて、庶民はもとより武士や公家にも急速に浸透していきました。しかし、一方で、破戒と他宗誹謗を理由に南都北嶺の旧仏教勢力から激しく糾弾され攻撃の的とされます。このような中で、建永元年(1206年)3月、最大の擁護者である九条良経が急死し、さらに後鳥羽上皇の女房が上皇の留守中に法然の弟子を慕って出家してしまい上皇の逆鱗に触れるという事件が起きます。翌年2月、法然は弟子達の不行状という理由で土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。法然75歳の時です。しかし法然は、「かえって遠くの人々に念仏を説くことができる」と逆に喜んだといいます。

 建永2年(1207年)3月京都を離れた法然は、淀川を下り、摂津の経ヵ島(兵庫)から播磨の高砂・室津を経て塩飽諸島の本島に着きます。本島では、地頭の高階(たかしな)入道西忍(さいにん)の館に迎えられ、しばらく滞在したといいます。その後、宇多津あるいは丸亀塩屋に上陸し、善通寺にもうでてから那珂郡小松荘(現在のまんのう町高篠)へ向かったといいます。本島や小松荘に逗留したのは、これらの地が法然の庇護者である九条家の所領だったことによると云われています。法然が讃岐に逗留したのは、源平屋島合戦から22年後のことです。

 小松荘で、法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、小松には、法然由緒の寺が生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、総称して三福寺と呼んだといいます。建永2年(1207年)12月、法然は赦免の宣旨を受けます。このため土佐へは行かずに京へ戻ることになりました。しかし、入京が許されたのは、4年後の建暦元年(1211年)で、翌年の1月、現在の知恩院の地で80歳で没しました。

 法然の讃岐在国はわずか10ヵ月でしたが、その足跡は大きく、中讃地方には、伝承も含め法然が説法したとされる寺や仮宿など数多くの足跡が残っており、また讃岐の諸方に伝わる雨乞踊りや念仏踊りは法然の振り付けであるといわれています。

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(44)“2億5千万人を運んだ宇高連絡船”

 海や湖などで隔てられた鉄道の駅間を結ぶ船を鉄道連絡船といいます。日本国内では、青森と函館を結ぶ青函航路、宇野と高松を結ぶ宇高航路(うこうこうろ)、下関と門司を結ぶ関門航路の3航路がありましたが、橋やトンネルの開通によりいずれも廃止されました。

 宇高航路は、岡山県玉野市の宇野港と香川県高松市の高松港の間で運航されている航路で、瀬戸内海における本州と四国を結ぶための主要航路の一つです。この航路には、かつて旧国鉄・JR四国が宇野駅から高松駅間で鉄道連絡船宇高連絡船)を運航していました。

 四国と本州の鉄道を船で結ぶ鉄道連絡船は、1903年(明治36年)に「岡山―高松」と「尾道―多度津」の2航路が開設されたのが始まりです。この前の明治22年には、讃岐鉄道という県内で初めての鉄道会社が開業し、多度津を起点とする琴平、丸亀2方面の路線が開通しています。志賀直哉の「暗夜行路」では、時任謙作が尾道から多度津港に上陸し、浜多度津駅から蒸気機関車に乗り琴平へ向かう場面が描かれています。この頃までは多度津港が県内最大の港湾としての位置を確保しており、明治33年の入港船舶数は多度津港が38,663艘であったのに対し、高松港は9,480艘でした。

 しかし、明治30年頃から始まる高松築港事業や讃岐鉄道の丸亀・高松間の開通により、高松港の出入港数が次第に増加していき、1910年(明治43年)、国鉄宇野線の開通に伴い「国鉄宇高航路」が開設されたことにより四国の玄関は多度津から高松へと名実ともに移りました。就航した船は、「玉藻丸」(224トン、定員146名、速力10.6ノット)と「児島丸」の2隻でした。尾道-多度津航路は廃止され、岡山-高松航路は宇野-高松航路に変更されました。その後、宇高連絡船は、1988年(昭和63年)の瀬戸大橋開通までの78年間、「本四間の大動脈」としての役割を担ってきました。

 この78年の間には、2度の世界大戦があり、宇高連絡船は様々な歴史を刻んできました。第2次世界大戦中、宇高航路は軍事的に重要な路線であったため、空襲などへの防衛として機関銃が連絡船に配備されていたといいます。昭和20年7月24日には水島丸が、8月8日には第五関門丸が米軍の空母艦載機による銃撃を受けて多くの乗員と水兵に死傷者を出しています。また、1955年(昭和30年) 5月11日には、タイタニック号、前年の洞爺丸に次ぐ世界でも第3番目という大きな海難事故が発生しています。

 瀬戸内海では春によく濃霧が出ますが、この日の朝も濃霧注意報が発令され視界200m以下という状況でした。高松港を出港した紫雲丸(1,449総トン)は、午前6時50分、高松港に向かう第三宇高丸(1,282総トン)の霧中信号を聞き応答をし、第三宇高丸はレーダーで紫雲丸を確認して双方とも相手が正面から来ていることを把握しました。この時、双方の距離は約1.5マイル(約2.5km)で、高松港沖の女木島西方海上ですれ違う予定でした。しかし、その6分後、轟音と共に紫雲丸の右舷に第三宇高丸の船首が食い込み、みるみるうちに紫雲丸は沈没していまいました。衝突から沈没までわずか4分、SOSを出す間も救命胴衣を付ける間も無い、あっという間の悲劇でした。事故の原因は、相手が正面から来ていると思われるときはお互いが舵を右に切るべきだったのに紫雲丸が左に舵を切った「謎の左転」であると言われています。このとき紫雲丸には修学旅行の小中学生が多数乗船しており、犠牲者168名のうち100名が児童生徒(男子19名、女子81名)で占められ、多くの人々の涙を誘いました。

 この事件がきっかけとなり、瀬戸大橋の構想が本格化していくことになります。1972年(昭和47年)11月8日にはホーバークラフトが就航し、宇野-高松間をわずか23分で運行しました。

 1987年(昭和62年)4月1日、国鉄が分割民営化され、宇高航路はJR四国の受け持ちになりました。その1年後、1988年(昭和63年)4月9日、瀬戸大橋線が開通し、宇高航路は廃止されました。1910年(明治43年)から1988年(昭和63年)までの78年間において宇高連絡船が運んだ乗客は約2億5千万人と云われています。

 宇高連絡船が廃止されてからの高松港頭地区はサンポート高松地区と称され、新JR高松駅、高松港湾旅客ターミナル、2万トンバース、シンボルタワーなどの再開発事業が展開され、四国の中枢拠点としての機能向上が期待されています。

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(43)“善通寺の師団長を務めた乃木希典”

 東京に乃木坂というところがありますが、これは近くに乃木神社があることからそう呼ばれるようになったものです。乃木神社は、明治時代に活躍した軍人の乃木希典将軍を祀った神社で、東京以外では、京都市・下関市・函館市・室蘭市・栃木県那須郡・滋賀県蒲生郡にもあり、それと弘法大師空海の生誕地で知られる本県の善通寺市にもあります。

 乃木希典は、幕末の嘉永2年(1849年)11月に禄高80石馬廻格の長府藩士の子として生まれました。のち松陰の叔父にあたる萩藩の玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の明倫館で学んでいます。明治2年には彼は伏見親兵兵営に入り、ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩み始めます。明治10年、29歳のときには第14連隊長心得として西南の役に出陣しますが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという失態をしています。明治27年に日清戦争がはじまると第1旅団長として参戦しています。

 日清戦争後、陸軍が従来の7個師団から13個師団に増師されるのに伴って、明治31年12月、四国四県を一管区とした師団が善通寺に置かれることになりました。第11師団は、丸亀歩兵第12連隊・徳島歩兵第43連隊・高知歩兵第44連隊以下、野砲・輜重(しちょう)・工兵・騎兵隊などで編成されていました。これに伴い、乃木中将が初代師団長として赴任してきました。ときに50歳でした。乃木中将は、明治31年(1898年)10月3日から34年(1901年)5月まで善通寺第十一師団長を務め、金蔵寺の客殿を宿泊所としていました。善通寺へは単身赴任でした。

 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、四国の第11師団にも動員令が下り、多度津港から出征しました。第11師団は第3軍に編成され、旅順攻撃軍に加わりました。司令官はかつての第11師団の師団長であった乃木大将でした。しかしロシア軍のコンクリートと機関銃で固めた要塞は容易に陥落せず、日本軍は3度にわたる総攻撃で多大の死傷者を出しながらも前進することができませんでした。司令官が児玉源太郎に交代し、攻撃目標を203高地に切り替え、ようやくこれを占領して旅順を陥落させることができました。その後、奉天の会戦、日本海海戦で日本軍は勝利し、明治38年9月5日にポーツマス講話条約が成り、第11師団は、11月14日から翌年2月18日までに帰国の途につき、多度津港に上陸凱旋してきました。県の発表によれば、県下の戦死者数は、戦死者1481名、病死368名でした。

 明治44年9月13日(1912年)、明治天皇が崩御しました。このとき乃木将軍は「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」の辞世の句を残して自決し、静子夫人もまた夫のあとを追って自害しました。ときに64歳です、終生敬愛した明治天皇の死に殉じたものでした。乃木夫妻のこの事件は日本中に衝撃を与え、新聞各紙は乃木大将夫妻の死を悼み、また賛美し、世間も大いに感動したといいます。夏目漱石はその著「こころ」の中で主人公をして「死のう死のうと思って生きていた年が苦しいか、又、刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいかと私は考えました」と書き継いでいます。殉死により、乃木将軍は“乃木さん”として人々の崇拝の対象となり、京都の桃山御陵(明治天皇の墓)の近くに乃木神社が初めて建立され、その後、ゆかりのある全国の各地でも建てられていきました。

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(42)“陰陽師安部晴明は讃岐生まれ”

 夢枕獏の小説や岡野玲子のコミックマンガなどで一躍脚光を浴びた安部清明は、実在の人物で、平安時代中ごろ活躍した陰陽師です。晴明は寛弘2年(1005年)に85歳で没したと云われており、平将門と藤原純友の乱が収束して再び平和の世が訪れ、藤原氏の摂関政治の展開が進んでいた時代の人物です。「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたる事も 無しと思へば」という歌を詠んで権勢を誇った藤原道長は、康保3年(966年)から万寿4年(1028年)まで生きた人物で、晴明の次の世代といえるでしょう。

 陰陽師が専門とする陰陽道とは、万物の生成・消滅などの変化は、陰(日陰を意味する)と陽(日向を意味する)の相対する2つの気が和合・循環することで起こり、森羅万象は木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の5つの要素で成り立っているという古代中国の「陰陽五行説」の思想を基にしており、これが日本の律令制国家体制の中に取り込まれる過程を経て、わが国特有の文化的要素なども加えながら体系化されていったものといわれています。

 晴明が活躍した時代には、陰陽師の性格も国家に仕えるだけでなく、吉凶の判断や占いなどで有力公家の私的生活や精神生活の一部にまで食い込むとともに、陰陽道思想の一般化が大いに進んだ時期でした。晴明は、天文・暦法・占術などの学問的なものから呪術・祭祀などに至るまでを司り、朱雀帝から一条帝までの6人の帝に仕え、宮中において活躍したと云われています。

 今昔物語集には、晴明が賀茂忠行陰陽道を習ったことや忠行の牛車の供をしていた時に鬼の姿を見て忠行に報告したことで事なきを得たこと、晴明の異能を見抜いた忠行が自分の術のすべてを「瓶の水を移す」ように伝えたことが記されています。また大鏡には、天文から花山天皇の退位を予見したということが記されています。他にもさながら霊能者のような数々の伝説に彩られています。今も晴明の屋敷跡に建つ京都・一条の清明神社には多くのファンが訪れるほどです。

 晴明の生まれは謎に包まれていますが、その出生地のひとつとして讃岐が数えられています。大日本史料「讃岐国大日記」によれば讃岐国香東郡井原庄、また丸亀藩の公選地誌「西讃府志」によれば讃岐国香川郡由佐がその生まれだとされています。「井原」という地名は古代讃岐の郷の一つで、現在の高松市香南町辺りです。「由佐」という地名は現在も香南町にあり、そこは室町時代に由佐氏という武将が領有していたところです。

 由佐氏は、藤原秀郷の後裔といい、そもそもは常陸国(現在の茨城県)益戸(下河辺)の城主だったといい、建武の争乱に際して、足利尊氏に従って活躍し、讃岐国香東郡井原庄の荘司職を与えられたといいます。その後、讃岐守護となった細川氏に従い、東に香東川、西に沼地が広がる要害の地に居館由佐城を築いて代々の本拠としたと云われています。

 おもしろいことに、晴明の生誕地については、由佐氏の出身地である常陸国であるという説もあります。「ほき抄」所収の「由来」によると、常陸国筑波山麓の猫島、現在の茨城県真壁郡明野町猫島というところで生まれたとされています。猫島の旧家である高松家の敷地には誕生に由来する晴明神社があり、また、高松家には宝永8年(1711年)頃にまとめられた「晴明伝記」が蔵されているそうです。由佐氏と安倍晴明には何らかの関係があるのかもしれません。

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(41)“和三盆のふるさと讃岐”

 “讃岐三白”といわれるように、江戸時代中期以降、讃岐を代表する特産物は塩・綿・砂糖でした。このうち砂糖は、寛政2年(1790年)の向山周慶(さきやましゅうけい)の成功に始まり、高松藩の積極的な保護政策を受けて盛んとなったものです。

 江戸時代の初め頃までは、わが国のサトウキビの栽培地は南西諸島に限られており、作られる砂糖も黒砂糖が一般的でした。高級な和菓子や料理に使われる白砂糖は、中国やオランダから輸入された高価なものでした。やがて徳川吉宗の享保の改革において砂糖の国産化が奨励され、高松藩では、五代藩主松平頼恭(よりたか)が甘蔗(さとうきび)の栽培を平賀源内に試作させたのが始まりで、その後を藩医の池田玄丈が引き継ぎました。しかし玄丈も研究なかばで故人となります。

 玄丈の遺志はその門人の向山周慶(さきやましゅうけい)に引き継がれます。彼は延享3年(1746年)東かがわ市白鳥町湊の生まれで、医術を学んでいましたが、白砂糖の製法の研究に没頭します。あるとき周慶は、たまたま病にかかり苦しんでいた四国遍路の人を救います。その人は、関良助(せきりょうすけ)という薩摩の人でした。良助はいったん薩摩に帰りますが、深くその恩を感じて報いるため、数年後国禁を犯して薩摩から甘蔗(さとうきび)の茎を弁当箱に詰めて持ち来り、その製法をも伝えたと云われています。また、周慶が京都へ遊学していたとき、薩摩藩の医学生某と交わり、1788年(天明8年)京都の大火の時この医学生某が災害に遭ったところを周慶が助けたことにより製糖法が伝授されたとも云われています。

 サトウキビから砂糖を製造するには、まず搾り液をアクをすくいながら釜煮し、水分を蒸発させて、白下糖(しろしたとう)という糖蜜を含んだ黄褐色半固体状の原料糖をつくります。これを精製して白砂糖にするには、その表面をおおっている褐色・タール状の糖蜜を除去することが必要ですが、讃岐では、19世紀初期に独自の精製法を完成させています。それは、白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を綿布製の袋に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていくという技法です。この作業を数度繰り返していくと、糖の色が最初は茶褐色であったものが、“三盆白(さんぼんじろ)”といわれるようになり、手触りもさらさらになっていきます。これらの工程の中でも一番大変なのが「研ぎ」という「蜜を抜く」と同時に「砂糖を、より白くする」ための作業で、全くの手作業で行なわれ、相当な熟練の技が要求されます。

  “和三盆”(わさんぼん)とは、主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている上質の国産白砂糖のことです。粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから色がかかった白さとなります。舐めると、甘いながらも「すーっとする」淡泊な味です。和菓子に多用されますが、その中でも、特に「落雁(らくがん)」にはよく使われています。和三盆の原料となるサトウキビには「竹糖(ちくとう)」という品種が用いられ、その製造工程も非常に手間がかかるものです。「和三盆」という名は、「盆の上で三回研ぐ」ことからついた名前といわれていますが、現在では、昔より白い砂糖が好まれているため、4回~5回は研ぐそうです。和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、途中で原料の追加もできないため、砂糖としては最も高価なものとされています。東かがわ市の相生の辺りは土質が良いためか天下無比の三盆糖ができ、讃岐砂糖の完成を見るに至りました。

 讃岐の甘蔗作付面積は、寛政2年(1790年)にはわずか1町でしたが、その75年後の慶応元年(1865年)には約3,800町と飛躍的に増大し、1830年代の初め頃、全国中央市場の大坂に集まる白砂糖の60パーセントほどを讃岐産が占めていました。高松の東浜港(現在の城東町)より大阪に向けて出荷され、その当時の"砂糖相場"は高松藩が決めていたといいます。また文化の初め頃、江戸で讃岐の砂糖は、「雪白の如く、舶来品にいささかおとらず」と評判であったともいいます。

 これにより高松藩松平家十二万石は大いに富み、また、正月の雑煮にあん入りの餅を入れる風習ができたといいます。せめてめでたい正月のときには貴重品である砂糖を庶民も口にしてもいいだろうということです。「あん餅雑煮」は高松藩、そして讃岐人の"富"の象徴であったということができるでしょう。

 讃岐の糖業は幕末の慶応年間に最盛期を迎え、明治13年でもその甘蔗生産量は、全国の58パーセントを占め第1位でした。しかし、日清戦争で台湾が日本の領土となり、明治30年代頃から台湾産の砂糖が輸入され始めると、讃岐の砂糖産業の隆盛は急速に終わりを告げ、讃岐平野からも甘蔗の姿が消えていきました。和三盆の生産量も減り、現在の香川県の東かがわ市と徳島県の一部の地域のみで生産されるだけになりましたが、その風味は和菓子の製造に欠かせないため、現在も高級食材として製造されています。

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(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”

 平安時代後期の元永2年(1119年)、後に崇徳天皇となる顕仁(あきひと)親王は、鳥羽天皇と中宮璋子(たまこ)の間の子として誕生しました。曾祖父は院政を執っていた白川法皇です。法皇は顕仁を非常にかわいがり、鳥羽天皇は保安4年(1123年)その命によってむりやり退位させられ、わずか5歳の顕仁が崇徳天皇として即位します。しかし、大治4年(1129年)、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が院政を執り朝廷の主導権を握ります。そして法皇となって、まだ23歳の崇徳天皇を強引に退位させ、わずか3歳の躰仁(なりひと)親王(崇徳の異母弟)を近衛天皇として即位させます。

 さらに近衛天皇が久寿2年(1155年)17歳で崩御すると、崇徳上皇の実弟にあたる後白河天皇を即位させ、しかも、後白河天皇の皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。これにより崇徳上皇は、自分の皇子である重仁親王が天皇になる望みを全く断たれていまい、強い不満を抱きました。このように鳥羽法皇が自分の息子であるはずの崇徳を排斥したのは、実は、崇徳が鳥羽天皇の祖父である白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたからです。鳥羽法皇は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといいます。このとき、摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近していました。

 保元元年(1156)年、鳥羽法皇が崩御します。遺言で遺体を崇徳に体面させることを禁じ、弔問さえ受け付けなかったといいます。このため崇徳上皇後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集め、上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らがつき、父(源為義)と子(源義朝)、兄(源義朝)と弟(源為朝)、叔父(平忠正)と甥(平清盛)がそれぞれ敵味方に分かれて対立し、一触即発の状況でした。なお、源義朝は頼朝と義経の父です。

 鳥羽法皇の死後7日にして保元の乱が勃発しました。7月11日未明、後白河天皇・藤原忠通方の源義朝、平清盛、源義康などの軍勢が、崇徳上皇や藤原頼長らが立てこもる白河北殿を奇襲しました。争いは約4時間で終わり、敗れた崇徳上皇は、仁和寺に逃げ込んだところを捕らえられ、信西(藤原通憲)の強固な主張により、罪人として讃岐に配流されることになりました。天皇の位にあった者が流刑となるのは、奈良時代に淳仁天皇(廃帝)が淡路国に流されて以来約400年ぶりのことで、これまでにない厳しい処置でした。また、長く絶えていた死刑がこの時復活しました。

 天台座主・慈円はその著書『愚管抄』で「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」と書いています。この乱は、後の平治の乱から源平合戦へと続く戦乱の始まりであり、王朝の貴族文化の終末と武家時代の幕開けを告げる事件でした。

 崇徳上皇は京都から淀川を下って海に出て、須磨・明石を過ぎ、播磨・備前の海岸沿いに瀬戸内海を西へ進みました。途中、直島に滞在した後、8月3日に讃岐国阿野(あの)郡・松山ノ津に到着しました。御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅を仮の御所とされ、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)に移られたと伝えられています。

 その後保元3年(1158年)年、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)の行在所に入られました。その宮は木丸(きのまる)殿と呼ばれています。木丸殿での上皇は、一日中部屋にこもり、書物を読んだりお経を唱えたりしていたようですが、寂然(じゃくねん)という僧が都から訪れて来て上皇と歌のやり取りをしています。寂然は「大原の三寂」兄弟の一人で著名な歌人です。

 このような隠遁生活の中で、上皇は後の世のためを思い、3年がかりで五部大乗経を書き写し、「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」という歌を添えて奉納のため京都に送りました。しかし、信西がこれは後白河院を呪咀するものであるとして反対したため、朝廷は受取りを許否しました。崇徳上皇は朝廷に対する激しい怒りをあからさまにし、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と言って、舌の先を食い切り、流れる血で大乗経の奥に誓状を書きつけて、海に沈められたといいます。そしてそれ以後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい悪鬼さながらの形相になり、朝廷を恨み続けたといいます。このときの上皇の様子は、「院は生きながら天狗となられた」と都に報告されています。

 配流8年の長寛2年(1164年)8月26日、崇徳上皇は都を偲び配所の月を眺めつつこの地で崩御しました。享年46歳でした。このことは直ちに都に伝えられ、葬儀に関する指示を待つ間、遺体は古来からの霊水と伝えられる野澤井(八十場)の清水に20日間浸されていたと伝えられています。なお、上皇の死については暗殺説もあります。

 都から白峯山に葬る宣旨が届き、9月16日の葬送の途中、高家神社に御棺を安置した際、にわかに風雨雷鳴がとどろき、御棺の台石にした六角の石に、どうしたことか血が少しこぼれていたと伝えられています。荼毘は白峯山上で行われ、その地に葬られました。

 上皇が崩御されてから3年後の仁安2年(1167年)、西行法師が白峯の御陵に詣でています。江戸時代に上田秋成が書いた「雨月物語」では、御陵にやってきた西行法師が読経をし、魂をなぐさめるために和歌を詠むと大魔王のような風をした崇徳の霊が現れて会話をするという場面が描かれています。

 平安時代の頃には怨霊思想というものがあり、人を無実の罪に陥れたり、悪口讒言により死地にいたらしめたり、残酷な危害を加えたりすると、被害者の怨恨が雷や天狗などに化して加害者に報復すると考えられていました。菅原道真の天神信仰はその一つです。保元の乱の後わずか3年にして、平治の乱が起こり信西や源義朝が討たれます。その後平氏の時代となりますが、清盛も熱病に倒れ、さらに源平合戦で平氏一族は壇の浦で滅亡してしまいます。このような一連の出来事は崇徳上皇の怨霊の仕業と考えられていました。

 崇徳上皇の死から約700年後の明治元年(1868年)8月、明治天皇は、父孝明天皇の遺志を継ぎ、京都の堀川今出川東入ルの飛鳥井に白峯神社を造営して、朝廷に仇なすと公言して世を去った上皇の霊を讃岐から京都へ奉還しました。造営の宣命には、皇軍(明治政府軍)に逆らう奥羽地方の賊軍を速やかに鎮定して天下が治まるよう加護願う文面がみられるそうです。これは、明治維新の動乱が上皇の魔力によって引き起こされたものであり、その祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が上皇の霊と和解して主権を取り戻したことを暗に示そうとしたものであると云われています。なお金刀比羅宮も明治初期に崇徳天皇を祭神としています。さらに、日米開戦直前の昭和15年、白峯神社は神宮に格上げされたといいます。

 このように、崇徳上皇の霊は近代日本の二大国難期に守護神として崇められており、その力に対する畏敬の念の深さに驚かされます。現在この神社には、その境内が“蹴鞠”の宗家であった飛鳥井家の敷地だったことから、サッカー選手のお参りが絶えないといいます。

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(39)“室町幕府管領細川政元を暗殺した讃岐武士”

 文明5年(1473年)、応仁の乱の最中に東軍総帥である細川勝元が亡くなります。これにより息子の政元(まさもと)が細川京兆家の家督を相続し、讃岐のほか摂津、丹波、土佐の守護職を継承します。翌年、政元は山名宗全の息子の政豊と和睦し、これにより応仁の乱は終息します。 

 1486年(文明18)、政元は室町幕府管領に就任します。そして、1493年(明応2年)、日野富子や赤松政則と結託して将軍義材を追放し、義澄を11代将軍に就けます。こののち、足利将軍家を傀儡化して幕政を牛耳り、幕政を手中に収めたことから、世に「半将軍」といわれました。しかし政元は生涯女性を傍に寄せつけず、また山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行があったといわれています。 

 政元には実子がいなかったため、前関白九条政基の子を養子とし澄之(すみゆき)と名付けます。しかし、細川京兆家の家督を公家が相続することとなるため、内衆や他の細川家からの反発を招きました。そこで政元は分家の阿波細川家から、改めて澄元(すみもと)を養子に迎えます。このように政元が後継者を二人も立ててしまったために、一枚岩を誇った細川京兆家家中は澄之派と澄元派に分裂し、互いにいがみ合う状態になってしまいました。 

 永正3(1506)年、政元は、澄元を摂津国守護とし、その後見を阿波の三好之長に任せます。しかし、このことに山城守護代香西又六元長と摂津守護代薬師寺三郎左衛門尉長忠らは強い危機感を持ちます。永正4(1507)年6月、政元は、自邸の湯殿で行水をしていたところを、警護役の竹田孫七らに襲われ、あえない最期を遂げてしまいます。この事件は、澄之を京兆家の家督相続者として権勢を握るため、香西元長と薬師寺長忠が謀ったものです。香西元長は、京都嵐山の山頂にある嵐山城を本拠とし、政元を暗殺したときも、ここから打って出て都の支配権を握ろうとしたといわれています。これら一連の事件を永正の錯乱といい、栄華を誇った細川京兆家の崩壊の始まりでした。 

 この政元暗殺事件の首謀者である香西元長は香西一族の出で、香西氏は讃岐の代表的な国人です。その祖先は、平安時代の12世紀初めに、讃岐国司となった藤原家成と綾氏の娘との間にできた綾章隆で、綾氏は武殻王(たけかいこのみこと)の子孫であるといわれています。章隆の子孫が次第に勢力をあげて武士団化し、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、豊田、柞田、柴野、新居、植松、三野、阿野、詫間などの諸家に別れていきました。これらの国人を讃岐藤家といいます。中でも香西氏は鎌倉時代、承久の変で幕府のために戦い、その功によって香川・阿野郡を支配することになったといいます。そして、勝賀山に城を築き、東山麓の佐料に居館をつくって海陸ににらみをきかせながら発展しました。

 室町時代初期の細川頼之のときに香西氏は細川氏の家臣となり、京兆家から重臣として取り立てられていきました。常に京都にあって内衆として管領を補佐したり、山城国、丹波国の守護代になるなどの活躍をしています。細川勝元のときには、信任を受け、長男は京都にあって勝元を助け上香西とよばれ、次男は讃岐の香西氏をついで下香西と呼ばれていました。しかし、土佐の長宗我部元親の侵攻により初代香西資村(すけむら)以来360年の幕を閉じます。

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(38)“応仁の乱で活躍した讃岐武士”

 室町時代中期、第八代将軍足利義政は、政務を忘れて奢侈と風流の生活を続け、政治を近臣や妻の日野富子に任せっきりにしていました。その結果、幕府の実権は管領の細川勝元や、四職の一人山名持豊(宗全)らに握られ、両者は互いに権勢を競い相反目していました。一方でこの時代は銀閣寺に代表される東山文化が花開いたころです。

 このような中で、管領家の斯波畠山両家で家督争いが起こり、また将軍家でも義政の弟義視(よしみ)と子義尚(よしひさ)との跡継ぎ争いが起こりました。勝元と宗全は、両家のそれぞれの一方を支持して譲らなかったため、ついに応仁元年(1467年)両派は京都の東西に対陣して、戦端を開くにいたりました。世にいわれる「応仁の乱」の勃発です。

 応仁の乱の火ぶたは、畠山正長と畠山義就の合戦から始まりました。勝元は正長を、宗全は義就をそれぞれ助けますが、正長が御霊林の戦いで敗れたため、勝元は大いに怒り、急ぎ16万余の兵を集めて京都の東北に布陣します。一方、宗全は、11万余の兵を集め、京の西南に布陣します。このことから勝元軍を東軍、宗全軍を西軍といいます。

 東軍16万の構成は、細川勝元の領国である讃岐・土佐・丹波・摂津から6万余、残りがその他の国からでした。細川京兆家にとって讃岐は本拠地であったため、多くの讃岐武士が京へ出陣し、東軍の中心となって活躍しています。讃岐から出陣した諸将は、香川・香西・安富・奈良・羽床・長尾・寒川、そして三谷・神内・十河の植田一族らです。中でも香川、安富、香西、奈良の各氏は「細川四天王」と呼ばれ、細川軍の重臣だったようです。いずれも讃岐に領地を持つ者ですが、香川、安富、奈良、由佐など各氏は、細川頼之の時代に讃岐にやって来た東国出身の武士です。一方、香西、羽床、寒川、十河、三谷などの各氏は、細川氏に取り立てられた讃岐の国人(地元はえぬきの武士)です。讃岐では軍勢の通貨のために沿道や航路は甚だしい混乱を招いたといわれています。

 その後も戦乱は続き、文明4年(1472年)5月、香西、安富の2将は、寒川、羽床、長尾、三谷、植田、十河らの諸将を率いて相国寺で大合戦を行い、10月に相国寺は炎上し、安富元綱・同盛継らが戦死します。安富元綱は勝元の寵臣の第一であったといわれ、その死を聞いた将軍義視の悲嘆は大きかったといいます。

 文明5年3月に山名宗全が、5月に細川勝元が相次いで死去し、将軍義政は両軍へ使者を派遣して和平をさせました。11年間にわたる大乱もここに至りようやく終息しました。讃岐の諸将も安富氏に率いられて帰国したいいます。

 しかし、その後、戦乱はおさまることなく日本中に波及し、世は戦国時代となっていきます。讃岐でも、香川、安富、香西、奈良などの各氏が応仁の乱後次第に細川氏から自立していきます。

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(37)“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護”

 足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府の第三代将軍で、父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)、祖父は室町幕府を開いた足利尊氏です。義満は尊氏の死後、丁度100日目の1358年に生まれています。義満が幼少の頃の室町幕府は、南朝との抗争がいまだ続き、また幕府内部でも紛争が続いていました。義満は、父義詮が病により死去すると、11歳で三代将軍となります。このとき、将軍を補佐する管領に就任したのは、宇多津に居を構えていた讃岐守護の細川頼之(よりゆき)です。讃岐には頼之の足跡が現在も多く残っています。
 
 頼之は、鎌倉時代末期の元徳元年(1329年)、細川頼春(よりはる)の長子として三河国細川郷で生まれました。幼名を弥九郎といいます。細川氏は足利氏の一門で、鎌倉時代に三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)へ移住したためその郷名にちなみ細川の姓を名乗っていました。頼之は、父頼春に従い始め阿波の秋月城(現在の徳島県土成町)に入り、讃岐の白峯合戦で清氏に勝利し、ついには讃岐・阿波・土佐・伊予の守護職を占めて四国管領といわれました。その本拠地は讃岐の宇多津にありました。

 正平22年(貞治6年)(1367年)病床にあった二代将軍義詮は、宇多津から京へ頼之を召還します。幼い息子・春王(義満の幼名)の後見役に頼之を起用するためです。義詮は「汝に一子を与えん」として、頼之に義満を託して逝ったといわれています。南北朝時代の動乱を描いた「太平記」は、頼之が管領になったときで終わっています。

 管領となった頼之は、義満に我が子以上の愛情を注ぎ、立派な将軍となるべく教育する一方で、花の御所の造営や半済令を施行するなど、「名執事」として不安定だった室町幕府の基礎固めに取り組みます。また和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、詠んだ和歌が勅撰集に入撰したりしており、軍事作法も記しています。

 しかし、すぐれた手腕によって幕府権力の強化に成功するものの、頼之は次第に斯波義将ら諸将との対立を深めます。このため義満は内乱の危機が迫ったため、康暦元年(1379年)、頼之を罷免して有力守護たちの不満を抑えます。これを康暦の政変といいます。

 義満から退去令を受けた頼之は領国の讃岐へ帰国します。途中で出家し「常久」と称します。時に頼之51歳。頼之は京都を出発する時、そのときの心境を「海南行」という漢詩で詠んでいます。「海南」とは讃岐のことです。その後十余年、頼之は宇多津に居を構えます。

 康応元年(1389年)、義満は宮島厳島神社へ参詣します。この参詣は山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに九州の南朝勢力を牽制し、また頼之に対面するためでした。3月5日、義満は京を出発し、兵庫から船出し海路を宇多津に向かいます。大槌小槌の瀬戸を潮流に揉まれながら6日夜半に宇多津に到着し、頼之と再会します。その頃の宇多津の情景は「なぎさにそって海人の家々連なり、東は山の峰々海中に入り長く見える。海岸には古松の大木、むろの木など立ち並び、寺の軒処々に見える。」と「鹿苑院殿厳島詣記」に記されています。東の山とは聖通寺山のことです。
 
 8日朝、義満一行は宇多津を離れ宮島に向かいます。そして、22日、義満は厳島からの帰り再び宇多津に立ち寄っています。その時は、多度津に上陸し、陸路で青ノ山を越えて宇多津に入ったといわれています。これにより、頼之は義満と和解し、頼之は再び将軍義満に召し出されて京に戻り、幕政に返り咲きます。

 頼之が死去したのは1392年の事です。享年64歳でした。義満は頼之の死をこの上もなく悲しみ、自ら葬送したといわれています。頼之は京の嵯峨の地蔵院に葬られています。南北朝が合体したのは、頼之が死去した年でした。なお義満による金閣寺の完成は頼之没後5年目のことです。

 頼之の功績により、細川一族は8ヵ国におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めます。特に頼之系統の細川家は京兆家(けいちょうけ)といわれ、京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4ヵ国を世襲し、中でも頼之以来、讃岐がその本国的存在で、細川氏の重要な勢力基盤でした。義満の時代は室町幕府の将軍の力が最も強かった時代で、金閣寺に代表される北山文化が花開いたときです。その陰に頼之の功績があり、その頼之の本拠地が讃岐であったということです。細川氏は、勝元とその息子の政元の時代に最盛期を迎えます。なお、勝元は応仁の乱のときの東軍総帥です。

 詳しくは「細川頼之と讃岐」をお読みください。

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(36)“乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦”

 1336年、足利尊氏は、北朝の光明天皇を擁立して征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。しかし、室町時代の初期、幕府権力はまだ弱体で、南朝側も強い勢力を持っており、幕府内部でも守護大名達が抗争を繰り広げていました。この時代を南北朝時代ともいいます。

 1358年(延文3年)4月30日尊氏が没し、足利義詮(よしあきら)が二代将軍の座につくと、細川清氏(きようじ)がその執事に就任します。清氏は、足利一門である細川一族筆頭の家柄の出で、足利尊氏とその弟の足利直義が争った観応の擾乱では、常に尊氏方として戦い、伊賀守護・若狭守護・評定衆・引付頭人と幕府内における地位を高めていました。

 しかし、その急速な勢力拡大と強引な性格から、清氏は幕府内の諸将と対立し、1361年(康安元年)、恨みを抱いていた佐々木道誉(どうよ)に讒言(ざんげん)され、義詮から謀反の疑いをかけられてしまいます。佐々木道誉は近江源氏の出で、丸亀京極家の祖先です。当時、婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれていた人物です。

 義詮に京を追われた清氏は分国若狭へ逃れますが、国人たちに背かれ、北朝方から南朝方に走ります。その後、清氏は、かつて父・細川和氏(かずうじ)の分国であった阿波へ渡り勢力を回復しようとします。しかし阿波はすでに細川頼之(よりゆき)の勢力が及んでいたため讃岐に移り、まず三木郡白山の麓に陣を置き、次いで今の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋に城を構えて兵を募ります。そして、西長尾城(現在の満濃町長炭)に籠もる南朝方の中院源少将と連携を図ります。

 一方、義詮は、清氏追討の令を細川頼之に対して発します。清氏と頼之は同じ細川一族で、従兄弟どうしに当たり、幼い頃は一緒に遊んだ仲でした。このとき頼之は中国管領として備中の国に渡り、山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧しているところでした。頼之は急いで宇多津に戻り、現在の丸亀と宇多津の間にある青ノ山に陣を張って備前の兵の応援を求めます。しかし、佐々木信胤が小豆島の星ヶ城を拠点として瀬戸内海の海上権を押さえていたため、備前からの増兵は困難な状況でした。

 頼之と清氏は宇多津と高屋で睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之はまず母の禅尼を清氏のところに遣り和議の交渉を行います。頼之の母は清氏の義理の叔母に当たり、昔からの熟知の間柄だったからです。頼之は日を延ばしてその間に兵力を増強します。

 兵の増強を図った後、頼之は家臣の新開真行(まさゆき)と謀り陽動作戦に出ます。まず、真行が一部の兵を率いて西長尾城へ向かい、中院源少将を夜討ちするようにみせかけます。清氏はこれに驚き、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせてしまいます。頼之はこの虚をついて兵が少なくなっていた高屋城を急襲します。清氏も自ら城を飛び出し戦いますが、あえなく味方の36人とともに討ち死にしてしまいます。頼之と真行の作戦は、清氏の自信と蛮勇を知ったうえでの策略だったといわれています。この戦を白峯合戦といい、「太平記」でも描かれています。1362年(正平17年/貞治元年)の出来事です。

 白峯合戦では頼之の家臣で乃木備前次郎という人物が討ち死にしています。日露戦争のときの旅順攻略で有名な乃木希典大将はその子孫です。明治時代、乃木大将は、善通寺におかれた陸軍第11師団の師団長を務めていましたが、赴任中にこの合戦のあった地を夫人と共に訪れ弔しています。

 敗れた清氏は三木郡白山の麓に葬られたといいます。白山の麓の畜産試験場の横に小さな祠があって五輪塔が建っているそうですが、この塔は、清氏のものと伝えられており、毎年8月には供養祭が行なわれているとのことです。

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(35)“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”

 十返舎一九は“やじ・きた道中”の物語で知られている「東海道中膝栗毛」の作者です。彼は、駿河国の同心の子として、今から約240年前の明和2年(1765年)年に生まれ、本名を重田貞一といいます。父のあとを継いで奉行所に勤めますが、以前から作家を志望しており、転勤で大阪に赴任したときには、役人を続けながら、近松門左衛門の門下に入り近松与七の名で浄瑠璃本を書きあげたりしています。しかし、作家と武士の両立はできないと考え、武士を辞めて作家業に専念します。

 その後江戸に出て、度々の東海道の往復で資料を蓄積して書きあげた「東海道中膝栗毛」が大ヒットして滑稽本作家の地位を確立します。滑稽本というのは宝暦年間(1751~1763年)以後江戸で生まれた新しい小説で、滑稽の中に風刺や教化を盛り込んだ本として書かれたものです。一九が執筆した「膝栗毛」は、人物の会話を中心として描いていて当時としては新趣向といえる代物でした。

 一九は、大坂にいた頃、金毘羅にも参詣しており、善通寺弥谷にも遊歴しています。そのときの印象を、「秀異勝景の地多くして、その感情今に想像するに堪えず。」と後に記しています。「東海道中膝栗毛」を書き上げた後、彼は版元から金毘羅参詣の体験をネタに東海道中の続編を書くよう勧められます。彼は讃岐の方言や風俗に疎いということでいったんは固辞しますが、再三の勧めに抗しきれず、ついに東海道やじ・きた道中の続編を「金毘羅参詣続膝栗毛(こんぴらさんけいぞくひざくりげ)」として執筆します。

 弥次郎兵衛と喜多八(金毘羅参詣続膝栗毛では「北八」と書かれています。)は、大坂で東海道中の旅を終え江戸へ帰るはずでしたが、ひょんなことから金毘羅を目指すことになります。大坂から金毘羅船に乗り込み、海路丸亀湊に渡ります。この湊は遠浅のため満ち潮になるまで沖に船を留めておかねければならないという「難渋」(なんじゅう)があったと書かれています。

 丸亀の「町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり」で、弥次郎と北八は「大物屋(だいもつや)」という旅籠屋に泊まります。ここでは、軽快な両人の江戸弁と、船頭や女中の間延びした讃岐弁との掛け合いがユーモラスに描かれています。また、素焼き瓶の風呂や土地の料理が興味深く書かれています。

 二人は丸亀から街道を南に行き、「餘木田」(今の与北)の郷を経て、榎井村の茶屋で一服します。ここでは大坂からの参詣客と出会い、江戸弁と大阪弁との掛け合いが描かれています。榎井村は「旅籠屋茶屋など多き所」と書かれています。そこから金毘羅の町に行き、鞘橋が「上を覆う屋形の鞘におさまれる御代の刀のような反橋」と書かれています。

 それから本宮に登ります。「その荘厳いと尊く、拝殿は檜皮葺(ひはだぶき)にしていかめしく、花麗殊にいわんかたなし。」「この御山より海上の島々浦々郷々一望の中に見わたされて風景いうも更なり。」と記しています。

 本宮から下る途中、弥次郎と北八は若衆髷をした若い色白の女と60頃の親父の連れに出会います。二人は大坂からの参詣客で、四人の間で交わされる江戸弁と大阪弁の応酬やその仕草がコミカルに描かれています。

 金毘羅からの帰路、四人は善通寺に立ち寄ります。「本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。」と記されています。ここでも茶屋で一服した後、曼陀羅寺に参ってから弥谷寺に参るため弥谷山の麓まで行きます。しかし、「曼陀羅寺より殊に険難の山坂を歴(へ)て来たるなれば各々足も疲れ、そのうえ小雨の降り出したるに、多度津の方へはまだ程遠きよし」ため、この麓の茶屋で止宿します。

 この茶屋での止宿の場面がこの物語のクライマックスでしょう。弥次郎と北八が金毘羅から同道している若衆髷をした若い色白の女に夜這いをかけるのですが、女だとばっかり思っていたところ、じつは男で、誤解が誤解を招き四人が絡み合ったドタバタの大騒ぎになります。

 次の日、弥次郎と北八の二人は、「弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持(ぐもんじ)の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠うち越えて、屏風ヶ浦というに降り立つ。」「それより弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂を過ぎて十四津橋(とよつばし)を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。」 多度津では、北八が虫歯の痛みで苦しみ、怪しげな薬屋に入ってとんだ目に遭います。
 そして、ほうほうのていで丸亀の大物屋に辿りつきます。

 なお、十返舎一九は天保2年(1831年)67歳で亡くなります。



 詳しくは「金毘羅参詣続膝栗毛」をお読みください。

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(34)“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士”


 幕末の風雲児高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、長州藩の人間で、奇兵隊をつくったこと有名です。晋作は琴平の街に一時潜伏していたことがあります。
 この物語は、司馬遼太郎が小説の素材としてとりあげており、「世に棲む日日」の中に讃岐の勤王家として日柳燕石(くさなぎえんせき)が登場しています。

 日柳燕石は、文化14年(1817年)、金毘羅の隣の榎井村で生まれました。当時榎井は幕府直轄地の天領で、豪商・豪農が軒を並べ、その財力は金毘羅をしのぎ、文化程度も高かったといいます。燕石の実家も加島家という豪農でした。このような環境の下で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには「四書・五経(ししょごきょうを)」を読破していたといいます。また詩文に天賦の才を持っていたといいます。
 しかし、豪農の跡取り息子にもかかわらず、持ち前の正義感と侠気(きょうき)から、燕石は、19歳の頃、一揆に巻き込まれて投獄されます。この頃から彼は詩作に没頭する一方で、遊郭で酒と博奕に耽る自由奔放な生活を始めます。持って生まれた度胸と金ばなれの良さ、人間的魅力もあっていつしか親分と立てられるようになります。彼が生涯に囲った妻妾(さいしょう)は十数人に及び、詩の中でも「妻妾は新詩の如し いよいよ新なれば いよいよ奇なり 朋友は古画の如くいよいよ旧(ふる)ければいよいよ宜(よろ)し」と詠じ、「畳と女房は新しいものほどよい」というようなことを言っております。
 燕石が勤皇を志したのは35歳の頃だといわれています。金毘羅の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていたものと思われます。また彼は長崎を訪ねて海外事情にも触れて時代の動向に目覚めていきます。こうした中、彼は勤皇の志士とも交友し、久坂玄瑞(くさかげんずい)や吉田松陰(よしだしょういん)など長州藩の志士にも名が知られるようになっていきました。
 燕石が自分の居宅に付けた「呑象楼(どんぞうろう)」という名は、盃に映った象頭山を飲み干すという意味で、豪快な彼の意気を感じることができます。長州の桂小五郎(後の木戸孝允)もここを訪れ、燕石は桂の勤皇思想に共鳴して援助を惜しまなかったといわれています。

 元治元年(1864)7月の蛤御門の変により、攘夷派の長州藩は、京都を追われます。さらに幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行います。また、アメリカなどの四国艦隊が長州藩の下関砲台を占拠します。このような情勢下、長州藩内では幕府に恭順する俗論派が台頭し、正義派三家老が自刃します。しかし、高杉晋作らが奇兵隊を組織して下関の功山寺で挙兵し、俗論派を排斥して翌年の慶応元年(1865)2月に尊王倒幕派が藩政を再び握ります。
 この年の3月、晋作は、イギリスへの密航を企て、伊藤俊輔(のちの博文)と長崎へ行き、イギリス商人グラバーにその計画を相談します。27歳のときです。ところが、グラバーより説得されて洋行を中止し、4月には下関に戻り、開港を推し進めようとします。しかし、下関が支藩である長府藩の領内であることから、この計画は下関を長州藩の管轄にすることになるため、晋作は長府藩士および攘夷主義者から命を狙われます。この難を避けるため、晋作は琴平の日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼って瀬戸内海を渡ります。
 晋作が燕石を頼って讃岐に来たのは、この年の5月のことです。下関の芸妓で愛人の「おうの」を連れだって来て、金毘羅の金山寺町(きんさんじ)にかくまわれます。このとき晋作は丸亀の村岡家に一時逗留し、長州藩士の井上善心、高松の勤王家太田次郎らと語り合ったといいます。
 晋作は、燕石のことを、「当所にて日柳燕石と申す奇人に出会い、議論符合し、益得ること少なからず候(そうろう)・・・、何(いず)れにしても、日柳氏一身を抛(なげ)うち潜伏させると申す位(くらい)につき、決して御懸念無用に存じ奉(たてまつり)り候」、「日柳氏は博徒の頭、子分千人ばかりもこれ有り、学問詩賦(しふ)も腐儒迂生(ふじゅううせい)の及ぶ所にこれ無く、実に関西の一大侠客に御座候」と記しています。
 閏5月3日、高松藩が晋作の捕縛にかかったさい、燕石は自分が代わりに縛に就き、晋作を逃します。虎口を脱した晋作は、象頭山を迂回して財田上の村より伊予川之江に出て、そこから舟で備後へ逃れ、6月には桂小五郎の斡旋により長州へ帰っています。

 慶応2年(1866)2月、長州藩は、桂小五郎らと共に土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟を積年の宿敵である薩摩藩と結びます。いわゆる薩長同盟です。6月には幕府の第二次長州征伐が始まりますが、幕府は長州軍に敗退します。
 慶応3年(1867)4月14日午前2時、高杉晋作は29歳で亡くなります。大政が奉還されたのはその年の10月です。
 一方、燕石は晋作を匿った罪で高松城下鶴屋町の獄に丸3年つながれます。明治元年(1868)、明治維新政府の成立により出獄すると、長州で尼となった「おうの」に会い、病で倒れた晋作をしのんで、「故人は鬼となり、美人は尼となる、浮世は変遷、真に悲しむべし」という詩を残しています。
 その後、維新政府軍に属し、奥羽越列藩同盟軍との戦いに日誌方(記録係)として従軍します。しかし、途中病気となり、越後(新潟県)の柏崎の陣中で、8月25日に亡くなりました。享年52歳でした。

 金毘羅の草莽の志士としては、日柳燕石のほか、長谷川佐太郎(さたろう)、美馬君田(みまくんでん)らが活躍しています。
 長谷川佐太郎は榎井村の醸造家で、燕石の勤王活動を側面から経済的に支援しました。家号は新吉田屋、略して新吉と呼び、同士間では梧陽堂ともいったそうです。桂小五郎は梧陽堂の離れ座敷で潜伏していたことがあり、3畳の秘密部屋へ備前倉敷の役人が臨検したとき、据え並んでいる酒樽の中に身を潜め、辛うじて捕吏の眼から脱することができたといわれています。
 美馬君田は、元阿波美馬郡の僧侶で、還俗して勤王活動に身を挺しました。燕石とは、「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われ、燕石とともに高杉晋作を匿い、一緒に鶴屋町の獄に繋がれました。



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(33)“東照宮も左甚五郎の墓もある高松”

 東照宮と言えば日光や静岡を思い浮かべる人が多いと思います。しかし讃岐にも東照宮があります。高松市屋島東町の屋島山麓にある“讃岐東照宮屋島神社”です。

 東照宮(とうしょうぐう)とは、江戸幕府の開祖である徳川家康を神格化した東照大権現を祀る神社のことで、江戸時代には日光、久能山をはじめとして500社を超える東照宮が造られました。明治に入って廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社といわれています。
 このうち、家康公の遺言により勧請されたものは日光東照宮(栃木県)と久能山東照宮(静岡県)の2社、家康公ゆかりの地で将軍家により勧請されたものは世良田東照宮(群馬県)の1社、御三家により勧請されたものは水戸東照宮(茨城県)、名古屋東照宮(愛知県)、和歌山東照宮(和歌山県)の3社、親藩により勧請されたものは前橋東照宮(群馬県)、忍東照宮(埼玉県)、佐佳枝廼社(福井県)、松江神社(島根県)、屋島神社(香川県)の5社です。

 屋島神社は、慶安5年(1652年)、徳川家康の孫で水戸光圀の兄に当たる高松初代藩主松平頼重が香川郡宮脇村(旧地名)の本門寿院境内に社殿を建立して東照宮の神霊を奉斎したのが始まりです。以来山王社として歴代藩主により崇敬されてきましたが、八代高松藩主松平頼儀(よりのり)が、風光明媚な屋島烏帽子ケ岳山麓の地に社殿の造営を行い、文化12年(1815年)に移転させて屋島東照宮と称しました。その造営費は当時の金額で約十四万余金と言われています。
 その後明治4年には冠獄神社と改称され、さらに明治7年屋島神社と改称されました。昭和48年2月12日思わぬ不慮の災害に会い本殿、拝殿等を全焼しましたが、唐門は焼失を免れ、翌年11月に権現造り社殿が再建されて現在に至っています。
 屋島神社の彫刻などは、唐門が3分の2を占めており、江戸時代の粋を極めた美術工芸品は見事なものです。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が父の名跡を継いで高松藩松平家の客分棟梁となり、藩命を受けて完成させたものです。中でも正面上部にある鳳凰の鳥、御門の両側の柱にある上り龍、下り龍などは格別のできばえです。

 左甚五郎(ひだり・じんごろう)は、桃山時代後期から江戸初期にかけて活躍したといわれる宮大工、彫物師で、伝説の名匠です。その代表作は日光東照宮の「眠り猫」の彫刻です。奥社の手前にある坂下の回廊頭上のところで上を見上げると「眠り猫」の彫刻を見ることができます。日光東照宮の数ある彫刻の中でも有名な彫刻です。この他にも京都・知恩院の七不思議の一つ「忘れ傘」を初めとし、その作品といわれるものは全国各地に残されていま
す。
 甚五郎は、文禄3年(1594年)、明石(兵庫)に生まれ、母方の郷里の飛騨で修業を積み、さらに京の伏見で修行した後、江戸へ出て、宮大工・宮彫として活躍し、日光東照宮や上野寛永寺にその腕を振るったといわれています。しかし江戸城内の秘密の地下通路の建設に携わり、その秘密を知ったことで抹殺されそうになったため高松へ落ち延び、生駒家へ大工頭として仕えたといわれています。
 寛永年間に記された高松・生駒藩の家臣名簿『生駒候分限録』には「大工頭 甚五郎」の名が記されており、7人いた大工頭のなかでも筆頭格だそうです。生駒家が改易となった後、一旦江戸に帰って師の名跡を継いでから、再び高松松平家の客分棟梁としてこの地に移住し、没したということです。左家は、彫刻家の家系として現在に至っているということですが、左甚五郎が実在の人物なのかどうかは、未だによくわかっていないそうです。
 高松には、屋島神社のすぐ東隣接の四国村に甚五郎のものといわれる墓があります。この墓は元々市内の地蔵寺にありましたが、道路拡張に伴い四国村に移設されました。


 




 


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(32)“唐招提寺開祖の鑑真が開いた屋島寺”

 
 屋根のような形をした屋島は、標高約300メ-トル、花崗岩を基礎としたメサという溶岩台地で、元は島だったところです。山上は平らで南北2つの嶺に分かれ、南嶺に第84番札所屋島寺(号は南面山千光院(なんめんざんせんこういん))があります。この寺は、奈良時代の末に唐の僧で唐招提寺の開祖で知られる鑑真(がんじん)が、北領に伽蓋を建立したのが始まりといわれます。四国霊場88ヵ寺の中で鑑真が創立したと伝えられているのはこの寺だけです。

 仏教では、出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から授戒の儀式を受ける必要があるとされています。しかし、8世紀前半当時の日本には正式の戒壇は無く、戒律を授ける資格のある僧も不足していました。そこで、朝廷は、日本に正式の戒壇を設立するため、天平5年(733)、遣唐使とともに渡唐する留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)に対して、仏教者に戒律を授けるしかるべき導師を招請するよう命じます。
 渡唐した彼らは、すでに唐で一流の高僧とされていた鑑真に戒律を日本へ伝えるよう懇請します。それを受けた鑑真は、自ら渡日することを決意します。しかし、その後、日本への渡海を10年間で5回にわたり試みますがことごとく失敗します。5回目には嵐に遭い、はるか南シナ海の海南島まで流され、ついに潮風に侵されて失明します。6回目の航海にしてようやく成功し、天平勝宝5年(753)10月、薩摩(琉球という説もあります)に上陸した時、鑑真はすでに67歳になっていました。東大寺大仏開眼の次の年です。

 鑑真が難波津(大阪)に向かって瀬戸内海を航行している途中、屋島の山上に瑞光が見えたので船を泊めて北嶺に登り、そこに普賢堂(ふげんどう)を建立して仏像や経典を納めます。これが屋島寺の始まりといわれています。屋島北嶺には現在も屋島寺の前身である「千間堂」という地名が残っており、基壇をもつ礎石建物跡が確認されています。
 奈良に向かった鑑真は、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、また天平宝字3年(759)、唐招提寺を創建します。また仏舎利、律・天台の経典、王羲子の書、建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本文化に大きな影響を与えて、天平宝字7年(763)に死去しました。なお、鑑真と栄叡・普照らの物語は、井上靖が「天平の甍(いらか)」という小説で描いています。

 弘仁6年(815)、屋島を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により北嶺にあった伽藍を南嶺の現在の地に移し、十一面千手観音坐像を刻んで本尊とし第84番の霊場として定めます。屋島寺は、鎌倉時代以降衰退しましたが、江戸時代に歴代藩主の援助などによって再興されて現在に至っています。

 讃岐には、鑑真が開いたと伝えられている寺が屋島寺のほかもう一つあります。
 高松市国分寺町の鷲ノ山(わしのやま)(標高322m)の東麓に鷲峰寺(じゅうぶじ)という天台宗の寺があります。この寺の開基は、奈良時代の天平勝宝6年(754)、鑑真和尚が鷲ノ山の山容がインドの霊鷲山に似ていることから、釈迦如来像(元本尊)を刻み、この地に堂宇を建立したことによるといわれています。
 平安時代の初期、智証大師円珍が千手観音像を安置して寺観を整え、貞観2年(860)、智証大師十七檀林の一つとして四海安鎮の勅願寺とされました。その後、嘉元4年(1306)、大和西大寺の長老慈心和尚信空が60余の僧侶を率いて大供養を修したといわれています。
 戦国時代の天正年間(1573-1591)、長曽我部元親の兵火により、伽藍が焼失しましたが、江戸時代初期の寛文元年(1661)、初代高松藩主・松平頼重がその名刹を惜しみ、園城寺(三井寺)から観慶(かんけい)阿闍梨(鷲峰寺中興1世)を招いて住持とし、延宝4年(1673)、諸堂が再建されました。


 




 


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(31)“朝鮮・中国からの侵攻に備えて築かれた城”

 6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島では百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)の三国が鼎立していました。倭国(日本)は南部の任那を通じて半島に影響力を持っていましたが、任那が新羅に滅ぼされたためこの地域の奪還を願っていました。

 斉明6年(660年)年、百済が唐(とう)と新羅の連合軍に攻め滅ぼされ、倭国に助けを求めます。大化の改新を成し遂げ国力が充実していた倭国は、新羅の強大化を好まず、実質的な首班であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)は直ちに百済救援を決定します。皇子は、天智2年(663年)3月、2万7,000の大軍を朝鮮半島に派遣します。しかし、倭国と百済の連合軍は増強された唐・新羅の連合軍に追いつめられます。

 こうした形勢を打開するため、天智2年8月27日、倭国の水軍は錦江下流の白村江(はくすきのえ)に突入を試みます。しかし、この戦いで、倭国と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に歴史的な大敗を喫します。この戦いを白村江の戦いといいます。日本が外国との戦争で明確に負けたのはこの時と太平洋戦争の2度だけです。その5年後には高句麗も滅ぼされ、日本は朝鮮半島における友好国のすべてを失い、半島は親唐の新羅により統一されます。このとき日本は多勢の百済高句麗からの亡命者を受け入れます。

 その後、中大兄皇子は即位して天智天皇となります。そして、唐・新羅による報復と侵攻に備え、九州大宰府に水城(みずき)や瀬戸内海沿岸に朝鮮式山城(やましろ)などの防衛施設を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備します。また667年には都を難波から内陸の大津京へ移し、万一新羅が瀬戸内海を渡って攻め込んで来たときに備えた防衛網を完成させます。この大津は壬申の乱で天智天皇の弟の天武天皇が天下を取るまで日本の都でした。白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたといわれています。

 唐・新羅の侵攻に備えて作られた朝鮮式山城の一つが屋島城(やしまのき)です。日本書紀に、「天智天皇六年十一月築大和国高安城(やまとのくにたかやすのき)讃岐国山田郡屋島城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)対馬金田城(つしまのくにかなたのき)是讃岐国ニ於ケル城壘ノ初メ也」との記載があります。長らくその実体はよく分かりませんでしたが、平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石塁が発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することがわかり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代屋島城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。また西南斜面の石塁の一部から城門遺構が確認されたことにより、屋島城の存在が実証されました。

 日本書紀には記載されていませんが、讃岐にはもう一つ古代の山城があります。坂出市にある城山(きやま)です。この城は白村江の戦いの後に築かれたものか分かっていませんが、九州北部や山口県にある朝鮮式山城と同様の特徴を持っていると言われています。城山から北方眼下に瀬戸内海、西に丸亀平野、東に高松平野の一部を展望することができます。

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(30)“日本三大庭園より立派といわれる栗林公園”

 水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」、岡山の「後楽園」は、日本三大庭園といわれています。しかし、大正9年文部省発行高等小学読本巻一には、「我が国にて風致の美を以て世に聞えたるは水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園にして之を日本の三公園と称す。然れども高松の栗林公園は木石の雅趣却つて批の三公園に優れり。」と書かれています。

 これらは、いずれも大名庭園と呼ばれるものです。江戸時代、大名は国許の城内や下屋敷(しもやしき)、あるいは江戸の上屋敷(かみやしき)・下屋敷などに数千坪から十数万坪におよぶ広大な庭園を所有していました。これらの庭園の多くは、大きな池を海にたとえて中心にすえ、その周りに起伏に富んだ地形をもって山・谷・平野を表現して、池の周りを散策できるように整備された池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)と呼ばれる庭で、「儀礼」と「社交」の場として用いられました。

 そのためのさまざまな趣向が加えられており、一種のワンダーランドでした。広大な庭園には、樹木や草花などが随所に植えられ、さらに花壇や鉢植棚が設けられて観賞用の花や木が栽培されていました。この栽培技術をもとに薬草園も設けられていました。さらに「御庭焼(おにわやき)」と呼ばれる陶磁器も生産され、大名の趣味的なやきものばかりでなく、殖産興業を目的としたやきものの 試験場的な役割もありました。

 現在、大名庭園は全国に38ヵ所残っています。本県ではこのうち栗林公園と丸亀の中津万象園の2庭園が残っています。38庭園のうち特別名勝に指定されているものは、全国で8庭園のみで、栗林公園は大正11年に「名勝」に指定され、昭和28年に「特別名勝」に指定されています。名勝は我が国の優れた国土美の代表として学術的価値の高いもので、そのうち価値の特に高いものが特別名勝です。特別名勝は価値の特に高い有形文化財が国宝とされているのと同じ取り扱いです。栗林公園が“お庭の国宝”と呼ばれる所以です。

 栗林公園以外で特別名勝に指定されている大名庭園は、東京都の「浜離宮恩賜庭園」・「小石川後楽園」・「六義園(りくぎえん)」、金沢市の「兼六園」、福井市の「一乗谷朝倉邸跡庭園」、京都市の「二条城二の丸庭園」それと岡山市の「後楽園」です。日本三大庭園の一つの「偕楽園」は史跡・名勝に指定されていますが、特別名勝には指定されていません。

 栗林公園の歴史は古く、今から約400年前、豊臣秀吉の家臣であった生駒氏の時代まで遡ります。生駒家の家臣佐藤道益(みちます)がこの地に屋敷を構えたのが始まりといわれています。「浜離宮恩賜庭園」、「小石川後楽園」、「六義園」、「兼六園」、「二条城二の丸庭園」、「後楽園」はいずれも江戸時代に入って築かれた庭園ですから、栗林公園の方が古いといえます。「一乗谷朝倉邸跡庭園」は室町時代の庭園ですが、埋没していたものを発掘復元した遺跡です。

 栗林公園の地は、御林(おはやし)また栗の木が植えられていたので栗林と呼ばれていました。また旧香東川の川筋に当たり伏流水が豊かで、紫雲山を借景としていることから、庭園の立地条件として最適の土地でした。生駒氏の後を受け継いだ松平氏は別邸(栗林荘と呼ばれていたようです。)として築庭を続け、庭園としての完成をみたのは五代頼恭(よりたか)のときです。延享元年(1744年)に大改修を行い、儒学者の中村文輔に命じて、湖、岡、島などに名称を記させました。現在呼ばれている名所地の名前はこのときつけられたものです。初代頼重から五代頼恭(よりたか)までじつに約百余年間にわたる整備によってようやく完成したのです。

 明治4年7月廃藩置県によって栗林荘は高松県の所有となり、その後、明治8年3月16日、「栗林公園」という名称で公開されました。しかし、英語では「park」よりも「garden」という語の方がイメージに合っていると思われます。「公園」という名称が用いられたのは、明治初期における文明開化の新時代の風潮を意識してのことかもしれません。



 栗林公園ホームページ





 




 


 


 


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(29)“三度目の正直でやっとできた全国最後で最小の県”

 香川県の古い国名は、“さぬきうどん”の“讃岐”です。この呼び名は、「古事記伝」によると、飯依比古(いいよりひこ)の国を賜った手置帆負命(たおきほおいのみこと)が矛竿(ほこさお)をつくり貢ぎ物としたので、「竿調国(さおつきのくに)」といい、それがちぢまって「さぬき」になったといいます。また、東西に細長く、南北に短い地形から 「狭貫(さぬき)」と書いたともいわれています。

 明治2年6月の版籍奉還により、高松藩知事には松平頼聰(よりとし)、丸亀藩知事には京極朗徹(あきゆき)、多度津藩知事には京極高典(たかまさ)がそれぞれ就任しました。しかし、多度津藩は同4年(1871年)2月に倉敷県に併合され、続いて同年4月10日丸亀県が置かれ、さらに同年7月14日の廃藩置県により高松藩が廃止されて高松県が置かれました。そして、同年11月15日、高松県と丸亀県および倉敷県に併合されていた旧多度津藩領を合わせて、香川県が誕生しました。「讃岐」が一つの統治地域になったのは、生駒藩以来約360年ぶりのことです。

 「香川」という県名は、このとき初めて用いられ、その由来は、香東川からきているといわれています。江戸時代に書かれた南海通記によれば、「この川の上流、樺川(かばかわ)に香木あり、水清く、西風に匂いきてこの河水に、薫ずる故に、香川と云う」とあります。高松市の南、徳島県に向かう途中の香川郡塩江町安原上東に「樺川」というところがあります。ここから流れるのが、今の「香東川」です。

 しかし、香川県が始めて誕生してから1年3ヵ月後の明治6年2月、政府の府県広域化政策により、香川県は名東県(みょうどうけん、現在の徳島県と淡路島)に併合されます。県庁は徳島に置かれ、旧香川県庁は高松出張所と改称されます。

 ところがこの第一次香川県は、県会が開かれると、吉野川治水費をめぐり、租税負担金が多いにもかかわらず讃岐の受ける恩恵は少ないと、讃岐側議員が猛烈に反対し、3日間の激論でも解決しませんでした。このようなことで、政府は讃岐住民の抵抗を無視できず、2年7ヵ月後の明治8年9月、再び香川県の設置を認めました。

 しかし、この第二次香川県も1年と続きませんでした。政府は3度目の府県統合を実施し、明治9年8月に讃岐国はまたもや愛媛県に編入されたのです。四国では名東県(徳島県)も高知県に併合されています。讃岐を合わせた愛媛県庁は松山に置かれ、高松はその支庁(後に出張所)となります。以来12年余り、讃岐では愛媛県時代が続くことになります。

 中央では、これに先立つ明治7年(1874年)、板垣退助らによって民撰議院設立建白書が提出され、議会開設を求める自由民権運動が活発になっていました。讃岐でも、同8年、高松の豪商達によって民権思想や新しい文明を移入する目的で設立された新聞雑誌の展覧所博文社(舎)(はくぶんしゃ)が設立され、その後、純民社高松立志社丸亀立志社翼賛社興民社などの民権結社が設立されています。

 明治15年(1882年)、高松立志社の人々が中心となって「讃豫分離ノ檄文」(さんよぶんりのげきぶん)が発せられ、愛媛からの分県独立運動は民権運動と深くかかわって展開します。同21年、高松の改進党系グループらの熱心な活動により、政府もようやくこれをとりあげ、同年11月6日「香川県設置之件」が閣議にはかられ、同年12月3日付で、第三次香川県設置の勅令が公布されました。全国で最後の置県でした。当時の香川県の人口は、665,036人でした。念願のかなった讃岐の人ことに高松市民は「有頂天なり、殆んど商売も手に就かざる有様」で、花火を打ち上げて香川県の成立を祝賀したといいます。

 香川県は全国の47都道府県の中で最も県土面積の小さい県です。人口も平成17年度現在1,019,718人、47都道府県中第40位です。しかし、人口密度は高く、京都府に次いで47都道府県中第11位です。

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