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(146)“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家”

 
 武士の起源は、古代律令制国家が崩壊していった10世紀から12世紀にかけて、在庁官人、郡司、荘官ら地方に土着した者たちによって形成されていった武装集団だといわれています。彼らを国人ともいいますが、讃岐の代表的な国人は、讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏の3つの一族です。
 讃岐氏は、神櫛王(かんぐしおう)の子孫だといわれ、三木・寒川両郡で勢力を張り、その一族は寒川、高松、三木、神内、植田、池田、十河、三谷、由良、村尾らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐橘氏は、藤原純友を捕らえた警固使橘遠保(たちばなとおやす)の子孫で、荘内半島を中心に勢力を張り、長尾、海崎(みさき)、真部らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐藤原氏は、阿野・香川2郡を中心に勢力を張り、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、新居、豊田、柞田、柴野、植松、三野、阿野、詫間らに分かれていき、その一族は讃岐藤家(ふじけ)六十三家と呼ばれました。
 これら、3つの一族のうち、讃岐で最も有力な武士団となったのが讃岐藤原氏です。その初代は、藤太夫章隆(とうのたいふあきたか)といい、父は、平安時代末期の保安元年(1120)に讃岐守となって京から下向してきた正二位中納言・藤原家成(いえなり)です。家成は、藤原北家中御門流の公家で、平清盛の義母である池禅尼の従兄弟にあたり、鳥羽上皇に仕えたといわれています。母は綾大領貞宣(あやのかみさだのぶ)の娘で、綾氏は日本武尊の息子である武殻王(たけかいこおう)の末孫といわれ、代々阿野(あや)郡の大領(だいりょう、郡司のこと)を務めていた豪族です。
 章隆は成人して父方の藤原氏を名乗って藤太夫(とうのたいふ)と称し、綾の大領となります。その息子が讃岐藤原氏二代目の資高(すけたか)で、資高は治承年間(1177~81年)に羽床(はゆか)の庄司(しょうじ)となり、下羽床に居を構えて菅原、滝宮、小野、北村、羽床下、羽床上、牛川、西分、東分の9か村を治めます。そして、地名をとってはじめて羽床氏を称します。この羽床氏が讃岐藤家六十三家の嫡流です。
 資高には息子が生まれ、次男の有高は香東郡大野郷を本拠とする大野氏の租となります。三男の重高は羽床氏を継ぎ、のちにそこから、豊田氏、柞田(くにた)氏、柴野氏などが分流していきます。四男の資光(すけみつ)は阿野郡新居(にい)郷を本拠とし、新居氏を称します。
 資高の息子たちの中でも新居資光は、源平合戦の際、讃岐の藤原・綾両家の一族一千人を率いて源氏につき、寿永2年(1183)の備中水島の合戦で活躍し、さらに京に上って院の警護に当たり、寿永4年(1185)の屋島の戦いでは、義経の陣に加わって戦功を挙げ、頼朝から感状を受けて綾郡を安堵されたといわれています。そして、のちに新居氏から香西氏、福家氏、西隆寺氏が分かれていきます。

 建久3年(1192)鎌倉幕府が成立すると、京都を中心に西国を統治する朝廷と、鎌倉を中心に東国を統治する幕府が並立し、幕府が朝廷を抑える状況になりました。これに対して、後鳥羽上皇は、幕府に対して強い不満を抱きます。後鳥羽上皇は後白河法皇の皇孫に当たり、祖父譲りの智謀家で、譲位した後も土御門(つちみかど)天皇・順徳(じゅんとく)天皇・仲恭(ちゅうきょう)天皇の御世に院政を執っていました。また諸芸に通じる「万能の人」としても知られていました。
 承久元年(1219)、3代将軍・源実朝が暗殺されると、幕府執権・北条義時は、実朝のあとの将軍に、後鳥羽上皇の皇子を迎えようとします。しかし、源氏の嫡流が断絶したこのときを好機と考え討幕の決意を固めていた後鳥羽上皇は、これを拒絶し、結局、頼朝の遠縁にあたる九条道家の子・頼経が将軍として迎えられることになります。
 幕府と朝廷の争いは、後鳥羽上皇が、寵愛していた伊賀局(白拍子亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋荘の地頭の免職を北条義時に命じ、北条義時がこれを拒否したことを発端として表面化します。後鳥羽上皇は、地頭の免職要求が棄却されたことを根拠に、承久3年(1221)5月15日、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発し、ついに挙兵します。これが承久(じょうきゅう)の乱です。
 このとき、讃岐藤原氏の一族は、嫡流の羽床氏とその系統の柞田氏らが後鳥羽上皇の院宣に呼応して朝廷方につき、傍流の新居資村(すけむら)らが幕府側につきます。資村は新居資光の息子にあたります(ただし、弟、甥という説もあります)。

 この戦いに際し、幕府は、二代執権・北条義時を中心に結束を固め、義時は子の泰時を大将に、弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都に向かわせ、東山道や北陸道からも攻めさせました。その軍勢は19万といわれています。そして、1ヶ月たらずのうちに京都を占領しました。
 乱後、幕府は朝廷方を厳しく処分しました。朝廷軍に加わった後藤基清・佐々木経高・三浦胤義・河野通信・大江親広らは厳罰に処せられ、また後鳥羽上皇は隠岐国、順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国へとそれぞれ流され、仲恭天皇は廃位させられて後堀河天皇が践祚します。
 土御門上皇は、土佐に流される途中、讃岐白峯にある崇徳天皇御陵の近くを通り、その際に崇徳天皇の霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて土御門上皇と都に残してきた家族を守ることを約束したという逸話が残されています。土御門上皇はのち阿波に移り、そこで崩御されました。

 幕府は、承久の乱の勝利で、上皇方の公卿や武士の所領を没収して新補地頭(しんぽじとう)を配し、さらに朝廷監視のために京に六波羅探題を置いて西国における幕府権力を強化します。
 讃岐では、鎌倉幕府のために戦った新居資村が、その功によって香川12郷・阿野4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓の佐料に居館、その山上に詰めに城を築きます。そして、氏を香西氏に改めて左近将監に補任され、讃岐藤家六十三家の棟梁の座につきます。以後、香西氏は海陸ににらみをきかせながら勢力を伸長させていきます。一方、朝廷方についた羽床・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の下に入ります。

 その後、鎌倉幕府滅亡後の南北朝動乱期にも、香西氏と羽床氏は、同族であるのもかかわらず、袂を分かっています。香西氏は、承久の乱のときと同様に武家方の北朝につきます。一方、羽床氏は、鎌倉時代末期、政成が楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功を挙げますが、その後、政成の子の政長(まさなが)は、一族みな北朝に属した中で、ひとり羽床七人衆を率いて宮方の南朝につきます。勇名を馳せた羽床七人衆とは、秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後、後藤是兵衛、造田佐渡、羽床源内、脇絲目です。
 北朝方についた香西氏は、南北朝時代以降、讃岐を支配した細川京兆家の重臣となり、細川四天王の一人として京へも進出するなど大いに栄えます。しかし、南朝方についた羽床氏は香西氏の陣代として勢力を保つこととなります。

 戦国時代末期の天正時代(1573~1593)、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まると、香西氏、羽床氏ともその軍に下ります。その後、香西氏は秀吉の四国征伐により絶え、羽床氏も秀吉の家臣・仙石秀久に従って出陣した九州征伐における戸次川の合戦で絶えます。これにより、平安時代末期から鎌倉・室町時代を通じて讃岐の有力国人であった讃岐藤家(ふじけ)はその長い歴史に幕を閉じました。

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(126)“讃岐にも残る北条時頼の廻国伝承”

 北条時頼(ほうじょうときより)は、鎌倉幕府第5代執権を務め、幕府政治を磐石なものとした名君といわれる武将です。元寇を戦った執権として知られている北条時宗はその息子です。その政治は質素・倹約を旨とし、弱小御家人の保護や撫民に主眼をおく仁政だったといわれています。隠居後は出家して最明寺入道と名乗り、僧に身をやつして諸国を漫遊し、民の暮らしを視察したという廻国伝承が全国各地に残っています。中でも有名なのが、謡曲「鉢の木」(はちのき)の物語です。この物語は、次のようなものです。
 僧の姿に身をやつした時頼が、大雪で道を見失い、近くの貧しい家に一夜の宿を請うた。時頼であるとは知らずに、家の夫婦は粟飯を振る舞いもてなし、また貧しさ故に十分な薪も無いため、秘蔵の梅、桜、松の鉢の木を炉にくべて暖をとった。時頼が主人の素性を尋ねると、佐野源左衛門常世という武士で、一族に土地を奪われ落ちぶれてはいるが、もしひとたび鎌倉に大事が起きれば、「いざ鎌倉」と一番に馳せ参じる覚悟だと語った。その後、鎌倉に帰った時頼が御家人を召集すると、常世は言葉に違わず一番に馳せ参じてきた。忠節に感激した時頼は、かつての雪の夜のもてなしにちなんで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の各荘を領地として与えた。

 讃岐には、高松市塩江町に「最明寺」という寺があり、この寺の縁起によると、元は如意輪寺と称していたが、行脚途中の北条時頼が再興したことにより寺名をその入道名にちなみ変えたということです。また、小豆島町池田の中山地区には殿川ダムがありますが、その麓近くにある八木家には、「鉢の木」物語に類似した物語が伝わっています。話だけでなく、北条時宗から与えられたという文永2年(1265 )5月10日付けの古文書と刀や、亀女という尼僧の木像を安置した四ッ堂という祠が残っているそうです。その物語とは次のようなものです。
 鎌倉時代中期の正嘉元年(1257)から正元元年(1259)の時代、旅僧姿の時頼は小豆島を行脚中、病のため河山村の四ッ堂という小堂の近くの路傍で倒れてしまった。時頼とも知らずそれをみつけた亀女という女性は、二人の幼い男の子を抱えて貧しい暮らしをしていたにもかかわらず、手厚い看病を施した。1年後、亀女が幕府から呼ばれて鎌倉に出向いたところ、そのとき助けた旅僧が出てきて、驚く亀女に謝礼を述べるとともに、褒美として小豆島の河山村一村を与えると告げた。亀女があまりの広さに恐れ入ってそれを辞退すると、時頼はせめて今の住まいの周辺の土地を末代まで安堵するという保証を亀女にした。時頼が亡くなった後、亀女はその土地を一族の者に騙し取られてしまった。時頼の言葉を思い出した亀女は、再び鎌倉に出向き訴え出たところ、ときの執権時宗は早速調べたうえ、その土地を文書でもって安堵したうえ、改めて父頼時が世話になった礼として刀を亀女に与えた。鎌倉からの帰途、亀女は京都に立ち寄り、出家したうえ自己の姿を木像とし、時頼が倒れていた四ッ堂に祠を建て、そこにその木像を安置した。

 北条時頼が諸国を行脚したという史実は無いようですが、伝承によると時頼は受けた恩を決して忘れずそれに報いるという、義理堅い人情豊かな人物として描かれています。しかし、その執権時代は血みどろの権力闘争に明け暮れた人生でした。
 源頼朝によって建久3年(1192)に開かれた鎌倉幕府は、承久元年(1219)3代将軍源実朝の死により20余年で源氏嫡流が断絶します。その後、公家の九条家から2歳の藤原頼経が4代将軍として迎えられます(これを摂家将軍といいます。)。しかし、その地位は形式的なもので、幕府の実権は、頼朝夫人であった北条政子の父、北条時政を初代とする執権が握っていきます。
 承久3年(1221)に起きた後鳥羽上皇の討幕挙兵を鎮圧したことにより、幕府政権は京都の公家政権に対して優位に立ち、皇位継承についても影響力を持つようになります。これを承久の変(じょうきゅうのへん)といいます。しかし、この時期においては、まだ、執権北条氏が幕府内部で権力を独占していたわけではなく、三浦氏や安達氏といった源頼朝挙兵以来の御家人が北条氏と肩を並べるほどの勢力を持っていました。また、北条一門の間においても得宗家(とくそうけ)と呼ばれる嫡流が絶対的権力を有していたわけではありませんでした。幕府内における北条得宗家の独裁的地位を確立したのが第五代執権北条時頼だといわれています。
 北条時頼は、安貞元(1227)年、北条時氏の子として生まれます。最初の武家の法典として有名な御成敗式目(貞永式目)を制定した第三代執権北条泰時は時頼の祖父です。寛元4年(1246)3月、兄の第4代執権北条経時が病で倒れたためその後を受けて20歳で第5代執権となります。しかし、このとき幕府内部では、北条一門の名越光時が執権職などを巡って得宗家に対して強い不満の念を抱いていました。また、藤原頼経は、成人してから実権を掌握しようとしたため、そのまだ4歳の子である頼嗣に将軍職を譲位させられていましたが、なおも鎌倉に留まって前将軍として影響力を行使しようとしていました。
 閏4月、前執権北条経時が亡くなると、そのどさくさに、名越光時が藤原頼経と謀り、執権の時頼を殺害して幕府の実権を奪おうとしました。しかし、その陰謀を事前に察知した時頼は、機先を制して頼経を京都へ追放するとともに光時を伊豆に流します。これを宮騒動(みやそうどう)といいます。
 しかし、この騒動は、有力御家人である三浦泰村の弟・三浦光村が関わっていたことから、次の争いを生じます。なお、三浦光村は、仁治4年(1243)から讃岐守護を務めており、その被官の長雄(長尾)二郎左衛門が宇多津に置かれた讃岐守護所に代官として赴任していたようです。
 宝治元(1247)年5月以後しばしば三浦一族叛逆の流言が鎌倉で飛び交うようになります。これは三浦泰村に対抗するもう一方の有力御家人である安達景盛の挑発作戦でした。景盛は北条時頼の外祖父にあたり、三浦一族と安達一族はいずれ雌雄を決しなければならないと考え、子の義景や孫の泰盛らに戦いの準備を命じていました。しかし、泰村はなかなか挑発に乗りませんでした。こうした中、時頼が三浦一族の武装解除を条件に泰村の忠誠を認め、泰村がそれに従ったところ、安達一族がその虚を突いて三浦邸に大軍を率いて奇襲攻撃をかけました。騙し討ちされた泰村は、源頼朝の墓所である法華堂に籠もり、頼朝の絵像を前にして一族500余人と共に自害しました。ついで、時頼は、泰村の妹婿である千葉秀胤を攻撃して滅ぼします。これを宝治合戦(ほうじかっせん)といい、ここに北条得宗家の独裁的地位が確立しました。
 さらに、建長4(1252)年、北条時頼は、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍藤原頼嗣を廃立し、新たに後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を6代将軍に迎えます。以後鎌倉は皇族が将軍に就くことになります。これを宮将軍または皇族将軍といいます。しかし、これにも将軍としての力は全くなく、幼少期に就任し、成人すれば退位させられるという形でした。

 康元元年(1256)、時頼は30歳で執権職を退き、その地位を庶流の北条長時に譲り、出家します。しかし、これは、嫡子の時宗がまだ幼少のため中継ぎとして長時に執権職を譲ったもので、時頼は出家後も幕府内での最高権力者として政治の実権を握り続けます。このときから、執権が北条氏の庶流出身者である場合、その時の最高権力者は執権ではなく得宗だという得宗専制政治が始まったと考えられており、執権と得宗の権力が分化し、得宗が執権の上に立つこととなったといわれています。
 これとともに、鎌倉御家人たちの忠誠の対象も、幕府という組織から得宗家に移っていったのではないでしょうか。全国各地に残る北条時頼の廻国伝説は、得宗家に対する忠誠心を分かりやすく説いたものではないでしょうか。
 弘長3(1263)年、時頼は37歳で亡くなります。吾妻鏡には袈裟を着て、坐禅を組んで、泰然として目を閉じたと記されています。時宗が8代執権に就いたのは時頼死後の文永5年(1268)です。

 得宗専制政治は、幕府政治に安定をもたらしたものの、その後、得宗家の私的な家人であった御内人がいつしか執権をも凌ぐ勢力を持ちはじめ、政治に絶大な影響力を行使するようになります。弘安8年(1285)年11月、御内人の平頼綱が安達泰盛を攻撃し、安達一族は500人が自害し又は討たれました。これを霜月騒動(しもつきそうどう)といいます。泰盛は宝治合戦のとき、北条時頼とともに三浦氏を滅ぼし、得宗専制政治の確立に一役かいましたが、今度は自分がつくりあげた得宗専制政治により滅びることになったわけです。
 有力な御家人がいなくなったことで、鎌倉時代中期以後には、北条氏及びその一族が全国4分の3以上の国々の守護職を占めることになります。讃岐守護も、三浦光村の後、北条重時、北条有時、北条守時など北条一門が占めています。

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(114)“源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前”

 寿永4年(1185) 、下関「壇ノ浦」の戦いで源義経は平家を滅ぼします。しかし、その後、今度は義経が兄の源頼朝に追われる身となります。
 義経は愛妾の静御前を連れて吉野山に逃れようとしますが、女人禁制の山のため同行することができず、静と別れざるを得ませんでした。このとき、義経は静に形見として、"初音"という名器の鼓を与えています。この鼓は、重源僧上が唐から持ち帰って天皇に献上され、その後、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の家宝となっていましたが、屋島合戦のとき檀の浦の波間に漂っているところを伊勢の三郎が見つけて義経に献上したというものです。
 義経一行と別れた静は京都へ戻る途中で捕らえられ、鎌倉へ護送されて義経の行く先を厳しく問い質されますが、頑として応じませんでした。静が鶴岡八幡宮において奉納舞を懇請され、頼朝を初め多くの武将が居並ぶ中で、義経を恋い慕う歌を唄いながら舞ったというエピソードはよく知られているところです。
  吉野山峰の白雪ふみわけて  入りにし人の跡ぞ恋しき
  しづやしづ賎のおだまきくり返し  昔を今になすよしもがな
 このとき静は懐妊6が月の身で、その後義経の男児を産みますが、その日の内に命を断たれます。
 讃岐には、屋島合戦があったことから義経についての多くの物語が残されていますが、静御前とその母の悲しい後日物語も残されています。

 静御前の母は磯禅師(いそのぜんじ)といい、その生まれは現在の東かがわ市大内町丹生(にぶ)小磯で、この地の豪農、長町庄左衛門の娘イソだといわれています。当時、この辺りは貴族の荘園であったことが縁で、12歳のときに京都に上がって舞の道に入り、藤原道憲(ふじわらのみちのり)に従って舞楽の一種を極め、禅師の称号を授けられました。
 その舞いは、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持ち、立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん:当時の下級役人の普段着)に長袴で、太刀を腰に差した男装で舞うもので、白拍子(しらびょうし)の始まりといわれています。
 この磯禅師の娘が静で、母に似て美しく、幼少より舞を修めました。13歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許され、後白河法皇から神泉苑での雨乞いの舞を日本一と賞賛されました。
 義経は、一の谷の合戦に勝利して京都へ凱旋した頃、後白河法皇から静を与えられます。このとき彼女は16歳でした。それからほぼ1年後、義経は少数の軍勢にもかかわらず、電撃作戦により屋島の戦いで平氏を打ち破ります。義経が未知の地で勝利を得ることができたのは、屋島へ向かう途中の丹生が静御前の母、磯禅師の出身地であったことから、この地が義経の情報蒐集基地になっていたのではないかと言う人もいます。

 静は、文治2年(1186)9月中旬、鎌倉から京都へ帰ることを許され、傷心のうちに母と共に法勝寺の一室に一時身を寄せますが、その後、翌年の春から夏にかけての頃、母と共に母の故郷讃岐の国へと向かいます。
 讃岐へ帰ってからの静は母の生家、長町家の屋敷でしばらく静養していたようですが、すでに母の両親は他界しており、母と共に寺社遍歴の旅に出ます。お遍路の旅に出た親子は、志度寺八栗寺屋島寺六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔ったといいます。
 そして、文治4年(1189)3月20日、長尾寺(四国霊場第八十七番札所)にお参りしたとき、9代住職の宥意和尚から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、髪を下ろして尼となります。母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗ります。この後、義経からもらった形見の鼓を煩悩の種と思い切って川へ捨てたといいます。
 それからの静は母の縁者がいたといわれる現在の三木町井戸中代(なかだい)に行き、鍛冶池(かじいけ)という池の畔にささやかな草庵を結びます。その後、静と母は、京都から追ってきた静の侍女であった琴路(ことじ)と共にひたすら念仏三昧の月日を送ります。
 建久元年(1190)11月、母の磯禅尼は長尾寺からの帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなり、1年余りの後、静も母の後を追い24歳でこの世を去ります。静が亡くなってから7日目の夜、琴路もまた後を追うように鍛冶池に入水して相果てたといいます。


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(110)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”

 13世紀の初め、アジア・ヨーロッパ大陸にまたがる大帝国をつくりあげたモンゴル民族は、チンギスハンの孫のフビライのとき、国号を元と改め、朝鮮半島の高麗を征服した後、日本に使者を派遣し朝貢を求めてきました。しかし、その時の鎌倉幕府執権・北条時宗はこの要求をすべて拒絶します。文永11年(1274)10月、元と高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後博多湾の沿岸に上陸し、日本軍と激戦となりました。ところがその戦いの最中、暴風によって元軍は大打撃をうけ、博多湾から引き揚げていきました。これが文永の役(ぶんえいのえき)です。
 その後も、フビライは執拗に日本に朝貢を求めてきましたが、時宗は頑強にこの要求を拒絶します。弘安4年(1281)5月、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の2方面から、ふたたび北九州へ攻め寄せてきました。しかし、日本軍はゲリラ的戦法で積極的な反撃を行いました。折りしも、元軍らが再度攻撃の機をうかがっていた閏7月1日、大暴風雨がこの地方一帯を襲い、元軍船は壊滅します。これが弘安の役(こうあんのえき)です。この二度にわたる日本侵略が元寇(げんこう)です。

 一方、元寇が来る少し前の頃から、東国では、日蓮(にちれん)による新しい仏教の動きが起こっていました。日蓮は、貞応元年(1222)、安房国(千葉県)の漁師の子に生まれ、16歳で出家し、鎌倉・比叡山(ひえいざん)などで学んだ後、法華経こそ釈迦(シャカ)の真の精神を伝える教えであると確信し、建長5年(1253)、故郷に帰って法華宗を開きました。次いで、鎌倉に出て辻説法を行い、天変地異の続くのを見て「立正安国論」を著し、国難を主張して執権北条時頼に直訴します。これが幕府政治を批判するものと受け取られ、伊豆(静岡県)や佐渡(新潟県)に流されます。
 後に許され、甲斐国の身延山(みのぶさん)に籠って弟子の育成にあたりましたが、病を得て療養に赴く途中、弘安5年(1282)に亡くなりました。
 日蓮は、法華経の教えに基づかない他の宗派の教えを批判したので、他宗派から迫害を受けましたが、その教えは東国の武士や農民を中心に広がっていきました。

 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、中国大陸や朝鮮半島からの攻撃に備えて、西国の守りを固めるために、多くの東国御家人を西国に転封させるという政策を講じます。甲斐国巨摩(こま)郡秋山を本領としていた秋山氏も西国へ移住した東国御家人の一族です。
 秋山氏は甲斐源氏の流れで、甲斐源氏は河内源氏三代目・源義家(八幡太郎義家)の弟の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清(武田冠者義清)のときに武田姓を名乗り、甲斐に土着した武士団です。戦国時代に活躍した武田信玄はその子孫です。
 秋山氏は、甲斐国に在住していたとき、一族のほとんどが日蓮あるいはその弟子の日興(にっこう)に帰依していました。
 日興(1246~1333)は、甲斐国の人で、日蓮が「立正安国論」を著すときにそれを助けた弟子です。日蓮六老僧の一人です。正応3年(1290)、富士山南麓に大石寺(だいせきじ)を開き、日蓮正宗など富士門流では、日蓮唯一の正統な後継者と見なしています。ちなみに大石寺は富士五山のひとつです。

 弘安年中(1278~88)、秋山光季は、幕府の命によって、西讃10か所の郷邑を領することとなり、孫の孫次郎泰忠とともに、一族を引き連れて讃岐国へ移住し、三野郡高瀬郷に居を構えます。そして、泰忠は自ら帰依していた日蓮の教えを広めるため、日興にしかるべき導師の派遣を懇願します。
 こうして、正応2年(1289)、日興の直弟子である寂日房日華(にっけ)(1252~1334)が讃岐へ派遣され、泰忠は、日華を迎えて那珂郡柞原郷田村(今の丸亀市田村町)に菩提所を建立しました。現在の田村番神がその旧跡だという伝承があります。
 ところが日華は布教に努めている途中で病にかかったため甲斐国に帰り、その後は老齢のため大石寺に留まりました。そこで、泰忠は日華の代わりの導師の派遣を日興に願い、その弟子の百貫房日仙(にっせん)(1262~1357)が讃岐に来ることとなりました。日仙は日華とともに、本六(ほんろく)といわれる日興の第一の本弟子6人のうちの一人です。
 しかし、折り悪くも田村の拠点が争乱に巻き込まれて灰となってしまったので、泰忠は三豊郡高瀬郷内の地を寄進し、正中2年(1325)に日仙を迎えて今の高永山本門寺が建立されました。

 鎌倉後期においては、讃岐の守護は執権北条氏の一門が代々務め、秋山氏も来讃当初はその配下に組み込まれていました。しかし、高瀬郷に本門寺が開かれて間もなく鎌倉幕府は滅亡し、建武の中興を経て激動の時代を迎えます。
 建武2年(1335)年、讃岐では足利尊氏側の細川氏が、当地の国人らを率いて宮方に対して挙兵しています。秋山氏もその傘下に入り、従来通り所領を安堵されます。讃岐は細川京兆家の本国地とされ、西讃岐は守護代の香川氏の支配するところとなり、秋山氏はその配下に入ります。
 その後、細川氏の衰退とともに、地元勢力である香川氏の勢力が強くなり、秋山氏は香川氏の家臣団に組み込まれて、戦国時代を過ごしていきます。

 一方、本門寺は、2世日仙の後、3世日壽、4世日山が大石寺から派遣されてきますが、5世日門以後は秋山家出身者が本門寺住職となります。文安3年(1446)までの100年間に本門寺では6箇寺ができ、本門はこれら六坊に対して、大坊と呼ばれました。これにより高瀬郷一帯の人々はそのほとんどが法華経に帰依するところとなります。

 天正6年(1578)、長宗我部元親が土佐から讃岐支配を目指して進出してくると、香川氏は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、その勢力下に入ります。これにより秋山氏も長宗我部に従うことになります。
 ところが天正13年(1585)、四国に侵攻してきた豊臣秀吉の勢力により長宗我部は土佐に追いやられ、その後、秀吉の命を受けた仙石秀久が讃岐の領主として入ってきました。これにより、香川氏の勢力は讃岐から一掃され、秋山氏も鎌倉時代以来約300年領有していた高瀬郷などすべての所領を没収されてしまいます。
 その後、江戸時代初期の生駒藩時代、四代藩主・高俊のときに、秋山氏は生駒家に仕官します。しかし、寛永17年(1640)の生駒騒動により、高俊が出羽矢島1万石へ転封されるにともない在地に帰農し、武士としての命脈を終えます。

 京都における法華宗のはじめての布教活動は、永仁2年(1294)、日蓮の弟子の日像(にちぞう)が教えを広めるために京都へ入り、皇居の東門前で東山に昇る日輪に向かって題目を唱え第一声をあげたときといわれています。当時の京都では古くから各宗派の勢力が強く、新興宗派であった日蓮宗の布教には様々な迫害がありましたが、元享元年(1321)、京都における日蓮宗最初の寺院として妙顕寺(みょうけんじ)が建立されます。その後、上方では町人を中心に法華宗が広がっていきます。
 讃岐は弘法大師空海をはじめ五大師を輩出した地で、古くから仏教の盛んなところです。このような讃岐に、東国生まれの新興仏教であった法華宗が、当時日本の中心であった京都よりも早く伝わったというのは非常に興味深い出来事です。

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(76)“空海の叔父が創建したわが国最古の三間社流れ造り神社”

 7世紀半ばの大化の改新の頃から14世紀始めの建武の新政の頃まで、讃岐国の国司庁は現在の坂出市府中町の綾川がほぼ90°で蛇行する地域の西側にありました。ここから北に行くと、白峯山の西山麓の谷に神谷川という清流が流れています。そのうっそうとした木立の中に神谷神社(かみたに)という古い神社があります。
 太古、神々がこの谷に集い遊んだところからこの地を神谷というそうです。この附近からは弥生時代の石鍬・石斧・土器などが出土し、また本殿裏には影向石(ようこうせき)と呼ばれる巨石があり、神社創建以前から盤座(いわくら)信仰があったことを物語っています。
 この神社は、平安時代初期の弘仁3年(812)、阿刀大足(あとのおおたり)が社殿を創建し、併せて春日四神を相殿に勧請し祀ったといわれています。祭神は、火結命(ほむすびのみこと)、奥津彦命(おくつひこのみこと)、奥津姫命(おくつひめのみこと)です。阿刀大足は空海の母方の叔父で、桓武天皇の皇子伊予親王の儒学の侍講(講師)を務めるほどの大学者でした。少年時代の空海の優秀さをみて都へ連れて行き、大学に入学させるために儒学を教えた人物です。

 神谷神社の現在の社殿は鎌倉時代初期の建保7年(1219)に再建されたもので、現存する三間社流れ造りの神社建築としては日本最古のものです。昭和30年には国宝に指定されています。この社殿が再建された建保7年(1219)の2月13日(正月27日酉の刻)には、源実朝が鶴岡八幡宮の参拝を終えて降りて来たところを公暁(くぎょう)に暗殺されています。
 本殿は、高さ1.5メートルあまりの乱積(らんづみ)の基壇の上に建っており、正面6メートル余り・奥行4.7メートルの大きさです。その建築様式は、社殿正面の柱間が3つある「三間社(さんげんしゃ)」となっており、また前面の屋根が後方の屋根に比して長く流れて向拝となっている「流れ造り」です。屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」となっています。反りが豊かに流れる屋根、簡素な舟肘木や和様三ツ斗正面の板扉、角材の階段など鎌倉建築の様式をよく表し、乱石積の基壇とよく調和して荘厳かつ優美な姿を今に伝えています。

 神谷神社は、三ヶ庄(松山・林田)の総氏神として、五社大明神・青龍社とも呼ばれ、古来より郷人から崇められてきましたが、歴史の舞台にも顔を出しています。
 南北朝時代の貞治元年(1362)、南朝方の細川清氏は、現在の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋に城を構えて北朝方の細川頼之と対峙しました。その場所は神谷神社から少し北のところでした。このとき清氏は神号扁額を神谷神社に奉納しています。清氏と頼之はその林田の地で戦い(白峯合戦)、清氏は討ち死をしています。(なお、この物語について、36話「乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦」を参考にしてください。)
 室町時代中期の明応5年(1496)には、讃岐守護細川氏の家臣である香西元資が勧進して、安富氏ら讃岐在住の武士らが参加した神谷神社法楽連歌会が催され、神前で興行された連歌が奉納されています。

 白峯合戦のあった地から少し北のところに讃岐国の総社神社があります。総社は国司が毎年奉幣するため国内にある神社の神々を一堂に集めて祀った神社です。この神社の社殿は南北朝時代の嘉慶年間(1387~89)に兵火で焼失し、細川頼之により再建されましたが、戦国時代の天正年間(1573~92)に再び兵火で焼失し、江戸時代初期の慶長2年(1597)に新社殿が建立されたといわれています。この総社神社の歴史と比べても、神谷神社の社殿が約800年間存続していることは驚くべきことです。

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(45)“讃岐に逗留した法然上人”

 京都の東山鹿ヶ谷に知恩院(ちおんいん)という寺があります。現在の伽藍は江戸時代以降に建立されたものですが、ここは法然(ほうねん)上人が後半生を過ごして没したゆかりの地です。法然は浄土宗の開祖で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍しました。浄土真宗の開祖である親鸞法然の弟子です。法然は一時讃岐に逗留して人々に教えを説いて回っており、讃岐には法然にまつわる伝説や旧跡が数多く残っています。

 法然は、平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に押領使(おうりょうし)の子として生まれました。諱(いみな)を源空(げんくう)といいます。9歳のときに夜討ちで父を失いますが父の遺言によってあだ討ちを断念し、13歳で比叡山に上り15歳で僧・源光のもとで得度(出家)します。18歳で比叡山でも奥深い山中にある黒谷の叡空(えいくう)に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って「法然坊源空」と改名します。そして承安5年(1175年)、43歳の時に「専修念仏」(せんじゅうねんぶつ)の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下ります。この年が浄土宗の立教開宗の年とされています。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ極楽往生できるとする思想です。

 平安時代末期は末法思想が広まり、戦乱や災害に出会った人々は不安にかられ、欲望や終着にとらわれた眼前の世の中を厭い捨てて西方の極楽浄土に生まれるように願い求める厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)を説く浄土信仰に魅かれていました。法然の教えは、このような時勢の求めに応じて、庶民はもとより武士や公家にも急速に浸透していきました。しかし、一方で、破戒と他宗誹謗を理由に南都北嶺の旧仏教勢力から激しく糾弾され攻撃の的とされます。このような中で、建永元年(1206年)3月、最大の擁護者である九条良経が急死し、さらに後鳥羽上皇の女房が上皇の留守中に法然の弟子を慕って出家してしまい上皇の逆鱗に触れるという事件が起きます。翌年2月、法然は弟子達の不行状という理由で土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。法然75歳の時です。しかし法然は、「かえって遠くの人々に念仏を説くことができる」と逆に喜んだといいます。

 建永2年(1207年)3月京都を離れた法然は、淀川を下り、摂津の経ヵ島(兵庫)から播磨の高砂・室津を経て塩飽諸島の本島に着きます。本島では、地頭の高階(たかしな)入道西忍(さいにん)の館に迎えられ、しばらく滞在したといいます。その後、宇多津あるいは丸亀塩屋に上陸し、善通寺にもうでてから那珂郡小松荘(現在のまんのう町高篠)へ向かったといいます。本島や小松荘に逗留したのは、これらの地が法然の庇護者である九条家の所領だったことによると云われています。法然が讃岐に逗留したのは、源平屋島合戦から22年後のことです。

 小松荘で、法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、小松には、法然由緒の寺が生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、総称して三福寺と呼んだといいます。建永2年(1207年)12月、法然は赦免の宣旨を受けます。このため土佐へは行かずに京へ戻ることになりました。しかし、入京が許されたのは、4年後の建暦元年(1211年)で、翌年の1月、現在の知恩院の地で80歳で没しました。

 法然の讃岐在国はわずか10ヵ月でしたが、その足跡は大きく、中讃地方には、伝承も含め法然が説法したとされる寺や仮宿など数多くの足跡が残っており、また讃岐の諸方に伝わる雨乞踊りや念仏踊りは法然の振り付けであるといわれています。

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