スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(140)“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡”

 讃岐国分寺は、四国霊場・四国八十番札所であり、県内はもとより県外からも多くのお遍路さんをはじめ善男善女のお参りが絶えません。この寺は奈良時代の天平年間に創建されたもので、境内には、金堂跡・塔跡の礎石が残り、今も天平(てんぴょう)の遥か昔を偲ぶことができます。7世紀終わり頃から8世紀の中頃までにかけて、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化を天平文化といいます。天平文化は、遣唐使などによってもたらされた中国風(漢風)・仏教風文化の影響を強く受けたもので、シルクロードをによって西アジアから唐へもたらされたものを見ることもできます。奈良の正倉院に天平文化の粋が残されています。
 讃岐国分寺跡は、昭和3年、現在の境内を含む東西330m・南北227mの範囲が、讃岐国分尼寺とともに国の史跡に指定され、昭和27年には保存状態のよさ等から特別史跡に指定されました。ちなみに国分寺跡で特別史跡に指定されているのは、讃岐以外では、静岡県磐田市の遠江国分寺跡と茨城県石岡市の常陸国分寺跡のみです。特別史跡とは、史跡のうち特に重要なものとみなされ、日本文化の象徴と評価されるものをいい、平成20年2月1日現在、全国で指定されているのは60か所です。

 天平13年(741)、聖武天皇は、疫病や天災・内乱などの社会不安を緩和するため、各国ごとに官営の僧寺と尼寺を建てることを命じます。正式名称を、僧寺は「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、尼寺は「法華滅罪之寺」(ほっけめつざいのてら)と定めます。一般には国名を付けて、僧寺は国分寺、尼寺は国分尼寺と呼ばれます。また、当時の都である平城京には、各国に建てられた国分寺、国分尼寺の頂点として、それぞれ東大寺、法華寺を建立します。国分寺の造営工事は、各国の国司の責任で推進され、遅くとも天平宝字年間(760年前後)には、ほぼ全国的に完成したようです。
 讃岐国の国分寺と国分尼寺は、阿野郡河内郷(現在の坂出市府中町)の国府庁からほどよい距離にある阿野郡新居郷(現在の高松市国分寺寺)に置かれました。讃岐国分寺は、天平勝宝8年(756)には完成していたと続日本紀に記載されています。空海が生まれたのは、その18年後の宝亀5年(774)です。寺伝によれば、聖武天皇の命を受けた行基が讃岐に来て国分寺を建立したといわれています。

 創建当時の讃岐国分寺の境内の大きさは、東西220メートル・南北240メートルあり、寺域の周囲には築地塀と呼ばれる大きな土塀が巡っていました。その基壇の幅は4.4m、築地本体の幅は1.8m程度と考えられています。築地塀の外側には、幅3mの溝も掘られていて、寺の内と外を厳格に分けていました。現在、かつての境内には国分寺のほか、宝林寺と多数の民家が建てられています。
 寺院の建物の配置を伽藍といいますが、古代寺院では、金堂、塔、中門、廻廊、講堂、僧房、鐘楼、経蔵等の主な御堂の位置が定まっており、讃岐国分寺でもこれらの建物が存在していました。寺域の北側・南側の線上の西から4分1のところを結ぶ南北線が、創建当初の伽藍の軸となり、南から北に南大門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並んでいました。
 南辺築地塀の中心点と西端の真ん中にある南大門が国分寺の入口です。南大門は現在の県道高松・丸亀線上にあったと考えられています。ここをくぐると、中門という門があり、さらにそれをくぐると、正面に金堂、右手に七重塔が建っていました。中門があった位置は、現在の仁王門の場所だと考えられています。
 中門と金堂は正方形に近い形によって廻廊で結ばれていました。廻廊は廊下状の建物で、その基壇の幅は6.5m、建物の幅は3.6m程度と考えられています。廻廊に囲まれた区域は讃岐国分寺の中枢域にあたり、この区域内の東には七重塔が建っていました。
 七重塔は、その基壇の規模17.8m四方、建物の規模10.1m四方、高さ63mと推定されています。現在、七重塔が建っていたところには、鎌倉時代に建立された七重石塔があり、その塔のところに幾つかの礎石がみられます。これが創建時の七重塔の礎石です。創建時17個あったものが、現在15個が残されています。現在の石塔が建つ礎石は、丁度中央に所在するひときわ大きな礎石で、心礎といわれる塔の中心となる心柱が立てられていました。石塔の基部には、心柱を受ける柱穴が彫り込まれているのを見ることができます。

 金堂は、讃岐国分寺の中心的な建物で、現在でいえば本堂にあたり、ここに本尊が祀られていました。その基壇の規模は東西34.9m・南北21.3m、建物の規模は桁間(けたま・東西間口)27.8m・梁行(はりゆき・南北奥行)14.2mで、奈良の唐招堤寺に似た規模・様式の本瓦葺き寄棟造り(よせむねづくり)と推定されています。鎌倉時代に建立された現在の本堂前に大きな石が並んでいますが、これが創建時の金堂の礎石です。創建時36個あったものが、現在32個が残されています。
  金堂の北裏には、仏教の講義を行った講堂が建っていました。金堂よりやや小さめで、その規模は、桁間22.8m・梁行12.7mと推定されています。現在の本堂は、この講堂の礎石を再利用して建てられています。
 さらに講堂の北裏には僧房が建っていました。その基壇の規模は東西87.9m・南北16.0m、建物の規模は桁間83.9m・梁行12.0mと全国の国分寺でも最大級の大きさでした。また、講堂の東西両側には僧房を補完する掘立柱建物が建てられ、その建物の規模は桁間20.6m・梁行11.8mと考えられています。
 講堂の東には、鐘を吊るすための鐘楼が建てられていました。その基壇の規模は東西7.1m・南北9.0m、建物の規模は桁間6.2m・梁行4.1mと考えられています。なお、讃岐国分寺跡では、御経を保管する経蔵は発見されていません。

 讃岐国分寺と同時に創建された讃岐尼寺は、国分寺の北東・約2kmのところに造られます。寺域は東西約180~210m・南北約180mで、桁間12.7m・梁行7.3mの建物だったと考えられています。尼寺跡地は、現在、法華寺と呼ばれる寺の境内になっており、金堂跡には礎石が19個残っています。

 当初、国分寺・尼寺は、国の管理・庇護を受けて運営されていましたが、その後荒れたので弘法大師・空海が訪れて再興したといわれています。讃岐国司の菅原道真は、国分寺尼寺を訪れ、漢詩「法華寺白牡丹(はくぼたん)」と題して漢詩を詠んでいます。菅原道真が国司として讃岐に在任していたのは、仁和2年~寛平2年(886~890年)のことですから、すでに国分寺創建から100年を過ぎていた頃の話です。
 その後、国分寺・尼寺は、律令制の解体とともに荒廃したと考えられています。国分寺の現在の本堂は、鎌倉中期に講堂の跡に建てられたものです。戦国時代の天正年間(1573~96年)には土佐の長宗我部元親軍による兵火に罹り、国分寺の堂宇の多くが失われたといいます。また国分尼寺も天正年間の兵火により衰退しました。
 江戸時代に入ると、寛文年間(1661~73年)に高松松平藩初代藩主・松平頼重によって国分寺の伽藍が造営され、文化13年(1816)に現在の本堂が松平8代藩主・頼儀によって修理されます。国分尼寺は元禄8年(1695)には、荒廃した小堂だけが残されていましたが、弘化3年(1846)に法華寺が再興されます。

 現在の国分寺にある銅鐘は、讃岐国分寺創建当時に近い奈良時代末期から平安時代初頭に鋳られたものと推定され、長曽我部氏の兵火にも残った四国最古の鐘ともいわれています。その大きさは、高さ115.4cm・口径89.7cm、重量が1200㎏です。昭和19年、国の重要文化財に指定されています。この鐘には、次のような伝承が残されています。
 昔、香川郡の安原郷(現在の高松市塩江町)にある百々渕には大蛇が棲み、村人を困らせていました。弓矢の名人・戸次八郎は、国分寺の千手観音に祈り、その矢を持って大蛇の退治に出発しました。八郎は、鐘をかぶって現れた大蛇に矢を射掛け、見事討ち取り、その鐘を国分寺に奉納したということです。
 慶長14年(1609)、当時の讃岐の藩主であった生駒一正が、国分寺の鐘がよく鳴るというので、朝夕の時を告げる鐘にしようと、鐘を高松の城内に持ち帰るように命じました。命令を受けた人たちは、鐘を運ぼうとしましたが、実際以上に重く運搬作業は難航しました。それでも多くの人々を動員して運び、御城下の時を告げる鐘にしました。ところが、持ち帰ったところ鐘は少しも鳴らず、城内外に怪異がおこり、また悪疫が流行し、一正公も病床に伏すようになり、毎夜鐘が夢枕に立ち、もとの国分へ「いぬいぬ」と聴こえたそうです。「いぬ」とは讃岐弁で帰るという意味です。これは鐘の祟りに相違ないと悟った一正は、鐘を国分寺に返すことを決めます。国分寺に戻るとき、鐘は大変軽く運搬作業はスムーズに行われたといいます。

続きを読む

スポンサーサイト

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(69)“少年空海が身を投げた山”

  弘法大師空海が誕生した総本山善通寺から西に、標高約150メートルから約480メートルの山が連なっています。東の方から順番に、香色山(こうしきざん)、筆の山、我拝師山(がはいしざん)、中山火上山(ひがみやま)の五つの山で、これらを五岳山といいます。朝霧や夕霞に包まれた五岳山の姿は、讃岐を代表する風景の一つです。古代、この山麓まで入り江の海になっており、五岳連山の山影があたかも屏風を立てたように見えたことから、屏風浦と呼ばれたと伝えられています。

 弘法大師はこの五岳を五智如来になぞらえ、香色山は大日如来、筆の山は阿〔 〕(〔 〕は1字分判読不明)如来、我拝師山は宝生如来、中山は阿弥陀如来、火上山は釈迦如来の現われであると尊びました。このうち、我拝師山には、空海が7歳の頃、多くの人を救いたいと身を投げたという伝承が残っています。

 空海はその幼名を真魚(まお)といいました。ある日、真魚は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。

 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。

続きを読む

(46)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承”

 
 近鉄奈良駅の入口前に、陶製(赤膚焼)の銅像が立っており、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所になっているそうです。この像の人物は行基(ぎょうき)という奈良時代(710年~794年)の僧侶で、奈良東大寺の大仏建立をめぐる聖武天皇との物語はよく知られているところです。

 行基は、中大兄皇子が即位して天智天皇となった668年に、河内国大鳥郡(今の大阪府堺市)に生まれました。父は百済系渡来人氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志(こし)氏才智(さいち)で、母は河内国大鳥郡の蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)と伝えられています。15歳で出家して薬師寺に入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、さらに竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学びます。もともと非常に俊才で、瑜伽唯識を一読して即座にその奥義を理解したと云われています。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪術力を身につけ、37歳の時、山を出て民間布教を始めたといいます。

 奈良時代には官僧以外の人が僧侶として活動することは禁止されていました。しかし、和銅3年(710年)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、逃亡民の多くが朝廷の承認なしに出家し僧侶と称する私度僧(しどそう)になったといい、行基は民衆の尊崇を集め、私度僧たちの指導的存在となっていきました。このため、霊亀3年(717年)には朝廷から「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されています。

 しかし弾圧にもかかわらず行基の集団は拡大を続け、養老6年(722年)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていきました。このような中で、神亀元年(724年)聖武天皇が24歳で即位しました。このとき、行基は56歳です。

 行基を慕い付き従う者の数は千人にも達することがあり、行基がやって来ると聞くと、説教を聴こうと人々が群れ集まってきて、村の中には人が誰もいなくなる程であったと云います。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発していたといい、行基は、布施屋を設けて貧民救済事業を行うとともに、交通難所に橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築くなどの大規模な土木事業を畿内中心に行っていきました。これらの事業は民衆の力を結集して行われたといいます。聖武天皇も、始めは民衆を煽動する不穏な者として、行基を奈良の都から追放していますが、しだいに行基への傾倒を深めていき、弾圧も緩められていきました。

 このような中、疫病の大流行や飢饉が襲い、宮廷内の政局も不安定でした。深く仏教に帰依していた聖武天皇は仏教によって人臣の不安を和らげ国家鎮護を図ろうと考えました。こうして聖武天皇は天平13年(741年)に国分寺建立の詔を、天平15年(743年)10月に東大寺毘廬舎那(びるしゃな)大仏造営の詔を発します。しかし、大仏造営は資金難により難行します。

 この危機に際して聖武天皇は、行基の組織(知識)力・行動力に着目し、東大寺の大仏建立の勧進に行基を起用します。そしてさらに、天平17年(745年)には日本で最初の「大僧正」に任命します。その後も大仏造営事業は地震や爆発事故などでなかなか完成せず、天平21年(749年)2月に大仏の完成を見ずに80歳で入滅します。

 大仏が完成し、盛大な「開眼供養会(かいげんくようえ)」が行われたのは、着手から10年後のことです。動員された人員は延べ200数十万人、資材は銅、錫、金、水銀など合わせて15万貫にものぼったと云われています。鑑真が日本に上陸したのは、東大寺大仏開眼の次の年です。

 讃岐では、飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(旧豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。これが奈良時代になると、31ヵ寺まで増えています。この時代四国では、阿波・伊予が十数か寺、土佐が5ヵ寺で、讃岐の寺院数がいかに多かったかが分かると思います。これは讃岐ではかなり早くから仏教を受け入れられる文化的経済的な豊かさがあったためであろう云われています。

 行基は奈良時代の人ですが、讃岐には行基が開いたと伝えられている寺が多くあり、また行基が開湯と伝えられている温泉があります。


続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(32)“唐招提寺開祖の鑑真が開いた屋島寺”

 
 屋根のような形をした屋島は、標高約300メ-トル、花崗岩を基礎としたメサという溶岩台地で、元は島だったところです。山上は平らで南北2つの嶺に分かれ、南嶺に第84番札所屋島寺(号は南面山千光院(なんめんざんせんこういん))があります。この寺は、奈良時代の末に唐の僧で唐招提寺の開祖で知られる鑑真(がんじん)が、北領に伽蓋を建立したのが始まりといわれます。四国霊場88ヵ寺の中で鑑真が創立したと伝えられているのはこの寺だけです。

 仏教では、出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から授戒の儀式を受ける必要があるとされています。しかし、8世紀前半当時の日本には正式の戒壇は無く、戒律を授ける資格のある僧も不足していました。そこで、朝廷は、日本に正式の戒壇を設立するため、天平5年(733)、遣唐使とともに渡唐する留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)に対して、仏教者に戒律を授けるしかるべき導師を招請するよう命じます。
 渡唐した彼らは、すでに唐で一流の高僧とされていた鑑真に戒律を日本へ伝えるよう懇請します。それを受けた鑑真は、自ら渡日することを決意します。しかし、その後、日本への渡海を10年間で5回にわたり試みますがことごとく失敗します。5回目には嵐に遭い、はるか南シナ海の海南島まで流され、ついに潮風に侵されて失明します。6回目の航海にしてようやく成功し、天平勝宝5年(753)10月、薩摩(琉球という説もあります)に上陸した時、鑑真はすでに67歳になっていました。東大寺大仏開眼の次の年です。

 鑑真が難波津(大阪)に向かって瀬戸内海を航行している途中、屋島の山上に瑞光が見えたので船を泊めて北嶺に登り、そこに普賢堂(ふげんどう)を建立して仏像や経典を納めます。これが屋島寺の始まりといわれています。屋島北嶺には現在も屋島寺の前身である「千間堂」という地名が残っており、基壇をもつ礎石建物跡が確認されています。
 奈良に向かった鑑真は、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、また天平宝字3年(759)、唐招提寺を創建します。また仏舎利、律・天台の経典、王羲子の書、建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本文化に大きな影響を与えて、天平宝字7年(763)に死去しました。なお、鑑真と栄叡・普照らの物語は、井上靖が「天平の甍(いらか)」という小説で描いています。

 弘仁6年(815)、屋島を訪れた弘法大師は、瑳峨天皇の勅願により北嶺にあった伽藍を南嶺の現在の地に移し、十一面千手観音坐像を刻んで本尊とし第84番の霊場として定めます。屋島寺は、鎌倉時代以降衰退しましたが、江戸時代に歴代藩主の援助などによって再興されて現在に至っています。

 讃岐には、鑑真が開いたと伝えられている寺が屋島寺のほかもう一つあります。
 高松市国分寺町の鷲ノ山(わしのやま)(標高322m)の東麓に鷲峰寺(じゅうぶじ)という天台宗の寺があります。この寺の開基は、奈良時代の天平勝宝6年(754)、鑑真和尚が鷲ノ山の山容がインドの霊鷲山に似ていることから、釈迦如来像(元本尊)を刻み、この地に堂宇を建立したことによるといわれています。
 平安時代の初期、智証大師円珍が千手観音像を安置して寺観を整え、貞観2年(860)、智証大師十七檀林の一つとして四海安鎮の勅願寺とされました。その後、嘉元4年(1306)、大和西大寺の長老慈心和尚信空が60余の僧侶を率いて大供養を修したといわれています。
 戦国時代の天正年間(1573-1591)、長曽我部元親の兵火により、伽藍が焼失しましたが、江戸時代初期の寛文元年(1661)、初代高松藩主・松平頼重がその名刹を惜しみ、園城寺(三井寺)から観慶(かんけい)阿闍梨(鷲峰寺中興1世)を招いて住持とし、延宝4年(1673)、諸堂が再建されました。


 




 


続きを読む

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
10 ≪│2017/11│≫ 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。