(145)“神様になった一揆のリーダー”

 世のため人のために一身を捨てて尽くした人のことを義民(ぎみん)といいますが、江戸時代、百姓のために命をかけて年貢の引下げなどを直訴した義民の物語が、今でも全国各地に残されています。
 中でも、芝居や歌舞伎の演目として今も親しまれている「佐倉義民伝」はよく知られているところです。主人公の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期、4代将軍徳川家綱のときに活躍した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の名主です。惣五郎は、天災・飢饉の続く中、佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して藩の役人や江戸の役所に困窮と年貢の軽減を訴え、ついには将軍が上野寛永寺へ参詣する際直訴に及びます。その結果年貢は軽減されましたが、惣五郎夫妻は磔刑、子供たちも死罪に処されました。この物語は、幕末の嘉永年間(1850年代)に、「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)として歌舞伎で演じられて大ヒットし、以後、講談・浪花節などでも積極的に取りあげられています。

 讃岐にも、江戸時代の義民伝が今でも各地に残されています。
 江戸時代前期、3代将軍徳川家光のとき、高松藩には小村田之助(おもれたのすけ)という義民がいたという話が残っています。
 田之助は寛永元年(1624)、山田郡小村(おもれ)(現在の高松市小村町)の庄屋の家に生まれ、寛永19年、19才のときに父親から庄屋職を継ぎます。この年は、松平頼重が高松藩初代藩主として入府した年ですが、藩内の農民はうち続く飢饉で困窮し、餓死者が出るありさまでした。これを見かねた田之助は、年貢の年2回分納を、もし完納できないときは私財をもって代納するという確約で藩に嘆願しました。そして、田之助の意見は採用され、分納が認められることになります。
 しかし、悪例を残すという藩内一部の強い意見から、山田郡夷(えびす)村(現在の高松市木太町夷)の刑場で、田之助は打首とされました。このとき、藩主松平頼重は罪一等を減じようと馬で急使を走らせ、間に合わないとみた急使が馬上から白旗を振って処刑の中止を知らせようとしましたが、刑場役人は「早くしろ」の合図と思い、処刑してしまったという話が伝えられています。寛永21年(1644)、田之助21歳のときです。その後、地元民たちは、白旗を振ったと伝えられる所に小社を建て田之助を祀りました。

 また、小豆島には、6代将軍徳川家宣のときに、平井兵左衛門(ひょうざえもん)という義民がいた話が残っています。延宝5年(1677)から同7年にかけて実施された検地により、小豆島では年貢が倍増となり、百姓は窮乏しました。そこで池田浜の庄屋をしていた平井兵左衛門は、正徳元年(1711)、江戸へ出て幕府勘定奉行に訴え、年貢を下げてくれるよう願い出ました。
 しかし、当時の小豆島は天領(幕府の領地)でしたが、高松藩預かりとなっていたことから、その行為は、高松藩を無視した越訴(おっそ)の罪にあたるとされ、兵左衛門は捕らえられて、江戸から高松、そして小豆島に連れ戻され、正徳2年3月11日、村内引き回しのうえ江尻浜で打首・獄門の刑に処せられました。兵左衛門36歳のときです。
 その後、地元民たちは、小豆島町池田の亀山八幡宮のお旅所の馬場に祠を建て、兵左衛門の霊を「平称霊神」として祀りました。また、兵左衛門の物語は芝居にされ、「金ヶ崎湊荒浪」(かねがさきみなとのあらなみ)という小豆島農村歌舞伎の演目の一つとして今も演じられています。

 西讃地方では、江戸時代中期、9代将軍徳川家重のとき、讃岐最大の百姓一揆が丸亀・多度津両藩で勃発しています。この一揆のリーダーだった7人の義民は神として神社に祀られ、その物語は今でも地元で語り伝えられています。
 寛延年間(1748〜1750)の初め、数年来の風水害で、丸亀・多度津藩領の那珂(なか)・多度・三野・豊田四郡の百姓たちの生活は困窮を極めていました。それに加え、蔵役人や庄屋たちの横暴、不法、祖税の増加などにより、「如何に穏順なる四郡の民も忍ぶに忍びがたく」という状態になっていました。そこで、百姓たちは、徳政を求める親書を上申しますが、庄屋たちにより途中で握りつぶされ、城内まで届きませんでした。追いつめられた農民たちは、「一揆しかあるめえ」とついに決起へとはしります。
 一揆を計画指導したのは、丸亀藩5人と多度津藩2人の7人の百姓でした。彼らは、三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)にある宇賀神社の山門楼上に集まり密議を行ったといわれています。丸亀藩の5人は、笠岡村の大西権兵衛・弥一郎(やいちろう)・嘉兵衛の3人と、三野郡大野村(現三豊市山本町)の兵治郎、それに那珂郡帆ノ山村(現まんのう町仲南)の小山金右衛門です。多度津藩の2人は、多度郡碑殿(ひどの)村(現善通寺市)の甚右衛門と、多度郡三井村(現多度津町)の金右衛門です。彼ら7人の中でも、大西権兵衛がリーダー格でした。
 寛延3年(1750)年1月14日、多度郡百姓の仲介で、三野郡百姓から豊田郡百姓あてに、20日に金倉川河原へ結集するよう呼びかけた廻状が送られます。これに応じて19日夜から、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まり始め、20日には財田川の本山河原に4万人が集まり、庄屋の居宅が打ち壊されます。
 民衆の力に驚いた丸亀藩は、21日、三野・豊田郡の百姓に対して、願いの筋を申し出よと伝えます。22日、筵旗(むしろばた)を掲げた三野・豊田勢は鳥坂峠を越えて、那珂・多度郡勢と善通寺で合流します。このときの一揆の総勢は6万人余に達したといわれています。
 23日、四郡一揆勢の代表と藩側との会合が善通寺客殿でもたれ、一揆勢から13か条の歎願が示されます。その要旨は、年貢の未納米1000石余りの年賦弁済、夫食米の給付、年貢米斗升掻(とますがき)不正の停止、相場並の銀納値数、出費の多い役人の出張回数軽減などでした。
 この要求に対して藩当局は、直ちに「内10か条の重要項目の要求を認め、3か条については追って沙汰すべし」と回答し、ほぼ百姓たちの嘆願を認めます。これにより、一揆勢は結集を解いて帰村していき、この騒動はこれで落着するように思われました。
 ところが、善通寺での会合があった23日の直前の20日に、全国各地で頻発する百姓一揆に危機感を強めていた幕府から、百姓の強訴・徒党の禁令が出されていました。23日の時点では、この幕府の禁令が丸亀・多度津両藩に届いていなかったのです。禁令を知った両藩は、態度を一変させ、23日付の聞き届けを反故にしてしまい、そのうえ、一揆関係者を探索して捕らえていきました。
 この年の7月28日、大西権兵衛ほか7名は、一揆の主謀者として、金倉川河畔において磔あるいは打首・獄門の刑に処せられました。処罰は権兵衛の3人の子にも及び、9歳の未子まで全員が打首にされたといいます。権兵衛は、処刑に際して、
        「この世をば沫(あわ)と見て来し我が心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」
という辞世の句を残しています。
 その後、権兵衛はじめとする7人の義民は、七人童子、七人同士あるいは七義士(しちぎし)と呼ばれて、地元の人たちによって密かに弔われてきました。明治に入ると、その遺徳を公に顕彰しようという動きが活発になり、7人の義民が処刑されてから約150年後の明治36年(1903)、権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られました。

 江戸時代後期、11代将軍徳川家斉のときの文政11年(1828)12月、高松藩領香川郡の百姓が一揆を起こし、弦打村(現高松市鶴市町)の甚兵衛が罪を一身に背負って香東川原で磔の刑に処せられたといわれています。この物語は、菊池寛により「義民甚兵衛」として短編戯曲化されています。

 義民ではありませんが、幕末の多度津藩には、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は現在の観音寺市大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したといいます。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇で、
        「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」
という辞世の歌を残して処刑されました。

 明治に入っても、西讃では、大規模な農民騒動が起きています。寛延の百姓一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、三野郡下高野村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女性が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きました。
 この事件は、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言となって、たちまち近隣の村々に広がりました。折りしも、この頃、民衆は、国が兵役を「血税」と称していることを誤解し、徴兵検査により国から血を採られると思い込み、不安感を抱いていました。
 民衆の不安感に、「子ぅ取り婆あ」の流言が火をつけ、数千人規模に膨らんだ群集が、竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、西讃地方の村々へ次々と進撃し、官と名のつくものを攻撃していきました。侵寇(しんこう)された村は約130ヵ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600ヵ所に及びました。6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化します。これを西讃血税一揆あるいは竹槍騒動といいます。
 この騒動の参加者は、総数約4万人を越え、うち3万人は三野・豊田郡の者だったといわれています。処罰された者は約1万6千人に及び、大半が三野・豊田郡の者でした。7人が金倉川原で打首されました。

 讃岐人は、温暖な気候風土にあることから、温厚で従順だとよくいわれています。しかし、西讃地方では、江戸中期と明治初期にかなり大規模で激しい一揆、暴動が起きており、これが三豊地方(三野郡と豊田郡を合わせた地域で、現在の三豊市と観音寺市)の人たちの気風に大きな影響を及ぼしているように思われます。                                                                                                   (完)

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(120)“滝沢馬琴「椿説弓張月」の舞台となった八幡宮”

  江戸時代後期の読本作家滝沢(曲亭)馬琴は、文化4年(1807)から文化8年(1811)にかけて、「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」という物語を書いています。この物語は、保元の乱に敗れて伊豆大島に流罪になった源為朝(みなもとのためとも)が琉球に渡り琉球王国を再建するという、歴史を基にフィクションを加えた、現代風にいう冒険活劇ですが、この一説の中で、讃岐の琴弾八幡宮直島白峯が舞台として書かれています。琴弾八幡宮は現在の観音寺市有明の琴弾山にある神社、白峯は現在の坂出市にある白峯寺のあるところです。
 保元の乱は、保元元年(1156)年、崇徳上皇と後白河天皇の対立を軸に勃発した戦いで、上皇方には源為義、源為朝、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛らがつき、父(源為義)と子(源義朝)、兄(源義朝)と弟(源為朝)、叔父(平忠正)と甥(平清盛)がそれぞれ敵味方に分かれて戦いました。

 「椿説弓張月」の中での讃岐が舞台になっているところは次のような場面です。
 保元の乱が起きたとき、太宰府の館(やかた)を守っていた源為朝の妻・白縫(しらぬい)は召使い8人とともに、九州から讃岐、琴弾の宮に逃れ、神仏に夫の無事を祈っていました。琴弾の宮というのは、現在の観音寺市にある琴弾八幡宮のことです。
 一方、京では、戦いに敗れ傷ついた為朝が家来の武藤太(ぶとうだ)の家に身を潜めていましたが、恩賞に目がくらんが武藤太により密告されてしまいます。この裏切りで為朝は敵方に捕縛され、再び弓を引けないように肘の筋を断たれて伊豆の大島に流されることになりました。
 しかし、主君を敵方に売った武藤太は、痴れ者(しれもの)として非難され、京に居たたまれなくなって船に乗って九州へ向かいます。その途中、讃岐の室本の港(現在の観音寺市室本町)に流れ着き、武運に縁の深い琴弾の宮に参拝します。武藤太は祈願の言葉の中で密告の恩賞が少なかった恨み言を述べます。そのとき、偶然、白縫がそこに居合わせ、拝殿に祈る男の言葉からその男が夫為朝の仇だと知ります。
 白縫は、「これこそ神の導き」と、ある月の夜、武藤太を酒宴に誘い出します。美しい琴の音が聞こえる酒宴の場と、白縫の容色に取り付かれた武藤太は、何も知らず勧められるままに酒を飲み、前後不覚となってしまいます。気がついた武藤太は逃げようとしますが、縛りつけられ、指を一本ずつ落とされたうえ体に竹釘を打ち込まれて殺されます。夫の仇を果たした白縫は護送される為朝を追って伊豆に向かいます。
 しかし、白縫は為朝を救出することができず、讃岐に流されていた新院(崇徳上皇のこと)を奪還しようと企てますが、そうするうちに京では平治の乱が起こります。新院が瀬戸内の直島の磯に現れるという噂を聞いた白縫は、直島に忍び込み、読経をする新院に会いますが、次の日新院は崩御します。
 それから十年が経過したとき、伊豆の大島に居る為朝に対して討伐の軍勢が押し寄せてきました。逃れた為朝は、讃岐国多度郡の逢日の浦に到着し、新院の葬られている白峯の陵(現在の坂出市)に参詣し、腹を切ろうとします。そのとき、新院や父の為義ら保元の乱で死んだ者たちの亡霊が現われ、その後の行く末を伝え、為朝の自殺を留め、肥後国に向かうように指示します。肥後で為朝は、長い間行方不明だった妻の白縫と再会します。
 その後は、琉球での物語りとなります。

 このように、滝沢馬琴は「椿説弓張月」の中で讃岐を物語の一つの大きな舞台としていますが、これは、馬琴が、主人公源為朝の仕えた崇徳上皇を、為朝が思慕し、また為朝を庇護する人物として描いたことから、上皇が葬られた白峯やその伝承のある直島を舞台としたものと思われます。ちなみに白峯御陵の側に建てられた頓証寺殿(とんしょうじ)の大門左右の随神は源為義、為朝親子の武装像です。
 では、馬琴はなぜ琴弾八幡宮を物語の舞台としたのでしょうか。琴弾八幡宮の由緒は次のようなものだとされています。大宝3年(703)のある日、有明浜一帯に黒雲が立ちこめ3日間暗闇が続き、やがて、光を回復した海上に一艘の船が現れて船中から琴の音が聞こえてきた。民人が近づくと、「われは八幡大菩薩なり、宇佐からきたが、仏法弘布の地によいので止まりたい」と答えた。そこで、日証上人が船に証を求めたところ、海水であったところが竹林に、砂浜が蒼松の林に変わり、再び琴の音が響き渡ったので、驚いた日証上人が里人を集めて船を山上に引き上げ、琴を添えて宝殿に安置して琴弾八幡宮と称え奉った。
 宇佐とは、現在の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮のことで、全国にある八幡宮の総本社です。「椿説弓張月」の中で源為朝の妻・白縫は九州から逃れてきたことになっていますが、馬琴琴弾八幡宮の由緒を知っていたので、そこから琴弾八幡宮を物語の舞台にしたのかもしれません。
 なお、琴弾八幡宮にある「木之鳥居」は、屋島合戦勝利のしるしとして源義経の側近が代わって奉納したものといわれています。


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(118)“綿の産地だったチョウサの町”

 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命の発端は、綿布の大量生産にあるといわれています。イギリスは、奴隷をアフリカから西インド、アメリカへ輸出し、そこから原料の綿花をイギリス国内に運び、綿製品に加工してアフリカやアメリカに輸出しました。こうして綿布を大量に生産するための技術の改良がイギリスで進展し、産業革命の発端になったということです。
 日本に棉(植物としてのワタは「棉」と表記されます。)の種が渡来したのは、今から約1200年前の延暦18年(799)、三河に漂着した崑崙(こんろん(インド))人青年によるといわれています。しかし、わが国で綿作が始まったのは、ずっと下って、室町時代の明応3年(1494)の頃ではないかと考えられています。さらに、綿織物が庶民の普段着として用いられるようになったのは江戸時代以降のことで、それまで衣類といえば、上流階級の間では絹が使われ、庶民は麻(あさ)、苧(からむし)、楮(こうぞ)、葛(くず)などの繊維から作られたものを主に使っていたようです。
 江戸時代初期までは、綿作も自家用にとどまっていたようですが、綿は麻などに比べ、柔らかくて温かく、吸湿性が高いうえ、染色が簡単で、衣料として優れていることから江戸時代中期になると需要が増加し、東北・北陸の寒冷地を除いて全国に綿作が広がっていきました。
そして、生産過程が分業化していき、綿繰り屋・綿打ち屋・綛(かせ)屋・染め屋・機屋など専門の生産者が現れ、中には人を雇って生産を行う者も出てきました。一方では生産者と消費者とを結ぶ買い占め商人が発生し、幕末にはかなり大規模に織物生産を行う者も現れました。

 讃岐における綿作の始まりについては、豊臣秀吉の命により文禄の役に出兵した生駒親正が、朝鮮から綿の種子を持ち帰り、それが普及していったという伝承があります。また、観音寺市豊浜町には、鎌倉時代に関谷兵衛国貞という人物が、現在の豊浜関谷地区を開墾して棉の木を植えたという伝承が残っているそうです。
 讃岐は気候温暖で雨が少ないことから綿作に適しており、西讃地域を中心に砂質土壌のところで栽培が行われました。すでに、丸亀藩では、元禄8年(1695)に城下での夜間の綿打ちを禁止するお触れが出されるほど綿の生産が盛んだったようです。綿打ちとは、実綿(みわた)から核を取り除いた繰綿(くりわた)を綿打弓(わたうちゆみ)で打って柔らかくし、不純物を取り除いて生綿(きわた)にする作業のことですが、夜間での騒音公害になるほど綿打ちが盛んに行われていたということです。
 文化4年(1807)頃には、「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座(ござ)無く」と、綿が丸亀藩第一の特産になっていたようで、讃岐三白の一つに数えられるようになりました。丸亀繁盛記によると、幕末の天保年間(1830〜43)頃の様子が、「国々へ積み出す雪綿(ゆきわた)は、大与がかどさきに山をなし、夕陽に照らされれば、ひらの高根を争う景色」と記されており、当時の丸亀城下での綿取引の賑わいぶりをうかがうことができます。「大与」とは、綿の大問屋大坂屋与十郎のことです。また、和田浜(現在の三豊市豊浜町)の港は、近くで栽培された綿の取引のために諸国の船が出入りして活況を呈したといいます。高松藩でも、丸亀藩ほどではありませんでしたが、藩内の西部地域で綿作が行われていました。

 この綿の産地であった豊浜や観音寺などの西讃地域では、今でも、五穀豊穣や豊魚などを祈願し平穏を感謝する秋祭りにおいて、「チョウサ」と呼ばれる太鼓台を繰り出して賑わっています。太鼓を打ち鳴らしながら、御輿(みこし)のお供をしてお旅所まで行き、さらに町内を練り歩きます。
 この太鼓台は中央に大きな太鼓を積み、方形に柱を建てた上には逆四角錐台状に布団を置き、柱の周りの壁に当たるところに金糸銀糸のきらびやかな刺繍をした幕を張り、大きな軸木を2本ないし4本通して太鼓の前後をそれぞれ20〜30人の若者たちが担ぐというものです。「チョウサ」の語源は定かでありませんが、「長竿」と書き、元は太鼓台の前を先導する幟(のぼり)をつけた長い竹竿のことをいい、これが太鼓台そのものを指すことになったともいわれています。所によっては「サンマショ」とか「サァシマショ」と呼ばれているそうです。
 「チョウサ」は、香川県では、各地域で祭りに彩りを添えていますが、西へ移るほど大きなものとなり、特に観音寺市豊浜町のちょうさは、高さが5メートルを超え、全国的にも最大規模ではないかといわれています。豊浜町は約1万人の小さな町ですが、新調すると数千万円以上もかかるというものを20台以上も保有しているそうです。布団が敷かれることから「布団チョウサ」とも呼ばれます。

 太鼓台という山車(だし)は、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけての西日本を中心に、港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く分布しているといわれており、讃岐でも豊浜周辺の三豊地方のほか小豆島や坂出のものが賑やかだといわれています。それぞれの地方の太鼓台の名称は様々ですが、その源流は、京都の祇園祭、あるいは、安土桃山時代、大阪、堺の豪商が作らせた山車(だし)が、瀬戸内海の海上交通を通じて伝わり、江戸時代後期の文政年間(1818〜1830)の頃、現在のように布団を積み重ねた形に変わり、地方によってその形が変形され、伝承されていったのではないかと考えられています。そして、明治中期以降、地域経済が発達するにつれて急速に巨大化していったものと考えられています。
 ちなみに豊浜のちょうさが現在のような豪華絢爛なものになったのも、明治中期以降といわれており、その大きくしかも勇壮壮麗なチョウサは、綿で栄えた豊浜の街の象徴ともいえる存在だったのでしょう。

 しかし、明治時代に入って紡績産業、中でも綿工業が盛んになると、外国から安い原綿が大量に輸入されるようになり次第に日本棉は栽培されなくなっていきました。戦後は、高度経済成長の中、輸入綿が出回って綿作農家は激減し、日本棉の多くの品種が絶滅していきました。
 豊浜でも、江戸時代から昭和の初め頃までは綿作が盛んに行われ、綿打ち職人が腕をふるっていましたが、現在では、綿の栽培は全く行われなくなってしましました。しかし、豊浜には今なお製綿工場が集まり、現在も、布団など綿製品の生産量は四国一であり、国道11号には「わたの街通り」という看板が立っています。

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(115)“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“

 丸亀京極家は、宇多源氏の後裔で、伝統的に和歌をよくし、歌人も輩出した家系です。このようなことからか、丸亀藩では文芸が盛んで、女流の文人も出ています。その代表が京極伊知子井上通女(つうじょ)です。また、女性ながら父の仇討ちをし、当時全国に名をはせた尼崎里也(りや)という剣士もいます。さらに、幕末には女性勤王家の村岡箏子(ことこ)が活躍し、中央で活躍していた若江薫子(におこ)が後年丸亀に来ています。
 
 京極伊知子は江戸初期の人で、「涙草」の著者として知られています。
 伊知子は、丸亀初代藩主・京極高和の従兄弟(いとこ)にあたる女性で、万治元年(1658)京極家が播州竜野から丸亀へ転封になったとき一緒に来ました。その2年後の万治3年に伊知子は亡くなっていますので、実際に活躍したのは丸亀に来る前の時代です。
 高和の前の京極家当主は忠高といい、伊知子はその娘です。忠高の時代、京極家は出雲松江藩26万4千石を領有していましたが、忠高が嗣子の無いまま急死したため領地没収の憂き目に遭います。しかし、幕府の特別のはからいで、忠高の甥である高和が京極家を相続し、播州竜野に6万石を与えられました。
 ところが、高和にも嗣子が無かったため、お家断絶をおそれた京極家では、伊知子の一子である高房を高和の養嗣子と決めました。伊知子は家老多賀常良に嫁しており、高房はその間に生まれた子です。
 このため、伊知子は高房が5歳のとき、別れなければなりませんでした。伊知子が江戸に向かう高房との別れの様子を綴った手記が「涙草」です。この手記には、子のこの上ない出世を喜ぶ気持ちと、離別の情という相反する気持ちが込められているといわれています。
 それ人の親の子を悲しむ道は、思ふにも余り、言ふにも言葉足らざるべし。山野のけだもの、江河のうろくづ、空にかけるつばさ、土に生るるたぐひまで、凡べて生きとし生けるもの、形はことなりといへども心ざしは変るべからず。況んや人として、上がかみ下がしもまで、子を思ふ心の闇はひとしかるべし。

 井上通女は文武をかねそなえた江戸時代の女流作家として知られています。
 通女は、京極伊知子が亡くなった年の万治3年(1660)、丸亀藩士・井上儀左衛門本固(ぎざえもんもとかた)の娘として丸亀に生まれました。通女は、幼いときから聡明で、和漢の学に秀でたばかりでなく、清流薙刀(せいはなぎなた)の免許皆伝を受けるなど文武両道に達し、藩内でも評判の才女でした。
 22歳のとき、高和の未亡人で二代藩主・京極高豊の母である養性院に召されて江戸に向かいます。その丸亀から江戸までの見聞を「東海紀行」としてしたためています。
 天のやはらぐ始のとし、霜をふみて、かたき氷にいたる比ほひなれば、年ふる丸亀を舟よそひして、あずまのかたにおもむく。難波へとこぎ出づ。
 江戸に約9年間滞在し、養性院の侍講として仕えますが、その間に、室鳩巣、貝原益軒、新井白石など著名な学者たちと交遊し、その才名は江戸市中になりひびきました。鳩巣は「才女にて男子に候はば英雄とも相成るべきに惜しき事に候」と言い、益軒は「有智子内親王以来の人」と評しました。
 通女は養性院の死後丸亀に帰ります。このときの旅行記を「帰家日記」といい、「東海紀行」や在府中の「江戸日記」とともに通女の「三日記」と呼ばれ江戸文学の秀作とされています。
 帰郷後、三田宗寿に嫁して3男2女をもうけ、当時藩中から良妻賢母の鏡と称えられ、元文3年(1738)、79歳で死去しました。

 尼崎里也は、自ら剣で父の仇を討ったヒロインとして知られています。
 延宝年間の中頃、二代藩主・京極高豊のとき、丸亀城下の風袋町に、尼崎幸右衛門という弓組の足軽が、妻のあや、それに2歳になる娘の里也と一緒に住んでいました。ところが、同僚の岩淵伝内があやに横恋慕し、幸右衛門が不在のときに、あやに言い寄ろうと家に忍び込んできました。あやと伝内がもみ合っているときに幸右衛門が帰宅し、喧嘩となって幸右衛門は伝内に斬り殺されてしまいます。
 その後、あやは病死し、里也は叔母夫婦に育てられます。18歳のときに父の恨みをはらそうと決意し、江戸に出ます。江戸で、当時剣客として名高い旗本永井左源次の家に奉公しながら剣術修行に励み、剣の腕を上達させます。そして、江戸市中の武家屋敷を転々としながら仇の伝内を探索します。
 それから10年以上経ち、里也はようやく伝内を見つけ出します。丸亀藩の立会いのもと、伝内と果し合いをし、みごとに伝内を討ち取ります。その仇討ちの場所は、現在の東京都港区芝白金台あたりとみられています。宝永2年(1705)のことです。
 この仇討ちは、江戸市中はもとより全国で評判になったといわれています。その後、里也は丸亀藩に召し出され、永井の局と名を改め、文武両道はもとより女性の鏡として尊敬されました。宝暦5年(1775)、79歳で死去しました。

 村岡箏子(ことこ)は、幕末に活躍した女性勤王家として知られています。
 箏子は文化12年(1815)、高松藩内の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の小橋家に生まれました。小橋家は勤王家として知られ、箏子の兄弟には小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰がいます。箏子は17歳のときに丸亀藩の村岡藤兵衛のもとに嫁ぎます。村岡家は丸亀御城下の魚屋町に住む名字帯刀を許された商家だったようで、藩の銀札出納管理の仕事をしており、後には醤油製造業を営んでいます。
 箏子とその息子の宗四郎は、勤王の志士を自宅に潜伏させ保護するなど、大いに勤王に尽くします。司馬遼太郎の「世に棲む日日」には村岡宗四郎も登場しており、丸亀に逃げてきた高杉晋作を、長州人と知らぬまま、3日間泊めたといいます。明治3年(1870)7月、56歳で亡くなりました。

 若江薫子(わかえにおこ)も女性勤王家として知られています。
 薫子は、京都の伏見宮家に仕えた若江量長(かずなが)の娘として生まれます。学問を好み、幕末期には、高畠式部、太田垣蓮月とともに京都の三大女流歌人として称された人です。
 33歳のとき、明治天皇の皇后選びの際に意見を求められ、左大臣一条忠香の姫君のうち妹君を推挙したことで知られています。しかし、明治3年(1870)には、東京遷都など新政府の政策を批判していたため危険視され、2年間幽囚の身となります。岩倉具視には「手のつけられぬ女」といわれたそうです。幽囚を解かれた後、丸亀に渡り、かねて知り合いの岡田東州の私塾に落ち着き、漢学などを教えていましたが、明治14年(1881)10月11日、47歳の生涯を終えました。著書に「和解女四書」があります。
  大君のめぐみに報ふ道しあらばをしみはせじな露の玉の緒

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(106)“池田屋騒動で新撰組と白刃をまじえた讃岐の勤王志士”

 幕末の元治元年(1864)6月5日、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋に潜伏していた長州藩らの尊王攘夷派浪士を新選組が襲撃しました。これが池田屋騒動といわれている事件です。
 文久3年(1863)、長州藩を中心とする尊王攘夷急進派は八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。この状況の下、京の街には、尊王攘夷派の浪士たちが潜伏し、勢力挽回を試みようとしていました。これに対して、京都守護職を務める会津の松平容保は、その配下の新選組を用いて、市内の警備や探索を行わせていました。
 翌年の元治元年(1864)5月下旬頃、古高俊太郎を捕らえた新選組は、その自白により、尊攘過激派の浪士が、祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王 を幽閉し、一橋慶喜(後の徳川慶喜)、松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るという陰謀の存在を知ります。さらに、陰謀の実行、中止について協議する浪士たちの会合が池田屋か四国屋において行われる事を突き止めます。
 事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は、近藤隊10人と土方隊24人の二手に分かれ捜索を開始し、池田屋で謀議中の浪士を発見します。近藤勇沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が斬り込み、真夜中の戦闘となりました。その後、土方隊が到着し、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げました。
 この事件で新選組の名は天下に轟きましたが、逆に尊攘派は宮部鼎蔵(ていぞう)らの実力者が戦死し、大打撃を受けました。桂小五郎(後の木戸孝允)は到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起きたので難を逃れています。
 新撰組と斬り合いをした勤王浪士は、ほとんど長州藩を中心とした土佐藩、肥後藩出身の者たちですが、この中に、讃岐出身の土肥七助がいました。
 七助は新撰組との斬り合いで池田屋を逃れ、堀川の潜伏先に隠れていたところを探索中の新撰組に見つかり包囲されますが、刀を振りかざしながら囲みを破り、堀川の流れに飛び込んで夜陰に乗じて危機を脱しといいます。

 土肥七助は、天保14年(1843)、丸亀京極藩士・土肥正助の息子として丸亀城下鷹匠町で生まれます。諱(いみな)を実忠(さねただ)といい、大作という6つ年上の兄がいまし
た。
 兄の大作は、諱を実光(さねみつ)といい、藩校正明館に学んだのち、当時わが国の最高学府だった江戸の昌平坂学問所で学びます。大作は、このときに接した師や学友たちの感化により勤王思想を持ち、安政6年(1859)に丸亀に帰った後、長州の高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎、土佐の中岡慎太郎ら諸国の勤王志士と親交を重ね、藩論を尊王へと導くように努めます。
 弟の七助は、学問もよくしたようですが、特に剣の腕に優れていました。少年の頃から剣の修行をして諸国を巡り、20歳頃には剣の使い手として知られています。その剣法は、かんぬきに差した長剣を膝をついで下からすり上げる「地ずり剣法」というものでした。七助も兄の影響で勤王家となり、文久3年(1863)7月、21歳のときに脱藩して、藩外での尊王攘夷運動に身を挺します。この頃、中央の政情は、下関での長州藩の外国艦船砲撃事件、天誅組の乱、八月十八日の政変、三条実美らの七卿落ちと、目まぐるしく動いていました。

 池田屋騒動のあと、七助は江戸に帰る水戸藩士の列に変装してもぐり込み江戸に行きます。しかし、その間に京都で蛤御門の変が起こったことを知り、再び京都に戻ります。そして、故郷の母が心配していることを知り、元治元年8月、大坂から船でいったん丸亀に帰り母と妹に再会しています。これが肉親との最後の別れでした。その後、七助は、慶応元年(1865)春、長州で三条実美卿らが大宰府へ落ちのびるのを見送って以後、消息が途絶えます。
 一方、兄の大作は、長州などの勤王志士と交友関係があったことから、丸亀藩が幕府から長州寄りと嫌疑を受けることを恐れ、慶応2年(1866)9月、謹慎を命じられます。
 しかし、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いが起こり高松藩が朝敵となると、丸亀藩は多度津藩とともに、土佐藩兵で構成された高松征討軍に加わり、大作を出獄させて丸亀藩参謀とします。
 その後、大作は、明治新政府の官吏に登用され、民部省、大蔵省に出仕したり、各県の参事などを歴任します。この間、丸亀県創設の事務を指導するために帰藩していた際の明治4年7月、家禄削減に不平を持つ旧藩士51名の襲撃を受けます。これに対しては撃退しますが、明治5年5月、新治県(にいばりけん、茨城県土浦地方)の参事として赴任していたとき、割腹自殺を遂げます。その理由は明らかでありませんが、理想と異なる現実に絶望したのではないかともいわれています。享年36歳でした。

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tag : 池田屋騒動 徳川慶喜 松平容保 近藤勇 沖田総司 桂小五郎 土肥正助

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