(145)“神様になった一揆のリーダー”
世のため人のために一身を捨てて尽くした人のことを義民(ぎみん)といいますが、江戸時代、百姓のために命をかけて年貢の引下げなどを直訴した義民の物語が、今でも全国各地に残されています。
中でも、芝居や歌舞伎の演目として今も親しまれている「佐倉義民伝」はよく知られているところです。主人公の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期、4代将軍徳川家綱のときに活躍した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の名主です。惣五郎は、天災・飢饉の続く中、佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して藩の役人や江戸の役所に困窮と年貢の軽減を訴え、ついには将軍が上野寛永寺へ参詣する際直訴に及びます。その結果年貢は軽減されましたが、惣五郎夫妻は磔刑、子供たちも死罪に処されました。この物語は、幕末の嘉永年間(1850年代)に、「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)として歌舞伎で演じられて大ヒットし、以後、講談・浪花節などでも積極的に取りあげられています。
讃岐にも、江戸時代の義民伝が今でも各地に残されています。
江戸時代前期、3代将軍徳川家光のとき、高松藩には小村田之助(おもれたのすけ)という義民がいたという話が残っています。
田之助は寛永元年(1624)、山田郡小村(おもれ)(現在の高松市小村町)の庄屋の家に生まれ、寛永19年、19才のときに父親から庄屋職を継ぎます。この年は、松平頼重が高松藩初代藩主として入府した年ですが、藩内の農民はうち続く飢饉で困窮し、餓死者が出るありさまでした。これを見かねた田之助は、年貢の年2回分納を、もし完納できないときは私財をもって代納するという確約で藩に嘆願しました。そして、田之助の意見は採用され、分納が認められることになります。
しかし、悪例を残すという藩内一部の強い意見から、山田郡夷(えびす)村(現在の高松市木太町夷)の刑場で、田之助は打首とされました。このとき、藩主松平頼重は罪一等を減じようと馬で急使を走らせ、間に合わないとみた急使が馬上から白旗を振って処刑の中止を知らせようとしましたが、刑場役人は「早くしろ」の合図と思い、処刑してしまったという話が伝えられています。寛永21年(1644)、田之助21歳のときです。その後、地元民たちは、白旗を振ったと伝えられる所に小社を建て田之助を祀りました。
また、小豆島には、6代将軍徳川家宣のときに、平井兵左衛門(ひょうざえもん)という義民がいた話が残っています。延宝5年(1677)から同7年にかけて実施された検地により、小豆島では年貢が倍増となり、百姓は窮乏しました。そこで池田浜の庄屋をしていた平井兵左衛門は、正徳元年(1711)、江戸へ出て幕府勘定奉行に訴え、年貢を下げてくれるよう願い出ました。
しかし、当時の小豆島は天領(幕府の領地)でしたが、高松藩預かりとなっていたことから、その行為は、高松藩を無視した越訴(おっそ)の罪にあたるとされ、兵左衛門は捕らえられて、江戸から高松、そして小豆島に連れ戻され、正徳2年3月11日、村内引き回しのうえ江尻浜で打首・獄門の刑に処せられました。兵左衛門36歳のときです。
その後、地元民たちは、小豆島町池田の亀山八幡宮のお旅所の馬場に祠を建て、兵左衛門の霊を「平称霊神」として祀りました。また、兵左衛門の物語は芝居にされ、「金ヶ崎湊荒浪」(かねがさきみなとのあらなみ)という小豆島農村歌舞伎の演目の一つとして今も演じられています。
西讃地方では、江戸時代中期、9代将軍徳川家重のとき、讃岐最大の百姓一揆が丸亀・多度津両藩で勃発しています。この一揆のリーダーだった7人の義民は神として神社に祀られ、その物語は今でも地元で語り伝えられています。
寛延年間(1748〜1750)の初め、数年来の風水害で、丸亀・多度津藩領の那珂(なか)・多度・三野・豊田四郡の百姓たちの生活は困窮を極めていました。それに加え、蔵役人や庄屋たちの横暴、不法、祖税の増加などにより、「如何に穏順なる四郡の民も忍ぶに忍びがたく」という状態になっていました。そこで、百姓たちは、徳政を求める親書を上申しますが、庄屋たちにより途中で握りつぶされ、城内まで届きませんでした。追いつめられた農民たちは、「一揆しかあるめえ」とついに決起へとはしります。
一揆を計画指導したのは、丸亀藩5人と多度津藩2人の7人の百姓でした。彼らは、三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)にある宇賀神社の山門楼上に集まり密議を行ったといわれています。丸亀藩の5人は、笠岡村の大西権兵衛・弥一郎(やいちろう)・嘉兵衛の3人と、三野郡大野村(現三豊市山本町)の兵治郎、それに那珂郡帆ノ山村(現まんのう町仲南)の小山金右衛門です。多度津藩の2人は、多度郡碑殿(ひどの)村(現善通寺市)の甚右衛門と、多度郡三井村(現多度津町)の金右衛門です。彼ら7人の中でも、大西権兵衛がリーダー格でした。
寛延3年(1750)年1月14日、多度郡百姓の仲介で、三野郡百姓から豊田郡百姓あてに、20日に金倉川河原へ結集するよう呼びかけた廻状が送られます。これに応じて19日夜から、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まり始め、20日には財田川の本山河原に4万人が集まり、庄屋の居宅が打ち壊されます。
民衆の力に驚いた丸亀藩は、21日、三野・豊田郡の百姓に対して、願いの筋を申し出よと伝えます。22日、筵旗(むしろばた)を掲げた三野・豊田勢は鳥坂峠を越えて、那珂・多度郡勢と善通寺で合流します。このときの一揆の総勢は6万人余に達したといわれています。
23日、四郡一揆勢の代表と藩側との会合が善通寺客殿でもたれ、一揆勢から13か条の歎願が示されます。その要旨は、年貢の未納米1000石余りの年賦弁済、夫食米の給付、年貢米斗升掻(とますがき)不正の停止、相場並の銀納値数、出費の多い役人の出張回数軽減などでした。
この要求に対して藩当局は、直ちに「内10か条の重要項目の要求を認め、3か条については追って沙汰すべし」と回答し、ほぼ百姓たちの嘆願を認めます。これにより、一揆勢は結集を解いて帰村していき、この騒動はこれで落着するように思われました。
ところが、善通寺での会合があった23日の直前の20日に、全国各地で頻発する百姓一揆に危機感を強めていた幕府から、百姓の強訴・徒党の禁令が出されていました。23日の時点では、この幕府の禁令が丸亀・多度津両藩に届いていなかったのです。禁令を知った両藩は、態度を一変させ、23日付の聞き届けを反故にしてしまい、そのうえ、一揆関係者を探索して捕らえていきました。
この年の7月28日、大西権兵衛ほか7名は、一揆の主謀者として、金倉川河畔において磔あるいは打首・獄門の刑に処せられました。処罰は権兵衛の3人の子にも及び、9歳の未子まで全員が打首にされたといいます。権兵衛は、処刑に際して、
「この世をば沫(あわ)と見て来し我が心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」
という辞世の句を残しています。
その後、権兵衛はじめとする7人の義民は、七人童子、七人同士あるいは七義士(しちぎし)と呼ばれて、地元の人たちによって密かに弔われてきました。明治に入ると、その遺徳を公に顕彰しようという動きが活発になり、7人の義民が処刑されてから約150年後の明治36年(1903)、権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られました。
江戸時代後期、11代将軍徳川家斉のときの文政11年(1828)12月、高松藩領香川郡の百姓が一揆を起こし、弦打村(現高松市鶴市町)の甚兵衛が罪を一身に背負って香東川原で磔の刑に処せられたといわれています。この物語は、菊池寛により「義民甚兵衛」として短編戯曲化されています。
義民ではありませんが、幕末の多度津藩には、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は現在の観音寺市大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したといいます。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇で、
「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」
という辞世の歌を残して処刑されました。
明治に入っても、西讃では、大規模な農民騒動が起きています。寛延の百姓一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、三野郡下高野村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女性が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きました。
この事件は、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言となって、たちまち近隣の村々に広がりました。折りしも、この頃、民衆は、国が兵役を「血税」と称していることを誤解し、徴兵検査により国から血を採られると思い込み、不安感を抱いていました。
民衆の不安感に、「子ぅ取り婆あ」の流言が火をつけ、数千人規模に膨らんだ群集が、竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、西讃地方の村々へ次々と進撃し、官と名のつくものを攻撃していきました。侵寇(しんこう)された村は約130ヵ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600ヵ所に及びました。6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化します。これを西讃血税一揆あるいは竹槍騒動といいます。
この騒動の参加者は、総数約4万人を越え、うち3万人は三野・豊田郡の者だったといわれています。処罰された者は約1万6千人に及び、大半が三野・豊田郡の者でした。7人が金倉川原で打首されました。
讃岐人は、温暖な気候風土にあることから、温厚で従順だとよくいわれています。しかし、西讃地方では、江戸中期と明治初期にかなり大規模で激しい一揆、暴動が起きており、これが三豊地方(三野郡と豊田郡を合わせた地域で、現在の三豊市と観音寺市)の人たちの気風に大きな影響を及ぼしているように思われます。 (完)
中でも、芝居や歌舞伎の演目として今も親しまれている「佐倉義民伝」はよく知られているところです。主人公の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期、4代将軍徳川家綱のときに活躍した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の名主です。惣五郎は、天災・飢饉の続く中、佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して藩の役人や江戸の役所に困窮と年貢の軽減を訴え、ついには将軍が上野寛永寺へ参詣する際直訴に及びます。その結果年貢は軽減されましたが、惣五郎夫妻は磔刑、子供たちも死罪に処されました。この物語は、幕末の嘉永年間(1850年代)に、「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)として歌舞伎で演じられて大ヒットし、以後、講談・浪花節などでも積極的に取りあげられています。
讃岐にも、江戸時代の義民伝が今でも各地に残されています。
江戸時代前期、3代将軍徳川家光のとき、高松藩には小村田之助(おもれたのすけ)という義民がいたという話が残っています。
田之助は寛永元年(1624)、山田郡小村(おもれ)(現在の高松市小村町)の庄屋の家に生まれ、寛永19年、19才のときに父親から庄屋職を継ぎます。この年は、松平頼重が高松藩初代藩主として入府した年ですが、藩内の農民はうち続く飢饉で困窮し、餓死者が出るありさまでした。これを見かねた田之助は、年貢の年2回分納を、もし完納できないときは私財をもって代納するという確約で藩に嘆願しました。そして、田之助の意見は採用され、分納が認められることになります。
しかし、悪例を残すという藩内一部の強い意見から、山田郡夷(えびす)村(現在の高松市木太町夷)の刑場で、田之助は打首とされました。このとき、藩主松平頼重は罪一等を減じようと馬で急使を走らせ、間に合わないとみた急使が馬上から白旗を振って処刑の中止を知らせようとしましたが、刑場役人は「早くしろ」の合図と思い、処刑してしまったという話が伝えられています。寛永21年(1644)、田之助21歳のときです。その後、地元民たちは、白旗を振ったと伝えられる所に小社を建て田之助を祀りました。
また、小豆島には、6代将軍徳川家宣のときに、平井兵左衛門(ひょうざえもん)という義民がいた話が残っています。延宝5年(1677)から同7年にかけて実施された検地により、小豆島では年貢が倍増となり、百姓は窮乏しました。そこで池田浜の庄屋をしていた平井兵左衛門は、正徳元年(1711)、江戸へ出て幕府勘定奉行に訴え、年貢を下げてくれるよう願い出ました。
しかし、当時の小豆島は天領(幕府の領地)でしたが、高松藩預かりとなっていたことから、その行為は、高松藩を無視した越訴(おっそ)の罪にあたるとされ、兵左衛門は捕らえられて、江戸から高松、そして小豆島に連れ戻され、正徳2年3月11日、村内引き回しのうえ江尻浜で打首・獄門の刑に処せられました。兵左衛門36歳のときです。
その後、地元民たちは、小豆島町池田の亀山八幡宮のお旅所の馬場に祠を建て、兵左衛門の霊を「平称霊神」として祀りました。また、兵左衛門の物語は芝居にされ、「金ヶ崎湊荒浪」(かねがさきみなとのあらなみ)という小豆島農村歌舞伎の演目の一つとして今も演じられています。
西讃地方では、江戸時代中期、9代将軍徳川家重のとき、讃岐最大の百姓一揆が丸亀・多度津両藩で勃発しています。この一揆のリーダーだった7人の義民は神として神社に祀られ、その物語は今でも地元で語り伝えられています。
寛延年間(1748〜1750)の初め、数年来の風水害で、丸亀・多度津藩領の那珂(なか)・多度・三野・豊田四郡の百姓たちの生活は困窮を極めていました。それに加え、蔵役人や庄屋たちの横暴、不法、祖税の増加などにより、「如何に穏順なる四郡の民も忍ぶに忍びがたく」という状態になっていました。そこで、百姓たちは、徳政を求める親書を上申しますが、庄屋たちにより途中で握りつぶされ、城内まで届きませんでした。追いつめられた農民たちは、「一揆しかあるめえ」とついに決起へとはしります。
一揆を計画指導したのは、丸亀藩5人と多度津藩2人の7人の百姓でした。彼らは、三野郡笠岡村(現三豊市豊中町)にある宇賀神社の山門楼上に集まり密議を行ったといわれています。丸亀藩の5人は、笠岡村の大西権兵衛・弥一郎(やいちろう)・嘉兵衛の3人と、三野郡大野村(現三豊市山本町)の兵治郎、それに那珂郡帆ノ山村(現まんのう町仲南)の小山金右衛門です。多度津藩の2人は、多度郡碑殿(ひどの)村(現善通寺市)の甚右衛門と、多度郡三井村(現多度津町)の金右衛門です。彼ら7人の中でも、大西権兵衛がリーダー格でした。
寛延3年(1750)年1月14日、多度郡百姓の仲介で、三野郡百姓から豊田郡百姓あてに、20日に金倉川河原へ結集するよう呼びかけた廻状が送られます。これに応じて19日夜から、三野・豊田郡の百姓たちが本山寺付近に集まり始め、20日には財田川の本山河原に4万人が集まり、庄屋の居宅が打ち壊されます。
民衆の力に驚いた丸亀藩は、21日、三野・豊田郡の百姓に対して、願いの筋を申し出よと伝えます。22日、筵旗(むしろばた)を掲げた三野・豊田勢は鳥坂峠を越えて、那珂・多度郡勢と善通寺で合流します。このときの一揆の総勢は6万人余に達したといわれています。
23日、四郡一揆勢の代表と藩側との会合が善通寺客殿でもたれ、一揆勢から13か条の歎願が示されます。その要旨は、年貢の未納米1000石余りの年賦弁済、夫食米の給付、年貢米斗升掻(とますがき)不正の停止、相場並の銀納値数、出費の多い役人の出張回数軽減などでした。
この要求に対して藩当局は、直ちに「内10か条の重要項目の要求を認め、3か条については追って沙汰すべし」と回答し、ほぼ百姓たちの嘆願を認めます。これにより、一揆勢は結集を解いて帰村していき、この騒動はこれで落着するように思われました。
ところが、善通寺での会合があった23日の直前の20日に、全国各地で頻発する百姓一揆に危機感を強めていた幕府から、百姓の強訴・徒党の禁令が出されていました。23日の時点では、この幕府の禁令が丸亀・多度津両藩に届いていなかったのです。禁令を知った両藩は、態度を一変させ、23日付の聞き届けを反故にしてしまい、そのうえ、一揆関係者を探索して捕らえていきました。
この年の7月28日、大西権兵衛ほか7名は、一揆の主謀者として、金倉川河畔において磔あるいは打首・獄門の刑に処せられました。処罰は権兵衛の3人の子にも及び、9歳の未子まで全員が打首にされたといいます。権兵衛は、処刑に際して、
「この世をば沫(あわ)と見て来し我が心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」
という辞世の句を残しています。
その後、権兵衛はじめとする7人の義民は、七人童子、七人同士あるいは七義士(しちぎし)と呼ばれて、地元の人たちによって密かに弔われてきました。明治に入ると、その遺徳を公に顕彰しようという動きが活発になり、7人の義民が処刑されてから約150年後の明治36年(1903)、権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られました。
江戸時代後期、11代将軍徳川家斉のときの文政11年(1828)12月、高松藩領香川郡の百姓が一揆を起こし、弦打村(現高松市鶴市町)の甚兵衛が罪を一身に背負って香東川原で磔の刑に処せられたといわれています。この物語は、菊池寛により「義民甚兵衛」として短編戯曲化されています。
義民ではありませんが、幕末の多度津藩には、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は現在の観音寺市大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したといいます。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇で、
「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」
という辞世の歌を残して処刑されました。
明治に入っても、西讃では、大規模な農民騒動が起きています。寛延の百姓一揆から123年後の明治6年(1873)6月26日の夕方、三野郡下高野村(現三豊市豊中町)において、髪の毛が伸び放題で挙動不審の女性が現れ、幼児を奪って逃げようとする事件が起きました。
この事件は、「子ぅ取り婆あ」が現れたという流言となって、たちまち近隣の村々に広がりました。折りしも、この頃、民衆は、国が兵役を「血税」と称していることを誤解し、徴兵検査により国から血を採られると思い込み、不安感を抱いていました。
民衆の不安感に、「子ぅ取り婆あ」の流言が火をつけ、数千人規模に膨らんだ群集が、竹槍を掲げ、税の軽減や徴兵の反対などを要求して、西讃地方の村々へ次々と進撃し、官と名のつくものを攻撃していきました。侵寇(しんこう)された村は約130ヵ村、打ち壊し・焼き討ちされた箇所は役場、役人宅、小学校など約600ヵ所に及びました。6月29日、小野峯峠(綾川町綾上)における群集と軍隊との決戦でこの騒動はようやく沈静化します。これを西讃血税一揆あるいは竹槍騒動といいます。
この騒動の参加者は、総数約4万人を越え、うち3万人は三野・豊田郡の者だったといわれています。処罰された者は約1万6千人に及び、大半が三野・豊田郡の者でした。7人が金倉川原で打首されました。
讃岐人は、温暖な気候風土にあることから、温厚で従順だとよくいわれています。しかし、西讃地方では、江戸中期と明治初期にかなり大規模で激しい一揆、暴動が起きており、これが三豊地方(三野郡と豊田郡を合わせた地域で、現在の三豊市と観音寺市)の人たちの気風に大きな影響を及ぼしているように思われます。 (完)





