(71)“讃岐を訪れていた大塩平八郎”
平八郎は、寛政5年(1793)1月22日、大阪町奉行所与力の子として大坂天満に生まれました。大塩家は禄高200石の裕福な旗本でした。しかし、幼くして父母を失い、祖父母に育てられます。14歳のときに与力見習として出仕し、26歳の時に東町奉行所の正式の与力となります。「与力」は今で言う警察機構の中堅というほどの職位です。
平八郎は与力として不正の摘発に活躍しますが、学問研究にも励み、学者としても評価を得ていきました。天満にあった自分の屋敷で洗心洞塾を開き、多くの与力や同心、医師や富農にその思想を説いています。その思想は中国の王陽明の考えを支持し、「よいと知りながら実行しなければほんとうの知識ではない」という知行合一の立場です。
天保元年(1830)38歳のとき、平八郎は養子の格之助に家督を譲り、与力を引退して、洗心洞での門人の指導に専念します。
林良斎は文化5年(1808)、多度津京極藩の家老の家に生れました。平八郎より14歳年下です。通称を直紀といい、良齊は号です。また自明軒とも称していました。良斎は父の後を受けて多度津藩の家老となりますが、病弱のため甥の三左衛門に家督を継がし、天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎について洗心洞で陽明学を研究します。
その年の秋、平八郎は良斎を訪ね多度津に来ています。良斎は「中斎に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。
「先生は壯(良斎のこと)をたずねて海を渡って草深い屋敷にまで訪問しました。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきます。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないと憂慮します。このとき、じっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて壯の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がりました。」
翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
しかし、平八郎と良斎が親交を重ねていた頃には、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達していました。
天保7年(1836)、大坂にも飢饉が蔓延し、街中に餓死者が出る事態となりました。しかし、豪商らは米を買い占めて暴利を得る一方、町奉行は窮民の救済策をとる事もなく、米不足にもかかわらず大坂の米を大量に江戸に回送するという有様でした。
これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行いますが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと決意し、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政の刷新を期して、門人、民衆と共に蜂起します。これが有名な「大塩平八郎の乱」です。この行動は平八郎の説く知行合一の思想からすれば当然の帰結だったのでしょう。
しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられたため、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。天保8年3月27日(1837年5月1日)、明治維新の30年前のことです。平八郎父子は爆薬で自殺したために顔や体の形がよくわからないということもあって、生き延びたといううわさも当時はあったようです。多度津でも、平八郎は多度津に逃れてきていたという話がまことしやかに地元の人の間で今も語られているそうです。
良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。また、39歳の秋にはかねてからの念願であった読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。その塾は「弘浜(ひろはま)書院」と名付けられ、藩の多くの子弟がそこで学び、彼らは明治に入ってからも活躍しました。良斎は陽明学者としては、本県初の人だと言われています。平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。